川越は武蔵野台地の東北端に位置し、入間川が西部より北部、東部へと流れ、古代から自然環境に恵まれた所であった。現在の川越の町づくりの基は、太田道真、道灌父子が長禄元年(1457)に上杉氏の居城として築城してからのことである。
江戸時代になり、江戸北辺の要衝として重要視され城下町として隆盛を極め、特に松平伊豆守信綱の時に十か町四門前郷分の行政区画が定められ、ほぼ現在の町が形成された。「小江戸」と呼ばれる賑わいをみせた当時の面影は、元町、幸町、仲町あたりに今なお残る蔵造り家屋をはじめ、川越城本丸御殿、氷川神社、喜多院、東照宮など市内の数多くの文化財にみることができる。
川越に多くの蔵造り店舗が生まれたのは、明治26年の川越大火を契機としている。この大火では町の3分の1以上である1300余戸を焼失し、川越は大きな被害をうけたのである。町の復興にあたり川越商人は、日本の伝統的な耐火建築である土蔵造りを採用した。当時の耐火建築としては西洋から入ってきたレンガ造りがあったが、川越商人は蔵造りを選んだわけである。そして、新しい材料であるレンガは、蔵造りの屋敷の塀とか地下蔵に使い込んだのである。黒漆喰と赤レンガの色調がしっくりと合って、町並みを構成する大事な要素となっている。
現在、一番街通りを中心として23棟の蔵造りが文化財に指定されており、平成11年12月に同地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。それらは川越の町並み景観を構成する重要な核となっている。
蔵造りとは、いうまでもなく防火の目的をもって建築の壁体を土蔵制としたもので、江戸では享保年間(1716〜1735)に時の幕府が防火建築として土蔵造り、塗家造りを奨励したことにはじまる。大火のたびに推し進められた町家の土蔵造り、塗家造り化は、幕藩体制が終り、江戸が東京と名前をかえた後でも続き、一般の町屋における防火建築としての地位をコンクリート造り、モルタル造りにゆずったのは大正12年の関東大震災の後のことである。
建物の壁体を土蔵制とした町家のうち、とくに店舗部分を土蔵制の壁体で囲ったものを店蔵と呼び、表は全部あるいは戸袋だけを残して解放し、店の後の入口は土戸を背に開く。
店蔵の壁厚は一般に4〜6寸(12cm〜18cm)程度で、土蔵よりは1〜2寸(3cm〜6cm)位は薄くなっている。火災の時には土戸をたてて火を防ぐが、普段この土戸は戸袋におさめれれている。さらにつねに用心土と呼ばれる目塗用の土が用意されていた。
江戸の店蔵は3尺(90cm)程度に張り出した庇をもっているのが普通で、庇は瓦葺、庇裏も土塗とした。庇が深い場合には柱を立て、これも土塗した。その上に板や銅版で囲ったりした。
庇上には多くの場合が観音扉とし、前面に目塗台をもっている。店蔵の二階は倉庫とする場合と店員たちの住いとする場合があるが、住いとして使用する方法を土蔵住いという。また、店舗後方の住居部分に土蔵を建て、その内に畳を敷いた座敷蔵と呼ばれるものもあった。
川越の蔵造りの場合は多く前面に土塗の戸袋をもっている。そして屋根は棧瓦葺で箱棟としたものが多く、棟の両端には大きな鬼瓦をのせている。
川越の蔵造りの商家はそのほとんどが元町、幸町、仲町あたりに集中しており、今なお多くの蔵造りの家がそれぞれの商売を営んでいます。
川越における蔵造り建築の最盛期(明治35年)には70軒余りの店蔵があったといわれているが、この蔵造りの商家に往時の川越商人の繁栄と心意気を偲ぶことができる。
これだけ急速に蔵造りの商家が軒を並べたことは川越商人に十分な経済的裏付けがあったからである。
たとえば、山崎家(亀屋菓子店)では明治26年3月から同28年12月までに店蔵を建築し、10,111円54銭を支出している。米が1升で8〜9銭の時代の話であったのだから実に驚くことである。
その後の時代の流れが、かつての落着いた蔵造りの町並みにも影響をおよぼし、現在は店蔵は36に減少している。
川越を歩くと、まるでタイムトンネルに入ったようだ。江戸・明治・大正期の古き良きものがそのまま残っている。町そのものが博物館のようで驚いてしまう。
鐘の音が流れる仲町から元町あたりへの町並みには、蔵造りとは趣きが違う塗家造りや、千本格子のくぐり戸、窓枠をもった町屋が目につく。青銅のドームをもった西洋館も静かに時を刻んでいる。
ひとつひとつの古いものが新鮮に伝わってくる。しっとりとした中にも本物の迫力が胸をうつ。
川越には蔵造りの家の外にもユニークな古い洋風の建物がいくつか残っています。
古き良き時代に思いをめぐらせながら川越の街を散策していると、これらの建物が街並みの中に時々見られ、川越の街にアクセントを添えているのに気が付きます。
これらの洋風の建物は現在ではすっかり川越に溶け込んでおり、蔵造りの家と独特のムードを与えています。
古都鎌倉、霊山日光とともに首都圏の歴史愛好家を集めるのが川越。蔵・祭り・古社寺・うまい鰻・さつまいもで知られる。
武蔵野台地の最北端のこの地には、川越藩の川越城が置かれ、城下町として栄え、また新河岸川の水運により大江戸の町へ物資輸送を行ない、商業地としてもにぎわった。江戸の文化はすぐに伝わり、当地は「小江戸」と呼ばれた。享保5年(1720年)以降、江戸に耐火建築の蔵造り商家が立ち並ぶようになると、川越でも蔵造りが建つようになった。
松平伊豆守信綱の治世のとき、十ヶ町四門前郷部分の行政区画が定められて、ほぼ現在の町が作られた。
川越商人の富と力が蔵を建てた
明治になってからも、川越は埼玉県随一の商業地として活動が盛んで、穀物の大規模な集散が行なわれ、織物・箪笥を生産した。明治26年には市街地の3分の1を焼く大火に襲われたが、川越商人の富と力によって、耐火建築の蔵造りの店が復興された。新しい耐火建築材のレンガ造りは塀とか地下蔵に採用し、黒漆喰を塗りまわした重厚な店蔵が一番街に並んだ。第二次大戦の爆撃を免れ、昭和30年には周辺の9つの村を合併、人口は10万5000人であった。
そして、戦後の経済成長に伴う人口増加の波は、都心から36km離れた当市にまで及び、現在は30万都市になった。ちなみに東北の蔵の町、喜多方は3万7000人である。昔は、荷馬車・大八車・実用自転車などが行き交っていた蔵の通りも、通勤通学用のバス、トラック、マイカーなどが多いこと。まあ、それを気にしないで歩いてみよう。
川越駅から、ここは車が来ないサン・ロード+銀座通りを延々歩いていくと、レトロな商工会議所と蔵造りの山崎茶店が現れる。西へちょいと行くと、ハイライトの仲町交差点。重厚な店蔵が2つ向かい合っている。和菓子の亀屋と松崎スポーツ店だ。蔵の通りを北へたどって蔵めぐり。店蔵の中が薄暗いのは、もともと防火のため開口部が少ないからだ。大正の洋館造りのあさひ銀行、時の鐘の2つの名建築が旅人のために花を添えてくれる。
ここへ行かずして川越を語れない名所といえば喜多院。時の鐘から歩いて15分。関東の天台宗の中心寺院で、徳川家康、徳川家光の厚い保護を受けた。今でも広い境内に多くの見所を持つ。
お土産好適品の第一は芋菓子。こがね芋、芋きんつば、元祖いもまん、芋せんべいなど種類も豊富。
団子・和菓子・駄菓子も粒ぞろいで、狭山茶や地酒もうまい。焼物や古美術品の掘り出し物を見つけるのも楽しい。
建築技術については、川越市で作っているパンフレットから引用することにしよう。
「店の蔵の壁の厚さは一般に4〜6寸(12〜18cm)程度で、土蔵よりは1〜2寸(3〜6cm)ぐらいは薄くなっている。火災の時には土戸をたてて火を防ぐが、普段この土戸は戸袋におさめられている。さらに常に用心土と呼ばれる目を塗る利用の土が用意されていた」(目塗りとは、土蔵の戸をすき間なく塗り込めること)
店蔵の屋根には、大きな箱棟を造り、その両端には、大きな鬼瓦を乗せている。
江戸の面影を今に伝えることから「小江戸」とよばれ、休日ともなれば大勢の観光客でにぎわう町、川越。彼らの目的の第一は、もちろん蔵造りの町並みである。電線の地中埋設によって、目障りだった電柱が撤去され、広くなった空の下で、観光客は連続する甍(いらか)の波の美を楽しんでいる。
しかし、この蔵造りの商家が、実は江戸時代の建築ではなく、明治時代になってから一気に広まったものであることはあまり知られていない。もちろん江戸時代に、すでに江戸の町並みにならって建てられた蔵造りは何棟かあったが、それは一部の裕福な商家にかぎられていた。現存する最古の蔵造りの建物は、寛政4年(1792)に建てられた大沢家住宅で、これは国の重要文化財に指定されている。
江戸末期なっても、商家の大半は依然として木造で板葺きの屋根だったが、その後、蔵造りが急速に増えることになる。その理由は、なんと川越中心部の3分の1を焼き払った大火であった。明治26年(1893)3月17日夜8時ごろ、ある店から出火した火は、折からの強い北風にあおられて市街地の16カ町を焼き尽くし、翌朝ようやく鎮火した。焼失戸数1350戸。しかし幸いにして一人の死傷者も出さなかったという。
このとき焼け跡にぽつりぽつりと残っていたのが、蔵造りの建物だった。建物全体を厚い土壁で固め、いざというときには窓を閉じて粘土や味噌で透き間をふさぐ。その時代では最高水準の耐火建築だった。つくりも頑丈で、「二階で餅つきができる」とまでいわれた。焼け跡に再建しようとした人たちが、この蔵造りを取り入れたのは当然のなりゆきである。新築には莫大な費用がかかったものの、川越商人は競って蔵造りを建てた。今日までに取り壊されてしまった家も少なくないが、保存に対する市民の熱意は非常に高まっている。(大久根 茂)
・「雑学・日本なんでも三大ランキング」 加瀬清志・畑田国男 講談社+α文庫 1997年 ★★
「物品を火災・盗難などから安全に保管・貯蔵するために造られた建物。倉庫」
これが百科事典による蔵の定義である。
木と紙による建築文化をもつ日本では、ほとんどの町が一度や二度の大火を経験しており、火に強い蔵を造ることが町を守る最良の手段と考えられていた。
特に商人の町では、大切な商品の倉庫として、必要不可欠なものであったに違いない。
ここにあげた日本三大蔵の町の喜多方、川越、倉敷も、すべて商人の町である。
まず喜多方(福島県)は、白虎隊で知られる会津若松の北方20キロメートルに位置している。会津若松の北方だからキタカタと名づけられたという。
この人口3万7000人の町には、2600以上もの蔵があるとされ、かつては、「東北の倉敷」などといわれていたが、今や「日本一の蔵の町」へと昇格した。
白漆喰、黒漆喰、煉瓦壁、荒壁など、蔵の外装はさまざまで、その用途も酒蔵や味噌倉はもちろんのこと、寺の本堂や喫茶店などにも使われている。
何しろ町全体に、蔵の町といった意識が浸透しているため、新しい建物を造るときにも蔵をイメージしたものが数多く造られるとか。とうぶん日本一の蔵の町の座は揺るぎそうにもない。
また川越(埼玉県)は「東京からいちばん近い小京都」「小江戸と呼ばれた城下町」など、いろいろなキャッチフレーズがつけられている。そして、そのどれもが豪壮な蔵造りの建ち並ぶ町並みを意識してのもの。
明治26年(1893)の大火で、町の3分の1以上の家屋が焼失して以来、川越では土蔵造りが盛んになったという。
重要文化財に指定されている蔵造りの商家をはじめ、川越の蔵は店舗として活躍中のものが多い。屋根に大きな鬼瓦をのせたその姿は、いかにも堂々としていて、商家の誇りそのものといった風情が漂う。
そして三つめは、蔵の町と聞いて、多くの人がイメージする倉敷(岡山県)である。
江戸時代に幕府の直轄地として、明治時代には紡績の街として栄えた倉敷は、その名の通り蔵屋敷の多い町。倉敷川沿いの美観地区には、本瓦葺き、白壁、格子窓といった美しい蔵屋敷が建ち並び、四季を問わず観光客が訪れる。
数の喜多方、風情の川越、美しさの倉敷。この三つの町こそ「日本三大蔵の町」と呼ぶにふさわしい町である。
暮らしと物を火から守る
(前 略)
江戸時代の後期の頃になると、江戸、大坂のような大都市はますます巨大化し、火災の危険もさらに増大してくる。そこで登場するのが、家全体を土蔵造りにする方法であった。
家全体を土蔵造りにする上での困難さは、通りに面した一階部分で、ここは商いをするにも、広く開放していなければならぬ。火災がどこかで起きたら、いち早く密閉して火防ぎする必要がある。そこで分厚い塗り戸を何本も戸袋に入れておき、それをゴロゴロと引き出して閉める造りになっている。
しかし、塗り戸も開き戸なら、「煙り返し」と呼ぶ刻みを何段も壁と戸に施しておけば密閉可能だが、引き戸を密閉させることは難しい。それでこの種の造りにした家では、店のあたりに大きな味噌壺を置いていたという。引き戸を閉めてもできる隙間に、手早く味噌を塗りたくって密閉したというわけだ。火事の後、できた焼き味噌で飯を食べたというのは、笑い話であろう。
ここで「座敷蔵」についてふれておこう。別棟に建てた土蔵の中に、贅沢な造りの座敷を造り込んだのが座敷蔵だ。お宝を火災から守るための土蔵の中の座敷は、座敷そのものがお宝のようだ。果たして使ったかどうかも疑わしい、座敷蔵はどこにでもあるわけではなく、会津から山形にかけてのみ見られる。このあたりは江戸、大坂に比べれば田舎だから、おそらくは大都市での店蔵を見て、部屋でも土蔵に納められることを知り、座敷蔵を造ったと推定される。
江戸、大坂の中心部は、店蔵ばかりの町になっていたであろう。しかし、関東大震災や太平洋戦争の爆撃で、すべて灰燼に帰した。店蔵の町は川越に残っていて、「小江戸」と呼ばれているのは、かつての江戸の町の様相を偲ばせる町だからである。
(後 略)
蔵造りというのは、ひとり土蔵にとどまるものではなく、木造の家の建ち並ぶ日本の町で、町の不燃化を図る建築工法として、どこの町家でも広く採用されてきたことは前にもふれた。
町の不燃化ということなら、人口が多くて、より過密な都市ほどその願いが切実なはずだ。その意味では、そうした願いが江戸の町に勝るところはどこにもなかっただろう。江戸の町はその発生の頃からすでに、たび重なる大火で幾度も焼野ヶ原になってきた。ここが全国に先がけて蔵造りの建ち並ぶ町になったのは当然のことであった。
しかしその後は、はげしい洋風建築の流入や関東大地震、太平洋戦争での空襲など、多くの事件が蔵造りの町を破壊して、今ではよほど念入りに探さなければ蔵造りの家を見ることができないほどになってしまった。大阪、名古屋も江戸に次ぐ町だったから、蔵造りの町になっていたのだ。こうした大都市では軒並みに蔵造りの家がなくなっているので、かえって中小都市が蔵の町としてもてはやされている。もしもこうした大都市がかつての姿でいたとしたなら、その豪壮さはどんなだろうか。しかしこれは帰らぬ愚痴というものだ。
小江戸と呼ばれる町はいくつもあるけれども、蔵造りの家が建ち並ぶ江戸の町の雰囲気を、最もリアルに見せてくれるのは川越の町をおいてない。巨大な鬼瓦をのせ、これ以上は積み上げられないほどに煉瓦を積み、どこも分厚く、いかつく、造りに造った蔵造りの家が建ち並んでいる姿は、もしも何の予備知識もなしに初めて見たとしたなら、あきれて物が言えなくなるほどのものであろう。あきれるという意味は決してバカにしてのことではない。そこには数奇屋造りに見られるような、日本的美の規範に対する猛烈果敢な挑戦が認められるからだ。だからかえって痛快なくらいだ。けれども、それほどのことでも、民家の美としてまとまっているのは何故なのか、そのあたりに新しいものが古いものと調和する秘密がかくされているようだ。
土蔵造りの都市
(前略)
江戸・東京の土蔵造りの町並みは、関東大震災で決定的な破壊を受け、さらにその後の近代化と、戦災で、今日ではまるで嘘のようにその姿を消してしまったが、幸いそのかつての景観を伝えていてくれる町がある。埼玉県川越市のとくにその中心街の通称一番街一帯で、ここには蔵造り≠ニふつうよばれている土蔵の構造による店舗・住宅・倉庫などを一戸の敷地内にとりこんだ町屋が道をはさんで建ち並んでいる。
蔵造りの町並み
川越市内に現存する土蔵造りの店舗住宅(蔵造り)は約35軒、塗屋造りは15軒、計約50軒とされているが、もっとも古くて国の重要文化財に指定されている大沢家住宅(寛政四年、1792)を除けば、おおむね明治二十六年、同市の旧町域の三分の一を焼失した大火後の復興に際して建てられたもので、最盛期には百軒を越す蔵造りが建っていたと推定される。もっともこの大火の焼失家屋全数1302棟のうち半焼土蔵237棟、全焼96棟、という統計があるから幕末から明治にかけてさらに多くの土蔵造りがあったことがわかる。
この明治二十六年の大火後、すなわち明治も半ばを過ぎて、東京その他の大都市で洋風のレンガや石の建物がさかんに建っていたころ、あえて江戸以来の手法による蔵造りによって川越の目抜き通りの商家が建てられていることに注目すべきである。そうしてこのような傾向は東京その他の都市でも同様であったように思われる。蔵造りはたいへんな費用と手間と時間のかかる建物であって、レンガや石の洋風に比べて、安いからという理由は見あたらない。また江戸時代以来の伝統の余韻というべきでもなく、むしろさらにさかんに建てられたのである。
しかも川越の蔵造りの建物のあるものには、地下蔵や塀にさかんにレンガが使われている。これは時代的には明らかに明治の建築である。お上がさかんにレンガや石で洋風の建築を建てていたとき、一方では伝統の技術が新しい時代に対応して市民の中に甦っていたのである。民の系譜は擬洋風とともに滅びてはいなかったのである。
(後略)
川越の蔵造の町並のなかに大沢家住宅(国重文)がある。1792(寛政4)年に呉服太物(ふともの)を商っていた豪商近江屋半右衛門によって建てられた土蔵造の店である。耐火性がすばらしく、1893(明治26)年の川越大火にも無事だった。それをみて「ああいう店をつくれば大丈夫」と富商たちが競争で土蔵造の店をつくりだすきっかけとなった建物であった。間口6間・奥行4間半、1階の前面は下屋庇(げやひさし)を出し、格子戸・土戸を備えており、土間には防火のための用心土が納められている。2階前面には土格子があり、全体的に外観は簡素にできている。総ケヤキだが、店の前のヒトミの柱1本だけは松になっている。お客のくるのを「待つ」という縁起をかついだものという。1923(大正12)年の関東大震災で1尺ほどゆがんだものの、そのあとの揺返しでもとに戻り、いまだにどこも狂っていないという。基礎の頑健さを語る家人の自慢もなるほどとうなずける。
関東では、川越が、江戸時代の城下町がそっくり残っている町であるといってよい。今日、「小京都」とよばれる都市は全国にいくつか存在するが、「小江戸」とよばれる都市は、この川越をおいてほかにはない。中世末期、すでに上杉氏や北条氏の城下町が形成されていた川越に、天正一八(1590)年、徳川家康は関東入封と同時に川越藩を置いた。
武蔵野台地の最も東北端に位置し、近くに入間川が西部から北部にかけて流れている川越は、江戸時代を通じて、江戸城北辺の守りであり、また、豊富な物資の集散地であった。
(中略)
川越は、現在も土蔵造りの商家が多く、街路のかぎ型の屈折や、丁字路が目立つなど、旧城下町の歴史的景観を色濃く残す都市である。西武鉄道新宿線の本川越駅前から、まっすぐ歩いた仲町には、道路の両側に、黒光りした厚いぼってりした壁の土蔵造りの商家がある。屋根の上には大きな鬼がわらがのっかっている。かつてはこの土蔵造りが、百数十軒も、ずらりと軒を並べていたという。いまでは次第に新しい建物へと建て替えられて、その数もめっきり少なくなってしまった。仲町の商店街を歩いても、パラパラとしか見かけられなくなっているが、「時の鐘」のある前辺りの表通りには、数軒ががっちり並んで、往時の景観を堂々と誇っている。幸町・元町・一番街商店街に面しても、いくつかの土蔵造りが建ち並んでいて、他の都市には見られない歴史的景観である。
(中略)
現在、川越にある土蔵造りは、寛政四年(1792)年に建てられた重要文化財の大沢家のもの以外は、大部分が明治二六(1893)年三月一七日の川越大火後に建てられたものである。このような豪勢な土蔵造りの商家の町並みをつくった、当時の川越商人の経済力と、その建設に当たった大工・左官・とび職人たちの立派な腕前をしのばずにはいられない。黒くて厚い壁、大きな鬼がわらと高い箱棟、そのどっしりとした風格は、「小江戸」とよばれるにふさわしい川越の伝統を象徴する歴史的景観である。
(中略)
土蔵造りの商家が並ぶ一番街商店街から城跡の方へ、少し細い通りをはいった所に「時の鐘」がある。高さ約一六メートルの木造やぐら形で、城下町川越を象徴する貴重な建造物で、全国的にもきわめて珍しい建物である。寛永年間(1624−43)に建てられたのもで、江戸時代を通じてたびたび建て替えられ、釣り鐘も何度か変わっている。江戸時代、四六時の時を報じて、川越城下町の町民に親しまれたという。現在のものは、明治二六(1893)年三月一七日の大火直後に再建されたもので、建物の構造は江戸時代のものをそのまま踏襲しているという。羽目の板もかなり痛み、いくらか荒れている感じのやぐらは、復元されてから百年と経ていないのに、何百年も経てきたような感じがする。よく均斉がとれており、土蔵造りの町並みを圧して高くそびえる歴史的景観は、往年の城下町情緒をしのぶ象徴となっている。
(後略)
(前略)
城の大手門を出れば、左右に重臣の屋敷が建ち並び、城下町の要たる武家屋敷町をなす。その中を大手門から大道が延び、東西に走る本街道が直角に交差するのが最良であった。そこは四方から通行人が集まるので、新法公布の高札を立てるのに効果的である。よって、そこを「札の辻」といい、市が立ち、商家が並び、商品が集散されて藩内経済の中心点をなした。東京都港区三田三丁目、大阪府大阪市天王寺区上本町五丁目ほか各地に、今なおこの名が地名として残っている。私の住む川越市でも往時のおもかげをいまにとどめている。
川越では江戸街道が南北に通り、川越城はその東300メートルのところにある。城門を出て重臣屋敷を西へ向うと、型どおり江戸街道に交差して、札の辻をなしていた。その四つ辻を中心に、蔵造りの諸問屋が建ち並び、近郷の物産がどんどん江戸へ運ばれてゆく。早朝もこの札の辻へ、近くの村からかあちゃんたちが集まり、野菜や果物の市が立って賑った。昭和のはじめまで、その朝市はつづいた。
(後略)