川 越 と 茶


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「新県民読本 さいたま92」 グループ92 さきたま出版会 1986年 ★★
 狭山茶
 狭山茶の起源は鎌倉時代(約800年前)までさかのぼる。当時は武蔵河越の地にまかれ、「河越茶」と呼ばれていた。 わが国名園五場のひとつだった。それが、江戸時代に生産地が広がり「狭山茶」になった。
「茶の文化史」 村井康彦 岩波新書(黄版)89 1979年 ★
 第二章 茶の湯の成立/1.バサラの茶寄合/闘茶点取表
さて群飲佚遊ときめつけられたバサラの茶寄合とは、具体的にはどのような方法でもたれたのであろうか。先にもふれたが、当初は「茶の同異を知る也」とあるように、本茶と非茶の味別を競う単純な形式のものであったようだ。本茶とは栂尾茶、非茶とはそれ以外の土地でできた茶の意である。
 あらためていうまでもなくこうした飲茶勝負は、茶の栽培が各地に普及し、茶の種類がふえることが前提条件であった。南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』には、主たる産地について次のような記述がある。
我が朝の「名山」は栂尾を以って第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ「補佐」たり。此の外、大和室尾(室生)・伊賀八鳥(服部)・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ「天下の指言」するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙を以て瓦礫に比するが如し。又、栂尾を以て仁和寺・醍醐に比するは、黄金をもって鉛鉄に対するが如し。
 寺院茶園がなお中心であるが、次第に寺院をはなれて農山村茶園が出現しつつあった傾向が認められよう。『金沢文庫古文書』にいう「世間の茶園」も、こうした有名無名の地方茶園のことであったに違いない。

「日本茶、美味しさを究める」 松下智 雄鶏社 1992年 ★★
 美味しいお茶を求めた日本人/狭山茶の開祖
 茶は栄西禅師により、中国から日本へもたらされ、そして、明恵上人によって、宇治で 初めて茶園が開かれ、それが宇治茶の元になった。
 宇治で発展した茶は、やがて、日本国内に普及することになるが、この狭山地方へは、かつての武蔵の国の川越に伝えられたことになっている。現在の埼玉県川越市に当たり、現在、その地蹟を的確に決めることはできないが、この地方一帯が、狭山茶として広く知られている茶産地となっている。
 この茶産地が、果たして明恵上人によるものなのかは明らかにすることはできないが、どうやら、当時の茶は「山茶」、「畦畔茶」として残っている程度で、茶業としてはほとんどが消えている。
 現在の狭山茶の様な隆盛を見るにいたったのは、後世のものであり、そのスタートを切ったのが、入間郡宮寺村(現入間市宮寺)生まれの「吉川温恭」であり、「村野盛政」である。
 この二人を中心とする狭山地方の茶業に対して、支援を惜しまなかったのが江戸の茶商山本家の六代目、山本嘉兵衛徳潤であった。
 「享和二年(1802年)の夏、自宅から二〇〇メートル程西南にある「稲荷沢」の畑に忠八(温恭)は妻とともに仕事にいった。すると、にわかに空がくもり夕立になったので、その雨をさけるべくすぐ近くの山林にかけこみ雨やどりをした。やがて雨も止み、畑にもどろうとすると、畑のすみに三株の茶の木が雨に洗われ、美しい緑の新芽をみせていた。百姓のみでなく宮大工をしている関係でお茶というものに接する機会も多少あった温恭は、妻とその芽を摘みとり、何とかお茶にすることができるだろうかと家にもち帰った。そして話に聞いて知っている程度の茶造りの知識だったが、釜へ工夫して蒸し、ほうろくへ紙を敷いてかきまわしながら乾かした。するとお茶独特の香りがしてきたので喜んで二人はその製品を試飲してみたという。するとこれはいけるということから、早速無二の親友であった村野盛政の訪問にこのお茶を供すると大いに喜び、二人して茶の栽培を思いついたという。」
 以上は、『狭山茶場史実録』として、吉川温恭(通称忠八)の子孫、吉川忠八氏が、昭和四七年に書いた一書の中にあるものである。
 狭山茶の史蹟として、この吉川温恭等の茶業実績を記念して、入間市宮寺出雲祝神社境内に「重闢茶場碑」が天保三年四月(1832年)に建立され、今もって、史蹟として、狭山茶の歴史を伝えている。
 狭山地方は、地理的には東京という大都市に隣接しており、茶も東京向けの茶として、特有の香味をつくっており、永久的な茶産地となっている。しかし、東京経済圏の郊外への発展は、茶畑を住宅地へと変えつつあり、かつての狭山茶産地は、再び移動せざるを得なくなっており、順次近くの山間地や秩父の山間へと移りつつある。
 
 主要産地と茶の種類/埼玉の狭山茶
 狭山茶は、埼玉県を代表する茶名となっているが、その昔は、川越茶として、宇治より初めて茶が広まった所であり、歴史的には入間郡に伝わったはずだが、何時の間にか、狭山茶となって来たのである。
 かつては、この埼玉県が、日本では茶業経営として成り立つ北限の地とされて来たが、現在では、この北限が延長されて、茨城県の福島県境、久慈地方になっている。この久慈地方は、玉露の産地として知られており、日本での北限の茶業地域となっている。品種改良と栽培技術の進歩により、茶の北限ももっと北へ北へと延長してもらいたいものであり、やがて全国各地に茶産地ができることを念願するものである。
 狭山茶の産地は、東京から電車でほぼ一時間と、完全に東京圏に入っている。しかし、現在はかつての茶畑も年々住宅へと変わっており、茶畑は北西の多摩丘陵地や秩父地方へと移りつつある。
 世界的にも有数の大都市となった東京は、茶の一大消費地としても、自他共に認められるわけで、俗に言われる「関東風」のお茶であり、京都の関西風とは一味ちがっている。
 関東風というのは、製茶工程の最後の仕上げで、比較的高温で処理しており、「火入れ香」の強い茶となっている。したがって、カラッとした香りで、関西風のシットリ≠ニした味とは一味ちがう江戸ッ子≠フ味とでも言えるもので、大都市東京に供給する茶の特性でもある。

「さくもつ紳士録」 青木恵一郎 中公新書369 1974年 ★
 私たちの食生活に欠かせぬさくもつには、それぞれ辿った道がある。そしてその多くは殆ど山野に自生していた雑草木だったのであり、われわれの祖先たちが選び出し改良に努力を重ねたものである。たとえば夏みかんの始まりは安永初年、長門の青海島に漂着した実を島の娘が育てたものである。本書は、果物・稲・工芸さくもつ・野菜の分野にわたってその成長の経路を、栽培につくした人びとの隠れた歴史とともに掘り起す。(帯のコピー)
 工芸さくもつ/狭山茶
 僧・栄西は二回入宋し、建久二年(1191)に禅を学んで帰るとき茶種子と藺草を導入、藺草は故郷の備前(岡山県)、備後(広島県)に、茶は筑前(福岡県)の背振山に栽植した。覚心の未醤(味噌の前身)とともに地下人が武士に成長する時代に大きな役割を果たし、鎌倉幕府の源実朝が病気のとき、良薬と称して茶を進めた。また『喫茶養生記』を著作し、献上した。
 京都栂尾の明恵上人は栂尾茶の始まりとなり、いまも高山寺に馬蹄園が残っている。このあと賭け茶、茶寄合、地下人の雲脚茶会などは禁止となり、貴族たちは唐物の茶器などを尊重し、茶数奇に心を砕いた。
 武士の社会的成長にともなって珠光、紹鴎、道陳、利休らは茶道を発展せしめた。それとともに社寺院内の栽培から大和室生、伊賀八島、伊勢阿居、駿河清見、武蔵河越に加えて山城栂尾、宇治、葉室の百姓が栽培、生産するようになった。
 越後国(新潟県)岩船郡村上の豪農・徳光屋覚左衛門が元和六年(1620)伊勢神宮参拝のあと山城宇治で製茶法を学び、茶種子を持ち帰り、育苗して村民に配布し、茶業発展に努め、茶園は数十町歩となり、村上茶の名声をあげ、今日もなお生産をつづけて、その名をとどめている。
 また覚左衛門は貞享元年(1684)村上海岸の砂防を企て、七漆村、薬師山の松苗五千本を採集し、これを瀬波浜山の六百八十間に栽植し、これ以来三カ年にわたって保護をつづけ同地砂防林の基礎を築いた。
 武蔵国(埼玉県)入間郡宮寺の吉川温恭(よしみず)は百姓であり、宮大工もしていた。享和二年(1802)夏、妻と麦刈りに畑に出て仕事をした。昼食のときかたわらにあった茶を発見、その新芽を摘んで帰り、製茶して試飲したところ香味が優れていると思い、同村の村野盛政に供応した。賞味した盛政は茶業を興さんと協力を約し、江戸護持院の僧・栄性に「東野」の茶銘をもらって売り出し、鎌倉時代の河越茶狭山茶として復活させ、江戸で愛飲されるにいたった。
 埼玉県入間郡平沢の高林謙三は千葉県佐倉の佐藤順天堂で医学を学び、川越小仙波で開業したが、茶業に注目、茶の手もみ法を改良しようと苦心し、生茶蒸器械、あぶり茶器械、製茶摩擦器械を発明し、明治十八年、専売特許第一号、第三号をとり、さらに三十一年には高林式茶葉粗もみ機を完成、日本茶業の発展に尽くした。
 下総(茨城県)猿島郡七軒の佐五衛門は万治年間(1658〜61)荒蕪地を開墾し、茶樹を栽植した。これにたいして関宿藩主は茶の栽培を奨励し、猿島茶の基礎を築いた。
 その伝統を継ぎ、佐五衛門の子孫の野村佐平治は江戸に出て宇治茶を買うとともに、宇治茶の肥料、管理、製茶法を研究し、改良をおこなった。江戸の茶商人がきたとき飲ませたところ、茶商人は「猿島で宇治茶ができるのか」と驚き、「江戸の花」と命名した。その後江戸で名声をあげ、今日も猿島茶としてつづいている。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 明庵栄西(みょうあん ようさい)
1141〜1215(永治1〜建保3)鎌倉前期の禅僧(臨済宗)。日本臨済宗の開祖。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 明恵(みょうえ)
1173〜1232(承安3〜貞永1)鎌倉前期の華厳宗の僧。

「あなたの知らない埼玉県の歴史」 監修 山本博文 歴史新書 2012年 ★★
【第4章】埼玉県の江戸時代
Q50 全国的銘茶「狭山茶」の起源は川越にあった!?

思わず人に話したくなる 埼玉学」 県民学研究会編 歴史新書 2013年 ★★
第4章 自慢したい埼玉県の特産・グルメ
 32 開国直後にニューヨークまで輸出された狭山茶

「茶の歴史 ―河越茶と狭山茶― 川越叢書第9巻 大護八郎 国書刊行会 1982年 ★★★
  −目 次−
序説
一、河越茶
二、狭山茶としての復活
三、狭山茶の発展
四、最初の恐慌時代と狭山会社
五、製茶機械の発明と高林謙三
六、狭山茶の国内販路の開拓
七、まとめ

「日本名茶紀行」 松下智 雄山閣 1991年 ★★
第七章 関東地方の茶
 埼玉県
 川越茶
 栄西禅師が背振山に茶の実を招来してから、京都の高山寺の明恵上人に渡り、明恵上人から宇治へ、そして宇治から大和、伊勢、駿河、さらに、川越へと伝播したというのが、日本茶の基本ルートであり、いわば、日本のティーロードの終点が川越になることになる。
 川越は、現在の埼玉県入間郡狭山地方になるわけで、ここが川越茶の発祥地、という確証は無いが、この地方には古くから茶のあることは間違いない。
 埼玉県川口市の真福寺の弥生期の泥炭層から、茶の実が出土したことが、長谷部博士によって報告されていると、『日本古代農業発達史』(直良信夫、さえら書房、昭和三十一年)に紹介されている。茶に関して特に植物学的な研究面での考古学的研究は、日本でも中国でも、ほとんど手がついていない、と言っても過言でない。今後の研究に待たなければならないが、縄文期、弥生期の食べ物について、綿密な調査研究をされている、名古屋大学の渡辺教授は、「茶が、日本に自生しなかった、と断言出来ると思う」とまで言っておられる。
 川越地方の山茶については、「狭山茶、さらに河越茶に関係ありそうに思われる古生層の秩父の山茶については、先日も入間郡名栗村上名栗の妻坂峠の近くに広範に山茶の自生地を発見したが、これとは別のところとみられる名栗村内に諸岡存博士も昭和十五年に山茶を発見し」と『狭山茶業史』(木耳社、昭和四十八年)に大護八郎氏が書いておられる。
 川越の山茶も、四国や九州山地の山茶と変わらないように推測されるが、入間市出雲祝神社の「由緒其他調書」に「当地方ノ茶樹タル、往古ヨリ各地ニ点々存在セルガ、里人ハ之ヲ何人ガ播種セシカヲ知ラザルモナオ野生ナルガ如ク想像シ来レリ。然レドモ古ヨリ繁殖セルモノヲ見ルニ、農家ノ邸内ニ一畦アルアリ。又ハ竹林中ニ点々繁茂セルアリ。畑ノ境界ニ添ウテ一畦アルナリ。山林中ニ存在スルモノアリ。之等ニツイテ考ウレバ、畦ヲナスモノハ人為的ナレバ、或ル時代ニ何レヨリカ種ヲ求メ播種セシモノニテ、山林中ニアルハ真ノ所生ナルベシ。惟ウニ野生ノ種ヲ採リ、之ヲ邸内ノ一隅ニ播キ、若シクハ畑ノ境界線ニ防風用トシテ播キタルニハアラザルカト思ワレタリ」とあるといい(前掲書)、川越茶の歴史について、興味ある報告をされている。
 いずれにしても、狭山地方にも山茶が存在するということは事実であり、これが、藩制時代に人の手によって植えられたものかどうか、今後の調査で明らかになると思うが、茶の産地として、名実ともに「狭山茶」として、現存することには間違いない。
 川越茶、狭山茶の詳細にわたる調査結果については、前掲書に紹介されているので、参照されることをおすすめする。
 川越から狭山地方一帯に発達した茶は、現在、狭山丘陵地に開発されており、入間市、飯能市等が中心地となっている。平成二年の統計には、栽培面積2,840ヘクタール、生産量1,600トンと、日本でも屈指の茶産地となっている。
 ことに狭山地方は、東京都に隣接する住宅地域の様相となって来たが、それだけ地の利を得ており、今後の発展が大いに期待される所である。東京の中心からでも、一時間余で到着出来るわけで、お茶の味わいをもっと身近かに、茶畑から味わっていただくためには、多くの人々に、都内から狭山茶の見学をしてもらいたいと切望する者である。
 高林謙三翁

「日本産業史大系4 関東地方篇 地方史研究協議会編 東京大学出版会 1959年 ★★
江戸周辺の産物
 狭山の茶
  一 狭山茶の成立と発展
  二 狭山茶の経営

「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
 鉄道とレンガ工場
 ●狭山茶の改良・増産
 狭山茶は古くから入間郡の狭山丘陵沿いの地で生産されていたが、安政の開港後は生糸とともに輸出品の中心となり、主としてアメリカへ輸出されるようになった。輸出の増大とともに主要地も県南西部から県北部へと拡大し、粗製品の乱造を招くことになり、内外茶相場を下落させるとともに貿易を停滞させるにいたった。
 そこで、明治八年(1875)、海外直輸出を目的として、入間郡黒須村(現、入間市)の繁田武平(満義)を中心に、入間・高麗・新座三郡の茶商・茶業家の有志三〇名が狭山会社を設立し、政府の勧業資金を借り受け、茶の培養・製法の統一を図って品質の向上に努めた。製茶の直輸出を計画したのは、この狭山会社にとどまらず、一五年設立の和賀川会社、一七年の金子商会、一八年の埼玉県製茶会社などが著名である。
 しかし、これらの会社は販売面の不慣れもあってあまり成功しなかった。そして、明治のなかごろから輸出に不振を来たしたので、国内市場の開拓に努めるようになった。
 いっぽう、茶業の改良を図るため、政府では茶業組合準則を発し、茶業組合の設立を奨励したので、埼玉県では明治一九年に茶業組合規則例を発し、各地に組合を結成させた。茶業組合では品評会・共進会・講習会等の開催や伝習所を開設して茶業の改良増進を図った。埼玉県の茶業伝習所は二八年までに二四カ所も設立され、茶樹培養法と製茶法を伝習した。これら伝習所には県で設置した製茶教師が派遣され教授した。このほか、特筆すべきものに入間郡小仙波村(現、川越市)の高林謙三による機械製茶の伝習がある。
 高林謙三は、茶の製造工程を簡単にし、機械化して同一原料同一製品を得るとともに、生産費を低減するため、明治一四年に扇風器付円筒式焙茶機を考案、ついで生茶葉蒸機、製茶摩擦機を発明した。その後も改良を加え、茶の生命である香りと味を少しも損ずることなく大量に生産できる機械の発明をめざし、三一年に高林式茶葉粗揉機を発明した。そして高林式製茶機械は全国に普及し、茶業の発展に大きな貢献をした。こうして茶の生産は、年を追って増大してゆき、狭山茶の名が国内に広く知られるようになっていった。

 中院(狭山茶発祥の地)(川越インターネットモールのなかにあります)

「雑草にも名前がある」 草野双子 2004年 ★
 殖産興業の徒花 ヤブガラシ

「お茶のなんでも小事典」 大坪檀/監修 O−CHA学構想会/編 講談社ブルーバックスB1298 2000年
 お茶に含まれる成分にガン抑制作用、ダイエット、虫歯・かぜ、生活習慣病を予防する効果があるという。お茶のさまざまなパワーを引き出し、おいしく味わうための一冊。
 

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作成:川越原人  更新:2015/10/5