川越のさつまいも(2)


<目 次>
埼玉事始紅赤の100年サツマイモの話黄色い鶏埼玉史談武蔵野の落ち葉は生きているサツマイモ百科焼き芋小百科郷土料理案内料理百珍集日本の方言地図

 トップページ  サイトマップ  →   さつまいも(1)  さつまいも(3)  名産    グルメ
「埼玉事始 ―さいたまいちばんものがたり― 東京新聞浦和支局編 さきたま出版会 1987年 ★★
明治以前/サツマイモ          ●宝暦元年
 ●所沢の吉田家が「元祖」。江戸へ運ぶ集荷地川越の名が広まる。
 ダサイ埼玉≠フ象徴にように言われ、最近ではややイメージダウン気味のサツマイモだが、味、こくともに埼玉が誇る名産品の一つ。江戸時代から「川越芋」と親しまれてきたため事始め≠ヘ川越市と思われがちだが、実は、所沢市が「元祖」。同市南永井の名主親子が二代にわたり芋栽培を行い、以来県下に広まった歴史がある。
 古文書調べわかる
 新田義貞の血をひくという、この名主・吉田家は連綿と続いている。現在の当主は所沢商工会議所専務理事吉田徹四郎(五八)――同市南永井四三九ノ七。「子供のころからわが家はサツマイモの元祖だと聞かされていた。二十二年、国学院大学の桑田忠親先生が県の依頼でわが家の古文書を調査、その記載から間違いないと分かり公になった」という。当時は終戦直後で食糧不足。国民のほとんどが芋で命をつないでいただけに、県も「サツマイモの始作地」の史跡に指定(現在解除)、交付金で石碑が吉田家敷地内に建立された。
 「弥右衛門覚書」(市指定文化財)と呼ばれるこの古文書には、宝暦元年(1751)の記載に「さつまいも作り初メ之事」として、弥右衛門が長男、弥左衛門(当時二六)を上総国志井津村(千葉県市原市)に派遣、芋の種を購入し栽培を始め、広めたとある。
 幕府の命で青木昆陽が試作に成功してからおよそ十七年後のことだった。
 先祖は植物学者
 「川越芋」の祖ともいえる弥右衛門は、上州新田郡から川越藩・武蔵野新田開拓地に入植した先祖から数えて四代目。漢方薬などを扱い、植物にも造けいが深かった。この辺りの事情を「川越いも研究会」代表の井上浩(五四)――県立松山高教諭――は「今でいえば植物学者。新しい植物には敏感だったろうが武蔵野台地にサツマイモが良いというひらめきには驚くばかり。アワやヒエしかできなかった関東ローム層はサツマイモには最適地。薬屋としての情報網と植物学の蓄積が呼んだ偶然なのだろう」と分析する。
 弥右衛門親子の苦心と努力でだんだんに広まり、苗床の技術が取り入れられたことで周囲一帯は芋の大産地となっていく。当時、芋は川越に集荷、新河岸川の舟運で江戸に運ばれた。ホクホクとしてほど良い甘さ、香ばしい焼き芋は庶民を喜ばせ、川越方面からの芋、つまり「川越芋」として定着していった。
 脚色された伝承も
 弥右衛門らの業績は、薩摩から逃げ出した浪人や母娘巡礼が、助けられた礼に芋を吉田家に置いていった――などと脚色され伝承された。「実際にそれに近いことがあり、サツマイモの効用を聞いて千葉に行ったのかもしれない」と話す吉田も「人のやらない事をやりたい」と三十年ほど前、青森県弘前からリンゴの苗木を移植、たわわに実らせた。商業ベースに乗らず失敗はしたが、弥右衛門の血が脈々と感じられる。
 文献集出版を計画
 五十八年秋、井上と国際商科大学助教授のベーリ・ドゥーエルらが中心となり始めた「川越いも祭り」はことしで三回目。「埼玉の代表的産物なのに史料も少なく、意外なほどわからない部分も多い」(井上)と、ことしは文献集出版の計画もある。三月には県のふるさと歩道に吉田家の石碑も入った。サツマイモ復権≠フ動きは着々と進行中だ。
 追 記
 生産量は二万五千七百d(六十年六月現在)で、全国八位。
 県内の自治体別の作付面積では、大宮市が二百十六fでトップ、所沢市は百五十六fで二番目。以下、上尾、桶川、川越など入間、北足立郡などで生産が多い。
 これまで、県の奨励品種は農林1号、紅赤、高系14号の三品種だったが、六十年から新たに新品種ベニアズマを採用、入間地域を中心に普及を図っている。ベニアズマは農業研究センター(茨城・筑波)で開発。特色としては@肉質がすぐれている、A他品種に比べ一カ月ほど早く収穫ができ、経済性が高い、B病気に関しても強い――など。県食品流通課では、今後、力を入れたい、と話している。
 サツマイモは焼酎やイモ菓子などのほか、ビタミンCが多く美容食品としても人気。ビスケットなどの加工食品としても使われている。

サツマイモの女王 紅赤の100年」 紅赤百年記念誌編集委員会編 川越いも友の会・川越サツマイモ商品振興会 1997年  ★★★
   −目 次−
《巻頭語》紅赤の百年を記念して (ベーリ・ドゥエル)
(紅赤早わかり豆知識)紅赤って、どんなサツマイモ?
浦和が生んだ山田いち (青木義脩)
〜おっかさんのサツマ〜「紅赤いも発見100年」 (山田精一)
紅赤と吉岡三喜蔵 (吉岡均)
心のおいも「紅赤」 (吉岡美代子)
紅赤とベニアズマ (坂本敏)
東京の甘藷問屋と川越のキントキ (井上浩)
紅赤作りのノウハウ (井上浩)
「八ツ房」とは (井上浩)
いも料理のプロからみた紅赤 (井上浩)
東京都東村山市秋津地区のキントキ (井上浩)
最近の東京のキントキ (井上浩)
さつまいもの始作地と吉田弥右衛門 (青木雅子)
サツマイモ問屋「問仲(とんなか)」 (青木雅子)
埼玉県の試験場と紅赤 (佐藤光興)
北総台地の「紅赤」 (猪野誠)
吾輩は新しい「紅赤」である (大越一雄)
日本から米国へ渡ったサツマイモ (ベーリ・ドゥエル)
紅赤いも料理2品 (原京子)
紅赤と幻のサツマダンゴ (山田えいじ)
紅赤のおいもファン:青木幸子さん (山田えいじ)
紅赤と芋せんべい (山田えいじ)
紅赤づくり名人:松崎新治さん (山田えいじ)
紅赤と三芳町 (山田えいじ)
〜夫婦の心意気が伝える川越の味〜「京都の川越芋」 (鈴木正幸)
茜をもとめて〜紅赤から茜金時へ〜 (山田茂美)

(紅赤早わかり豆知識)紅赤って、どんなサツマイモ?

●なぜ、紅赤はスゴイのか? 
 現在、いろいろなサツマイモの品種を見ると、ほとんど全部といっていいほど、国・県などの試験場が力を入れて研究しつくり出した育成品種ばかりである。しかし、そんな育成品種でさえ数十年も長く生き残る品種は、一〜二品種である。そのような中で、無名の民間人が偶然発見し、今だにファンを持ち続け、百年間も生き続けている在来品種の紅赤(俗称キントキ)の存在は、全く貴重としか言い様がないのです。
●紅赤の特性(小野田正利著「さつまいもの改良と品種の動向」)
 「イモは長紡錘形((注)コッペパン形)で整一であるが、大小不整でクズイモが出来やすい。美麗で外観良好。肉質は黄色濃く粉質。でん粉歩留は源氏に次ぎ高いが、いも収量は低く、収量を犠牲にした良質品種である。施肥及び気候に対する適応性が小さく、栽培の難しい品種である。
 「形態より見れば、紅赤系統が我国に輸入された甘藷中、最も古い形のもので、青木昆陽時代の甘藷の面影を残す唯一の品種と見られる。」「戦前は、千葉・神奈川・東京・茨城にて、それぞれ千葉赤又は大正赤、高座赤(高座地方が産地)、金時、茨城赤などの名称で栽培が増大し、昭和16年には36,000ha(全国の約20%の栽培品種で一位の源氏種に次いだ)に及び、西日本の源氏に対し東日本の紅赤と言われた。」
 俗に「サツマイモの女王」と異名をとるほど、品質はいいが、性質は気むずかしく、作るのに熟練した栽培技術がいる。5月中旬頃、苗の植付けをし、10月中旬〜11月上旬に堀りとられる晩生種である。現在の産地は、三芳町上富を中心にした川越地方、千葉の北総台地、東京都の東村山市などである。贈答用などの高級イモとして利用されている。
●紅赤の調理と利用法
 やや筋っぽい。蒸したり焼いたりすると他のイモより早く火が通るという特色をもつ。ベニアズマに比べ甘味は下がるが、イモの風味と舌ざわりは抜群である。そのため、天ぷらやキントンには特に適している。
●紅赤の発見者:山田いち(1863〜1938)
 明治31年(1898)に、大宮台地上の木崎村針ケ谷(浦和市)の山田いち(当時35歳)が、自分の畑で「八ツ房」種から突然変異した「とりわけ肌の鮮紅色なイモ」7株を発見。食したところ非常に美味であった。一年試作して増やし、蕨や東京駒込の市場に出荷したところ、従来のイモより味がすぐれていたため、たちまち評判となった。親戚の吉岡三喜蔵により紅赤と命名され、各地に普及された。山田いちは発見の功績により、68歳になった昭和6年に(農業の改良発達に最も貢献した人に贈られる)「富民賞」が富民協会よりおくられた。((注)青木雅子著「紅赤ものがたり」けやき書房より)
●紅赤の普及者:吉岡三喜蔵(1885〜1938)
 吉岡三喜蔵は同じ木崎村で生まれ、山田いちの甥にあたる。発見をしたのはいちであったが、普及に尽力したのは三喜蔵であった。翌年の明治32年、いちから種イモ4俵を譲り受け、採種に努力した。山田家は、畳屋兼業であり、種イモ・イモ苗の頒布希望に応ずるには限界があった。三喜蔵は紅赤の普及を第一に考えて、各地の希望者に種イモ・イモ苗を安価で譲った。普及の功績により昭和7年に、山田いちと共に北足立郡農会より表彰を受けた篤農家である。
●紅赤の現在と未来「幻のサツマからの脱出」
 年々栽培量が減少し、今では「幻のイモ」とまで言われ出した紅赤。しかし希望の光りがない訳ではない。熱意ある産地の方や紅赤の味を愛する人達の輪「紅赤ネットワーク」がこの百年を機に生まれれば!

「サツマイモの話 −川越イモとその周辺− 井上浩 たなか屋出版部 1984年  ★★
−目 次−
川越イモの歴史から
 吉田家文書赤沢仁兵衛ベニアカの発見/諸国産物帳/料理書の中のイモ飯とイモ茶粥/甘藷絵馬/わがイモ仲間
イモどころ川越
 わたなべ道/雑木林/サトのサツマ地/ベニアカは川越まつり後/献上イモ/いも掘り観光の坂本長治さん/いも掘り音頭/二度びっくり/サツマダンゴの村田さん/初栗のきんとん/きんとん用のサツマイモ/ゴロブト/「いも膳」にて/「いも膳」のヤマブキ/「吉寅」のサツマイモのプディング/イモセンベイはなぜ高い/オランダ/川越はやっぱりイモの町/ダサイタマの逆襲
川越を離れて
 ジャガイモとサツマイモ/いも女/東京芋/日影俵/本チャブと川越チャブ/いも繁/浅草と舟和/三浦三崎にて/大栄町のサツマイモ/名古屋の野菜せんべい/京都の焼芋屋/祗園祭と新イモ/南蛮料理「ヒカド」/フィリピンのハロハロ/『子鹿物語』の中のサツマイモ
戦争とサツマイモ
 銀座の焼芋屋/富のイモ/ヤミイモ/苗床のイモ/イモヨウカン/サツマイモの花/つぼ焼きの平本石さん/航空機用のアルコール/川越にもあったイモ焼酎/少年兵とイモ餅/ルソン山中のイモがゆ/ルソン山中のカモテ・パーティー/ニューギニア高地のサツマイモ

川越イモの歴史から/吉田家文書

 川越イモの歴史を調べようとすると、まず訪ねなければならない家がある。武蔵野台地のまんまん中、南永井(所沢市)の吉田家だ。
 同家は近隣一帯の農家から、「あそこはサツマの元祖だ」といわれている家だ。吉田家は江戸初期にここが開かれて以来、代々名主を勤めてきた旧家だが、弥右衛門という人の時、上総の椎津村(市原市)に人をやって、サツマイモの種芋を買ってこさせた、むろん作り方も教わってこさせたはずである。寛延四年(1751)の春のことだった。
 関東での甘藷作りは、青木昆陽以降、本格的になる。昆陽が江戸、小石川の養生所薬園でサツマイモの試作を行ない、一度で成功してみせたのは享保二〇年(1735)のことだった。ただ、それですぐ関東でのサツマイモ作りが軌道に乗ったわけではない。サツマイモは寒気に弱い。冬の厳しい関東では、収穫できても保存がむずかしいし、栽培面でも、昆陽の方法では苗作りに難点があった。
 それでも上総や下総などの暖地では、なんとか作れるようになりだした。弥右衛門はそうした情報をつかむと、武蔵野台地での試作を決意した。それは弥右衛門にとっても、大きな仕事だったらしい。そのことはその覚書中の甘藷関係文書からよくわかる。
 かっては吉田家へ行かないと見られなかったこの文書も、今では『所沢市史近世史料U』(昭和五十八年刊)に収められている。ただ川越イモの作りはじめのわかる貴重なもので、ここでもそのまま紹介しておこう。

  さつまいも作り初メ之事
一當二月廿八日二江戸木ひき町川内屋八郎兵衛殿世話二而かつさ国志井津村長十郎殿方へ彌左衛門参さつまいも貳百二而代五百文員落錢共壹分貳朱懸り申候、九日目二帰り申候
彌右衛門
 寛延四年未三月吉日

  さつまいも作り初め之事
一家内にてさつまいも作り初めたのハ寛延四年二月廿八日江戸木挽町川内屋八郎兵衛殿世話にて御公儀様願ひ廿八御渡し相成、此時うやくと申薬の木を貰ひ九日めて内へ帰り御禮や小つかいにて壹分貳朱相かゝり候
 寛延四年未三月吉日
彌右衛門


一さつま芋去ル未年かづさ国志井づ新田と言所長十郎殿方へ彌左衛門遣シ種を調作り初メ隣郷へ廣メ申候
彌右衛門
 寶暦四年戌四月十五日

 ところで、この文書の存在を広く世に紹介したのは、国学院大学の桑田忠親先生だった。先生は太平洋戦争末期の昭和十九年、南永井の近くにあった柳瀬山荘に疎開された。
 それは「電力の鬼」といわれた松永安左衛門の別荘だったが、山番の小屋が空いていたのでそこへ入られたのだという。そんな縁で、土地の人たちとも次第に親しくなったが、終戦後ほどなくの頃、吉田家の徹四郎さんが古文書を持ってやってきたという。
 「うちには川越芋に関する古い書き物があるから見てほしい」と。
 見るとなるほど、川越地方の薩摩いもの作り始めのわかる覚書がある。当時は食糧難のまっさい中で、日本中がサツマイモのお陰でやっと生きていたような時代だったから、この文書は一躍有名になった。
 桑田先生自身も、『郷土のあゆみ・埼玉県』(昭和二十四年、日本書院)で、このことを取り上げられたし、やや後のことになるが『人物往来』(昭和三十二年八月号)でも、「川越芋の覚書」として紹介されている。そんなことから戦後は、「川越芋」といえば、「吉田家文書」となったようだ。たとえば宮本常一氏の『甘藷の歴史』(1962、未来社)をみても、川越イモのところは、吉田家文書をそのまま当てている。
 話は飛ぶが、昨秋(昭和五十八年)の「第一回川越いも祭り」に、吉田徹四郎氏をお招きしたところ、喜んでかけつけてくださった。その時、桑田忠親先生のエッセイ集が出たからと『黄色い鶏』(1982年、旺文社文庫)をくださった。「川越芋の覚書」もそのまま入っていますよと、にこにこされていた。

川越イモの歴史から/赤沢仁兵衛

 『日本農書全集』の刊行などで知られる農山漁村文化協会は、それに引き続き『明治農書全集』十三巻を刊行しつゝある。その出版予告によると、第四巻の「畑作」編に、川越の人、赤沢仁兵衛の『実験甘藷栽培法』(明治四十三年)も入っている。
 川越地方の甘藷村で、「サツマイモの先生」といえば、青木昆陽のことではない。従来の単位面積当り収量を、一気に二倍以上に引き上げた、赤沢仁兵衛のことだ。その赤沢式甘藷栽培法を詳述した本が、こんど復刻され解説まで付けてもらえるのだという。しかもこの本は有名な割には幻の本だ。埼玉県内でその所在がはっきりしているのは、赤沢家のものを除けば、浦和の県立図書館の一冊ぐらいのものであろう。
 それが世に再び広く出ることを知って喜んでいたところ、1984年の正月早々、同会編集部より、赤沢さんの子孫のようすを知らせて欲しいという依頼を受けた。わたしが『川越いもの歴史』(蔵造り資料館・1982年)や、『川越の人物誌』第一集(川越市教育委員会・1983年)などで、赤沢仁兵衛を取り上げてきたからであろう。
 そこで仁兵衛の孫にあたり、子孫の中では最高齢の赤沢義守さん(明治三十年生まれ)から、いろいろの話を伺った。以下はその聞き書きである。

 赤沢仁兵衛は、わたしのおじいちゃんだ。そのあとは父の久松だ。父は福原村の村長や農会長などもやったが、おじいちゃんは畑一方の人だった。それもサツマのコク(量)を取ることに夢中だった人だ。それぐらいだったから、「あいつはよその畑のサツマをかっぱらってるんじゃあないか」と、村の者から疑われたぐらい、たくさん取るようになった。
 「赤沢式」と騒がれた、おじいちゃんのやり方のコツは、まず苗だった。実の入った、こわい(かたい、しっかりした)苗を仕立てることだった。それにはトコ(苗床)作りに下肥なんかは使わない。ドブ水ぐらいで、あとは前の年の堆肥をちょっと加えるていどだ。熱が出すぎると、苗はほきて、ひょろ長い、やわらかなものになってしまう。そんな苗を使うと、ちょっとした日照りで参ってしまうし、第一イモのつきも育ちも悪い。
 だからおじいちゃんは、この苗作りのコツを、近隣の村を廻っては教えてた。ただ遠くの方では、いい苗の作れない所がいくらでもあった。そこで父、久松の代になると、おじいちゃんが指導した家のトコの余った苗を買い集めては、全国に送った。父もサツマ作りの指導を頼まれ、全国各地から招かれていたから苗の注文が殺到した。シーズンになると四−五人いた住み込みの奉公人のほかに、村の者を十五−六人も傭い入れなければならないほど忙しかった。苗の発送は、太平洋戦争の始まるまでやっていた。
 久松のあとは、兄の惠蔵が継いだ。わたしは弟分だった。大正六年兵で、シベリア出兵組だった。シベリアから帰ったのは大正九年だったが、その後もしばらく家の畑を手伝っていた。だから赤沢式のコツを知ってるんだが、第二のそれはウネの作り方だった。「ムギとサツマ」と言われていたように、戦前はこの二つだけを作っていたような感じだった。そのムギのウネの日影側に、堆肥をポン、ポンとボッチに置いて行く。その上に鍬でさくったドロを盛り上げ、そのまた上に苗をさす。
 その苗も、今までのようにただ斜めにさすのではだめだ。ひどい人は苗を横に並べ、その上へドロをかけるだけだったような頃、おじいちゃんは、めんどうでも一本一本、釣針型になるようにさせたんだ。苗のそのギュッと曲がったところに、いいイモがたくさんついたんだ。
 そして肥料はヌカと灰。サツマはこれに限る。今時は化学肥料なんかを使うから、味のほうはぜんぜんだめだ。
 わたしの兄、惠蔵のあとは一男が継ぎ、今は一弘の代だ。本家の番地かい、川越市今福七四七だ。実はある時、おじいちゃんの後援者たちが、本家の入り口に、赤沢仁兵衛をたたえる碑を建てようとしたことがあったんだ。立ち消えになっちゃったけどな。
 それはそれとして、おじいちゃんは働き者で、しっかりした人だった。でも孫たちにはこわいどころか、それはやさしい、いい人だった。たとえばお祭の日の山車なんかを、孫たちのために、コツコツ一人で作ってくれるような人だった。
 おじいちゃんは長生きだった。亡くなったのは大正九年、八十四歳の時だった。戒名は仁山道光晴居士、墓は本家の前のサツマ畑の中にあるよ。
 わたしは弟分だったから、家を出た。川越の町に出て、農機具商を始めたんだ。独力で一生けん命やってきたよ。もう八十八、米寿さ。

川越イモの歴史から/ベニアカの発見

 「川越イモ」といえば、今では「ベニアカ(金時)」のことになるが、はじめからそうだったわけではない。ベニアカの発見者は、川越地方の人ではなく、浦和地方の山田イチという女の人だった。
 武蔵野台地と同じ土質の大宮台地上に、針ケ谷という所がある。今は浦和市に入り、住宅地になっているが、昭和三十五・六年頃まではイモ畑の多いところだった。
 ここに山田啓太郎という畳屋さんがいて、仕事の合い間に畑もやっていた。そのおかみさんがイチだった。
 明治三十一年の秋のことという、イチが畑でイモ掘りをしていると、不意に、今まで見たこともない肌のイモがでてきた。それはまるで紅で染めたように美しいものだった。目のさめるような紅色のイモを手にしたイチは「これはただのイモではない、きっと味もいいに違いない」と思った。そんなイモは、いくつもなかったが、イチはさっそくその一つをふかしてみた。強い火で、サッとふかすと、それはたちまちふけ、皮がめくれ上った。中はまっ黄色だ。口に入れてみると、ホクホクとして甘く、たちまちとろけるように溶けていく。
 喜んだイチは、翌年から、それをどんどんふやしていった。そして「紅赤」と名づけ、東京の市場へ出してみると、色といい、味といい、こんなにすばらしいイモはないと大評判になった。それをみて大宮台地上の農民は、争って紅赤を作りはじめた。なにしろそれはどのイモよりも高値で取引きされたからだ。
 そのことは「サツマイモの本場」、川越地方でも同じだった。ここでは江戸時代から、「赤ヅル」、「青ヅル」と呼ばれる二種類のイモを作っていた。いずれも焼芋用で、「栗(九里)に近い」から「八里半」だとか、いや、「栗(九里)より(四里)うまい」から「十三里」だなどとはやされてきたものだ。
 ところが、ベニアカが現われると、いけなくなってきた。ベニアカは、はじめはふかしイモとして取引きされていたが、やがて焼芋用としても絶品であることが、はっきりしてきた。
 こうなると「赤ヅル」、「青ヅル」に頼ってはいられなくなってくる。ただ、「ベニアカ」は、「サツマイモの女王」といわれるだけあって、気位も高く作りにくい。収量も少なく、冬の貯蔵もむずかしい。
 難点は多かったが、そこは長い伝統と技術をもつ川越地方の農民のことだ、たちまちベニアカを自由に作りこなすようになり、東京をはじめ全国に大量に出荷するようになっていった。
 山田イチが活躍した大宮台地は、埼玉県の北足立郡に入っていた。そのため、ベニアカは、はじめのうちは「足立いも」と呼ばれていたが、川越地方産のベニアカが量産されだすと「川越イモ」といえば、「ベニアカ」のことになっていった。

「黄色い鶏」 桑田忠親 旺文社文庫 1982年 ★★
V 恋のくぬぎ林/川越街道
白子から大和田の宿へ

川越芋の元祖吉田家
 終戦後ほどなくのことだが、柳瀬の村役場に勤めている南永井の吉田という青年が、柳瀬山荘の私の寓居にやってきて、家に川越芋に関する古い書き物があるから見てほしい、とのことであった。青年の案内で、さっそく、吉田家に行ってみると、そこは、川越芋の元祖であるという。先祖伝来の系譜、覚書、南永井の水帳(みずちょう)、田図などを見せてくれた。それらを貸して貰い、一ヵ月ほどかかり、全文を写し取り、いろいろ調べてみたところが、次のようなことがわかった。武蔵国の川越地方で薩摩芋が作り始められたのは、徳川八代将軍吉宗のとき、蘭学者青木昆陽が、長崎の豪商平野良右衛門に命じ、江戸城の吹き上げ御殿の庭で試植された享保二十年から数えて、十六年ほどあとのことである。九代将軍家重の寛延四年(1751)の二月二十八日に、入間郡柳瀬村南永井の吉田弥右衛門が、江戸の木挽町の川内屋八郎兵衛の仲介で、上総国(千葉県)の志井津村新田の長十郎の家に行き、事情を語って、芋のたねをゆずり受け、幕府の許可をえて、これを自分の畠で栽培した。薩摩芋は痰(たん)の毒だという俗説が、むかしから、ひろまっていた。青木昆陽は、その俗説をしりぞけ、下総や上総地方にまで、これを移植させ、凶作の年の飢饉に備えた。だから、昆陽はのちに、甘藷(かんしょ)先生といって崇められたが、南永井の吉田弥右衛門は、当時二十六歳の青年だったが、甘藷先生を崇拝していた。そうして、かれの栽培した薩摩芋は、それ以来、次第に、柳瀬村から川越の方面にまでひろまり、川越芋の名を取ってのであった。
 「農家の青年としては、大した見識ですね。ちょうど、君くらいの歳かっこうだったわけだが……」
 私は、柳瀬山荘にやってきた吉田君を見て、そういった。
 吉田君は、ちょっと微少した。埼玉の農村の青年としては、珍しいほど色白の顔を、ほんのりと、あからめた。
 かれは、吉田弥右衛門の子孫で、吉田憲吉氏の長男だ。
 吉田弥右衛門の先祖は、市郎左衛門といい、上野国(群馬県)新田郡下田中村の名主の末子に生まれたが、新田(しんでん)開発の希望に燃え、武蔵国(埼玉県)柳瀬村南永井の地に移住している。現在、吉田家の氏神であり、南永井の鎮守となっている八幡神社は、上野国の新田八幡を、この土地に勧請(かんじょう)したものだと、つたえられる。吉田家は、代々、柳瀬村の名主をつとめ、弥右衛門と同族の吉田七家のほかに、分家も、かなりふえている。

美しい巡礼娘の伝説
 ところが、南永井には、吉田憲吉氏の家につたわる系譜や、吉田弥右衛門の覚書のほかに、川越芋と吉田家に関する不思議な伝説が流布されている。
 薩摩の島津藩のある武士が、隠密となって江戸に赴いたが、いつしか、音信不通となり、生きているのか、死んでしまったのか、わからない。そこで、その妻と娘が、巡礼すがたに身をやつし、武士を慕って、江戸にやってきて、あちら、こちらと、探しまわったが、ちょうど、柳瀬村の南永井あたりで、日が暮れはて、腹も極度にへり、飢え死にしそうになった。そうして、危いところを、吉田家の人々に救われたのである。
 しばらく、吉田家の世話になった巡礼母子(おやこ)は、その返礼に、少々たずさえてきた薩摩芋と、薬草のたねとを贈った。巡礼の去ったあとで、吉田家で、これを栽培したのが、そもそも、川越芋の始めであるという。
 薬草の方は、別に、吉田家の屋敷の庭に植え、これが、家伝の秘薬として、つたわった。万病の妙薬であるといって、吉田家では、村びとの求めに応じて、これを販売しているとのことだ。
 この伝説を、私が、その後また吉田憲吉氏を訪れて、耳にしたとき、
 「それは、面白いお話ですね。しかし薬草のことは、吉田家の系譜にも、別に、書いてありませんが……」
 と、いうと、
 「はあ、別に書いてはいないが、あそこに生えているのが、それですよ」
 憲吉さんが指さす方を見ると、庭の垣根の近くに、奇妙な形の葉と蔓(つる)とを持った薬草らしいものが植えてある。
 「なるほど、たいしたものですね。しかし、それはいつごろの話でしょうか」
 「やっぱし、江戸の頃の話じゃないかね。この薬のお蔭で、一時は大分くらし向きもよかったというが、このごろは、西洋の薬がたんと出来たので、こんなもの、買いに来るような人も、滅多に、ありませんわ……」
 私は、少し、気の毒になってきた。
 そこへ、妙齢の美女が出てきて、お茶を入れてくれた。吉田青年の姉であるというが、ひなに稀(ま)れな色白の、美しい娘さんである。
 伝説の薩摩の隠密の巡礼娘も、このような美女だったにちがいない……。私はふと、連想してみた。
 日が暮れかけたので、いとまを乞うと吉田青年は、親切にも、土産にくれた二貫目の大白芋と共に、私を自転車のうしろに乗せて、半里ばかり南の、柳瀬山荘の麓(ふもと)の寓居まで、送り届けてくれたものである。

忘れ去られた川越旧街道

「埼玉史談 第18巻第4号」 埼玉郷土文化会 1971年12月号 ★★
 川越いもの作り初め  
一、さつまいも試作の伝説
二、吉田家文書の発見
三、試作のむずかしさ
四、川越いもの発展
五、あとがき

「埼玉史談 第27巻第3号」 埼玉郷土文化会 1980年10月号 ★★
 川越いもと江戸・東京の焼芋屋  井上浩
一、はじめに
二、江戸時代の川越いも
三、江戸の焼芋屋
四、明治の東京の焼芋屋
五、あとがき

「埼玉史談 第28巻第3号」 埼玉郷土文化会 1981年10月号 ★★
 天保期の川越いも  井上浩
一、はじめに
二、出遅れていた川越いも
三、天保二年の薩摩芋出入
四、青物役所と上納サツマイモ
五、天保時代の名物競
六、あとがき

「武蔵野の落ち葉は生きている 平地林を未来に残すために いるま野農業共同組合編 家の光協会 2002年 ★★
序章 ヤマって何だろう?
第1章 ヤマの落ち葉掃き
第2章 落ち葉を使ったサツマイモづくり
 昔ながらのさつま床
 さつま床のつくり方
 落ち葉堆肥の不思議
 消えるさつま床
 それでも落ち葉が必要なわけ
 害虫とのたたかい
 麦とサツマイモ
 いよいよ収穫
 種いもを保存する「穴ぐら」
第3章 なつかしい伝統料理
 おやつのピンチヒッター、さつまだんご
 冷たい北風でカラカラに
 黒くてびっくり、おいしくてまたびっくり
 さつまだんごのつくり方
 さつまだんごの思い出
 どうしてヤマが掃けるんだ?
 所沢の焼きだんご
 手打ちうどんはごちそう
第4章 武蔵野の歴史
 一面に萱原が茂る武蔵野
 お狩場から新田開発へ
 松平信綱の新田開発
 柳沢吉保「三富新田」の開発に着手
 水の確保
 短冊型の開拓地
 サツマイモの登場
 昆陽の試作
 川越いもの元祖・南永井の吉田弥右衛門
 木戸番の内職だった焼きいも屋
 新河岸川で運ばれるイモ
 「川越いも」がブランド品に
 栽培法を確立した赤沢仁兵衛
第5章 ヤマと子どもたち
第6章 ヤマのいま・むかし
第7章 これからのヤマ
第8章 ヤマをなくさないために
終章 武蔵野を未来に残すために
【参考文献】
・犬井正 『みよしのほたる文庫2 人と緑の文化誌』 三芳町教育委員会 1992年
・市川武夫監修/犬井正著 『ふるさとのくらし 日本のまちとむら5 都市近郊のむら』 小峰書店 1999年
・松山史郎・小川宏 『土にそだてられる虫たち』 大日本図書 1993年
・武田英之編/仁科幸子絵 『そだて あそぼう 3 サツマイモの絵本』 農山漁村文化協会 1997年
・全国雑木林会議編 『現代雑木林事典』 百水社 2001年
・塚本明美・岩田進午 『落ち葉はどこへ消えた?』 大日本図書 1996年
・岩田進午・松崎敏英 『生ごみ 堆肥 リサイクル』 家の光協会 2001年
・小泉功監修 『川越の歴史』 郷土出版社 2001年
・『三富新田の開拓』(見学者用パンフレット) 三芳町教育委員会 1998年
・『旧島田家住宅』(見学者用パンフレット) 三芳町教育委員会
『川越のあゆみ』 川越市市制施行七十周年記念誌
・井上浩 「川越いもの盛衰」 『味の味』2000年10月号
・井上浩(文)・山田英次(イラスト) 『吉田弥右衛門物語』 川越いも友の会 2001年

まるごと楽しむ サツマイモ百科」 武田英之 農文協 1989年  ★★
第4章 サツマイモの料理と加工
伝統の味と加工
焼きいも

 江戸の焼きいも十三里
 素朴で郷愁を誘う焼きいもはサツマイモの栽培と同時に始まる料理法である。
 江戸時代の『甘藷百珍』という本では第一品、「塩蒸し焼きいも」が紹介されている。イモを土のままちょと水に浸し、塩をぴったり塗りつけて炭火に埋め、蒸し焼きする。さらに、塩釜から掻き出した熱い塩にそのままうずめて焼いたものは風味が最もよいという。
 焼きいも屋が江戸に登場し爆発的人気を得たのは寛政年間(1790年ごろ)で、幕末には「焼芋売る処、何れの町にてもニ、三カ所あらぬ処はなし」(『喜遊笑覧』というほどで、夜は十三里=i焼きいもの別名)と書いたあんどんをかかげ、ほっこり、ほっこり≠ニ呼び売りしたという。江戸の焼きいもの原料が川越の紅赤で新河岸川から舟荷で浅草のイモ問屋に送られた。また、千葉の松戸、柏方面からも運ばれていた。
 「つぼ焼き」「石焼き」が登場したのは関東大震災後とみられる。ピーポーと鳴らしながら街中を流す焼きいも売りの全盛期は昭和四十年代で冬の出稼ぎであった。現在はその数も減り、代わってコンビニエンスストアなどで遠赤外線発生器による焼きいもがふえている。
 
 サツマイモ一口知識
 サツマイモ料理を食べるならやっぱり川越
 江戸時代からのサツマイモの産地、川越には、今でもサツマイモの料理店、菓子店が多い。そのいくつかを紹介しよう。
料理店い も 膳049-243-8243
吉   寅049-222-0102
源 氏 家049-222-0739
え ぷ ろ ん 亭049-226-3370
たなか屋商店(川越そば)049-222-0021
平 本 屋(つぼやき)049-222-1918
菓子店道灌まんじゅう本舗049-222-1576
甘  泉  堂049-222-3916
玉 力 製 菓049-222-1386
くらづくり本舗049-225-0225
亀   屋049-222-2051
グリム洋菓子04298-9-0642
資 料
サツマイモの文化活動団体
名      称活  動  内  容
財団法人 いも類振興会(元藷類会館)
 東京都港区赤坂6−10−41
 TEL 03−588−1040
いも類振興情報(季刊)いもに関する有益な情報を掲載、他にいもに関する出版物あり
川越いも友の会
   (会長ペーリ・ドウウェル氏)
 〒356 川越市砂新田3−4−6
 TEL 049−243−0732
会報「ホクホク」でサツマイモのニュース伝達、祭、シンポジウム、学習会、体験イベントなど活発に活動、会員は多彩、研究会代表は井上浩先生、川越いも入門シリーズとして数冊の本が出ている
鹿児島サツマイモ同好会
  (会長 湯之上忠氏)
 指宿市
会長さんは永年サツマイモの品種育成をやられた専門家、指宿市立図書館に2千点の資料寄贈、サツマイモコーナーを作った。新しい利用法などで提言、活動中

全国のサツマイモ祭り計画   (1988年 川越いも友の会調査)

場  所名     称問 合 せ 先時期電  話
(鹿児島)
鹿 屋 市
からいも王国建国祭&収穫祭鹿屋青年会議所
〒893 鹿屋市北田町11103
4月
9月
0994-42-2245
(鹿児島県)
山 川 町
さつまいもフェスティバル山川町役場商工観光係
〒891-01 山川町新生町84
10月09933-4-1111
鹿児島県(かごしまの味フードプラザ)
さつまいもプラザ
鹿児島県農政課
〒892 鹿児島市山下町14-90
10月0992-26-8111
(東京都)
目 黒 区
甘藷祭昆陽先生遺徳顕彰会事務所
〒152 東京都目黒区下目黒3-20-26
 目黒不動「瀧泉寺」
10月03-712-7549
(東京都)
晴  海
(農林水産祭実りのフェスティバル)
さつまいもプラザ
鹿児島県東京観光物産事務所11月03-545-4777
(千葉県)
栗 源 町
栗源のふるさと祭&いも祭り栗源町役場振興課
〒287-01 香取郡栗源町岩部1417-3
11月0478-75-2111
(埼玉県)
川 越 市
川越いも祭&福原農協祭川越市農協福原支店
〒356 川越市今福2648-1
11月0492-43-4224

いも類文化学ノートbR 焼き芋小百科」焼き芋文化チーム編 川越いも友の会 2005年 ★★
 巻頭言 はじめての「焼き芋」全般の解説書
 歴史T 江戸・東京の焼き芋屋の移り変わり
 歴史U 東京の甘藷問屋と焼き芋屋〜川小商店のあゆみより〜
 調理T 家庭での簡単焼き芋法
 科学T サツマイモの栄養機能成分と焼き芋の美味しい焼き方理論
 科学U 焼き芋の香り
 リポート 現代の焼き芋工場
 品種 焼き芋用の品種と最近の品種開発動向
 調理U いも膳の塩蒸し焼き芋
 海外事情T アメリカのサツマイモ〜大不況でもなぜか代用食にはならなかった〜
 トピックス サツマイモとヨーグルト
 海外事情U 中国の大都市の焼き芋屋
 産地T 日本一の焼き芋広場〜栗源町のいも祭〜
 産地U 日本一のいも掘り広場〜千葉県大栄町〜
 イモ起こし マート吉名の焼き芋〜広島県竹原市〜
 焼き芋事業 沖縄の冷めてもうまい焼き芋
 調理V 残ったときの焼き芋再利用レシピ
 まとめ 「焼き芋」早わかり解説
  IMcolumn 女性と焼き芋好きの謎
  IMcolumn 少なくなったサツマイモ畑
  ◆わが国の焼き芋関係年表
  ◆川越いも友の会紹介

「郷土料理案内」 多田鉄之助 現代教養文庫 1970年 ★★
V 郷土料理案内/関東/埼玉県
 さつまいも料理
川越といえばサツマイモの別名になるくらい有名なサツマイモの産地である。武蔵野焼は大きなサツマイモの上下を切り、皮に傷をつけないように上から中身をえぐり出し、その中に栗、銀杏、百合根、松茸などを薄い下味をつけて詰め、出汁にミソ、ショウ油で味をつけ、その中に、玉子と当りゴマを加えた汁を入れ、天火で焼く。

「料理百珍集」 何必醇・器土堂他 原田信男校註・解題 八坂書房生活の古典双書23 1980年
第三部 諸百珍
 甘藷百珍        浪速 珍古楼主人 輯

  奇 品
1 かまぼこいも
2 玳瑁環(ちくは)いも
3 紫苔巻(のりまき)いも
4 昆布巻いも
5 板屋氷霰(いたやのあられ)いも
6 御手洗(みたらし)いも
7 茶巾いも
8 苞苴(つと)いも
9 結(むすび)いも
10 友巻(ともまき)いも
11 巻鮓(まきずし)いも
12 切鮓(きりずし)いも
13 腐衣巻(ゆばまき)いも
14 鶯粟纏(けしふり)いも
15 まくりいも
16 射込いも
17 鶏卵(たまご)わりいも
18 色付いも
19 海鰌(くじら)いも
20 辛(かせ)いたいも
21 最中月(もなかのつき)いも
22 未曾漬(みそつけ)いも
23 醢掛(もろみかけ)いも
24 水玉いも
25 錦いも
26 鳥肉賽(とりもどき)いも
27 小鳥賽(もどき)いも
28 取合(とりあわせ)いも
29 煮鶏卵(にぬき)いも
30 衣(ころも)かけいも
31 藷衣(いもころも)
32 新衣かけいも
33 シユブンいも
34 饅頭いも
35 水引いも
36 菜花(なたね)いも
37 煮鶏卵様(にぬきないり)いも
38 小倉埜(おくらの)いも
39 藕根射込(はすいこみ)いも
40 いももち
41 鶉烙(うづらやき)いも
42 牛蒡射込いも
43 氷注(つらら)いも
44 和布巻(めまき)いも
45 松露(しょうろ)いも
46 蕈(しめじ)いも
47 紅かまぼこいも
48 五色いも
49 おまん鮓いも
50 いも水繊(すいせん)
51 蜜柑餅子(みかんべし)いも
52 葭原(よしはら)いも
53 河漏子(そばきり)いも
54 いも饂飩
55 いも素麺
56 いもあへ
57 まるめいも
58 紅藍(べに)きんとんいも
59 蛤いも
60 いも酎(さけ)
61 白雪(はくせつ)こういも
62 寒製(かんせい)いも巻
63 三種取合(みしなとりあわせ)いも

  尋常品
64 蒸いも
65 醢漬(もろみづけ)いも
66 藷精(いものじん)
67 飛龍頭(ひりやうず)いも
68 ソボロいも
69 煎餅いも
70 栗様(くりなり)いも
71 花形いも
72 白髪(しらが)いも
73 いも飯
74 いも茶粥(かゆ)
75 焼いも
76 落葉いも
77 糟漬(かすづけ)いも
78 塩漬いも
79 凍いも
80 いも雑炊
81 初霜いも
82 片(へぎ)いも
83 いも冷物(ひやしもの)
84 藷三杯浸(いもさんばいづけ)
  妙 品
85 水前寺巻いも
86 巻氈(けんちん)いも
87 加須底羅(かすてら)いも
88 片食(べいしん)
89 音羽(おとは)いも
90 ズズヘイいも
91 笋子(たけのこ)いも
92 鵆未曾(ちどりみそ)いも
93 醢(ひしほ)いも
94 あげだしいも
95 新制あげだしいも
96 砂糖いも
97 新制田楽いも
98 洗いも
99 打込いも
100 薯蕷汁(やまのいもしる)いも
101 黎明(あけぼの)いも
102 いも柚餅子(ゆひし)
103 雪花菜(きらず)いも
104 巻雪花菜(まききらず)いも
105 藷丸裏(いもまるつつみ)あげ
106 藷まき松露
107 水取いも
108 藷菽乳(いもとうふ)
109 羊羹いも
110 白羊羹いも
111 パスいも
112 月日(つきひ)いも

  絶 品
113 でんがくいも
114 ハンペンいも
115 南禅寺仕立いも
116 樺焼いも
117 ふはふはいも
118 狸斟羹(たぬきじる)いも
119 いもとじ
120 いも麻豆腐(ごまとうふ)
121 藷仕立核桃豆腐(いもじたてくるみとうふ)
122 塩焼いも
123 塩蒸やきいも

「日本の方言地図」 徳川宗賢編 中公新書533 1979年
2 物とことば ……………………沢木幹栄
 さつまいも(甘藷) ――地名と分布――
 さつまいも(甘藷)の地図は、かぼちゃ(南瓜)のそれと同じく、西日本が複雑で錯綜し、東日本が単純な分布を示している。この二つの作物の伝播の仕方が似ていることを示すものだろう。
 甘藷は南瓜に遅れること数十年、17世紀初めに九州に伝来した。南瓜と同じくアメリカ大陸原産で、コロンブスの新大陸発見当時、原住民によって広く栽培されていた。しかし、すでにそれ以前から南太平洋の島々で栽培されていたというから、もっと早くわが国に伝わっていてもよいはずであるが、そのような記録はない。
 コロンブスによりスペインにもたらされた甘藷は、やがてフィリピン、中国を経て1605年に琉球に伝えられた。そして、1609年の薩摩の琉球入り以降に琉球から薩摩にもたらされたらしい。また、イギリスの商館長コックスは、1615年6月4日の日誌に自分がこの芋を琉球から長崎に持ち込み、平戸で栽培したことを記している。
 一方、『大和本草』(1709―15)では「蕃薯」とともに「甘藷」をとりあげ、「蕃薯と同じ類だが別のもので、元禄の末(元禄は1704年まで)琉球から薩摩に渡った」としている。蕃薯の伝来時期にはふれていない。
 このように、九州には記録に残っていないものもふくめて、何波にもわたって甘藷がもたらされた模様である。それも単一の品種だけではなかった。
 ともあれ、九州を中継地として甘藷は普及していった。17世紀末には中国・四国地方西部にかなり普及していたという。この甘藷が東日本に普及するのは、享保の飢饉の後、青木昆陽が幕府の命をうけて各地にひろめた(1735年以降)ことによる。
 ここで目を地図に転じると、カライモ、トーイモ、リューキューイモ、サツマイモという地名にちなむ名が、これらの地域の実際の地理的配置と同じような関係で位置をずらしながら並んでいるのが目につく。甘藷が新しく伝えられた地域で、その仕入れ先の地名をとって〜イモと呼ぶ、というようなことが順送りに行われてこのような分布ができたのならおもしろい。
 カライモは「唐芋」であって、中国大陸から伝来したということで名づけられたとも考えられるが、しかし、この場合のカラは単に「海外の地」を意味するものかもしれない。トーイモも「唐芋」であろう。この語形は奄美では古いのかもしれない。また、奄美大島には地図でトーイモなどに含めたトンという語形がある。これはトーイモあるいはトーウムから変化したと考えられる。ウムは本土のイモにあたることばである。ウムを含めたイモ類の分布については「イモの意味」の項も参照されたい。ハンシン・ハヌスは「甘藷」の字音によるものか。
 リューキューイモは、先にふれたイギリス商館長コックスの日誌に現われている語形である。コックスが九州での最初の栽培を行った人だとすると、一体どこでこの語形を仕入れてきたのだろうか。彼が琉球で種芋を仕入れた時点では、それがリューキューイモと呼ばれていたとは考えにくい。広島や九州北西部にはジューキューイモの形がみられるが、これは里芋を意味するズイキイモとの接触による変化だとする説がある。「リュ」という音節が日本語では出現頻度が少なく、発音が困難なので、リューキュウーイモ→ジューキューイモの変化は不自然ではない。
 上方では文化・文政の頃(1804―30)までリューキューイモが使われていた(『上方語辞典』)といわれる。中国地方・四国・能登半島のリューキューイモ類は上方から伝播したものの残存であろうか。その一部は、九州からの直接の伝播とも考えられる。
 上方のリューキューイモは関東からひろがったサツマイモに駆逐された。したがって、上方ではリューキューイモ→サツマイモの変化があったことになる。サツマはサツマイモを略した形だが、サツマイモの領域の内側に分布することから、サツマイモよりも新しいと考えられる。
 リューキューイモという語形がコックスの日誌にみられるのと同様に、昆陽が幕府にさし出した上申書の題には「薩摩いも作り様、功能之儀上書」とある。そうすると、サツマイモという語形の発明者は昆陽であり、リューキューイモの命名者はコックスであるということになるのだろうか。ともかく、昆陽以前には関東に甘藷はなかったと考えていいのである。
 ツルイモは甘藷の性質から生まれた命名であろう。対馬のコーコモは「孝行息子がこのイモを見つけたので孝行芋の名あり」という伝説があるという。石垣島のアッコンは『採訪南島語彙稿』によれば「赤芋の義」である。

 小江戸探検隊 第14回サツマイモ資料館


 ▲目次  サイトマップ  トップページ  →   さつまいも(1)  さつまいも(3)  名産    グルメ


作成:川越原人  更新:2014/1/28