川越のエッセイ・自伝(2)


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私、まんが家になっちゃた!?昭和も遠く川越子供の四季黄色い鶏ひとに優しい埼玉と私乗る旅・読む旅

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「私、まんが家になっちゃた!?」 花村えい子 マガジンハウス 2009年 ★★
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第一章 川越に生まれ、育って
川越の思い出/祖母の思い出/母の家出/世間知らずでモダンな母の一面/祖母が母親代わり/私の子ども時代/女学生時代/祖母との別れ/義父・光二郎/母の戦後/弟たち、妹たち/実の父のこと
第二章 踊って、恋して、演じた青春
中原淳一に憧れて/女子美時代/演劇との出合い/演じて、恋して/恋多き少女?/頼もしき友・リュウちゃん/猛反対に遇って/貧乏時代/許されて結婚
第三章 貸本漫画と出会う
「描きなはれ!」/初めての原稿料/楳図かずおさんは宇宙人/初期の漫画家たち
第四章 少女漫画で大忙し
「漫画を描きなさい」/好きだった「なかよしブック」の仕事/『霧のなかの少女』という作品/憧れの霧の町へ/キャラクターの設定/原画はファンの手元に/「断るなんてもったいない!」/「専属になりませんか?」/専属アシスタント第一号/頼もしい助っ人、川崎さん/仕事場が変わってから/悔いが残るのは/小池一夫さんの原作との闘い/『花影の女』/締め切りとの闘い/職業病
第五章 レディースコミックの世界へ
レディースコミックの夜明け/レディースコミックという世界/ミステリーへの執着/絵画的な連城作品/ミステリーコミックの広がり/原作と漫画の関係/取材の必要性/優しい内田康夫先生/働く女性がヒロイン/能が好き/着物の美/これから描きたいもの
 
「花村えい子画業50周年」にあたって思うこと  花村ひろ子
花村えい子作品リスト

川越の思い出
 私が生まれ育ったのは、埼玉県川越市です。
 「小江戸」とも呼ばれる、今も江戸情緒の残る古い城下町です。
 川越藩は天領だったため、藩主には代々、江戸幕府の大老や老中を迎えていました。地理的にも江戸に近く、新河岸川の船便の発達もあったおかげで、江戸の文化が即日伝わり、豊かな繁栄を見たようです。
 今では町名がすっかり変わってしまいましたが、子どもの頃は、「江戸町」「志義町」「鍛冶町」「南町」「大工町」「同心町」など、時代劇に出てくるような名前の町名がたくさんありました。私の実家はその中の「連雀町」というところにあって、昔からにぎやかな界隈でした。

 川越には、今も城下町特有の狭い道がたくさんあります。行き止まりの袋小路が多かったのですが、それは、敵の襲撃から守るためだったそうです。かつての川越城があった「札の辻」あたりからは、旧御城下の重い瓦の家並が続きます。
 私の家の前の旧道は昔からの街道で、舗装されてはいましたが、少し狭めです。
 通りの向かいのお家は自家製の飴を売る飴屋さんで、店先に四角いガラスケースがいくつも並び、その中には、飴の他にも、チョコレートやビスケット、ヌガーなどがいろいろ入っていました。その右隣には、金物屋さん、綿屋さん、油屋さん、瀬戸物屋さん、炭屋さん……と続き、ときおり、豆腐売り、金魚売り、煮豆売りの声や、風鈴売りの風鈴の音が聞こえてくるのどかな時代でした。
 横町の角には、鋳掛け屋(鍋や釜に開いた穴をふさぐ商売)や羅宇屋(煙草を吸う煙管をすげかえたり、中にたまった脂を掃除したりする商売)のおじさんが座って、客が持ってくる品物をせっせと直していました。

 実家は、代々「相模屋庄兵衛」を名乗る名主で、質屋といいますか、いわゆる金融業と旅館業の両方をやっていました。七代目庄兵衛が元禄の頃の人と聞いています。
 私の家は、旧道から、裏の新道まで続いていました。
 旧道側は黒い塀で囲まれ、色あせた古い木の門が入り口でした。門を入って最初に目につくのが、一メートルくらいの高さで横に掛けられた太い丸太です。子どもの頃は何だかわからなかったのですが、あれはどうやら、馬をつないだり、人力車を寄せて置くための支えだったようです。
 敷石の続く先には玄関があり、古びた木の枠に和紙の門灯が下がっていて、「御旅籠」と墨書されていました。夕方になると、そこにろうそくの火が灯ります。私もときどきろうそくに火をつける手伝いをしたものです。ところが、玄関を入ってすぐの天井には、白い曇りガラスの大きな電燈が下がっていて、まるで玄関の内と外で、江戸と大正がコラボレーションしていたようなものです。

 玄関は敷居が高く、二段になった上がりがまちの向こうには黒光りする廊下(太い柱や梁は本当に黒く光っていました)や板の間が広がり、その間に二畳ほどが畳敷きなって、黒い格子に分厚い和綴じの帳面を掛けた帳場になっていました。その帳場の中で、祖母はいつも筆で帳簿をつけたり、大きな算盤をパチパチさせていたものです。さらに、帳場の後ろの障子の奥は居間になっていて、長火鉢にかけられた銅壺にはいつもシュンシュンとお湯が沸いていました。
 玄関脇の天井近くの壁には、家紋の入った黒い四角い箱が横にずらっと掛かっていて、箱の中には折り畳んだ家紋入りの提灯が入っていました。夜、外を歩くときに足元を照らすためのものだったのでしょう。
 玄関右の一段高くなった部屋には大きな古時計があって、ボウンボウンと時を報せます。ここには炭火を入れる掘り炬燵があって、私はよくこの中にもぐり込んで本を読んでいました。
 置炬燵のある玄関左の部屋の奥には電話室があり、壁に掛けた黒い電話機がガラスのドアの中に収まっていました。
 ほの暗い廊下の横の細い棚には、四角いタバコ盆がたくさん並んでいました。中には竹筒と灰の入った小さな瀬戸物の火桶、ミニ火鉢が入っていて、来客があると炭火の火種を入れて運ぶのです。客間にはちゃんと陶器の灰皿も火鉢も置いてありましたが、昔からの習慣のままだったのでしょうか。
 祖母が愛用していたアイロンも炭を入れて温めるものでした。もちろんすでに電気が通っていた時代ですから、母は電気アイロンを使っていました。昔の人はものを大切にしたのでしょう。古いものも使用していました。
 二階の客間には行灯もあって、木枠の一部を上げると油の入った小皿に灯心(火を灯す細いこより)が浸してあり、夕方になるとマッチで火を灯しました。私も面白くてよく手伝ったものです。

 朝はお客様に、御茶と少し砂糖を載せた梅干しを三粒、運ぶのが習わしでした。ご飯を炊くのは、土間にしつらえた土竈で、大釜が三つ載るほどの大きさです。女中さんが火吹き竹でフウフウ吹いて火を強くしていました。醤油をたらしたお焦げのおにぎりがとても美味しかったのを覚えています。
 祖母は毎朝、台所の荒神様や神棚や庭の稲荷の祠など、あちこち七カ所に水や炊き立てのご飯をお供えしてお参りしていました。これは名主に定められたお勤めなのだそうです。

 裏の新道に通じる門まで南側は全面が庭になっていましたが、一角に大きな藤棚があり、初夏には真っ白な花房が咲きこぼれていました。藤といえば紫色が一般的ですが、私の中では藤の花は白藤なのです。この時期、学校から帰ると、蜜を求めて集まった熊ん蜂がブンブン飛び交う藤棚の下を、ランドセルを背負って息を詰めて駆け抜けたものです。
 新道(中央通りとも呼ばれていた)に面した門は、新しくて大きな冠木門でしたが、普段は閉じられていて、出入には脇の潜り戸を利用していました。昔は新道の向こうまで我が家の土地が続いていたのですが、その道路を造るために一部を市に接収されてしまったため、新道の向こう側の飛び地は他人に貸していました。
 学校や駅に行くときは、近いほうのこちらの新道に面した門から出入りしていました。門から家までは砂利が敷き詰められ、左側には草花の小菊、右側には沈丁花や柘植、槇、桜、水蜜桃など大きな木が並び、中央には芍薬や都忘れ、山吹、水仙、フリージア、その奥には柘榴、ゆすら梅、百日紅等々、たくさんの草花や木が植えられていました。よく庭にござを敷いてままごと遊びをしましたが、その料理の食材として花々を大いに利用したものです。

 川越は蔵造りの街としても知られています。明治の中頃に「川越大火」があって、以来、蔵を造る家が増えたそうです。居住することもできるいわゆる座敷蔵です。
 我が家にも蔵がありました。東南に「米蔵」、中ほどに「お文庫蔵」、北西にはすでに道として接収されてしまった「味噌蔵」があり、それらが、風水で定められた位置に、母屋を囲むようにして建っていました。
 「お文庫蔵」はいわゆるお座敷蔵で、母屋の廊下から続いていました。重い土壁の扉はいつも開けてありましたが、太い木の格子に金網を張った戸が閉めてあり、大きな鍵がついていました。その鍵には、穴の空いたたくさんの寛永通寶に紐を通したものがつなげてあって、じゃらじゃらと重かったことを覚えています。
 子どもにとって「蔵」は何か秘密めいた空間で、つねに誘惑に満ちていましたから、好奇心にかられた私のよい遊び場でした。親に隠れてろうそくのついた金網の提灯を持って、よく入ったものです。古い蔵なので、電気はついていないのです。
 二階には大きな長持があり、それぞれに着物や漆器類が入っていて、どんなに見ていても飽きません。お雛さまと一緒に収められた「貝合わせ」を取り出してよく遊んでいました。「投扇」の一式は、今も残っています。
 母の古い本や雑誌もあって、明かり取りの窓の下で時間がたつのも忘れて読みふけり、私の姿が見えないと家中で大騒ぎになったこともあります。この頃に読んだゲアハルト・ハウプトマンの『寂しき人々』という本に、ものすごく感銘を受けた記憶があります。内容はすっかり忘れてしまいましたが、もし今、手に入るならもう一度読み返してみたいものです。

 私が子どもの頃、いつも「一蝶さん、一蝶さん」と呼んでいた、数枚のお気に入りの絵がありました。「英一蝶」との署名はあるものの落款はないので、練習画かあるいは偽物かもしてませんが……。「高崇谷」という画家の墨絵の練習画があって、画風はまったく違いますが、後に調べたところ一蝶の孫弟子だとわかりました。一蝶さんの優しい絵に対して、崇谷のそれは荒々しくて力強い絵でした。糊がはがれてバラバラになった絵が残っています。
 鏝絵師の「伊豆長八」という人がしばらく逗留していたという話も聞きました。「伊豆長八」とは、伊豆・松崎出身の左官の名工で、漆喰細工を得意とした入江長八のことです。当時使っていた茶碗や箸が実家に残っていた、と郷土史家に聞いたこともあります。「どこかに寄贈したはずだ」とも。ひょっとしたら「伊豆の長八美術館」に所蔵されているかもしれません。長八の他にも、絵描きや文人がしばらく逗留することはよくあったようです。

 何代目かの「相模屋庄兵衛」はなかなかの趣味人で、俳句の会などをよくやっていたらしく、もうぼろぼろですが、和歌や俳句を書いた扇がたくさん残っています。
 家紋入りの長裃、陣笠、刺繍の胸当て(時代劇で捕り物のときに奉行が身に着けているものです)などもありました。陣笠に描かれた家紋は織田信長と同じ「木瓜紋」でした。我が家は商家でありながら名字帯刀を許されていたといいますが、それはどういう意味を持っているのか、調べてみたいものです。そう思うと、川越藩についての興味がいろいろ湧いてきますね。

 ――とっぷりと、時代物の香りの中に浸かっていた子供時代です。

「昭和も遠く 幼年時代」 石山薫 講談社出版サービスセンター 1988年  ★★★
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オイナリマツコ/蔵の中/飴/おしんこ/さつまだんご/いもでん/太神楽/天王さま/中等野球/小旅行/軽井沢/井戸/蚊帳/風船虫/お盆/雨降り/あたみ・はこね/トロッコ/祭り/ながし羊羹/鯛焼き/馬方/日本画/演習/町にいた乞食/そばがき/煮豆/やきいも/カルメ/烏天狗/火事/サーカス見世物/犬の話/凧上げ/火鉢/暮の商家/藪入り/寒行/自転車/お使い/縁日/べっこう飴/手伝い/湯殿/かどの店/メンチ/ベイゴマ/熱中したもの/病気/薬/オオサキ/狐憑き/ひとだま/霊媒/東京/オートバイ/風呂敷/紺屋/田圃/農家の人/洋菓子/写真機/蓄音機/一年生/学芸会/南校/弁当箱/活動写真/母の言葉/あとがき

中等野球
 戦前、といっても太平洋戦争が始まる前の中等野球熱は大変なものであった。当時、川越中学は埼玉県大会で、常に優勝を争っていた。この通称川中(かわちゅう)に対する市民の声援は、今日からは想像できない程である。
 七月に入ると、毎夕、多くの市民(数百名はいたと思う)は、夫々、団扇をもって蓮馨寺の境内に集まった。鐘楼の壇上からK応援団長の檄。次いで、床屋のケンちゃんによる三三七拍子の猛練習が延々と続く。最後に、K時計店のおやじさんが壇上にあがり、声涙くだる演説をした。彼は激してくると、諸膚(もろはだ)をぬぎ、胸をポンポンとたたいた。そして、『明日は全員大宮球場へ!』と叫んでしめくくった。群衆の『ウォー!』というどよめきが、境内にこだました。
       *
 その頃、川越から大宮に行く唯一の交通手段は、マッチ箱のようなチンチン電車であった。荒川にかかった木橋を渡る時、ガタガタいったので、町の人はガタ電と呼んでいた。橋の上ではレールが沈み、いまにも転落しそうであった。それでも、川越からの出場校が残っているうちは、連日満員であった。
 わが家の番頭Mさんは、何よりも野球が好きで、予選が始まると落ち着かなかった。夏は暇になる商売でもあったから、母は時折、『子供を乗せて大宮に行ってきたら』といった。
 リヤカーに茣蓙を敷き、その上に座布団。Mさんは私たち兄弟を乗せて、自転車のペダルを踏んだ。炎天の中、でこぼこ道を二里半。
 スタンドは太陽が照りつけて暑かった。対熊谷戦の時は、相手の応援席に向かって、『ゴカボー!』とやじる。すると『サツマイモー!』と返ってくる。浦和中学に磯貝という好投手がいた。『イソガイ来い! 誰でも来い!』と揃って蛮声をはりあげた。
 勝って帰る時は、家につくのが早かった。負けた帰りのリヤカーは、どんなに重かったことだろう。その上、途中で烈しい雷雨にあったこともある。
       *
 県大会で川越中学が優勝した。この夜の蓮馨寺境内は、興奮の坩堝(るつぼ)と化した。車で凱旋した選手が、優勝旗をもって壇上にあがる。一人一人の選手紹介。拍手の波! やがて、三三七拍子。K時計店は目に涙。彼は絶叫した。
 『いざ、北関東大会へ!』『ウォーッ』という市民の大喚声。町中が歓喜に沸騰しているようだ。
 しかし、北関東の壁は厚かった。大概、桐生中学や高崎商業の強豪に惜敗し、甲子園への道は遠かったのである。
       *
 ある年、T実業に負けて、優勝をのがしたことがある。朝日新聞販売店の速報板で知り、皆、がっかりして解散した。
 夕方、いつものとおり、近所の店員たちは、通りに出て水を撒(ま)いていた。
 たまたま、そこへT実業のチームを乗せた自動車が、北の辻を曲がって現れた。窓から優勝旗を出している。わざと速度をおとした車からは、『勝っちゃったい!』『勝っちゃったい!』というかけ声。店員たちは、それっとばかり先頭車に、ザアーっと柄杓(ひしゃく)で水。敵はスピードをあげて一目散。思わず、『万歳!』『万歳!』の大合唱!
お 盆
 月遅れのお盆が近づいてくると、仏具のお磨きの手伝いをした。庭に縁台を出して、茣蓙を志木、磨き砂をつかってピカピカにする。
 八月十三日に仏さまを迎える。午前中に仏壇の飾りを済ませる。左右に竹を立て、横にほおずきを吊るす。小机の上には西瓜、うり、枝豆、新ざつまなど供えられる。早めに風呂に入り、浴衣を着て寺に行く。お迎えは早く、お送りはゆっくりと言われていた。通りに出ると、提灯をつけた人たちとすれちがう。
 墓前に水と線香をあげて拝む。『お迎えに参りました』と言いながらロウソクに火をつけ、提灯の中に立てる。この時、『あっ、重くなった』と言うのが父の口癖であった。灯が消えないように、白いハンケチをかける。途中で消えた時は、再び寺に戻らねばならないことになっていた。
 家に着くと、待っていた母は、『よくいらっしゃいました』と言いながら、提灯のロウソクをとって仏壇にたてる。家中の者が次々に線香をあげる。お茶、御飯、とうなす、香のものを供える。
 お盆の三日間は、子供たちも神妙にした。年に一度お迎えした仏さまの前で、叱られてはならないからである。
 翌十四日は一同早起き、庭に縁台を出しておはぎがつくられる。重箱を持って分家に行く。仏さまには、おはぎ、味噌汁、香のものを二膳ずつ供える。黍がらの箸をつけて。お昼はうどん、すまし汁、香のもの。夜は不定。
 午前中に、寺の方丈さんが棚経に見える。家族全員、方丈さんの後(うしろ)に座って、神妙に合掌。
 この二日目と三日目には、親戚と懇意にしている家に線香をあげに行く。先方からも、菓子折やカルピスなどを持ってくる。絽の着物に扇子。麦茶など飲んで引きあげる。
 明けて十五日は、もうお送りする日である。早朝から、ゆでまんじゅうをつくる。母は、仏さまに供える小ぶりのものを上手にこしらえた。この日の昼は、うどにすまし汁。夜は御飯に普通のおかず。午後になると、仏さまが乗って帰る馬を茄子でつくった。黍がらの足、しっぽはとうもろこしの毛をさしこむ。
 夕闇が迫って、提灯を持った人々が行きかう頃、家族は順々に線香をあげる。『おそまつさまでした。また来年もどうぞ』と言いながら、母は仏壇のロウソクを提灯に移す。
 通りに出ると、いくつもの提灯の灯がゆれて幻想的であった。寺に着き、墓石の前にロウソクを出して立てる。線香と水をあげ、拝んで帰る。
 三日の間仏壇を飾った竹、ほおずき、それになすでつくった馬などは、菰(こも)に巻いて持っている。大勢の人が赤間川に向かう。花火が次々とあがり、その度に喚声。橋の上から菰をなげる。川面には色とりどりの燈籠が美しい。
 こうして、楽しかったお盆も過ぎていった。
やきいも
 当時、私たちの町には、壺焼きの店はあったが、石焼きいもはなかったように思う。
 焼きいも屋は鐘つき堂の下にあった。広い土間に大きな竈(かまど)があって、薪がピシピシ燃えていた。黒い漆喰で塗り固められた竈は五右衛門風呂のようにどっしりしていた。そして、軍艦の中にあるようなトタン製の四角い煙突。
 三時近く、五十銭銀貨をもってお使いに行くと、おばさんは『ヤッコラショ!』と言いながら、重い木の蓋をあける。白い湯気と焼きいもの匂い。鉄板の上には、分厚く輪切りにされた何十というさつまいもが焦げている。黒い胡麻塩も、うまそうにこびりついて――。
 おばさんは、串でとりあげながら『ヒー・フー・ミー……』と新聞紙の袋に入れていく。あの、温かい、ずっしりとした重み。湯気でしっとりした新聞紙。
       *
 冬の寒い朝は、俵を大量に燃して焚火をしたものだ。一しきり燃すと、藁灰の山ができる。さつまいもを周りから投げ入れる。突きさすといった感じで――。股あぶりをする者もあって、話に花が咲く。こうして焼くと、待つ時間に比例して何ともうまい。『アチチー』という声があちこちであがる。割ったところから、黄色い粉が雪のようにサラサラと落ちた。
火 事
 昔も、火事は四季を通じてあった筈だが、私の記憶にある火事は、大概、冬、それも北風の強い夜である。
 火の見櫓の半鐘が、「ジャン・ジャン・ジャン――」と鳴ると、火事は近い。消防車のサイレンも、遠くから聞こえてくる。
 ある寒い晩、近くが火事だといって起こされた。裏の畑に出てみると、一面真っ赤、顔が火照(ほて)る。火の粉がすごい勢いで舞い上がっている。燃えているのは、大工町の紙問屋・Y。寒さ半分、怖さ半分で、歯がカチカチ鳴り出したことをおぼえている。
 当時、市役所のわきの消防署を中心に、町のところどころには分団があって、鉄骨で組まれた火の見櫓が立っていた。そして、北風の強い日など、署員が一人、ゆっくり回りながら展望していた。その規則的に移動する姿は、あたかも、小さな玩具の兵隊のように見えた。
 人口五万の市は、高い鉄製の展望台、頼もしい消防自動車をもっていたが、近在の村では、木製梯子の火の見櫓、消防車は手押しポンプをのせた荷車であった。四角い水槽の上には長い柄が斜めについていた。
 市内の火事でも、近在の手押しポンプは、十分、二十分と送れて駆けつけてきた。一里、二里と遠い村から、村名を染めぬいた印半纏を着て、彼等は七、八人のかたまりになって『エッサ、エッサ!』と駆けてきた。
 ある時は、すでに鎮火、町の消防車が「チーン、チーン」と安堵(あんど)の鐘を鳴らしながら、引きあげる頃になって、やっと到着した。汗だくになって、現場に急行していくその姿を見ていると、何かジーンと、涙がこみあげてきたものだ。そこには、人間の親切、誠意がかたまりになって走っていたのである。
サーカス
 年の暮になって、今年も町にサーカスがやってきた。すでに蓮馨寺の境内には、大量の丸太、シート、荒縄が山積みされ、動物たちも来ている。
 小屋ができあがる頃、顔見世の一隊がやってくる。クラリネットの響き。「木下大サーカス団」と染めぬいた高い旗を先頭に。象もゆっくり歩いてきた。その背中に、赤いチャンチャンコを着た猿が、すまして乗っている。ピエロのおじさんが、ビラをくばる。子供たちはゾロゾロとジンタのあとについて歩く。
       *
 サーカス小屋の中では、もう、空中ブランコが始まっているようだ。時折、幕が僅かに上がる。一斉に、つま先だって中をのぞきこむ。あっというまに幕が下りてくる。失望のためいき。近くの屋台からは、だんごを焼く匂い。
 楽隊の前には、サーカスの少女が、五、六人。上衣をはおって、椅子にかけている。ショート・パンツが寒そうだ。ピンクの帽子の子は去年もいたっけ。
 猿を目がけて、山吹鉄砲でピチン、と撃つ。怖い呼び込みのおじさんに叱られる。家に走って帰る。
 『ナガスナミダーガー、オシバイナラバー』拡声器から流れる歌が木枯しにのって、時に大きく、時に小さく聞えてくる。一時間も経たないのに、また蓮馨寺に走って行く。
見世物
 私が子供の頃には、暮から正月にかけて、見世物の小屋ができた。蓮馨寺境内の南側、サーカスの大天幕と向かいあって。
 大概、「ろくろっ首」、「鶏を生きたまま食べる娘」というような気味のわるいものであった。『親の因果が子に報い――』呼び込みのダミ声が哀れをさそっていた。
 たまには陽気なものも来た。一つは「空中オートバイ」。大きな樽の中を遠心力でぐるぐる回る。轟音が迫力満点。もう一つは「人形芝居」。これは人形のチャンバラで、切られた首がポンポンと天井高く飛ぶ。子供に人気があった。
 しかし子供心に最も強い印象を与えたのは、何といっても「地獄・極楽」であった。地獄については、幼い頃から母に聞いていたし、閻魔堂(えんまどう)の怖い絵も見たことがある。
 薄暗い小屋の中に入ると、そこには地獄があった。骨と皮の裸の人たちが、針の山に追い上げられている。鬼のトゲのついた太い金棒。血の池。釜茹(かまゆで)。股を大きな鋸で丸太のようにひき裂かれている男――。
 だが、そのような即物的・説教的な展示より、私を無明(むみょう)の世界に誘いこんだものがある。小屋の入口と出口に座っていた。僧形のからくり人形。そして、その人形がたたく鉦(かね)の音である。
 入口の、チーン――、間(ま)をおいて出口のやや低いカン。この音は、まさにあの世から聞えてきた。僧は、暗い笹薮を背に、鉦を前にして座っている。無表情な青白い顔。棒を持った右手の袖口からは、遠隔操作で引っぱっている紐が僅かに覗(のぞ)かれた。規則的に間をおいて、直角に曲げた手が、水平に鉦をたたいている。一度たたくと、その反動で二、三度手が震えた。この、チーン――カン、チーン――カンを聞いていると、今にもあの世に連れて行かれそうな気がしてならなかった。
 この鉦の音は、太宰治の「トカトントン」のように、今でも、折りにふれて、私の心の耳に聞えてくる。
凧上げ
 長兄が畳一枚ほどのうなり凧を作ったことがある。大きな鷲の絵の上に、EAGLEと書いてあった。田圃にもって行く時の胸の高鳴りは、今でも思い出すことができる。ゆっくり上がった凧は、重いうなりを響かせた。兄弟三人、時折引きずられながら、ふんばって糸をもっていた。
       *
 その頃、幼児は小さな奴凧、その上は四角、小学校にあがる年齢(とし)になると扇凧をあげたものである。本町(ほんまち)にはMという凧屋があって、おじさんが広い板の間で作っていた。私たちは、時々その店先に立って、飽かず見ていた。八幡太郎義家や那須与一の勇ましい武者絵が出来あがっていく様子を。
       *
 稲の切り株が並んだ冬の田圃では、寒い北風を藁ぼっちにもぐりこんで避けた。温かい感触と藁の匂い。糸を杭に結ぶ。藁の上に寝ころんで、自分の凧を眺める。長い尾をゆったりとなびかせて、静止している。何ともいい気分であった。
       *
 毎年、正月が過ぎると、今成(いまなり)の田圃で大会があった。東京からの参加者は、自動車の屋根に凧を乗せてやってきた。白いテントの本部席の前には、賞品の桐ダンスや米俵が並んでいた。
 また、ある時は母に叱られながら、母屋や炭小屋の天辺(てっぺん)にのぼってあげた。次第に豆つぶのように小さく遠ざかる凧は、私の魂まで空の果てに運んでいくようであった。
縁 日
 毎月、八日が呑龍(どんりゅう)さま、二十七日が不動さまであった。
 父は、夕方になると着物に着替えて、私たちを連れて行ったが、目的は盆栽にあった。
 アセチレン・ガスの匂いの中で、七徳ナイフを売る声、バナナのたたき売り。初冬になると、いつもの赤い三角帽子をかぶったおじさんの姿。七味唐辛子である。浪曲ばりの口上、みかんの皮から始まって、『ご当地、川越の黒胡麻』と言いながら三角の袋に入れる。
 夜店の中で、私が最も興味をもったのは競馬であった。客は前もって夫々の馬に賭ける。おじさんが台の下でハンドルを回すと、角馬は緑のコースの上を滑って進む。遅れたり、追いぬいたり、本物に似たスリル。騎手を乗せた玩具の馬は、ベルトの振動で走っていたのだろう。ゴールにはキャラメルなど。
 正月早々大師さまのだるま市、七月半ば浅間(せんげん)さまのあんころ餅、年の暮になると酉の市(とりのいち)の柚子飴(ゆずあめ)というように、縁日は季節の風に運ばれてきた。
ベイゴマ
 正月が近づくと、鉄の輪のはまった、いわゆる喧嘩ゴマをぶっつけあって遊んだものだ。ガチン! という音と同時にパッと火花が散った。なかには大部分が鉄という重いものもあって、これは幼児には扱いかねた。
 だが、当時の子供たちが夢中になったのは、何といってもベイゴマである。手頃な樽やバケツの上に、茣蓙かシートを置き、霧を吹いて湿らせる。これを床(とこ)と言っていたが、最上は使いふるした薄い茣蓙蒲団であった。そのまん中をへこませ、フル回転のコマを投げ入れる。一触で、火花とともに弾き出されて負けてしまうこともあるが、逆に勝った時の快感は何とも言えない。
 ベイゴマには、普通のかたちのほか、タンク、また桜ガンと呼ばれたもの、鋭いカギの出たもの、重心が低いペチャ、足の尖ったトツケンなど――。私たちはコマを平たくするために、ズックノ底の下にいれてアスファルトの道をこすって歩いたり、竹筒の先にコマを固定して磨きをかけたりした。近所の金具屋、M君の家には器械ヤスリがあるので、皆の羨望の的であった。
 「二ガン真剣」という二人で闘うもの、数名が次々に入れるもの、文字通り真剣そのもの。皆の目はつりあがっていた。先に入った相手のコマが、唸りながらゆっくり回っているその背後に、鋭く抉(えぐ)るように攻撃するのが勝つためのコツ。これをムキをかけると称していた。子供たちの腰は、自然に自分のコマと同じ速度でゆっくり回った。
 コマの回転を早くするためには、紐をきっちり巻かねばならず、夫々、口に銜えて唾でしごいたもので、衛生も何もあったものではない。負け始めると、ポケット一杯のコマは、あっというまに消えてしまう。
 高さ、僅かに七〜八ミリしかないタンク、銀色に光っている平らな面、茣蓙の目に鋭くつき立って、どっしりと他を寄せつけなかった無敵のタンク! 何と頼もしく、魅力的であったことか。
活動写真
 子供の頃、町には三つの活動小屋があった。舞鶴館は、時折、浪曲などの実演もやっていた。私がたまに連れて行ってもらったのは鶴川座である。
 活動小屋に入ると、先ず便所の匂いがしたものだ。そして、コンクリの床を歩くカラコロという下駄の音。階段下には下足番。休憩時間には、窓があけはなたれ、カーテンの透き間から青空が見えかくれしていた。
 下の客席には木製の長椅子、二階はゆるく傾斜した板の間に茣蓙が敷いてあった。何銭か出して、小さな座布団や煙草盆を借りる人もいた。
 始まりのブザーが鳴ると、係の人が暗幕を閉じて歩く。客も手伝う。そのジーッ・ジーッ、という音を耳にすると、いささか緊張したものである。舞台の左右に、弁士とヴァイオリン弾きが登場。客は一斉に拍手。
 砂漠みたいなところを、馬に乗った男が走る。多分、西部劇だったのだろう。時代劇では、トーキーになった「丹下左膳」。男女が輪になって、木曽節を踊っている。そのゆっくりしたシーンが記憶にある。
 二階で見ていると、お尻が茣蓙の上を滑り、少しずつ前進して困った。『おせんにキャラメル』と言いながら、お婆さんが売りに来る。四角い岡持には、落花生やラムネも入っていた。
 スクリーンに「完」という字が出て、大きな拍手。と同時に下駄の音。暗幕をあけるジーッ、ジーッという響き。窓から差しこむ光線のまぶしさ、外気の冷たさが、私たちを夢の世界から引き戻したのである。

「川越 子供の四季 〜先生との大正・昭和〜 國田正雄 1994年 ★★★
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はじめに
第一章 川越の四季
 一、活気のある古い町
 二、子供の毎日
 三、お正月のころ
  母とお正月/七草がゆ/赤いお獅子/豆まき/こままわし/竹馬/凧あげ/お正月終わる
 四、春から夏へ
  お花まつり/天王さま/七夕さま/丸一の大神楽/夏は行水/蚤/虱/肝だめし/お盆さま/高沢の花火/石原の堰外し
 五、秋の川越
  町は虫の世界/足袋/杉鉄砲/川越祭
 六、秋が深まる
  二ツ鳴り/冬の夜/大晦日/かくれんぼ/水雷、艦長/メンチ/悪漢探偵
 七、町の道
  羅宇屋が通る/葬式の行列/牛と馬と人/馬に噛まれた/馬と町/朝の町/富山の薬屋/町角の金ぐつ屋/剣道場と柔道場/町の鍛冶屋/タンスの川越/エンヤラヤノ/錠剤屋も飴屋も/通学路で/新聞くばり/水汲み、薪割り/自転車/便所のはなし/ラジオの話/貰い湯/カラカサ/ナカパッパ/浪の花/十二ヶ月
第二章 南校
 一、七十年前の学校
 二、南校のこと
  母校/四大節/天皇陛下/教育勅語/校長先生/卒業式/白旗赤旗/せきばん/関東大震災
 三、恩師
  小谷野先生/蛻苣謳カ/池上先生/原口先生/坪井先生/投網の先生
 四、思い出
  橘大隊長/遠足/学芸会/運動会/南校の学区で/言いつけるぞ/殉職碑
第三章 高等科
 一、尋常高等
 二、二年間の学校生活
  お堀/テンプラ/悲壮の琵琶/鶏の解剖/家老の松/暖飯器/英語と商業/気力充実/砂利の校庭/明信館/卒業の歌/雨天体操場/六十歳で
第四章 先生になって
 一、子供から先生に
 二、先生になった日
  古谷の学校/古谷少年団/洪水/体力は戦力/勤労動員/第一釦をかけろ/空襲警報発令/臨時託児所/農繁休業/子供をたのむ/不足だらけ/白木の箱/試験のこり勉強/三回の入学試験/高校入試/排球(バレーボール)/篭球)バスケットボール)/蹴球(サッカー)/遠足五題
第五章 生き字引
 一、親のような先生
 二、思い出の人
  箸貸して/朕惟フニ/母のような/無理なおねがい/晦日そば/不思議な経験/肩こりの治療/夜の校庭/身の上ばなし/おせっかい、一/おせっかい、二/おせっかい、三/おせっかい、四/戦争が終わって
第六章 子供と共に
 一、みんな先生
 二、世間は先生
  子供と共に/先生の一言/本は先生/イガグリ頭/今、教えないと/県視学官と私/数学も生徒と/金網の教室/蛤(ハマグリ)/箒もろこし/遅刻/胎教二つ/何時か役に立つ/遺書/自分で考える/袖すりあうも/職業に貴賎なし/干しうどん/着る物/TちゃんとDちゃん/あの子はMちゃん/飾り座布団/國田先生喜寿慶祝
 三、かえりみて
第七章 家庭訪問
 一、経験また経験
 三、訪問勉強
  五月病/牛小舎/訓えられて/夏の訪問/わらぞうり/訪問は平等に/困った訪問/服装/雪の日に/訪問されて/いじめの相談をうけて/孔雀菊で/訪問を頼まれて
終りに

「黄色い鶏」 桑田忠親 旺文社文庫 1982年 ★★
V 恋のくぬぎ林/川越街道
白子(しらこ)から大和田の宿(しゅく)
 東京附近の観光地といえば、箱根か日光と相場がきまって、武蔵嵐山(むさしらんざん)などと呼んでみたとて、長瀞(ながとろ)や秩父方面に車を向ける人は、至って少ない。そういう私も、東京で生まれて、何十年も東京近郊で暮らしてきたくせに、川越や秩父方面に遊びに出かけたことは、戦争前には一、二回しか、記憶に残っていないのである。その私が、埼玉県から東上線という電車で池袋の先まで通勤したり、東上線に沿って、その西側を北に走る川越街道という古風な脇街道情緒に親しんだりする機縁をつかんだのは、戦時中、空襲を避けて、東上線の志木駅から西へ一里ばかりの柳瀬という農村に疎開したためである。
 柳瀬附近は、川越芋の本場所だ。米はともかく、妻子の好きな芋の本場にとびこめば、食糧問題も、なんとかなるだろうと、私は考えた。たしかに、川越芋の金時(きんとき)や大白(たいはく)と、人参と、煮干と、武蔵野の新鮮な空気のおかげで、私も健康になったし、四人の子供たちも、たくましく成長した。
 私たちが疎開したのは、柳瀬川の清流を南に臨む小高い丘の上にある山荘の一角で、その東端が、川越街道ぞいの大和田町になっていた。川越街道というのは板橋宿で中山道と分かれて北上する脇街道であり、上板橋、下練馬の二宿を経、現在の埼玉県に入って、新座郡の白子、膝折(ひざおれ)、大和田という三つの宿と、入間郡の大井の宿を過ぎて、川越に達する街道のことである。だから、大和田町は、そのむかし、川越街道の宿場として、かなり発展していたらしい。現在、池袋駅東口から三十分おきぐらいに出る川越行きの西武バスに乗って、川越街道を北上すると、東京都板橋区の成増までは、道幅も広く舗装も完全なので、東京街道などといっているが、埼玉県の白子に入ると道幅もぐっと狭くなり、道の両がわの風景も、急にひなびてくる。ことに、膝折に至ると、草ぶき屋根の、軒の低い、古びた商店や農家などが入りまじり、旧宿場らしい情景が色濃くなる。膝折の坂をのぼりきると、大和田に入るが、目だって農家がふえてくる。店屋は、すっかりさびれている。むかし、旅籠屋だったとか料亭だったとかいう、大きな構えの家があるけれど、この建物の一部で駄菓子をあきなったり、それが郵便局に変ったりしているのは、明治三十二年に、東上線の前身である東武鉄道が開通して以来、宿の繁栄を鉄道の駅周辺に奪われたためにほかならない。そうして、大和田町の北のはずれで、私の疎開先に近い柳瀬川の橋を渡ると、中野を過ぎて、いよいよ藤久保の松並木にかかる。この辺にくると、街道の両がわには、一軒の人家もなく、いちめんの畠で、畠のはるか先の林の中に農家が点綴する程度である。
 藤久保の松並木に入るあたりの小道を西に曲ると、柳瀬村の南永井に至る。

川越芋の元祖吉田家

美しい巡礼娘の伝説

忘れ去られた川越旧街道
 吉田家の覚書によると、江戸時代、九代将軍家重の治世の寛延元年(1748)ごろの大和田は、かなり繁栄した町だったらしい。その年の十二月十九日、大和田町に大火があって、八十軒の町家が類焼したというから、町家も相当に建てこんでいたに相違ない。これが、今から二百十七年も前のことだ。そうすると、現在の大和田町のさびれかたは、二百十七年たって町が村に変わった観さえある。
 その、さびれた大和田町の中野、柳瀬村の南永井あたりを過ぎて、川越街道をさらに北に進むと、藤久保の松並木にかかる。街道の両がわに松の老樹がそびえ立ち、その根かたには熊笹も生い茂り、昼なおうす暗い。時代劇のロケを撮るには絶好の風趣である。東京から四里あまりで、こんないい場所があるとは、燈台もと暗しというものであろう。車は別として、夕方になると人ひとり通らない。終戦直後はバスがないので、ここを歩いた東京の買い出しが、追いはぎや、ニセ刑事に出会って、被害をうけた話は多い。私は買い出しの帰途、深夜、この七、八町ばかりもある松並木の街道をいのちがけで突破したことがある。藤久保の松並木を過ぎると、大井の宿に入るが、その前にこんどは、二、三町の杉並木がある。
 大井の町もかなりさびれている。大和田町は、街道の道幅拡張されたため、いささか殺風景だが、大井には、同じくさびれていても、ちょうど膝折の宿あとに似た情趣がただよっている。しかも、大井の方が交通が頻繁でないせいもあって、ずっと静かな雰囲気で、往時を偲ぶものがある。軒が低く傾いた雑貨商の店頭に赤いポストが立っている。いつか旧の正月に偶然、川越に行く用事ができて、西武バスでこの町を通過したとき、和服の晴れ着すがたの娘さんたちが、大勢のりこんできて車内が急に満員になったことがある。この辺の娘は、町や村の中学校で義務教育を終えると、川越市内か或いは志木町あたりの高等学校に、自転車と東上線で通学するのを常例としている。バスは時間の関係から利用価値が少ない。男子で、大学に入るのは少ないから、この辺の町や村では女子の方が、比較的教養が高いようだ。青年会でも、女子の発言が活発になりつつあるとのこと。
 大井の町の北のはずれに来ると、街道が、新旧の二つに分かれる。新街道は、やや右折して、東上線に接近しながら、高階(たかしな)村の藤間を経て、一路、川越市の南端に入る。道路は、舗装されていて、しかも幅がひろい。西武バスもその道を通る。ところで、その分岐点からやや左折して、旧街道を進むと、結局は川越市に入って、新街道と合流するが、情緒がまるで違う。大井町の亀久保(かめくぼ)という静寂な小道は、むかしの川越街道の情景を、そのまま保存した観がある。一里塚の跡の高い榎(えのき)、本陣あとの料亭は、一時、織物問屋を営んだものと聞くが、今は、構えだけがむなしく大きい。鎮守の社(やしろ)の森。高い、小さなきざはし。農家の籬(まがき)には、冬は紅椿、夏はむくげの花が純白に咲きにおう。その花のように清らかに生まれ育った乙女たちも、やがては人の妻となり、街道すじに小さな店頭で物を売ったり、雲雀(ひばり)のさえずる野良で、麦の手入れをすることになる。旧街道のつきるところ、古びた川越の町並みが、夢のように続いて見える。
(「スバル」昭和四〇年三月)

「ひとに優しい埼玉と私」 井上敏夫 さきたま出版会 1996年 ★★
U 文学と郷土と
 川越のまち賛歌
 私が埼玉の地に住むようになってから、もう三十余年が経過している。わが生涯の大半をこの地で過ごしたことになる。まだ本籍は移してないが、意識のうえでは明らかにもう埼玉県人である。その証拠には、夏の高校野球では、出身地の静岡代表よりも、埼玉代表の方を応援したくなるし、テレビの漫才が、埼玉県人を揶揄するような言葉をはくと、何を言うかと反撥したくなる。
 
 風土からいっても、人情からいっても、埼玉という所は、私の性に合っているようだ。その良さを挙げればいくらでもあるが、今はそれを述べるのが主旨ではない。
 逆に、埼玉の物足りなさを一つだけあげてみると、それは歴史的な話題に欠けているということだ。新開地、それも列島改造論以後、急激にふくれあがった都市が県南には多く、近世以前といわず、明治以後だけに限定しても、古き時代のよき俤≠ニいった雰囲気を今に伝えている都邑の少ないことである。これこそわれらが心の故郷≠ニして、倚りかかれるような場所が、ほとんど残っていないことである。
 
 そういう中で、唯一の例外が、川越のまちだ。川越のまちには、近世や明治期の俤が、現代とよく調和した形で保存されていて、何となく落ち着いた、心安まる空気を感じさせる。
 私はいつか喜多院の堂内を拝観していて、どこか京都の東山へんの寺院を拝観しているかのような錯覚をおぼえたことがある。県下にいて、こういう思いをいだかされる場所のあることを私は他に知らない。、鐘楼土蔵造りの町並みも、心なごませる建造物の列なりである。
 建造物だけではない。川越というと、私は少しばかり携った過去の研究からして、すぐ、あの文明元年(一四六九)の春、太田道真の館で行われた連歌『河越千句』のことを想起する。
 心敬とか宗祇とか、当代の名だたる連歌師を迎えて、太田道灌の父道真が、自らの館で巻いた一千句の連歌は、塙保己一『続群書類従』に収められていて、中世文学研究上の重要な作品の一つである。
 その初めの方を抄記してみると、こうである。
  梅園にくさ木をなせる匂ひかな    心敬
   庭白妙のゆきのはるかぜ      道真
  うくひすの声は外山の陰冴て     宗祇
 今から五百年も前、「河越千句」というように、自らの名前を冠せられた、このような古典を所有しているまちが、県下のどこかにあるだろうか、私はまだその存在を知らない。
 
 川越とは、こういう歴史性のある、県下でも貴重な都市である。そういうまちの先生がたが、国語教育に熱心にとりくまれるということは、もはや歴史の必然ともいうべきことである。
 まちだけでなく、会そのものの歴史をも大切にして、さらにこのまちの特性にふさわしい研究を、今後も大いに推進していかれることを期待したい。 (昭和五五・九・二〇)
『川越市国語同好会二百回記念誌』昭和五五年十二月

「乗る旅・読む旅」 宮脇俊三 角川文庫 2004年 ★★
妻に誘われ婦唱夫随≠ナ出かけたアメリカ西海岸の鉄道ツアーや英国鉄道の旅、ひとりで気ままに歩く東京近郊への小さな旅――。
少年時代から鉄道と旅を愛した作家が、老境の旅の味わいを綴った鉄道紀行と、旅にまつわる名著に寄せた達意の文章。旅の思い出が募る珠玉のエッセイ集。
近くにも旅はあるA
 「小江戸」号と川越
 西武鉄道の新宿線に「小江戸」号という特急がある。全席指定の有料特急で、ルートは西武新宿―所沢―狭山市―本川越の四七・五キロ。「小江戸」とは川越のことである。
 川越は地味なところで、特急「小江戸」の知名度も低い。走行距離も短いし、東京への通勤圏内である。有料特急を走らせても、乗るのはビジネス客や通勤客ばかりで、観光客は少ないらしい。乗車時間も本川越まで四五分程度にすぎない。有料特急を走らせるほどの路線とも思われない。
 けれども、「小江戸」号が出現したとなれば乗りたいので、さっそく乗った。五年前のことである。
 乗ってみると、座席は前向きの二人掛けのリクライニングシートである。別料金を要するのだから当然ではあるが、これまでの電車にくらべると格段に乗心地がよい。高田馬場から所沢までノンストップというのもよい。
 おなじ路線を走っても、車両によって印象がちがう。窓外の眺めはおなじはずなのだが、私は別の西武新宿線に乗っているような気がした。そのあと、もう一度「小江戸」に用もないのに乗った。
 
 二年半ほど前、小学校いらいの旧友で文芸評論家の奥野健男君から「日帰りでどこかへ一緒に行きたい」という電話がかかってきた。彼は人なつっこくて、ときどきそういうお誘いがかかる。私は迷わず「川越へ行って、ぶらぶらしてからウナギでも食おう」と答えた。「小江戸」号のことは言わなかった。
 川越やウナギについて彼は反応を示さなかったが、旅については私に任せるしきたりになっているので、夫婦二組が某日朝、高田馬場駅で落ち合った。西武新宿駅より高田馬場のほうがJR線との乗かえが便利である。
 「小江戸」号に乗ると、奥野君は「西武線にもこんないい電車があるのか」と喜び、さっそく自動販売機で缶ビールを買ってきた。
 その日は川越をひとめぐりし、ウナギも食べて、年寄り一家二組の遠足のような一日を過した。その翌年の晩秋、奥野君は他界した。
 彼の一周忌が近づいた11月16日(月=1998)、私は「小江戸」号に乗って川越へ行った。今回は、この月報に小旅行記を書くのが目的である。
 家を出たとき、足もとがふらついた。高田馬場駅では立っているのが難儀で、しゃがみこんだ。家へ引き返そうかとも思った。
 けれども、「小江戸」号の快適なシートに坐ると体が楽になった。
   (中略)
 所沢を過ぎると、茶畑が眼につく。このあたりは狭山茶の産地である。新興住宅に侵略されて、わびしくなっているが、わずかながら田園風景が展開する。
 が、それも束の間で、やがて線路の両側は大工場の林立になる。
 まもなく本川越である。線路が単線になり、「小江戸」はJR川越線と東武東上線の下を速度を下げて通過する。おずおずとした進入だが、そのかわり本川越駅は市の中心部に近いところにある。
 
 川越は江戸の西北の守りとされた城下町で、歴代城主のなかに松平信綱柳沢吉保などの名が見えることからもわかるように、徳川幕府は川越を重視していた。川越は古くは河肥と呼ばれ、荒川と入間川に挟まれた舟運の便の地で、江戸との間を舟が行き交う商都でもあった。埼玉県庁がなぜ川越に置かれなかったのかと思うほどの町だ。
 明治以降はサツマイモの産地となり、現在は東京への通勤者のベッドタウンになってしまったが、蔵造りの商家が並ぶ通りが残っていて往時を偲ぶことはできる。「蔵の町」としてガイドブックに扱われるようになっている。
 川越は大きな町ではないので、二時間も歩けば、おもな所を一巡することができる。が、「小江戸」号のおかげで体調がよくなったとはいえ、歩き回る自信はない。それで駅前からタクシーで東北一・五キロの城跡へ行った。あとは歩くつもりである。
 城下町なので、川越の道は敵の侵入を防ぐために道が鉤の手に入り組んでいる。クルマは渋滞し、ずいぶん時間がかかった。
 城跡は「月曜休館」であった。博物館などが月曜に休館するのは承知しているが、城跡も休館するのかと思う。しかし、それでよい。川越城跡で第一に見るべきものは唐破風の玄関を構えた堂々たる本丸御殿で、それは休館にかかわらず眼前にある。
 本丸御殿の前の広場の一隅に三芳野神社がある。小さな社殿だが、京都の北野天神から菅原道真の霊を勧請したという。その前に細い石畳の参道があり、これが「通りゃんせ通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ」の参道ということになっていて、「わらべ唄発祥の所」の立派な石碑がある。
 このわらべ唄は、「行きはよいよい帰りは怖い」と続いて、私は幼な心にも不気味だったが、「マザー・グース」に通じるものがあるような気がしている。
 やや陰気な、わらべ唄の参道をたどり、城下におりて一〇分ほど南へ歩くと、喜多院がある。
 
 喜多院は天台宗の関東総本山で、徳川歴代将軍の帰依が厚く、大切にされてきた。広い寺域には堂宇や庭園がよく保存され、城跡より見るところが多い。訪れる人も多く、月曜日というのに境内は休日のような賑わいである。そのほとんどは、おばさんたちのグループで、私のような男のひとり者はいない。茶店にはおばさんたちが群がっている。
 拝観料を払って客殿に入る。「家光将軍誕生の間」というのがある。家光が川越で生まれたわけではなく、寛永一五年(1638)の大火で消失した喜多院を再建する際、家光の命で江戸城から移築されたものである。
 家光が使用した厠がある。警護の武士が侍り、検便用の抽斗もある。将軍の窮屈な生活が偲ばれる。
 「春日局 化粧の間」も移築されている。四つの部屋から成っていて、すこぶる広い。化粧用ではなく居室で、侍女たちも起居したのだろうが、春日局の威勢が伝わってくる。
 枯山水式の曲水式庭園を、おばさんたちと混じり合いながら一巡する。「シャッターをおしてください」という注文を幾度も受ける。樹々が色づいている。それを背景にして写す。私はたくさん旅行をし、すばらしい紅葉を見てきたので、喜多院の紅葉はとるにたらないのだが、おばさんたちは「きれいな紅葉ね、ハイ・チーズ」とポーズをとる。それでよいのである。背後の紅葉はそれなりにきれいだし、おばさんたちの満足げな顔。旅に比較などないと思う。
 境内の一面にある「五百羅漢」を見る。五三五体もあるが、一つとしておなじものはないそうで、頭を抱えこんで悲嘆にくれた羅漢もあれば、寝そべった行儀のわるいものもある。格別におもしろいわけではないが、おもしろいと思うほうが、しあわせであろう。
 
 喜多院をあとにして、地図をたよりに鉤の手の小路を右折左折しながら一〇分ほど歩くと、蔵づくりの商家が並ぶ繁華街に出る。
 「蔵の街」は全国にいくつもあるが、川越の蔵は壁が厚く、どっしりしている。電柱を撤去して電線を歩道の下に埋設したので、以前に来たときより景観がよくなっている。すっかり元気になった私は、おばさん観光客たちと行き交いながら楽しく歩いた。
 小路に「時の鐘」がある。櫓の上に鐘が吊り下がっていて形がよい。現在は電動式で一日四回、自動的に鐘が鳴る。説明板を見ると、つぎの鐘は午後三時。一時間半も待たねばならないし、鐘の音を聞かねばならなぬこともないので、ウナギ屋へ行く。
 川越にはウナギ屋がたくさんある。川や沼の地帯だったからだろう。ナマズ料理の店もあるという。いまや現地産のウナギなどはないのだろうが、伝統というか、十分においしいウナ重を食べた。
 川越からの帰途は埼京線に乗って、大宮―赤羽―池袋―新宿のつもりだった。往路と復路を変えたかった。
 けれども、「小江戸」号の快適な座席に坐りたくて、おなじルートを戻ってきた。
 (『宮脇俊三鉄道紀行全集 月報2』1999年1月発行)

●宮脇俊三(みやわき しゅんぞう)
1926年、埼玉県川越市に生まれる。1951年、東京大学文学部西洋史学科卒業。出版社勤務を経て、鉄道紀行を中心とする執筆活動に入る。著書は、『時刻表2万キロ』(第五回日本ノンフィクション賞)、『時刻表昭和史』(第六回交通図書賞)、『殺意の風景』(第十三回泉鏡花文学賞)、『韓国・サハリン鉄道紀行』(第一回JTB紀行文学大賞)ほか多数。1998−99年、『宮脇俊三鉄道紀行全集』(全六巻)を角川書店より刊行。1999年、第四十七回菊池寛賞を受賞。2003年2月、逝去。

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作成:川越原人  更新:2021/01/07