文久元年(1861)に小川五郎衛門栄長によって鋳造された銅鐘は明治二六年(1893)の川越大火で鐘楼もろとも焼失してしまった。同年三月一七日の出火は、西北の風にあおられて、忽ち西から東へと焼失地域を拡大した。その被害は、「家屋1,065軒、土蔵100余り、神社4、寺院5、それに時の鐘の鐘楼」であった。(現存する明治の銅鐘の銘文より)
同銘文によると、「時の鐘」の再建については、町当局と町民が一体となって、積極的に取組むこととなった。造営委員には、佐野三綱、茂木与助、竹谷兼吉、高橋幸助、菅間定治郎、水口忠右衛門、岩沢乕吉、以上7名が選出された。火災後の整備義捐金として寄付が募られた。
渋沢栄一、原善三郎、茂木惣兵衛、直中忠直、山中隣之助、平沼専三、高田早苗、加藤政之助、桐原捨三など川越に関係する実業家・政治家・学者や、川越町長岡田秋業、同助役太田元章、同岩沢乕吉、同川上祐司。川越町々会議員24名、川越町区長29名、同区長代理8名を始め、県知事銀林綱男と県義捐金・明治天皇下賜金1,500円、合計2,700余円が集められた。
用途については、町議会を経て、その三分の一を消防機械購入費に充て、残りをもって鐘楼堂、銅鐘再建費の基金とした。
新鋳される銅鐘の鋳物師には、小川家に代わって町会議員であった矢沢四郎衛門に決定された。早速、神明町の同家作業場で鋳造され、大火の翌年明治二七年(1894)七月二六日完成をみた。この銅鐘は、全長2.23m、龍頭のながさ40p、最大外径82p、同内径66p、重量731.25kg(195貫)を有するものである。
鐘楼については、大工関根松五郎の設計建設によった。松五郎は、職人町連雀町に安政元年(1854)に生まれ、町場大工の二代目を継いだ。屋号は金鉢(かねばち)で商標文様は○(の中に)鉢であったことから、通称丸八と呼ばれた。彼は、建築に関する研究心が旺盛で『新撰早引匠家雛形』などの参考書をたよりに、社寺・洋風などの建築技術を学んでいる。現存する時の鐘の鐘楼堂は松五郎を川越の大工としてその名声を高めた建築物であった。堂内は、三層に分かれ周囲の木造壁面には、筋交いを斜めに各層につけ、強化する工夫が施されている。これは近代建築の応用とみなすことができる。
彼は、川越の蔵造りの建築にも活躍し、幸町の宮岡金物店「まちかん」、小谷野画商店「深善」、雪塚稲荷社などをてがけている。その意匠は、伝統的技法にとらわれず装飾性の少ない、木のもつ美しさを表現している。明治期を代表する川越の重要な大工職人であった。病のため、明治三六年(1903)49才の若さで他界している。
彼の遺した鐘楼の規模は、高さ15.9m、トタン屋根三層造りの木造鐘楼で、階段が付設されている。よく均正がとれ、蔵造りの家並みを圧して、高く聳える景観は、今日の城下町川越のシンボルとなっている。
この鐘は、平成八年(1996)、環境庁主催の「残したい日本の音風景百選」に選定されている。
昭和五十年(1975)、川越市文化財保護協会は自動鐘撞機を寄贈した。現在の時の鐘はこの自動鐘撞機によって六時、正午、十五時と十八時の計四回、毎日、時を報らせている。
環境庁の「残したい日本の音風景百選」に認定された「川越時の鐘」は、城下の人々に約370年後の今日まで時を報せ続けてきた。1627(寛永4)年以来、鋳造は6回を数え、現存のものは13代目である。その概略は表の通りであるが、このうち特筆すべきことについて概略を紹介しよう。
1638(寛永15)年、川越大火の翌年、松平信綱が城主となり城下を整備して、十カ町制を施行した。その中心部多賀町(現在地)に鐘楼を再建した。その後、1653(承応2)年には、前の鐘が損壊したため新鋳したと銘文にある。各町から手当てを出し、鐘撞き人二人を置き、時鳴鐘として体制を整え、一時間ごとに時を報せた。また、火の見櫓の役割も果たし、火が近づくと、十カ町計10人の人足で鐘を降ろして穴蔵に収納した。やがて人口増でこの鐘では音量が小さく目的が果たせなくなった。そこで、1704(宝永元)年、秋元喬知が入封すると、彼は前任地の甲斐国谷村で使用していた銅鐘を取り付けた。音色が良く、かなり遠くまで響く名鐘で「長久の鐘」といわれたが、火事などの災害が起こると、音色が悪くなったとの伝説もある。1767(明和4)年、秋元凉朝の山形転封の際、この鐘も転出している。
替って前橋から松平朝矩(とものり)が入封した翌1768(明和5)年、長喜院の寺鐘を借りている。1770(明和7)年、直恒が藩主を継ぐと、地元の小川五郎右衛門に鋳造させたが、この銅鐘も1774年(安永3)年の大火で焼失した。早速、鐘楼は再建されたが、銅鐘は行伝寺のものを借りた。矢沢四郎右衛門の作で、音色が良い名鐘で70年以上も借用した。このため「大和さま法華の寺に借りが出来、判はつけども金はかへさず」の落書が広まった。藩はあわてて1849(嘉永2)年、銅鐘を造った。二代目の4倍もある巨鐘で音が響かず、失敗作であった。再び行伝寺の鐘を厚顔にも借用し、合算で72年間に及んだ。しかし、1856(安政3)年の大火でこの銅鐘も溶解してしまった。そこで、大連寺の鐘を時の鐘に代用し、鐘楼完成後は、広済寺の鐘を借用した。1861(文久元)年に小川鋳物が新鋳、小川家による時の鐘の鋳造は三度目となった。資財は焼けた行伝寺の銅鐘を使用し、「時の鐘納め祝」の大行列も行われた。この鐘も1893(明治26)に大火で焼失した。
参考文献 小泉功・青木一好 『時の鐘ものがたり』 子どもと教育社 2001
代 種類 年 特色等 1 鋳造 1627 常蓮寺に設置 2 鋳造 1653 多賀町に設置 3 持参 1704 甲斐国より 4 借用 1768 長喜院より 5 鋳造 1770 火災で焼失 8 鋳造 1849 大きすぎ不良品 12 鋳造 1861 川越大火で焼失 13 鋳造 1894 現存
歴代の時の鐘 現存の銅鐘は、鋳物師(いもじ)の矢沢四郎右衛門の作で、鐘楼は大工関根松五郎。町民一体となって再建された。なお、八代目を改鋳した行伝寺の鐘は、第二次世界大戦で供出されたが、辛うじて難を免れ江東区の浄心寺で、今もその任についている。 →時の鐘年表
わが家のご主人様は一度でいいから川越のシンボル「時の鐘」のてっぺんから四方を見渡したいらしい。
蔵づくりの町並みや瓦屋根から江戸時代に思いをはせる。ついでに鐘もついてみたいなどと、見上げてはぶつぶつ言っている。どなたかビデオで撮ってもらえないだろうか。見たい人、けっこういるんじゃないかな。
川越の駅から北に歩いて20分ほど。にぎやかな商店街を行くと、蔵づくりの町並みに入る。そのほぼ真ん中で「時の鐘」は今も電動で時を告げ続けている。
俳人・河合曾良は松尾芭蕉の弟子であった。元禄二年(1689)、師の「奥の細道」の旅に随行したことで歴史上に名前を残したが、この旅でもうひとつ、重要な役割を果たした。芭蕉の紀行文である『奥の細道』のほかに、『曾良旅日記』という記録をつけていたことだ。
これが、毎日時間を追いながら、克明に芭蕉の行動を記している。
例えば、四月十八日の日記にはこうある、
「十八日 卯剋、地震ス。辰ノ上剋雨止。午の剋、高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス」
午前六時に地震があり、七時ごろに雨が上がり、正午ごろ宿を立ったところしばらくして快晴になったというわけである。
この話を著書「時計の社会史」(中公新書)で紹介している堺市博物館長、角山栄氏は「芭蕉たちは一体何によって時刻を知ったのか」という疑問を提示、解明を試みる。
江戸時代の初期、懐中時計など日本にはまだなかった。こよりを立てるだけの簡単な日時計もあったが、辰の刻までは雨が降っていたというのだから日時計は役に立たなかっただろう。その結果「公共用時報、例えば寺の鐘などによって時刻を知ったというのが無難だろう」と推測する。
角山氏は、江戸時代は国内の銅の生産の増加によって、寺院などの鐘(梵鐘)の数が急激に増え、三万から五万にも上ったと推測する。それは当時約五万とされる村の数に呼応しており、各村の行政センターとしての各寺に梵鐘が備わっていたことになる。
その上で「寺院の梵鐘は仏事用の鐘から時の鐘へ、つまり時報という機能へ、機能の転換があったのではないか。いや、元来あった時鐘としての機能が、社会的に強く要求される事情があったのではないか」と述べている。
つまり、村々の寺で鳴らす鐘が、時報の役割を果たしていたというのであり、芭蕉らもその鐘で時刻を知ったのであろう。
一方、城下町でも領主たちが武士や町民に時刻を知らせるため競って「時の鐘」を設けるようになった。埼玉県川越市に残る「時の鐘」は明治になって再建されたものだが、高さ16メートルの櫓づくりは、江戸時代の形を今に伝えているとされる。
ところで城下町にいつ時鐘が出現したのか。時鐘についてのまとまった研究がないので確信のあることはいえないが、慶長五年(1600)和歌山に浅野幸長公が入城したとき、本町に鐘楼を設けたのが最初ではないかと思う。この鐘は登城ならびに町人たちへ時刻を知らせるためのものであった。『紀伊図名所図会』には京橋御門の橋のたもと、高く聳える鐘楼が描かれている。鐘撞堂には甚右衛門・伊右衛門の二人が、正四人扶持を受けて、幕末のころまで、ここに詰めて時報の役目を果たしていた。ところが和歌山にはもう一つ、城の南に小高い岡山という丘があり、正徳二年(1712)そこに時鐘堂が設けられた。本町の鐘楼は現存しないが、岡山の時鐘堂はいまも県の史跡として残っている。
時鐘はその後日本各地の城下町に続々とつくられてゆく。松坂(1605)、小倉(1606)、高松(1607)、江戸(1626)、大阪(1634)、静岡(1634)、盛岡(1648年以前)、岡山(1666)、小田原(1686)と全国各都市に拡がってゆく。
例えば関東の人びとにとってなじみの深いのは、川越市多賀町の時の鐘であろう。この時鐘は元来川越城主酒井候が寛永年間(1624-44)に建てたものといわれるが、その後破損したため承応二年(1653)に鋳直した。当初はここにあった常蓮寺の楼門にかけてあったらしいが、追々立派な櫓に変った。現在の鐘楼は明治二十六年の川越大火のあと、江戸時代そのままに復元したものである。その高さ約十六メートル。周辺の蔵造り建築が並ぶ古い町並みとともに、時鐘を中心とする城下町の市民生活のおもかげを残している。
関東平野にはいま一つ、川越の東約二十キロの岩槻市に時の鐘が残っている。場所は旧岩槻城の大手門のあたり、土を盛って小高くした土台の上に木造の鐘楼が立っている。この時鐘は寛文十一年(1671)城主阿部正春が鍜治工渡辺近江掾正次に命じて新鋳、時を知らせたのが最初である。現在の鐘は、享保五年(1720)当時の城主永井直信が改鋳したものだが、むかしこの鐘は九里四方に鳴りひびき、江戸にまで届いたという。いまでも毎日夕方六時に鐘を撞いているが、その音は騒音にかき消されてか、近所の人でさえ聞こえないことが多いという。
天文学や暦学のことはともかく、不定時法なら、昼間は時計なしでもある程度は時刻の見当がつくだろうが、夜はどうしたのか、不審に思われるかもしれない。昔の人は現代人と違って夜は早く寝てしまったが、それでも、さまざまな生活をしている人のいた大都会では、夜中でも時刻がわかるようになっていた。
答えは『時報』である。江戸時代でも、簡単な時報が行われていて、当時として実用に差し支えない程度には、時刻の見当がつけられたのだ。時報というととっぴに聞こえるかもしれないが、いくらのんきな時代でも、商業の発達した都会の生活は、空の明るさや太陽の位置を眺めながらでは成り立たなくなっていて、江戸時代の初期から各地にいわゆる『時の鐘』が設けられるようになった。
江戸の最初の時の鐘は、通称『石町の時の鐘』で日本橋に近い本石町(現・中央区日本橋室町三丁目)にあって、一日一二回、時報を打っていた。この鐘は、現在でも五〇〇メートルほど離れた十思公園(中央区日本橋小伝馬町)に立派な鐘楼を設けて保存されている。
もう一つ関東地方で有名なのは、小江戸と呼ばれた川越の時の鐘だ。市のシンボルとなっている立派な鐘楼は、明治二六年の大火で焼けてしまったが、再び江戸時代と同じ形に再建され、川越市幸町に昔のままの姿で立っているばかりか、今でも現役として一日に四回、時を知らせている。
時の鐘の撞き方は、まず、三回続けて<捨て鐘>というのを撞いて、時報が始まることを予告し、そのあと少し間をおいてから時刻の数だけ撞いて時を知らせた。現在の時報でも、まず、ポッ……ポッ……ポッ……と三秒前から三回鳴らして予告しておき、続いて正時を知らせる時報がポーンと鳴るが、あれと似たような感覚である。
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代 | 鋳造 | 年号 | 西暦 | 川越城主 | 関 連 記 事 | 文献資料 |
1 | 1 | 寛永4〜11 | 1627〜34 | 酒井忠勝 | 常蓮寺境内に時の鐘および鐘楼が創建、鐘は小川氏が鋳造 | 鐘銘(松平大和守家記録) |
2 | 2 | 承応2 | 1653 | 松平信綱 | 信綱入封時、鐘が破損していたため新たに鋳造(大火で焼失した時の鐘再建)。椎名兵庫鋳造。「形小さく音低い」ので外して会所に置く。 | 川越素麺 |
3 | 宝永年中 | 1704〜11 | 秋元喬知 | 喬知入封の際、甲州谷村の鐘を伴い時の鐘につけ「長久の音」と呼ばれる。沼上七郎左衛門正次・河野七郎左衛門良正が鋳造。 | 川越素麺など | |
享保18 | 1733 | 秋元喬房 | 鐘楼堂の上に火の見櫓をつける。 | 川越素麺 | ||
宝暦3頃 | 1753 | 秋元凉朝 | 建継ぎした櫓が壊れる。 | 多濃武の雁 | ||
明和4 | 1767 | 松平朝矩 | 朝矩が入封時、太鼓で時を報せていた。 | 松平大和守家記録 | ||
4 | 明和5 | 1768 | 〃 | 長喜院の鐘を借りる。 | ||
5 | 3 | 明和7 | 1770 | 松平直恒 | 小川五郎右衛門が鋳造。(時の鐘銘文)武蔵国川越城漏鐘銘并序 | |
6 | 安永3 | 1774 | 〃 | 大火で焼失長喜院で時報を行う。 | ||
7 | 安永5 | 1776 | 〃 | 鐘楼を再建。行伝寺の鐘を借りる。重さ1000斤、全長3尺6寸、周囲8尺。 | ||
8 | 4 | 嘉永2 | 1849 | 松平斉典 | 鈴木重次郎鋳造。重さ306貫、全長4尺7寸3分、直径2尺5寸。 真鋳の巨鐘、音色低く音遠方まで届かず使用不能。 | |
9 | 〃 | 〃 | 〃 | 行伝寺の鐘を再度借用して時の鐘に使用。 | ||
10 | 安政3 | 1856 | 松平直侯 | 大火で行伝寺から借用の鐘および鐘楼焼失。大蓮寺で時報を行う。 | ||
11 | 安政4 | 1857 | 〃 | 鐘楼再建。広済寺の鐘を借りる。 | ||
12 | 5 | 文久元 | 1861 | 〃 | 小川五郎右衛門栄長が鋳造。重さ170貫、全長4尺7寸3分、直径2尺5寸。 | |
明治26 | 1893 | 3月17日川越大火で焼失 | ||||
13 | 6 | 明治27 | 1894 | 鐘楼再建、棟梁関根松五郎、鐘は矢沢四郎右衛門鋳造。重さ186貫250匁、全長1.3m、外径82p | 矢沢家文書等 | |
昭和3頃 | 1928頃 | 昭和の大改修@(主柱根切り・独立コンクリート基礎設置) | ||||
昭和33 | 1958 | 市指定文化財・史跡に指定 | ||||
昭和35 | 1983 | 昭和の大改修A(3階筋違取付・屋根葺替・下見板張替) | ||||
昭和50 | 1975 | 川越市文化財保護協会が自動打鳴機を寄贈 | ||||
昭和58 | 1983 | 昭和の大改修B(屋根葺替・避雷針設置・塗装) | ||||
昭和59 | 1984 | 市指定文化財・有形文化財建造物に種別変更 | ||||
平成8 | 1996 | 環境庁「残したい日本の音風景100選」に認定 | ||||
平成11 | 1999 | 時の鐘所在地を含む一帯が国の重要伝統的建造物保存地区に選定 | ||||
平成27〜28 | 2016〜17 | 耐震化工事(耐圧盤打設・補強金物取付、主柱根継ぎ・礎石建ち復原) |