川越の時の鐘


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時の鐘年表

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時の鐘
大江戸・小江戸川越 時の鐘ものがたり」 小泉功・青木一好 子どもと教育社 2001年 ★★★
 川越には、年間四百万人もの観光客が訪れるという。その観光スポットは、蔵づくりの街並みにひときわ高くそびえ立つ、江戸時代を偲ぶ時の鐘である。今でも一日四回、「ゴーン」という綺麗な音色を周辺に響かせている。この音が響くと、観光客は思わず『あっ!時の鐘』と叫んでいる。何とも親しみを感ずる一瞬である。
 この時の鐘は今から約三百七十年前、川越城主酒井忠勝が創建した。これ以来、度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが、鐘楼の再建や銅鐘の再鋳を繰り返し、時には近隣の寺院から鐘楼や銅鐘を借用しこれに充当した。現在の川越の鐘は十三代目に当る。(まえがきより)
 −目 次−
まえがき
第一部 川越編
 一.松平信綱と鐘楼/二.秋元喬知と時の鐘/三.松平大和守時代の時の鐘/四.行伝寺の銅鐘/五.行伝寺の銅鐘と時の鐘/六.安政の大火と時の鐘/七.松平直侯と時の鐘/八.現在の時の鐘/九.岩槻の時の鐘/十.行田忍城の時の鐘
第二部 江戸編
 一.「江戸最初の時の鐘」石町の鐘/二.現在の石町の時の鐘(宝永時鐘)/三.浅草寺の時の鐘/四.本所横川町の時の鐘/五.上野の時の鐘/六.西久保八幡の時の鐘/七.芝切通しの時の鐘/八.市谷八幡の時の鐘/九.目白不動の時の鐘/十.赤坂田町成満寺の時の鐘/十一.四谷天龍寺の時の鐘/十二.下大崎村壽昌寺の時の鐘/十三.本所富岡八幡宮の時の鐘/十四.市谷月桂寺の時の鐘/十五.赤坂円通寺の時の鐘/十六.池上本門寺の時の鐘/十七.巣鴨子育稲荷の時の鐘/十八.ドンの大砲(午砲)
第三部 資料編
 一.川越の時の鐘銘文
  長喜院銅鐘銘文/松平直恒時代鋳造の鐘銘文/広済寺銅鐘銘文/深川浄心寺銅鐘銘文/松平直侯時代新調の鐘銘文/現在の時の鐘銘文深川浄心寺銅鐘銘文/岩槻時の鐘銘文/忍城時の鐘銘文
 二.江戸の時の鐘銘文
  石町時の鐘に関する御府内備考の記述/現在の石町時の鐘銘文(宝永時鐘)/上野の時の鐘銘文/浅草寺時の鐘銘文/天竜寺時の鐘銘文/下大崎村寿昌寺時の鐘銘文/赤坂田町成満寺の時の鐘銘文/富岡八幡宮時の鐘銘文/月桂寺初代時の鐘銘文/月桂寺現在の時の鐘銘文/池上本門寺の時の鐘銘文
 三.時の鐘鋳物師たちの主な作品
第四部 時の鐘年表編
あとがき

 八.現在の時の鐘

 文久元年(1861)に小川五郎衛門栄長によって鋳造された銅鐘は明治二六年(1893)の川越大火で鐘楼もろとも焼失してしまった。同年三月一七日の出火は、西北の風にあおられて、忽ち西から東へと焼失地域を拡大した。その被害は、「家屋1,065軒、土蔵100余り、神社4、寺院5、それに時の鐘の鐘楼」であった。(現存する明治の銅鐘の銘文より)
 同銘文によると、「時の鐘」の再建については、町当局と町民が一体となって、積極的に取組むこととなった。造営委員には、佐野三綱、茂木与助、竹谷兼吉、高橋幸助、菅間定治郎、水口忠右衛門、岩沢乕吉、以上7名が選出された。火災後の整備義捐金として寄付が募られた。
 渋沢栄一、原善三郎、茂木惣兵衛、直中忠直、山中隣之助、平沼専三、高田早苗、加藤政之助、桐原捨三など川越に関係する実業家・政治家・学者や、川越町長岡田秋業、同助役太田元章、同岩沢乕吉、同川上祐司。川越町々会議員24名、川越町区長29名、同区長代理8名を始め、県知事銀林綱男と県義捐金・明治天皇下賜金1,500円、合計2,700余円が集められた。
 用途については、町議会を経て、その三分の一を消防機械購入費に充て、残りをもって鐘楼堂、銅鐘再建費の基金とした。
 新鋳される銅鐘の鋳物師には、小川家に代わって町会議員であった矢沢四郎衛門に決定された。早速、神明町の同家作業場で鋳造され、大火の翌年明治二七年(1894)七月二六日完成をみた。この銅鐘は、全長2.23m、龍頭のながさ40p、最大外径82p、同内径66p、重量731.25kg(195貫)を有するものである。
 鐘楼については、大工関根松五郎の設計建設によった。松五郎は、職人町連雀町に安政元年(1854)に生まれ、町場大工の二代目を継いだ。屋号は金鉢(かねばち)で商標文様は○(の中に)鉢であったことから、通称丸八と呼ばれた。彼は、建築に関する研究心が旺盛で『新撰早引匠家雛形』などの参考書をたよりに、社寺・洋風などの建築技術を学んでいる。現存する時の鐘の鐘楼堂は松五郎を川越の大工としてその名声を高めた建築物であった。堂内は、三層に分かれ周囲の木造壁面には、筋交いを斜めに各層につけ、強化する工夫が施されている。これは近代建築の応用とみなすことができる。
 彼は、川越の蔵造りの建築にも活躍し、幸町の宮岡金物店「まちかん」、小谷野画商店「深善」、雪塚稲荷社などをてがけている。その意匠は、伝統的技法にとらわれず装飾性の少ない、木のもつ美しさを表現している。明治期を代表する川越の重要な大工職人であった。病のため、明治三六年(1903)49才の若さで他界している。
 彼の遺した鐘楼の規模は、高さ15.9m、トタン屋根三層造りの木造鐘楼で、階段が付設されている。よく均正がとれ、蔵造りの家並みを圧して、高く聳える景観は、今日の城下町川越のシンボルとなっている。
 この鐘は、平成八年(1996)、環境庁主催の「残したい日本の音風景百選」に選定されている。
 昭和五十年(1975)、川越市文化財保護協会は自動鐘撞機を寄贈した。現在の時の鐘はこの自動鐘撞機によって六時、正午、十五時と十八時の計四回、毎日、時を報らせている。

時の鐘の写真

(ブログ)入倉工務店の時の鐘

「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
近世/平野の開発と村・町の成立
  ・川越時の鐘物語
 環境庁の「残したい日本の音風景百選」に認定された「川越時の鐘」は、城下の人々に約370年後の今日まで時を報せ続けてきた。1627(寛永4)年以来、鋳造は6回を数え、現存のものは13代目である。その概略は表の通りであるが、このうち特筆すべきことについて概略を紹介しよう。
 1638(寛永15)年、川越大火の翌年、松平信綱が城主となり城下を整備して、十カ町制を施行した。その中心部多賀町(現在地)に鐘楼を再建した。その後、1653(承応2)年には、前の鐘が損壊したため新鋳したと銘文にある。各町から手当てを出し、鐘撞き人二人を置き、時鳴鐘として体制を整え、一時間ごとに時を報せた。また、火の見櫓の役割も果たし、火が近づくと、十カ町計10人の人足で鐘を降ろして穴蔵に収納した。やがて人口増でこの鐘では音量が小さく目的が果たせなくなった。そこで、1704(宝永元)年、秋元喬知が入封すると、彼は前任地の甲斐国谷村で使用していた銅鐘を取り付けた。音色が良く、かなり遠くまで響く名鐘で「長久の鐘」といわれたが、火事などの災害が起こると、音色が悪くなったとの伝説もある。1767(明和4)年、秋元凉朝の山形転封の際、この鐘も転出している。
 替って前橋から松平朝矩(とものり)が入封した翌1768(明和5)年、長喜院の寺鐘を借りている。1770(明和7)年、直恒が藩主を継ぐと、地元の小川五郎右衛門に鋳造させたが、この銅鐘も1774年(安永3)年の大火で焼失した。早速、鐘楼は再建されたが、銅鐘は行伝寺のものを借りた。矢沢四郎右衛門の作で、音色が良い名鐘で70年以上も借用した。このため「大和さま法華の寺に借りが出来、判はつけども金はかへさず」の落書が広まった。藩はあわてて1849(嘉永2)年、銅鐘を造った。二代目の4倍もある巨鐘で音が響かず、失敗作であった。再び行伝寺の鐘を厚顔にも借用し、合算で72年間に及んだ。しかし、1856(安政3)年の大火でこの銅鐘も溶解してしまった。そこで、大連寺の鐘を時の鐘に代用し、鐘楼完成後は、広済寺の鐘を借用した。1861(文久元)年に小川鋳物が新鋳、小川家による時の鐘の鋳造は三度目となった。資財は焼けた行伝寺の銅鐘を使用し、「時の鐘納め祝」の大行列も行われた。この鐘も1893(明治26)に大火で焼失した。
 参考文献 小泉功・青木一好 『時の鐘ものがたり』 子どもと教育社 2001
種類特色等
1鋳造1627常蓮寺に設置
2鋳造1653多賀町に設置
3持参1704甲斐国より
4借用1768長喜院より
5鋳造1770火災で焼失
8鋳造1849大きすぎ不良品
12鋳造1861川越大火で焼失
13鋳造1894現存

歴代の時の鐘 現存の銅鐘は、鋳物師(いもじ)の矢沢四郎右衛門の作で、鐘楼は大工関根松五郎。町民一体となって再建された。なお、八代目を改鋳した行伝寺の鐘は、第二次世界大戦で供出されたが、辛うじて難を免れ江東区の浄心寺で、今もその任についている。
時の鐘年表

「埼玉史談 第18巻第1号」 埼玉郷土文化会 1971年4月号 ★★
 時の鐘ものがたり(上)  岡村一郎

「おばけん猫の小江戸めぐり」 絵・文 小幡堅 川越デザイナーズクラブ 2003年 ★★★
 時の鐘
 わが家のご主人様は一度でいいから川越のシンボル「時の鐘」のてっぺんから四方を見渡したいらしい。
 蔵づくりの町並みや瓦屋根から江戸時代に思いをはせる。ついでに鐘もついてみたいなどと、見上げてはぶつぶつ言っている。どなたかビデオで撮ってもらえないだろうか。見たい人、けっこういるんじゃないかな。
 川越の駅から北に歩いて20分ほど。にぎやかな商店街を行くと、蔵づくりの町並みに入る。そのほぼ真ん中で「時の鐘」は今も電動で時を告げ続けている。

「祝祭日の研究―「祝い」を忘れた日本人へ 産経新聞取材班 角川oneテーマ21 2001年  ★
本書のテーマ 「年中行事」
知っておきたい、私たちが「祝う」理由
 ・豊饒への祈りに込められた、日本人の精神生活
 ・春・桃の節句―かつては海や山での遊びだった
 ・夏・お盆―先祖の霊を迎える日本古来の祖霊信仰
 ・秋・七五三―子供が社会の一員になる「けじめ」
 ・冬・お正月―「おめでとう」は年神を賛える言葉
 ・現代の日本人が忘れたしまった感謝の心

  ― 時の記念日全国に鳴り響いていた鐘の音
 俳人・河合曾良松尾芭蕉の弟子であった。元禄二年(1689)、師の「奥の細道」の旅に随行したことで歴史上に名前を残したが、この旅でもうひとつ、重要な役割を果たした。芭蕉の紀行文である『奥の細道』のほかに、『曾良旅日記』という記録をつけていたことだ。
 これが、毎日時間を追いながら、克明に芭蕉の行動を記している。
 例えば、四月十八日の日記にはこうある、
 「十八日 卯剋、地震ス。辰ノ上剋雨止。午の剋、高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス」
 午前六時に地震があり、七時ごろに雨が上がり、正午ごろ宿を立ったところしばらくして快晴になったというわけである。
 この話を著書「時計の社会史」(中公新書)で紹介している堺市博物館長、角山栄氏は「芭蕉たちは一体何によって時刻を知ったのか」という疑問を提示、解明を試みる。
 江戸時代の初期、懐中時計など日本にはまだなかった。こよりを立てるだけの簡単な日時計もあったが、辰の刻までは雨が降っていたというのだから日時計は役に立たなかっただろう。その結果「公共用時報、例えば寺の鐘などによって時刻を知ったというのが無難だろう」と推測する。
 角山氏は、江戸時代は国内の銅の生産の増加によって、寺院などの鐘(梵鐘)の数が急激に増え、三万から五万にも上ったと推測する。それは当時約五万とされる村の数に呼応しており、各村の行政センターとしての各寺に梵鐘が備わっていたことになる。
 その上で「寺院の梵鐘は仏事用の鐘から時の鐘へ、つまり時報という機能へ、機能の転換があったのではないか。いや、元来あった時鐘としての機能が、社会的に強く要求される事情があったのではないか」と述べている。
 つまり、村々の寺で鳴らす鐘が、時報の役割を果たしていたというのであり、芭蕉らもその鐘で時刻を知ったのであろう。
 一方、城下町でも領主たちが武士や町民に時刻を知らせるため競って「時の鐘」を設けるようになった。埼玉県川越市に残る「時の鐘」は明治になって再建されたものだが、高さ16メートルの櫓づくりは、江戸時代の形を今に伝えているとされる。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 河合曾良(かわい そら)
1649〜1710(慶安2〜宝永7)江戸前・中期の俳人。
(生)信濃国上諏訪。 (名)岩波庄右衛門正字、のち河合惣五郎。
 若くして生地を離れ、伊勢国長島の叔父僧秀精の手立てで長島藩松平家に仕えた。数年ののち致仕して江戸に出、吉川惟足に神道・和歌を学び、のち蕉門に入った。蕉門下では師によく仕え、生活の一切の世話をした。松尾芭蕉の俳句行脚には随行を許された。特に奥の細道の行脚では「奥の細道随行日記」を記し、芭蕉の記録の不備を補い、虚実を検討する立場から貴重な資料を提供した。1710(宝永7)幕府の巡国使に従って壱岐国に赴き、当地で病没した。
(著)「雪まろげ」。 (参)曽良顕彰会編「記念誌浪の音―曽良翁二百五十年忌」1959。

「時計の社会史」 角山栄 中公新書715 1984年 ★
 シンデレラはどうして12時を知ったのか。奥の細道を往く芭蕉はどうして時刻が分かったのか。片時も時計をはなすことのできなくなった現代人の生活は、いったいいつから始まったのだろうか。中世ヨーロッパでの機械時計の出現、時間意識の一大変化、近代における広汎な普及、日本と中国との対応の違い……。日用品である時計はいま、生産の場で憩いの場で、ありとあらゆる時をめぐって営まれてきた人類の生活の歴史を語り出す。(帯のコピー)

 「奥の細道」の時計/市民の鐘の出現
 ところで城下町にいつ時鐘が出現したのか。時鐘についてのまとまった研究がないので確信のあることはいえないが、慶長五年(1600)和歌山に浅野幸長公が入城したとき、本町に鐘楼を設けたのが最初ではないかと思う。この鐘は登城ならびに町人たちへ時刻を知らせるためのものであった。『紀伊図名所図会』には京橋御門の橋のたもと、高く聳える鐘楼が描かれている。鐘撞堂には甚右衛門・伊右衛門の二人が、正四人扶持を受けて、幕末のころまで、ここに詰めて時報の役目を果たしていた。ところが和歌山にはもう一つ、城の南に小高い岡山という丘があり、正徳二年(1712)そこに時鐘堂が設けられた。本町の鐘楼は現存しないが、岡山の時鐘堂はいまも県の史跡として残っている。
 時鐘はその後日本各地の城下町に続々とつくられてゆく。松坂(1605)、小倉(1606)、高松(1607)、江戸(1626)、大阪(1634)、静岡(1634)、盛岡(1648年以前)、岡山(1666)、小田原(1686)と全国各都市に拡がってゆく。
 例えば関東の人びとにとってなじみの深いのは、川越市多賀町の時の鐘であろう。この時鐘は元来川越城主酒井候が寛永年間(1624-44)に建てたものといわれるが、その後破損したため承応二年(1653)に鋳直した。当初はここにあった常蓮寺の楼門にかけてあったらしいが、追々立派な櫓に変った。現在の鐘楼は明治二十六年の川越大火のあと、江戸時代そのままに復元したものである。その高さ約十六メートル。周辺の蔵造り建築が並ぶ古い町並みとともに、時鐘を中心とする城下町の市民生活のおもかげを残している。
 関東平野にはいま一つ、川越の東約二十キロの岩槻市に時の鐘が残っている。場所は旧岩槻城の大手門のあたり、土を盛って小高くした土台の上に木造の鐘楼が立っている。この時鐘は寛文十一年(1671)城主阿部正春が鍜治工渡辺近江掾正次に命じて新鋳、時を知らせたのが最初である。現在の鐘は、享保五年(1720)当時の城主永井直信が改鋳したものだが、むかしこの鐘は九里四方に鳴りひびき、江戸にまで届いたという。いまでも毎日夕方六時に鐘を撞いているが、その音は騒音にかき消されてか、近所の人でさえ聞こえないことが多いという。

「大江戸テクノロジー事情」 石川英輔 講談社文庫 1995年 ★
 暦、和時計、からくり、錦絵、天文学、花火など江戸時代の様々な創意と工夫を紹介。江戸の人びとが、科学知識や技術を軍事よりも遊びや楽しみの手段にそそいだ様子を生き生きと伝える。目先の利益と効率ばかりを追うテクノロジー大国日本に警鐘を鳴らす好個の一冊。大好評の「大江戸えねるぎー事情」の姉妹編。(カバーのコピー)
 −目 次−
 部分的には正しいが/大小暦/和算/時刻と時計/からくり/富士塚/錦絵/銃と刀/天文学/馬/錠と鍵/花火/朝顔/もう一つの合理性/対談 江戸の科学技術観を探る

 時刻と時計
 天文学や暦学のことはともかく、不定時法なら、昼間は時計なしでもある程度は時刻の見当がつくだろうが、夜はどうしたのか、不審に思われるかもしれない。昔の人は現代人と違って夜は早く寝てしまったが、それでも、さまざまな生活をしている人のいた大都会では、夜中でも時刻がわかるようになっていた。
 答えは『時報』である。江戸時代でも、簡単な時報が行われていて、当時として実用に差し支えない程度には、時刻の見当がつけられたのだ。時報というととっぴに聞こえるかもしれないが、いくらのんきな時代でも、商業の発達した都会の生活は、空の明るさや太陽の位置を眺めながらでは成り立たなくなっていて、江戸時代の初期から各地にいわゆる『時の鐘』が設けられるようになった。
 江戸の最初の時の鐘は、通称『石町の時の鐘』で日本橋に近い本石町(現・中央区日本橋室町三丁目)にあって、一日一二回、時報を打っていた。この鐘は、現在でも五〇〇メートルほど離れた十思公園(中央区日本橋小伝馬町)に立派な鐘楼を設けて保存されている。
 もう一つ関東地方で有名なのは、小江戸と呼ばれた川越の時の鐘だ。市のシンボルとなっている立派な鐘楼は、明治二六年の大火で焼けてしまったが、再び江戸時代と同じ形に再建され、川越市幸町に昔のままの姿で立っているばかりか、今でも現役として一日に四回、時を知らせている。
 時の鐘の撞き方は、まず、三回続けて<捨て鐘>というのを撞いて、時報が始まることを予告し、そのあと少し間をおいてから時刻の数だけ撞いて時を知らせた。現在の時報でも、まず、ポッ……ポッ……ポッ……と三秒前から三回鳴らして予告しておき、続いて正時を知らせる時報がポーンと鳴るが、あれと似たような感覚である。

「音の風景とは何か サウンドスケープの社会誌 山岸美穂・山岸健 NHKブックス853 1999年 ★
◎日本の音風景百選
北海道・オホーツク海の流氷
・時計台の鐘
・函館ハリストス正教会の鐘
・大雪山旭岳の山の生き物
・鶴居のタンチョウサンクチュアリ
青森県・八戸港・蕪島のウミネコ
・小川原湖畔の野鳥
・奥入瀬の渓流
・ねぶた祭・ねぷたまつり
岩手県・碁石海岸・雷岩
・水沢駅の南部風鈴
・チャグチャグ馬コの鈴の音
宮城県・宮城野のスズムシ
・広瀬川のカジカガエルと野鳥
・北上川河口のヨシ原
・伊豆沼・内沼マガン
秋田県・風の松原
山形県・山寺のセミ
・松の勧進のほら貝
・最上川河口の白鳥
福島県・福島市小鳥の森
・大内宿の自然用水
・からむし織りのはた音
茨城県・五浦海岸の波音
栃木県・太平山あじさい坂のアマガエル
群馬県・水琴亭の水琴窟
埼玉県川越の時の鐘
・荒川・押切の虫の音
千葉県・樋橋の落水
・麻綿原のヒメハルゼミ
千葉・東京・柴又帝釈天かいわいと矢切の渡し
東京都・上野のお山の時の鐘
・三宝寺池の鳥と水と樹々の音
・成蹊学園ケヤキ並木
神奈川県・横浜港新年を迎える船の汽笛
・川崎大師の参道
・道保川公園のせせらぎと野鳥の声
新潟県・福島潟のヒシクイ
・尾山のヒメハルゼミ
富山県・称名滝
・エンナカの水音とおわら風の盆
・井波の木彫りの音
石川県・本多の森のせみ時雨
・寺町寺院群の鐘
福井県・蓑脇の時水
山梨県・富士山麓・西湖畔の野鳥の声
長野県・善光寺の鐘
・塩嶺の小鳥のさえずり
・八島湿原の蛙鳴
岐阜県・卯建の町の水琴窟
・吉田川の川遊び
・長良川の鵜飼い
静岡県・遠州灘の海鳴・波小僧
・大井川鉄道のSL
愛知県・東山植物園の野鳥
・伊良湖岬恋路ヶ浜の潮騒
三重県・伊勢志摩の海女の磯笛
滋賀県・三井の晩鐘
・彦根城の時報鐘と虫の音
京都府・京の竹林
・るり渓
・琴引浜の鳴き砂
大阪府・淀川河川敷のマツムシ
・常光境内の河内音頭
兵庫県・垂水漁港のイカナゴ漁
・灘のけんか祭りのだんじり太鼓
奈良県・春日野の鹿と諸寺の鐘
和歌山県・不動山の巨石で聞える紀ノ川
・那智の滝
鳥取県・水鳥公園の渡り鳥
・三徳川のせせらぎとカジカガエル
・因州和紙の紙すき
島根県・琴ヶ浜海岸の鳴き砂
岡山県・諏訪洞・備中川のせせらぎと水車
・新庄宿の小川
広島県・広島の平和の鐘
・千光寺窟音楼の鐘
山口・島根・山口線のSL
徳島県・鳴門の渦潮
・阿波踊り
香川県・大窪寺の鐘とお遍路さんの鈴
・満濃池のゆるぬきとせせらぎ
愛媛県・道後温泉振鷺閣の刻み太鼓
高知県・室戸岬・御厨人窟の波音
福岡県・博多祇園山笠のかき山笠
・観世音寺の鐘
福岡・山口・関門海峡の潮騒と汽笛
佐賀県・唐津くんちの曳山囃子
・伊万里の焼き物の音
長崎県・山王神社被爆の楠の木
熊本県・通潤橋の放水
・五和の海のイルカ
大分県・小鹿田皿山の唐臼
・岡城跡の松籟
宮崎県・三之宮峡の櫓の轟
・えびの高原の野生鹿
鹿児島県・出水のツル
・千頭川の渓流とトロッコ
沖縄県・後良川周辺の亜熱帯林の生き物
・エイサー
 

◎時の鐘年表
 
鋳造年号西暦川越城主関 連 記 事文献資料
11寛永4〜111627〜34酒井忠勝常蓮寺境内に時の鐘および鐘楼が創建、鐘は小川氏が鋳造鐘銘(松平大和守家記録)
22承応21653松平信綱信綱入封時、鐘が破損していたため新たに鋳造(大火で焼失した時の鐘再建)。椎名兵庫鋳造。「形小さく音低い」ので外して会所に置く。川越素麺
3宝永年中1704〜11秋元喬知喬知入封の際、甲州谷村の鐘を伴い時の鐘につけ「長久の音」と呼ばれる。沼上七郎左衛門正次・河野七郎左衛門良正が鋳造。川越素麺など
享保181733秋元喬房鐘楼堂の上に火の見櫓をつける。 川越素麺
宝暦3頃1753秋元凉朝建継ぎした櫓が壊れる。多濃武の雁
明和41767松平朝矩朝矩が入封時、太鼓で時を報せていた。松平大和守家記録
4明和51768長喜院の鐘を借りる。
53明和71770松平直恒小川五郎右衛門が鋳造。(時の鐘銘文)武蔵国川越城漏鐘銘并序
6安永31774大火で焼失長喜院で時報を行う。
7安永51776鐘楼を再建。行伝寺の鐘を借りる。重さ1000斤、全長3尺6寸、周囲8尺。
84嘉永21849松平斉典鈴木重次郎鋳造。重さ306貫、全長4尺7寸3分、直径2尺5寸。
真鋳の巨鐘、音色低く音遠方まで届かず使用不能。
9行伝寺の鐘を再度借用して時の鐘に使用。
10安政31856松平直侯大火で行伝寺から借用の鐘および鐘楼焼失。大蓮寺で時報を行う。
11安政41857鐘楼再建。広済寺の鐘を借りる。
125文久元1861小川五郎右衛門栄長が鋳造。重さ170貫、全長4尺7寸3分、直径2尺5寸。
明治2618933月17日川越大火で焼失
136明治271894鐘楼再建、棟梁関根松五郎、鐘は矢沢四郎右衛門鋳造。重さ186貫250匁、全長1.3m、外径82p矢沢家文書等
昭和3頃1928頃昭和の大改修@(主柱根切り・独立コンクリート基礎設置)
昭和331958市指定文化財・史跡に指定
昭和351983昭和の大改修A(3階筋違取付・屋根葺替・下見板張替)
昭和501975川越市文化財保護協会が自動打鳴機を寄贈
昭和581983昭和の大改修B(屋根葺替・避雷針設置・塗装)
昭和591984市指定文化財・有形文化財建造物に種別変更
平成81996環境庁「残したい日本の音風景100選」に認定
平成111999時の鐘所在地を含む一帯が国の重要伝統的建造物保存地区に選定
平成27〜282016〜17耐震化工事(耐圧盤打設・補強金物取付、主柱根継ぎ・礎石建ち復原)
 
注1:「川越市指定文化財 時の鐘」 川越市教育委員会 文化財保護課 より作成。
注2:代・鋳造、および関連事項の一部を「大江戸・小江戸(川越)対比 歴史年表事典」などにより補った。

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作成:川越原人  更新:2024/02/03