川越に関するその他の本(1)


<目 次>
映画続・映画を旅する日本シネマ紀行おばけん猫の小江戸めぐり
工芸新県民読本さいたま92武州手づくり
古本古本でお散歩
気象天気図と気象の本
刑務所少年犯罪少年犯罪の正体実録!刑務所のなか
その他私は河原乞食・考文書鑑定人ファイルiモード情報サイト5000

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映 画
「続・映画を旅する」 田沼雄一 小学館ライブラリー 1997年 ★★
日本の映画の名シーンの舞台をたずねる『映画を旅する』待望の続編!山田洋次監督作品『男はつらいよ』シリーズをメインに、最近の話題作、映画史に残る名作の撮影地の現状をレポートする。「キネマ旬報」連載、「映画を訪ねて」のSL化!
 [鬼畜] 〜埼玉県・川越〜
 1997年春先から初夏にかけて胸を締めつけられるような嫌な事件が続発した。殺伐とした世の中になってしまった。ふと思い出したのが社会推理作家、松本清張同名小説を映画化した『鬼畜』(78年)だった。子捨て、子殺しを題材に、親子の永遠に断ち切ることのできない宿命めいた絆を描いている。『張り込み』(57年) 『ゼロの焦点』(61年) 『影の車』(70年) 『砂の器』(74年)など松本清張文学の映画化で定評のある野村芳太郎監督がメガホンを取った。思いつめ、追いつめられた人間の獣のような恐ろしさを鋭いタッチで描写している。松本清張文学の数多い映画化作品の中でも五指に入る力作である。
 小さな印刷屋を営み、妾をこしらえ、七年間で三人の子どもをもうけた竹下宗吉(緒形拳)。ある日、妾の菊代(小川真由美)がなんの前ぶれもなく三人の子どもを連れて宗吉の家に転がり込んでくる。夫に妾がいたこと、しかも三人の隠し子までいたことに妻の梅(岩下志麻)は驚き、宗吉に喰ってかかる。宗吉が生活費をよこさないことに業を煮やした菊代は三人の子どもを置いてさっさと出ていってしまう。宗吉は梅に激しく叱責され、三人の子どもを見てはオロオロする始末。仕方なく子どもたちの面倒を見るのだった。梅はヒステリー状態に陥る。子どもたちの顔を見るたびにイライラを募らせる。宗吉の印刷所は火事を出していた。家計は火の車だった。大印刷会社の攻勢で仕事の依頼が激しく落ち込んでいた。そんなときに三人の子どもを押しつけられた。宗吉はしだいに子どもたちに殺意を抱くようになる。
 『鬼畜』で見逃すことができないのは、宗吉が六歳になる長男、利一(岩瀬浩規)を投げ捨てた断崖絶壁のロケーション効果だろう。観ながらついつい足場を気にしてしまうほどの怖さ、臨場感があった。犯行が行われた場所は石川県の能登金剛の断崖。同じ松本清張原作『ゼロの焦点』の舞台でも有名だ。緒方拳と岩瀬浩規の二人が断崖の突端まで本当に歩み入っている。怖さがリアルに伝わってきた。『ゼロの焦点』も野村芳太郎監督が演出した。宗吉が利一を投げた断崖絶壁は『ゼロの焦点』が撮影された場所でもある。
 『鬼畜』における事件はそもそも菊代が三人の子どもを連れて電車に乗ったときに始まる。東京・池袋から秩父方面、寄居という町まで通っている東武東上線。寄居駅の手前<男衾(おぶすま)駅>から菊代と子どもたちは電車に乗る。池袋方面へ。電車は緑いっぱいの田園をひた走る。利一や妹の良子にはお母さんとどこか遠くへお出かけできるうれしさがあったかもしれない。菊代の背中にはまだ一歳にも満たない末っ子の庄二がおぶさっている。
 菊代は利一と良子の手を引きながら東武東上線<川越市駅>で降りる。『鬼畜』は東京から埼玉県北部へと伸びる東武東上線沿線を舞台にしている。ビデオであらためて見直して気がついた。東武東上線を扱った映画はそう多くないから、これはうれしい発見だった。
 川越市駅の改札を出た菊代と子どもたちは夏の炎天下、古風なたたずまいの町並をトボトボ歩く。瓦屋根、蔵造りの家屋が続く町。江戸情緒をいまにとどめ、小江戸と呼ばれ親しまれている川越の町並である。菊代は子どもたちを連れて小江戸、川越へとやって来た。宗吉はこの町の片隅で小さな印刷屋を営んでいたのだ。
 菊代は料亭の仲居をしていた頃、宗吉と知り合っている。宗吉は自宅近所の川越あたりの料亭で菊代と懇ろになるわけではない。川越〜男衾間のどこかの場所。想像だが、うなぎ料理が有名で小京都とも呼ばれ料亭の数も多い小川町界隈かもしれない。川越からそう遠くもなく、男衾にはとても近い。もちろん東武東上線沿線である。
 子どもたちの手を引き小江戸・川越へやって来た菊代。蔵造りのお店の前を通り過ぎるカットで背後に電波塔が見える。旧電電公社(現NTT)の電波塔である。現在は取り壊されてない。電波塔が建っていたあたりにはマンションが数多く建てられている。映画が撮影されてからかれこれ20年経つ。電波塔がマンションに変わっていてもおかしくない。
 菊代と子どもたちは蔵造りの通りの角を曲がる。蔵造り通りから一つ奥へ入った路地。そこでラーメン屋に入る。<ラーメン勝山>と看板が出ている。菊代らの背後に小江戸、川越を象徴する木造の鐘楼櫓の上に時代ものの鐘がぶら下がっている。有名な<時の鐘>がはっきりと見える。時の鐘は川越観光スポットの一つ。
 ラーメン勝山と時の鐘はわずか十数メートルほどしか放れていない感じ。でも実際にはそういう屋号のラーメン屋はこの界隈には見当たらない。以前にもなかった。映画用の架空のラーメン屋だ。ラーメン勝山があったとおぼしい場所には理髪店がある。表側をラーメン屋に見せかけて撮影したものと思われる。取材で訪れた日は月曜日、理髪店はあいにく定休日。お店のご主人に話を聞くことはできなかった。
 菊代は、<小池畳店>で宗吉の家の方角を訊ねる。そしてようやく宗吉の営む竹下印刷所へと辿り着くのだ。もちろん畳店も印刷所も架空の名称である。
 男衾駅から川越市駅を経て、蔵造りの通りを歩きやっとの思いで辿り着いた小さな印刷屋。たっぷり二時間はかかったことだろう。利一や良子にとってはのどかな田園から車や人通りの激しい都会へと出てきた感じ。お父さんに会うための小さな旅だった。がそれも束の間、悲しい事件が待っていた。末っ子の庄二は落ちてきたビニールシートで窒息死し、良子は東京タワーの展望台で望遠鏡を覗いているうちに宗吉に捨てられる。利一は上野動物園へ連れていかれ薬を飲まされそうになる。宗吉はさすがに辛くなり、上野駅から列車に乗り能登半島へと向かうのだ。宗吉の旅は殺人旅行だった。何度観ても辛く切ない秀作である。
 ところで、菊代らが立ち寄ったラーメン屋のある時の鐘界隈に、民家やアパートに挟まれるようにして<川越スカラ座>という映画館がある。昔の、どこの町にもあったような、家の隣近所の映画館という雰囲気をいまにとどめている封切り館である。小江戸、川越散策のついでに入ってみてはいかがですか。

1978年 松竹 製作/野村芳太郎、野村芳樹 監督/野村芳太郎 脚本/井出雅人 原作/松本清張 撮影/川又昴 音楽/芥川也寸志 出演/緒形拳、岩下志麻、小川真由美、岩瀬浩規 封切り日/昭和54年10月7日 上映時間/1時間50分 78年度キネマ旬報日本映画ベストテン第6位 同読者選出日本映画ベストテン第5位 主演男優賞(緒方拳) 第33回毎日映画コンクール主演男優賞 撮影賞(川又昴) 美術賞(森田郷平) ブルーリボン賞監督賞(野村芳太郎) 主演男優賞 第2回日本アカデミー賞主演男優賞 監督賞 撮影賞
ラーメン屋の勝山について、掲示板の投稿記事をご紹介します。
投稿者:練馬の人間ですが 03/05/30 Fri 10:31:40
楽しく拝見させていただきました。ところで映画「鬼畜」で冒頭で出てくるラーメン屋の勝山ですが、実在しますよ。現在は屋号が変わっていますが、しかっりと今もラーメン屋さんです。ご主人の苗字はしっかりと勝山さんです。
なぜ知っているか申しますと、私の奥さんの職場の同僚がここの娘さんでして、会社の皆さんで食べにいったこともあるそうです。場所もぴったりと合致します。
ご主人曰く「そういえば、昔、ロケに貸したな〜」だそうです。

「日本シネマ紀行」 朝日新聞社会部 朝日文庫 1993年
鬼畜」―――能登金剛(石川)
 五十三年、松竹作品 監督) 野村芳太郎 出演) 緒形拳、岩下志麻、小川真由美、大竹しのぶ、加藤嘉、蟹江敬三
 小さな印刷屋をやっている夫婦(緒形、岩下)だけの家に突然、三人の子をつれた女(小川)が現れる。八年間、かくしていた妾で、商売不振の印刷屋が仕送りを怠ったため訪ねて来た。女同士が激しく争い、妾は子どもたちを置いたまま姿を消した。末っ子はいびり殺されたように死ぬ。女房が怖い夫は、まだ親の名も住所もいえぬ長女を東京タワーに捨てて来る。長男は迷子にされても、戻ってくるので、夫婦で殺害をたくらむ。
 野村芳太郎は、能登金剛の断崖で二つ映画を撮っている。三十六年の『ゼロの焦点』、女が男を突き落とす。五十三年、『鬼畜』では父親が六歳のわが子を投げ込む。
 この子、利一を演じた岩瀬浩規ちゃんは取材当時立川市の小学二年生。お母さんは「いじめられ役で相当こりたようです」というが、その後も児童劇団に通う。ロケ地に向かう新幹線の車中では旅行ではずむ気持ちの一方、不安はとれなかったそうだ。

 頭にコートをかぶせ
 荒波にきり立つ絶壁。頭からコートをかぶせられ、かかえ上げられ、念押すように「ほんとに落とすんじゃないよネ」。「ヤツを見て、こりゃうまくいくと思いました。僕がそんな顔をしてたんでしょうから」と父親役の緒形拳は話す。
 妾は、仕送りを断たれた腹いせに三人の子を置き去りにする。妻はその子たちを、とことんいびる。男は責めたてられ、まんじどもえの狂気、凶行。弟と、続いて妹の姿が消え、「こんどは自分の番」と気づいた様子の利一。
 「決して非現実的ではない。人間の思いもよらぬ発想や行動が逆にリアリティを持つ」(野村)。「魅力を感じた。弱さゆえに悪を重ねる男の生きざまの描き方に」(緒形)。

 安らぎない親子の姿
 死への旅路での港町、父親と入った食堂のテーブルで利一がヤドカリをこずいて遊ぶ。空気にさらされると暗い湿った所に集まる、この習性の生きものをカメラは大写しでとらえる。遊園地のマジックミラーの前でふざけ合い。ゆらゆらうごめく親子の姿に、ひとときの安らぎも与えられない心象を写しだす。
 父親は三度、利一の前で泣く。一度は毒入りパンを口に押し込んで抵抗され、どうにもならない気持ちになり胸かきむしられて。次に能登の宿屋で。
 「父さんはな、まじめに仕事いっぱい懸命に働いた……精いっぱい、力いっぱい……十の時から働いてたんだぞ、印刷屋で……馬か牛か、犬みたいにハリとばされて、こき使われる……石版磨き……辛かったなあ」。冷えた酒を注ぎ、息子が寝入ったのもかまわず長々とぐちり、涙声にむせぶ。
 松本清張は短編『鬼畜』を『ゼロの焦点』と同じ三十二年に書いている。鬼検事♂ヘ合信太郎(元大坂高検検事長)の沼津区検時代に手がけた事件が素材だが、小卒で町の印刷屋に勤めた清張自身の生い立ちをとりこむ。不遇、屈辱、世間に対する怨念が推理小説の強烈なバネになっている。

 ゾッとする自殺の名所
 原作では、伊豆が、長男を投げ込む現場だ。「真向かいに日が沈み、海を赤く染める場所でないと絵にならず」ロケ隊は東尋坊へ行く。しかし観光の厚着をした海岸線にあき足りず、約二十年前のイメージを残した能登金剛の奥地を選ぶ。
 金沢から二時間。風もなく、波の音も静かな日だったが、ガケに立つと足元がゆるく揺れた。地元の人が「いつ来てもゾッとする」とつぶやき、「自殺の名所」「海原の墓地」といった言葉を口にした。その夜、町役場近くのスナックで、思いがけない小さな事件を知った。
 十数年前、若い漁師がガケッぷちに生えたマツの木にひっかかっているところを、タクシー運転手に助けられた。水商売の女性に失恋し、海に飛び込んだのだといい、自殺未遂のあと情熱が相手に通じてか二人は結婚した。むろん映画とはなんの関係もない話である。『鬼畜』も同じ九死に一生の展開を見せるものの、なお救いはない。
 最後の場面、刑事室で二人は引き合わされる。子は「よその人だよ、お父ちゃんじゃないッ!」と激しく拒む。親は手錠の手を合掌するように差し上げ涙をほとばしらせ、「利一ッ……かんべんしてくれ!」                (中生加康夫)

「おばけん猫の小江戸めぐり」 絵・文 小幡堅 川越デザイナーズクラブ 2003年 ★★★
川越スカラ座
 料理屋が並ぶ静かで小粋な路地にある映画館。始まりは大正末期で、懐かしの「栄華館」(ダジャレご容赦!?)でもある。館名も演芸館から松竹館へと変遷。「当時は邦画専門で、朝から長い行列が続いたもの」と支配人の中山仁一さんが話してくれた。
 60年代前半から洋画を始め、また名前を変更。ちょっとレトロな雰囲気が好きという固定ファンは少なくない。座席数は200。「おれの映画館という感じがする。また来たいな」。それってレトロつながり!?

工 芸
「新県民読本 さいたま92」 グループ92 さきたま出版会 1986年 ★★
◆城下町には御用職人◆
 江戸城の修築や町づくりのため、京大阪の職人が江戸に多く移り住んだように、川越城下町でも同じような傾向がみられ、刀鍛冶・鴫善太の屋敷町が志義町という名になった。 また、松平伊豆守が鉄砲師・国友五右衛門を召しかかえ、弟子を置き、銃を作ったという鉄砲町などの名も残り、いわゆる御用職人≠フ多かったことがわかる。
 その流れを汲んで、いまもなお、黙々と鍛冶の槌をふるっているのが、川越市石原1丁目に住む鋸鍛冶・4代目中屋滝次郎さんと5代目に当たる娘婿の守さん。 家康が江戸の幕府を開いた際、関西からつれてきて、五宿(調布)に住んだ二見屋の弟子筋で、初代は鴻巣の鋸鍛冶中屋の職人。 玉鋼を鍛える伝統の技法で鋸を作り続けている東日本では唯一の鍛冶。 島根・安来産の玉鋼を火床で焼き、大槌でセンベイ状に伸ばし、これを割って良い鋼を選び出す。 その鋼を炉の中で加熱、わき出した鋼を槌で打ちながら鍛える。
 1枚つくりあげるのに3人。1人ならば3日はかかる。 普通に使えば20年はもつ品物で、宮大工の注文をこなすのがやっと。 「武州住中屋滝次郎正義作」の銘の「正」だけは楷書で刻む。まぎれもなく玉鋼から鍛えた証で、鋸鍛冶の意地と誇りをかけた一文字といえる。

「武州手づくり 伝統芸に賭けた工匠たち 朝日新聞浦和支局編 さきたま出版会 1984年 ★★
 曲物師   からだで覚えた親子二代
 川越、といえば城下町。蔵造りの町並みは「小江戸」とも称され、江戸から明治にかけて新河岸川の舟運でにぎわった。どことなく江戸情緒を残す商家の店構え、路地裏……。宮下町で親子二代、曲物師(まげものし)を続ける三村さん一家には、そんな城下町の雰囲気がぴったり合う。
 曲物は、その昔、中国から渡ってきた技術ともいわれ、江戸期の職人づくし絵などにはその仕事ぶりが紹介されている。
 曲物の材料は桧(ひのき)や杉。薄い板を熱湯で軟らかくし、円形や楕円(だえん)形に曲げて作る。よく知られているのはせいろ、ふるい、弁当箱などだ。
ひざの上が仕事台
 三村源太郎さん(84)は、川越生まれの川越育ち。源太郎さんが市内北町にあった曲物師宅に住み込みで弟子入りしたのは明治44年、14歳の時だった。「手に職をつけようと」と思い立ったからだ。
 最初の3年間はつらかった。朝は5時起き。食事の支度から仕事場の掃除、夜はかたづけを終えて寝るのが11時過ぎだった。
 「曲物師というのはひざの上が仕事台みたいなもの。あぐらをかかないと力がはいらないんです。14、5歳の子どもには一日中あぐらをかいているのが一番つらかったですよ」と源太郎さん。何度もいやになって、よくふとんの中で泣いた、という。
 楽しみは正月の藪(やぶ)入りとお盆休み。それに十月の川越祭り。親方からもらった小遣いを持ってまちに出た。当時、川越市内だけで、5、60人もいた曲物師だが、今では源太郎さん親子を含めても10人たらずになってしまった。
 「私もおやじについて修業を始めたのが15、6歳。戦後まもなくのことで、農家の人が米を持ってせいろや、ふるいを買いに来ました」と四男で二代目を継いだ眸(ひとみ)さん(48)は語る。せいろ一個が米五合程度。米が貴重な時代だった。
 眸さんがひざの上で丸くそった桧の板に小刀を当て、板をクルクルと回すと、「パリパリ」と小気味よい音を立てて板が割れた。「小刀を使えるようになるまでにおやじにずいぶんとしかられました」
知った職人の喜び
 源太郎さんの二代目教育は、「仕事は自分の体で覚えろ」だった。一人前になるには最低5年。それでも眸さんの作ったものが何度か「形がよくない」「こわれた」などと、つき返されたこともあった。
 「おやじがちょっと手を入れると、私の半端仕事が見違えるような物になるんです。つくづく年期が違うと思い知らされました」と眸さんは修業時代を振り返る。
 「曲物のせいろは20年でも30年でも使えるんですよ。私が若いころ作った物が、よく修理で戻ってきますが、中には40年前のせいろがありましたね」と源太郎さん。自分の昔の作品が、大事に使われ、その家の道具として長く役立っていたことを知る喜びは「職人冥利(みようり)」だ、とも。
仕事場に観光客も
 戦時中、曲物師は材木の統制で仕事が出来なかった。それに若者たちも兵隊や軍需工場にとられ、職人がいなくなった。
 戦後は食生活が変わり、せいろや、うらごしなどを使う家が少なくなった。だが、最近、「お赤飯をたくにはやっぱりせいろが一番」と見直されるようになった。それに中華せいろも普及、眸さんの妻、信子さん(47)を含め、三人の曲物師は「シュッシュ、トントン」と忙しい毎日だ。仕事場は店の隣りで、「小江戸めぐり」の観光客たちなどが時には足をとめ、仕事ぶりをのぞき込む。
 一家にとって残念なのは三代目がいないことだ。「子どもは娘二人。大学4年の長女は学校の先生で、短大2年の下の娘も就職するみたい」と眸さん。二人とも、来春そろ社会に巣立つが、「おじいちゃんは元気だし、私たちの代で曲物づくりが終わってもしょうがないですよ」と信子さんはそういって笑った。
【56・10・17】
 琴木地   桐材と腕の年輪相和して
 琴といえば、故宮城道雄氏の名曲「春の海」が思い浮かぶ。厳かな調べは、聴く者を雅(みやび)の世界に引き込んでしまう。日本を代表する弦楽器。桐(きり)の板を張り合わせたひときわ長い楽器だが、仕上がりの美しさに関しては、大量生産される機械づくりも手づくりにはかなわない。「いい琴の八割は、素材で決まる。桐はデリケートなので、年輪や外見だけでは材質を見抜けない。見かけの悪い材でも、削ってるうちに見事な杢目(もくめ)にぶつかることがある。開けてびっくり玉手箱ってとこだね」
 川越市藤間、長堀鍋太郎さん(60)は琴の原型を作る職人だ。かたくなに手づくりを通す琴木地職人は全国に数人しかいないという。ノコギリと手斧(ちょうな)と呼ばれる曲がったノミを巧みに使って丸太を琴の形に削っていく。この道25年。仕上げた琴木地はざっと1万面に。ほとんどが、琴製造業者の手を経て高級品に仕上げられている。
木挽の家に生まれ
 上福岡市の生まれ。父親は木挽(こびき)職人で家は貧しかった。7人兄弟の長男だった鍋太郎さんは、学業を途中で断念し、17歳で父について木挽の手ほどきを受ける。運搬が困難な山奥にこもり、木こりが切り倒したケヤキやスギの大木をノコギリで製材用にひくのが主な仕事だった。
 福島県内では、樹齢350年のケヤキの解体を5ヵ月がかりで手がけた。頼まれれば、民家や神社の大木も切り倒した。造船所では、木造のダルマ船の材料をノコギリでひいた。ノコの長さん≠ニいわれるまで腕は上がった。
 「鉄が値下がりし、逆に木が高級品になった。製材も機械化が進むと、逆に木挽職の出番がなくなっちまった」
 失職と戦争が重なる。19年3月、敗戦色の濃い比国ミンダナオ島へ。米軍の猛攻を浴び、1500人の舞台はほぼ全滅、長堀一等兵ら15人が奇跡的に助かった。敵弾を右腕に受けたが手術の結果ことなきを得た。
 戦後、友人の勧めで東京都荒川区の桐材店に住み込んだ。ノコをひいてもケヤキなどと違い、材質が軟らかすぎて勝手が違った。途方にくれた。そんな時、琴木地職人としては第一人者だった泉豊二氏のもとで教えを受けた。
地肌にらみ設計
 琴木地づくりは、およそ三つの製造工程に分かれる。まず、樹齢5、60年の桐丸太の断面や地肌をよく調べて「すみかけ」をする。大工が使う墨つぼを使って、年輪の見える断面に印を付ける。いわば、製品としての琴をくり抜くための設計図である。
 「すみきり」はミリ単位の勝負。腕のたつ職人ほど数ミリの年輪部分を無駄にしない。琴木地師にとって腕の見せどころ。表皮ぎりぎりまで使う。次は「大割り」。皮をはぎ、手斧で削る。そして、ノコギリを使っての「中貫き」。どの工程も失敗は許されない。
木は呼吸している
 「琴木地の寸法は長さ6尺、幅9寸、厚さ2寸と決まってるんです。ただし、商品になるとかなり縮みます。琴の丸味を帯びた部分はノコギリの技術がものを言う。一人前に仕上げられるには最低10年はかかりますね」と長堀さん。
 桐材の中央に座ぶとんを乗せ、馬乗りになって懸命にノコギリを引く姿は真剣そのもの。無我の境である。
 日曜を除く毎日、川越市新富町の北側桐材店に通う。作業場は寒風をまともに受ける吹きっさらし。午前9時から午後5時までの勤務時間に2面が仕上がれば上出来だ。琴ブームだった10年ほど前には、残業して日に6面も作った。ブームは下火にこそなったが、高級品の需要は衰えない。一見、単調に見える仕事だが、意外性がこの仕事の魅力でもある。4年ほど前、樹齢50年の会津産の桐丸太(最径70a)を使って作業中、何十年に一度ぶつかるかといわれる玉杢(たまもく)に当った。
 桐の表面が等間隔で美しいウズを描くもので、製品にするとなお一層、光り輝く逸品だ。「宝くじで一等に当たったような確率だ。桐にとっては、一種の突然変異だが、我々にとっちゃ宝物。この時は臨時手当をいただいたよ」――今は懐かしい思い出だ。この逸品は師匠クラスが使う数百万円の名琴になったという。
 無類の仕事好き。道具マニア。私物のノコギリを25丁も持つ。目立てはもとより、ヤキも入れる。
 「桐材の主流は米国産。しかも、硬さは一本一本違うから、ノコの切れ味もちがうんです。木は呼吸するからノコをいくら練習してもだめ。長い間のカンというのだろうか。今では、よそ見してても手が自然に動いてくれますよ」
 かじかんだ両手に息を吹きかけると。長堀さんは再び、無言でノコを引いた。
【59・2・18】
 鋸鍛冶   玉鋼に伝える職人の誇り

古 本
「古本でお散歩」 岡崎武志 ちくま文庫 2001年 ★★
 古書店といえば高価な稀覯本をイメージするかもしれません。新古本屋で買う人気作家の本を思いうかべる人もいるでしょう。でも、百円均一コーナーや、古雑誌の山のなかにも宝物が隠れているもの。あなたの興味、関心によって、誰も見向きもしない本がニッコリほほえんでくれます。均一小僧のアダ名を持つ著者が、お気軽に楽しめる古本の魅力と、その秘訣を披露します。

 全国異色古本屋さん
 5.大晦日、正月だって開けております

 坂井ぎやまん堂
 川越市西小仙波1-3-11
 九時〜十九時無休

 古本好きにつらいのは、年末から正月にかけて。なぜなら、この期間、古本屋が店を開けていないからだ。いいだろうが、正月くらいは古本屋へ行かなくても……と思うのは素人のアサハカの夜は更けて、であって(古いギャグですんません)、これは中毒のようなもので、二、三日古本屋へ行けないと禁断症状が起きてくる。無性に古本の匂いをかぎたくなり、古本屋の棚が恋しくなる。そこで、「彷書月刊」という雑誌の連載で、どこか、正月も開けている古本屋はないものか、と書いたら手紙が来た。「うちは、正月だけでなく、大晦日も開けてます」と書いてきたのが「坂井ぎやまん堂」。
 さっそっく、平成十二年の正月、近くの神社で初詣を済ませて、初古本買いに川越まででかけた。元旦に古本屋へ行くのはこれが初めて。西武線「本川越」下車。五、六分も歩けば、川越でも特に参拝客の多い喜多院へ向かう道の途中に坂井ぎやまん堂はある。なるほど、たしかに元旦なのに店は開いていた。
 中へ入ってびっくり。いわゆる黒っぽい本ばかりが、どの棚も埋め尽くしている。絵葉書、旅行案内、双六、ポスターなど紙ものも豊富。ふつうなら、目録に載せて、店から引っ込めるような本が棚にそのまま並んでいるという感じだ。
 店内一番奥に、一段高くなった、一畳ぶんくらいの畳敷きのスペースがあり、常連客はそこで店主の坂井由男さんと話し込んでいくのが常らしい。腰を落ち着けて、古本の話がたっぷりできるいまどき珍しいお店だ。

 日本の古本屋ブックオフほんだらけ


気 象
「天気図と気象の本」 宮澤清治 国際地学協会 1991年 ★
「鉄道と気象」のなかで、風の強いことで有名な所として、JR東海道線・根府川駅(小田原市)近くの白糸川鉄橋、 栃木県の東北線の箒(ほうき)川鉄橋とならんで、埼玉県の川越線の荒川鉄橋が挙げられています。
風速秒速25mで運転中止、20mで徐行という規定があるので、しばしばストップすると解説がありますが、その通りです。

 WeFAX and WeMAP


刑務所
「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
 第5章 自治/司法・警察/川越少年刑務所
 明治4年(1871)に川越町喜多町に「川越囚獄」として開設された。のち同10年11月に近くの郭町に移り、「埼玉県川越監獄支署」と改称され、主に軽犯罪人を収容した。その敷地は、わずか3000坪、板塀囲いであった。当初は逃走する者や拒食をする者が多く、職員の靴などを故意に隠すといったことは日常茶飯事だったと、当時、典獄(刑務所の長官)として就任した早崎春香は、その様子を記している。明治36年(1903)10月に「川越児童保護学校」が設立され、彼の教化努力によってしだいに充実し、全国的にもモデル・ケースとなっていった。また、六カ月後の同37年4月に早崎は「川越分監農工芸学校」を開設した。これは我が国の刑務所職業訓練校の草分けである。当初は農業178名、印刷14名が主体で、指物・桶工・靴工・西洋洗濯業が若干名であったが、しだいに整備されていった。明治40年敷地一万坪の建物が脇田本町に建設着手され、以来同地にあったが、昭和40年南大塚1508に移転、現在に至っている。    (斎藤)

「少年犯罪」 鮎川潤 平凡社新書080 2001年 ★
マスメディアによる少年犯罪報道は、ほんとうに正しいのだろうか。1990年代に「頂点」に達したといわれる少年犯罪の本質を、報道のされ方、統計の見方などの側面から歴史的に検討し、現在の少年犯罪の課題についても論及。「互いに働きかけあい、相互に行為しあうなかで作り出されるもの」として考察する。
少年犯罪を考えるための基準点を、ステレオタイプな説明を避けて提示する。

「「少年犯罪」の正体」 別冊宝島編集部編 宝島社文庫 2001年 ★
少年による凶悪な犯罪が、社会を震撼させている。しかし、彼らもまた社会の一部である。事件はむしろ、大人社会の混迷・迷走ぶりを顕わにさせたとは言えまいか? 本書は家庭や学校からストリートに放遂された「ワル」たちの生の声を収録している。暴力・セックス・クスリ・強盗……そして殺人。彼らの肉声に耳を傾けるとき、我々の社会の正体を見極めるための何かが、必ずや見えてくるはずだ。

 矯正施設一覧

実録!刑務所のなか」 別冊宝島編集部編 宝島社文庫 1999年 ★
なにかの間違いでも不測の事態でもいい。もし、あなたがある事件の被疑者となり、数分後に逮捕され、留置場、はては拘置所へ送られるとすれば、どうするだろう?「檻のなか」「塀のなか」では、体験者のみが知る、埒外の世界が待ち受けている。ヤクザ組長、弁護士、ジャンキー、暴走族そしてふつうの人々が、自らの体験をとおして語る「監獄/その世界」。ムショ暮らしの一切合財、教えます。

その他
「私は河原乞食・考」 小沢昭一 三一書房 1969年 ★
Tはだかの周辺/特別調査・主要都市周辺トク選ヌード劇場一覧
=小沢昭一が自信をもって推選する
東京(浅草、新宿、池袋、有楽町ヲ除ク)
 昌和ミュージック墨田区京島2丁目25の9
 青戸ミュージック葛飾区本田中原町108
 本木セントラル足立区本木小学校前
 月光館目蒲線武蔵小山駅下車平和通り
 幡ヶ谷ミュージック京王線幡ヶ谷下車甲州街道
 文化ミュージック立川市高松町3-113
 八王子ミュージック八王子市横山町富士銀行ウラ
千葉
 ミュージック月世界柏市常磐線柏駅東口
 渚ミュージック館山市渚銀座通り
 劇場蘇州千葉市栄町73の3
 さかえ座千葉市栄町
 淀君船橋市海神町
 若松劇場船橋市海神町
 船橋大宝船橋市本町2の1450
 浦安ミュージック東葛飾郡浦安
 アカデミー市川市本八幡駅前通り
 劇場アラジン市川市八幡2丁目13の10
 松戸大宝松戸市根本町446
 明星劇場松戸市松戸町駅前通り
 西船ミュージック船橋市西船橋駅前
神奈川
 川崎セントラル川崎市小川町13
 富士ミュージック京浜急行生麦駅前
 ベツ世界横浜市鶴見区鶴見町675
 横浜セントラル横浜市市電阪東橋・浦舟町
 サガミ劇場相模原市駅前商店街(新戸向出口4709)
 平塚ミュージック平塚市老松町2 ボーリングセンター前
 国際ミュージック横須賀市若松2の8
埼玉
 川口劇場川口市本町3の12
 浦和スター劇場浦和市岸町
 美人座大宮市宮町
 大宮フランス大宮市宮町4の14の2
 川越ミュージック川越市立門前1の10
其の他関東
 三笠ミュージック茨城県水戸市大工町
 日立ミュージック茨城県日立市
 雀宮ミュージック栃木県宇都宮市
 宇都宮セントラル栃木県宇都宮市
 フランス座群馬県高崎市
 人生劇場甲府市中央
東海道
 三島劇場静岡県三島市
 ミリオン座静岡県沼津市
 熱海ミュージック静岡県熱海市渚町20の8
 別世界静岡県静岡市
 金馬車静岡県浜松市平田町
 東海劇場愛知県豊橋市
名古屋及び周辺
 鶴舞劇場名古屋市昭和区
 大劇名古屋市中村
 銀映名古屋市東区
 カイケイ座名古屋市西区橋詰町35
 アングラ劇場名古屋市千種区小松町2の1
 岐阜セントラル岐阜市吉津町1の21
 まさご座岐阜市(柳ヶ瀬通り)春日町1丁目
 ベツ世界四日市市西新町13の16
大阪(梅田OSミュージック、新世界温劇ヲ除ク)
 天満座天満駅前 天満レジャータウン地階
 東洋ショー劇場北区菅栄町119
 ナニワミュージック北区菅栄町59
 寿ミュージック旭区森小路・トロリー八丁目下車
 ダイコーミュージック港区・地下鉄朝汐橋駅前
 九条花園西区千代崎町1の50
 九条OS西区九条2の675
 京映ミュージック都島区京橋天守閣1階
 木川劇場東淀川区木川町阪急十三木川商店街
 晃生ショウ劇場東大阪市布施駅下車桜通り
 境ミュージック堺市大町大寺マーケットそば
兵庫県
 三和会館兵庫県尼崎市神田南通3の78
 新開地ゴールド神戸市兵庫区新開地
 太陽会館神戸市葺合区琴緒町3の2
 国際ミュージック神戸市兵庫区中道通り1の23(新開地)
 西代キネマ神戸市長田区西代通り4の8
 野星東宝姫路市鍛冶町74
 国際ミュージック姫路市大蔵前町
 有楽座姫路市十二所前町1の33
京都
 東寺劇場 京都市西九条狭熊町
 千中ミュージック 京都市上京区土屋町一条下ル
 大宮劇場 京都市北区紫野下築山町42
 伏見ミュージック 京都市伏見区鍵屋町(京阪丹波橋)

*報告者・昭一の追記
以上のうち、すでにもうなくなっている小屋がきっとある。また、新しい劇場も生れているにちがいない。ヌード界は、書いているそばから状況が変わって、確実な最新情報を伝えにくい。昭和四十四年六月現在といいたいが、その現在がもうあやしいのである。わが愛するトビタOSも四十四年四月十六日手入れをうけ、遂に洋画三本立映画館にかわってしまった。徳ちゃんは、したがって呼び込みからモギリに昇格したが……。

「文書鑑定人事件ファイル」 吉田公一 新潮OH!文庫 2001年 ★
 金賢姫の偽造パスポートの完成度は? 贋幣技術の実態は? ニセサイン、ニセ印章、ニセ札など、世の中にはびこるニセモノたち――。だが、様々な科学的手法を駆使する文書鑑定人の目はごまかせない!(カバーのコピー)

  実印は本物だった
 埼玉県川越市で酒屋を営む田崎さんは、倉庫を建てる予定で自宅裏の畑を譲り受けた。近くの農家、平野さんの土地である。田崎さんが工事を始めると、平野さんの息子がやって来て、この土地は私が貰うことになっていて親父は勝手に売れないはずだ、登記はしてないが、覚書も贈与契約書もある、というのだ。田崎さんには関係ないことだが、当の息子がしつこくいってくるので平野さんに尋ねると、そんな約束はしたことがないという。
 結局、親子の間で裁判沙汰となり、覚書と契約書が本物かどうかを鑑定することになったが、書類の筆跡は問題にならなかった。息子が、「親父の名前も含めて書類は全部私が書いたもので、親父は判を押しただけです」と証言しているからだ。印影が父親の実印であるかどうかが問題となって、平野さんの代理人、松野弁護士が申請した鑑定事項は、「覚書と契約書に押されている印影は実印の印影と同じであるかどうか」「転写による偽造(正規の印影を何かに転写し、それを紙面に転写する方法)印影であるかどうか」の二つであった。
 検査の結果、覚書と契約書の印影は実印の印影と一致した。しかも、平野さんの実印は輪郭の一部がわずかに欠けていたが、覚書と契約書の印影も同じ場所が切れていて、欠けている部分の大きさも同じだ。肉眼では分からないが、欠けた部分の線の切れ目を顕微鏡でみると、欠けている線の端にマージナルゾーン(印肉のはみ出し)がある。輪郭が欠けている印章で押したことは明らかで、紛れもなく平野さんの実印から押されたものである。印影を転写すると、転写された偽造印影の回りの紙面が滑らかになる。転写のときの圧力で紙の繊維が押しつぶされるからだ。印影は薄くなり、朱肉の着き方も平面的で盛り上がりがなくなるが、問題の印影は、朱肉が盛り上がっていて、紙面の状態もほかの部分と変わらない。
 鑑定結果は「印影は同じと認められる」「転写の可能性は認められない」となった。平野さんは自分で判を押したことを忘れているのだろうか。それとも、押印しておきながら否認しているのだろうか。
 もうこの事件のことなど忘れていたが、ある日、東京地裁の廊下で偶然、松野先生にお会いした。「その節はどうも」と言うことで、地下に下りてお茶をご馳走になったが、先生の話では、その後の法廷で平野さんはこう証言したそうだ。
 「『商売上の保証人になって貰いたい。印鑑登録証明は俺がとってくるから、ちょっと実印を貸してくれ』。息子にそう言われて実印を渡したことがあります」
 調べたところ、そのころ印鑑登録証明をとった事実はなかったという。
 息子が親を騙して、勝手に覚書と贈与契約書を作ったのだろう、親子とはいえ、軽々と実印を渡すわけにはいかない。

「iモード情報サイト厳選5000−2001年春−」 ソフトバンクパブリッシング 2001年 ★
 当ホームページのiモード版がジャンル「ローカル」に掲載されていました。

「埼玉県川越市のグルメ情報やイベント情報、街案内などを掲載。アクセス情報では、乗り換えなしで川越にいける東京都内のおもな駅などが書いてあり、使って便利だ。」

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作成:川越原人  更新:2020/11/20