初大師とだるま市
正月3日は厄除元三大師(がんざんだいし)のご縁日(えんにち)です。新しい年のはじめを迎えるので初大師と呼び名されています。大師を正しくは慈恵大師(じえだいし)と尊称しますが、正月3日に涅槃をむかえられたので別称元三大師ともいわれております。
大師は千年の昔、比叡山(ひえいざん)中で密教(みつきょう)の行法(ぎょうぼう)を深く修められて、多くの神秘(しんぴ)、奇蹟(きせき)は民衆の苦しみや悩みを救い、厄難消除(やくなんしょうじょ)の信仰を深く集めてきました。また大師は観音(かんのん)の化身(けしん)、不動(ふどう)の生れかわりともいわれ、角大師(つのだいし)(門札(かどふだ))のお札が正月には宗派を問わず、家の門戸(もんこ)に貼(は)られるのも強い信仰のあらわれです。第253世恵諦天台座主睨下(てんだいざずげいか)は次のようにいわれました。「元三大師を信仰するものは、僧にあってはその寺院は必ず興隆(こうりゅう)するし、一般にあっては無事(ぶじ)であり、息災(そくさい)であり、家運は永続する。信仰が薄れたり、信仰を他に移したときは必ず変化(へんか)がある。歴史がこれを伝え事実がこれを証明している。不思議(ふしぎ)である」。
江戸の初期には天台宗(てんだいしゅう)関東総本山の呼称を頂いた喜多院には、新しい年を迎えるに当って多くの善男善女(ぜんなんぜんにょ)が開運厄除、家内安全、交通安全等の護摩祈願(ごまきがん)をする人が年々増え、境内(けいだい)には七転八起(ななころびやおき)の名物だるま市が軒をつらねるようになりました。
『三国』第6版を引くと、「縁日」は次のように説明してあります。えん にち [縁日](名)神や仏を供養(クヨウ)して、まつりをおこなう日。〔神社や寺で毎月きまった日におこない、夜店(ヨミセ)がにぎやかにならぶ〕他の国語辞典も、基本的に同様の意味が書いてあります。つまり、「縁日」は、「祭日」などと同様、「日」を表すという説明です。八幡宮の看板もこの意味で使っています。
一方、私がよく使う「縁日」は、ちょっと違います。祭や文化祭の日などに、「今日は縁日があるから出かけよう」などと言います。この場合は、「祭の日などに、いろんな出店が集まる催し」の意味を表しています。
または、こんなふうにも言います。「おや、縁日が出ているぞ。今日はお祭りかな」。この場合の「縁日」は、「祭りの日などの催しに集まる出店」の意味です。
こんな使い方をするのは、何も私だけではありません。明治時代に、夏目漱石も<神楽坂の縁日へ出掛けて>(『それから』1909年)と使っています。これは、「催し」の意味です。また、戦後の例ですが、遠藤周作も<〔川越の大師さま〕に縁日が出ていた>(『わたしが・棄てた・女』1963年)と書いています。これは、「出店」の意味です。
つまり、「縁日」は、もとの意味が広がってきたのです。最初は「神仏の供養の日」という意味だったのが、やがて「その日に行う催し、さらに「その催しに集まる出店」の意味でも使われるようになりました。連想から意味が拡張した典型的な例です。国語辞典では、これらの拡張した意味が見落とされていました。
『三国』第7版では、次のように語釈を二分割することにしましょう。えん にち [縁日](名)@神社や寺で、参詣(サンケイ)すると特にご利益(リヤク)のある、毎月の決まった日。A「縁日@」や まつりの日におこなう市(イチ)。また、その市に集まる露店(ロテン)。「―に行く・―が出る」これならば、今の感覚に一致するはずです。「縁日」のような伝統的なことばでも、辞書の項目を見直す余地は大いにあります。
この日から、関東を中心とする各地で「だるま市」が開かれる。だるまはどうして赤い色をしていて、選挙のおりや、商売繁盛のエンギものとして使われるのだろうか。
だるまのモデルは、5〜6世紀に南インドで生まれ、中国にいって禅宗を開いた「ダルマ」という実在の人物だと伝えられている。正しくは「菩提達磨」とよび、中国の嵩山少林寺にこもって、9年間、壁に向かって座禅を組んだことで有名な人物だ。だるまはこの意志の強い、わかりやすいことばで仏の教えをといたダルマの座禅の姿をうつし、日本でつくられた玩具である。
だるまの原型にあたる「起きあがり小法師」ができたのは、室町時代(14〜16世紀)のこと。張り子の「起きあがりだるま」が登場したのは、江戸時代の享保年間(1716〜36)だったといわれている。倒れても倒れても起きあがることから「七転び八起き」のエンギものとしてよろこばれ、商売繁盛や病気平癒を願って購入されるようになったのだ。
また、目なしだるまを買い求め、願いごとがかなったときに目をいれるのは、関東を中心として始まった風習だという。この風習の起源については、いろいろな説があり、禅宗の教えが「心のまなこを開くこと」にあったからだという説が、一般に信じられている。つまり、願をかけるという「願」と、開眼の「眼」が結びついたわけである。
さて、だるまが赤い色をしているのは、ダルマがつけていた衣の色に由来する。ダルマが生きていた時代の南インドでは、赤い法衣を着るのがきまりだったのだ。だるまが赤い法衣を頭からかぶっているのは、中国の気候がインドより寒かったせいらしい。いまの禅宗のお寺では、ダルマに敬意を表して、赤い色の袈裟を最高位の僧の着るものとしている。
とはいえ現在では、白や緑色や黒のだるまもつくられている。
白いだるまは、関東地方でカイコを飼っていた農家が、古くからエンギものとして求めたのがはじまりだったとか。そのなごりを受けて、いまも農家や商家では、白いだるまをよろこぶ風習があるという。また、緑色のだるまは緑十字のイメージから、工事現場などの安全祈願のためにつくられ、黒いだるまは商売が赤字にならず、黒字になるようにというエンギものとして売れているそうである。
ところで、だるまに目をいれるとき、どちらの目からいれていくのが正しいのだろうか。こんなことに規則があるわけではないが、向かって右の目にいれておき、願いがかなったときに左目をいれるのが、一般的な傾向となっている。
こうして、両目がはいっただるまは、どのように処置すべきなのだろうか。近くの神社かお寺にもっていって供養料をおさめ、引きとってもらうのが正しい処理方法である。
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長岡藩の十代目の藩主だった牧野忠雅は天保十一年(1840)に幕府から川越への移封を命じられたが、翌年にはその命令が撤回されたので、そのお祝いとして花火を打ち上げたのが始まりだとされている。
川越では毎年7月13日は仙波浅間神社の初山です、過去1年間に結婚した花嫁、またお子様が出来ると初詣する日で、 仲のよい夫婦や幼児を抱いた若い母親達で賑わいを見せ、お土産にはあんころ餅と団扇を買って帰り、あんころ餅はこの頃より夏に入るので夏の健康のために、 そして団扇は夏の難病及び疫病を追祓い夏を健にすごすよう、お仲人や近親に配る習わしになっております、 またこの浅間神社の冨士詣は宝暦3年(1735)頃より盛んに成って現在まで続いております、冨士山の霊を祀った浅間神社の霊威に基く信仰で日本一のお山の冨士山のように、 新婚さんまたお子様の社会に出て出世するよう参拝するものであります、 神社の後ろにある岩穴は冨士山の噴火口を現したお池で、ここにお賽銭を投じて安産と開運を祈願いたします、 昔の人は駿河の冨士山までお参りに行くのは大変ですので当地に駿河の冨士山を祭り冨士山の山開きに初めて登山する意味をもつものであります。 (団扇の裏面)
古来・山岳信仰は修験道者の間に盛んで、特に日本一の高さと優美な富士山は、昔から庶民の信仰があつかった。 長谷川武邦(角行)は、呪術師でもあり多くの教義を創り、後世に伝えたが1646年没後は、伊藤伊兵衛(食行身禄)があらわれ、角行の教義に従いながら、 更に正直・慈悲・情などの平凡な日常道徳の実践と人心の融和を説き、富士講の講祖と言われた(1733年没)。 身禄の没後、その弟子達は、角行身禄の教えをもとに布教に当たり、富士講を興し、民間信仰として文化・文政年間(1804-1829)江戸では八百八講とも言われ関東一帯に広まった。
江戸幕府は余りにも盛大となったこの民衆の団結と、幕府失政への批判を恐れ、これを禁止させるため、寛保2年から嘉永2年の間に「幕府の町御触」を布告して、干渉、弾圧を加えた。 富士講は、明治政府の神仏分離令やその後、大正12年(1923)の関東大震災・昭和20年(1945)の東京大空襲などの打撃によりその都度組織を弱めていった。
昔、新宿村では文化11年(1815)山吉講社(御水講)に所属し、講が組織されており、大仙波村の浅間神社を参拝していたと思われる(同神社に舎講が奉納した手洗石に他村の講中の銘と共に新宿村講中の刻銘がある)。
明治18年(1885)に、境内に富士塚を築き、雀ノ森氷川神社宮司栗原七蔵氏が富士浅間神社を勧請した。富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命が無戸室の猛火の中で夫君の天孫天津彦 彦火瓊 瓊杵尊の3人の皇子を安産した故事にもとづき「火祭」といわれる行事が行われた(古事記)。 又、平安時代初期までは、活火山であった富士山の噴火・噴煙を恐れ、それが早く鎮まるよう祈ったのが「鎮火祭」である(富士吉田市「火祭の由来」にある鎮火大祭)。
新宿村が約50戸の頃、家内安全、病気平癒などの祈願祭として富士講の行者によって始められた「お焚き上げ」が百年余り経った現在も氏子会に引き継がれて、益々盛大に行われている。
毎年、9月1日午前、境内に仮殿を遷し祭壇を設け、神前に小楢の薪を高く積み上げ、四方に注連縄を張って祭場を浄める。午後、氷川神社宮司のもとで氏子総代が参列し、富士浅間神社の祭典を行う。
境内では祭囃子や民踊が奉納され、夜になり最高潮に達する頃、富士講の行者15名ほどが富士行衣(白頭巾、白衣、白手甲、白脚袢、白足袋)に身を清め、鈴を振り神社に経文(富士山御傳)を唱え祈願する。 行者は薪の山の廻りに位置し、薪に神火を点じ、燃え盛る炎に篠の箸で家内安全、交通安全、商売繁盛、試験合格、身上安全、病気平癒などの祈願札を差し入れ、大願成就を祈願する。 祭場を取り巻く人々は炎と共に興奮し、自分の名前が唱えられたお札の行方に注視する。お札が高く燃え上がる程、御利益があると言われている。
当日は、地区周辺の老若男女は元より、嫁ぎ先の親戚なども多数参拝し、境内外に露天が処狭しと軒を連ねる様は、夏の終わりを告げる風物詩であり、幼い頃を思い出す一齣であります。
開催は毎月28日。多くの骨董市は週末に開かれる場合が多いが、成田山川越別院(通称・お不動さん)の縁日にあたるのが28日。自然とウィークデイの開催が多くなるが、女性客を中心に、座間からの外国人集団も加わって境内は身動きもできないほどの賑わいを見せる。
「地域の活性化のために骨董市を開きたいと、地元の商店街の方が相談に来られたのがきっかけで始まったんですよ。かれこれ15年ほどになりますか。いまでは出店数も百軒を超え、地元の人を中心に、県外からの来場者も多い骨董市になりました」と語るのは世話役の竹日忠芳さん。
歴史、規模ともに関東近郊では有数の市の一つ。埼玉県内の業者が中心だが、西は紀伊半島から大阪圏、東は山形にいたるまで、遠方からの出店業者が多いのも特徴といえる。また、縁日は雨天でも開かれるので骨董市もテントを張って決行されるそうだ。
ウィークデイの開催となると、客層の中心は地元の女性客。自然と女性の嗜好に沿った品揃えになり、普段の生活のなかで使えるものを店先に並べているところが多い。
他の骨董市、蚤の市と比較すると、衣類や着物、食器などが目立っている。なかには古い生地をブラウスに仕立てたものを売っている店があったが、「すぐに売れてしまいます」と値段交渉の合間に笑顔で応えてくれた。また「いい物は早くなくなる」は、どの骨董市にも共通の常識だが、この市の常連客は意気ごみが違う。開催前日の夜、会場近くで遠方からやってくる業者を待ちかまえていることもあるそうだ。
このところ来場者も増え、市は一段と活気づいているが、一方で問題も起きている。
「多くの人に楽しんでもらうのはいいのですが、最近は車で来られる方が増え、駐車場の問題で頭を悩ませています」(竹日さん)
近くに有料の駐車場(喜多院に隣接)があるが、開催日にはすぐに満車になってしまう。必然的に路上駐車が多くなり、竹日さんのもとへの苦情が後を絶たないそうだ。少し離れれば野球場、私立博物館の駐車場を利用することもできるので、訪れた際にはくれぐれも無責任な路上駐車だけはしないように心がけたい。
最寄駅 西武新宿線本川越駅より徒歩10分