川越の民俗芸能(2)


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ささら獅子舞
「川越歴史新書3.川越歴史随筆」 岡村一郎 川越地方史研究会 1981年 ★★★
 「6.石原のささら獅子舞」の冒頭で、「川越の年中行事のなかで伝統が古いばかりでなく、民俗芸能として非常に優秀なものに石原のささら獅子舞がある。これはたしかに鼻を高くして誇るだけの値うちがあろう。」と述べ、以下かなり詳しく紹介しています。

「川越閑話 川越叢書第1巻 岸伝平 国書刊行会 1982年 ★★★
 竹隣居史談/石原のささら獅子舞

「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年  ★★★
 石原のささら獅子舞      石原町・観音寺
 4月18日、市内石原町の観音寺例祭として行われる1人立ち3頭獅子舞。(現在は4月第3土・日曜日に行う)
 この寺は比叡山の末寺で、弘法大師の草創にかかり、慈覚大師が再興し、後水尾天皇の祈願所でもあった。慶長12年3月(1607)から、悪魔を降伏し、災難を消除して国民生活が平和でありますようにと、観音祭にささら獅子舞を演じたのが今日に伝わったものという。以来絶えることなく連綿と演舞され、江戸時代にはその都度川越城内に入って悪魔降伏・災難消除・家内安全の祈祷をし、領主からは当日祭礼祀粢料を賜った。ただ寛永11年(1634)時の城主酒井讃岐守忠勝が若狭小浜城へ国替となった時、獅子舞を愛好するあまり雌雄2頭を携えていってしまったため、その後75年の間自然中絶した。
 しかし宝永6年(1709)に、高沢の井上家から獅子頭が奉納され、再興された。
 この獅子舞の行列は先獅子(雄)中獅子(雌)後獅子(雄)の3頭、ササラッコ(8〜12才の少女)4人、山の神(8〜12才の少年)4人、天狗山伏各1名それに笛方と、歌うたいが数名つづいて総勢50余名に上る。
 ササラとは、竹筒に刻んだのこぎりばこ、先を細かく割った同じ竹製のササラをすりつけてならす楽器(簓)でその名をとってささら獅子舞という。舞は道笛につれ行列をととのえニワに入り、先づ笛にはじまり獅子はバチをぶつこみながら右足を大きくあげ舞いはじめるが、曲目は12切(12ケ月・12支の考えに基づく)という12の部分からなっている。その第5場では、獅子は大都の繁栄をよろこび、広野のはてしなきに狂い、花にたわむれるという舞をまう。
   武蔵野に月の入るべき山もなし  うばのかくれに月はよこ雲
の小歌もある。第7場は長歌で前の小歌にくらべるとのびのびしている。獅子が桜花の下で遊びたわむれるような舞とされる。第10場はかみあい。四隅に立っている花笠が中央に出てきて中獅子を囲んで隠す。先獅子と後獅子はナガシの踊りをしながらかみあいをくりかえす。この部分は「女獅子争い」とよばれ獅子舞の中でも特色のあるもの。
 太鼓の響きがささらの音に和し、笛の音がその間を流れるあたり、壮麗・優雅な舞である。
 17日はソロイといって練習の総仕上げをする。18日には観音寺に一庭奉納し、つぎに町内廻りに出て町境で一庭舞い、夕方になって井上家に上がり一庭。終って観音寺に戻り、半庭舞ったあと、「千秋楽」をあげて終る。
 今の獅子舞は、多分中世の念仏踊りや田楽などの影響のもとに、いろいろな芸能がミックスされてできあがったのであろうと考えられている。現在関東地方に残る3頭獅子舞は大部分、元禄以降のもので祈祷的というよりは、豊年踊り的な風流化したものが多いなかにあって由緒の明らかな、当地方代表の獅子舞である。
(県指定無形民俗文化財)

「目からウロコの民俗学」 橋本裕之編著 PHPエディターズ・グループ 2002年  ★
 第五章 お祭り大好き/10 なんと、獅子舞だって移住する? 獅子舞
 移住するのは人間だけじゃない。獅子舞だって移住する。海を渡って移住するものもある。
 北海道の郷土芸能はアイヌに伝わるものを除けば、他県から移住してきたものばかりだが、出身地は富山県が最も多い。しかもその大半が獅子舞である。富山県は浄土真宗の門徒が多いことによって知られているが、同時に獅子舞が数多く伝承されている。
 富山県の獅子舞は神仏と人間というよりも人間と人間が交流する機会として、地域社会に深く埋めこまれている。もちろん獅子舞の稽古は厳しい。でも、獅子舞は楽しくてしょうがない遊びであるらしい。こうした気分は北海道にも持ちこまれている。北海道の獅子舞は留萌(るもい)・上川・空知(そらち)・石狩などに数多く伝承されているが、いずれも富山県人が北海道に移住した明治時代の中ごろ、人間に連れられて移住してきたものであった。
 当時の富山県は獅子舞が広く愛されていたという。当然ながら北海道にも富山県の各地で演じられていた各種の獅子舞が流入している。一人立ちの獅子舞。二人立ちの獅子舞。そして胴幕の中に五人が入る百足(むかで)獅子が代表的なものであるが、富山県の出身者が他府県の出身者とも混じりあって複合的な地域文化を形成していった過程において、獅子舞もそのような新しい地域文化の一つとして発展したのである。
 実際、獅子舞はどこにでも伝わっている。したがって、誰でも自分が知っている獅子舞こそが普通の獅子舞だと思ってしまったりするのだが、獅子舞くらい多岐にわたっている郷土芸能も多くはないだろう。獅子舞の種類は一人立ちものもと二人立ちのものという二つの系統に大別することができる。
 最初は古い来歴を持つ二人立ちの獅子である。これは二人もしくは二人以上の人間が胴幕の中に入って舞うものであり、全国的に分布している。古代中国の獅子舞が日本に移住した以降、さまざまな形態に分化していったと考えられる。極端な場合は100人以上の人間が胴幕の中に入る巨大な百足獅子にも成長する。
 一方、一人立ちの獅子舞は獅子踊りとも鹿踊りともいわれる。一人が獅子頭を被り、腰につけた鞨鼓(かつこ)を打ちながら舞うものである。東日本に集中して分布する三匹獅子舞が最も一般的であり、現在でも800カ所以上に伝承されている。こちらも移住しているが、その方法が変わっている。三匹獅子舞はどうやら江戸時代の幕藩体制に深くかかわっており、幕府や各種の芸能政策によって組織的に移住させられていたらしい。
 例えば、福井県の小浜市に伝承されている雲浜獅子は、川越藩主であった酒井忠勝が小浜に転封されたさい、川越から小浜に移住したものであると伝えられる。また、愛媛県の宇和地方に伝承されている八ツ鹿舞は、仙台藩の伊達秀宗が分家して宇和島に転封されたとき、仙台から宇和島へ伝えられたものだ。
 こうした痕跡は、無数の獅子舞が人間に連れられて新天地へ移住していった、途方もない道程の一部でしかないだろう。そうだとしたら、富山県から北海道へ移住した獅子舞も、獅子舞を深く愛する人間によって伝えられてきた獅子舞の末裔であったのかもしれない。

獅子舞
「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年  ★★★
川越市の現行獅子舞
 石田の獅子舞
1 組 織
 年行事の責任でやる。
2 由 来
 明治以前からのものと思われる。「ホシモンジシ」といわれている。むしろの上にボッチに置いたムギやコメを拡げて干すような仕草からきているという。腰を思いきり落して、手前へ手前へと拡げていくような動きに似ているからで、「前へこごめば、こごむほどいい」といっている。
 地を這うような荒々しい動きで、迫力がある。なお庭場となっている藤宮神社には、すでに市文化財に指定されているものが二つある。算額と筒粥の神事だ。
3 日時・場所
 4月8日の春祈祷、7月14日のお天王さま、10月14日のオヒマチと年3回もあった。
 4月8日の春祈祷には、行列を組んで村廻りをやっていたが、最近はやめている。獅子も獅子頭を飾るだけで、クルウのは天王さまとオヒマチの2回だけになっている。
 いずれも当日の夜、8時頃から藤宮神社境内で行なわれる。むかしは前夜、ソロイがあったが、今ではいきなり本番となる。
 というのは石田では、ここしばらく新人の養成をやめており、10歳前後のベテランだけでクルウので、練習の必要もないためのようだ。
4 獅子頭・花笠
 大獅子・小獅子・女獅子。獅子頭を納めた道具箱に「天明乙己年四月」の文字がある。タッツケ、ワラジ。 ハイオイ(山の神)はジュバン、タッツケ、ワラジ、軍配。
 鳥居の前で行列を組み、拝殿に向って参道を進む。行列の順序は、年行事、花笠(4人・男)、ホラ貝、ハイオイ、小獅子・女獅子・大獅子、笛(4人)、歌うたいですべて大人。
 拝殿前に、ニワを定めてクルウ。
5 曲 目
 石田の獅子舞の特色は、地を這うような低い姿勢での激しい動きと、途中でホメコトバ、カエシコトバの入ることであろう。
 次は「川越市史」民俗編にある曲目である。
  道笛 イレハ ドジョウネコ オカザキ 女獅子隠し 女獅子争い(あじめ大獅子、次に小獅子が勝つ) オカザキ ヒャリホヒャリホ デハ ショウデン
6 ホメコトバ
 石田にはホメコトバのかけられる人が2〜3人いるが次はその1人、鈴木久作さん(明治35年生れ)の話だ。だんだんこういう世界もなくなっていくので紹介しておこう。
 今では石田の人間が石田の獅子舞をほめるのがほんとうだ。わしなんか。上寺山、小ヶ谷、上戸などどこまでも行ってほめたものだ。川島の白井沼なんかへは、1人じゃつまんねえと2〜3人連れてって威勢をつけたもんだ。
 ホメコトバにはカエシコトバがある。それのできる人のいねえ村では大あわてだ。「ホメコトバ入れさしてもらえますか」とあいさつすると、返せなくてバカさらけ出しになるのがいやさに、「それは受けられねえ、カンベンしてくんな」とお包みを出したり、座敷へ上げてごちそうしたりしてあやまっちゃうんだ。
 はじめてホメに行ったのは上寺山だった。もう40年も前のこだけど、ドキドキしちゃったな。
 石原へ行ったことがねえが、あそこはやらせねえということだった。むかし仲間が行ったら、「ハット、ハット」といってはねつけられちゃった。ホメコトバは石原では「御法度」だということのようだった。
 わしは獅子は十五の時から習った。父が笛だったので、笛と歌を習った。ホメコトバはハシバのおやじさんから、お正月、こたつの中で教わった。今、石田じゃあハシバのせがれがやってるが、あれはわしから伝えたんだ。
 上寺山の獅子舞
1 組 織
 年行事が獅子舞の運営に当るが、それだけでなく、すでに市無形民俗文化財に指定されているマングリなどにも関与している。
 ただ獅子舞の場合、「シシモト」といわれる時田家があり、その存在が大きい。時田家は名主筋の旧家といわれ、獅子舞道具一切の保管に当っている。また屋敷内の土蔵を練習場に提供したり、獅子舞の日には母屋も開放している。
 その上、当主の庄三郎氏は笛の名人であり、獅子舞の師匠でもある。
 昭和54年度の「八咫神社御獅子舞祭礼役員表」によると、会長は時田庄三郎氏、また年行事は帯津朋康氏外8名となっている。なお上寺山では、地区の全戸がなんらかの仕事を分担し、地区をあげて獅子舞の保存に努めている。
2 由 来
 上寺山の獅子舞は、明治の中頃より中断していたが、昭和8年に42年ぶりに復活、以来、時田家が「シシモト」を勤めている。
3 日時・場所
 獅子舞は夏の天王さまのお祭りにやるところが多いが、上寺山では「オヒマチ獅子」といって、10月14日の秋祭りに行う。
 練習は1週間前より、シシモトの土蔵の中で毎晩やる。この蔵はかって時田家が醤油屋をやっていたので、原料の豆や小麦を入れておいたもの、昭和4年に建てたという巨大なものである。
 10月に入ると夜風が冷たくなり、習う青年たちも、教える長老たちも大変なわけだが、土蔵の中なのでその心配はない。
 13日は、シシモトでソロエ。14日も、午後1時、まずシシモトに集まる。シシモトの床の間に飾ってある獅子頭を舞い方がかぶり、行列を組んで鎮守の八咫神社に向う。
 行列の順序は、川越地方の他の諸獅子舞の舞台とそう変っていないが、参考までに掲げてみよう。区長・同代理・年行事・ほら貝・万灯(二つ)・花笠・ササラッコ・竿持(竿掛り用の太い竹を持つ、2人)・山の神・中獅子・女獅子・大獅子・笛方・歌方・獅子係、そして一般参列者。
 神社の境内に入ると、社前にニワをきめ、「ナカダチ(仲立)の舞」と「十二切(十二節)の舞」を奉納する。
 それから村廻りとなり、区長・区長代理の庭でクルウ。村廻りの最後は、シシモトの庭。ナカダチの舞と十二切の舞を舞い、終って獅子頭を、シシモトの床の間へ納める。一同も座敷に上り、御神酒を頂く。それから勝手方が用意した酒肴をごちそうになる。
4 獅子頭・花笠
 大獅子・中獅子・女獅子はタッツケ、シロタビ、ワラジ。
 山の神(仲立)はハチマキ、長袖ジュバン、タスキがけ、シロタビ、ワラジ、軍配。
 ササラッコは、少女。七五三の祝いのように振り袖を着て帯をしめるので立派だ。夏でなく秋なので、こういう仕度もできるのであろう。
 ササラを持ち、花笠をかぶるわけだが、花笠は重いので、若い衆に捧げ持ってもらう。
5 曲 目
 「仲立の舞」では、サオガカリとケンカバが見せ場。
 「十二切の舞」には各切ごとに優雅な歌があり、歌方のいいのどを聞かせてくれる。
 次は「川越市史」民俗編よりの曲目である。
  仲立の舞 イレハ サオガカリ ケンカバ(花笠が女獅子を隠す。大獅子と中獅子がケンカする。) ヨコットビ デハ
  十二切の舞 イレハ ピンヤヒャヒャ ヒトウハウハウ ラリローラリロー ダデツク ドカドカ チンラリロチンラリロ トヒトヒヒャリロ ヒャヒャヒャウ ヒッチョヒッチョ トーヒトーヒヒャーヒャヒャウ トーヒートーヒーヒャーヒャヒャウ ピンヤヒャーヒャーヒャ デハ
 下小坂の獅子舞
1 組 織
 年行事(10人)が一切の責任をもってやる。
2 由 来
 一説には寛政から、一説には元禄からというが、それを示す文献はない。ただ明治以前からのものであることは確のようだ。
3 日時・場所
 7月12日の薬師さまと7月15日の天王さまの獅子舞だが、その前からいろいろ準備が多い。
 年行事のゆずり渡しは、7月1日、永命寺(真言宗智山派)本堂。
 新げいこの年は7月3日から毎晩練習。むかしは弟にはさせず相続人にだけさせた。「天王さまへのご奉公だから」と親たちも喜んで強力した。
 シシクルイッコは大きいほどいいといって小学校5〜6年頃から。花笠も男の子で小学校の3〜4年生。ナカダチッコはちっちゃいほどかわいいといって、五つぐらいでやった子もあった。
 7月7日、永命寺境内に一間四方の仮宮を組み立て、天王さまをお迎えする。天王さまは永命寺内にあったが、明治の神仏分離で村の東端の白髭神社境内に移された。それで戦前までは、6日の夜、子供たちが神社におこもりし、12時すぎると天王さま(おみこし)をワッショイ、ワッショイ担ぎ、小畦川で清め、仮宮へまちり込んだ。
 現在は世話人だけでやっているが、このようにお寺に仮宮を建て、天王さまをお迎えして祭るやり方は、福田地区でもみられる。
 7月12日は薬師様の日。
 永命寺境内の薬師堂の前で午後、ヒトニワクルウ。それからお寺でカンネンギョウをやってもらう。いったん夕飯のため家に帰り、夜になってもうヒトニワ、クルウ。
 14日はソロイ。仮宮の前でクルウ。
 15日はまず仮宮の前でヒトニワ。行列を組んで白髭神社へ行きヒトニワ。それから村廻り。1軒ずつ、庭まで入って行くので日暮れまでかかる。
 村廻りが終るとそれぞれ家へ帰り夕飯をすませて永命寺に集まる。仮宮の前でまたヒトニワ、クルウ。次に永命寺の前でもうヒトニワ、クルッて千秋楽になる。
4 獅子頭・花笠
 大獅子・中獅子・女獅子、永命寺に保管。
 シシクルイッコは、タッツケ、白タビ、ワラジ。
 カナダチッコは、ハチマキ、ジュバン、タスキ、タッツケ、軍配、采配。
 ササラッコはここでは男の子。男の子のササラッコは珍しい。ササラを持ち、花笠をかぶる。
 下小坂には棒使いもいる。男の子、2人。ユカタにゾウリ。六尺棒を1本ずつ持ち、ニワを定めて棒打ちをする。そのあと獅子がクルウ。
5 曲 目(「川越市史」による)
 (1)ピーピピピーピーピ (2)ジョウショウネコにトーラレタ (3)ピーガシャリホ (4)トロトロホヘイ ヒャロヒャ (5)トロヒャリロ(花笠が中央に集まり、中に女獅子を隠してしまう) (6)小歌 (7)トロトロホヘ(大獅子・中獅子のケンカ。はじめ大獅子、次に中獅子が勝つ) (8)オカザキ ジョーロショー (9)歌 (10)ピーガヒャーヒャー (11)トーホーヘ ヒャヒャロ
6 笛吹きの養成
 どこの獅子舞も笛吹きがいなくなってほろんでいく。下小坂でも数年前には、吹ける人が2〜3人になってしまった。「これじゃあ下小坂の獅子も終っちゃう、大変だ」ということになり、小田さんを師匠に青年たちが一生けん命習った。それで今では30人もの笛吹きができている。
 笛が多いので、クルウほうも力が入り、ここの獅子舞は活気にあふれている。
 平塚の獅子舞
1 由 来
 明治初年に平塚大火があり、獅子道具もすべて焼失した。
 現在の獅子頭は明治7年7月に作りなおしたものなので、ここの獅子舞は明治以前からのものと思われる。
2 組 織
 天王さまのお祭りとして、年行事が中心になっておこなっている。
3 日時・場所
 もとは7月15日だったのが、田の仕事がばかに忙しかったので10日遅らせたのだという。「天王さままでに、ニバンゴまでやっちゃおう」と田の草取りに精を出したものという。
 7月24日がソロイ。天王さまの前でクルウ。
 7月25日は、天王さまの前から行列を組んで村廻りに出る。笛は道下りの曲、1軒ずつ、庭まで入る。途中、馬頭観音の前と区長の家でクルウ。
 夕飯後、天王さまの前に村中の者が集ってくる。
 まず子供が「イリハ」をやり、次に大人が「ホンニワ」をやる。この本ニワがすばらしい。
4 獅子頭・花笠
 大獅子・中獅子・女獅子。前述のように明治初年の大火で焼失したので、浅草で作ってもらおうとしたら、「型がなくちゃあだめだ」と断わられてしまった。そこで村に絵の上手な人がいたので、その人に思い出して書いてもらい、その絵の通りに作ったのが今の獅子だ。
 平塚の獅子はよそのと、どことなく違っているがそれはこのためだ。
 シシクルイッコは小学校の高学年。むかしは家に残る者(相続人)が、小学校3年から高等科の終るまで習った。仕度は、ジュバン、タッツケ、白タビ、ワラジ。
 ナカダチは袖つきの着物にタッツケ、ハチマキ、手甲、黒タビ、ワラジ。
 ササラッコは少女。ササラを持ち花笠をかぶる。むかしは帯つきで揃いのゆかたを作ったが、戦争中物資がなくなり、「なんでもいいじゃないか」ということになって、軽い洋服になった。
5 曲 目
 「イリハ」と「ホンニワ」の二つ。イリハは子供のニワだが、それでも二ニワ続けると参ってしまうという。
 ホンニワは大人のニワで勇壮である。川越地方の他の獅子舞同様、「女獅子隠し」の場があるが、平塚では二頭の雄獅子どうしのケンカはない。他地区ではこのケンカとその勝ち負けが見せ場になっているが、平塚では争わず、花笠の中に隠された女獅子を探すだけである。ここの獅子の舞が大きく、どことなく優雅なのも、一つにはこの辺の演出からもきているのである。
 なお笛でむずかしいのは、次の「モー」の笛だという。
 「イリハ」(「川越市史」による)
 (1)神社に向って片足を開き、太鼓を打ちながら半回転ずつしてクルウ。
 (2)トーヒャーローピー
 「本ニワ」
 (1)イリハの(1)と同じ
 (2)イリハの(2)と同じ
 (3)マワレヤクルマ
 (4)モー
 (5)ピーヤレソレ
 (6)マダマダ
 (7)モー
 (8)女獅子隠し(ここの歌は「思ひもよらぬ あさぎりがおりて そこで女獅子がかくされた」 「こーらくどーや 岩に女獅子が巣をかけて 岩をくずして女獅子をたずねろ」)
 (9)三匹肩ならび
 (10)モー
 (11)ヤーエ
 (12)イリハの(1)の部分
 福田の獅子舞
1 組 織
 年行事が一切の世話をする。
2 由 来
 明治4年に獅子頭を塗りかえた記録があるので、明治以前からのものであることが推察できる。
3 日時・場所
 天王さまの日、7月の23・24日。
 むかしは遅く夜の8時過ぎからだったが、さいきんは子供たち中心なので早く始め、早く終るようにしているという。
 7月15日、オタビの日。赤城神社にある天王さまを、星行院(天台宗)境内のお仮屋に移す。お仮屋は組立式のものでお寺で保管している。
 23日、ソロエ。
 24日、「四方がため」のあと、赤城神社境内でヒトニワ、クルウ。
 次に行列を組んで、すぐ隣りの星行院に入り、フタニワ、クルって千秋楽。
4 獅子頭・花笠
 先獅子(雄・ネジリ角)、中獅子(雄・宝珠)、後獅子(雄、六角の角)
 シシクルイッコは、今では地区の男の中学生全員。ジュバン、タッツケ、手甲、白タビ、ワラジ。
 ハイオイは、ハチマキ、ジュバン、タッツケ、タスキガケ、白タビ、ワラジ、軍配、弊束。
 ササラッコは少女4人、花笠をかぶり、ササラを持つ。
5 曲 目(「川越市史」による)
 (1)ドジョウネコ
 (2)ママレ
 (3)モーホーホン
 (4)ケーサ
 (5)メジシカクシ
  花笠がニワの中央に寄ってきて、中獅子をかくす。「思ひもよらず朝霧がおりて、そうこでめえじしがかくされた」の唄がある。
  雄獅子のけんかとなり、まずサキジシ、次にアトジシが勝つ。
 (6)モーホーホン
 (7)デンデンカッカ
 (8)ヤーエン
 (9)ヒェートコトン
 (10)デンデンカッカ
 (11)横トビ
 (12)ヒェーヒェーヒェー
6 タテブエによる獅子舞
 現在の福田の獅子舞の特色は、従来からのヨコブエでなく、小学校のだれでもが持っているタテブエでクルウことであろう。
 小学校4年以上のタテブエにのって、中学生がクルウ。こうなったのにはわけがある。それはヨコブエを吹ける人がだんだんいなくなり、福田の獅子も終ってしまいそうになった。その時、小学生ならだれでも慣れ親しんでいるタテブエに着目。それで後継者を作ろうとした人がいた。長年教職に就かれ、とりわけ音楽に堪能な小高勝次先生(現山田公民館長)がその人だ。
 小高先生のご苦心はみのり、今では福田のどの子も獅子舞に参加している。
7 小高勝次先生の話
 今から10年ほど前のこと、福田の獅子笛を正確に知っている人といえば、小谷野安治さんと、その弟子の高梨清武さんの2人ぐらいになってしまった。
 そこでこのままでは福田の獅子をもつげなくなってしまうと思って、なんとしてもこの2人が丈夫なうちにしっかりつかまえておこうと思った(お二人とも今は故人)。
 そこで安治さんと清武さんに全曲を吹いてもらって録音、それを聞き直しつつ、まずいところは訂正してもらい、「よーし、これで安心」というテープを作った。それを三晩くらいかかって音符にした。
 幸いわたしは音楽が大好きで、音を聞けばどんどん音符が出てくる。そこで全曲を音符に写してから自分で吹いてみて、リズムもつけた。
 また舞のほうも、猪鼻夏蔵、小高安治、滝沢常吉の3人が仕込んでくれることになった。
 それで子供会を組織、小学校4年以上の男女全員に音符を渡し、タテブエで覚えさせた。そして中学生になったら、どの男の子も舞わせることにした。大勢いるので、3組にも4組にも分けて習わせたが、すでにフエを覚えているので上達するのが早かった。
 こうして福田の獅子は、地区の子供達全員で受けついでいくことになった。
 むずかしいヨコブエを避け、思い切ってタテブエに切り替えてみたが、幸い多くの人々の理解が得られ、今では県や市などの子供たちによる民俗芸能大会によく呼ばれるようになっている。
 古谷本郷の獅子舞
1 組 織
 古谷本郷の中の上組の獅子舞。上組の昭和生まれで、25歳以上の者がほぼ全員入っている「昭和力会」(約40人)が一切を運営、昭和51年より復活した。
2 由 来
 「タノクサジシ」といわれ、田の草取りのときのように腰をうんと落す。荒っぽい獅子といわれていた。
 明治40年頃、一度つぶれ、復活したものの、大正14年からまた中止になった。それが終戦後復活したものの永続しなかったのを、昭和51年より復活したもの。一切を昭和生まれの若い者だけで自主的に運営している。
3 日時・場所
 現在の獅子舞は、4月3日の夜、8時頃より弁天さまの前でやる。
 この日は弁天さまのオセックで、婦人会の踊りのあとにやる。
 次は十五夜、9月15日は県指定無形民俗文化財のホロカケ祭りだが、それが終ったあと、八幡さまの境内でクルウ。たいていの家がホロカケ祭りに関係しているから、それが終らないと、顔が揃わない。それで夕方になってから、ヒトニワ、クルウ。
4 獅子頭・花笠
 マエ獅子・女獅子・アト獅子に天ゴウ(天狗)さま。
 ササラッコはササラを持ち、花笠をかぶる。
5 曲 目(笛用のパンフレットによる)
 イリハ
 トーヒャロヒャー
 花ガカリ
 岩クズシ
 オカザキ(オカザキのあと「ハナブルイ」が入る。ハナをかけた人のオヒロメ。「東西、東西、ひとつ金○○円、ご当地、だれそれさま、ささら連中にくだしおかされましたあー」とやる。むかしは長くて小一時間もかかったという。シシはハナブルイの間中、円陣を作って休む)
 トッピーヒャロ
 ヒーヤトコト
 岩クズシ
6 昭和力会
 昭和力会の獅子舞には、師匠格として笛の岡田初男さんと舞の斎藤栄光さんがいる。次はその斎藤栄光さんの話である。
 終戦後、世の中がいくらか落ちついてきてから八幡さまでやりはじめた。おれが18・9の時だったから、昭和23・4年頃だったが、昭和27・8年頃までで消えちゃった。
 戦前の獅子は夜だった。八幡さまのオコモリハジメは9月9日から。それで9日の夜か14日の夜(14日ヨマチ)にやった。
 むかしの獅子は、ニワでムギワラを燃やしてその周りでクルッた。中で火をどんどん燃やすから、獅子が浮き上ってそれはきれいだったということだ。
 終戦後も最初復活したときはムギワラを燃やしてやった。もっともクルウほうは火にあぶられて汗びっしょりになっちゃう。
 昭和力会では火の周りでやったことはない。力会には、はじめ大きな事業がなかった。それで「獅子でも復活すべえ」ということになったんだ。獅子をクルウには40人ぐらいい要るが、全員の数もちょうどそれぐらいであった。それに道具が残っていた。道具は前は氷川さまにあったが、今はみだ堂にある。
 それと笛の岡田初男さんが、父親のやっていたのをくっついて覚えていたので助かった。
 あとはむかし習ったことを思い出し思い出し、一生けん命やってきた。獅子の歌もなんとか次々に思い出しできたよ……。だけどまだちょっと、どっかがほんとでないんだ。みんなで考え考え、すこしずつよくして行きたいね。

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作成:川越原人  更新:2009/8/30