藤宮神社は、川越市石田にある。この地は江戸時代には川越藩領で石田村と呼ばれていた。ここの藤宮神社に算額がある。明治4年(1871)12月に谷中村の大野旭山輝範が奉納したもので、大きさ縦87センチ、横287センチである。問題一問と答が記されている。そこで問題について紹介しておこう。
「今、図のように正三角形内に四円を容れたものがある。甲円径が三寸(9.9p)である時に、丙円径はいくらか求めよ」。そして算額には、解答の後に、世話人、門人合わせて536名の名が記されている。その門弟には、遠く、新潟や東京の人もいる。大野旭山は石田本郷の塩野転(うたた)頼近の弟子となり、幼名を林七、後に佐吉といった。別に、谷斎、薫亭軒などと称した。旭山は川越藩主松平斎典に、最上流算術指南として仕えた。
また、川越藩の宮沢熊五郎一利から測量術を学び、「量地術初伝巻」を伝授された。川越藩主から、河川や堤防、道路などの普請測量を命ぜられ、その設計、見積が正確で、工事を成功させ、よって藩主より脇差一振を贈られた。特に、よく氾濫でなやまされていた川越藩領である川島新川堀の河川工事は、秀れた数学の知識と設計のもとに完成させている。旭山の著作を含め蔵書は現在数十点、谷中の生家に残されている。明治16年(1883)5月4日82歳で没している。
川越市内には約10点近い算額の存在が確認されており、そのうち6点が内容を伝えられている。通町の八幡神社、山田府川の八幡神社、久下戸の氷川神社、宮下町の氷川神社、古尾谷八幡神社、石田の藤宮神社の算額などである。通町の八幡神社の算額は川越で最も古く、現存していないが、寛政5年(1789)に藤田貞資、嘉言によって編集された『神壁算法』に詳細に記されている。この本は、和算の問題集で、我国最古のものである。
(注)算額=日本の算術を額にしたもの。
算額の写真の説明
ケヤキの木目も美しい一枚板に刻まれた算額(縦66cm×横90cm、古尾谷八幡神社蔵、川越市立博物館提供)。
右の額には二つの問題が示されている。一つは長方形に円が五つ内接し、「木圓」(もくえん)の直径が17寸の時「水圓」(すいえん)の直径はいかほどか、というもの。答えは10寸と端数。解法は三平方の定理を駆使する。二番目は等脚台形を二つの三角形に分け、それぞれに内接する円を置く。台形の上底が久寸、内接する円の直径がそれぞれ7寸、4寸の時、下底はいか程の長さか、というもの。答えは21寸。相似形などの初等幾何を用いて二次方程式を導く。
上図(略)は、古谷上村(川越市)に住む和算家沢田千代次郎(身分は農民か、号は理則)が、1841(天保12)年に地元の古尾谷八幡神社に奉納した算額である。
和算とは、近代に入って導入された西洋数学に対して、日本で独自に発達した数学をさし、江戸時代に吉田光由の『塵劫記』以来、独自の発展を遂げ、関孝和によって大成された。これ以降、さまざまな流派が起き、西洋数学に先んじた方法や定理も発見された。県内でも18世紀後半から和算教育が始まり、19世紀前半に和算塾が各地に生まれた。この算額を奉納した沢田千代次郎自身、地元で和算塾を開いていたが、師は前橋藩の和算家で関流七代目の手島清春。算術の他に測量術も学んだ。18世紀後半に、松平朝矩(とものり)が前橋から川越に入封して以来、川越藩は前橋藩と関係が深く、そのような事情を背景に、手島も川越と関わりを持ち、沢田をはじめとした地元の好学家に教授した。
教授方法の基本は個人教授で、解き方を詳しく説明するのではなく、問題を与えて自力で解かせた。一つの問題が解ければ、また次の問題を与える。こうしたやり方を重ねて、レベルをあげて行くのである。内容は、代数・級数・不定解析・幾何・微積分などで、商いの計算・土地測量。暦の計算などの実用面から、より高度で難解な問題にも挑んだ。その成果が、算額奉納である。算額に記された問題をみると、難解な問題を考えて解いたりすることに、誇りと楽しみを見い出しての研究発表や、自己宣伝を目的としたものが多く、直接の実用性は感じられない。ここにあげた算額もこれに当てはまるかもしれないが、このような探求心が近世の技術を支え、近代の科学技術へつながるのである。
現存する算額は、全国で884面(1997年現在)。最古の算額は、栃木県佐野市星宮神社所蔵の1683(天和3)年のものである。埼玉では87面が確認される。数では福島・岩手についで三番目に多く、文献及び紛失したものを含めると、文化から文政年間の時期のものが最も多い。現存するものでは、本庄市正観寺にある1726(享保11)年銘のものが最も古い。
参考文献 『埼玉の算額』 埼玉県立図書館 1969
三浦良朗 「川越の算額」 川越高校『紀要第三十一集』 1994
算額は、主に江戸時代から明治時代にかけて社寺に奉納された木製の額で、数学の問題を通常1〜3題程度のせています。十分な情報伝達手段を持たない時代には、人々が集まる社寺は、研究発表の格好の場所であったのでしょう。
算額に記述されているのは、問題文と答と術文です。答は数値のみで、術文も答を計算する式だけを表わしていて、なぜそんな式が導けたのかについては、何の説明も書かれていません。これは和算(近代以前の日本の数学)が、オープンなものとならず、秘芸を伝承する形で発達したことと関係があるのかもしれません。
ここに紹介するのは、埼玉県川越市に現存する5面のうちの1つです。
図中に最上流≠ニいう記述がありあますが、これは会田安明という和算家が始めた流派です。
日本では数学も家元制度になっていたのでしょうか。ただ会田も、みなもとをたどれば関孝和の弟子の建部賢弘につながり、結局は和算の源流である関流の一分派と考えてもよいでしょう。
さて算額では三平方の定理がよく利用されます。皆さんもチャレンジしてみて下さい。
最後に術文の解説=i式の成立する理由)を示しておきます。<川越市石田七八三 藤宮神社の算額>
奉 献 最上流
今有如円三角内容四円甲
円径三寸間丙円径幾何
答日丙円径壱寸
武蔵国入間郡石田本郷
塩野転頼近門人
武蔵国入間郡谷中村
願主鳳倦堂
大野旭山輝範印印
術日置甲円径三除之得丙円径合間
(世話人、門人連中五三六名の人名あり)
維時明治四辛未年十二月良辰
堯圃山田遜監漱書
印印
(問題文)
今、図の如く三角(正三角形)内に四円を容れる有り。甲円径三寸、丙円径は幾何と問う。
(答)
答えて曰く、丙円径は一寸。
(術文)
術曰く、甲円径を置き三で之を除し、丙円径を得て間に合す。
術文の表す式 丙円径=甲円径/3
<術文の解説>
(甲円:正三角形の頂点を通り、下部の乙円、丙円に接する円
乙円:正三角形の下部で二辺に接する円
丙円:正三角形の底辺、左右の乙円、および甲円に接する円)
A:甲円の中心
B:乙円の中心 EF=√乙丙 (E:正三角形の底辺の中点、F:乙円と正三角形の底辺との接点)
C:丙円の中心
甲:甲円の直径
乙:乙円の直径 FG=√3/2・乙 (G:正三角形の右下の頂点)
丙:丙円の直径
(H:正三角形の頂点、D:乙円の中心BからHEに降ろした垂線の交点)
△BCDで三平方の定理から
BD2+(乙/2−丙/2)2=(乙/2+丙/2)2
これを解いて BD=√乙丙
また△ADBで三平方の定理より
(丙+(甲−乙)/2)2+(√乙丙)2=((甲+乙)/2)2 …@
また EH=√3・EGより
甲+丙=√3(√乙丙+√3/2・乙) …A
@とAより乙を消去し甲と丙の関係を求める。
まず@より
乙=丙(丙+甲)/甲
これをAから得た式
3乙丙=(甲+丙−3/2・乙)2
へ代入し整理すると次式を得る(途中で両辺を甲+丙(≠0)で割っている)。
4甲3−8丙甲2−15丙2甲+9丙3=0 …B
B式を因数分解して、(甲−3丙)(2甲−丙)(2甲+3丙)=0
ここで、甲>丙>0に注意して解くと、甲=3丙を得る。
「和算」とは、江戸時代末期に輸入された西洋数学に対して、江戸時代に発達した日本独特の数学を言う言葉です。当時、日本の数学は「算法」と呼ぶのが一般的でしたが、輸入された西洋数学を「洋算」あるいは「西算」と呼んだため、これと区別するために明治以降こう呼ばれました。
和算は江戸時代に発達した日本式の数学ですが、その基礎は中国伝来の数学にあります。古くは奈良時代以前に中国から数学書などが伝えられましたが、和算の発展に大きな影響を与えたのは室町時代末から江戸時代初期にかけて輸入されたそろばんと中国数学書でした。『算法統宗』などの数学書は江戸時代に広く普及し、和算の発展に大きく貢献しました。
寛永4年(1627)に出版された吉田光由の『塵劫記(じんこうき)』は、『算法統宗』などを参考にしてまとめられた数学書で、そろばんの使い方から日常生活に必要な計算までを挿絵入りで解説しています。本書は版を重ねて広く読まれ、和算発展の出発点となりました。
『塵劫記』は版を重ねるごとに内容を改め、寛永18年の新版では、巻末に解答を付けない12の問題を載せています。この問題を遺題と呼び、これを受けて多くの数学者は遺題に挑戦し、遺題の解答とともに自らの遺題を載せた著書を出版しました。この繰り返しを遺題継承といい、和算発展の推進力となりました。
関流の創始者関孝和( 〜1708)は、『古今算法記』(沢口一之著)の遺題に解答を与えるため、東洋初の筆算による代数演算を工夫しました。この方法は、後に点竄術(てんざんじゅつ)と呼ばれるようになり、和算の中心的手法となりました。関孝和以降、日本の数学は独自の発展を遂げ、当時としては世界的水準に達する科学となりました。
江戸時代も後期になると、和算を学ぶ人々はますます増え、地方に優れた和算家が数多く生まれました。各地の寺社には、数学の問題や解答を記した算額が数多く残されています。算額奉納の風習は古くからあったものですが、一層盛んになったのは江戸時代後期になってからです。
算額は、和算家が解いた数学の問題を額に記して神社仏閣に奉納したものです。算額奉納の風習は、明暦年間(1655〜1658)頃には存在したと指摘されていますが、現存最古の算額は栃木県佐野市星宮神社の天和3年(1683)のものです。この算額には4問記されていますが、その内の1問には解答がなく、遺題となっている貴重なものです。算額奉納の目的は、絵馬と同様に神仏に対する感謝、祈念のためですが、その外に個人の研究発表や自己宣伝の意図もあったと考えられます。
現存算額の多い県は、福島・岩手・埼玉・群馬の各県で、埼玉県では80面以上の算額が確認されています。県内の分布では北部に多くの算額が残されており、川越市内では5面となっています。市内の算額は現存5面の他に、記録に残されている算額が3面あるため、都合8面の算額が市内の寺社に奉納されたことになります。5面の算額の中には、風食が進んで判読の困難なものもありますが、彩色のある図形と、問文・答・術文の記述からなっています。
川越地方の和算家の流派は、判明しているものでは関流と最上流です。それらは江戸算額の影響をうけて普及したもので、関流では、内田五観(1805〜1882)に学んだ手島清春・宮沢一利(いずれも川越藩士)、藤田貞資(1734〜1807)に学んだ伊藤憲章(川越藩士)、長谷川弘門下の鈴木宗徳(川越藩士)が知られています。これら川越藩士から和算の伝授をうけて、農民和算家である沢田理則(古谷上村)、戸田利高(向小久保村)、斎藤高重(網代村)などが現れました。また同じ関流の戸田高常(志垂村)は、算額に60名以上の門人を記しています。
最上流では、足立郡梅田村(現東京都)に住んだ大原利明( 〜1828)の流れをくむ塩野頼近(石田本郷)や大野旭山(谷中村)が知られています。大野旭山の算額にも、門人・世話人500名以上の名前が記されており、和算の広がりを物語っています。
文化8年(1811)正月に、久下戸村(現川越市久下戸)の氷川神社に奉納された算額で、4問の答と術が記されています。奉納者は、久下戸村の奥貫五平次正定のほかに、同村の関根貞六信行・関根冨蔵有道・沢田金十郎安亮、渋井村の江尻与七高直、古谷本郷の吉崎源蔵之義の5名です。
奉納者のひとり奥貫五平次正定(正貞)は、奥貫家の八代目にあたり、別名孫六とも称し、文政年間には久下戸村の名主をつとめました。算学の伝系は今のところ不明ですが、嘉永7年(1854)に73歳で没しています。奥貫家では、五代目友山や九代目正孝などが、村の子弟を集めて学問を教授したことが知られています。奥貫家には、京都で宮城流を名乗った宮城清行の『和漢算法』などの和算書が残されています。
算額の図と釈文
(1)書き下し文 (2)解説 問1. 〔問1の解〕 問2. 〔問2の解〕 問3. 〔問3の解〕 問4. 〔問4の解〕
天保12年(1841)8月に、古谷上村(現川越市古谷上)の沢田千代次郎理則が古谷本郷の古尾谷八幡神社に奉納したもので、2問の答と術が記されています。
算額によると、沢田千代次郎は関流七伝手島清春の門人で、自身も多くの門弟を育てたと伝えられています。師の手島清春は川越藩士で、天保4年の川越藩「巳給帳」によれば、家禄は12石3人扶持とあります。手島の門人には、同藩の加藤新吉郎や大沢清五郎、上富村の武田喜代治郎などが知られています。
算額の図と釈文
(1)書き下し文 (2)解説 問1. 問2. 〔問1の解〕 〔問2の解〕
[沢田千代次郎理則関係資料]
沢田千代次郎理則は、古谷上村(現川越市古谷上)に生まれ、川越藩士手島清春を師として算術を学びました。天保12年(1841)に古谷本郷の古尾谷八幡神社に算額を奉納しました。明治元年(1868)に54歳で亡くなっています。澤田家には、理則やその子和助が使用した和算書が保存されています。
(1)安政3年の算額
市内府川の八幡神社には2面の算額が奉納されています。その1面は、安政3年(1856)3月に戸田新三郎高常の門人63名によって奉納されたもので、板の上に和紙を貼って3問の答と術を記しています。問題の第1問は『算法直術正解』(平内延臣著)の第16問と、また第3問は『観新考算変』(法道寺善著)の第1問と同一であると指摘されています。
和算家の戸田新三郎高常は、志垂村(現川越市山田)に生まれ、初め吉右衛門といい、後に新三郎高常と改めました。戸田家では、数人の和算家を輩出し、いずれも新三郎を名乗りました。高常は三代目新三郎にあたり、安政3年正月に亡くなっています。流派は関流ですが、伝系はわかっていません。
算額の図と釈文
(1)書き下し文 (2)解説 問1. 問2. 問3. 〔問1の解〕 〔問2の解〕 〔問3の解〕
(2)安政5年の算額
この算額は、安政5年(1858)11月に志垂村(川越市山田)の戸田喜四郎高次が、八幡神社に奉納したものです。算額は左側が四角で右側が絵馬型の珍しいものですが、残念ながら全体に剥落がひどく、文字の判読はほとんどできません。川越市の文化財に指定された時の調査で、末尾に戸田喜四郎高次の名前が確認されました。
奉納者の戸田喜四郎高次は、同じく同社に奉納された安政3年算額の戸田新三郎門人中筆頭に記されています。戸田新三郎と同村であることから、師事して和算を学んだと考えられます。
算額の図と釈文
(1)書き下し文(1段目のみ) (2)解説 問1. 〔問1の解〕 問2. 〔問2の解〕
[斎藤定五郎高重関係資料]
斎藤定五郎高重は網代村(現川越市山田)の人で、向小久保村(現川越市山田)の戸田弥太郎利高から算術を学び、明治38年(1905)に73歳で亡くなっています。高重が利高について算術を学び始めたのは安政2年(1855)頃と考えられています。また、戸田利高の師宮沢熊五郎一利からも直接学んだようです。斎藤家には、高重の使用した和算書や測量器具などが多数残されています。
明治4年(1871)12月に、谷中村(現川越市谷中)の大野旭山輝範が地元の鎮守社に奉納したものです。その後この社は藤宮神社に合祀されたため、この額もそこに移されたといいます。算額には1問の答と術を記し、そのあとに世話人門人538名の氏名が列記してありますが、風食のため判読が困難になっています。門人世話人の居所は広範囲にわたっており、埼玉県内はもとより遠くは新潟県に及んでいます。
大野旭山輝範は俗名を佐吉といい、谷斎・鳳倦堂・董亭軒とも称しました。隣村石田本郷の塩野頼近から最上流算術を学び、その後川越藩士の宮沢熊五郎一利について測量術も学びました。
算額の図と釈文
(1)書き下し文 (2)解説 問. 〔問の解〕
(1)武州川越通町八幡宮の算額
寛政7年(1795)11月に伊藤甚太夫憲章が、川越通町の八幡宮に2問の答と術を記した算額を奉納した記録が『増刻神壁算法』(寛政8年刊)に載っています。『神壁算法』は、関流藤田貞資(1734〜1807)門下の全国的な奉額の記録集で、初版は寛政元年に、続編の『続神壁算法』は文化4年(1807)に出版されました。
奉納者の伊藤甚太夫憲章については、川越藩士であること以外不明です。
算額の図と釈文
(1)書き下し文 (2)解説 問1. 問2. 〔問1の解〕 〔問2の解〕
(2)石田本郷折戸 地蔵堂の算額
文化元年(1804)4月、石田本郷(現川越市石田本郷)の塩野頼近は地元の地蔵堂に算額を奉納しましたが、大正15年(1926)の火災により焼失してしまいました。算額の内容は、塩野家に保管されている「当所地蔵尊江奉額ノ扣書」(塩野家文書)に記録されています。
算額の図と釈文
(1)書き下し文 (2)解説 問. 〔問の解〕
[塩野頼近関係資料]
塩野頼近は俗名を伴右衛門、または半七といい、転頼近(うたたよりちか)と称しました。最上流算術を足立郡梅田村(現東京都足立区梅田)の小泉伝蔵理永に学びました。小泉伝蔵の師大原利明( 〜1828)は、最初関流の本多利明や日下誠について学びましたが、寛政11年(1799)頃最上流の会田安明の門に入り、その後文化7年(1810)に破門されて再び関流の日下誠に学んだ人物です。そのため、塩野頼近が小泉伝蔵から最上流を学んだ時期は、寛政末年より文化7年頃までと考えられています。
(3)武州川越氷川大明神社の算額
稿本として伝わっている「球缺内容五球術解」に、川越氷川大明神社に奉納した算額の記録が残っています。奉納者は手島喜次郎清春門人の加藤新吉郎重信で、奉納年は天保6年(1835)11月です。
加藤新吉郎重信は川越藩士で、同じく藩士の手島清春から算術を学びました。川越藩の嘉永5年(1852)「子給帳」には、「米拾弐石三人格 加藤新吉郎」とあり、同人と考えられます。
算額の図と釈文
(1)書き下し文 (2)解説 問. 〔問の解〕
(1)増田藤助暉之
文化8年(1811)奉納の榛名神社算額は、「石田一徳門人自問自答」とあるように、石田元圭の門人8人による掲額です。川越藩士増田藤助暉之の問題はその筆頭に記されています。増田は川越藩の堰方小奉行をつとめていた武士で、前橋陣屋勤務であったと思われます。
算額第1問の図と釈文 《榛名神社算額解答》
(2)星隼太忠恕
福田復(号を金塘または貫通斎)が著した『算法雑解』に川越藩士星隼太忠恕の問題が載せてあります。星の経歴等は不明ですが、この書は貫通斎塾生の問題と解を収録していることから、福田の門人だったと考えられます。
(3)鈴木金六郎宗徳
鈴木金六郎宗徳は川越藩士で、江戸の長谷川弘に師事して算術を学びました。安政4年(1857)の長谷川数学道場の社友列名に、量地術免許之部に名前が載っています。
(4)手島喜次郎清春
手島喜次郎清春は川越藩の和算家で、藩士や領民に算術を教えています。『演段参伍解』は手島の著書として伝わっているものです。
測量のことを江戸時代には、「量地術」とか「町見術」と呼んでいました。古来中国では「測天量地」という言葉があり、天をはかることを「測」、地をはかることを「量」といって、両者を区別していました。「測量」はこの「測天量地」の略語で、江戸時代には天文観測の意味で用いられることが多かったといいます。
江戸時代初期の和算書である『塵劫記』には、「町つもりの事」に距離や木の高さをはかる方法が記されています。しかし、それは数学的に計算するということであり、地図製作の方法ではありませんでした。これに対し、寛永年間(1624〜1644)に長崎にきたオランダ人によって伝えられた測量術は、縮図を描いて距離や高さを求めるものであったため、地図の製作と結びついていました。
しかし、オランダ流測量術は秘伝書の形で伝えられたため、まとまった測量術書の刊行はありませんでした。わが国で本格的な測量術書が刊行されたのは、享保年間(1716〜1736)になってからです。享保18年(1733)に刊行された村井昌弘の『量地指南』は、オランダ流測量術の指南書です。またこの時期は禁書令の緩和が行われたため、中国から三角法と三角関数が伝わったことも注目されます。
幕末になると海防の問題にかかわって測量術の必要がたかまると、独習に適する書物や測量器具の需要が新たに生まれました。この時期出版された測量術書の中には、三角関数表を用いた高度なものや、簡易な測量器具の製作法を載せた実務者向けのものもありました。
明治初年の地券発行や地租改正作業には、各地の和算家が土地測量などに活躍しました。川越市内の和算家の家に残されている測量器具や測量図は、依頼されて各地の土地測量にかかわったことを物語っています。
(1)鈴木金六郎宗徳
鈴木金六郎宗徳は、長谷川数学道場で量地術を学びました。『量地図説』に寄せた鈴木の序文には、長谷川弘に師事した時の様子を次のように述べています。「一とせ、長谷川先生わが里に旅寝したまいし時、友だち、これかれ語り合わせ、名簿まいらせて、学びがてら近きわたりの村里のたたずまい、田畑の広さ狭さなど測り試みるに、幸いよき師に従いて、器なども心にまかせたれば、おろかなる身の思うにまして、道の進みも早かりし…」これによると、長谷川弘は川越に赴いて、測量法の講習をしていたことが窺われます。
(2)宮沢熊五郎一利
宮沢熊五郎一利は文政4年(1821)川越に生まれ、江戸の内田五観について算術と測量術を学びました。慶応2年(1866)、川越藩主松平大和守が前橋へ帰城するとそれに従い、明治2年(1869)には藩の測量算術教師になっています。明治5年(1872)には県の庶務課地理係を命じられ、明治41年に88歳で亡くなりました。
(3)大野旭山輝範
大野旭山は測量術を川越藩の宮沢一利から学んでいます。万延元年(1860)には宮沢から「量地術初伝巻」を伝授されています。明治維新後、旭山は測量に尽力したようで、入間郡岸村・谷中村、高麗郡藤金村、比企郡川口村、足立郡中野林村などの測量下図が残されています。
(4)沢田千代次郎理則
沢田千代次郎理則は、算術とともに測量術も川越藩の手島清春から学んだと考えられます。『量地指南前編』の写しや測量器具が残されていることは、沢田が測量にも携わっていたことを示しています。
(5)斎藤定五郎高重
斎藤定五郎高重の師戸田弥太郎利高は、川越藩の宮沢一利から学んでいました。斎藤も後には宮沢から直接学んでいます。宮沢は大野旭山に測量術を伝えていることから、戸田、斎藤にも測量術を教授したと考えられます。明治6年(1873)の「量地野帳」は、戸田利高と斎藤高重の両名が、網代村の測量に携わったことを示しています。また、分度器、定規などは測量をもとに製図したことを窺わせますが、地図等は確認されていません。
嘉永6年(1853)のペリー来航は、国防の要請から幕府に本格的な洋学の導入を決心させました。幕府は、安政2年(1855)に長崎海軍伝習所を開設すると、オランダ人を招いて海軍教育を開始しました。海軍教育は当然西洋の軍事科学・技術によるもので、そこで用いられる数学も西洋のものとならざるを得ませんでした。
また国内でも、洋学者により西洋の数学−洋算を紹介する人が現れました。蘭学を学んだ柳河春三(やながわしゅんさん)(1832〜1870)は、安政4年に『洋算用法』を刊行しました。これは洋算を系統的に日本に紹介した第一の書として知られています。
明治維新により成立した新政府も、近代国家の建設をめざし、政治・経済・教育のあらゆる分野に西洋の諸制度を導入しようとしました。政府は近代的学校制度の確立を考え、明治5年に学制を発布しました。学制では、学校教育における数学教育は洋算とし、日本固有の数学−和算は、採用されませんでした。
しかし当時の状況は、教員の数も少なく、また教員も洋算を理解しているものはわずかでした。庶民にそろばんが普及している中で、実生活とかけはなれた洋算はあまり歓迎されませんでした。そのため学制の改正が行われ、「洋算相用い候とも、日本算相用い候とも、その校適宜に取計らい苦しからず候」と、学校で洋算の筆算を教えても、日本算の珠算を教えてもよいことになりました。
国内では、学校での洋算採用にもかかわらず、和算書の再刊や啓蒙書の刊行が相次ぎました。和算の代表的入門書である『塵劫記』の名を冠した書物などは、明治時代をとおして何種類も出版されました。
番号 | 掲額年月 | 西暦 | 掲額場所 | 所在地 | 掲額者氏名 | 典拠 | 備考 | 埼玉の算額 | 埼玉の算額 と和算家 |
5 | 寛政7年11月 | 1795 | 八幡宮 | 武州川越通町 | 伊藤甚太夫憲章 | 新壁算法 | 4 | ||
10 | 文化元年4月 | 1804 | 地蔵堂 | 川越市石田本郷折戸 | 塩野転頼近 | 控書 | 7 | 佚亡 | |
15 | 文化8年1月 | 1811 | 氷川神社 | 川越市久下戸 | 奥貫五平次正定他 | 市指定文化財 | 11現存 | 現存 | |
40 | 天保6年11月 | 1835 | 氷川大明神社 | 武州川越 | 加藤新吉郎重信 | 球缺内容五球術解 | 32 | ||
44 | 天保12年8月 | 1841 | 古尾谷八幡神社 | 川越市古谷本郷 | 沢田千代次郎理則 | 市指定文化財 | 36現存 | 現存 | |
54 | 安政3年3月 | 1856 | 八幡神社 | 川越市山田 | 戸田新三郎高常門人 | 市指定文化財 | 46現存 | 現存 | |
59 | 安政5年5月 | 1858 | 八幡神社 | 川越市山田 | 戸田喜四郎高次 | 市指定文化財 | 51現存 | 現存 | |
77 | 明治4年12月 | 1871 | 藤宮神社 | 川越市石田 | 大野旭山輝範 | 市指定文化財 | 68現存 | 現存 |
はじめに
(前略)
和算にはいろいろな特質があります。一つは、「遺題継承」で、自分の著書に答えのない問題をのせて、その解答を読者に委ねるのです。いわばリレー式の数学問答ですが、継続していくうちに問題は次第に難しくなり、それを解決しようと新しい方法が生まれます。
二つめは「遊歴算家」で、江戸のようなところで活躍している実力のある数学者が、旅をしながら数学を教えるので、全国に新しい理論が伝播されました。
三つめは「算額奉納」で、解けた難問を神仏に奉納して感謝したのです。これは数学の問題を人の集まる場所に掲示したため、人々へのPRにもつながりました。
(後略)
そろばんも毛利重能が最初に伝えたものではない。国語学者の山田孝雄は、毛利重能の『割算書』の中の「二一天作五」「七一加下三」「見一無当作九一」「帰一倍一」などの割り声が明時代に中国で使われていた「二一添作五」「七一下加三」「見一無除作九一」「起一下還一」などと相違するところから、これらの割り声が「日本語として意味を説かないでも、音だけで通じるように慣行されていたから、実用の算法は由来の遠いものであったことを考えしめられるのである」と推論した。
その後、山崎与右衛門、鈴木久男らは、そろばんに関する文献を精密に検討して、山田孝雄の見解の正しいことを証明した。すなわち、そろばんは『割算書』出版の少なくとも数十年前からわが国で行なわれていたことを次の資料から考証したのである。
その第1は『拉・葡・日対訳辞典』(文禄4年、1595)および『日・葡辞典』(慶長8年、1603)にSorobanの項目があること。
第2は『日・葡辞典』を著わしたジョアン・ロドリゲスのもう1つの大著『日本大文典』(慶長9−14年、1604−09)に日本人の使う計算法の種類として、@地算またはおく算、Aひき算またはひきそろばん、Bかけ算、C八算またはわり算、見一無当算があり、そのほか『割算書』に使用されているそろばん特有の用語が多く使われていること。
第3は、前田利家が文禄の役のとき陣中で使用したそろばんが現存していること。
第4に、川越喜多院蔵の狩野吉信(1552−1640)の『職人尽絵』(1598年頃と推定)にそろばんをはじく両替商の図があること。
さらに最近、鈴木久男は中国の科学史家李儼の指導によって、1592年ごろ中国で刊行された『日本風土記』『日本考』などにもそろばんの語があるが、この両書は、異名同書で原本は『日本風土記』で、その編年は1570年代かと推論されている。
このような資料から考えると、そろばんの伝来は山田孝雄らが考えたように、足利時代の末期、民間の貿易商人らを通じて長崎か堺あたりの当時の港町に中国から舶載されるとともに、急速な発展を呼び、宣教師らの目にも留まるほどの普及をみたと考えてよいと思う。
とはいえ、そろばんの普及にあずかって力のあった毛利重能の功績を過小に評価するものではないが、毛利をもってそろばんの開祖とすべきではない。
算額はいうまでもなく数学の絵馬である。算額という呼び名が出ているのは、私の知るかぎりでは、幕末の数学者山口和がまとめた日記『道中日記』の中にあるのが最初であるらしい。日本学士院に蔵されている和算書の目録(『和算図書目録』)を見ると、『奥州堺明神算額写』、『大坂算額』、『厳島算額写』、『羽州久保田算額改訂』など、「算額」が写本の題に見えるが、これはあとからつけられた題名で、当初からあったものではないらしい。
『和算図書目録』には、『相川天神社神壁』、『愛宕山円満寺額解』、『愛宕山額二術』、『愛宕山額算法』、『愛宕山額面解義』……などが見えている。「奉納術解」、「標額」、「奉納算題」、「懸額」、「額算題」、「扁(匚に扁)掲解義」、「奉納算法」など、特にきまった呼称はなかったようである。はじめは、「絵馬算」とか「数術の額」などといっていた。幕末になると、この額の問題で勉強しようという人がふえ、この問題を「額題」とか「額面題」とか呼んだのである。
とにかく絵馬なのであるから、絵馬の歴史の一こまに入れればよかろう。そう考えれば、数学を勉強している人が数学の絵馬を奉納することはごく自然なことであった。今日では大絵馬の奉納はあまり多くなく、入学祈願と家内安全、病気平癒の小絵馬がほとんどであるが、入学祈願の小絵馬の中には、因数分解の公式や、英文法のきまりきった例文などが書かれているのがよく見られる。こういう絵馬を見ると、何となくいじらしくなり、合格してほしいと思うのは昔から変らない人情というものであろう。
算額は、「もっと数学を勉強したい」とか「こんなむずかしい問題が解けた」とか、神仏に祈願したり感謝の気持を表して奉納されたのが最初であろう。このような感謝や祈願の文が書かれただけの絵馬(算額と呼んで良いかどうかわからないが)もいくちか現存している。江戸初期の算額はこのような形であったろう。もちろん、このような絵馬であれば、他の絵馬と区別することはほとんど不可能である。算額が、いわゆるわれわれのいう算額の形式となったのはいつのことであろうか。