川越の仏像・石仏・板碑


<目 次>
仏 像円空巡礼新版埼玉県の歴史散歩
石 仏川越の石佛日本の神々と仏武蔵野の地蔵尊庚申信仰
板 碑武蔵野の遺跡を歩く埼玉史談

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仏像
「円空巡礼」 後藤英夫・長谷川公茂・三山進 新潮社とんぼの本 1986年 ★
 円空の魅力/円空紀行/円空遊行の足跡/円空の歩いた風景/円空と私  という文章とともに、円空仏&風景の写真を豊富に掲載した本。
 おもな円空仏の所在分布@に、埼玉県全体133点中の1点として、川越市養寿院のものが記載されています。 ただし、写真、本文中の記載はありません。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 円空(えんくう)
1632?〜95(寛永9?〜元禄8)江戸前・中期の禅僧(臨済宗)・仏師
(生)美濃国竹ヶ鼻
 19歳ごろ仏門に入り、伊吹山・富士山・白山などで修業し、美濃国池尻に弥勒寺を興す。一生のうちに12万体の仏像を造ることを発願し、全国各地で修業・布教しながら、木片や立木を素材に鉈一丁で、荒けずりながら素朴・雄渾・親しみやすい数万体の仏像を刻んだ。1663(寛文)から1670にかけて、白山から越前を経て津軽に至り、さらに松前に渡り、有珠地方ではアイヌに布教し、<今釈迦><今行基>と呼ばれたという。1671には法隆寺に入って血脈を受け、1679(延宝7)には近江国の園城寺(三井寺)で戒を受ける。63歳のとき、自ら食を絶って死んだという。出生など明らかでないところが多く、<乞食僧説><高僧説>などある。仏像は、飛騨国の千光寺、名古屋の観音寺などのほか、岐阜・滋賀・埼玉・栃木・山形・富山・新潟・長野など各地の小堂・無住寺などにも残っている。
(参)伴蒿蹊「近世畸人伝」、土屋常義「円空の彫刻」1960、五来重「円空仏」1965。

新版 埼玉県の歴史散歩」 埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会 山川出版社 1991年 ★★
 ◎荘園と仏像
 1975(昭和50)年、夏休みに郷土研究をしていた女子高校生金子智江さんのひらめきと通報がきっかけで、川越市古谷本郷(ふるやほんごう)の3ヵ所の寺堂から計9体の平安仏・鎌倉仏がつぎつぎと世に出て、新聞、テレビで報道され、たいへんな話題になった。仏像は次のようなものである。
 (1)薬師如来坐像(県文化、薬師堂・鎌倉時代初期) (2)(3)日光・月光菩薩像(薬師堂・鎌倉時代) (4)阿弥陀如来坐像(現本尊、灌頂(かんじょう)院・平安時代後期) (5)阿弥陀如来坐像(客仏、灌頂院・平安後期か) (6)阿弥陀如来坐像(灌頂院・鎌倉時代) (7)千手(せんじゅ)観音坐像(灌頂院・平安時代後期) (8)天部形(てんぶぎょう)立像(灌頂院・平安時代後期) (9)薬師如来坐像(小中居(こなかい)薬師堂・平安時代末期)
 史跡と文化財が豊富な川越市の東端にこれほど貴重な12〜13世紀の仏像が指呼の間に集中し、しかもそれまで特別の注意も払われず、指定文化財からもはずれていた。田園風景のこの一帯が「藤原仏の里」として脚光を浴び、次にこれらの仏像を残した社会背景が調査されることになったのである。
 入間(いるま)川右岸のこの地は、平安時代から鎌倉時代にかけて古谷庄(ふるやのしょう)とよばれた荘園があり、源頼朝によって京都石清水(いわしみず)から勧請(かんじょう)されたと推定される古尾谷(ふるおや)八幡社が現存している所でもある。荘園成立に先立って古谷条里と名づけられる遺構も指摘され、その開発の歴史は古い。『吾妻鏡』記載の古谷八郎・古谷十郎らがこの地の在地領主で、鎌倉時代中期には内藤氏が地頭職を兼ねた預所として配されている。
 古仏が集中する灌頂院(天台宗)はこの古尾谷八幡社の別当寺であった。それらを構成する寺中六院にゆかりの仏像が、今日、灌頂院を中心に残されたものらしい。
 このうち(1)〜(3)は古絵図に書き残された神宮寺薬師堂の、(5)の阿弥陀如来は旧八幡宮の供所大蔵寺の、(7)の千手観音も同様に廃寺となった寺院から移されたと推定できる。(9)の薬師如来は旧東光寺の本尊の可能性があり、いずれにせよ古谷庄には天台仏教の浸透による薬師信仰が基底にあり、その後、石清水の本地仏(ほんじぶつ)であった阿弥陀信仰がひろまったことがわかる。また古尾谷八幡には鎌倉時代の中尊を中央におく阿弥陀三尊の懸仏(かけぼとけ)が伝わり、諸仏像の発見は、古谷庄とその在地領主層の経済力と信仰を浮彫りにした。

石 仏
「川越の石佛」 川越市総務部市史編纂室編 川越市 1973年  ★★★
 −目 次−
序にかえて  ―野の「ほとけ」にこめた庶民の心―   文学博士 堀一郎
序 説
総 説
 一 民間信仰と路傍の石仏
  1 民間信仰の基盤
   村の祈願/個人の祈願
  2 民間信仰の表出
   塚/自然石/その他の表出/民間信仰の板石塔婆
 二 民間信仰の石仏誕生
  1 近世村落の成立
   土豪の解体と自治組織の確立/寺請制度と仏教の介入/講と長百姓の結衆/長百姓より惣村中へ
  2 石工の定着
   江戸と川越
  3 川越の石仏
   石仏誕生/信仰文化の波及/社会情勢の変化と石仏
各 説
 一 地蔵菩薩
  1 地蔵信仰
   仏説地蔵菩薩/固有信仰と地蔵
  2 川越市内の地蔵菩薩
   造立の時代的推移/造像上の特色/念仏講中の造立/僧尼の造立/僧尼に村人協力のもの/在家の造立/特殊な造立意図/造立の趣旨
  〔表1〕地蔵菩薩 1〜144  (このbヘ分布図と一致、欠番は調査後移動または見失われたもの)以下庚申塔その他も同様
    a@西暦 年記 所在地 様式 像容と銘文 備考
 二 庚申塔
  1 庚申信仰
   江戸時代以前の庚申信仰/江戸時代の庚申塔/江戸時代以降の庚申信仰
  2 川越市内の庚申塔
   造立の時代的推移/造像上の特色/庚申信仰の実態/造塔供養/川越市内の庚申講
  〔表2〕庚申塔 1〜92
 三 観世音菩薩 
  1 観音信仰
   仏説観世音菩薩/民間信仰と観音
  2 川越市内の観世音菩薩
   造立の時代的推移/造立趣旨と造像上の特色
  〔表3〕観世音菩薩 1〜33
 四 馬頭観世音菩薩
  1 馬頭観世音信仰
   観音と馬頭/馬に関する民間信仰/馬頭観世音信仰の実態
  2 川越市内の馬頭観世音
   造立の時代的推移/造像上の特色
  〔表4〕馬 頭 1〜208
 五 その他の石仏
  道祖神  〔表〕道祖神・金精様 1〜4
  札所巡礼供養塔等  〔表〕札所巡礼供養塔等 1〜21
  石橋供養塔等  〔表〕石橋供養・橋供養・敷石供養・石坂供養塔 1〜14
  山王信仰  〔表〕山王信仰 1〜6
  浅間信仰  〔表〕浅間信仰 1〜9
  弁才天・水神  〔表〕弁才天・水神 1〜6
  不動明王  〔表〕不動明王 1〜6
  その他の石仏
 資料写真
  地蔵
  庚申塔
  観世音菩薩
  馬頭観世音
  その他の石仏
 分布図
  @地蔵菩薩分布図
  A庚申塔分布図
  B観世音菩薩分布図
  C馬頭観音分布図

「日本の神々と仏」 岩井宏實監修 青春出版社プレイブックス 2002年
第一章 日本人の心の源流/日本人と八百万の神々
 ●神域を守るもの
第二章 暮らしの中の神々と仏/身近な仏たち
 ●お地蔵さん
 
 子どものころ『かさ地蔵』の昔ばなしに親しんだ私たち日本人にとって、お地蔵さんは身近な存在である。
 しかし、あらためてお地蔵さんとは何かと問われると、はたと悩む。お地蔵さんは、神なのか仏なのか。日本生まれか、外国生まれか。これらの疑問にすらすらと答えられる人は少ないだろう。
 もともとお地蔵さんは、古代インドのバラモン教の神々の一人であった。地蔵の仲間には、日蔵(にちぞう)、月蔵(げつぞう)、天蔵(てんぞう)がいた。日、月、天と、いずれも星にまつわるバラモンの信仰に根ざしている。バラモンの教えでは、大地は母性の象徴である。つまり地蔵は、母なる大地の慈愛に満ち、人々の苦しみを救うと信じられていた。
 そのお地蔵さんを、仏教が取り入れたのである。釈迦(しゃか)の入滅後、世界は無仏になる。弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出生するまでのあいだ、その世界に住んで人々を救済する菩薩としたのだ。だから正しくは地蔵菩薩といい、仏に次ぐ崇拝対象である。
 ということは、お地蔵さんは仏の仲間ということになる。
 お地蔵さんは中国を経由して日本に伝わり、平安から鎌倉時代に地蔵信仰として人々のあいだに広まった。
 地蔵信仰の教えでは、私たちは死後に冥土(めいど)で閻魔(えんま)さまに裁かれ、地獄の責め苦を受けたあと、地蔵の慈悲で救われるという。庶民にもわかりやすい教えである。
 毎月二十四日は地蔵の縁日である。地蔵講ともいい、信者がお地蔵さんを祭る寺に集まる。地蔵講は今でも全国的に行なわれ、信仰は深く根づいている。
 ところで、村はずれなどで六体並んで立つお地蔵さんをよく見かける。これは「六地蔵」といい、お地蔵さんが現世と冥界の境に立って、人々を守るという信仰によるものだ。
 なぜ六体なのか。
 じつは六という数字に意味がある。仏教では、人は地獄道、餓鬼(がき)道、畜生(ちくしょう)道、修羅(しゅら)道、人道、天道という六つの迷いの世界に住むといわれ、これを六道(りくどう)というのだが、お地蔵さんはこの六道の人々を救済することに通じているのである。
 また仏教には、親よりも先に死んだ子どもは三途(さんず)の川を渡れないという教えがある。このときも、お地蔵さんが子どもを救ってくれるという。ほかにもお地蔵さんは、さまざまな病気を治したり、子どもを授けたり、子どもを守ったりするといわれる。
 変わったところでは、横浜市保土ヶ谷区の禅道庵(ぜんどうあん)という寺に「ボボ地蔵」というのがある。ボボは「古事記」「日本書紀」に出てくるホト(女陰)と同じ意味である。いまも、おもに太平洋側の地域の方言ではボボは女陰を指す。同じボボが、日本海側の方言では赤ん坊という意味になる。両者は男女の交合という点で近いのかもしれない。生殖は神聖であり、子どもは天からの授かりものという感覚は根っこの部分では今も昔も同じだろう。
「武蔵野の地蔵尊 埼玉編 三吉朋十 有峰書店 1975年 ★★
  まえがき
 武蔵野の風色は、歩行者天国にオアシスのあるバカンス行楽の郷として、著者は三十有余の長い歳月の間、杖なき老足を引きずりながら、深山の頂や渓谷の底、耳を裂くような市町喧騒のまん中、鼻突くガソリンの煙にむせびながら、三千八百余体の地蔵尊を求めて結縁した。著者は今や老いて九十有三。不老長生の国は、この武蔵野に存在していたことを追憶する。
 この蓬莱の郷も、昔、俊寛が流されて、いつ再び白日の身となり得るかのように、やがては、昔日の面影が消滅する日が来るのではあるまいか。
 古きを壊ち、新しきを求むることが、いわゆる現代の文化であると思う人あらば、それは錯覚の頭脳を持つからである。住居表示という名の大旋風の渦中に天国は巻き込まれて、由緒ある地名は片っ端から地図面から消されていく。故に、著者はこの稿を書くにあたり、最も苦労したのは市町村名の旧新の変更である。殊に新しき地図の出来ない頃の対照は難物であった。著者は解説中の旧町村名を、でき得るかぎり新しきものに変えたつもりだが、あるいは混用したいくつかの例のあることを諸君は諒せられんことを乞う。
 さきに、都内編を発表して、これを読まれた諸君に対してはあつく感謝する。次回は明春を期して、残りの埼玉県北埼玉と南埼玉、北葛飾の三郡、神奈川県では、川崎市と横浜市とをまとめて一巻となし、全三巻を以て武蔵野の地蔵を完了したいと思う。
 願わくば、以上を通じて地蔵菩薩と結縁して、不老長生蓬莱の天国を机上に読み、あるいは健脚を誇る方々は、未だ消えざる蓬莱国を親しく歩行して長命ならんことをおすすめする次第である。
  昭和四十九年十二月
著者 九十三翁
三 吉 朋 十
第一章 入間郡 
【川越市】
28 喜多院の苦抜き地蔵と五百羅漢    ■川越市小仙波
 川越の大師で有名な天台宗星野山無量寿寺喜多院は、慈覚大師が天長七年(830)にいまの川越市明星杉の池辺に一庵を結んだにはじまるといい伝える。元久七年と天文六年と寛永十五年に三度炎上したが、寺は徳川家康の祈願寺でもあり、寛永の年に炎上すると、間もなく家光が再建を命じ、寺地四万八千坪、五百石の禄を賜わったという巨刹である。昭和の中ごろには台東区浅草の伝法院山主であった塩入僧正が入山するや、八ヵ年の星霜の間に堂宇、屋根、仏像、五百羅漢像などの大修理を行ない、多くの文化財が保護されている。瓦およびかや葺きの屋根を銅版に葺き替えた人は鈴木助蔵という職人であって、この人はこれまでに二十余の神社仏閣の屋根を銅葺きした。山主がこの人に感謝状を贈った際には、著者も書院で同席をした記憶がある。
 境内に北面して丸彫り、有輪、珠杖をもち、立高1.2bばかりの苦抜き地蔵と陰刻した石地蔵を安置する。
 苦抜きとは、抜苦与楽を意味する仏語であるが、台石の東面に、
 仏日増輝世界平和報恩仏徳八十余年、 (西面に)昭和三十二年十月二十四日願主本間中治奉造(裏面には)星岳堂舎完成伽藍安穏防災着工云々
と山主筆の文を陰刻してある。
 けだし、堂舎完成落慶を期として本間氏が八十余歳の長寿を保ち得たという報恩をかねて奉納したのである。
 外陣に東面して有輪、玉眼の木彫り半跏地蔵尊を安置する。江戸末期の開眼と推定するが、多数の参詣人がある。子育地蔵尊と呼び、珠杖をもち、座高1.3bばかり、暗褐色で左脚を垂下する。
 この地蔵尊に擬して、東京都台東区の浅草寺境内の中の東に西面して、石彫りの地蔵尊を安置する。この姿は喜多院の外陣に安置してある子育半跏地蔵と全く同じ形であるということを先住は話してくれた。戦後に造立したのであるが、平和地蔵の類である。
 大門を西に入ると、広い境内に南面して石彫り五百羅漢を曼荼羅型にならべた一郭がある。玉垣をもってめぐらし、羅漢と称する二十七体で、すべて尊者という文字を台石に彫りつけてある。その他の五百三基はほとんど座姿で40ないし60a、いずれも羅漢の顔をしているが、一度に造りあげられたものでなく、江戸の中期以降に次々と置かれたものである。
 吾人の顔は各人ともに異なり、似ている者も多いが、つまりは、喜多院に安置してある五百羅漢の顔に似ているという。中央に高く安置してある三尊のみには、寄進者の姓名を彫りつけてある。
 まだ鉄の扉を設けてなかった以前には、心ある人は夜中にこの一郭のうちにしのび入って石仏に手を触れてみる。そのとき、温く感じた石仏は。その人と関係ある故人の顔にそっくり似ているなどといったものであるが、まれに悪戯をなす者が石仏を倒し、首が折れたり、手を折ったりなどして、大部分が破損していたが、いまではすべて復元されていて、許しをこうて見学することができる。喜多院の来歴故事などについては、『武蔵風土記稿』に詳しい。東照宮、中院、南院、明星井などとともに熟読されんことを望む。
 先住塩入亮忠大僧正は、探題の称号と文学博士の称号をもち、著者とは四十余年来の交遊があったが、昭和四十六年不幸にして病を得て寂されたことは、まことに痛心に堪ええないのである。
★苦抜き地蔵尊の写真

29 広済寺の腮なし地蔵とシヤブキ尊    ■川越市喜多町三
 曹洞宗青鷹山慈眼院広済寺は、川越市喜多町にある。広庵芸長和尚が開山し、中興開基は本田右近親氏、元和四年寂。大導寺駿河守政繁が川越に在城した折りの代々の菩提寺として建立されたと伝える。
 山門を入った右側に、南面して広い地蔵堂があり、堂内に二基の石仏を置く。一基は腮(あご)なし地蔵と呼ばれて丸彫り、円頂、珠杖をもち、高さ90a。外観は一般の石地蔵のごとく見えるが、下顎が短小にしてあたかも腮がないようである。腮がないから歯がない。歯がないから歯痛がない。歯痛に苦しむ人がここに来て祈願すれば、歯痛が治る。治ったら柳の枝で楊子を作って奉納する。
 顎なし地蔵とならんで、シヤブキ尊という名の石仏がある。
 石仏は上下の二石からなり、高さ60aばかり、耳・鼻・眼・唇および四肢などは全くなく、頭部と思うはやや丸い型の石塊。胴脚と思う一石は下半が二股になったような一石。地蔵と見るべきか、あるいは地蔵以外の石仏であると見るべきか、正確な名称を付しえないが、著者はいちおう地蔵尊として、この項に記上して左の説明を加える。設問とおぼしきところには、いつ見ても茶殻を油に浸して燃やしたその跡が黒くすすけている。灯明の代りとして祈願する人が点じた痕であろう。
 当寺の第二十六世大棟叟が自ら墨書した縁起書なるものを見ると、次のとおり
 頃は天保八年丁酉冬十二月二十六日の正夜半、寝室のうち、光明赫灼として昼のごとくなるところへ、御丈ようやく五尺ほどの年頃七、八十ほどの女僧、鼠色の衣をかけ、われは当院内のしやぶき神なり。和尚、日ごろ、わが縁由を知りたいよし念じおられるは奇特なことなり。われは今泉の産なり。縁日は五日、供物は何を供えても納受せんということなし。なかんずく、金米糖に煎茶などなり。折節、招請せられ、俗家へ越したとき、病の軽重により専談するに安きこともあり。このほかに告ぐることなし。これより旧社へ帰らんと告げ、座をたち、戸をあけ給うと思いければ、夢たちまちさむ。これを縁由とする志なり。
地蔵堂に行ってみると、金米糖を供える人はないが、灯明の代りに茶殻に油をしませて火を点じ、尊像の股の下が真黒にすすけている。祈願したら頭部を荒縄でしばっておいたのをといてやる。ほとんどいつも頭部を荒縄でしばってある。
 おもうにシヤブキは、寿和婦貴尊と相通じ、所沢市久米の長久寺にある六体尊と何かの関係があるかもしれない。おおむね風邪とか、百日咳とかの呼吸器病に功徳利益があるという。
 シヤブキ、スワブキともに植物学上では菊科に属す?吾(ツワブキ)のことをいうのであって、根を煎ずれば薬用となる。寺の境内に東面して金比羅堂があり、堂の南に墓地がある。
 墓地の中に北面して一基の地蔵尊を造立してある。その名を牢屋地蔵と呼び、左の由来がある。姿は舟型の面に円頂、立姿の地蔵を浮彫りし、高さ1bばかり。
 往時、江戸時代に当寺の南に近いところに高沢町(今の元町)があった。そこは川越の刑場の跡で、牢獄があった。そのころに処刑された人は、この場所において斬首されるに先立って地蔵尊の前で念仏することが許された。大正の終りごろになってこの土地は伊藤某の所有となったが、地蔵をそのままにしておいてはもったいないからと、広済寺和尚に頼んで墓地に移した。
 舟型光背の一部がかけているのは、夜陰に乗じて悪徒がひそかにここに来て小石で塔をたたき、落ちた石の粉を紙に包んで持ち帰る。この粉を懐中しておれば、悪事をしても捕えられることがないと信じられていた。こういう伝説のある石彫り地蔵である。
 あごなし地蔵、シワブキ地蔵、牢屋地蔵、いずれも説話のある当寺の名物である。
広済寺の写真

30 西福寺の石彫り三尊と道標    ■川越市南大塚
 寺は天台宗に属し、木ノ宮山地蔵院と号し、川越市南大塚、西武鉄道南大塚駅に近く所在し、西面してたつ。草創の寺歴については不詳。中興は覚ェ、寛永十年寂。
 寺は三芳野富に所在する多福寺とのあいだに木ノ宮地蔵尊の所有権に関して長いあいだの繋争があって、いつ結審するのか、全く知りえなくなった。かくては寺の信用にもかかり、信徒の参拝もおぼつかないというので、十余年前にようやく和解して多福寺が保存することになったという。木ノ宮山という山号は、多福寺に安置してある地蔵尊はわが所有であるというので木ノ宮の名をつけたという。
 参道の入り口に丸彫り、円頂、立高1.5bの石彫り地蔵尊を安置する。天明七年の造立。その他舟型石に浮刻りしたのが二基あるが、造立の由来は不明。
 西福寺では毎年一月十五日の成人の日を期して餅つきの行事を常修する。夕陽の没するころに多数の檀信徒が集まって俗謡を唄いながらにぎやかに餅をつく。つきあがった餅を車に満載して多福寺にある木ノ宮地蔵堂に運んで盛大な成人式を執行する。餅と地蔵尊とは直接の縁はないが、その由来を要記するに、
 今からおよそ三百年の昔、土地の人山田某の家にはじまる。最初は十一月十五日の腹解きの日にこれを行なった。十二人の若衆が出てふんどし一筋だけで、一人は大杵を持ち、十一人は小さい杵を持って威勢よくいかがわしい句の俗謡を唄う。このほかに釜場に五名と練り役八人、てこ役九人、音頭とり二人、あわせて四十名が、数時間かかって餅をつきあげる。
 つきあがった餅はまず鎮守さまへ、そこに集まった青年は、神前で修祓を終ったあとで、膳について腹いっぱいの餅をたべて祝福される。
 木ノ宮地蔵のお前立が西福寺にあったころは、八月二十三日に祭礼が行なわれ、お祭が終ると、今度は多福寺に移して夜祭りを行なう。お祭りに使用するための大提灯は、今も西福寺につるしてある。多福寺に安置してある木ノ宮地蔵のことを、土地の人は夜這い地蔵と呼んでいるが、その晩に唄う歌詞は色気がすぎて聞くにたえない句ばかりであって、ここに記載することをはばかる。
 西福寺の南百bばかりの四辻に二つ塚と呼ぶ一角がある。そこに丸彫りで光輪を具し座高1b、願主鈴木七兵衛云々と彫った地蔵一基を安置し、台石の四面に方角を指示すべく指先を浮刻りした道しるべ地蔵がある。江戸末期の造立であるが、西福寺がこれを管理し、二つ塚地蔵と呼ぶ。ここに二つの古塚があったが、今は一つのみ残って、その上にこの地蔵を安置したのである。
31 新河岸甚右衛門地蔵    ■川越市砂
 川越市の南部砂村というあたりに沿って東南流する川の名を新河岸川という。水源は川越市の北東東明寺裏の伊佐沼から湧出し、十`あまりで清瀬付近を東流する柳瀬川と合流し、志木を貫いて東京都北区岩淵辺において荒川に通ずる。現在は田畑の用水としてのみ利用されているが、江戸中期、江戸末期ころには江戸と川越とを結ぶ重要な水路であって、寛文のころに開削されたのである。この水利によって川越は築城の場合には資材を曳舟によって江戸よりあおぎ、物資の供給をつかさどった。明治の末期ごろまでは、毎年八月二十四日には灯籠流し施餓鬼を行なったりなどして、遠近からこれを見ようと集まるもの数千人、花火を打ちあげたりなどして盛観であった。しかるにこんにちでは陸運が開け、水運による川の面影は長い木橋や、釣魚池などによってかろうじて存在している。下流のみは水を貯えて、今も多少の水利は残っている。
 砂村付近の川の右岸近くの路傍に東面して一宇の小堂があり、堂内には舟底光背型石塔の面に円頂、珠杖をもつ立高1.2bばかりの石地蔵を安置し、由来が次のように彫りつけてある。
為槐安奉夏禅定門菩提也俗名沢田甚右衛門尉祈開此河岸故名舎兄甚兵衛奉慰彫此尊形安此者也寛文二壬寅年四月二十九日欽立
 けだし、甚右衛門は新河岸近くの木の目という村に生まれて農を営んでいたが、川越に東照宮を造営するについて、江戸から資材などを運ぶために、幕府の命を受けてこの河を開削し、自ら水夫となって舟を曳き、纜を取って資材を運んだ功績があった。
32 常楽寺と河肥氏    ■川越市上戸
 入間郡川越市の上戸というところに時宗に属す川越山三芳野院常楽寺がある。ここは東武鉄道(同じく西武鉄道)川越駅の西方二`ばかり(ママ)、入間川の右岸近く霞ヶ関駅の西半`ばかり(ママ)のところに南面する古刹である。入間郡内にある六つの時宗の寺のうちの一寺であって、今から六百五十余年の昔の元応二年に、藤沢の清浄光寺の遊行上人第三世智徳上人が開山し、中興は大導寺駿河守松雲院殿江月常清大居士(天正十八年歿)である。往時は三芳野道場と呼ばれた念仏道場であった。昔、このへん一帯は三芳野と呼ばれた平野であって、在原業平がこの土地に永く滞在して歌を詠んだことのあるところであるという。三芳野は三好野とも書かれた武蔵野の一部であった。
 寺のある場所を俗に名細(なぐわし)とも呼ばれる。昭和の初年頃まではこの地区での最大の寺であって、鐘楼門の楼上には木彫りの十六羅漢、釈迦、文殊、普賢、地蔵尊などの如来と菩薩、四天王など二十余体の古仏が安置してあったが、思慮なき者の悪業によって、楼上の諸仏を階下に投り出し、火に焚いて暖をとったりなどしたがために、こんにちでは完全の仏像とては一体もなく、修理もほとんどなしがたい。かつ、いまではきわめて退転して、往時の面影は土塁のあることによってのみ、昔をしのびうるのである。
 寺は、往時鎌倉幕府の重臣河肥太郎重頼館址として史跡に指定されてある。河肥氏は河肥の荘の庄司職として歴代ここに住んだ。頼朝に仕えたときに、平重衡が庄司重房の家に預けられ、千手の前が待って牢愁を慰めたという故事は、謡曲「千手」に詳かである。
 寺の周囲には、高さ数bの土塁が三方をめぐらし、雑木林が茂っており、南方は道路に面し、門前に左右相対して丸彫り、円頂、珠杖をもち、高さ九十aばかりのふつうの姿の石彫り地蔵を安置する。一つは寛保年間、一つは安永年間の造立である。
 寺の本尊は運慶作の弥陀。境内には観音堂のほかに鎌倉時代に使用された鐙や、鞍などの古宝もあったが、昭和の中ごろに鐘楼門のみを残して焼失し、往時の盛観は見る影もないくらいに淋しい。
33 円乗寺の本尊と石棺の話    ■川越市芳野上老袋
 川越市芳野上老袋(おいぶくろ)というところに真言宗霊雲寺派の悲願山円乗寺という名の小寺がある。寺歴の伝えるところによれば、
 享保のころ、この地に名主の治兵衛という者がいた。家を建てようとすると、そこに一つの石棺を埋めた塚があった。塚を掘り返してみると、誰の墓であったか不明だが、石棺の中に死骸が入っていた。棺に蓋をして元のとおり土をかぶせておいたが、ほどなくして名主は重病にかかった。折柄、十二歳になる名主の娘某は因果を悟り、薙髪して妙観尼と名を改め、小庵を結んで石棺の供養をしてやった。最初は円乗坊と名づけたが、父を開基として円乗寺と改称した。
 寺の本尊は木彫りの地蔵尊である。総金色、彫眼、高さ三十aばかりの一木作り。以前あった本尊は入間川が氾濫した際に流失してしまった。
34 大蓮寺の半跏地蔵と菊花紋章    ■川越市喜多町九
 浄土宗来迎山紫雲院大蓮寺は川越市喜多町にある。開山は見立寺の第一祖感誉上人、開基は蓮馨寺の開基なる大導寺政繁の母蓮馨尼である。
 本尊弥陀とならんで二体の木彫り地蔵尊を安置する。そのうちの一体は三宝光輪と瓔珞とを具し座高一bあまり、善悪二童侍立する。他の一体は座高九十a、いずれも江戸上期の開眼と推定される。
 前者はかつて東京の増上寺に安置してあったものを、落語家東家楽円が譲り受けて太鼓を添えて大蓮寺に寄贈したものであるという。
 内陣の天井は合天井であって、一枚ごとに十六弁の菊花紋を描く。その他の寺什にも菊花の紋を描けるものが多い。偉観である。
35 長田寺の一木作り地蔵    ■川越市岸二丁目
 寺は川越市岸(きし)町に所在し、曹洞宗に属す小寺である。この辺は川越市に編入されているが、江戸時代には三芳野の里と呼ばれ、宇戸沢という名の小字があった。場所は川越大橋の南方、不老川の左岸に位し、寺に近く街道に坂がある。坂の名をうとお(善知鳥)坂と呼んだ。
 寺の昔の名は長伝寺。開山は梵知和尚、元和元年寂。開基は長田金平なる人。寺名は開基の姓をとって名づけたのである。寺は長い間無住であったが、現在新井一由師の悲願が成就してしだいに復興しつつある。師が自ら刀を執って彫った素刻り、立高六aの小体の地蔵尊は白檀を材料とし、同じ高さの不動尊と二つならべて安置してある。芸術品としても鑑賞すべきであろう。
36 養寿院の木彫り六地蔵    ■川越市末広町
 曹洞宗青竜山養寿院は川越市末広町に東面して所在する。寺歴は天文年間に扇叟法師が開山し、開基は寛元年間に河越遠江守経重である。
 庫裡の棚上に光輪が損傷または欠損せる座姿の木彫り地蔵尊六体をならべ安置する。金箔は剥落し、玉眼、趺座、江戸中期のころの入仏と推定される。
 おおよそ六地蔵は石彫りのものが多いが、木彫りの場合ははなはだ稀少である。北足立郡荒川河畔の善光寺釈迦涅槃堂にも千体地蔵と木彫りの六地蔵があったが、昭和の大戦のあとで焼失し、武蔵国内では当寺の六地蔵は貴重な存在である。 
37 浄国寺の六面塔    ■川越市山田
 寺は時宗に属し、天王山清流院と号し、川越市山田というところにある。ここは時宗東明寺の北方二`ばかりのところに東面してたち、開山は他阿真教で元応の年に寂。墓地の入口に有蓋巨大の六面塔を安置する。
 塔の三面に六地蔵を浮刻りする。一面に二横列し、一蓮台の上に円頂、立姿。残る二面には造立の由来を詳細に陰刻する。
 祖父戸田翁老而巡拝四国神社仏閣寄供養年余而帰建六地蔵尊以欲為供養遂不果安政四年丁巳十月八日以病卒年七十八孫真太郎継其志刻像于浄国寺境内和合地蔵石工吉野金五郎同市五郎
38 東明寺の四面塔と夜合戦    ■川越市志多
 稲荷山東明寺は時宗に属し、川越市志多町の妙義神社の南隣にある。
 開山は一遍上人、正応二年寂(1289)。本尊虚空蔵菩薩は慈覚大師作の秘仏である。稲荷、諏訪および天満の三社の別当であったから、稲荷山と名づけたのである。
 山門のうちに有蓋の四面塔をたつ。台ともに総高2bばかり、円頂、立姿の地蔵を一面に二体あて横列し、三面で六体を浮彫りし、残る一面にはこれを造立した縁起を彫ってある。明治二十四年に、藤沢の清浄光寺遊行上人が川越に巡錫した記念のためにこれを造立したことが、くわしく彫りつけてある。
 さて、境内には低い小塚がある。この塚の下は古い井戸であったのを土を埋めてその上に塚を作った。
 わが国の戦史上、川越の夜合戦は特に有名な実話である。これを『鎌倉大草紙』、『管領記』、『関八州古戦録』、『小田原記』などの古書によって合戦のありさまを考えると、
 そもそも川越城は大田道灌が築城した江戸、岩槻、忍(行田)とともに文明の頃に平野に設けられた四城の中の一つであった。上杉朝興の遺命によってその子朝定は北条氏綱と戦い、敗れて松山に遁走した。永いあいだ、上杉と北条との葛藤はたがいに戦機を待っていたが、天文十五年四月二十日の暗夜に乗じ北条の軍勢は川越城に攻めよせた。大将朝定は討死し、部将難波田弾正は東明寺境内にある古井戸の中に落ちて死に、総敗北を喫した。
 この合戦はわが国にまれにあった夜合戦であるが、昔から寺が戦場として濫用された例は多々あって、ひとりこの東明寺のみでなく、飯能の能仁寺や、智観寺なども戦火によって焼きつくされるなど、二、三の例がある。
 
39 十念寺の六面塔    ■川越市末広町
 川越市末広町に所在する清谷山十念寺は市内にある時宗四ヵ寺の一つであって、明治初年頃には山田町の浄国寺住職が兼務したものである。天文以前に泰禅和尚が開山したという。天和以前には代官広小路といところにあって、その頃の代官は河内金兵衛であった。
 境内、本堂の前に一基の六面塔を安置する。形態および六地蔵の配置は浄国寺に所在する六面塔と全く同形であって円頂、立姿二尊ずつを一面に横列し、三面六尊となる。あとの三面には造立の由来を彫る。明治三年に大畑与吉なる人が施主となり、浄国寺住職が開眼したのであるが、明治九年に再建した。石工の名は服部新助。
 本堂に安置してある木彫り地蔵尊は厨子の内にあって厨子のうしろに環を付属してある。往時に檀信徒の家々を巡行した。
40 法心寺の双体合掌地蔵尊碑    ■川越市小室
 寺は川越市小室町にある。往時は天台宗であったが、地頭水野多宮なる人が学山という名の禅僧を招いて曹洞宗に中興した。地頭の法名は小室院法心居士、これを寺号とした。
 本堂の前の墓群の中に二体の合掌姿の地蔵を浮彫りした高さ1.3bの一碑をたつ。慶安三年理三禅尼と彫る。
 寺の山名を湖月という由来は、入間川と赤間川とが落合うあたり、むかし大洪水があってその跡に幾多の沼湖ができた。月夜には湖上に月が倒影するので、湖月山と名づけたという。
41 勝福寺の六面塔型灯籠地蔵    ■入間郡坂戸町寺尾(ママ)
 寺は川越市寺尾にある。ここは越辺川(ママ)の右岸近いところにある古刹で、天台宗に属し、寺尾山蓮乗院と号し、中興開山の名は秀興、建武元年(1334)寂。境内に六、七百年を経たと思われる榎の大木がある。寺の古さを知ることができる。
 門前に三塔があり、その中央にあるのは方長の高い台石の上に六面の火袋のごときものを安置し、天蓋は六面、総1.3b、風雨にさらされて文字が判読しがたいが、江戸上期の造立と推定する。六面塔とみるべきか、灯籠と見るべきか疑問であるが、とにかく火袋と思われるところに六地蔵を浮彫りし、灯明点火不可能であるが、いちおう灯籠地蔵としてこの項に記上した。
 なお墓地内に応安二年と彫った古碑がある。(中興歿後三十五年)

増補改訂版 絵本 埼玉のお地蔵さん 」 池原昭治 木馬書館 1987年 ★★
 
「庚申信仰 庶民信仰の実像 飯田道夫 人文書院 1989年 ★
1はじめに―猿の信仰との出会い/2庚申信仰とは/3庚申研究の歩み/4庚申塔/5日本三庚申/6庚申堂・庚申社/7庚申経/8庚申縁起/9三尸説/10庚申の御利益/11信仰の系統/12青面金剛/13猿田彦/14道祖神/15サエノカミ/16竈神/17大黒天/18霊符神/19日輪、月輪/20庚申の鶏/21庚申の猿/22七色菓子/23信仰の起こり/「庚申縁起」考/25庚申御遊/26疫神祭/27信仰の習合
28おわりに―庚申と天台
    (前略)
 天台信仰を主唱し、その普及につとめたのが天台であったことを認め、これを前提にして、これまで庚申信仰について語られてきたことを見直すと、従来不明であったことがある程度はっきり分かってくる。
 ひとつは、なぜこの信仰が江戸時代に、江戸を中心にして栄えた流行神とみなされるのか、という点。第二は遠く国東半島で庚申信仰が異常に盛んであったことである。
 この点を理解するためには、天台の歴史を知る必要がある。
    (中略)
 西国から戻ると、その足で最澄は東国の旅に出発、上野の浄土院、下野の大慈寺に宝塔を建てられた。大慈寺は行基を開基とする古い寺で、当時、最澄の直弟子である広智禅師がおり、その門下から『入唐求法巡礼記』の著者である円仁が出ている。円仁は武蔵川越を布教活動の拠点として東国の教化に着手、唐から帰国後に日光に入って、ここを天台法門の道場とした。もともとは勝道上人の開いた修験道場である。関東の古い庚申塔に日吉山王との関係を示すものが多い事実が指摘されているが、庚申信仰の普及につとめたのが天台であってみれば、これは至極当然のことであろう。
 室町時代には五百を越える寺坊を数えたという日光天台も、戦国時代に小田原の北条氏方につき、秀吉に攻め滅ぼされてすっかり衰微、これを復興したのが家康の顧問をつとめた快僧、天海上人であった。
 天海上人と家康との出会いは、上人が川越喜多院の住職のとき、たまたま狩に来た家康に謁したことから。その帰依を受けることになったものという。江戸第一の梵刹、寛永寺は天海の手になる。江戸城の鬼門除けとして寛永二年(1625)に開山、京都の比叡山にならって東叡山と号した。江戸幕府の保護のもとに隆盛をきわめ、のち後水尾天皇の皇子を通して門跡寺院となり、爾来、比叡、東叡、日光の三山を統轄する天台の本拠となっている。
 天海については、家康の遺霊を久御山(ママ)から日光に移すにあたって、明神とするか、権現とするかで、黒衣の宰相といわれた南禅寺の金地院崇伝と争ったことがよく知られている。結局、天海の主張が通り、山王一実神道にもとづく葬式で、東照大権現として祀られることが決まった。日光東照宮には山王権現も合祀されている。日光に三猿があるのはこの縁起によるものである。
 円仁が近江から勧請したのが始まりとされる永田町の山王日枝神社も江戸第一の大社にのし上がる。同社の祭は天下祭ともよばれるほど派手なもので、そこに猿と鶏が顔出しすることは先に述べた。もちろん山王の猿と逢坂関の木綿付け鳥である。
 このように江戸初期の江戸はいっきょに天台化した。その波に乗って庚申信仰も広まり、庚申塔が方々に建てられたと考えられる。この現象を見て、関東を活動の場とする庚申研究家は、庚申信仰は江戸時代に始まった、と言うわけだが、これはお門違いであろう。
 江戸時代以前の庚申塔が乏しいのは、この地の開発がもともと遅れていたこと、日光天台が1時衰微したこと、で説明がつく。
    (後略)

板 碑
「武蔵野の遺跡を歩く―郊外編 勅使河原彰・保江 新泉社 2002年 ★★
 板碑とはなにか
 武蔵野の遺跡を歩くと、寺院の境内や墓地の一角などに、必ずといっていいほど見かけるのが板碑(いたび)です。
 板碑は、石の主要な位置に梵字(ぼんじ)や画像で仏(これを主尊と呼ぶ)をあらわし、それに紀年名や造立の趣旨などを配したもので、主尊を供養するための石造塔婆(とうば)のことです。中世という時代に限られ、全国に分布しますが、地方によって石材が違うことから、その石材の性質によって、形は様々あります。なお、梵字とは、古代インドの文語であるサンスクリット(梵語)を記載するために用いられた文字のことです。
 武蔵野の板碑は、青石と呼ばれる秩父の緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用いたものがほとんどで、埼玉、東京、群馬、茨城、栃木、神奈川、千葉の関東各県から、山梨、長野、新潟、福島の周辺各県にまで広く分布し、その数は四万基をこえるといわれています。その形態は、頭部を三角形にし、その下に二条の切れ込みをいれ、中央に主尊を梵字や画像であらわして、さらにその下に紀年名や造立者および趣旨、経典の一部などを刻むという、最も典型的な板碑といえます。
 ところで、主尊標識である梵字種子(しゅし)は、東京都と埼玉県の板碑調査によれば、阿弥陀如来の一尊種子(阿弥陀一尊と略)が約65%、つづいて阿弥陀如来に観音と勢至(せいし)の二つの菩薩を脇侍(きょうじ)とする阿弥陀三尊が約25%というように、阿弥陀如来系が板碑全体の約90%を占めています。そのほかの種子には、釈迦如来や大日如来、あるいは一尊や三尊に限らず、おおくの種子を刻む多尊種子もありますが、いずれも数は少ない。
 造立の目的は、阿弥陀如来系の種子が大半を占めることからもわかるように、故人の極楽往生を願う追善(ついぜん)供養と、造立者の死後の極楽往生を祈った。いわゆる逆修(ぎゃくしゅう)供養の二つに大きく分けられます。追善供養の板碑は、鎌倉時代に多く作られ、先祖を供養することで一族結合を強める役割をはたしたものです。、また、逆修供養の板碑は、南北朝から室町時代に多く作られ、とくに15世紀中頃以降になると、月待や庚申待など村々の結衆によって造立されたものが多くなります。
 板碑は、文献には名を残さない、その意味で「無名」の武士の活動の軌跡、あるいは庶民の信仰や生活の様子を垣間見ることができる貴重な資料となっています。

「埼玉史談 第22巻第4号」 埼玉郷土文化会 1976年1月号 ★★
 川越市の板碑(一)―その分布と造立年代―  岩城邦男
まえがき
一、分布と造立年代
 造立年代
 分布状況
 偈文
 私年号
 月待供養
 図像刻

「埼玉史談 第23巻第1号」 埼玉郷土文化会 1976年4月号 ★★
 川越市の板碑(二)―板碑から見た川越市の中世仏教―  岩城邦男
二、板碑から見た川越の中世仏教
日蓮宗系の板碑
禅宗系板碑
時宗系板碑
天台宗系の板碑
真言宗系板碑
その他の僧名刻板碑
まとめにかえて

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作成:川越原人  更新:2020/11/02