天  海


<目 次>
小 説天海天海 徳川三代を支えた黒衣の宰相引越し大名の笑い
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小 説
「天 海」 堀和久 学陽書房人物文庫 1998年 ★★
 「人は、なにゆえ、殺し合わねばならないのか……」 戦乱の世の武家に生まれながら、剣の力ではなく教法の力で衆生を救うべく、仏門に入った若き日の天海の苦悩と彷徨。 そして将軍徳川家康・秀忠・家光三代の絶対的信頼を受け、寛永寺造営や、「黒衣の宰相」崇伝との論争など、 草創期の幕府で活躍したその生涯を描く。
  第五章 仏 縁
     二
 武州川越(河越)は、武蔵武士団が勃興した平安朝の末期に、関八州の都として栄えた。
 土地の豪族、河越太郎重頼が武蔵国留守所惣検校職(国守の在地総代官)に任じられたからである。
 やがて、源頼朝が決起して関東を支配すると、望まれて重頼の娘は頼朝の弟、義経の正室となる。源氏は、主として義経の武勇と戦略によって平家を滅ぼし、天下の権を握った。
 しかし、義経は兄頼朝の猜疑をうけて討たれ、姻戚の河越重頼も誅殺されてしまう。
 以後、川越の地は衰微していった、と随風は聞く。
 天正十六年の今から顧みれば、四百年ほど昔になる。
 四百年前といえば、会津で芦名家が興っている。そのはず、芦名家の始祖は、奥州平泉に潜伏していた義経を討つ頼朝の遠征軍に加わり、その戦功によって会津を賜わったのであった。
 「一族が滅び、一家が興る。流転生死」
 随風の感慨は、涅槃経の一節、無常偈の低唱に変わる。
 「諸行無常、是生滅法、生滅滅巳、寂滅為楽」
 川越は、芦名家の血を引く随風と、あながち、無縁といえないのであった。
 それに、川越仙波の無量寿寺は、慈覚大師円仁の創建と伝わっている。
 慈覚大師開基の、会津高田龍興寺から出た随風には、
 「これも、仏縁」
 と、感銘を新たにするのであった。
 随風は、じつは、十九年前の永禄十二年(1569)に、川越に立ち寄り、無量寿寺のあたりにたたずんだことがある。
 足利学校に学び、善昌寺に住したものの、心が満されず、比叡山再登をめざして上方へ向かった。その途中である。当時は、無量寿寺に格別の思いはなかった。天台の古刹というだけの、道筋の寺社名勝へ寄り道をする、その程度の気持にすぎない。
 無量寿寺は、中院(仏地院)を中にして、北院(仏蔵院)、南院(多聞院)を配した、広大な寺域に伽藍を並び建たせていたと聞くが、当時、その面影は全く失われていた。
 南院は墓地を残すのみであり、中院には急ごしらえの堂塔が四、五建っていたが、北院と教えられた荒れ地には草庵一宇を遠望できるだけであった。
 一帯は、まさに、狐狸の棲む疎林である。
 三十数年さかのぼる天文六年(1537)のことである。関東管領の一流、扇谷上杉家の重臣であった上杉朝定が守る川越城は、小田原北条家三代、氏康の大軍に攻められて陥落した。
 戦火は仙波一帯におよび、無量寿寺の七堂伽藍は紅蓮の炎につつまれて、灰燼に帰したという。
 「ここでも、多くの人は死んだ」
 随風は、川越城の方角を見やって、長嘆息したものである。
 その後、北条氏康の支配するところとなったが、北条家も合戦に明け暮れており、城は堅固に修築しても、寺社まで再建する余裕はない。
 そのまま捨て置かれたのである。
 随風は引き返し、間道づたいに東海道へ出たのであった。
 十九年ぶりに見る無量寿寺は、以前とあまり変わっていなかった。南院は廃れたままである。中院の堂塔は少し増えていた。だが、とても寺院建築とはいえない。仮の造りである。山門もなく、境内と田畑、山林との境もさだかではない。
 しかし、このたびは、随風には目的がある。
 無量寿寺の本堂とおぼしき中院の、ここだけは立派な庫裡を訪い、期待に胸をときめかせて、豪海法印に面謁を請うた。
 応対の中年僧の、用件を聞いたあとの目が尋常ではない。明らかに、憎悪がこもっている。
 「豪海は、ここではない。北院じゃ」
 意外な、その粗暴な言いぶりに、随風は背筋を冷たくした。
 (これは、どうしたことだ)
 佐渡の豪桂和尚が、東国随一の学匠と口をきわめて推した法兄は、呼び捨てまでされる憎まれ者なのであろうか。しかも、中院の住職ではなく、格段に景観が劣る北院に住しているようである。
 中院(現東照宮の地)と北院の間は、二町たらずだが、起伏の大きい林や古池などがあり、幽境の感であった。
 農家とそう変わらない草葺きの建物があり、それが北院の本堂であり、庫裏のようである。
 近くの日当りのよい斜面に、里芋や茄子を植えた畑がある。その向こうの空地を老若二人の僧が耕していた。
 老いた、小柄な僧が、ひょいと顔を向け、鍬を振る手を休めて、
 「随風さんかな」
 と、親しげに声をかける。
 「はい。随風でござりまする」
 いきなり名を呼ばれた随風は驚く。もしやと思い、
 「豪海さまでございまするか」
 と、辞を低うした。
 「さよう、憎まれ者の豪海でごじゃる」
 笑顔をうかべて近づいてくる。
 「佐渡の豪桂さんから飛脚がまいりましてな。豪盛さんのお知り合いが訪ねてくるかも知れん、と書いてあった」
 「それにしても、随風と、お見事に当てられました」
 「なに、からだの大きい云云と、風貌が記されてあった。それに、中院を経て、北院までやってくる物好きは、めったにおらぬゆえのう」
 呵呵大笑である。
 本堂の阿弥陀如来を拝したのち、庫裡へ移り、談論に夜を徹した。
 豪海は、比叡山焼き討ち前後の模様を、涙をうかべて聞き取る。
 随風は、鎌倉時代の永仁四年(1296)に尊海僧正によって中興が成った無量寿寺が、やがて天台宗のおよそ五百八十寺を付属して、関東本山として法灯を輝かせた由緒に感銘をうける。
 「それが、今は狐狸の住処じゃ。狐狸は、むしろ、寺に住んでおる。中院と北院との間の、仏門にあるまじき、長年にわたる醜い争いが、それじゃ」
 随風は、中院の中年僧の、異常な態度を思い出していた。
 「わしにも、融通がきかぬ、かたくななところがある。しかしのう、方便とはいえ、酒や生臭の相伴をしてまで、お城の偉ら方や物持ち長者の御機嫌をとりむすび、御堂や庫裡を建てようとは思わぬ。中院に転住して、無量寿寺の首座にすわり、山内粛正を図ろう、という望みも、今は失せておる。いたずらに、騒ぎを大きくし、志とは逆の結果になるは必定ゆえにのう。ところが、むこうの狐どもは、こちらを狡賢い狸に見立てて、誰かれの別なく、悪しざまに言いふらしておるような」
 淋しい笑いである。
 随風は口をさしはさむことができない。
 (仏門内の抗争)
 比叡山がそうであった。南都の諸寺でも、それを感じた。日光山でも勢力争いは顕著であった。得度した龍興寺で、法嗣をめぐって隠微な駆け引きがあったことも忘れられない。
 「建物よりは、人」
 気を取りもどしたように、豪海は力強く言った。
 「道心ある人を名づけて国の宝となす。と、教えられたのは、宗祖伝教大師でごじゃる。わしは、この荒れ寺で、まず、人を育てようとしたが、ほとんど逃げられてしもうた。わしが厳しいのか、楽を好む風潮なのか、残るは、倫海、周海の二人だけじゃ」
 倫海は十七、八歳。師と畑を耕していた若い僧である。周海は、まだ十四、五歳の小坊主であった。
 二人は、食事の世話や雑用の合間に、師と客僧のそばに侍り、談論に耳を傾けていた。豪海は、これも修行、と聴聞を勧めているようである。
 「この二人にも、去りたければ、いつでも立ち去ってよろしい。中院へ移りたくば、遠慮は無用、と言っておる」
 若僧と小坊主は、純真さをあらわにして、何か言いかける。
 「よい、よい。仲間が一人、加わった。随風さんは力も強く、大変な善知識じゃ。畑仕事がはかどる。学徳も進む。今、立ち去ると大損をするぞ」
 呵呵大笑である。
 随風は、豪海の早合点に、とまどう。 
 「あの、……」
 「はい」
 豪海は澄ました顔になった。
 「なにか……?」
 「いえ」
 「そうとも」
 「願い上げまする」
 「こちらこそ」
 豪海と随風は合掌し合った。
 倫海と周海があっけにとられた。滑稽にして厳粛なこの問答で、随風の北院逗留が決ったのである。
 数日後、随風は正式に豪海に師弟の礼をとり、天海の号が与えられた。
 「天より、北院に授かりし法器でごじゃる。よって、天海」
 海は北院に伝わる通り名である。
 「頂戴いたしまする。過分なる法号に恥じませぬよう、精進いたしまする」
 天正十六年、随風改め天海、五十三歳の再出発である。

「天 海 徳川三代を支えた黒衣の宰相 中村晃 PHP文庫 2000年 ★★
「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」――初対面の時、徳川家康をして、そう言わしめた傑僧・天海。彼は、家康・秀忠・家光の三代にわたって、湧くがごときその知で好遇を受けた、最高のブレーンであった。徳川政権の基盤を固めて行くにあたり、「黒衣の宰相」(大参謀)に徹した男の謎多き生涯を描き上げる、長編歴史小説。『黒衣の宰相 天海』を加筆・改題。
 慶長四年(1599)十二月、無量寿寺の豪海が入寂すると、権僧正天海は請われて第二十七世の法統を継いだ。その翌年春三月、天海は十二日から十三日にかけて修法精練を行なった。十三日の早朝、まだ夜も明けやらぬ頃、院の僧侶、小者たちは無量寿寺の前池から白光が立ち昇るのを見た。その白光は長く尾を引いて、たちまち東天に飛び去って行った。彼等は口々にこう言った。奇瑞でござるぞ、このようにめでたいことがまたとあろうか。これ以後、天台(宗)はますます栄えるであろうと。
 天海伝説は、居ながらにして天海を神秘なものに祀りあげていった。
 無量寿寺の庭先で蛇が遊ぶのを天海は見つけた。蛇は逃げようともせず、天海にその身を擦り寄せてきた。天海も不思議に思い、蛇のなすがままにまかせておいた。そのことが二度、三度重なると、天海はありあわせのものを蛇に与えて餌づけをした。蛇は天海の手のひらでそれを食べ、満足したようだった。
 そんなことがあってから、天海が護摩壇で鐸を振ると、きまってその蛇が天海の膝元に現われるようになり、餌を求めた。読経の途中、蛇は天海から離れず、ぬめぬめとした身体をくねらせながら、それを天海にこすりつけた。はては天海の腕にからみつき、読経の邪魔さえした。これを気味悪がらなかったのは、天海ただ一人である。ひと夏が過ぎるうちに、蛇はどんどん大きくなった。あまりの大きさに侍僧の一人が見るに見かねて、天海にこう願った。
 「御坊よ、鐸を振ることをお止め下さいますように。さすれば、蛇ももう参らぬでござりましょう。あの蛇を見ておりますと、そら恐ろしい気持がいたしまする」
 天海もそれを了とし、以後、鐸を振ることを止めた。はたしてその蛇は、それから姿を見せることはなかった。
 また、狐つきと言われている女がいた。若い身でありながら、とても正気の者とは思えなかった。その仕種は狐そっくりで、それを見た人の口からそうした噂が立った。
 思いあまった両親は、娘を天海のもとに連れ出し、平癒を願った。娘を見て天海は、彼女が常人ではないとはどうしても思えなかった。その目こそ焦点を失ってはいるが、澄んでいて、忘れていた何かを思い出そうとしているように思えた。いつからこうなったのかを問いただすと、彼等は地震で崖くずれがあった時、土砂の下敷きとなり、気を失って助け出されてからだと答えた。それを聞いて、天海には一人うなずくものがあった。
 天海は両親に対し、こう念を押した。いかにも拙僧が治療してみよう。ただ治療は手荒い。それでもよいかと。両親は承諾するしかなかった。
 天海は下僕に命じて、娘の手足を麻縄できつく縛らせ、柱にくくりつけて身体の自由を奪った。そうしておいて、一方では松明を準備させた。松明に火をつけると、天海は燃えさかる炎を娘の鼻先に近づけさせた。娘は悲鳴をあげて顔を左右に動かし、後ずさりしようとしたが、柱が邪魔してどうにもならなかった。治療に立ちあっていた両親は、見かねて天海を怨んだ。坊主のくせにとんでもないことをする奴だと。しかし約束した手前それを言い出すこともならず、娘同様、身をもむばかりだった。
 一度、二度と炎を娘に近づけてはひき離す間に、娘はきりきりと歯をかみ、眉をつりあげ白目をむいて、その形相はこの世のものとは思えなかった。なおも三度、四度と繰り返すうちに、彼女にも限度が来た。ううむと一声うめくと、がくりと首を落として気を失ってしまった。両親はたまりかねて、天海の側にかけより、彼をなじった。
 「坊さま、あなたさまは何ということをなさるだ。娘が死んだではないか」
 天海は彼等をやさしくなぐさめて言った。
 「娘御は死にはせぬ。治療は終った。縄を解いて横になさるがよい」
 これで狐は去った。
 やがて娘は正気にもどった。天海からすれば、忘れていた娘の記憶を戻してやっただけである。彼女の両親はそんなわが娘を見て、天海の前にひれ伏した。坊さまは御仏の化身かと。
 これも狐に関わる話である。
 天海は薬草にも通じていた。最初は良医に恵まれることが少ないのを考え、自分自身のためにそれらを採集していた。しかしそうしているうちに、天海の研究心に火がついた。古老にその効能を聞いては自分に試していたが、請われて他人にも服用させた。その結果がなかなかよかった。毒草でもその用途と使用量とを誤らなけらば、立派に良薬たりうることが分かると、その面白味も倍加した。当時の医学は、外科的なものよりも内科的な治療に依存度が高かったから、薬物に通じることで、天海をいっぱしの良医に仕立てあげて行った。
 後年、天海が徳川家康の深い信任を得ることができた理由の一つも、薬物の知識があるためである。家康もこれについては好事家で、あれだけ多忙な軍歴の中で、機会を作っては薬草を採集していた。直営の御薬園を持ち、他で入手できなかった薬草も所有していたと言われている。
 その日も天海は無量寿寺を出て、山野に薬草を探し求めていた。好きなこととて、ついつい時のたつのを忘れた。たそがれになって帰路についたので、途中、日は完全に没してしまった。加えて風雨になった。風にあおられて供の者が松明を消した。これには天海も困った。詮方なく暗夜を進むうちに、前方に狐火が現われて、行く手を示した。狐火は消えては現われ、またたきながら人家のある近くまで続いた。天海の供侍、家人たちは感嘆してこう囁き合った。院主さまはどのようなお方であろうか、人か魔かと。

「引越し大名の笑い」 杉本苑子 講談社文庫 1991年 ★
 誰がために舞う

その他
「氷川清話 付勝海舟伝」勝海舟 勝部真長編 角川文庫 1972年 ★
古今の人物について
 南光坊天海
○ 南光坊天海〔天台宗、川越喜多院の住職。東叡山寛永寺を建立、慈眼大師〕は、非凡な人物であったらしい。あれがいましばらく頭を円くしなかったなら、きっと家康公に向かって弓をひいたであろう。あの男はもと、宗家の葦名(あしな)家が滅亡したために流浪落魄(るろうらくはく)〔浪人しておちぶれ〕して、とうとう叡山(えいざん)の坊主になり、そこで非常に苦学したものだが、一朝、家康公の知遇に感激してからは、赤心〔まごころ〕を捧げて徳川氏のために画策経営の労をとったのだ。なかなか今時の懶惰(なまけ)書生が、十分の学資がありながら、それでなにごとをもしでかさないで、空(むな)しく一生を過ごしてしまうのとは、頭から比べものにならない。
 ところで、家康公が天海をなぜ用いられたかということについては、おれに一説がある。それはほかでもないが、家康公は幼少のときに今川家の人質となって、駿河(するが)の臨済寺で読み書きのけいこをせられたが、その寺の住職は、よほど高僧であったとみえて、始終今川家の枢機〔大事な仕事〕に参与して、今川家のためにはずいぶん功労があったらしい。
 家康公は明け暮れそれをみておられたから、出家というものは、政治上しごくたいせつなものだというお考えが、深く脳髄にしみこんでいたに相違ない。そこで天海の非凡な坊主であることをみぬかれて、あのとおり重く用いられたので。三代将軍〔家光〕が、沢庵和尚を座右に置かれて、始終(いつも)民間の事情などを聞いておられたのも、つまり家康公が、天海におけるのと同じ筆法(やりくち)だ、
 それはさておき、天海はあれほどの人物であって、そしてあれほど重く家康公に用いられたとすれば、天海の事蹟というものが、それ相応には伝わっていなければならないのに、それがいっこう歴史にものっていないのは、なぜだろうと疑うものがあるかも知れない。
 しかし、その伝わっていないのが、すなわち天海たるゆえんなのだ。今日やったことをすぐに明日、しかも針ほどのことを棒のように言いふらすのがいまどきの流行だが、天海などのはそれと違って、家康公の枢機に参与しても、どんなことを計画したのか、世間へは少しも言いふらさない。この言いふらさず、少しもわからない底に、叩くと何だか大きく響くものがあるのだ、そこがすなわちえらいというものだよ。

「考証 江戸武家史談」 稲垣史生 河出文庫 1993年 ★★
二 幕府の政策
 知略の正教顧問
  名刹喜多院
 私の書斎の窓から、川越市の名刹喜多院の森がちかぢかと望まれる。しばしペンをおき、緑したたるその境内を散歩することもある。本堂左手の台上へ、十数段の石段をのぼると、古い朱塗りのお堂がある。格子のあいだから薄暗い堂内をのぞけば、床几に腰をかけ、払子をもった異様な面相の木造を見る。狐に似た白い顔――たいへんな老僧である。誰であろう?
 一般に、家康の正教顧問といわれる天海僧正の像である。建物は三代家光将軍の発願で作られた、その名も慈眼堂なのである。
 なるほどひと癖もふた癖もある顔にも見えるし、そうではなくて行ない澄ました高僧とも見える――と同時に、天海は正教顧問であると同時に、体のよい家康の高級サーバントででもあった。家康の人使いのうまさは有名だが、天海僧正もまた逆にいえば家康の意のままに、うまく使われた形の一人である。師とも顧問とも奉られながら、役者は家康の方が上であった。    (後略)
  道春・崇伝・天海
   (前略)
 さて、最後に問題の天海である。まずその素性をさぐることにしよう。
 足利十一代将軍の義澄が、近江の九里備前守を訪れたとき、欧州会津の大名、蘆名盛高の娘を寵愛した。将軍は間もなく死に、その後姫は会津へ帰ったが、やがて玉のような男の子を生んだ。義澄の子にちがいないが、表むき盛高の子と披露して大切にそだてた。天性利発にして肉食を嫌い、すこしでも臭いがするとたちまち吐いたという。
 十一歳で稲荷堂別当弁誉の弟子となり、剃髪受戒して名を天海といった。十四歳のとき諸国を遍歴し、比叡山その他の仏道の修行をした。元亀二年(1571)には武田信玄に招かれ、その論席の講師となり、はじめて天海の名が世に知られた。川中島の合戦を眼のあたりに見たというのは、このころのことである。
 慶長四年(1599)武州川越の無量寿寺(喜多院)に住み、同八年に下野の宗光寺に移り、さらに十二年には叡山の南光坊に移った。家康の命を受け駿府へ出て、僧正となったのは同じく十六年のことである。家康はこのとき以来、天海に帰依した。あまりに法論がすぐれていたからだ。駿府城の奥の間で、天海から天台宗の血脉相承により、その深奥をさとった。
 天海のことを傑僧といい、黒衣の宰相≠ニもいうが、はじめは高僧として登場し、学識と弁舌で家康の寵寓を得たのである。その点、官僚的な存在だった崇伝とは、まるで柄ゆきがちがっていた。
 越えて慶長十七年(1612)家康の命でふたたび川越の喜多院を修め、十八年には日光山をつかさどるようになった。そして元和二年(1616)家康が死ぬと、その遺命により導師となり、久能山に葬ってこの年ついに大僧正に任ぜられた。さらに翌三年、家康を日光山に改葬するに当たって法会を督し、寛永二年(1625)に上野寛永寺が創建されると、その開山となっている。
 天海は寛永二十年十月二日に入寂したが、生前いちども年齢を口にしなかったので、正確なことはわからず諸書の記すところはまちまちである。百余歳といい、百二十余歳といい、さらに百三十余ともいう。幸い『江戸砂子』に「十八歳のとき川中島合戦を見た」をもらしたことを記しているので、逆算して百六歳と推定されている。さてこそはじめに書いた慈眼堂の木像も、たいへな老僧となるわけなのである。
「日本の歴史13 戦国大名」 辻達也 中公文庫 1974年 ★★
 天海の寿命
 今日この本の読者の中で、金地院崇伝という僧侶については、その名すら聞いたことのなかった人がけっして少なくあるまい。これに対し、徳川家康の信任をうけた僧侶として、南光坊天海の名をまったく知らぬという人はまれなのではあるまいか。
 まず天海についていうべきことは、その長寿である。かれは足利十一代将軍義澄の子ともいい、また十二代義晴の御落胤などとも伝えられるが、いずれも疑わしく、おそらく会津の豪族蘆名氏の一族だろうといわれる。幼少のとき会津で僧となり、その後比叡山に登って修行した。元亀二年(1571)比叡山が織田信長のために焼き打ちされてからは、甲州に落ちて武田信玄のもとにいた。天正十六年(1588)武州川越の喜多院の住職となった。その後の様子ははっきりわからないが、慶長十四年(1609)はじめて徳川家康に用いられ、権僧正の官に任ぜられた。これから家康に厚い信任を受け、ついで秀忠・家光にも帰依され、寛永二十年(1643)に死去した。
 そのとき天海はいったい何歳だったのだろうか。比叡山焼き打ちからでも七十二年を経ているから、それから考えてもかなりの長寿である。この人にはいろいろ神秘的な伝説がまつわりついていて、年齢も伝えがさまざまである。いちばん長命の説では永正七年(1510)生まれという伝えがある。これによると死去のときには百三十四歳となる。
 しかしそうすると、家康に用いられたときはちょうど数え年百歳となる。家康がたんに信仰したのならともかく、天台宗統制のためにわざわざ百歳の老僧を用いたというのは少し疑わしい。もしそれが事実なら、はなはだ珍しいことだから、天海を用いたことを記してある当時の確実な記録になにか言及してありそうなものだが、そういう記事がない。また元亀二年比叡山を落ちのびて甲州へいったときには六十二歳ということになるが、このとき天海は、三十七歳の亮信、四十六歳の豪盛を長老として仰いでいたという。これも常識的な話ではない。
 このほか天文二十三年(1554)生まれ九十歳説、天文十一年生まれ百二歳説、享禄三年(1530)生まれ百十四歳説などあるが、いずれも載せている文献が史料的に信用度の低いものなので、採用することができない。
 もっとも信用できるのは、小槻孝亮の日記の寛永九年(1632)四月十七日の記事に、日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を天海がつとめたことを記したあとに、今年九十七歳であると記している。これによると生まれは天文五年(1536)で、寛永二十年には百八歳であったことになる。また慶長十四年(1609)家康に用いられたときには七十四歳で、家康より六歳年長ということになる。もちろん百歳近い老人ともなると、だれも生まれたときから知っている人はおらず、自分でも年を誤ることは往々にしてあるものだから、この記事も疑えば疑えるが、他に傍証となるような史料もあり、まず妥当なところであろう。神武天皇をはじめとする古代の天皇や武内宿禰などという伝説上の長寿者は別として、天海ほどの長寿者は日本史上に珍しい。しかもそれが七十歳をすぎて用いられ、生涯老衰を知らぬかのように活躍するに至っては、稀有の例というべきであろう。

「徳川家臣団」 網淵謙錠 講談社文庫 1986年 ★★
 第十二話 天海

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  南光坊天海
 今、こうして死に臨むが、もしも私に恩を返したいと思うことがあれば、一層学道に励めばよい。現世の出会いの縁はここだけには限らない。さらに浄土で再会したいものだ。

 徳川家康・秀忠・家光と三代の将軍の厚い信任を受けた天海だが、その生年や経歴はまったくわかっていない。家康の帰依を受けるようになったのは慶長一四(1609)年のころで、家康は「天海僧正は人中の仏、恨みに思うのは相知るのが遅すぎたことよ」と側近の者に語ったという。
 天海についてまず語られることは、その長寿である。ある伝説によると足利一一代将軍義澄の子であるといい、また一二代義晴の御落胤という説もある。とすると、家康と会ったときにはとっくに一〇〇歳を越えていなければならない。隠さなければならない何かがあるのか、本人が語りたがらなかっただけのものか、さまざまな伝説を生む要素はそこにあって、変わったところでは明智光秀説までもある。
 もっとも信用できそうなのは寛永九(1632)年の記録で、日光東照宮での法華経万部供養の道師を天海九七歳がつとめたとあり、これなら家康とは六歳の年上ということで、妥当なところとされている。
 天海は他人から長寿の秘訣を聞かれると「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細うして、心ひろかれ」また、「長命は粗食、正直、日湯(毎日入浴)、陀羅尼(読経)、おりおり下風(放屁)あそばさるべし」と答えたという。
 家康は天海をしばしば鷹狩りに誘った。そして出かけるのは何時ごろがよかろうかと聞くと、天海は決まって四ツ時(午前10時)がよいという。家康は不審がって「日によっては四ツ時が悪いときもあるのではないか」と尋ねると「戦争なら吉凶も考えねばなりませんが、遊びの狩りでございます。あまり早くてはお供の者が苦労します。四ツ時なら早くも遅くもありません」と答えたので家康は感心したという。
 このような天海なので、罪を得た人々の赦免・減刑の取りなし役でもあった。のち幕府はこれを利用して、はじめ厳しい罪を宣告して威嚇しておき、とくに取りなす人がいたから、と罪を軽くして恩を売る方策を取った。この権限は寛永寺と増上寺に与えられていたが、例の赤穂浪士四十七士に切腹を命じた将軍綱吉は、そのときの当番の増上寺からの特赦願いが来るのを首を長くして待っていたという。
 さて、天海が病床についたのは寛永二〇(1643)年七月一四日であった。家光は医者を四人常駐させ、連絡係をおいて刻々病状を報告させた。九月二九日、病床を見舞った家光は、涙ながらに天海の遺言をきいた。その第一は、東照大権現の威光を更に高めること、第二は、浪人の救済と遠島の者の赦免であった。家光は約束した。
 一〇月二日、昼ごろ、天海は弟子に手伝わせて口を漱ぎ、盥水で手を洗い、清潔な衣に着替えた。そして数珠をまさぐって経文を唱え終わると「今百年の修行は終えて、仏界に進むのだが、すべて何も自然に見える」と言い、弟子一人ひとりの名を呼んで合掌し、「今こうして死に臨むが……」と別れを告げると、眠るように息を引き取った。
 寛永九年の記録をもとに数えると、実に一〇八歳の高齢であった。
 
●なんこうぼう・てんかい 
 天文五?〜寛永二〇(1536?〜1643)年
 俗説に会津高田の生れで、芦名(あしな)氏の支族三浦氏の出という。幼名兵太郎。一一歳で仏門に入り、比叡山のほか三井寺・興福寺で修行したという。信長の比叡山(ひえいざん)焼き打ちで山を追われ武田氏、芦名氏を頼って諸国を遍歴後比叡山に帰り、南光坊に住した。徳川家康に招かれ川越喜多院や日光山を主宰したが、家康の死後墓を日光に改葬、東照宮を建立した。のち江戸忍ヶ岡に東叡山寛永寺を開創した。死後慈眼大師の号が贈られた。

教科書が教えない歴史有名人の死の瞬間」 新人物往来社 2003年 ★★
江 戸
 天海の臨終(病死)寛永二十年(1643)十月二日
半跏趺坐の姿勢のまま絶命。その表情は微笑がただよっていた……
 寛永寺開山の天海大僧正が病床についたのは、寛永20年(1643)7月14日であった。少し体調を崩したかのようであったが、何しろ高齢である。『徳川実紀』でも年齢はよく判らず、
 その寿齢を詳にせずといへども、信玄(武田)がもとに客たりしは既に壮年のよしなれば(天正17年=1589)、今はた百有歳たるべし。
 とある。133歳説(『天享吾妻鑑』)が長らく採られていたが、昭和5年(1930)6月2日、東京府指定旧跡・上野清水観音堂の天海僧正毛髪塔指定理由からは、108歳説が採られている。
 天海は家康からの信任篤く、「常に左右に侍りてその申処ことことく挙用せられずというふ事なし」といわれるほど重用された。家康の「大権現」神号、日光改葬の推進者で、二代将軍秀忠、三代家光からの信任も深かった。
 家光はすでに医師4人をつけてあったが、その病状報告のために歩卒20人を新たに寛永寺に配置して、刻々その容態を伝えさせた。
 寺内では天海の病状回復のための祈祷が始められたが、天海はすぐそれと気づいた。
 天海はこのとき死期を悟ったらしく、その祈祷を止めさせて言った。
 「今の病はまだ軽いうちであるが、まもなく定められた寿命が尽きる。それは祈祷や薬で治るものではない」
 かつて家康や秀忠が没する時に天海は延命の祈祷をしたことからみると、意外な言葉である。しかし、死に直面してもさすがに冷静であった。
 「この世には、できないとされていることがあるのだ」
 と言われて、弟子たちは汗をかくばかりであった(『東叡山慈眼大師伝記』)。
 9月29日、家光は天海を見舞い、自ら薬を飲ませた。病状が心配でならないと言いながらも諦めたのであろう。日頃気になっていることがあれば、きっと実現させようと言うと、天海はそれを待っていたかのようにいくつかの遺言を言い出した。
 遺言の第一番目は、東照大権現の威光をいっそう高めたいと望んだ。徳川幕府の将来を案じた点では、家康のそれにも劣らぬ熱意であり、生涯をささげた天海らしい言葉である。また、浪人や遠島の者を許してほしいとも言ったが、これは後に京都・大坂・長崎などで実現されている。家光はこれらを涙ながらに聞き入れ、狩野探幽に命じて天海の肖像画を描かせて、それを天海に見せたところ、天海はにっこり笑っただけであった。
 死の前日の10月1日深夜に天海は高弟たちを呼び集めさせた。そして、自分の死期が迫ったので、天台の奥義を口授すると言い、筆記させた。それを一字一画に至るまで校閲して家光の許に届けさせた。
 その日、寛永20年10月2日は朝10時頃から唯識論をひもといていたが、昼時、口を漱ぎ、盥水で手を洗った。そして新しい清潔な衣に着替えたが、それは弟子に手伝わせてやっとのことであった。瀕死の身ながら威儀を直してから呼吸を調え、しばらく数珠を握って経文を唱えた。
 天海の目には、文殊師利菩薩の来迎姿が浮かんだらしい。数珠を三度鳴らして深く礼をしてから、おもむろに言った。
 「今、百余年の修行は終えて仏界に進むのだが、すべて何も自然に思える」
 そして、弟子を一人一人名を呼んでは合掌して、さらに続けて別れを告げた。
 「今、こうして死に臨むが、もしも自分に恩をかえしたいと思うことがあれば、いっそう学道に励めばよい。現世の出会いの縁はここだけに限らない。さらに浄土で再会したいものだ」
 この一語を言い終えると、眠るように息をひきとったのである。10月2日もすでに夕方であった。
 天海逝くの報はただちに江戸城に達したが、家光の妹東福門院和子の娘である女帝明正天皇の譲位問題があって、家光への報告は4日午後に至った。訃報を聞くなり家光は落涙して悲しんだ。
 天海の最後は、半跏趺坐で絶命したまま姿勢を崩さず、表情は微笑がただよっているようであった。家光はその姿に名残は尽きず、再び狩野探幽に画像を描かせている。
 5日夕方、遺体を拭き清めて入棺した。墓所はかねての予定通り日光大黒山に移して、家康の許に殉葬と決して6日、千人の葬列で出発した。遺言によって川越仙波、世良田、佐野春日岡、鹿沼薬王寺を経て10日に日光に到着した。金綾で覆った棺に百味珍華を供え、水銀、朱、塩で封じて埋葬したが、それ以来、水の出ない大黒山に清水が湧き出したと云える。
 慶安元年(1648)閏正月11日、「慈眼大師」号を勅許された。家光はその4月、彼の最後の日光社参で天海の墓前にそれを伝えた。
(山本鈍美)

「戦国武将の食生活」 永山久夫 河出文庫 1992年
 怪僧天海大僧正の超長寿法

「消された日本史」 宮崎惇 廣済堂文庫 1987年 ★★
第二章 超人間の記録/1 徳川幕府産みの親・妖僧天海の超能力
    (前略)
 徳川家康を助けて、江戸幕府の建設に功労のあった天海僧正には《千里眼》の超能力があった。
 天海僧正は、説法するため江戸城へ来るほかは、ほとんど川越の喜多院に住んでいたが、城中で起こったこと、家康のいる駿府城でのできごとは、なにもかも知っていた。ときどき納所(なっしょ)坊主たちに、
 「出羽国(山形県)の最上義光が、駿府の大御所(家康)さまへお別れにきたようじゃ。本多上野介めが途中まで迎えに出ておるわい。病気の義光のこと、出羽へもどれば死も間近じゃな」
 とか、
 「今日は将軍(うえ)(秀忠)さまが霞ケ関の金森出雲守の邸へまいられた。国光の御脇差と馬一頭、時服が土産か」
 とか、瞼を半眼にひらいて話して聞かせることがあったが、そのひとつひとつが、すべてそのとおり敵中していたという。
 元和2年(1616)正月21日、家康が駿府で発病したときは、天海はただちにこれを透視し、取るものも取らず山門を走り出て、ちょうど通りかかった駄馬を買いとり、まっさきに江戸城の秀忠に注進し、病気平癒(へいゆ)の祈願をした。駿府からの知らせが届いたのは、それから半日もあとのことであった。
    (中略)
 天海僧正の場合は、奥義をきわめたという檀那(だんな)一流、慧心(けいしん)流、葉上(ようじょう)流など天台、真言の密教修行によってであろうことは、確実である。
 それはさておき、この天海僧正、上野の寛永寺の開祖として、家康、秀忠、家光の三代につかえ、徳川将軍家の黒衣の宰相、覆面軍師と呼ばれた名僧だが、どういうわけか、その生い立ち、前半生が、まったくわからない。
 寛永20年(1643)10月2日に亡くなったときの歳が118歳とも、120余歳とも、さらに130余歳ともいう。「18歳のとき、川中島合戦を見た」ともらしたことから、逆算して106歳とも推定されている。医学の発達した現代ならともかく、当時としては驚くべき長寿である。このこと自体、超能力といってもよいであろう。
 伝記によれば、天海僧正は東叡山寛永寺の開祖。はじめ名は随風(ずいふう)、のちに南光坊と称した。比叡山に登り、実全に師事し、教観をきわめ、京、奈良に遊び、三輪、法相、禅、外典を学ぶ。
 諸国をめぐり、のち、武蔵(埼玉県)川越の喜多院に住み、ついで下野(栃木県)の宗光寺に移り、さらに叡山の南光坊へ移った。慶長12年(1607)、江戸へ上り徳川家康に謁し、いらい信任厚く、家康死するや、これを日光山に祀り、秀忠、家光の帰依を受け、常に幕府に出入りして政務に参じた。
 元和8年(1622)秀忠の命により、上野忍ケ岡に寛永寺を開き、20年寂(じゃく)す。歳108。慈眼(じげん)大師と諡(おくりな)した――とある。
 が、慶長12年、家康と会うまでの履歴は、すこぶる怪しく、確証はない。僧正の伝記中、もっとも忠実に書かれたものとして定評のある『慈眼大師誕生考』によると、
 「――本姓は船本氏、または平盛高の一族なりとも云う。或は将軍足利義澄の末子なりと、然してその発生詳(つまびら)かならず」
 また、『慈眼大師縁起』には、天海僧正は、人に氏姓をたずねられたとき、俗世のことはなにもかも忘れたしまった、僧として宗門に入ったからには、そのようなことなど、どうでもよいのだと答えたとし「――その実知り難し。故に葦名氏とし、三浦氏とし、或いは足利氏ともいう」とある。
 このように天海僧正の出身について、その異説の数は十余種にものぼっているが、天台の名僧としてあれだけの地位にたっしながら、自分の素姓をまったく口にしなかった点がいかにも奇怪である。
 そうした異説のなかで、もっとも特異なものは、天正10年(1582)、山崎の合戦で豊臣秀吉と戦い、殺された明智光秀が、じつは生きていて天海僧正になったのだ、という説だ。
 なるほど、まったく謎に包まれている天海の前半生も、光秀の変身としてみることにより、いろいろ不可解な点が、うまく解釈がつくのである。
 光秀の小栗栖(おぐるす)遭難が57歳であるから、それに天海の死亡した寛永20年(1643)までの61年を加えると、118歳で、天海118歳死亡説とピッタリ。
 つぎに、光秀の木像と位牌のある京都府北桑田郡周山村の慈眼寺の寺号と、天海僧上の諱(いみな)、慈眼大師がおなじであること。
 さらに、比叡山の松禅寺に「慶長20年、奉寄進願主光秀」と彫った光秀寄進の石燈籠があるが、天正10年に亡くなったはずの光秀が、34年たった慶長20年に石燈籠を寄進したのだ、ということは、光秀は比叡山に逃れ、僧となって身を隠していた証拠ではないか。
 天海が家康に謁したきっかけは、比叡山に訟獄(しょうごく)のことが起こり、家康がみずからこれを裁いたときで、初対面であるにもかかわらず、ふたりは、まるで旧知の親しさでたがいにうなずきあい、語りあった。これを見て、家臣一同おおいに不思議に思ったという。
 前々から光秀を高く評価していた家康であればこそ、その変身である天海僧正を、さっそく政治、軍事の顧問にしたのではあるまいか。
 慶長19年(1614)9月、豊臣秀頼が方広寺に寄進した鐘の銘の文章「国家康安」が問題になり、評定がひらかれた際、家康の諮問(しもん)に応じて集まった学者、僧の大多数が、天下安全の祝文であると認めたにもかかわらず、天海僧正ただひとりが、徳川家を呪詛する文だと強く主張し、これが口実となって家康の大坂攻めがはじまり、ついに豊臣氏は滅亡する。天海を仏門の名僧長老とかんがえると、このような態度はまったく不可解だが、天海が豊臣氏に対し強烈な憎悪をいだく明智光秀であると推定すれが、なにもかも釈然とする。
 もともと光秀は、若いころ、越前の称念寺で園阿和尚(おんなおしょう)について仏学を修め、さらに京都嵯峨の天龍寺に入り、名僧勝恵とともに仏学を研鑽(けんさん)し、ほぼその大要に通じていた。信長の叡山焼打ちをはじめとする仏教迫害に反対したのも、そうした修養があったからである。その光秀が、天海として生まれ変わったとしてもなんの不思議もないのだ。
 このように天海僧正=明智光秀説は、じゅうぶんな説得性を持っている。
 とにかく、天海僧正には謎がおおい。
 千里眼の超能力を有していたことも、そのひとつだが、こうした不思議な能力が、どうした理由で、ある特殊な人間にあらわれるのか、その問題は、まだ科学的に説明のできるまでに研究がいたっていない。
 今日まで行われた実験報告によれば、《千里眼》は、催眠状態においてあらわれる場合がはなはだおおい。そのことは、天海僧正が「瞼を半眼にひらいて」とか、ラマ僧たちが「地蔵車をまわし」「目を閉じ頭をたれ」あるいは「あぐらをかいて居眠りをしていた」といった状況描写からもうなずける。いずれも自己催眠状態にあったのであろう。

「異説なるほど日本史」 河野亮&グループ 天山文庫 1992年
 明智光秀は天海僧正になった
●天海=光秀を裏づける証拠あれこれ
 出生も不明なら死んだときの状況も諸説ある光秀。謎は謎を呼び、変身説をも登場させる。江戸時代初期に「黒衣の宰相」として権勢を誇った天海僧正に変身したというのだ。徳川家康の側近として豊臣家の壊滅に一役買った天海。家康が死んだとき、葬儀方法と神号をめぐって崇伝と争うが、結局、葬地を久能山から日光山に変更させ、江戸上野に寛永寺を建立した実力者である。
 天海への変身説を唱えたのは、光秀の末裔だという明智滝朗氏。歴史研究家の何人かも、この説を支持した。いったい彼らは何を根拠に、そう主張したのか。だいたい次の四点に集約されるだろう。
@うまれた年がほぼ同じ
 光秀の生年は、大永六年(1526)、もしくは享禄元年(1528)といわれている。天海が死去したのは寛永二十年(1643)、百十歳前後のときというから、ほぼ同じ時期に生まれたと考えられる。
A天海の前半生の経歴がはっきりしない
 天海の高弟たちが記した『東叡山開山慈眼大師縁起』のなかに、こんな記述がある。
 弟子たちが天海に出自を尋ねると、
「出身地も俗名も生年も忘れて久しい。私は仏門に入った身。俗人であったころのことを知っても、おまえたちには何の意味もない」
 と答えた。このように天海は自分の過去を話すのをかたくなに拒んだ。
B天海の諡名「慈眼」は、光秀の領地にある寺の名前と同じ
 京都府北桑田郡周山村にある慈眼寺には、光秀の位牌と木像が安置されている。周山は光秀の居城・亀山城があったところ。慈眼大師、これが天海の諡名である。
C光秀が石灯篭を寄進した比叡山は天海ゆかりの地
 比叡山に伝わる言い伝えのなかに、
「山崎の合戦に敗れた光秀がこの地に隠れ住んでいた」
 というのがある。
 慶長十二年(1607)、天海は比叡山南光坊に寄宿して学徒の教化にあたった。天海僧正と称すようになったのは、このころである。比叡山の松禅院には、「光秀」という人物が寄進した石灯篭があり、そこには、こう刻まれている。
「慶長二十年二月十七日 奉寄進 願主光秀」
 豊臣家が滅亡したのも慶長二十年(1615)である。山崎の合戦で、秀吉に煮え湯をのまされた光秀。もし、そのときに生きていたとしたら、豊臣家の滅亡に拍手喝采を送りたいところだ。石灯篭を寄進した「光秀」が、明智光秀、いや天海だった可能性は高い。
 ――以上が光秀・天海の同一人物説の根拠である。なるほどと納得したくなるほど、あまりにも共通部分が多い。たとえ偶然が重なったにせよ、何となく信じたくなってしまう。「事実は小説よりも寄なり」というではないか。

「日本史「謎の人物」の意外な正体」 中江克己 PHP文庫 1999年 ★
 「千里眼」の妖僧は明智光秀だった?
 上野の寛永寺(東京都台東区)を創建した南光坊天海は家康、秀忠、家光の徳川三代に仕え、黒衣の宰相と称された。しかし、どうしたわけか経歴などに謎が多く、天海の前身は明智光秀とする異説もあるほどだ。
 年齢についても、寛永二十年(1643)十月二日に死去したとき、百三十五歳だったなどとさまざまにいわれる。しかし、一般的には天文五年(1536)、陸奥高田(福島県大沼郡会津高田町)に生まれたとされるから、死去したときは百八歳だった。当時としてはおどろくべき長寿で、そのこと自体、超能力といってよいかもしれない。
 十一歳で出家して天台密教を学び、十四歳から諸国を遍歴し、三井寺(滋賀県大津市)、興福寺(奈良市)などで修行したという。のち、天正十六年(1588)ごろ、武蔵仙波(埼玉県川越市)喜多院の住職となった。
 徳川家康と出会った時期ははっきりしないが、慶長十二年(1607)ごろ、と考えられている。家康六十六歳、天海は七十二歳だった。
 家康はたちまち天海を信任し、比叡山に派遣し、延暦寺の復興に当たらせた。当時、家康は諸宗派の統制を企て、統治に利用しようとしていたが、天海を派遣したのも天台宗の統制を進めるというねらいがあった。
 家康はその後も天海を重用し、なにかと相談した。天海もそれによく応えたのだろう。家康は、
 「恨みに思うのは、天海との出会いが遅すぎたことだ」
 と歎いた、と伝えられる。
 天海は天台宗だけでなく、禅や密教にも通じ、わかりやすい講義をして人びとを感銘させた。天海が家康の心をつかんだのも、その講義のたくみさによってである。家康は、早くから天海の噂を耳にしており、対面を期待していたのだろう。期待が高まるなかで、家康は天海に対面した。
 天海は、なにごとも見通すかのような目で家康を見つめ、張りのある声で語っていく。こうして天海は、家康の心をつかんでしまったという。
 ろころで、天海には「千里眼」の超能力があったという逸話がある。千里眼とは、いうまでもなく遠方の出来事を見通すことのできる能力だ。
 天海はほとんど喜多院に住んでいたが、江戸城中で起こったことや家康のいる駿府城(静岡市)の出来事をことごとく知っていた。ときおり半眼になって、そうしたことを納所坊主に話して聞かせたが、あとでたしかめてみると、すべて天海がいった通りだった、というのである。
 元和二年(1616)一月二十一日、家康が駿府城で発病したときも、天海はただちにこれを透視して知った。そこで天海は取るものも取りあえず山門を走り出ると、ちょうど通りかかった駄馬を買い取り、江戸城へ急いだ。こうして秀忠に注進し、病気平癒の祈願をしたが、駿府城から知らせがとどいたのは、それから半日後のことだったという。
 家康は四月十七日、七十五歳で死去したが、その後、家康の神号をめぐって問題が起こった。家康の側近の一人、以心崇伝は吉田神道にしたがって、家康を大明神としてまつることを主張した。ところが、天海は、
 「大御所様(家康)は死にのぞんで、山王一実神道によってまつり、権現とするよう求めておられた」
 といって反対したのである。
 しかし、家康がそういっていたなどとは、天海のほかにはだれも知らない。そこで、将軍秀忠は「なぜ明神が悪く、権現がよいのか」と天海にただした。すると、天海は、
 「豊国大明神を見ればよい」
 と答えた。豊国大明神は豊臣秀吉の神号であり、その秀吉をまつる豊国社は前年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したのを機に破却されていた。それだけに、天海のひとことは決定的だった。
 こうして家康の神号は権現と決まり、翌年、日光東照宮が建てられ、東照大権現としてまつられたのである。
 天海はその後、秀忠、家光の帰依をうけ、幕府の政務にも参画するようになったが、寛永二年(1625)には江戸忍ヶ岡(東京都台東区)に寛永寺を建て、この寺を徳川家の廟所とした。天海は寛永二十年十月二日に死去したが、その五年後、慈眼大師と諡号された。
 ところで、天海は僧として出世したにもかかわらず、自分の経歴については語らなかったが、これは奇怪なことである。そのせいか、これまで多くの異説が登場した。
 なかでも特異なのは、天正十年(1582)、本能寺の変で織田信長を倒し、山崎の合戦で敗れて殺された明智光秀が、じつは生きていて天海になった、という説である。
 もし、光秀の後身が天海だとすれば、天海は経歴を語ることができなかっただろうし、謎とされる天海の前半生も説明がつく。死去したとき、光秀は五十五歳だが、天海は当時四十七歳。さほど年がちがうわけではないし、それから二十五年後に家康と対面したことになる。
 天海=明智光秀説を唱える人は、その証拠として、光秀の木像と位牌のある慈眼寺(京都府北桑田郡京北町周山)の寺号と、天海の諡号慈眼大師とが、同じ「慈眼」であることをあげる。
 さらに、比叡山の松禅寺に、「慶長二十年(1615)、奉寄進願主光秀」と彫られた、光秀寄進の石燈篭があるという。慶長二十年といえば、光秀が死去して三十四年後だ。こんな不思議なことはない。このため、光秀は死なず、比叡山に逃れ、僧となって身を隠したあと、天海となって現われたのではないか、というのだ。
 なかなか興味ある説だが、むろん証明されたわけではないし、だからといって否定することもできない。天海とは謎の多い、不思議な人物である。

「江戸の怪」 中江克己 祥伝社黄金文庫 2000年 ★
 生き続けた明智光秀の正体とは
  家康の信任厚い天海僧正の素性

「複式簿記の黙示録」 岩辺晃三 徳間書店 1994年 ★★
第3章 戦国日本、天下統一の陰にひそむ知将の意思
 37●江戸崎と川越に存在する天海と光秀を結ぶ糸
 光秀と天海が同一とするならば、光秀の生長から起算して、天海は数え年118歳で没したことになる。一方、天海もまた足跡が明確になるのは、1591(天正19)年、葦名盛重に迎えられて常陸江戸崎不動院に入ってからである。
 その後は、東叡山寛永寺の造営まで武蔵川越仙波喜多院を中心に活動した。
 前半生がともに不明な点が多いことが天海・光秀同一説の背景にあることは見逃せない。
 しかし、前半生が不明という共通点だけで天海・光秀同一説を成立させるにはかなりの無理がある。そこで筆写は、実際に天海が身を寄せた江戸崎不動院と川越喜多院を訪ねてみた。
 江戸崎不動院には最晩年の天海を写した狩野探幽の天海画像があり、御簾に描かれた「二つ引両の紋」と天海自筆の讃がみられる。
 また、住持相承の宝物として慈眼大師の舎利(歯牙)、元日光二荒神社御神体で徳川三代将軍家光から寄進された不動明王像や天海木造、「東照大権現」位牌なども安置されている。
 天海画像の「二つ引両の紋」は足利将軍家の紋所で、天海がもちいたものだが、諸説ある天海の出自のうち足利家との因縁を強く暗示しているものだった。
 ただし、明智光秀がもちいた紋所は「桔梗の紋」で、「二つ引両の紋」ではない。
 ここで筆写は先ほどの服部酒造雄氏の『郷土史の謎に挑む』のなかに、明智光秀の先祖についてふれた箇所があることを見いだした。
 そこにはおおよそ次のような記述が記されている。
 <美濃岩村を中心とした地域にかつて遠山の庄という荘園があり、その地頭は代々、遠山氏を称した。本家岩村の遠山家は武田勢によって滅ぼされたが、明智、苗木の遠山氏は生き残った。明智遠山氏11代目遠山直景は、大永年間(1521年前後)、北条早雲の遺業を慕って明智城を退去し、士卒180名とともに小田原北条氏に仕え、大永4(1542)年、江戸城主となった。
 直景の遺領は光秀の叔父にあたる明智光康(安)が継ぎ、名を民部相模守遠山景行と改めて明智城主となった。そのとき、紋所は遠山氏の家紋「二つ引両の紋」と、土岐明智氏の家紋「桔梗の紋」を併用した。……筆写要約>
 このようにみてくると、天海画像に描かれた「二つ引両の紋」が明智家の紋所であるといっても矛盾はないことになる。
 筆写が不動院主の瀧川眞栄大僧正からうかがった話によると、不動院に近在(東村)の老婆が参拝にきて、先祖が明智光秀ゆかりの者であったと話していたことがあったという。
 おなじようなことは、川越喜多院でもみられる。
 喜多院には徳川三代将軍家光誕生の間がいまも残され、慈眼堂には天海僧正木像が安置されている。川越市文化財保護協会が復刻版として発行した『三芳野名所図絵』(ママ)には、喜多院にちなむ人物の経歴を記した「先祖は丹波の国篠山の武士にて明智光秀が乱をさけて遁れ来たりてここに住す」という記録がある。
 江戸崎と川越にはいずれも天海と光秀を結ぶ糸が存在しているのである。
 ついでにいっておくと、徳川二代将軍忠、三代将軍家の名には光秀を連想させる文字が隠されており、家光の子である四代将軍家綱、五代将軍綱吉に共通する「綱」の字は、明智光秀の父、光綱の「綱」と同じである。
 これは果たして偶然の一致にすぎないのだろうか。
 もし、天海が光秀だったとするならば、天海は光秀およびその近親者の名前に相当のこだわりをもっていたはずである。
 そして天海が家康をはじめ歴代将軍の絶大な信頼を受け、影響を与えやすい位置にいたことを考えると、このことは大いなる探究心の湧くところである。
第6章 日本発! 調和のとれた世界
 85●天海と光秀の筆跡には共通点が多い
 平成5年2月に拙著『天海・光秀の謎――会計と文化』を税務経理教会より出版したが、出版後もそこでとり上げた場所を訪れて、新たな発見にしばしば遭遇した。
 同年の2月、久能山東照宮の宝物館を訪れたとき、そこでは家康の愛用したといわれる「炭と」(炭入れ籠)が陳列されていた。それは竹で編まれたものと思われるが、かごめのマークが強く意識されていたものであった。
 いくぶん太めに編まれた六角星形の籠目のなかに、細い糸で六角星形の籠目が編まれて、二重の六角星形の籠目が形成された籠である。
 天海が日本地図に二つの六角星型を描いたことを想起してみると、家康もこの六角星形を相当意識していたことがうかがえるのである。
 本書の校正用ゲラ刷りの出てからのことであるが、川越の喜多院を訪ねて寺宝の陳列ケースのなかに銅製の鳥籠のような卵形の釣り燈籠を発見した。それは籠目と桔梗紋の入った透かし燈籠である。
 天海にかかわるものとして大切に寺に伝えられてきているとのことであるが、これこそ天海みずからが明智光秀であることの証として後世に伝えたものと筆者は直観したのである。
 六角星形へのこだわりは、東京都の上野東照宮でもみることができる。唐門の透かし彫りに六角星形を識別でき、また拝殿内部の梁に描かれた亀甲紋をみることができるのである。
 もちろん日光東照宮では、亀甲紋や六角星型へのこだわりをさまざまな形でみることができる。
 六角星形も亀甲紋も、幾何模様としてみると、基本的にはおなじ形があらわれるのである。
 平成6年の1月、久しぶりに京都山科の毘沙門堂を訪ねてみた。毘沙門堂は、天海によって中興された門跡である。花山法皇との関係を思わせる花山院忠長の遺子で天海の養子となった公海が、毘沙門堂門跡の第二世となっている。毘沙門堂には、天海ゆかりの遺品が所蔵されているが、そのなかに亀甲紋を透かした御簾がみられる。
 ここにも亀甲紋へのこだわりをみることができるのである。
 また、ここには「老之間」「愛堂の間」と称する狩野洞雲益信の筆になる逆遠近法で描かれた、見事な襖絵のある二つの部屋が存在している。
 天海・光秀同一説に連なる数字もしっかりと残されているわけである。
 この毘沙門堂を以前に訪れたときには、数多くの天海の墨跡が展示されていた。天海の書き残した筆跡と光秀の筆跡を比較すると、あまりにも似ているといわれ、実際にみると筆致は共通するものが多い。
 そのときもう一つ面白いことに気がついた。それは、天海の墨跡とされるものに二種類の筆跡がみとめられたことである。二種類の筆跡について筆者が考えたことは、右手を左手を器用に使い分けして毛筆で書いたものではないか、ということであった。
 なお、毘沙門堂で天海の衣鉢を受けた公海は、天海によって創建された東叡山寛永寺の第二世ともなった。
 ちなみに、寛永元(1624)年に起立し、その年号にちなんで名づけられたわけであるが、その年号は花山天皇の在位した永観と寛和の年代を意識して命名されたと考えられる。

「日光殺人事件」 内田康夫 角川文庫 2001年
 東照宮ゆかりの天海僧正は明智光秀だった? しかも日光に近い大牧場主の智秋家は明智家と関係が? 「旅と歴史」の取材で日光を訪れた浅見光彦は、華厳の滝で飛び込み自殺に遭遇する。だが、崖下からはもう一体、智秋家の次男・次郎の白骨死体が発見された。彼は「日光で面白いものを発見した」という言葉を残して二年前に失踪していたのだ。資産家一族の中にありながら、短歌と馬を愛する自然児だった次郎。そんな叔父を慕う智秋家の令嬢朝子の依頼で、浅見は「日光」の謎に挑むが。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 天海(てんかい)
1536?〜1643(天文5?〜寛永20)江戸前期の天台宗の僧。
(系)俗説に蘆名氏の支族三浦氏の出身という。
(生)陸奥国会津郡高田。
(名)幼名蘆名兵太郎、号を南光坊・智楽院、諡号は慈眼大師。
 寛永寺の開基。11歳で薙髪受戒して台密の学を学ぶ。14歳から諸国名山霊区を遍歴し、比叡山のほか三井寺・興福寺で修行。永禄年間(1558〜69)甲斐国武田氏の寓客となったが、のち蘆名盛重の招きに応じて会津へ帰り、常陸国不動院をはじめ関東諸寺院に住む。さらに比叡山東塔の南光坊に移ったが、1608(慶長13)徳川家康に招かれて駿府に赴き、天台論議をかさねて帰依をうけ、川越の喜多院や下野国の日光山を主宰した。とくに山王一実神道の進言は家康の信任を深め、家康の死後、久能山から日光山に改葬して神号を贈ったのも、その宰領によるものであった。1624(寛永1)徳川秀忠の命により、江戸上野の忍ヶ岡に東叡山寛永寺を開創、3代将軍徳川家光まで幕府の信頼をうけた。1637には、寛永寺に編局をおいて「大蔵経」を版行するなど勢威をふるった。
(参)須藤光暉「大僧正天海」1916

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 以心崇伝(いしん すうでん)
1569〜1633(永禄12〜寛永10)安土桃山・江戸前期の禅僧(臨済宗)。
(系)一色秀勝の子。(生)京都。(名)金地院崇伝ともいう。諡号を円照本光国師。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 明智光秀(あけち みつひで)
1526〜82(大永6〜天正10)戦国・安土桃山時代の武将。
(系)土岐氏の支族と伝えられる明智光綱の子。(生)美濃。(名)十兵衛、日向守。
斎藤道三の死後諸国を遍歴、1558(永禄1)織田信長に仕え殊遇を受ける。'71(元亀2)近江国坂本城主。'75(天正3)信長より惟任姓を受ける。'77以後丹波攻略に従事。'79八上城主波多野秀治と母を交換して和睦したが、信長が秀治を殺したので光秀の母も殺され、信長を深く恨むに至ったという。'82羽柴(豊臣)秀吉の中国征伐援助を命ぜられたが、6月丹波国亀山から京都本能寺の信長を急襲し自殺させた。細川忠興・筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦い、大敗して坂本へ逃走の途中、小栗栖で農民に刺殺された。
(参)高柳光寿「明智光秀」1958。

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  明智光秀

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作成:川越原人  更新:2021/08/12