河 越 氏(1)


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「河越太郎重頼一族」 土金冨之助 川越市観光協会・商工会議所 1991年 ★★★
 川越の地名発祥は、今から約八百有余年前(1150年代)にさかのぼり、武蔵武士が勃興した平安時代末期と思われる。
 河越氏の祖先は桓武平氏の一門秩父党の重綱の二男重隆を祖とする。(畠山重忠・江戸重継・高山重遠等は一族である)
 入間川左岸河越(確証はない)の地に在地豪族と結合して河越氏を興した。河越氏は、重隆―能隆―重頼(太郎)―重時(弟二郎)―重員(弟三郎)―重資―経重―宗重―貞重―高重と二百十数年、正平二十三年(1368)まで続いた家柄である。
 永暦元年(1160)重隆は、現在の上戸常楽寺地域に荘園を開いた。この地方の開発に努力し、次第にその規模は拡大されていった。その後のこの所領を後白河上皇に寄進して荘官となる。上皇はさらに京都の新日吉社へ寄進したので、所領は新日吉社領河越荘と呼ばれるようになった。この頃河越氏の当主は重隆の嫡子能隆である。
 同じ頃山田・仙波・古尾谷氏等の荘園も開かれた。なかでも河越氏は強力となる。
 治承四年(1180)能隆の嫡子重頼(河越太郎重頼)は、源頼朝が挙兵したとき、畠山重忠・江戸重長等と三浦氏のこもる相模衣笠城(横須賀市)を攻略する。のち頼朝に帰服するがその後信任を受けて、鎌倉幕府の御家人(京の朝廷や鎌倉の幕府を警護する武士で、天皇や将軍の随兵を勤める)として重く用いられるようになる。
 頼朝は自から北武蔵一帯を検地した。この地が相模の地と違い、広大な平野に肥沃な土地であることを見て重要視する。このとき頼朝は都幾川村の慈光寺に銅鐘を奉納している。
 武蔵の国は日本の武士の発祥の地と昔からいわれ、また埼玉を中心に東国自治の発祥地ともいわれた。土と水と緑が豊かであったためであろう。武蔵武士の歴史上の人物は鎌倉室町時代にかけ数多く輩出している。平安時代からこの地方の文化は非常に高く、遠く西の都まで聞こえ伊勢物語等に記されている。
 頼朝は自分の乳母比企の局の次女を重頼の妻にすすめ結婚させる。武蔵武士の中でも最も強力である河越氏との関係を深めたのである。
 寿永元年(1182)頼朝の長男頼家が生まれると、こんどは重頼の妻を頼家の乳母に出させるよう命じたのである。重頼はこの頼みも心よく承諾し、縁の深くなることを満足に思うのであった。
 寿永三年(1184)重頼・重房父子は畠山重忠と共に頼朝の弟源義経に従って、木曾義仲軍を宇治川に破り、京都六条河原の奮戦では、院の御所六条殿を警護した。続いて一の谷(神戸市)の合戦に於て、敵将平師盛(重盛の子)を討ち取る武勲をたてた。その戦功により伊勢国香取五カ郷(三重県)の地頭職に任命されたのである。
 京都における義経の人気は後白河上皇や貴族達に高く評価され、もてはやされた。頼朝は重頼の娘を京都にいる弟義経の嫁に出すようすすめる。娘が十七歳のときである。たいへん美人だったと記されている。重頼に依存はなかった。今をときめく源頼朝の一族になることはむしろ望むところだった。頼朝が媒酌した武士は北条時政とこのときだけで、いかに重頼が信任されていたかを示している。当時義経は京都の堀川館におり、娘一行が上洛したことから、京へ行ったお姫さま『京姫』と呼ばれるようになったと伝えられている。

(註)昔の家系図には女性の場合、名前まで記されることはほとんどなく、ただ女とだけ記されることが多い。そのため重頼の娘も名前がはっきりしない。歴史家のなかには『郷姫』と書く者もおり、更には『扇姫』とも書かれている書もある。いずれにしても確証がないので、川越のイメージにふさわしい名前をこの際命名することも考えられるのである。ここでは京姫と呼ぶ。  

 義経と京姫の結婚は、政略結婚のはしりだといわれている。義経は武勇の人、戦に強い美男青年、京姫は美人画から抜け出たような容姿、申し分のないカップルとなった。京姫は心から義経を愛し、京の人となるが、一年もたたないうちに、人気の高い義経は、上皇の寵愛を受けたといわれる北白川の出身磯の禅師の娘静を側室に迎えるのである。『静御前』であり、京姫は『京御前』と呼ばれた。静御前は京御前より一つ年下である。義経はその後次々と側室をもち、数人の女性と関わりをもったとも書かれている。二人とも美人で若い生涯を終える悲劇の人となり後世に名を残す。
 義経は木曾義仲を倒して、後白河上皇の人望を得、軍勢が平家を追って、文治元年(1185)四国へ渡り、屋島から壇ノ浦に勝利すると、京での人気は上昇するばかり、鎌倉にいる兄頼朝には、その武勲が逆に心配の種に変っていった。弟の義経があまり強くなることは喜べなかった。
 頼朝は京の都を嫌った。その理由は京のきらびやかな風俗は東国武士を堕落させると考えていた。頼朝はそのために幕府を京から遠く鎌倉に開いたのである。(この思想はのちに徳川家康が引き継いだ)
 義経に対し頼朝は何回も鎌倉へ戻るように使いを出すが、義経は聞かなかった。頼朝は心配から恐れを感じるようになる。
 源平の合戦が終ると頼朝と義経の仲が不和を生じる。重頼は両者の間に立ち、苦境に立たされた。
 後白河法皇はどちらが強力になることも望まなかった。むしろ対立することで二人の力をはかりにかけた。法皇は京都を好む義経に味方し、頼朝を討つように院宣(上皇または法皇の命令を伝える公文書、天皇の綸旨に相当する)を下すが、頼朝は早くもそれを察知し、逆に法皇に迫って義経追討の院宣を受ける。法皇はここに至って兄弟の力を分断することが得策と考えた。頼朝は義経討伐に上洛する。とき文治三年(1187)である。義経は兄の怒りを恐れ、兄と戦うことを避けるために京を捨てる決心をする。家臣を帰郷させると比叡山を頼り、叡山の僧に守られ山伏姿に身を変える。正室である京御前は自から同行を願い出る。数人の家臣と共に金売り商人吉次に道案内させ、東北平泉の藤原秀衡をたより、追われる身となり北陸路への長い旅に出る。
 頼朝は全国の地頭職に命じ、義経の捜索をするが、義経の行方はようとして判らず捕らえることができない。義経一行は苦難の道を辿りながらも無事奥州平泉へ入る。一方頼朝の猜疑心は強くなるばかり、義経に関わりのある者はすべて憎むようになる。
 京御前は義経と京都からずっと行動を共にしていた。父の重頼にはその情報は全く得られず、心配は募るばかりだった。だが頼朝は義経一行の旅路の情報を得ると、義父である河越の重頼が何か知っているのではないかと疑いだした。重頼を呼び出し厳しく詮索する。果ては娘婿の義経と組んで謀反を企むかとあらぬ嫌疑で激怒、伊勢五か郷と河越荘を没収し重頼を処罰する。あげくに二年後には頼朝により重頼は誅せられる。
 平泉に入った義経は秀衡に暖かく迎えられた。だが秀衡は一年も経たないうちに他界してしまう。その子泰衡には義経を庇うだけの力量がなかった。泰衡は鎌倉幕府の圧力に屈し、義経を討つことを約束させられてしまう。義経は泰衡の手勢に攻められ、高館に於て最早これまでと、妻の京御前(二十二歳)と子(四歳)を殺してからその場に自害する。義経を愛し、最後まで連れ添って苦労した京御前の末路は哀れだった。武士の妻の宿命ともいえる悲劇である。
 頼朝は重頼を殺してしまった後、義経の行動に全く関わりなかったことを知り、恥じたが後の祭りだった。頼朝はせめてもの償いに、取り上げた領地全部を重頼の妻に返してやった。その上河越荘の守護地頭職を与えた。この事件で河越氏は滅亡する処を免れたのである。河越氏二百有余年続いた歴史の中でも、河越太郎重頼の時代が最も華やかであり、また哀しい物語を残した。この時代が歴史書の中に一番記録を多く残している。
 建久三年(1192)源頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。この時から鎌倉文化の幕開きとなり、頼朝の権勢と共に河越氏もまた力を増していった。嘉禄二年(1226)重頼の三男、三郎重員は武蔵国留守所総検校職(国司を代行する武蔵国最高の役職)に補せられるほどの実力をもつようになる。この職務は子の重資に貞永元年(1232)権限を譲られている。河越氏が代々世襲した。
 くだって寛元二年(1244)河越次郎経重(重頼の曾孫)の時代となり、経重は入間川東台地に天台宗阿闇梨(古代インド語サンスクリット語で教師・規範師・範師など教える高僧のこと)円慶僧を開祖として養寿院を開基する。後に天文四年(1535)曹洞宗に変る。文応元年(1260)には経重は河越に文祀の新日吉山王宮に銅鐘を奉納する。
 元弘三年(1333)新田義貞が上野で挙兵し、鎌倉を攻める為、上野から武蔵を経て幕府を倒したが、このとき河越氏は新田軍に従軍している。河越貞重の時代である。
 河越氏の歴史は更に重ね、正平二十三年(1368)まで続く。既に足利の時代となり、鎌倉は足利氏満により関東管領と呼ばれていた。この年、貞重の子河越次郎高重は周辺武士を集め、中心となって武蔵平一揆を起した。河越館に立てこもり、鎌倉公方氏満に背くが、関東管領上杉朝房らは大軍を率いて河越館を攻めてこれを陥いれる。河越一族は戦に破れ伊勢の地へのがれ滅びたと伝えられる。
 鎌倉へ味方した上杉氏がやがてこの地方を支配した。河越氏が二百数十年の長きにわたって川越地方の豪族武士として君臨した歴史は終った。
 その後河越は、長禄元年(1457)太田道真・道灌による河越城の築城にともない、上野の上杉氏、下野の足利氏、小田原の北条氏攻防の重要地として、争いが百数十年続き江戸時代を迎えることになる。
 地名の川越はいつの頃から三本川の『川越』となったのか、河越氏の時代が終る頃には一族の分れが入間川・小畔川・越辺川を越えて東台地に移り住んでいた。
 江戸時代の初め頃までは河越と書いていたようである。川越と書かれている文書も見られる。江戸に幕府が開かれ河越城の初代城主となった酒井重忠公は、河越氏一族の立派な歴史を残しながら、『川越』と統一したのであろう。

「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる 安田元久 有峰新書 1984年 ★★
二 秩父武士団の人々
 (3)河越重頼と江戸重長
   河越氏と江戸氏
 秩父一族の中で、鎌倉初期に畠山氏とならんで、有力御家人として活躍したものに、河越氏・江戸氏・豊島氏・葛西氏などがある。
 そこで、まずはじめに、嫡流とみられる秩父重弘(畠山重能・小山田有重の父)に比較的近い系統にある河越氏及び江戸氏について述べることとする。なお、鎌倉初期に名をあらわす有力武士として、秩父一族に属するものは、上述の家々のほかに、秩父重綱(重弘の父)の弟の基家に系譜をひく渋谷重国がある。しかし、この渋谷氏は相模国渋谷庄を本領としたので、本書での考察外となる。
 重綱の第二子(重弘の弟)の秩父二郎大夫重隆は、源義賢が上野国から武蔵に勢力を拡げようとしたとき、これに加担したため、久寿二年(1155)八月、比企郡大蔵館で源義平のために討たれた。この重隆が初めて入間郡河肥(河越)庄の領主としてその地に居住し、河越氏の祖となった。そして、この重隆の孫が河越太郎重頼である。
 この河越庄の成立年代は明らかでないが、鎌倉初期の状況については、『吾妻鏡』の文治二年(1186)七月二十八日、及び八月五日の両条により、これが新日吉社領の荘園であり、また地頭請所となっていたものであることがわかる。そして、この河越庄の地頭が河越重頼であったことも明らかである。おそらくは河越重頼が開発領主として、この地を京都の新日吉社に寄進したものであろう。その際に荘司として在地の領主権を留保するのは、この時代の寄進型荘園における一般的形態であるが、その荘官職が伝領され、重頼のときにその所領所職が安堵されて、鎌倉幕府の地頭職となったに相違ない。
 河越庄の荘域については、いま正確にこれを示すことはできないが、大体のところは、現在の川越市のうち、市街地の西北に接する地域で、その荘域内を入間川が北北東に流れていたものと見てよい。重隆が荘園支配の精神的支柱として新日吉社をこの地に分祀したといわれる日枝神社(新日吉山王宮)の社域(土塁の一部が残存する)が、市内上戸地区に現存する。そしてその近くにある時宗の寺院常楽寺は河越館跡の一部であるという。この館跡は入間川の自然堤防の内側に位置する200メートル四方ほどの地で、その西側と北側の一部の土塁が残っている。
 これらは、当時の河越庄の西北の丘陵地に構築されたものの遺構であろう。常楽寺は河越氏の持仏堂として建立されたものと伝えられるが、その山門・仁王門も江戸中期の建築物で、中世のおもかげは全く見られない。
 また、川越市末広町にある養寿院は河越経重(重頼の第二子重時の孫)が寛元二年(1244)に創建したものであるが、そこに伝わる銅鐘の銘には、この経重が文応元年(1260)十一月に、「武蔵国河肥庄の新日吉山王宮」に寄進したことが記されている。河越氏とこの河越庄との関係を立証する有力な史料といえよう。なお、この養寿院の本堂西南側に、河越重頼の墓と伝えられる五輪塔がある。
  (後略)
   河越重頼の動向とその誅殺
 秩父重綱に系譜をひく河越氏及び江戸氏についての概略を述べたが、鎌倉開府の時期に活躍したのは、いうまでもなく、河越重頼と江戸重長である。
 まず河越重頼であるが、頼朝挙兵の時期の重頼の行動は、先に見た畠山重忠と共同歩調をとっていたものと見てよい。しかも、この時期に畠山重忠ほどは華々しい動きを示してはいないが、『吾妻鏡』によれば、重頼がむしろ秩父武士団の中核的存在であったらしい。
 治承四年(1180)八月二十四日大庭景親の求めに応じて、石橋山に向かった畠山重忠は、途中で石橋山における頼朝の敗戦を知って本拠地に馳せ帰らんとしていた三浦一族の軍勢に出合い、鎌倉由比ヶ浜で激戦を交えた。このとき、重忠の郎従五十余輩が討たれたので、勝敗を決することなく、重忠は一旦、軍をひいた。しかし、重忠は一つにはこの合戦の屈辱をはらすため、また一方では平氏の重恩に報いるため、頼朝側に立った相模国第一の強勢武士団たる三浦一族を衣笠城に攻撃しようとした。そして、それまでは畠山氏だけの単独行動であったが、この際に重忠は秩父一族の武士団の総力をあげて、一挙に三浦一族を攻略することとした。
 そこで重忠は河越重頼に連絡をとり、武蔵の武士たちを相催して来会すべきことを促したのである。重忠が何故にこのことを河越重頼に連絡したのか。『吾妻鏡』には、その理由について、「重頼は秩父一族の中で、次男流ではあるが、秩父氏の家督を相続しており、武蔵の武士団の多くを従えているから」と記されている。
 これによると、河越氏が秩父重綱以後の、秩父一族の家督を継承していたことになる。私は先に武蔵国留守所総検校職が重綱から代々長男流の畠山氏に伝えられたと述べたが、もし河越重頼が家督をついでいるなら、この総検校職も重頼の手中にあったと見なければならない。また、のちのことであるが、嘉禄二年(1226)四月に、河越重頼の子、三郎重員が武蔵国留守所総検校職に補されたときの『吾妻鏡』の記事には、これが「先祖の秩父出羽権守(重綱)以来、代々補し来る」ところの職であると述べられている。「河越氏の代々」の意味であれば、鎌倉初期には重頼のものであったとしなければならない。それでは畠山重忠はどうなるのか。数年後に河越重頼は失脚するので、その後に重忠がこれに補任されたものであろうか。あるいは、重忠がとくに頼朝の信任を得ていたため、いつの頃か重頼の手から重忠へ移ったのか、そのあたりのことは定かでない。
 それはともあれ、頼朝挙兵の時期の武蔵国で、河越重頼が秩父氏の家督として国内の多くの武士団を従え、有勢の者であったことは疑いない。彼は畠山重忠の申し入れに従い、早速、数千騎の軍勢を率い、八月二十六日には衣笠城を攻撃して、これを破った。この軍勢には、同族の江戸重長お加わっており、また武蔵七党の一つの村山党なども含まれている。
 その後、勢力を恢復した頼朝が、数万の軍勢を擁して武蔵国に進んできたとき、治承四年(1180)十月四日、長井ノ渡で河越重頼・江戸重長が畠山重忠とともに、頼朝の下に参会したことは、前章に述べた。この頃、重頼にはとくに独自の動きを示した痕跡はなく、つねに畠山重忠と共同の歩調をとっていたと思われる。なお、この時期の重頼の年齢は明らかではないが、当時十七歳であった畠山重忠よりは十数年の年長、そして江戸重長よりは若年であったと推定される。
 また、重頼の妻は、頼朝の乳母であった比企尼の女(むすめ)で、寿永元年(1182)八月に頼朝の嫡子頼家が生まれたとき、選ばれて乳付けを行った。こうした面から見て、重頼ははじめから頼朝との親近関係もあったようである。こうして御家人に列した重頼は、元暦元年(1184)正月の源義仲討滅の戦いでは、源範頼・義経の軍勢に嫡子重房とともに加わっている。そして、彼もまた畠山重忠と同様に、入洛後ただちに院の御所六条殿の警衛に馳せ参じた人々の中に、その名を見出す。幕府の西征軍の中での主だった棟梁的武士であったと思われる。
 しかし、ついで、二月の一ノ谷合戦では、何故か彼の名は『吾妻鏡』にあらわれない。しかし、『平家物語』では、重頼も重房も、義経の軍勢に加わっている。もし『吾妻鏡』の記事が正しいならば、重頼は京都の警備のために残ったのであろうか。なお、『平家物語』では、のちの屋島の合戦にも河越重頼・畠山重忠らが参加していることになっているのに、『吾妻鏡』にはそのことが見られない。『吾妻鏡』は合戦の記事が簡単であるから、参戦した者を明示しなかったとも考えられる。しかし、一ノ谷合戦の『吾妻鏡』の記事には、範頼軍及び義経軍に従った御家人約五十名が列記され、その中に畠山重忠や稲毛重成・榛谷重朝らの名があるのに、河越重頼が見えないのである。しかも、この記事は、出陣の際の交名に拠ったらしく、信憑性を感じる。屋島の場合はいずれとも言い難いけれども、一ノ谷合戦には何かの理由で参戦しなかったのではなかろうか。
 それはともあれ、一ノ谷合戦に勝利を得たのち、源頼朝は一旦鎌倉に帰り、源義経は京都にとどまっていた。この時期、重頼が鎌倉に帰ったかどうかはわからない。『平家物語』にいうように、屋島合戦で義経の麾下にあったとすれば、義経とともに在京していた可能性が強いようである。
 やがて元暦元年(1184)の八月、義経が頼朝の推挙も無くして、検非違使・左衛門尉に任官し、頼朝を激怒させるという事件が起こった。頼朝と義経の不和のきっかけとなった事件である。
 そして、この事件の翌月、重頼の息女が義経の正妻として京都に送られた。彼女は「家子二人、郎従三十余輩」を従えて上洛したというが、この結婚はかねてより、頼朝の斡旋で約束させられていたものである。それにしても、義経が頼朝の不興をかった直後に、あわただしく京都へ送られたのには、何らかの事情があったのか、疑問が残る。有力御家人の女を送り込み、戦功を誇り自尊の行動の多い義経を牽制するためか、あるいはこれを監視させるためか、または義経を懐柔するためか、いずれかの理由があったに相違ない。
 しかし、結果としては、頼朝と義経の不和・対立は一そう激化し、翌文治元年(1185)には、ついに義経は追討をうける身となった。そのため、義経の義父という立場となった重頼は、その年の十一月十二日、その所領を没収され、その身も誅されてしまった。
 もともと頼朝は、東国諸国の中小武士を統轄するような棟梁的武士に対して、強い警戒心をもっていた。彼等の動向に少しでも疑いがあると、例えば上総介広常や一条忠頼の場合のように容赦なく誅殺している。
 武蔵の豪族的武士で、
 こうして重頼は義経の縁者となったばかりに誅殺されたが、河越氏はその後も御家人身分を保って存続する。そして、重頼の第三子重員は、嘉禄二年(1226)、先祖重綱以来代々の例であるとの理由で、武蔵国留守所総検校職を与えられている。さきに後家尼の河越庄知行について安堵し、名主百姓らに「所務と云い雑務といい、すべて彼の尼の下知に従うべし」と命じた頼朝の心情について、『吾妻鏡』には、「彼の遺跡を憐愍(れんびん)せしめ給うの間」と説明している。この頼朝の心情がうけつがれて、河越氏の武蔵国における棟梁的地位が復活したといえよう。

「武蔵武士」 八代国治・渡辺世祐 有峰書店新社 1971年 ★★
 本書は、大正二年三月、埼玉学生誘掖会によって博分館より刊行されたものの複刊です。
  第十四章 河越太郎重頼
  一 世 系
  村岡忠頼より出づ――祖父重隆後白河天皇の御領河肥庄の庄官となる――能隆の子
 重頼は河越太郎と称す。其先は平良文の二男村岡五郎忠頼より出づ。忠頼五代の孫秩父重綱の二男重隆を祖とす。重隆河肥庄に居住せしより河越二郎と称す。子孫因りて河越氏と称す。重隆は二男なれども家督を継ぎて秩父氏の総領として最も勢を振ひぬ。河肥庄は入間川の流域に当る地にして、河水の氾濫によりて土地肥饒なるより称せしものなるべし。かかる豊饒の土地なりしより、夙に後白河天皇の御領となり、永暦元年に天皇の新日吉社を京都に祀らるるや、この地を選びて新日吉領とし給ひぬ。重隆が当時に勢ありし所以は実にこの皇室御領の庄官たりしによるなるべし。重頼は重隆の孫にして其父は別当能隆なり。

  ニ 頼朝に信頼せらる
  頼朝を扶助す――頼朝の媒介にて其女を義経に嫁す
 重頼は比企局の女を娶りし縁によりて、比企氏と共に流人源頼朝を扶助する多年、頼朝大に之を徳としたりき。治承四年八月不慮の行違によりて畠山重忠が三浦氏と戦ふや、重頼は其宗家たる重忠の招によりて手勢を引具して、三浦衣笠城を攻めて之を陥れたり。後頼朝総房御家人の援助によりて勢を得て武蔵に入るに及び、重忠に従いて頼朝を迎ふ。これより大に頼朝に信任せられ、寿永元年八月頼家生まるるに及びて、其妻は乳母となり、益々勢力を振ひぬ。後頼朝の媒介によりて其女義経に嫁す。数多き鎌倉の御家人中、頼朝の媒介によりて女を嫁せし者は北条時政と重頼とのみ、以ていかに重頼の信任厚かりしかを知るを得べし。

  三 院の御所に参候す 
  宇治川に戦ふ――後白河法皇に拝謁す
 元暦元年正月頼朝は、後白河法皇の院宣を奉じて、弟範頼、義経をして、木曽義仲を誅せしめぬ。此時重頼は其子小太郎重房と共に搦手の大将軍義経に従て上洛し、宇治川、京都六条河原に奮戦して殊功を顕はせり。義経既に義仲を破りて、院の御所六条殿に参り、法皇に拝謁するや、重頼父子も同じく御所の中門外の車宿の前にありて謁見す。義経其従者の名を呼び、蝶丸の直垂に紫下濃(むらさきすそご)の小鎧を着けたるは、武蔵国の住人河越太郎重頼、同子息小太郎重房生年十六歳と名乗を挙げたれば、法皇聞召して誠に雄々しき壮士なりと賞賛せられ無上の面目を施しぬ。

  四 一ノ谷の勲功
  義経に従て一ノ谷城を攻む――平師盛の首を取る――勲功の賞
 同じき二月範頼、義経院宣を奉じて平氏を一ノ谷城に攻む。重頼同じく義経に随って城門に向ひぬ。平家は一戦にして破れ、諸将或は討たれ、或は虜にせられ、或は船に乗りて四国へ逃れゆくもありき。爰に小松内大臣重盛の末子備中守師盛は漸く虎口を逃れ出て、小舟に乗りて渚を漕ぎ離れ助船に乗移らんとしたりしが、武者一人岸辺に立ちて、「あれは備中守殿の御舟と見まゐらす、是は薩摩守殿の御内に、豊島九郎実治(或は直治に作る)と申者にて候、助けさせ給へ」と申す。実治は大力にて剛勇なり。師盛は年頃之を希望したる者なれば、「此船寄せて乗せよ」といへり。水手等御船は狭ければ乗せ難しと答えたれども、ひたすら寄せて助けよといへば、已むを得ず漕寄りぬ。実治は大の男にて甲冑着けながら高岸より飛び乗り、船ばたに飛懸りて船を踏傾けり。実治大いに驚き更に乗直さんとしたるに、踏返して船覆り、皆海中に陥りぬ、予ねてより重頼は一族郎従を率ゐて、よき敵もがなと思ひ儲けたりしが、今この有様を見て郎従十郎大夫をして熊手にかけて引きあげて実治の首を斬る。又長刀持たる男の首を斬らんとするに、鉄漿を付けたれば「平家の御一門にて渡らせ給ふべし、名乗らせ給へ」といふに其人答えて「己等に逢うては名乗るまじきぞ、後に人に問へ」とて名乗らずして討たれぬ。やがて首を大将軍義経の実験に備え師盛なるを明にせり。かくて重頼は所在に戦て勲功ありしかば、頼朝はその功を賞して河肥庄は申すまでもなく、伊勢国香取五ケ郷等の地頭職を授けられぬ。

  五 走狗煮らる
  頼朝と義経と不和――義経の縁によりて殺さる――所領を没収せらる――走狗煮らる
 文治元年頼朝、義経不和となりて、義経は後白河法皇の院宣を奉じて、頼朝を追討せんとせしが、兵力微弱にして却って西国に逃れたり。天義経に幸せず、大物浜にて大風に逢ひ、僅に身を以て逃れ、大和地方にさまよひ、後白河法皇、丹後局の内援ありしも、終に力尽き奥州の藤原秀衡の許に逃れて身を寄せぬ。重頼は其女が義経の妻たるの縁によりて、文治元年十一月に誅せられ、所領は一旦悉く没収せられしも、後に香取五ヶ郷を除きて、他の荘園、殊に河肥荘は皆重頼の妻に預けられぬ。
 重頼は素と頼朝の媒介によりて、義経を婿にしたりしが、今や却て之が為に思はぬ禍を招きぬ。平家既に亡び、内訌の為めに終に殺さる。蓋し狡兎尽きて走狗煮らるるの類か。 

  六 子 孫
  重房――重時――重員――世々武蔵総検校職となる
 重頼に三子あり、皆鎌倉幕府に仕ふ。長は小太郎重房と言ふ。父と共に義経に従て所々に戦ひ勲功を建つ。二子は二郎重時と云ふ。承久元年七月頼経将軍京都より関東下向の時、後陣の髄兵たり。三男は三郎重員と言ふ。承久の役に功ありしかば、後ちに武蔵国留守所総検校職となれり。寛喜三年四月に検校職四箇の掌事を復するを請ひて之を免されぬ。貞永元年十二月重員武蔵国総検校職、国検の時の事書、国中文書の加判、及び机催促加判等を其子修理亮重資に譲与せり、幕府依りて之を重資に安堵せらる。爾来子孫相承け、文応の頃に経重ありし事は川越町養寿院にある山王社の鐘銘にても知らるるなり。其後室町時代に至り平一揆として川越に拠り、鎌倉の足利基氏、氏満等に抗せしは多くはこの一族ならん。

  七 遺 跡
  館址――山王社――古鐘――重頼の墓――河越氏石碑
 川越町の西北一里余入間川を渡れば、名細村大字上戸の地なり。この地は旧河肥庄の中心にして、字山王原に日枝神社あり、其附近は即ち河越氏の旧館址なり。此地の地質は第四紀の古層にして稍高地なり。東は入間川廻り、北には高麗川ありて、自然に城廓を為せり。此地は、
   我方によるとなくなるみよし野の
      田の面の雁をいかがわすれん 
と歌われし三芳野の里にして、古来よりの名所なり。後白河天皇の新日吉社領なりしより、日吉山王を祀りて鎮守とせり。社壇も古び、松杉茂生し、樹陰青苔常に滑なりしが、四五年前より境内の樹木を乱伐して大に其風致を害せり。山王社の北、即ち今の県道に沿うたる所に塁塹の址厳然として存せしが、明治四十二年土人之を埋めて桑畠に変ぜしと言ふ。東方常楽寺との境に尚ほ土居あり、恐らくは塁塹の遺れるものなるべし。上戸の南方に的場村あり、これ河越氏弓馬の術を練りし地なるべし。
 山王の古鐘は文応元年河越経重の寄進せるものにして、早く今の川越町の養寿院に移されて現存せり、其銘は
 武蔵国河肥庄、新日吉山王宮奉 鋳推鐘一口、長三尺五寸、
  文応元年大歳庚申十一月廿二日
            大檀那平朝臣経重
            大勤進阿闍梨円慶
            鋳物師 丹治久友
                 大江真里
とあり。これ河越氏が歴代この地の庄官となり且つ日吉社を第宅の鎮守として崇敬措かざりし証とすべし。室町時代まで河越氏此地に居住し文明頃まで此地を河越と称したることは、回国雑記に「河越と云へる所に至り、景勝院と云ふ山伏の所に一夜宿りて、此所に常楽寺といへる時宗の道場はべる」とあるにて知らる。常楽寺は今上戸山王の東二町許の地に存せり。
 川越町字相生町に青龍山養寿院あり。曹洞宗にして天文年中僧守慶の中興する所というふ。本堂の後に円頂の古墳あり、右に板碑、左に樅の老樹あり。この古墳を重頼の墓と称すれども信じ難し。寺の中門の前に重頼の碑あり。明治二十二年建つる所、文学博士重野安繹の撰文、右大臣三条実美の篆額なり。

「義経の時代一〇〇人」 監修・関幸彦 河出文庫 2005年 ★★
 2<義経の時代>をいろどった重要人物49人
 25 河越重頼 義経の岳父、武蔵国の有勢の者
 河越氏は秩父氏の一族で、秩父重綱(しげつな)の二男重隆(しげたか)が武蔵国河越庄の荘司(しょうじ)に就いたことから河越を称した。重隆は、信濃国から上野国に勢力を伸張しようとする源義朝の弟義賢(よしかた)に与(くみ)し、義朝の長子義平(よしひら)に与した重綱の孫畠山重能(はたけやましげよし)と対立したが、久寿(きゅうじゅ)二年(1155)の大倉合戦で義賢とともに敗れた。その後、義朝・義平が平治(へいじ)の乱(1159)で失脚すると、重隆は平家に仕え、武蔵国留守所(るすどころ)の長官ともいうべき惣検校職(そうけんぎょうしき)に就いたのである。この立場は、子息能隆(よしたか)を経て孫の河越重頼に伝えられた。
 治承(じしょう)四年(1180)八月に起こった源頼朝の挙兵に、重頼は平家方に属して敵対し、畠山重忠(しげただ)が三浦一族の本拠である相模国衣笠城(きぬがさじょう)を攻撃した時には、江戸氏や中山氏といった秩父一族ばかりか、金子・村山といった「武蔵七党(むさししちとう)」を動員して攻めたてた。しかし、石橋山の合戦で敗れた頼朝が、上総氏や千葉氏という房総の勢力を味方につけて武蔵国に入ると、重頼もまた頼朝のもとに参陣したのである。重頼の妻は、頼朝の乳母(めのと)でもあった比企尼(ひきのあま)の娘である。敵対した重頼が、容易に頼朝のもとに参陣できたのも、比企尼を介した頼朝との関係があったからであろう。頼朝に「有勢の輩」と思わせた重頼の妻は、寿永(じゅえい)元年(1182)八月の頼家(よりいえ)誕生に際して乳付を行い、乳母の立場についたが、重頼の武蔵国留守所惣検校職という立場、比企尼との関係が影響したことはいうまでもない。
 義経が黄瀬川(きせがわ)の頼朝のもとに合流した時、重頼が近辺にいたとの確証はない。その意味で、両者の接点は、元暦(げんりゃく)元年(1184)正月、源範頼(のりより)・義経に従って上洛し、木曾義仲(きそよしなか)を討ったときであろう。同年九月、頼朝の命により、重頼の娘が義経の妻に決まって上洛したが、頼朝・義経の関係は悪化していない。
 しかし、その後の情勢は急転した。文治元年(1185)10月、頼朝の刺客土佐房昌俊(しかくとさのぼうしょうしゅん)が上洛するなかで、義経も後白河院に頼朝追討の宣旨(せんじ)を要請、両者の関係は修復不可能の状態に陥った。そのようななかで、河越氏の立場も敵対勢力視されつつあった。鎌倉で行われた勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の落慶供養会(らくけいくようえ)に、重頼の嫡男重房(しげふさ)は頼朝の供奉(ぐぶ)から除かれ、さらに翌年には重頼ばかりかその婿である下河辺政義(しもこうべまさよし)の所領が没収され、重頼自身も誅伐されたのである。
 ただし、苗字の地ともいうべき河越庄は重頼の妻に、他の所領も重頼の老母にそれぞれ与えられた。以後、その所領は重房の弟重員(しげかず)の系統に伝えられたらしく、嘉禄(かろく)二年(1226)四月には留守所惣検校職に復帰しているが、すでに北条氏が武蔵守に代々任命されているなかで、形骸化した官職であったものと思われる。
(岡田清一)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 河越重頼(かわごえ しげより)
 ?〜1185(?〜文治1)平安後期の武士。
(系)桓武平氏、秩父氏の一流、河越重綱の次男。
(生)武蔵国河越荘
(名)太郎
 祖父重隆のとき武蔵国入間郡河越荘司として勢力をもち、代々ここを本拠とする。重頼は次男であるが家督を継ぎ、源頼朝が挙兵するとこれを援軍。のち木曾義仲の追討、一ノ谷の合戦(1184)で武功をたて、伊勢国香取五箇郷の地頭職に補任される。1185(文治1)源義経の謀叛事件に、娘が義経の妻であったことから連座して所領を没収される。しかし、特別のはからいでその地頭職は重頼の老母に譲渡された。
(参)「吾妻鏡」

地方別 日本の名族4―関東編U」 新人物往来社 1989年 ★★
 河越氏     小泉功
河越氏の出自について
 秩父氏の一族/河越氏の祖、重隆
鎌倉幕府と河越氏
 秩父氏家督を継承/武蔵国留守所総検校職/重頼、頼朝の指揮下に入る/頼朝の下での栄光と没落/北条氏の武蔵支配と重時・重員/武蔵国総検校職の職務/泰重と経重
南北朝動乱期の河越氏
 元弘の変/平一揆と河越氏の衰退
国指定史跡「河越館跡」
 「河越館跡」の指定区域/河越館跡の研究概要/発掘調査の概要/運河について/運河の機能/掘立柱の倉庫址について/運河の遺物/その他の出土品に見る専門職の出現
河越氏系図
 畠山系図(系図綜覧所収 大要)
武綱十郎
──────────
伊予守頼義郎等、武功第一也
重綱下野権介
────────────
武蔵留守所総検校
 

┌────────────────────────────

├重弘
秩父太郎
 

┌重房
小太郎
頼朝乳母子
(ママ)

├重澄
次郎大夫
───
 
能隆河越葛貫別当
────
 
重頼河越太郎
────
為頼朝見害

├重員
武蔵総検校職
────
河越三郎
重輔修理亮
────
 

┬真重

├重遠
高山三郎
 

├重家
河野五郎
 

└女子
 
三浦妻
 

└重継
 
江戸四郎
江戸貫首

├重時
掃部助
────
小山田知行
泰重掃部助
───
 
経重遠江守
───
 
宗重出羽守
───
 
真重遠江守、弾正

 

女子
源九郎義経室
 

└女子
 
下河辺政義室
 
 河越系図A(続群書類従所収 千葉上総系図)

 
  
┌重弘
秩父太郎太夫
 
武綱十郎、伊予守
──────────
頼義郎奥州合戦時先陣給
重綱下野権守
─────
 

├重隆
川越秩父次郎大夫、継家、為悪源太被誅畢
─────────────────
 
能隆葛貫別当
────
 
 高山
├重遠
 江戸
└重継
 
 
┌重房
小太郎
──
重頼太郎
───
 


 
├重時
二郎
───
 
泰重掃部助
───
 
経重安芸守
───
 
宗重出羽守
────
 │
貞重遠江守

 
 
└重員
 
三郎
───
 
重輔修理亮
 
  │
 └女子
 
三浦義村室
 
 

 河越系図B(正宗寺蔵書所収)

「鎌倉歴史散策」 安田三郎・永井路子・山田き巳男 カラーブックス361 1976年 ★
 鎌倉駅から東への道
 浄妙寺を後に、裏路づたいに東行すると、左手に胡桃谷(くるみがやつ)がある。かつて大楽寺があった。その入口右側の山すそ辺に、頼朝の乗馬の足を冷したという池があり、御馬冷場といった。この辺りから路の北側一帯が、足利氏の館跡。
 康正元年(1455)鎌倉公方足利成氏が、将軍義政の命をうけた今川範忠に追われ、下総の古河に亡命するまでの百余年、関東を支配する政庁はここにあった。
 行くほどに泉水橋バス停付近に出るが、ここまで街道の両側には、青砥宗清、
川越重頼、大江広元らの邸跡がならぶ。また、泉水橋バス停左奥の谷には梶原景時の邸があった。
 さらに進み「五大堂明王院」の標柱について左折するとつき当たりが明王院。茅葺きのお堂は小さいが五大明王が祀られ、梅をはじめ花々が美しい。この辺り一帯は実朝の建てた大慈寺跡。お堂右奥から山路を登ると大江広元墓といわれる多層塔を経て瑞泉寺に至る。
 なおも東へ行くと左山上にキリスト教の施設がある。能満寺跡で、山の上の寺だったから上の寺といった。やがて十二所バス停前を右の旧道に進めば光触寺に着く。

「河越氏とその館跡」 小泉功 聚海書林 1986年 ★★★
“河越太郎重頼公没後八百年記念”
武蔵武士団の中心的豪族であった河越氏の興亡とその館跡を、興味深く平易にまとめた郷土物語!!
 −目 次−
第一章 河越氏の興亡
 一 古代国家の変質と将門の乱
 二 武蔵七党と坂東八平氏
 三 武蔵国の荘園成立について
 四 河越氏の祖秩父氏
 五 河越氏の祖重隆と河越庄について
 六 河越重頼の活躍
 頼朝の傘下へ 重頼は、重隆の孫にあたり、能隆の長子である。次子重弘は荏原郡矢口村小林(現・大田区)に住し小林次郎と称し、三子の重経は橘樹郡師岡(現・横浜市)に住して、師岡兵衛尉重経と称した。
 重頼は、比企遠宗と比企局との間に生まれた次女と結婚している。ちなみに遠宗と局の長女は丹後の内侍といい、二条院に仕えたが惟宗広言と結婚し、忠久を生んだ。後に北条氏によって、比企氏が滅ぼされると、薩摩を与えられ、島津氏の祖となる。のち東国にもどった丹後内侍は安達盛長と再婚している。
 盛長は、頼朝の側近で、頼朝の挙兵を坂東各地の武士に呼びかけた人物である。三女は伊豆の豪族、伊東祐清に嫁し、比企局は頼朝が伊豆流罪の時からの乳母であり、三人の相婿は共に頼朝に仕えている。
 治承四年(1180)八月、頼朝に与した三浦氏を畠山重忠が攻撃すると、重頼は宗家の重忠を扶けて、三浦衣笠城を攻撃している。この時の重頼のことを『吾妻鏡』の治承四年八月廿六日の項をみると「武蔵国畠山次郎重忠……三浦之輩を襲い欲するに、すなわち当国の党々を相具に、来会すべきの由、遣を河越太郎重頼に触す。
 是重頼は、秩父家に於いて、次男の流れの為と雖えども家督を相継ぎ、彼党等に従う依り、比儀に及び云々……」とあり、河越重頼は秩父家では次男の流れであるが、同家の家督を相続していたことが記されており、畠山重忠をはじめ、中山・江戸・金子・村山の各氏やその武蔵七党の中小武士、その数千騎余で三浦氏を攻撃している。
 河越氏が秩父氏の家督を継いだことは、秩父氏だけでなく、武蔵一国の武士を統率する軍事指揮権を有するもので、過去に、仁平・久寿の年間に、河越重隆がその任についたことがあることから再び、家督をついだとする見解がある。また、三浦氏を攻略するにあたって、河越氏に参加要請したのは、秩父氏家督として、一族を統率する実力者であったためで、それ故に江戸氏にも呼びかけたのである。また秩父家督には、武蔵在庁職である、留守所総検校職が付与されていたことが考えられる。この職については、後述する重員のところでふれる。
 石橋山の戦いに敗れ安房(千葉県)に逃れた頼朝は、安房・上総の平広常、下総の千葉常胤ら武士団を、自己の勢力下に組み入れ、陣営をたてなおすと、市川を渡って武蔵へと進出してくる。
 当時の武蔵は、平知盛の知行地であり、平氏と秩父一族の関係は深く、それゆえ反頼朝勢力が強く、東国支配の試練場であった。
 その最大の勢力は、留守所総検校職を持つ河越氏や畠山・江戸氏等の秩父一族である。
 頼朝は下総から武蔵への進出にあたって、武蔵の有力武士に父祖以来の恩顧をとき、所領や権益を保障する安堵状を出し、その掌握に成功している。
 しかし、豊島・葛西・足立氏は応じたが、頼朝の輩下にある三浦氏を攻撃した秩父一族としては、これに応ずることは出来なかった。
 この時の頼朝は、下向してくる平氏の追討軍と戦うために、武蔵の実権を握り中小武士団への影響力を持つ秩父氏の協力が、是非必要であった。そこでまず、武蔵進出の前門にはだかる、江戸重長を懐柔する必要があった。そのため河越氏が持っていた武蔵国の在庁職である留守所総検校職を、重長に与えている。
 この時期の頼朝は、絶対的優位な立場ではなかったため、河越氏を怒らせては武蔵武士の総反撃にあう。その点を配慮し、また三浦氏攻撃の首謀者である畠山重忠や河越氏を、牽制する意味も含めて秩父氏以外に移さず、江戸重長に与えたのである。もっともこの時の頼朝は、流人の身で謀反人であるので、正式に在庁職を付与する権限はなかったのである。
 その後重頼は、江戸重長の説得や、豊島・葛西・足立ら一族の頼朝への帰順、妻方の比企氏関係、また頼朝の勢力が強大になるのを見て不利をさとり、その支配下に入った。時に治承四年(1180)十月四日であった。
 また、寿永元年(1182)八月十二日には、頼朝の長男、頼家が生まれると、河越重頼の妻(比企尼の女)が乳母として仕えることになった。
 これは頼朝が京都から伊豆に配流されてからも、比企の尼がその側に仕えていたことから考えて、頼朝と比企の尼との配慮によるものであったと思われる。
 頼朝は重頼の帰順を待つかのように、治承四年の十月六日には、畠山・河越を先鋒にして大庭景親・伊東祐親を破り、相模・伊豆を支配し、千葉常胤の建議に基き鎌倉に入り、ここを本拠地とした。
 同年十月十六日、早くも頼朝は平維盛の追討軍を迎え撃つため、十数万の大軍を率いて富士川に向かっている。

 富士川の戦い このころ、従兄弟にあたる義仲は、木曽谷で旗上げし、さらに上野国にまで進出した。また甲斐源氏の武田信義・安田義定らは、八月末から九月にかけて甲斐の国から、信濃諏訪地方を支配し、東海の駿河国に進出しようとした。この行動は高倉天皇の皇子以仁(もちひと)王の令旨を奉じた独自の行動であって、頼朝の命令によるものではなかった。しかし、都を進発した平維盛の東征軍を迎え撃つためには、頼朝は甲斐源氏と同盟して、討つことになる。これが有名な富士川の戦いである。
 この間の様子を九条兼実の日記『玉葉』に「東国の逆徒、日を追って勢いを増し、数万にも及び、いまや七、八か国を掠め領した」とあり、的確な状勢把握をしていると言えよう。
 追討軍は、出発の日取りの吉凶について内紛があり、東征の命令が出たのが九月五日で、京都をようやく出発したのは二十日以上過ぎてからであった。
 平氏の追討軍の士気は、指揮官の無能力と優柔不断もあってあがらず、しかも、東海道はすでに義仲や甲斐源氏の情報が広まり、現地での兵力や兵粮の調達は思うようにはいかなかった。
 追討軍の東征と、甲斐源氏の東海進出という状況下で、頼朝は、追討軍を撃つと共に、甲斐源氏のこれ以上の進出を抑えるためにも、大軍を擁して、十月十六日には鎌倉を出発し、足柄峠を越えて、駿河の黄瀬川に達し、武田信義との共同戦線を結んだのが十八日であった。
 一方平氏軍は富士川の西岸に陣をはり、頼朝も駿河の賀嶋に進出して相対峙する状況下にあった。二十日の夜半武田信義の四万騎は、平氏の背後に迂回しはじめた。この時、富士沼(現・浮島ケ原一帯)の数万羽の水鳥が、軍勢の動きに驚き一勢に飛び立った。この羽音を大軍の夜襲と思った平氏軍は、あわてふためき、敗走に敗走を重ね、そのまま京都へと逃げ帰ってしまった。
 総大将維盛は、わずかに十数騎を従えるのみ、知盛も二十騎たらずで都に帰ってきたという。
 頼朝は戦わずして勝利したが、反転して常陸の佐竹氏を討滅する必要があった。そこで十一日に黄瀬川の陣に戻った。この黄瀬川の陣中に若武者の将が一人訪れてくる。頼朝の家臣である土肥実平・岡崎義実もそれが誰であるかは知らず、怪しむのみであった。
 頼朝はその様子を聞き、奥州にいる九郎であると察知し、招じ入れると、果せるかな九郎義経であった。なんと二十二年ぶりの再会である。
 富士川の戦いに河越氏も参加していたと考えられるが、『吾妻鏡』にはその記載はない。しかしこの戦いには関東の武将の多くが参加していることからしても、河越氏も当然その渦中にいたことが推測される。
 河越重頼が、義経の麾下に入り、始めて活躍したことが、明らかな記録に出てくるのは、義仲を討った宇治川の戦いである。

 宇治川の戦い  義仲は嫡子清水冠者義高を鎌倉に送って、父義賢の根拠地であった上野への進出をとりやめ、頼朝に恭順の意を表した。寿永二年(1183)五月十一日、義仲は倶利伽羅谷で、牛の角に松明をつけて平氏の大軍の中に突進し、大勝利を収める。さらに篠原の戦でも平氏は大敗し、七月二十五日には安徳天皇を戴き、都落をする。
 この年は大飢饉で、消費都市京都には食糧の搬入がなく、極めて不足をきたしていた。義仲の従者のなかには、掠奪を犯し、都の人々および貴族層から極めて不評を買い、即位問題でも義仲は後白河法皇と衝突し、法皇は義仲追討の院宣を出し、頼朝の上洛をうながした。
 頼朝は、範頼・義経に命じて武田・加々見・千葉・稲毛をはじめ、金子・山口・高山の武将を範頼の配下につけ、安田・大内・猪俣・岡部の武将と共に畠山重忠・河越重頼・同小太郎重房・重頼の末弟師岡兵衛重経を義経に配し、西上させた。
 範頼は美濃から近江勢多を経て、義経は伊勢・伊賀から宇治に進出し、京へと向かった。
 元暦元年(1184)一月二十日未明に宇治川の南岸に到着した義経軍は、宇治大橋の橋げたがはずされ、雪どけ水が渦巻く激流をみて、如何にして渡るかを思案した。
 畠山重忠が先陣を受け、一気に押し渡り、矢を以て援護することになった。その時平等院境内の小島崎から二騎の馬が突き進んできた。
 佐々木高綱の生喰(いけづき)と、梶原景秀の磨墨(するすみ)で、先陣争いがここにはじまる。高綱に馬の腹帯のゆるみを注意され、しめなおした景秀は後塵を拝することになった。
 こうして全面渡河に成功した義経軍は、義仲方の根井行親・楯親忠らの武将を一気に撃破し、京都に突入したので、義仲は近江路に敗走した。
 『源平盛衰記』はこの戦に参加した十六歳の少年、河越小太郎重房について次の様に述べている。「河越小太郎重房、三百余騎にて進みたり、義仲馬の頭を雁の行(つら)を乱さず立て下し、蒐(かかり)入れば重房が兵外を囲み、内を裏(つつ)みて、折塞(ふさ)って戦ふ」とあり、義仲勢に立ち向かった小太郎重房の奮闘ぶりを伝えている。
 義経は、京都の御所後白河法皇の六条殿に参入し、築地塀外から大声で、「義経が唯今宇治路を破って馳せ参ぜり、奏問あれや」と、これを聞いた法皇は、義経以下六騎の若武者を、中門外の車まわしの前に待たせ、謁見する。
 出羽守貞長が、年齢、家系名、および住国を法皇に報告することになった。『源平盛衰記』によると、
 「赤地の錦の直垂に、萠黄の唐綾をたとみて坐紅に縅したる鎧着て鍬形の冑、下人持たせて後にあり、金(こがね)作の太刀帯(はき)たるは……………
 鎌倉の兵衛佐頼朝の舎弟九郎義経、生年二十五歳、今度の大将軍」と名乗り、
 「青地の錦の直垂に赤縅鎧を着、備前作りのかう手の大太刀帯いたるは………
 武蔵国の住人秩父の末流畠山重能が一男、次郎重忠、生年二十一」次に、
 「蝶の丸の直垂に紫裾濃(すそご)の小甲は………以下三人略……
 同国の住人河越太郎重頼が子息小太郎重房、生年十六歳」
 法皇は「誠に頬(つら)魂事柄ゆゝしき壮士なり」と仰せられた。
 この中に河越氏が選ばれていたのは、河越荘の本所が、後白河法皇の建てた新日吉社であったことも一つの理由と言えよう。
 『吾妻鏡』の元暦元年(1184)正月廿日の条に、要約すると次のようなことがある。
 源範頼・同義経の軍、近江勢多・山城宇治に減義仲軍を破り京都に入る。河越重頼・同重房・畠山重忠・小代行平・大串重親等、義経に随い、金子家忠等範頼に随う。ついで河越重頼父子・畠山重忠等、院の御所六条殿を警護する」という記事があるが、これによれば、父の重頼も宇治路から京都に入り、後白河法皇の仙洞御所を警備して義仲勢の手から守っている。したがって法皇に謁見したのは、義経麾下の若武者のみであった。
 義仲は、六条河原の義経軍の包囲を破り、勢多の残軍兵力と合流しようとしたが、範頼の軍の追撃にあい、ついで粟津で討ち死にしている。

 平家追討  義仲との戦闘中に、勢力を回復した平家は、摂津の一の谷に前進基地をもうける。北から西にかけて天険の断崖がつらなり、南は海に面し、舟でしか補給のできない堅固な陣地が一の谷である。源氏の軍はこの一の谷の陣にいどむのである。
 『吾妻鏡』の一の谷の合戦の条に、河越重頼・重房父子はその名の記載がないことから、京都の警備に当っていたとも考えられる。あるいは大勢のため参加しても略されたことも考えられよう。
 それが、『平家物語』になると、畠山重忠と共に河越重頼・重房も加わり、一の谷の合戦で活躍し、重頼の郎党十郎大夫らが奮戦した様子が描かれている。
 その要旨は元暦元年二月七日、鵯越(ひよどりごえ)を馬もろともかけおりた源氏の軍勢は、さらに浜辺へと平家を追い打ちする。平家の武士の大男が小舟のへりに飛び乗ったため、ぐらりと舟はかたむき、乗っていた者は一人も残さず海にほうり出された。そこで重頼の郎党十郎大夫が熊手で引きあげ首を切っている。「長刀を持った者を、平家の一門とおみうけするが、名をなのりたまえと申したが、名乗ることもせず、後の人にといたまえと申して討たれた。ある人に聞いたら、この人は、平重盛の子で備中守平師盛であった」とのことであった。
 一の谷の合戦で勝利したのち、義経は京都にとどまり、範頼は鎌倉に帰るが、河越重頼・重房は『平家物語』い言うように、屋島合戦に参加していたとすれば、従来どおり義経の輩下に入って在京していたことが考えられる。
 頼朝と義経が不和となったきっかけは、義経が京都にいて、頼朝に全く相談せず、検非違使・左衛門尉に任官したことで、頼朝は義経が院側に利用されたこともあって、その怒りは頂点に達したのである。
 この事件の翌月、すなわち元暦元年(1184)の八月、頼朝の推挙によって、重頼の息女が義経の正妻として、京都に送られるのである。『吾妻鏡』によると、
 「十四日庚子、河越太郎重頼の息女上洛す。源延尉(義経)に相嫁せんがためなり。これ武衛(頼朝)の仰せによって、兼日約諾せしむ云々。重頼が家の子二人。郎従三十余輩、これに従ひて首途す……」
 彼女の名は不明であるが、吉川英治が『新平家物語』で百合野と、永井路子が『北条政子』の中で小蘭と名づけた女性である。
 鎌倉で頼朝に挨拶をすませると、彼女は、義経の京都堀河の館へとおくられていった。
 彼女の結婚は、頼朝の命令による政略結婚であり、堀河の内状を密偵するための人身御供として嫁がせられたのである。
 七 養寿院の屏風と堀川夜討ち
 八 義経正妻と重頼の死
 義経の妻として頼朝の推挙により、河越重頼の息女が選ばれた理由を、わかりやすく箇条書にして説明する。
 先ず第一に重頼の妻が比企尼の息女であること。頼朝は、京都から伊豆へと不遇の時も、比企氏の援助を得、特に比企尼には乳母として親身に変る愛情をもって育ててもらった関係で、比企氏に対する信頼は極めて厚かった。
 第二は、第一との関連において、頼朝は源氏一族の結束を強めるため、比企氏に関係あるところから弟の妻を迎えたかったのである。その点では、範頼の妻も安達盛長の息女で、盛長の妻は比企尼の長女である。このパターンからしてもその理由は明白である。
 第三には、当時、頼朝と義経の関係が悪化しはじめており、頼朝は特に御家人の息女を嫁がせ、身辺を監視させる目的があった。そうであればこそ、義経の叛逆によって、義経の身辺の様子を少なからず知っている重頼を、生かしておくわけにはいかなかったのである。
 頼朝は、東国の中小武士を支配している棟梁的な守護クラスの武士に対して、強い警戒心を持っていた。したがって、少しでも疑いがあると容赦なく誅殺している。
 河越氏は源家との婚姻によって、その勢力を発展させ、重頼は栄誉を担った。義仲追討、平家追討と、頼朝・義経の下で活動し、その功績によって、『吾妻鏡』によると、文治元年(1185)十一月十二日の条に「伊勢国香取五箇郷」を所領として与えられている。
 しかし、頼朝と義経の関係が悪化すると、河越氏に対する処遇も冷たくなってくる。『吾妻鏡』文治二年十月二十三日条に「明日御堂供養御出随兵以下供奉人事。今日之を清撰せられる、其の中河越小太郎重房者、兼日件の衆に加えられると雖ども、豫州(義経)の縁者の為に依り之を除かれる」とあり、勝長寿院の落慶供養に臨席する頼朝の隋兵から、重房は義経の縁者であるため除かれている。
 さらに、十一月十二日には、
 「今日、河越重頼の所領等収公せられる。是義経縁者の為に依る也。其内、伊勢国香取五ケ郷は大井兵三次郎実春に之を賜う、其外の所は、重頼の老母に之を預ける。また、下河辺四郎政義も同じく所領等を召し放される。重頼の聟の為に之の故也」とある。
 河越氏の所領の内、香取五ケ郷は大井氏に与え、他は重頼の老母である比企尼が管理することとなった。さらに北葛飾の下河辺荘の荘司である下河辺政義も、重頼の息女の聟のため所領を没収されている。
 しかし文治三年(1187)十月五日に、
 「河越太郎重頼、伊豫前司義安顕(義経)縁坐に依って誅られしと雖えど遺跡を憐恕せ令れ給する間、武蔵国河越庄を、後家尼に賜之處」とある。
 頼朝としては、関東における、義経の縁者は唯一河越氏だけで、その河越氏が義経のために動く危険性が考えられた。義経の軍事力は弱体であるため、河越氏をたよることの可能性が高いので、頼朝は、行家・義経が頼朝を追討せよとの院の宣旨を受けたという、うわさを聞いた翌日、重房を供奉人からはずし、さらに、河越氏の軍事基盤である領地を没収したのである。前述した様に、伊勢の香取五ケ郷以外は、重頼の妻の母である比企尼に預けられた。この時点で、重頼・重房は誅されたと思われる。
 しかし、文治三年になると、河越庄は比企尼にかわって、その息女で重頼の妻であった後家の尼が管理するようになる。これは、比企氏の管理下にあった河越庄が、河越氏に返還され、形式的にしろその管理が河越氏に移ったことを示している。
 頼朝としては、義経の軍事的基盤である河越氏の所領を収公すれば、その目的を達するため、河越氏を滅亡させるまでの意図はなかったと考えられる。したがって、後家尼に河越庄の管理を与えているのである。
 ではその後の義経とその妻の軌跡をたどってみよう。
 九 義経の逃避行と夫妻の死
 十 北条氏と河越重員
 十一 河越経重と養寿院の銅鐘
 経重は、河越太郎重頼―重時―泰重の子で重頼の曽孫にあたる。
 『吾妻鏡』に正嘉元年(1257)八月十五日、鶴岡八幡宮の放生会に「先陣随兵」十人の筆頭に「河越次郎経重」が名をつらねている。
 文応元年(1260)正月二十日の条に、幕府が、「昼番」といわれる、歌道・蹴鞠・管絃・弓馬・右筆・音曲等諸芸について発表会の行事が行われた。この参加人名簿の五番目に河越経重の名がみえる。
 また、この年に銅鐘を造っている。
 これが、現在、養寿院に保存されている国指定重要文化財の銅鐘である。この銅鐘には次のような銘文がある。
 武蔵国河肥庄
  新日吉山王宮
 奉鋳椎鏡一口長三尺五寸
   大檀那平朝臣経重
   大勧進阿闍梨円慶
文応元年大歳
庚申
十一月廿二日
      鋳師 丹治久友
          大工真重
 この銘文から、河越経重が文応元年の十一月二十二日に、河越荘新日吉山王宮へ奉納した銅鐘であることがわかる。しかも、鎌倉の長谷の大仏を鋳造した鋳師の丹治久友によって、造られたものである。
 河越庄は、平安末期から鎌倉時代にかけて、河越氏が支配していた領地で、後白河法皇が建立した京都の新日吉山王社に荘園として寄進したことから河越庄となったのである。このため、河越庄内にも日吉山王宮社が祀られる。
 現在の上戸の山王社がこれにあたるとされている。しかもこの山王社の境内からは、劒菱文(けんびしもん)のある鎌倉時代と考えられる瓦が出土しており、その古さを示している。
 また、『新編武蔵風土記稿』によると、上戸村の常楽寺の絵図には、同社にも常楽寺周辺と同様に、土塁がめぐらさていることがわかる。養寿院の銅鐘は本来、この上戸の山王社のために造られたものであるとされている。では、その銅鐘がなぜ養寿院に保存されているのであろうか。その点について、養寿院の縁起を考察してみることにする。
 養寿院は山号を青龍山と言い、寛元元年(1243)に河越遠江守経重が開基となって、大阿闍梨円慶が創建したと伝えられている。この時は密教系寺院であった。おそらく銅鐘にもあるように、山王宮との関係から考えて、天台宗に所属していたのではないかと思われる。天文四年(1535)の時、養寿院の住職隆専上人が、曹洞宗太源派の扇叟(せんそう)守慶の徳を慕って、曹洞宗に改め、さらに扇叟に住職を譲り中興の開山とし、近年まで曹洞宗の専門僧堂として、多くの人材を輩出している。
 養寿院は、もと上戸に存在したとする説もあるので、これについて紹介するとともに、養寿院にある銅鐘の由来についても考察してみることにする。
 旧版の『埼玉県史』第三巻(鎌倉管領時代・昭和八年刊)に「室町時代まで此の鐘は名細村上戸に存したが、太田道真が今の川越市に城を築いた後、其の別当寺たりし養寿院が川越に移転の際共に将来されたものと云われて居る」とある。
 この文によれば、養寿院が上戸にかつてあって、長禄元年(1457)に大田道真・道灌父子が河越城を築いたときに関連して、その直後に移転し、この銅鐘も共に移されたというのであるがその根拠についてはふれていない。
 また、『新編武蔵風土記稿』の入間郡川越町の養寿院前の項に、
 「養寿院 青龍山ト号ス 寺伝云寛元元年中河越遠江経重開基ス 当寺ハ密院ニテ昔圓慶ト云僧住職セシカハ天文年中時ノ住僧隆専曹洞宗太源派ノ僧扇叟カ徳ヲ慕ヒ其身住持職ヲ退キテ扇叟ニ譲リシ故今扇叟ヲ開山トスト
 然ルニ今本堂ニ掛ル鐘銘ヲミレハ是圓慶カ勧請ニヨリテ遠江守経重大旦那トシテ造リシ由ヲ彫ル 因テヲモフニ此鐘アル故ニ今経重カ開基ナリト云説ヲ唱フルカ
 扨此鐘ハ日吉山王社前ノモノナルコトハ下ニ出セル銘文ニモ歴々タリ 又モトノ河越上戸村日吉社別当修験大廣院ノ縁起ニヨルニ阿闍梨圓慶ハ大廣院ノ歴代ノ内ニテ平経重ハ彼院ノ大旦那ナリ 況日吉山王ノ文アルトキハ此鐘上戸大廣院ノモノナルコト論ナシ
 オモフニ天文中ノ住持隆専ト云モノ大廣院ノ支子ナトリテ当院ヲ開キシテ後洞家ニ帰伏シテ扇叟ニ住職ヲ油譲リシカ サレハ其実ハ隆専ヲ開山トシ扇叟ヲ中興法流ノ祖トモ云ヘキカ 扇叟ハ永禄四年三月十五日示寂セリ 今相模国高座郡遠藤村宝泉寺ノ末山トナレリ
 本尊宝冠ノ釈迦ヲ安ス又開基経重カ寄進セシ鐘ヲ本堂ニカク 款文ニ銘ヲシルス
 
 (前掲につき銘文略)
 
 或云 コノ鐘ハ喜多院ノ鐘ナラン 曹洞宗ニテハ日吉ニ縁ナシ 乱世ノ際仙波ヨリ取来リテ当寺ヘカゝケシナラント
 又云コノ新日吉山王ハ今ノ上戸村ノ山王社ナルヘシトモイヘト別に此辺ニコノ社アリシヤサタカナラス サレト上戸村大廣院ト云修験者ノ先祖ニ阿闍梨圓慶ト云名アリト云トキハ上戸村ノ山王ナルニヤ
 御打入ノ頃ハ扇叟ヨリ三世ノ住僧存舜カ時ナリ云々……」とある。
 以上の記事から、養寿院の由来について考察してみよう。
 先づこの銅鐘は、銘文からして日吉山王社のものであることは歴然としているが、しかし、河越上戸村日吉社の別当寺である修験の大広院の縁記によれば、養寿院開山の阿闍梨円慶は、密教寺院である大広院の住職で、平経重は大広院の大旦那であった。銅鐘の銘文にある文応元年時の日吉山王社は上戸村大広院の社であって、したがって銅鐘も大広院のものであったことは論をまたないところである。
 なお、天文年間にいた隆専は、密院である大広院の僧侶で養寿院を開いたが、その後まもなく、扇叟から曹洞宗の教義を学びいたく感銘し、同宗に改宗し住職を師の扇叟に譲位している。よって隆専を開山となし、扇叟を中興の祖とされている。扇叟は永禄四年(1561)に没している。
 これらのことから養寿院は、上戸村にあった大広院から分立した寺院であり、銅鐘もそのもとは、大広院の管下に属していた日吉山王社にあったもの、と理解することができよう。また、現在養寿院で保持している日吉山王社の神像は、大広院から分立する時に、養寿院が日吉山王社を建立し祀ったことが考えられる。したがって養寿院に上戸村の日吉山王宮の銅鐘があっても理解に苦しむ理由はなく、養寿院は、上戸の大広院から独立したもので、銅鐘も移管されたと理解することができよう。
 また青龍山養寿院の山号の青龍とは、四神の一つで東方に配するもので、この場合、恐らく日吉山王宮の東方に位置していたことが考えられる。
 なお、同じ修験に関係することで、『新編武蔵風土記稿』に、廃寺になっているが、龍光坊という修験の道場があり、昔は山王社の別当寺で、『廻国雑記』によると、これが最勝院であったかも知れないし、または、大広院の先世であったとも考えられるとされている。問題の龍光坊は常楽寺の東に位置するとあるが、現在も龍光なる小字名が河越館跡の一部、常楽寺の東北側に残っている。
 これは山王社からも東側に位置しており、大広院の東の一郭に位置する龍光坊が移転して青龍山養寿院になったっことも考えられる。
 いずれにしろ養寿院は、その発祥揺籃の地を上戸に求めることができる。
 このように考えると、養寿院の墓地の一隅に存在する河越太郎重頼の五輪塔も、この頃に供養のために営まれたもので、河越氏発祥の故地・上戸を離れるに当って、その祖である重頼の供養を祈念し、これを建て、養寿院の由縁としたことが考えられる。

 十二 南北朝の動乱と河越一族
 十三 平一揆と河越氏の衰退
 南北朝の動乱の頃、各地に一揆の武士団が形成され、河越氏も高坂・江戸など秩父氏の流れをくむ平氏として、平一揆の武士団を結成した。
 建武三年(1336)室町幕府を開いた足利尊氏は、貞和五年(1349)に弟基氏を関東管領として東国を統治させた。
 ここに鎌倉府による関東支配体制が成立する。文和四年(1355)には『源威集』によると、鎌倉公方足利基氏の命を受けた平一揆の武士達は、上洛し法勝寺前の戦闘や七条の戦で奮闘している。
 また『太平記』によれば、延文三年(1358)に南朝軍を紀伊国最初峯で、ついで、竜門山に攻めている。
 この年に畠山国清は河越直重らと共に摂津天王寺じ出陣し、七月十八日には、仁木義長を敗り京都から退去させている。
 鎌倉府の執事であった畠山国清は、鎌倉公方足利基氏に反抗し、鎌倉から伊豆に逃れ抗戦したが、康安二年(1362)基氏に謀殺される。このとき、平一揆は葛山備中守と所領のことで争っており、幕府の措置に不満であったため、討伐軍に参加しても、何もせず引きあげている。
 足利基氏は遺言で遺児金王丸の将来を、河越治部少輔に託している。それにもかかわらず、貞治七年(1368)二月五日突如として、平一揆の乱を興している。
 関東執事上杉憲顕が、鎌倉公方足利金王丸(氏満)の代理として上洛し、足利義満の元服の儀に参列している隙をついて挙兵した。その間の様子を『喜連川判鑑』は次の様に記している。
 「応安元年(1368)正月二十五日、執事上杉憲顕、鎌倉ノ御名トシテ上洛。
 ニ月八日、将軍(義満)ノ亭ヘ参上、東国静謐ノ旨ヲ言上シ、義満公御家督御元服ノ儀ヲ賀シ奉ル、然所ニ武州平一揆起テ川越ノ城ニ籠ル由告来ル、従将軍御暇給テ、三月二十八日京都ヲ立テ四月五日下著」
 また『鎌倉九代後記』に、
 「応安元年二月八日 武州河越ノ館ニ平一揆楯籠ル。氏満 干時金王十歳 発向」
 とあり、憲顕は義満に事情を話して許しをこい、直ちに京都を発し、鎌倉に向かい、四月五日到着している。また、十歳で鎌倉公方を相続したばかりの氏満(金王丸)は、平一揆の立て籠る河越館に向かって軍を進めている。
 平一揆の武士団の中核は河越氏であり、一揆軍の反抗は以外に強く、てこずった鎌倉方は、関東および甲斐の国人層を動員しており、なかでも六月十七日の河越合戦は激烈をきわめ、この戦闘によって河越氏を中心とする平一揆は敗北し、一揆勢(河越氏)は、伊勢国へと敗走し、南朝方の北畠氏を頼るようになる。
 平一揆は数カ月で鎮圧されたが、この乱で鎌倉時代以来、武蔵で大きな勢力を保持していた河越氏は、全く力を失い、武蔵の国人層は管領上杉氏の掌握下に入っていった。
第二章 河越館跡
 一 河越館跡研究のあゆみ
   文献にみる河越館跡河越館跡の研究のあゆみ発掘調査はかたる
 二 館跡の構造と規模
   2号堀遺構/3号堀遺構/掘立柱建物遺構(A柱穴群/B井戸遺構)/館跡の大手の構造/北東部の構え堀と諸施設について/建築遺構/井戸遺構/運河について/運河とその機能/掘立柱の倉庫址について/運河の遺物/常楽寺東側の地域の遺構について/中世の住居規模/井戸遺構の分類/八次の井戸出土品
 三 河越館跡と入間川洪水伝説
第三章 河越館跡と保存運動
 発掘調査に至るまで
 第一次発掘調査と保存運動
 第二次発掘調査と保存運動
 第三次発掘調査と保存運動
 第四次・第五次発掘調査と保存運動
 河越館跡領域確認調査(六次)と保存運動
 河越館跡を保存する会とニューズ
  河越館跡に立ちて(杉山博)/河越館跡は河越氏の館跡である(峯岸純夫)/河越館跡の全域保存のために(戸田芳実)
 河越館跡の調査と保存運動のあゆみ
 河越氏・河越館ゆかりの年表

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作成:川越原人  更新:2020/10/30