昔、男武蔵の国までまどひありきけり。さて、その国に在る女をよばひけり。 父はこと人にあわせむといひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。 父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。 このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡みよし野の里なりける。
みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる
むこがね返し、
わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ
となむ。
人の国にても、猶かかることなむやまざりける。
昔、ある男が武蔵の国まで目的地も定かでなく道もはっきり知らぬままに歩いて行ったことだった。そしてその武蔵の国に住んでいる女に求婚をした。女の父親はこの男とはちがう他の男と結婚させようと言ったけれど、女の母親が身分の高貴な人に執着する気持をもっていた。(なぜなら)父親は(貴族ではなく)普通の身分の人で、母親の方が(都の貴族の系統の)藤原氏であったのだった。それで(母親は)高貴な人にめあわせようと思ったのだった。この婿の予定者に詠んでよこしたのは次の歌だった。この女の住む所は入間郡の三芳野の里であった。三芳野の田圃の面に降りている雁も、鳴子の引板をひくと片方へ鳴きながらにげて寄って行きますが、そのように、この田舎に住んでいる私の娘もひたすらにあなたの方に心をよせていると申すようでございます。
それに対して、(この都から武蔵までまどい歩いて行った)婿の予定者は返歌として、
私の方に心をよせると言っていらっしゃるという、三芳野の里で私をたよりにしておられるお嬢さんを、いつの日に忘れましょうか。忘れることはありません。
と詠んだことだった。(都ではもちろんそうであったが)京をはなれた他国においても、やはりこのような風流じみた色好みはやまなかったのだった。
「伊勢物語」十段に、
むかし、をとこ、武蔵の国までまどひありきけり。さてその国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なんあてなる人に心つけたりける。父はなほびとにて、母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよし野の里なりける。
みよし野の田の面の雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる
むこがね、返し、
わが方によると鳴くなるみよし野の田の面の雁をいつか忘れん
となむ。人の国にても、猶かかることなんやまざりける。
とある。この入間の郡、「みよし野の里」の遺跡について、いくつかの意見がある。
入間郡坂戸町三芳野、旧三芳野村、川越市的場、旧霞が関村的場、旧的場村、また、川越市伊佐沼の各説である。大津有一著「日本古典文学大系」、池田亀鑑著「伊勢物語精講」では坂戸町三芳野を、「新編武蔵風土記稿」、谷馨著「万葉武蔵野紀行」では川越市的場を、鳥居竜蔵著「武蔵野」は川越市伊佐沼をとっている。この問題について、教育大付属坂戸高校の真田英雄教諭が、「伊勢物語の問題点特に『みよし野の里』中心にして―」を、県高校国語科研究会編「研究集録」第五号に発表している。三つの説を比較し、一応、的場をとっている。そして「伊勢物語」の虚構性を論ずるのである。
私は「埼玉文学散歩」(昭和三十九年五月刊)で、「みよし野の里」の遺跡を的場と書いた。「伊勢物語」の虚構性云々はよいではないか。文学には虚構はつきものである。遠い平安の昔、一代の美男子在原業平がはるばる京都からやって来て、武蔵乙女と恋を語った場所として、最適の地と言えるのである。東上線霞が関下車。国鉄川越線なら的場で下車。的場の法城寺近く、川越線の線路の南にゆかりの「三芳野塚」がある。すぐ近くに「牛塚」がある。なお行くと入間川の鉄橋の手前に、今は田と化しているが、「ひさご」の形をとどめた「初雁池」がある。「みよし野の里」の遺跡として、まちがいなかろうと思考するのである。(E)
伊勢物語第十段の「みよし野」の遺跡について、いくつか学説が、分かれる。原文の「住む処なむ、入間郡(いるまのこおり)みよし野の里なりける」である。
大津有一氏(日本古典文学大系)池田亀鑑氏(伊勢物語精講)は坂戸町三芳野、谷馨氏(国文学四の六)新篇武蔵風土記稿は川越市的場、鳥居竜蔵氏は川越市伊佐沼を、それぞれ主張する。
谷氏の考証は、新篇武蔵風土記稿を中心とする。同書は、三芳野塚、初雁塚、初雁池の場所を懇切に説明し、挿画もある。氏は、東上線「霞が関」でおりて歩く。三芳野塚が古墳であること、山嶽信仰に言及し、続いて入間川の鉄橋の手前の、初雁池の跡を見、さらに、川越付近の古墳数十ということで豪族のあとどころと推測し、「みよし野の里は藤原時代の花園であったろう」という説を肯定し、的場(まとば)一帯を、みよし野に、みたてている。
この説を、さらにおしすすめるのは、川越市立図書館長岡村一郎氏。氏は、これらの他に、交通路にも言及し、「奈良、平安時代に武蔵国府中から上野方面に向う交通路はちょうどこの的場、笠幡(かさはた)のあたりを通っていたし、さらに遠く近世にいたるまで河越庄、三芳野の里という郷庄の唱えをもつ村々の多くは入間川西部の地方に拡がっていた。」という。
一方、谷氏の説に対し、埼玉大学の長谷章久氏は「谷氏が参考に供された文献は中世以前にさかのぼり得ない」と、否定する。
四月初めの晴れた日。W君と川越線の土手に立つ。入間川からわたってくる風はまだ寒い。
足下に草の生い茂った田がひろがる。目を凝らしてやっと、わかるほどに、ひょうたん形の畦がみえる。今、見える部分は、ひょうたんの上部と、真中のくびれた部分で、下部のふくらみの部分は、すでに線路の下敷きになっているという。
初雁がここを渡るとき、池の上を三度廻って鳴いたという、これが初雁の池の跡である。西方には、春霞の中に、牛塚、初雁塚も見えた。それにしても武蔵野には、業平遺跡が、多いなと思う。
「伊勢物語」十段に、
むかし、をとこ、武蔵の国までまどひありきけり。さてその国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを。母なんあてなる人に心つけたりける。父はなほびとにて、母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよし野の里なりける。
みよし野の田の面の雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる
むこがね、返し
わが方によると鳴くなるみよし野の田の面の雁をいつか忘れん
となむ。人の国にても、猶かかることなんやまざりける。
とある。この入間の郡「みよし野の里」の遺跡について、いくつかの意見がある。
入間郡坂戸市三芳野(旧三芳野村)、川越市的場(旧霞が関村的場、旧的場村)、また、川越市伊佐沼の諸説である。大津有一著「日本古典文学大系」、池田亀鑑著「伊勢物語精講」では坂戸市三芳野を、「新編武蔵風土記稿」、谷馨著「万葉武蔵野紀行」では川越志的場を、鳥居竜蔵著「武蔵野」は川越市伊佐沼をとっている。
私は「埼玉文学散歩」(昭和三十九年五月刊)で、「みよし野の里」の遺跡を的場と書いた。
「伊勢物語」の虚構性は別とする。文学には虚構はつきものである。的場は、遠い平安の昔、一代の美男子在原業平がはるばる京都からやって来て、武蔵野の乙女と恋を語った場所としては最適の地と言えるのである。東武東上線霞ケ関下車、国鉄川越線なら的場駅下車。的場の法城寺近く、川越線の線路の南に、ゆかりの「三芳野塚」がある。すぐ近くに「牛塚」がある。なお行くと入間川の鉄橋の手前に、今は田と化している「ひさご」の形をとどめた「初雁池」がある。「みよし野の里」の遺跡として、まちがいなかろうと思考するのである。
在原業平(ありわらのなりひら)と思われる人物をモデルにした『伊勢物語』は長短さまざまな125篇の歌物語からなり、各篇の冒頭の多くは「昔、男…」のかたちで始まる。このため「昔男」とは、のちには業平のことを指すようになった。
『伊勢物語』の九段<東下り>の件(くだり)には「その男、身をえうなきものに思ひなして『京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めに』とて行きけり。」とある。二条の后・高子(たかいこ)に対する失恋の痛みを癒すために旅立ったのか。<東下り>は、いわば<文学の世界>における事実であるが、歴史的事実は『伊勢物語』に色濃く反映されてはいないか。平城(へいぜい)帝の子阿保(あぼ)親王の第五子業平は、藤原氏の他氏排斥によりさまざまな抑圧を受けた。「昔男」の旅(京―伊勢―尾張―三河―駿河―武蔵)にはその屈折が投影していたと思われる。
「昔、男武蔵の国までまどひありきけり」と旅は続く。男は武蔵の国、三芳野の里まで行き、そこに住む女に<よばひ>(求婚)をした。藤原氏出身である女の母は、身分のある人へ娘を嫁がせようと思っていた。「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ」。藤原末流の女が、この土地の裕福なな庶民と結ばれていたものと思われる。「みよし野の…」の歌には娘を思う心がこめられ、「わが方の…」の歌で、「男」は温かい思いやりの心を示す。東国物語の舞台<みよし野の里>(歌枕)の所在地はどこなのか。歌の「たのむ」(田の面)から水田地帯であることは推定できるが、『和名抄』(わみょうしょう)(延長8年<930>ごろに成立)や平安・鎌倉期の史料等にも発見できないので、場所の特定は困難である。一説として、『新編武蔵風土記稿』(文政11年<1828>成立)では、川越市上戸(うわど)・的場(まとば)あたりとし、地名の三芳野・三芳野塚・初雁池を示す。「昔男」のさすらった<みよし野の里>は開発の波に洗われ、現在その風光は大きく変わった。(黒沢 栄)
『伊勢物語』第十段の「みよし野の里」の遺跡はいくつかの学説があって、直ちにそれとさだめ難い。しかしそこが初雁の名所であったことは想像に難くない。
伝えるところによると、この初雁は、いつの頃からか少しも時を違えず北から飛んで来た。そして三芳野神社(川越城跡)の裏手の杉の真上までくると、
ガア、ガア、ガア
と、三声鳴きながら三度廻って、南を指して飛び去ったという。この伝説の初雁の杉は今も三芳野神社裏に根株が残っている。
また一説に、初雁の最初に渡るのは的場の初雁の池の上だといわれ、『新篇武蔵風土記稿』にも「土人の伝へに旅雁の始て渡る時、必此池上のこう(皐に羽)翔すること三度にして、始て鳴と云り」とある。
みよし野の地形は、察するに一方は平野で、一方は入間川などの田沼地帯、したがってみよし野の名のように、水陸の自然がよく調和し、風趣のよいところであったであろう。もちろん秋には雁が鳴き渡った。
『伊勢物語』がみよし野を「里」と称しているのをみると、すでにここが五十戸以上の小集落をなしていたことがわかる。大宝令に「凡五十戸為レ里」とあるからである。
みよし野の田の面の雁もひたぶるに
君が方にぞよると鳴くなる
という歌は、
「昔、男(在原業平)が武蔵国までさすらいまわって行った。そして、その国に住んでいる女をくどいた。ところが、女の父は、ほかの男と結婚させようと言ったのだが、母の方は、高貴な人物にめあわせたいと、かねがね心がけていたのだった。
父は氏素姓もないありきたりの人間で、それに対し母は藤原姓を名のる家の出だったのだ。そういう次第で、特に母は、高貴な人物にとは思ったのだった。
そこでこの婿がね(婿の候補)に歌をよんでおくった。――この女の住んでいるところは、入間の郡みよし野の里だった――というのである。京都ばかりでなく地方においても、このような色好みのふるまいは、やまないのだった」
この歌物語から想像すると、当時頗る時めいた藤原氏の出である女を妻としているこの家の主人は、普通の家ではなく、相当裕福な長者であったとみられる。
由来武蔵野人は、豪勇質朴であるといわれているが、中流以上の社会にはいってみると、この時代には京師(けいし)の付近と同一の風流華奢がよろこばれたのではないかとおもう。そのことは『伊勢物語』が最後に、
「ひとの国にても斯(かか)ることは絶えずそありける」
と付記しているのは、いかにも当時の実情を言いあらわしているといってよい。
ところで、娘に代って母親が婿がねにおくった歌も、「三芳野の田の面に渡る雁も、ひたぶるに、君の方へ寄ると鳴いていますよ」と訳しただけでは、歌の意味が生活的にはわからないとおもう。以下その点を探ってみよう。
今は亡き西角井正慶氏は、先師折口信夫氏の説にもとづいて次のようにのべる。
「たのもは水の面(も)や池の面(も)同様に、田の面(も)とまずみてよいとして、田圃(たんぼ)の意味よりは、実はたのもの節供や、たのみの親とか人とかに関係がある。たのみ・たのもは秋の収穫をいうので、八朔(はっさく)つまり二百十日の厄日のころ、風雨の害のないように、風祭りをして豊作を祝っておくのだ。九州博多地方では男の子を祝う節句になっているけれど、古くは五月五日も八朔も、女の日としての印象がある。
このことはもっと語らなくてはわからぬが、ともかく、この歌のたのむの雁というのは、頼みの人として成女戒(せいじょかい)を授けてくれる人をいうのだ。つまり娘を女にしてもらう儀式を、貴方様にお願いします、といった民間伝承を踏まえて味わってみるべきである」
と言っている。
われわれは、この歌から古い風習として、このような成女戒がこのころおこなわれたことを知ることができるが、成女戒は未開民族の間では、男の割礼(子供の時、陰茎の包皮を切る儀礼)と共に、まだ行われているであろう。日本の民俗でもそんなに古い風習ではなかった。水あげというのは、花柳界の隠語(いんご)であっても、やっぱりたのみの観念や感覚がひそんでいるらしい。
ところで、こう書いてくると、終戦後ほどなく新聞に連載された獅子文六の小説『てんやわんや』に描かれた檜扇の里を、おもい出す人もあるに違いない。
紳士にしたてられた主人公の若者が、土佐の隠れ里の旧家に案内される。その夜は家娘がおとぎする。翌朝その家では、誇らしげにその蒲団を表に懸けて村人に披露するのである。
彼はおぼことはおもわれないほどの彼女との夜が忘れがたく、再会をおもいつづけて、祭りに出てきた彼女と町で出逢ったのであるが、彼女の方では全く関係のない人みたいに、そっけない態度であるのには、がっかりもし不思議でもあったという筋である。
この娘のばあいは成女戒というより、田舎の古い接客法といってよいかも知れない。
ところが、宮本常一氏の『日本の宿』によると、このような風習が、大正末期まで地方によっては残存していた。
大正の終りころのことである。ある民俗学者が三河の山中で行き暮れ、宿がないので民家に一宿を頼んだ。ところがその家の主人は土地の総代と相談して、近所の娘をつれて来た。その夜、娘は夕飯をつくり、風呂をわかして接待した。夕飯がすむと床をのべてくれた。
彼女は、その夜部屋と部屋との間の唐紙を五寸ばかりあけて、「おやすみなさい」といって、自分の床にはいった。男の方も床にはいった。男の床から女の背がみえる。男はどうにも心が落ちつかなかった。
その後何年かたって、おなじ土地を訪れたその民俗学者は、その話を村の他の人に話した。すると唐紙の間をあけておくのは、貴人に対するもてなしのしるしで、夜半しのんで来てもよいということであった、と話したという。
収穫祭をにひなめという。その夜は女だけが家に忌みこもって、饗応をうけにくる神をまつ。この神というのは、目にはみえない神というよりは、神の代役であるまれびと(貴人なり村長なり)なのだから、後にいう客人である。その一夜妻になるのである。
檜扇の里も、三河の山中の話も、その古い民俗の延長線において考えられるべきである。業平の三芳野の里の歌物語もこうした背景があるわけである。
(注)みよし野の里の遺跡について 伊勢物語第十段の「みよし野の里」の遺跡については、いくつかの学説がある。
大津有一氏(日本古典文学大系)池田亀鑑氏(伊勢物語精講)は坂戸市旧三芳野村をあてている。
新篇武蔵風土記稿・埼玉県史は上戸、ならびに的場と解している。
谷馨氏(国文学四の六)の考証は新篇武蔵国風土記稿を中心として、的場一帯をみたてている。この説に対して、埼玉大学の長谷章久氏は「谷氏が参考にした文献は中世以前にさかのぼりえない」として反対している。
鳥居竜蔵氏(武蔵野及其周囲)は伊佐沼がなお大きかったころの、その側の丘陵平野をさすとしている。