――創作ノート――
群馬県の高崎から、新潟県の宮内へ直行する、上越線打通工事の最後の難関、清水トンネルが完成し、上越線が正式に開通したのは、昭和六年の九月一日のことである。
今年六十二歳になる藤村冬子は、いまでもそれを忘れることが出来ない。もう四十四年も前のことである。冬子は藤辰(ふじたつ)という指物師の娘であったが、現在(いま)は、日本橋人形町の大きな料亭「二本桜」のおかみになっている。主人もかくれた旦那も、現在はいないようである。
戦前、戦後を通じて、彼女の身の上にも、同世代の女性と同じように、いろいろな苦労や浮き沈みがあったようである。しかし、日本橋でも四、五番をくだらない、和洋取りまぜの、独得の料理を出す「二本桜」の、帳場のある部屋に坐っているいまの冬子は、どう見ても六十代には見えない。五十ぐらいの感じである。すこし大柄の顔と躰つき。坐っている和服の膝や腰のあたりには、まだ女盛りの、色っぽい感じさえある。桜色の、艶やかな顔と掌が、いつも着る一越(ひとこし)ちりめんや紬(つむぎ)、そしてお召の色彩とよく似合って、大輪の妖しい花が咲いたように見える。
彼女は雇われマダムなどではない。戦後、まったくの自力で、この料亭を築いたという。冬子は戸籍の上で、いままでにその姓が変ったことはない。籍を移すような結婚を、いちどもしたことがないということである。
藤辰は、彼女が生れ育った埼玉県川越の、生家の屋号である。父親は藤村辰之助といった。徳川時代から指物師が家業で、先祖の藤村覚之丞は、時の藩主に可愛がられ、苗字帯刀をゆるされて、居間の欄間や、奥庭の小神殿などを造ったことがあるという。
代々の当主は、江戸の指物師に負けない箪笥、長持など、家具類を多くつくって名が通ったが、明治からは桐の箪笥専門になり、父親は藤村辰之助を略して藤辰とよばれた。
冬子はひとり娘であったが、兄がひとりあった。冬子の娘時代の開花は、冒頭にしるした、昭和六年九月一日の上越線開通の機会からはじまるのであるが、それを思い出す彼女は、いつも藤辰の娘の冬子と、他人(ひと)様からの、当時の自分の呼び名を胸のなかに喚びおこしておいてから、それを思い出す癖がある。
戦争終結の昭和二十年、つまり三十二歳までが、彼女の波瀾の多い前半生である。いろいろなことがあった。また現在までの後半生にも、いろいろなことがあったようである。
私は、つまりこの小説の語り手である私は、料亭「二本桜」の常連などではない。たまたま必要があって、徳川期からの、近代家具史を調べているうちに、ふとした機会から彼女のことを知ったのである。名のある桐箪笥屋の娘として、育ち歩んだ彼女の来歴を聞いているうちに、家具史のことはともかく、戦争前の昭和史を背景に、藤辰の娘、藤村冬子の歩んだ足跡を、別なかたちで綴ってみたいような気持になったのである。もちろん伝記ではない。六十の彼女の、率直な告白をメモしながら、私自身の感じる、客観的なひかりを、さまざまな登場人物の姿に当てることも許して貰った。
人はどんなひとでも、不思議ともいえるような来歴を持っている。女性においてもまた当然である。結果からみて、女性であっても、容貌の美醜にほとんど関係のないような運命を辿るひともある。しかし、藤辰の藤村冬子の場合、容貌のすぐれていたことが、彼女の運命の変転に重大な関係があったように思える。また、彼女自身も気づかないような、おんなとしてのつよい魅力を秘めていたことも、その前半生を動かす、大きな要素になっているようにも思われる。
戦前と戦後では、日本の国情がガラリと変ってしまった。男や女の気持も、その習俗も、大きく変ってしまった。戦後生れのひとが、戦前の男女のあり方や、生活の習俗を見ると、異国のひとを見るような思いがするかも知れない。この移り変りから戦後の激動期、そして現在までの彼女の歩みにレンズを当てても、ひとの心を打つような幾つかのドラマが浮びあがってくるかも知れない。
しかしここでは、指物師の娘であった藤辰の藤村冬子の前半生を、メモと調査を骨子にして描いてみた。
第九話 時のかけら
(前略)
康彦は、昨年の十二月いっぱいで勤めていた光学機器の会社を辞めた。
同僚は、こんな時に辞めるなど自殺行為だと言い、康彦もそう思ったが、突然に噴き出した辞めたい気持ちを抑えることはできなかった。康彦は藁半紙に辞表を書き、「よした方がいい」と思いながら上司にそれを差し出した。
上司は、康彦を見て、
「お母さんは、そんなに具合がわるいのか」
と、眉をひそめた。そういう理由もあったのだと、康彦は思った。
母の幾乃は、三月十日の大空襲のあと、川越の病院に勤めていた長男の隼人を、夫とともに頼って行った。が、それからは気苦労の連続であったようだった。
夫の知文は、父親の代から下谷で内科医院を開業していたせいか、人から礼や世辞を言われることには馴れていたが、それを言うことはできない人間だった。農家の好意でトマトや胡瓜をもらっても、見ようによっては横柄な態度をとっていたらしい。病院にいる若い先生の親だからと気を遣ってやったのに――と、大分、悪口を言われたという。
相談相手が欲しかったのか、幾乃は一度だけ、川越へこられないかという手紙を書いてきた。まだ終戦にならない五月末のことだった。
あの時も、ふと心が揺らいだと、康彦は思う。が、母への返事には、「戦場も銃後も心は一つです」と書いた。「戦場の兵士達が死んでも国を守ると誓い、銃後の父母が息子の命はお国に捧げたと、ひたすら名誉の戦死を望んでいる時に、私一人が仕事を捨てては参れません。私の仕事も、お国への大事なご奉公です……」
康彦は苦笑した。あの時は皆、本気でそう思っていたのだった。だからこそ、康彦をそばへ呼びたかった幾乃も、以後、手紙すら寄越さなくなったのだろう。
知文の態度を周囲に詫びているうちに、今度は、隼人が病院の娘と結婚すると言い出した。婿養子になるというのである。
病院の娘とは二年も前から恋仲で、隼人は康彦に、お前が医学の道を選んでいてくれたら――と、恨みがましい手紙を書いてきたことがある。その頃から、早く下谷へ帰ってこいという父と、娘と結婚するなら跡を継いでくれという病院長の板挟みになっていたのだった。空襲の激しいさなかに結婚話を持ち出したのは、下谷の医院が焼けてしまった今しか、婿養子となることを承知してもらえる時はないと思ったからだろう。
知文は、怒り狂った。隼人は長男で、父親の跡を継ぐと言っていた息子だった。下谷の医院は焼けてしまったとはいえ、戦争が終れば再建する余裕もある。病院へ勤めたのは、娘と恋仲になるためではない、医者としての経験をつむためではなかったのか。
が、戦争は、終りそうで終らなかった。知文は、一月ほどたった七月に、息子の結婚を承知した。あちこちに気兼ねをしている幾乃を見ているうちに、弱気になってしまったのかもしれなかった。
八月、隼人は正式に婚約した。水口夫妻と病院長夫妻が顔を合わせただけの婚約で、結納も何もないと、隼人が康彦に知らせてきた。
そして八月十五日がくる。
知文は、下谷へ帰る気持を失った。
無理もないと、康彦は思う。
知文の夢は、水口医院に診療室を二つつくり、親子で患者の治療にあたり、長患いをしている者をその地域からなくすことだった。てきぱきと診療をすすめる息子の姿と、のんびり子供をあやしながら診療をする自分の姿とが、脳裡にはっきりと描かれていたにちがいない。
だが、息子は病院の娘にとられた。病院の娘の三沢という姓をなのり、病院の最も大きな診療室で患者を診ることがきまっている。
「いまさら下谷へ帰ったところでどうなる……」
自分はもう若くない。のんびりと、子供をあやしながらの診療しかできない。
急に白髪のふえてきた知文を、幾乃はせきたてた。
家を焼かれた人達が、焼跡にトタン板のバラックを建てているというじゃありませんか。うちの土地にそんなバラックがいっぱい建ってしまったらどうするんです? どこかへ行ってくれと、トタン板の家を壊すことができますか?
朝に晩に幾乃の心配を聞かされて、知文も重い腰を上げた。そのとたんに、幾乃が倒れた。下谷へ帰れるとほっとして、それまでの疲れが噴き出したらしい。
康彦は、休暇をとって川越へ行った。上司はその時のことを覚えていたのだった。
(後略)
知華子へ。お前が最後まで好いてくれなかったお祖母ちゃんは、大正四年、川越で生まれた。今でこそ川越は「小江戸」などと呼ばれ、有名な観光名所になっているらしいが、私の生まれた頃はのんびりとした田舎町だった。けれども城下町だけあって、どこか雅な雰囲気は残っていたかもしれない。
今でも町はずれの新河岸川(しんがしがわ)の風景をよく思い出す。鉄道は通っていたけれども、川を下ってくる舟はたくさんあった。そこで米が積まれると、大八車や馬車が町に向かっていっせいに動き出す。私はそれを見るのが好きだった。いつだったか、川の風景を作文に書いて、学校の先生に誉められたことがあった。
「天野さんは観察力がすぐれていて、表現が豊かだ」
と朱字で書かれた文章をよく憶えているよ。そう、私の姓は天野のままだよ。あなたのお母さんも、あなたもずっと天野のままだ。あなたは一回別の姓を名乗ったけれども、すぐに元の姓になった。
私たち女三代、ずっと旧姓というものがない。夫の姓にならなかった。これは不幸なことだろうか。私にはわからない。知華子はたぶんとても不幸なことだと思うだろう。いちばん先端の生き方をしている知華子が、いちばん古風なことにこだわっていることが私には不思議だよ。
知華子は、私の母のことを一度も尋ねたことがなかったね。全く興味も持たないようだ。あたり前だろう。祖母の母などというものは、若い女にとって、それこそ大昔の人間だ。
語るほどのこともない。平凡な女だった。無学だったし、凛(りん)とした強さも持たないために、私たち子どもは無用の苦労をした。ところが八十歳を過ぎた頃から、私は母のことをしきりに思い出すようになった。笑いながら話す時のしぐさとか、ご飯をよそってくれる時の湯気の温かさなど小さなことを毎日思い出す。それは「恋しい」という表現がぴったりするほど切実なものだ。私の死ぬ時は本当に近いのだろう。二年前に亡くなった、このホームの人もしきりに言っていたものだ。この頃、母親のことばかり考えている。空怖ろしくなるほど、母のことが恋しくて恋しくてたまらない。老人が子どもに還るというのは本当なのだなあ。あの世で、母親が手招きをしてくれているんだろうなあと……。
私の父親は大工をしていた。母は三人の子どもを産んで育てた。女、男、と続いて私は末っ子だ。父は大工といっても、普通の家を建てるのではない。宮大工といって、神社やお寺を建てる。時々は招かれて、金持ちの茶室をつくることもあった。父は棟梁になるほどの頭や才はなかったけれども、腕は確かだったらしい。ただの大工ではない、特別の選ばれた職人だということを、それはそれは自慢していた。
いちばん上の姉は、尋常小学校を出るとすぐに、川越の蔵のある家へ奉公に出た。兄も父親の後を継いで、別の棟梁のところへ行くことが決まっていた。あのままいけば、私たち一家は貧しいけれど、平穏な日々を過ごせたに違いない。
姑イトは、小柄のうえに少し腰が曲がりかけているため、一層小さく見えた。芳太郎より上背のある安比奈と並ぶとなおさら小さく見えた。
白いものが多くなった髪をきゅうっと頭上で丸めて、そこにいつも小さなつげの櫛を差していた。その櫛をいとおしげに鏡の前で拭っている姿を目にしたとき、安比奈はこの老女の中にあるなまめかしさを直感したのである。決して枯れてはいない女≠……。
イトは、十八歳のとき京都の呉服屋から嫁いできた、と言った。イトの体にも心にも、幼い頃から織物への思い入れが沁みこんでいたのだろう。おそらく、織物の世界しか知らずにこの六十五年近い人生を生きてきたのではないかと思われる。しかし、自分を素直に生かし、誇りをもって生きてきたであろうことを考えると、最も幸せな人生だったのだと、安比奈にも思えるのであった。
「京都は日本の着物の中心でもあります。そやから、そりゃ華やかです。川越の織物は豪華さでは京都に負けるかも知れませんけど、川越織りの良さがあります。京都はお公家さんなどの着物の歴史の上の華やかさやけど、川越の着物はどちらかというと庶民の生活の中から生まれてきた着物です。確かに川越斜子織りや川越絹手は絹で織られていますが、豪華さ、華やかさを競うものではありません。斜子織りは黒紋付きの羽織に用いられ、絹手は、夏の袴地じゃな。絹平を川越にもってきたのは、柳沢吉保のあとの秋元喬知という人でな、甲斐から転封されたとき技術を持ってきたという。川越織りの中でも、私はやっぱり唐棧が一番好きやね。『川唐』という名で全国に名を知らしめたのですから、木綿や言うてあなどってはいけません」まぶたの垂れた目に光が宿る。
川越の住人として、イトは「川唐」を心から愛しているのを知る思いだった。
「それほどまでお義母さまが唐棧に魅せられた一番の理由は何でしょう?」
品質において、決して絹におとらない織物であるということは充分に安比奈も認めている。しかし、イトの中には、もっと別の意味があるような気がしていた。結婚後間もなく安比奈は尋ねたのである。
「唐棧はな、江戸庶民の意地の象徴やったんです」イトははるか歴史を見やるようにして言い切った。
庶民の意地≠ニいう言葉に力が入り、しっかり安比奈を見つめている瞳にも信念がこめられている。安比奈は身のひき締まる思いだった。
「織物が意地の象徴とは?」
「江戸時代には厳しい身分制度があったのは知っとりますね。その身分制度のもとでは、庶民は、どんなにお金持ちでも絹を着ることは許されなんだ。それでも、絹をどうしても着てみたいという人だっております。そんな人たちに、絹そっくりの特質をもつ唐棧がもてはやされたのは当然やったんです。粋な通人やお金のある人は、こぞって唐棧を着たんやね。それにな、唐棧は絹よりも値段が高かったのですよ」
「木綿が絹織物よりも高価だったのですか?」
「そうや。なんせ舶来品の糸しか使えんのやから。どんなに貴重品だったか知れません。庶民の中でも、特に裕福な者や、着物通の粋な者にとっては、唐棧を着て歩くことは精一杯の身分制度に対しての反発やったと、わたくしは思うんです。わたくしはな、そういうふうに、社会に無下に流されるのに反抗し、自分の意志を通そうとする心意気が好きなんです。木綿はあくまでも木綿です。でも、木綿やからと言うて卑屈にならずに、堂々と絹を超えられるという自信と誇りを持った織物やから、それが魅力なんでしょうな」
自らの心の内を見つめるようにイトは言った。安比奈には、その言葉が、イト自身の生き方と重なって、いつか自分も、イトのように自信と誇りを持った生き方がしたいと、そのとき考えたのであった。誰にも彼にも敵視され続け、自分の出生を恨んで歩いてきた安比奈には、イトの生き方がどれほどうらやましく思えたか……。
「わたくしは、この川越の蔵造りに生きる機屋の女将です。最後まで守ってゆかねば亡くなった夫に申し訳が立たんのです。唐棧の名前だけでも残したいと思うとります。安比奈さん、あなたにも頼みますね」
言い切った老女の口調には、自らを勇気づけ、決して時代に流されるものか、という思いがひしひしと感じられた。意地なのである。そのときの安比奈には、伝統を守り伝えるという重みとはどれほどのものか充分理解できるはずはなかったが、イトの側(そば)にいると、彼女の思いが自分の中にも移行してくるのを感じるのだった。
この小さな体のどこに、これほどの熱い思いが渦巻いているのだろう
今にも闇の中に消えてしまいそうなイトが、奥の部屋に去ってゆくその後姿を見つめながら不思議だった。
農道は静かな住宅地にわたしたちを招き入れ、附近の路地を細かく縦横に曲がったわたしたちは、遮断機が下りて警報を発している踏切にぶつかりました。踏切対岸の空地に、塔高の低い男性型鉄塔が無表情で立っています。
「この線路、何線かな?」アキラが踏切待ちに苛立ったように尋ねました。
「さあな――?」わたしには予想もつきませんでしたし、推理してみようとも思いませんでした。
既に空気には青みが生じてきていました。余計な枝番鉄塔で足許を掬われたのは大誤算でした。わたしは改めて甘痒い焦りを感じ始めていました。やがて左方向から線路の鳴る音がして、『本川越』と小窓に表示された8輌編成電車が喧しく通過してゆきました。
「西武新宿線かぁ!」アキラは電車を見送りながら踏切を渡りました。
わたしたちは踏切の傍に自転車を停め、線路伝いを駆け抜けて、低層アパート裏側の空地へ突っ込みました。番号表示板の数字は『27』、そして結界は苅られた雑草の棄て場と化しています。わたしは手当たり次第に枯草をほじくり返して地面の下にメダルを埋め、慌ただしく駈け去りました。
続く鉄塔を求めて住宅地を走っているうちに、わたしたちは狭い路地から小さな茶畑へ迷い込みました。その奥まった民家の庭先に、塔高を増した男性型鉄塔が立っていました。鉄塔はまるで物干場か石燈籠のように使用され、結界にはさまざまな小道具や工作物が散らばって、人の生活の跡が染み込んでいます。近づこうものなら、家の中から誰か人が飛び出してきて文句を言われそうでした。数秒わたしは戸惑ったあと、意を決して結界内へ駆け込み番号表示板に心の打撃を被りながらも、手っ取り早くメダルを土の中に押し込んで、後も見ずに自転車で遁走しました。
「あの鉄塔、26-1(のいち)だ」自転車を次の鉄塔へ走らせながら、わたしはアキラに報告しました。
「どうなっちゃってるんだろう?」
「のいち鉄塔ばっかりだね」アキラは気楽なのか深刻なのか判らないような口吻で言いました。
「このまま代わり番こに、ずーっとのいち鉄塔が出てきたら、どうしようもねえぞ」わたしは弱音を吐きました。
次の鉄塔は民家の屋根を圧するように高く秀で、それを目標に走るわたしたちは住宅地を通り抜けて、複数車線の幹線道路に突き当たりました。朝方の出発依頼、遭遇した最大の道路でした。自動車の騒然たる通行に切れ目がなくて、伸びやかな男性型鉄塔が立っている道路の向こう側へ渡るには信号待ちをしなければならず、わたしたちは横断歩道へ回ったところ、道路上に掲げられた案内標識版の表示で、その道路が国道16号線であることが判明しました。16号線は、父の運転する自動車に乗せられて幾度か走った経験がありましたが、わたしたちの家から16号線まで来るには、自動車でもかなりの時間がかかりました。<こんなところまで来たのか――>わたしは感じ入ると同時に、いつか父の運転する自動車の助手席から、この鉄塔を見ていたことがあったはずなのだと考えて、懐かしいような感傷を覚えました。
信号が緑に変わり、わたしたちは横断歩道を渡り始めました。建物が道路で跡切れて、見通すことができた西の空には終末のような夕焼けが染まっていました。
「もう夕方になったよ、みっちゃん」アキラが最後の陽射しを受けながらわたしに告げました。「もうすぐ日が暮れる」
わたしは何も応えずに自転車を走らせただけでした。
赤橙色の陽射しは、鉄塔の影を歩道に長く落とし、番号表示板の数字『26』を柔らかく照らしていました。26号結界は、歩道の外側に区切られた前面コンクリート装で、中央部分だけ正方形の凹みが造られ、そこに土が溜まって草が生えていました。その小さな正方形の中心に、わたしは指先で穴を掘ってメダルを埋めました。
わたしは立ち上がり、次の鉄塔を見定めました。都会的な腕金装柱の繊細な男性型鉄塔が、夕景に黒ずんで立っています。上空は澄みきって明るい青さを留めているのに、地上には薄暗さの陰が差してきていました。
「アキラ、もしあれが25-1だったら、諦めて引き返そう――」わたしは次の鉄塔を見つめたまま呼びかけました。アキラがこちらへ振り返った気配がしました。「でも25号だったら、もう少しだけ行ってみよう」それを捨て台詞にして、わたしは自転車に乗りました。
「OK――」アキラは呟くように答えて、自分の自転車に乗りました。
平成十五年一月一日
江口美奈、三十二歳は三十六歳の夫の聡史と、まもなく一歳になる息子の翼と三人で横浜の自宅で新年を迎えた。深夜まで降り続いていた雨もあがり、晴天で穏やかな朝だった。
午前六時、美奈はいつもと同じ時間に起床し、朝食の準備をした。
「あなた、お雑煮ができたわよ」
「おお、うまそうだな。美奈、ビールも頼むよ」
「はーい。そう思ってグラスも冷やしてあるわよ」
聡史はパジャマ姿のままリビングに入って来て、テレビのスイッチを入れた。お正月の特別番組が多かったが、聡史はあえてニュース番組のチャンネルにして食卓についた。翼はまだ隣の部屋で静かに眠っていた。
美奈は以前、川越で婦人警官をしており、主に交通違反の取り締まりを担当していた。二十三歳の時、高校時代の友人の紹介で大手の銀行に勤務する聡史と知り合い、半年後にプロポーズをされ、二十四歳で結婚した。美奈は結婚してしばらくは仕事を続けていたが、二年経っても子供が授からず、仕事をしながら産婦人科に通い出した。しかし精神的にも肉体的にも疲れ果て、とうとう不妊治療に専念するために仕事を断念した。そして三年間の辛い通院の結果ようやく妊娠に至り、翼を出産した。その二ヶ月後、夫の仕事の転勤で現在の横浜のマンションに引っ越してきた。
二人は雑煮を食べながらテレビを見ていた。
『新年早々ですが、大変かわいそうな事件が起こってしまいました。岩手県遠野市の伊藤直樹さん四十三歳の長男で五歳の友樹君が、昨夜突然喘息発作を起こし、近くの病院に救急車で運び込まれました。しかしその病院にはあいにく外科の当直医しかおらず、小児科のある病院へ行くようにと診察を断られました。救急隊が小児科医のいる総合病院へ連絡しましたが、小児の急患が重なっていて対応できないと言われました。そして雨の中、救急隊が受け入れ先を探しながら走っている間、友樹君は救急車の中で息を引きとったようです。小児科医の不足による悲しい事件がまた起こってしまいました。現在はこの小児科医に断られた遠野西総合病院で、友樹君は最後の処置を受けているところです』
女性レポーターは息を切らしながら早口で喋った。冬の東北は寒さが厳しく、レポーターの吐く息は真っ白だった。
「たらい回しにされてしまったのね、かわいそうに。何とかならなかったのかしら」
「そうだなあ」
二人は、画面を見つめていた。
『あ、両親と思われる二人が、たった今タクシーで到着しました。すみません、友樹君のお母さまですね』
何人もの報道関係者が友樹の両親に近寄っている。
『は、はい。すみません、急いでおりますので』
『ご両親の伊藤直樹さんと伊藤桂子さんが、たった今この遠野西病院に駆けつけました。そして急いで病院の中に入って行かれました。今回は子供さんをご近所の方に預けて出かけていた時に起こってしまった惨事のようです』
画面には、友樹君の母 伊藤桂子さん 四十一歳≠ニあった。
「え、親がいない時に起きたのか、それはかわいそうだったなあ」
美奈は聡史の空になったグラスにビールを注ぎながらテレビを見た。
「ねえ、今確か伊藤桂子……って。私この人知っているわ」
「どうして?」
「川越の産婦人科で一緒だったの」
「それって、翼を出産した澤田病院のこと? でも、この事件は岩手県で起こっているんだよ。人違いじゃないか? それに伊藤桂子って名前は結構有りそうだし」
澤田病院は関東でも不妊治療で有名な病院である。院長のほかに産婦人科の女医が三人もいるため一般の婦人科の患者も多く、とにかくはやっていた。
「だから覚えているの。あの頃、私は産婦人科に月に五、六回通っていたでしょう。診察や注射でね」
「ああ、美奈はいつも待ち時間で苦労したって言っていたね」
「五、六年前になるかしら。看護師さんが『イトウケイコさん』って呼んだ時に、二人の患者さんが同時に返事をして立ち上がったの。看護師さんがあわてて手に持っているカルテを確認して、『大変失礼しました。同姓同名ですけど、木へんのほうの桂子さんどうぞ』って言ったの。そうしたら三十五歳くらいの品の良い女性が、もう一人の二十五歳くらいの圭子さんに会釈をしながら先に診察室に入って行ったの。若い方はOLさんかしら、とても綺麗な人だったわ」
「ふうん、しかし五、六年も前のことをよく覚えているね」
「確か、次の週も二人に会ったからね。働いている女性は受診の時間帯が結構同じになることが多いのよ。それに週にニ、三回通うこともあるから、会う確率はかなり高いのよ。今度はその看護師さんも二人に気がついて、はじめから『木へんの伊藤桂子さん』って少し笑いながら呼んでいたの。周囲にいた常連の患者さんたちも笑っていたわ」
「なるほど。じゃあ、その人かもしれないね」
「五歳というと、きっとあれからすぐにできた子供さんね。本当に気の毒に」
テレビは現場中継からスタジオに戻っていた。そして正月にもかかわらず小児科医の不足の問題、及び気管支喘息について専門の医師を含め数人のゲストがコメントをしていた。
(後略)
1
(前略)
坂町には、この大城という男の真意がわからなかった。
沙奈美のことで話したいことがあると昨夜電話があり、日曜日の午前中に坂町の住む埼玉の川越市まで大城は会いに来た。大城が住んでいるのは確か東京の杉並区である。本川越駅の近くにある喫茶店の名前を言って、そこで待っていると電話があったのが30分前で、坂町が店に着いたのは10時過ぎだった。店は10時からなので、大城はしばらく店の前で待っていたのだろうか。こんなに早い時間に会いに来たのは、もしかしたらそのあと、坂町に行動を起こさせる時間を与えるためなのか――男と同棲を始めたとい沙奈美に、会いに行けということなのか……?
大城と坂町の別れた妻は大学時代からの付き合いで、つまり、妻にとっては坂町と出会う前からの友人だった。その頃にも一度ぐらい男と女の関係があったのかどうかはわからない。わかっているのは、妻がこの大城と浮気をし、再婚したということだけだ。あとは思考停止させた状態のまま、坂町はこの10年近くを生きてきた。娘まで取られて、坂町はせめて敗北感から悔しさを取り除くために、大城と妻の絆に関しては無関心を心掛けてきた。その妻は2年前に乳癌で他界した。大城との間に生まれたの4歳になる男の子が、今、坂町の斜め向かいでパフェを行儀良く食べていた。店は喫茶店というより料理のメニューが豊富で、どちらかといえばレストランに近い。お昼時になれば混むのかもしれないが、今は店全体が起き抜けのように落ち着いている。一番明るく陽射しの入る窓辺の席で、大城親子と坂町は向き合いながら、どんよりと心は曇ってゆくばかりだった。
「私が一緒にいたのは、小学生までです。今更、私を父親だとは思っていないでしょう」と坂町は大城に応じるしかなかった。埋もれていた敗北感が胸の底で疼いた。
「坂町さんは、娘だとは思っていませんか?」
その疼きを大城がさらに刺激した。
「何を言っているんですか」と思わず坂町は睨み返した。
「こんなこと、私が言っていいことではないかもしれませんが……結局、沙奈美には父親がいなかったんですよ」
「それは確かに、あなたが言っていいことではないでしょう!」
「はい」
「何を言っているんですか……」
坂町は時分の怒りに戸惑った。大城は何を言いたいのか……沙奈美の扱いに手を焼いて、お前の娘だろう、お前がなんとかしろと坂町に言いに来たのか? 大城も結局、沙奈美の父親にはなれなかったが、父親不在の責任はそもそも坂町にあると言いたいのか?
「沙奈美を心配する気持ちに嘘はありません」
坂町の懸念を読んだのか言い訳のように大城が言った。坂町は、自分が何日も悩んで名付けた娘の名前を、当たり前のように呼び捨てにする大城に不快感しか持てなかった。
「だから、恥を忍んで、あなたにも会いに来ているんです」と大城は続ける。
「私には、どうすることもできませんよ、今更」
「沙奈美は、あなたに会いたくても、私に気兼ねして言えなかっただけかもしれません……沙奈美には、そういうところがあるんです」
「だったら、あなたがもっと、しっかりしてくださいよ!」
沙奈美のことはもう頭から飛んでいた。ただ目の前にいる大城を扱いかねて坂町は苛立っていた。大城の顔からは感情が読み取れなかった。本音を表情に出さないようにして、坂町を見据え、正論を吐くようにして話すだけである。大城は、まるで自分の感情を坂町に知られらくないと思っているかのようだ。
「沙奈美沙奈美……」
坂町の感情だけが乱れ、意味不明に娘の名前を連呼した。まるで相手の呼び捨てに嫉妬するかのように――それではあまりに大人げない。自分が情けない、そう理性では感じていても、抑えきれなかった。坂町は自分の感情を飲み込むようにコーヒーカップを口に運んだ。
(中略)
坂町家は駅から歩いて15分くらいの住宅街にある。祖父が建てた平屋を父親が二階建てに改築して、和洋折衷のようになった古い家である。坂町は今そこで、部屋を持て余すように一人で暮らしている。別にやることもないのに昼前には戻ってきた。
その家の前に娘が立っていた。
娘――一瞬、坂町は沙奈美かと思った。
髪が短いと思ったが、しかし、それは無意識に小学生の沙奈美と比べてのことで、今の沙奈美がどんな髪型をしているのか坂町には知るよしもなかった。最後に会ったのは高校生のときで、それよりは大人びて見え、年格好だけは今の沙奈美を思わせた。
明らかに坂町の家の前に立って、次にどうしようかと迷っている風に見えた。やっと顔の輪郭までが見えるところまで近づいたとき、沙奈美ではないことがわかった。
向こうも振り向いて、坂町と目が合った。
緊張がほどけた坂町に代わって、向こうの顔に緊張が走るのを感じた。
「何か?」
「坂町さん、ですか?」
「はい」
自分の知り合いとは思えない。セールスの類とも思えない。
「何か?」と用件を切り出さない相手に再び声を掛けた。
「あの、坂町晴彦さんですか?」
「沙奈美の知り合い?」
そう考えるのがやはり一番自然に思えた。沙奈美がまだこの川越にいた小学校時代の友達で、久しぶりに訪ねてきたとか。
「それは誰ですか?」
思わぬ返しが来た。
「あなたは誰ですか?」
思わぬ返しを返した。
「あ、私は、神戸大学の戸沢といいます」
「大学生?」
「はい。マスターズ甲子園大会事務局から来ました」
「…………」
甲子園という言葉の響きから、一気に自分との関連性しか思い浮かばなくなり、店から引きずってきた沙奈美の気配は忽ち坂町の中から消え去った。
「坂町さんは、川越学院野球部のOBじゃありませんか?
「そうですが」
「あの……坂町さん……もう一度、甲子園を目指しませんか」
「…………」
神戸から来たという女子大生は、水色のワンピースに白いニットのパーカーを着て、リュックサックのような鞄を背負っていた。180センチを超える坂町から見れば、見下ろす形にはなるが、女子としては背が高い方かもしれない。黒いタイツを穿いた脚がすらりと細く伸びている。目鼻立ちはハーフかと思うほどくっきりとしているのに、目つきは焦点が合っていないかのように鋭さがなく、全体にぼんやりとしてイメージを与えていた。だからなのか、甲子園を目指すという言葉もぼんやりとしか意味が伝わってこなかった。
「はい?」
「マスターズ甲子園は、神戸大学の准教授が始めたことなんです」
急にただの今風の大学生としか見えなくなった相手が、いきなり説明を始めた。
「私はたまたまその先生のゼミをとって、去年からボランティアで手伝うようになったんですけど、それで川越学院さんにもぜひ参加してもらえないかと思いまして」
彼女は背負っていた鞄から、パンフレットのような物を取り出して、坂町に差し出してきた。『マスターズ甲子園2011』とある。去年のプログラムのようだ。甲子園のフェンスを思わせる緑色の表紙に、老けた高校球児が満面の笑みでハイタッチをする写真があった。要するに、高校野球のOBによる甲子園大会というやつか。そんなマスターズがあることを、坂町は仕事柄どこかで聞いたことはあったが、興味を持ったことはまるでなかった。
「そういうことなら、直接学校に行ってよ」
「坂町さんは、興味ありませんか?」
「ありません」
きっぱりと言って、話を打ち切るつもりで家に入ろうとした。そもそもなぜただのOBだという自分の家を直接訪ねてくるのか、住所はどこで調べたのか、神戸からわざわざ埼玉まで来て、ボランティアの学生がこんなふうに全国を飛び回って勧誘をしているのか、その辺の説明がないのが気持ち悪い。だが、非常識だと抗議するのも面倒臭かった。
「甲子園で野球をしませんか? もちろん、地方大会がありますけど」とおまけにしつこく、坂町を家に入らせまいと目の前に立ちはだかるようにしてついてくる。
「間に合ってるから」とつい新米の営業マンをあしらうような言葉が出てしまった。
「話を聞いてもらえませんか?」
「ごめん、鍋を火に掛けたままだから」
大人を見せようとして、軽い冗談を言ったつもりだったが、女子大生には通じない親父ギャグになってしまったようだ。
「え、誰もいないんですか? 今、出掛けていましたよね?」
真面目な顔で心配されてしまった。
どうやらこの子は、鈍いのではなく、非常識なのでもない。ただ真面目なのだ。誰かの指示を受けて、自分の任務をまっとうしようとしているだけなのだろう。ただ緊張からか多少視野が狭くなっているだけで馬鹿ではない。神戸大学なのだから当然か。だとしたら坂町の取るべき態度はただ一つ。無視。これ以上は無視して家に入ろうとした。それから一人になった彼女に、冷静にこの状況を判断させれば、おとなしく諦めて帰るだろうと思った。
坂町は門を開け、敷地の中に入ったとき「待ってください」と彼女に腕を掴まれた。
「何?」と坂町は思わず睨んだ。生々しい接触を腕に感じて、つい沙奈美のことが頭を過った。沙奈美が、見知らぬ男の腕を平気で掴むところを想像してしまう。
「あ、すみません……」と彼女がその意図を捉えたかのように手を放した。
「大学生になって、そんなに気やすく人と接してどうするの」
「気やすくしたつもりはありませんけど……」
「とにかく、話すことはありませんから」
「待ってください。あの、これだけ見てください」
その声から、明らかに彼女の態度が変わるのを感じた。実は私、こういう者なんです、と言いたげに鞄から何かを取り出した。名刺にしては巨大で、分厚いものだった。
「年賀状です」
一球入魂――という文字が、その束の一枚目に読み取れた。
「松川典夫が書いたんです。私は松川典夫の娘なんです」
坂町の中で記憶が弾けた。その名前には、忘れがたい様々な記憶が埋まっている。懐かしさではなく、生々しさが今でも消えないからこそ、記憶から無意識に閉め出してきた名前だった。
「父は亡くなったんです。去年の震災で……」
松川典夫が死んだ? 東日本大震災で……。東北の浜辺と最後に見た松川典夫の姿が繋がり、一瞬にして苦い記憶が甦った。三陸海岸の宮城県にある漁港で、松川典夫に坂町は一度だけ会ったことがある。言われてみれば、あれだけのニュースを見ながら、その死を想像することもなかったのが不思議なくらいだ。坂町には、最後に松川典夫に投げ掛けた言葉が引っ掛かっていた。だからなのか、松川典夫を無意識に避けるようにして生きてきた。そのことにも気付かされた。そういう松川典夫に関する過去の記憶は、この娘だという彼女には絶対に言えないことだと坂町は咄嗟に思っていた。
(後略)
|3|
土曜の午後、川越の家を見に行くことになった。
池袋から東武東上線に乗る。志木(しき)を過ぎたあたりから、だんだん気色が広々としてきた。畑の広がる起伏のない土地。見ているうちになぜかなつかしさを感じ、その正体を探るうち、むかし住んでいた家のまわりと似ているのだ、と気づいた。
当時父母と住んでいたのは埼玉県所沢(ところざわ)市のはずれで、このあたりから近いのだ。きっと地形も似ているのだろう。考えてみれば、所沢と川越は西武新宿線でつながっている。縁のある土地に導かれているのかもしれない、と思った。
川越の駅で木谷先生と落ち合い、商店街を歩いた。古い町並みのある地区まで、歩くと二十分近くかかる。バスもあるようだが、木谷先生が町の雰囲気も見ておこうと言うので、歩いて行くことにした。
しばらくはどこにでもある商店街が続いた。商店街が終わり、広い道を渡ったあたりから雰囲気が変わった。大正浪漫夢通(たいしょうとまんゆめどお)りという小道で、古い建築物が並んでいる。洋風建築に町屋造り。
商工会議所の角を左に折れると、右手に蔵造りの町並みが見えてきた。
「すごいですね」
目を見張り、つぶやいた。
黒く重厚な店蔵が並び、江戸時代のようだ。テレビの映像では見たことがあったが、こうして実物を見ると想像以上に迫力あった。
「これが有名な一番街だよ。川越の蔵は貯蔵用の蔵じゃなくて、店蔵。通りに面して建ってるんだ。まあ、蔵っぽい建物のうち、本物は数が限られているみたいだけど」
木谷先生によると、この蔵造りの町並みは江戸を真似(まね)たもの。川越は関東大震災や戦争の空襲の被害をあまり受けなかったので、東京では失われてしまった風景が残っているらしい。
蔵造りは火災が起こったときに類焼を防ぐための耐火建築で、黒漆喰(くろしっくい)が特徴なのだそうだ。黒漆喰の黒い壁に、瓦(かわら)の黒い屋根。むかしは日本橋(にほんばし)あたりにもこういう商家が建ち並んでいたという。
埼玉りそな銀行の古い洋館や、時の鐘という木造の鐘つき堂などもあり、着物姿で行き交う人や、外国人観光客らしい人たちも大勢いて、たいへんなにぎわいだ。
島田さんとは門前(もんぜん)横丁という小道の入口で待ち合わせしていた。
「お待たせ」
木谷先生が、横丁にはいってすぐのところに立っている男性に声をかけた。パーカ姿の背の高い人だ。あの人が島田さんらしい。
「いや、こっちもいま着いたとこ。今日はありがとう」
島田さんはよく通る声で言った。
「こちらがうちの院生の遠野くん」
先生が僕を指す。
「ああ、管理人候補の……。はじめまして、島田です」
島田さんがくるっとした目で僕を見る。落ち着いた佇(たたず)まいだが、鋭そうな人だ。ぐいっと自分を前に押し出してくるタイプのように見えた。なんでも飲みこんでしまうような木谷先生とは対照的だ。
「遠野です。よろしくお願いします」
眼光に気圧(けお)されつつ、頭をさげた。
「しゃあ、さっそく行こうか」
島田さんが路地を歩きだす。
「遠野くん、川越ははじめて?」
「はい、はじめてです。よく知らなかったんですが、すごい町ですね。東京の近くにこんなすばらしい町並みがあるなんて……驚きました」
一番街に比べると、路地は細く、人も少ない。だが、両側に趣のある建物が並び、いかにも横丁という風情(ふぜい)がある。
「まあ、いまはね」
島田さんが答える。
「いまは?」
「うん、僕たちが子どものころはこんなじゃなかったからね。蔵造りも看板に隠れて見えなくなっちゃってたり……」
島田さんの話によると、川越がいまのような町づくりを目指しはじめたのは一九八〇年代のことらしい。
一九七〇年代には実質的な繁華街は駅周辺に移り、旧市街はすっかりさびれてしまっていた。蔵造りの建物も取り壊されたり、改築されたりして、歴史的景観が損なわれつつあった。それを住民たちが復活させ、いまの姿になったのだそうだ。
「例の家はこの路地からも行けるんだけど、はじめてならまず『菓子屋(かしや)横丁』を見に行こうか」
「菓子屋横丁?」
「駄菓子屋がたくさん集まったロの字形の路地でね。川越の有名な観光スポットのひとつだよ」
島田さんが言った。
「実は『菓子屋横丁』ができたのも八〇年代なんだよね。それまであそこには駄菓子屋はなかった」
「じゃあ、なにが?」
木谷先生が訊く。
「お菓子の製造御(おろし)の店が並んでいたんだ。小売(こうり)の店じゃなくて、小さな町工場(こうば)が並んで、お菓子を作ってたんだ」
島田さんが答える。
横丁の突き当たりには養寿院(ようじゅいん)という大きな寺があり、そこを右にまがる。大きなカメレオンの像のあるうなぎ屋の横を通った。古い木造の建物の横に色鮮やかなカメレオンの像があるの奇妙で、おかしかった。
「とくに関東大震災のあとは、東京の菓子屋が営業できなくなって、ここで東京の菓子の製造を一手に引き受けるようになった。多いときは七十軒以上あったらしいよ」
「そんなに?」
「でも戦後は物資がなくなって、工場も廃業になって……一九七〇年代には、営業してたのはほんの数店だった。で、八〇年代の町づくりの一環で、ここに『菓子屋横丁』って名前をつけて、駄菓子の小売店の横丁を作ったんだ。お菓子屋さんはあの角を曲がったあたりから並んでるよ」
島田さんが少し先の左にはいる角を指さす。
木谷先生は角の手前にある「浜(はま)ちゃん」という店に走り、さつまいもスティックを買っている。紙コップにはいったスティックを食べながら、こっちに戻ってきた。
左に曲がると、古い木の建物が並んでいた。ところどころに色とりどりのガラスの混ざった石畳が敷かれ、店には揃(そろ)いの丸い電灯がついている。
「玉力(たまりき)」という店には、色とりどりのかわいらしい飴(あめ)が並んでいた。ガラス越しに飴を作っている様子が見える。古い機械の細い樋(とい)のようなところを、きれいな飴がころころ転がってくる。
ほかにも、駄菓子屋、団子屋、茶房、漬物屋、民芸品店、飲食店……。短い距離なのに、木谷先生があちこちの店で立ち止まり、団子だの「たこせん」だのを買い食いしているので、なかなか進まない。日本一長い麩菓子(ふがし)、駄菓子、組飴と、あっという間に大荷物を抱えている。島田さんは、まだ買うの、と苦笑いしていた。
ようやく小道を抜け、広い高澤(たかざわ)通りに出た。右に曲がると、通り沿いににも店が並んでいる。そうして次の路地をまた右に曲がる。おしゃれな雰囲気のパン屋さんの前を通り、「浜ちゃん」の前に戻ってロの字の一周。
木谷先生はパン屋さんでもパンをたくさん買いこんでいた。
「じゃあ、家にいこうか。ここからならパン屋さんの駐車場を抜けた方が早いな」
島田さんが言う。じゃりじゃりっと小石を踏んで、駐車場を進んだ。
裏の小さな出口の外には路地があった。まっすぐ進み、右に曲がる。
「ここだよ」
島田さんが立ちどまる。
小さな門の向こうに木造の家が建っていた。
木の壁。入口の戸は、木の枠に模様入のすりガラス。
風がさあっと吹いて、気持ちがざわざわと波立った。
「まあ、とあえずはいってみてくれよ」
島田さんがポケットから鍵を取り出す。鍵が開き、がらがらっと引き戸を開ける。島田さん、木谷先生のあとから、玄関のなかにはいった。
しんと冷たい空気と、古い家の匂い。先生たちが三和土(たたき)で靴を脱ぎ、式台にあがる。
靴紐(くつひも)をほどこうとかがんだとき、声がした。家の声だ。聞えるかも、と身がまえていたから、焦りはしなかった。だが……。
これは、歌……。
少し変わった声だった。抑揚があり、歌っているように聞える。なんの歌だろう?聞いたことがあるような気がするが、判然としない。
思い出せるようで思い出せないのが落ち着かず、目を閉じ、耳を澄ます。
「いい家だ」
木谷先生のつぶやき声が聞こえた。
(後略)