小説・物語の中の川越(3)

幕末から明治の小説です

<目 次>
半七捕物帳半七の見た江戸五重塔明治東京畸人伝天狗争乱彰義隊小江戸に吹きまくつむじ風黒船秘恋華舫天の園(第六部)大地の園(第一部)〃(第二部)〃(第三部)〃(第四部)

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「半七捕物帳(六)」 岡本綺堂 光文社時代小説文庫 1986年 ★★
   「川越次郎兵衛」
   四月の日曜と祭日、二日つづきの休暇を利用して、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。 それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。
 「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。今はどんなに変りましたかね。 御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔からなかなか繁昌の町でした。 おなじ武州の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋でお馴染があるばかりでなく、 江戸との交通は頗る頻繁の土地で、武州川越といえば女子供でも其の名を知っている位でした。 あなたはどういう道順でお出でになりました……。 ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢や入間川を通って……。 成程、陸を行くとそういう事になりましょうね。 江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。 浅草の花川戸から船に乗って、隅田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。 それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは遥かに便利で、足弱の女や子供でも殆ど寝ながら行かれるというわけです。 そんな関係からでしょうか、江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。 例の黒船一件で、今にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。 わたくしが世話になっている家でも隠居の年寄りと子供を川越へ預けるというので、その荷物の宰領や何かで一緒に行ったことがあります。 花の頃ではありませんが、喜多院や三芳野天神へも参詣して来ました。 今はどうなったか知りませんが、その頃は石原町というところに宿屋がならんでいて、江戸の馬喰町のような姿でした」
 老人の昔話はそれからそれへと続いて、わたし達のようにうっかりと通り過ぎて来た者は、却って老人に教えられることが多かった。 そのうちに、老人はまた話し出した。
  ※甲武鉄道:現在のJR中央線
 この続き「川越次郎兵衛」の話は、このページを見て下さい。
半七捕物長 川越次郎兵衛 (青空文庫の中にあります)   綺堂事物

「半七の見た江戸 『江戸名所図会』でたどる半七捕物帳 今井金吾編 河出書房新社 1999年 ★★
 弐 安政年間/「川越次郎兵衛」(かわごえのじろべえ)
「江戸の御金蔵破り」があった翌日、見るからに国者(くにもの)とわかる男が江戸城本丸表玄関前に立ち、東照宮のお告げにより天下を自分に渡すべし、と叫ぶ。武州川越の者の名の笠をつけていたため川越藩屋敷に連行されるが、調べると野州宇都宮の者であることがわかる。八丁堀同心・坂部が川越藩屋敷に受け取りに行くが、縄抜けされてしまう。半七に内密の依頼がくる。
 
 四月になって、番太郎の店でも焼芋を売らなくなった。駄菓子とちっとばかりの 荒物をならべている店のまえに立つと、要作は町内の使で何処へか出たらしく、女房のお霜が店番をしていた。それを横目に見ながら、半七は隣りの自身番へはいると、定番の五平があわてて挨拶した。

番太郎の店 当時は各町(ちょう)の入口には必ず木戸が設けられ、朝は六ツ(午前六時)、夜は四ツ(午後十時)にはその木戸の開け閉めをさせていた。そのため木戸の脇に木戸番専用の小屋を設け、そこに詰めている者を番太郎とか番太と呼んでいた。町内の雑用もこなし、また拍子木を打って時を知らせて歩いたりもしていた。図のように普段は、冬は焼芋を売ったり、夏は金魚を売ったり、そのほか草鞋や蝋燭なども売ったりしていたのである。『江戸府内絵本風俗往来』。
 「次郎兵衛はどうしてお葉と懇意になったのだ」と、半七はまた訊いた。
 「船のなかで……」と、お霜は答えた。「ご承知でもございましょうが、川越から江戸へ出ますには、新河岸川から夜船に乗ります。その船のなかで懇意になったのでそうでございます」
 お磯の身売りについて、お葉は玉の下見に行った。その帰りの船が次郎兵衛と一緒であったので、互いに心安くなった。

新河岸川から夜船 新河岸川を上下する帆掛け船。棹を使う船頭の姿が見える。この新河岸川は、埼玉県川越市東部で赤間川等の河川を合わせて荒川とほぼ平行に流れ、北区北部の岩淵水門で荒川と合流、隅田川となる川で、流長26キロ、その舟運は寛永十五年(1638)三月、川越仙波東照宮大火のため焼失、再建資材を江戸から新河岸川を利用して運搬したのに始まる。松平信綱が藩主になると、領内の伊佐沼から流れる川に多くの屈曲をつけ、舟の運航に適するように水量を保持する工事をし、上・下新河岸など多くの河岸場が設けられた・そして川越を夕方出ると、浅草の花川戸に翌日昼前には着くというので、川越夜船といわれたりした。『目で見る埼玉百年』。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 岡本綺堂(おかもと きどう)
1872〜1939(明治5〜昭和14)大正・昭和期の劇作家。(生)東京。
(名)本名敬二、初号を狂綺堂、別号を甲字楼主人。

「五重塔」 幸田露伴 岩波文庫 1927年 ★
 技量はありながらも小才の利かぬ性格ゆえに、「のっそり」とあだ名で呼ばれる大工十兵衛。 その十兵衛が、義理も人情も捨てて、谷中感応寺の五重塔建立に一身を捧げる。 エゴイズムや作為を越えた魔性のものに憑かれ、翻弄される職人の姿を、求心的な文体で浮き彫りにする文豪露伴(1867-1947)の傑作。

  五重塔 (J-text日本文学学術的電子図書館の中にあります

「明治東京畸人伝」 森まゆみ 新潮文庫 1999年
 谷中・根津から千駄木――。かつてこの地を目茶目茶面白いヤツが歩いていた! お雇い外国人教師ベルツ、最後まで丁髷だった老舗薬局の主人、チベット潜入の河口慧海、本妻と愛人とを行き来した詩人サトウハチロー、混血の小唄の名手春日とよ、そして昭和恐慌に発展した倒産銀行頭取ヂエモンなど、精力的な聞き書きから甦る25のユニークな人生行路。こんな生き方もあるんだよな……。
露伴が谷中にいた頃――五重塔の話
  (前略)
 こうして朝に夕に、白木の五重塔を眺めて暮らしていた露伴は、これを物語とすることを思いついた。度重なる江戸の大火や、安政の大地震や、彰義隊の兵火にも耐えて聳える塔である。銀杏横丁を新聞連載の原稿を投函しにゆく道すがらにも、露伴は立ち止まって塔を眺めて愉快になった。
 露伴の家に出入りの倉という大工は、ちびてはいたが、良い道具をつかい、腕もたしからしかった。なにより谷中辺の古い大工の話にくわしく、のっぽりという腕の立つ大工や、越後の源太という大工の話を聞いた。もちろん目の前に聳える五重塔の工法、いわゆる斗きょうの組みの話や明治に入って行なわれた改修の話も聞いたであろう。
 少しずつ塔の物語は露伴の中でふくらみ、生彩を帯びて建築の本なども漁るようになった。こうして建築的ともいえるゆるぎない構成をもつ名作『五重塔』ができあがった。
 「 (引用略) 」
 クライマックスである。塔の上の決死の十兵衛、加勢の心意気をしめす源太。塔が建ち上るところで、物語は終るはずだったが、「国会」連載中にじっさいに激しい暴風雨があり、露伴は現実の五重塔が気づかわれてならなかった。それを書き足して『五重塔』は成ったのである。もちろん、塔が建つところまででいいではないか、という谷崎潤一郎のような評もある。
 その後、私は寛永寺の浦井正明先生に、谷中天王寺の富興行の話を聞いた。寺に保存された「富一件記」を解読すると、寛政の五重塔の再建はなかなかの難工事で、途中に思わぬ大風のため新築中の塔が倒壊し、このためにまた最初からやり直したので、予想外の大きな借財がで、寺は負債の返済に苦労したことも見えるという。
 果たして露伴はそのことを知っていたものか。歩いてゆける距離に天王寺はあり、その資料はずっと寺に保存されていた。建築学の本も漁り、考証に手を抜かない露伴はそれも読まなかったとはいいきれない。
  (後略)

 追記 私たちが『谷中五重塔事典』を出し塔再建の動きが報道されると、露伴邸に出入りした大工倉のご子孫石井鶴江さんから手紙と露伴の「自作の由来」のコピーをいただいた。ここで露伴は倉を「無学の聖人」「詩趣のある男」と評価し、主人公の「幾分かモデルに使」ったと述べている。鶴江さんによると、倉は本名を石井倉蔵といい、谷中三崎町五十二番地に住み、露伴の向島の家の茶室なども造り、墓所は谷中自性院にあるという。鶴江さんは「倉を舅とする祖母は五重塔を大切に思い、焼けたときはどんなに口惜しがったことでしょう。焼跡より燃え残りの木材の一片を拾って、大切にタンスの中に保管しておりました」とあった。
  (後略)
 青空文庫

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 幸田露伴(こうだ ろはん)
1867〜1947(慶応3〜昭和22)明治・大正・昭和期の小説家・随筆家。 (生)江戸。
(名)本名成行、別号蝸牛庵。 (学)電信修技学校。
電信技手として北海道へ赴任したが、文学を志して職を辞し帰京。1889(明治22)「露団々」「一刹那」「風流仏」、’90「一口剣」、’91「五重塔」などの作品を発表し、尾崎紅葉と並ぶ小説家として広く知られた。紅葉と同じく井原西鶴の影響を受けているが、特に芸術家を主人公とした作品では彼の理想主義的ロマンチシズムが示され紅葉とは対照をなした。その後、写実への傾向を強めながら観察力と表現力に磨きぬかれた才能を示し、’93「風流微塵蔵」、1903「天うつ浪」、’38(昭和13)「幻談」などの傑作を残した。随筆・史伝・研究においても小説におとらぬ業績を残した。’01「諫言」、’14「洗心録」、’25「竹頭」「すすき野」などの随筆集、’08「頼朝」、’19「運命」、’25「蒲生氏郷・平将門」や’13戯曲「名和長年」などの史伝物などが代表作として知られる。また、「芭蕉七部集」の評釈にすぐれた仕事をした。’37第1回文化勲章を受章。芸術院創設とともに会員。広い趣味・深い教養・該博な知識に基づく鋭い洞察力と洗練された文章によって多くの貴重な業績を残した。
(著)「露伴全集」全41巻、1949〜58。
(参)小林勇「蝸牛庵訪問記」1956、塩谷賛「幸田露伴」全3巻、1965〜68。

「天狗争乱」 吉村昭 新潮文庫 1997年 ★
桜田門外の変から4年−守旧派に藩政の実権を握られた水戸尊攘派は農民ら千余名を組織し、筑波山に「天狗勢」を挙兵する。 しかし幕府軍の追討を受け、行き場を失った彼らは敬慕する徳川慶喜を頼って京都に上ることを決意。 攘夷断行を掲げ、信濃、美濃を粛然と進む天狗勢だが、慶喜に見放された彼らは越前に至って非情な最期を迎える。 水戸学に発した尊皇攘夷思想の末路を活写した雄編。

「川越市の文化財」 川越市文化財研究会 1972年 ★★★
 水戸藩十九烈士埋葬の地
 明治維新に先きだつ元治元年(1864)水戸藩内「天狗党」は尊王攘夷を強行しようとして、筑波山にけっ起したが、幕府はこれにたいして激しい攻撃の軍を進めた。 天狗党の一部は茨城県那珂湊の部田野原の戦いに敗れて降伏し、隊員のうち江橋五右衛門以下230人は罪人として川越藩に預けられた。 江橋五右衛門は翌慶応元年(1865)4月2日死罪打首の刑に処せられ、菊池忠右衛門等18人の武士は抑留中それぞれ病に倒れてその遺骸はいずれも広済寺に埋葬された。 川越藩主松平大和守は慰霊のため永代供養料金15両と水府浪士19柱の位牌を当寺に奉納した。
 この水戸藩十九烈士埋葬の地は、市指定文化財になっています。

「彰義隊」 吉村昭 新潮文庫 2009年 ★
皇族でありながら、戊辰戦争で朝敵となった人物がいた――上野寛永寺山主・輪王寺宮能久親王は、鳥羽伏見での敗戦後、寛永寺で謹慎する徳川慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走する。しかし、彰義隊に守護された宮は朝敵となり、さらには合津、米沢、仙台と諸国を落ちのびる。その数奇な人生を通して描かれる江戸時代の終焉。吉村文学が描いてきた幕末史の掉尾を飾る畢生の長篇。

「小江戸に吹きまくつむじ風」 粟田良助 東京図書出版会 2008年 ★★★
第一部 目覚め
第二部 目覚めてのち
第三部 江戸へ向かって
第四部 思わぬ結末
第五部 移牢そしてそのあと

「黒船秘恋」 諸田玲子 新潮文庫 2009年 ★★
黒船来航、台場建造で騒然とする江戸品川。川越藩樋口家の主・杢右衛門と妻・沙代は、台場守備の陣屋築造のため、下屋敷に移り住むことになった。砂塵が舞う仮住まいの暮らしに、みおという砂まみれの女が下女としてやってくる。そして夫の朋友彦三郎も同居することに……。夫と妻と女と男、妖しく揺らぐ恋情を、新たな時代の息吹のなかに濃やかに描き出す長編小説。『紅の袖』改題。

「華舫(かほう) 熊谷敬太郎 NHK出版 2014年 ★★
明治十年、にわかに湧き立つ蒸気船就航の計画。深川―川越を舞台に、新しい時代に遅れまいと夢を馳せる人々。
圧倒的なスピードと積載量をほこる川蒸気船は是が非か?真っ黒な煙を吐き、派手な外輪音をとどろかせて進み来る川蒸気は近代化の嚆矢という。だが、何かが違う――。
秘められた謎に迫る、回漕問屋旭屋の大将と河岸の人々。店の帳場に掲げた「華舫」の扁額に込めた男の真意は?

「天の園(第六部)―雲の恩― 打木村治 偕成社文庫 1976年 ★★
六年生になった保の胸に いとこの通う川越中学への あこがれが 大きくなっていく 自分の犠牲になって 進学をあきらめた 姉たちの姿をみ 思い迷い 保は中学受験を決意する

第七章 芽ぶき
     ゆめの一日
 試験の発表日の朝、保はひとりで米屋さんをでた。屋号を<マス屋>といって、川越では古い米屋だ。主人はかつらのいとこにあたる。さすがに川越は城下町だけあって、ゆく道みち、なにやら保はそのおちつきのある町並みに心しずまるのを感じた。
 中学校は町の東北のはずれ、初雁城とよばれる川越城の城あとにあった。正門をはいったところに、数本のクスの大木が清潔な森をなしていて、校舎はそのおくからはじまり、それは県立中学校にふさわしい威風ある建物であった。だがその日も正門はとざされていて、通用門からはいるように立て札がしてあった。
 ぞくぞくと人びとがつめかけはじめた。砂利をしきつめた通用門の広場をつきあたるまえに、右がわに<博物教室>と札のかかったふうがわりな建物がある……それに保はいきなり心ひかれた。――というのは、かれとかつらは試験の日、かれがでてくるたびにこの建物の石段であうことにきめた。おたがいに顔を見ただけで、つまった息がすーとぬけたのであった。
 「どうだったい……?」
 「わかんねえや……」
 「まあ、いいよいいよ……」
 これだけの会話で、つぎの時間のはじまるのを待ったのである。――きょうもおかあさんがそこにこしかけているような気がして、そこの石段がなつかしいのであった。
 博物教室のわたり廊下からかぎの手に、ふつうの教室がつきでていた。寄宿舎に通じるばかながいわたり廊下がそこからはじまっている。
 その外壁の高みに、じつはもうさっきから試験の発表ははりだされていたのである。それを保はひとりで見るのがこわくて、なんだか博物教室の石段でじめじめしていたのである。しかしいよいよ追いつめられて……ようやくはり紙の下にきて立った。――保のまわりの人びとは、息をのんで発表を見つめている。ひそひそ話しながらごたごたしている。そのまんなかで、保は人にぶつかられ、ぼーっとさせられ、そしてつっ立っている。
 自分が、すてネコかすて犬みたいな気がしてくる。米屋のにいさんが、せっかくいっしょにいってやろう、といってくれたのに、なぜきてもらわなかったのだろう、とくやまれた。
 ――いくら目をさらのようにして見たって……ないものはないのだ。――ひや汗がぶつぶつふきだした。首すじから血がさがっていくのがわかる。頭がつめたくなるのに、からだのほうは火あぶりにあっているようだ。たおれそうになる。考える力もぬけ、ただ立ちっぱなしだ――本家の水車があらわれる……ムクじいさんの顔がたちはだかる――人びとは入れかわりたちかわりするのに、保はその場にくぎづけだ。いまはまったくのぞみもたえた。自分がどこにいるのかさえ、わからなくなりかけるのだ。
 
 気がつくと、かれは町をせっせと米屋へむかって歩いていた。町はごくふつうで、お店もならんでいて、もうすっかり春なのに、保の心のなかには、ひとかけらの光もなかった。――町じゅうが知らん顔なのである。
      (後略)

「大地の園(第一部)―学びの門― 打木村治 偕成社文庫 1981年 ★★★
母かつらに 厳しくも やさしく育てられた保少年は いよいよ川越中学に入学した おさがりの帽子や靴も気にせず元気に通学した しかし 女工として働く姉久仁子をたずねて 保の心は動揺する

第二章 紅顔の賦
     五百羅漢とサクラ草
     (前略)
 先生はさきにたった。通用門をでた。すぐ左に折れて、尋常高等学校のへいにそっていった。まるで散歩にいくみたいだった。
 チンチン電車の発着所前をすぎても、先生はまっすぐいった。するとまもなく縁日で名高いお不動さんだ。カメのたくさんいる池がある。連中はそろそろうれしくなった。
 (へーえ、これが強制運動か……)
 連中は、きつねにつままれたような気がした。池のはたでさわいだ。カメをめずらしがるやつがおおぜいいた。保もそのひとりだった。
 「はやくせい!」
 先生がどなった。
 べつの門からでると、そこの道は、どうしたって喜多院へいく道だ。そこからは目と鼻のさきだ。喜多院は有名なお寺だ。この連中には、<三代将軍家光誕生の間>なんかどうってことない。境内がすてきなのだ。環境がすばらしいのだ――およそ川中生で、ここになんらかの思い出を持たない者はない、といってもよいくらいの<喜多院>だ。卒業して何年たっても、川越に用があってくると、ここだけはなつかしくて、たずねずにはおれないということだ。
 「きょうは喜多院へいくんですか。先生?」
 「バカをいえ」
 ひとことふたこと話すうち、もう門前そば屋の前で、石の門のあいだから境内が見えはじめた。五月の午後の日がおどっている。サクラの老木の幹が赤く若やいで、枝えだはにおいだしそうな葉ザクラだった。
 (やっぱり先生は、喜多院が目あてだったんだ……)
 みんなそう思った。殊勝げな顔して、先生についてゆく。
 「十分間、時間をあたえる。」
 「わあっ!}
 「さわぐでない!」
 西から南から、こい空気の森の気配が流れてくる。かたむいた太陽が、つきあたりの丘をそめている。丘の上の、慈眼堂の屋根がわらもそまっている。のぼってみると、天海僧正の墓碑もそまっていた。静かすぎる。
 十分間ではいそがしい。五百羅漢も見たい。みんなかけおりた。五百羅漢は人気がある。連中を、いくら見てもあきさせなかった――ないしょばなしをしている幼なじみみたいなひと組、コンロで湯をわかしている風流人、一方があんましてやってるかと思えば、一方はいい気持ちで腕まくらしてねむっている、といった気のあったどうし、サルをだいていい気になっているかわり者、これはしくじったと頭をかいているお人よし、たいこをたたいてうかれているのんき者、めがねをかけたハイカラなじいさん……などなど――ならべたらきりがない。どれもこれも気むずかしい顔なんてしていない。大人物ぞろいだ。そろって笑顔だ。みんなでとぼけあってさわいでいる。だが、あれもこれも、なにかを考えている顔だ。ふかい顔だ。どのひとりだって、じっとそばにいると、すきになってしまいそうな聖者ばかりだった。
 十分間はあっというまにたった。五百羅漢のさくの外に、沙羅双樹の木がある。これは本物のシャラノキで、ふつういわれている夏ツバキなんかではないそうだ。
 先生はいちばんさきに、ちゃんとその木の下にきて待っていた。
 一同は、番所の山門から外にでた。
 「先生よう、やっぱり伊佐沼へいくんですか?」
 「あたりまえだ。」
 「かけなくっていいんですか?」
 「心配するな。」
 まもなく町はずれだった。たちまち一望の平野にむかうことになった。この一望の天地は、二毛作田の特徴で、森と農家がたんぼのひだにしずみこんで見える。旅人にはたまらない風景かもしれない。けむりも見える。あのけむりを、この連中は、それぞれ村で、大宮の機関庫のけむりといって、ながめて育っているはずだ。保も唐子の山の上から、そういってながめた。
 もうだれも、走ろうなどと考えるバカ正直者はなくなった。遠足みたいに、そのひどい砂利道をザクザクと歩いた。買いたてのくつもこれではたまるまい。
 「もうすこしいくと」と先生がいった。「サクラ草の原っぱがあるはずだ。いまさかりだろう。荒川の堤防のむこうから大宮にかけては、サクラ草の名所だからな。」
 先生がこんなことをいうので、連中はますますのんびりした気分になってしまった。なんともわけのわからない、うすきみのわるい強制運動であった。
     (後略)

第三章 なみだの時
     水ヨウカン
     (前略)
 かれは、ワラをもつかむ気持ちになっていた。こんなときまたいじわるく、かれの目が、なんともめずらしい看板に、がっしりととらえられた――その看板は、いまのかれには救いの神だった。
 かれはその店の前に立った。なかのようすを見るよりさきに、まずもう一度、その看板の文字をしかと見とどけた。
 <ないものはない>――とある。
 それもペンキで書いたあんちょこなものではない。鉄なんかのはめこみの字だ。大きくかっ色に、二階の窓の上に横書きされてある。
 (ああたすかった……ここならあるだんべ。)
 かれは店にはいると、岩田屋のときと同じようにいった。相手にでたのは、かれより一つか二つぐらい年上に見える小僧さんだった。
 ――てんで話が通じなかった。むこうはじれったそうにするし、こっちはぽかんとした。もういちど保がくりかえしていったとき、年とった人が、背をまるくして机にかじりついたままいった。
 「それはね、あんた、店をまちがえたのではないかい。」
 「ちがいます。看板を見て、買いにきたんです。」
 「ではね、店のなかをよく見てごらん。」
 いいながらその人は、顔をあげ、片目でくわえこんでいた筒形のめがねをはずした。
 「うちはね、時計屋だよ。」
 「はい……でも……」
 「――<ないものはない>……と書いてあるっていいたいんだろ。だがね、あれは時計のことだけをいってるんだよ。」
 「…………!」
 保は、だんだん頭がひえてきた。はじめてあたりをきょろきょろ見た――<洋品雑貨>と見たのは、時計だのめがねだのだった。はじめて岩田屋の店とよく似てる、と思ったのはまちがいであった、と気がついた。
 (ぼくは、やっぱり唐子のヤマザルだなあ……)
 「ね、見たとおり時計屋だろ。」
 「はい、すみません……さいなら。」
 「あのね! 岩田屋さんへいってみな……あそこならあるだろう。」
 「……すみません。」
 <あと三日>がますます頭にきてしまって、保は、自分の知恵はこれまで、と見きりをつけて家へいそいだ。
      (後略)

「大地の園(第二部)―多感の門― 打木村治 偕成社文庫 1981年 ★★★
母は校正の内職をし 保はおじさんの銀行の給仕の仕事をしながら 中学にかよった 唐子の村で親しかったアイさんこじきは 保の力で 銀行の人力車夫となる

第一章 なにかの音
     へっぽこ風来坊
 あれだけたのしみにしていた唐子行きの情熱が、火が消えたようにどこかへかくれてしまった。このおれに、こんなことがあろうとは……と、思いもよらなかっただけに、保はわれながらあきれた。
 (しかたがねえや……とにかく中学をやめる決心をしたんだもん。それをまだおかあさんにいいそびれているんだもん。)
 そこはさすがに保で――なにしろ風来散歩ときたら、五歳のとき、村のこじきのあとをちょこちょこついて歩いたのがはじまりで、小学三、四年のころだったが、ついに久仁子から<サンキチ>と異名をたてまつられたほどの散歩きちがいだったから、その特技に、かれはいく日かをたすけてもらうことにした。
 ――歩いた。じつに熱心に歩いた。川越の町を中心に、東西南北――町からうんとはなれて、農家のちらほらある村はずれの道をえらんで歩いた。ありがたいことに、秩父山脈だけは、どこを歩いているときも、いつもこっちをむいていてくれる。歩いてみて、なるほどとわかるのであった――川越城が初雁城の別名でよばれるわけも、この地一帯を初雁の里とよぶわけも、そして川越中学の帽子の徽章が、わたる雁の姿を表現していることも……いまかれは、雁のわたるみのりの秋を想像した。するとすべて、なるほどと胸にくるのであった。
 (川越と雁……このゆたかな農村と雁……雁と川中……まったくだ。ふかい縁だ。でっかい月はのぼるし、入間川の水は清いし……まったくだ。)
 かつてかれは、川中生となったからには、せめて川越城のあらましぐらい知りたい、と殊勝な考えを持ったことがある。
 かれが図書館で読んだのによると、川越城は長禄元年(1457年)に江戸城と同時にきずかれている。はじめはちっぽけな城だったが、のちに寛永十六年(1639年)に、松平信綱によって一大城郭に造りかえられた。こんなぐあいに川越藩が江戸幕府からだいじにあつかわれたのは、川越周辺の広大な地域が、幕府の穀倉地帯の名にはじないだけのゆたかな土にめぐまれていたのによる。そのころは、もっともっとたくさんの雁がわたってきただろう。雁と川越とはきってもきれない仲なんだ。だから川越中学のグラウンドを<初雁の庭>とぼくが名づけたって、わるいことはないんだ。
 まあこれはともかく、東、西、南、北と性こりなく歩いているうちに、四日間があれっと思う間にすぎた。
       (後略)

「大地の園(第三部)―ロマンの門― 打木村治 偕成社文庫 1981年 ★★★
中学二年生になった夏休みを 寺泊の義兄の家ですごした保は がぜん読書の魅力にとりつかれていく 初日の出をおがみにいって出会った 少女満里がわすれられないひとりとなっていく

第一章 虹のいのち
     初日の出
 眼路はるか霜の畑だ。住宅がぽつぽつたちはじめている。農家のわら屋根も、新築のかわら屋根も、まけずおとらず霜をかぶっている。眼下のこのきびしいながめから静かに目をあげていくと、いやでもその目は喜多院の森につかまってしまう――研ぎすまされた暁の銀色空に、雄大な森のシルエットがこおりついて見える風情は、いかにも荘厳で清冽で、やがてこっちの腹までこおりそうになる。
 初日の出はまだはじまっていない。待っていると時間がながい。しかし、東の空はしだいに色づいてくる。
 「寒くない? 保」
 「寒いもんか、オーバー着てるもん。ねえさんは?」
 「だいじょうぶよ。コートの上にこの肩かけだもの。」
 「ねむかんべ?」
 「すこしね。」
 「ぼくもだ。」
 「ゆうべ夜ふかししたバチよ。」
 「おそいなあ! なにしてんだべ、初日の出のやつ。」
 「やつなんていう人がありますか。もうすぐよ。あの雲をごらん……ほら、もうすぐよ。あの雲、なんていうか知ってる?」
 「元旦雲……」
 「でたらめいいなさんな。〈しののめ〉っていうのよ。東の雲……〈東雲〉と書いてそう読むの。」 ふうん、一つえらくなった。高等科をでただけにしちゃあ、ねえさんはえらいな。」
 「こいつめ……」
 初日の出を待ちくたびれている人は、保と久仁子のほかにもおおぜいいた。なにかしら話をしている。寒いもんだから、からだをゆすったりしている。小さな子はぴょんぴょんはねている。
 「ねえ保」と久仁子がいった。「いまの、〈元旦雲〉さ……考えてみると、わるくないな。なかなかいいよ。おまえが考えたの?」
 「そうさ。」
 「中学一年にしちゃあ、上できだわ。」
 「どんなもんだい!」
 なにしろここは御嶽山の頂上である。そのせいか街中よりたしかに寒く感じる。御嶽神社もまつってある。川越の東のはずれ、郭町の御嶽山である。標高五十メートルというから、まあ川越ではいちばんの高地かもしれぬ。バカにしてはならない。それが証拠に、これこのとおり初日の出を拝みにくる人がおおぜいいる。東が一望の田園で、日の出をじゃまするものがない。そこが値打ちだ。
 人びとはみな、いまやおそしとお日さまのお出ましを待っている。やがて〈しののめ〉が小さくわれはじめた。その一つ一つが金色の輪でふちどられた。すると人びとの目にしぜんと力がはいってくる。そしてそれは、お日さまが顔をおだしになったら、ああ! といっせいに声をあげそうなかまえでもありそうだ。
 それそれ、もうすぐだ……地平線――こういってはすこしおおげさだが、すくなくともいくつかの村をのみこんでいるその田園のはてが、いきなり赤くもえはじめた。こうなるともう待ったなしだ。お年寄りは胸に掌をあわせて、いつでも拝める用意をしている。
 「ねえさん、ぼくああやって拝むのいやだな。」
 「ねえさんだって……わたしは心で拝むわ。」
 「ぼくもそうすべ。」
 のぼった。まっかだ。大きな太陽だ。ちぎれた雲が、うれしそうに、赤や金銀の踊りをしている。
 人びとは、すぐには立ちさろうとしない。しばし見とれてため息をついている。ながながと拝んでいる人もあって、まったくおだやかなお元日である。
 霜という霜はかがやきわたっている。そこでまた喜多院の森に目をうつすと、こんどは荘厳清冽から一変して、やわらかい清雅な姿を見せはじめている――東から初日の光をまともにうけて、森はさながら歓喜しているのであった。
 初日の出を見てから御嶽神社に参拝し、それから山をおり、久仁子に中学を見せてから氷川神社におまいりして家に帰る、というのが保のけさのプランであった。
 「御嶽山のよ、北がわのがけをおりてよ、しめっぽいお堀あとをわたってよ、それからがけをのぼれば、そこが中学のグラウンドなんだけんど、ねえさんじゃあむりだ……遠まわりすべ。」
 「あたりまえよ。お元日から冒険なんてごめんだわ。」
 何歩か歩くうち御嶽神社となるのだ。頂上の広さといえば、ざっとそんなぐあいだ。社もそれに準じてこぢんまりしている。だから人でゴタゴタする。
 そのゴタゴタのなかからだれかの手がのびてきて、その手で保は肩をつっつかれた。川中生も何人かきていたから、仲間のだれかだろうと思った。ところがそれが大ちがいだった。
 「保くん……!」
 耳をうたぐる声だった。そして、わすれもしない顔が、そのゴタゴタからあらわれた。
 「あ、白泉さん!」
 「なあんだ、きてたのか、きみも……やあ、久仁子さんも……! おはよう、久仁子さん。新年おめでとう。クリスマスにはご協力……どうもありがとう。」
 「はい……いいえ。おはようございます。おめでとうございます。今年もどうぞ、あの……」
 「初日の出……すばらしかったね。」
 「……まったく。」
 「保くん、これでまっすぐ帰るの?」
 「これから姉に中学を見せて、氷川さまへいって、それから……でも、いいです。」
 「よかあないよ。ぼくたちもいくんだ。いっしょにいこう……かまわないか?」
 「かまいません。うれしいです。」
 その、ぼくたちのたちで気をつけて見ると、白泉良輔は、むこうがわにひとりの少女をつれていた。その少女は、人にもまれ、歩きにくそうにしていた。片手を白泉のオーバーのポケットにつっこでんいる。
 くねくねした小道をすこしくだり、それから石段になって、石段から道にでるのであった。どこかの農家で、ニワトリがしきりに朝鳴きをしていた。
 四人はひとかたまりになって、ゆっくりと尋常高等のほうにむかった。
    (後略)
     森と月とあしたと
      (前略)
 散歩のふたりは、川越の郊外、大仙波をさして歩いている。畑なかの小道をえらんで、南へ南へと歩いている。染色学校(いまの川越工高)の横手をすぎてしばらくゆくと、やがて前方に浅間神社と愛宕神社の森が立ちはだかってくる。月光はいよいよあびるようだ。そのすこし右わきに、遠慮がちに孤独に立っているのが雀ノ森の杉林だ。
 ふりかえると、光西寺、中院、東照宮、喜多院と、それらの森がまったく一つにかさなりあってしまって、なにやら夜の森が王者を誇っているみたいだ。いまやふたりの視界には、森だけがあった。ふしぎな月夜といわねばならない。
 ようやく広い道にでた。左に折れると浅間さまが左がわにきた。わずかに坂道となる。カエルの声が空からふってきた。その声で頭上を鳴き鳴き飛んでいたゴイサギの声が消された。
 「新河岸川は、水が光ってきれいだろうな」と柿沼がいった。「川のむこうは一望のたんぼだし……田の水もきれいだろうな。」
 「このお月さまですものね。」
 「とうとうだれにもあわなかったね。ひとっ子ひとりいないね。こんないい晩……もったいないね。この名月を、ふたりでたっぷりよくばるとしようよ。」
 「いいですね。」――(やっと柿沼さん、しゃべりだした。ああよかった!)
 しかし、あとがつづかなかった。思ったとおり新河岸川は、ずうっと遠くまで銀光りして流れていた。たんぼの上は、月に反射してぼうっと明るい。ふたりは川のへりにならんで腰をおろした。
 「保くん!」
と柿沼がいった。それもしばらくたってからのことだった。
 「はい……?」――(夏子さんのことでなければいいがな……こんな晩は、柿沼さんのためによくねえよ。)
 「あのね。」
 「はい。」――(夏子さんのことっだったら、ぼく相手をしねえから……)
 「きみね……」
 「はい。」――(いやに気をもたせやがる……)
 「きみ、この新河岸川のこと、なにか知ってるかい?」
 「いいえ、なにも……」――(ああよかった。こうこなくちゃあ。)
 「そう……この川はね、いまこそこんなただのドブッ川だけど、むかしは<新河岸川の舟運び>といってね、たいしたところだったんだぜ。それも二百何十年というむかしからね。」
 「ふうん……こんな川が!」
 「つまりね、むかしは荷物を運搬するのに、人か馬か車しかなかったろう。えっちらおっちら、この城下町の川越から江戸までね。そんなことじゃあらちがあかなかった。舟にかぎる。舟ならいちどきにたくさんつめるし、はやくもはこべる。<舟運び>だ……とだれしもそう思うのだけれど、なかなか実行できない――ぼく、こないだ本で読んだんだけど、このあたりに住んでいた人で、名まえを沢田甚右衛門といったそうだが、その人がこの川岸をひらいて港をつくった……正保四年、一六四七年のことだというんだ。これがはじまりでね……」
 「ふうん!」保はにわかにのり気になった。「ことしは大正七年、一九一八年だから……ええと……二百七十一年まえのことになりますね。」
 「そうなるかな……それでね、のちに新河岸川が、上下二つの新河岸にわかれたり、それから四十年ばかりのあいだに、寺尾河岸とか扇河岸とか牛子河岸とかいうのができて、この五つの港をひっくるめて五河岸とよんだ。遠くの町や村からも産物があつまってきてね。五河岸はその集散地としてさかえにさかえた。盛りの一時期には、このあたりには問屋が三十軒もあって、百そう近い舟が江戸と川越のあいだをたえず往復していたそうだ……ねえ、保くん……!」
 「はい……?」
 「この静かな月夜の、このさびれはてたドブッ川を見ていると、ここにそんなむかしがあったなんてうそみたいだね……」
 「まったくですねえ!」
 「まったくむなしいもんだなあ。一時代の文明なんて……」
 「そんでよ……!」と保はいきなりとんきょうにいい、質問戦術をとった――(柿沼さんが、しんみりこんなことをいいだすと、どうもあとがろくなことじゃあねんだ。)――「そのにぎやかだった五河岸が、いつ……なんで……さびれちゃったのですか?」
 「それはね、わりあい最近のことなんだ……原因は鉄道の発達さ。わかるだろう? ――明治二十年代から大正にかけて、川越を中心に、地方の町と東京をつなぐ鉄道が、じわりじわりと発達してきてね……そのためさ。」
 「鉄道じゃあかないっこないですよね。」
 「鉄道ばかりじゃないんだ。大正二年には、自動車という大敵が埼玉県にもあらわれてね、つい去年の六月には、川越―所沢―田無―東京の日本橋と、乗合自動車路線が開通したといわれている。」
 「ふうん!」
 「そりゃあね、かないっこないさ。でもさ……のどかないい風景が消えていくというのは、さびしいことだね……去年は、入間川―飯能間の鉄道馬車が消えたしさ。」
 「まったくです!」
 それきりで、柿沼はまただまりこんでしまった。
        (後略)
第二章 初旅
     もの思い
      (前略)
 安部立郎先生という人は、川越の旧家の生まれで、川越中学第一回の卒業生でもあり、早稲田大学を卒業すると、そのまま郷土史家として、このふるさとの町にとどまった。郷土の歴史に関するたくさんの著書もあり、はやくから後輩の指導に志をいだき、心身の鍛錬の場として川越学生同志会を創立した。はじめは御嶽神社のがけ下の一軒の古家を借りて、そこを会員たちの集会場とした。先生はなんとしても図書室がほしかった。先生自身の蔵書をそこに持ちこんだのをはじめとして、会員たちの持ちより図書もすこしずつふえ、やがてどうにか図書室らしいていさいがととのった。
 先生の理想は、学生相集い、書を読み、語り、機関誌を発行し、弁論を練磨し、それらによって向上し、あわせてつねに自然を友とし、自然の魂をわが魂とする。そしてスポーツのほうはとうぶんテニスとする、というのであった。
 森山稔が保をさそいにきたちょうどその夏には、同志会の集会場、つまり図書室はすでに南久保町という通りにうつっていた――まず最初に先生の理想に賛同した鹿戸彦四郎という人が、ともかくも二階建ての、そのころとしてはりっぱな建物を新築して、同志会でつかえるようにしてくれた。つづいて町のおおぜいの識者たちの協力もあって、その貧相だった集会場兼図書室が、内容外観ともに見るまに堂々たる図書館らしい姿となって、人びとの目をひいた。そしてその年、町立図書館に昇格した。
 会員の中学生たちは、毎月一度の定例集会がなんともたのしみだったのである。よい季節には遠足もたのしんだ。雪中行軍もやった。ウサギ狩りもやった。遠足は、郷土の歴史、自然観察、考古学的の知識をやしなうことも兼ねた。ときには先輩も参加した。旧制高校の時代であったから、その誇りあるバンカラぶりや、大学生の静かなまなざしに、後輩たちは異常なこうふんの目をかがやかしたものだった。
       (後略)
第四章 ホトトギス
     ロマンの旗
      (前略)
 元旦……厳寒――大正八年(一九一九年)一月一日の暁……保はひとりで御嶽山へでかけていった。道ゆく人も、ちらりほらりだ――オーバー、マント、どてらの人もあって、象の鼻をまきつけたみたいなえりまきから、やっと顔をのぞかせている。
 御嶽山の頂上――初日の出を待つ人びとの寒そうなざわめき、一面の霜、喜多院の荘厳な森……それらは去年のけさとちっともかわっていなかった。
 しかし、けさの保は、群衆のなかのひとりぼっちだ――足がつめたいとか、霜がきれいだとか、ねえさんよう……とか、ねえ保……とか、話でまぎれる相手がそばにいない。そこだけが去年とことしと大ちがいだ――(久仁子ねえさんのバカヤロウ……なぜこなかったんだ!)
 保のからだのなかは、おもくふるえている。なにかにおののいてふるえている。そのなにかが、しかとはわからない。それでも、そのわからないなにかを、心のどこかが期待している。そんな自分を、保はやっかいなヤロウだと思い、しょんぼりしてしまった。
 ――けっきょくそのなにかとは、<奇跡>とでもいうべきものであるかもしれないのだったが……
 かれははじめから、がけの上に直立不動の姿勢で、東にむかって立ったままだった――<東雲>がわれはじめようと、いつ<旭日>がのぼろうと、そんなことはむこうのかってで、こっちはただ立っていればよいのであった。
 人びとが「あーっ!」とどよめき、かしわでの音などきこえ、あたりがうすいピンク色に明るく染まってきたちょうどそのとき、かれはせなかをかるくだれかに二つたたかれた。かれはふりむく……たたいたほうは、かれの顔を下からのぞきこむ……むこうもこっちもだまったままだ。こんなとき、微笑ほど便利なものはなかった。
 「いつかは……おみやげありがとう!」と満里のほうからいった。「久仁子さんは……?」
 「ぼく、ひとりできたんだ。」と保はこたえた。「白泉さんは……?」
 満里はだまって、顔を横にふった。それからそばに立っている少年の肩に、去年と同じ赤い手袋の手をおいた。
 「これ、わたしの弟……秀人です。」
 「ぼく河北保です。」
 それだけで、人びとといっしょに歩きだすことになった。ゴタゴタした。
 「弟は、小学三年生です。」
 「そうですか。」
 「弟を、むりやりけさつれてきたんです……いやだっていうのを。」
 「……そうですか。」
 「久仁子さんは、どうしてこなかったんですか?」
 「かぜです。」
 「まあ、かぜ! 心配だな……満里。」
 「だいじょうぶです。かぜをひいたらこまるんだって……それだけです。」
 「……それはだれだってそうだわ。良輔にいさんは、このごろちっともこない……かぜかしら。」
 「勉強だって……」
 「ふうん。わたしね、あの〈貝ガラ屏風〉……とってもだいじにしてる……」
 「金屏風っていうんだよ。」
 「そうね。でも、わたしは貝ガラ?風っていうわ……そのほうがいいもん。」
 「ほんとだ。そのほうがうんといい。」
 保は、負けた! と思った――(すげえ! この女の子は。〉
 「初日の出、どうだった……保さん?」
 「あ、いけねえ……見なかった。き……きみは?」
 「きみ? ……わたし満里よ。」
 「……じゃあ、満里ちゃん……」
 「わたし……? あら、わたしもうっかりしてたわ……どうしたんだろ。」
 「いいよ、去年見たから。」
 「……そうね。」
 つまらなそうに、ひとりぽつんとうしろからついてきた秀人は、自分の工場の大門近くまでくると、いきなり走りだし、門のところで保に舌をだし、さよならもいわずに、かけこんでいった。保は、その舌をだされたことが、わけもなくしあわせで、そして無上に誇らしかった。
 さあ、それからのことだが、わかれるとき、いったい満里となにをいったか、去年みたいに手をふったのかふらなかったのか、いっさいむちゅうで家に帰った。
 しばらくぼうっとなって、コタツにひっくりかえった。それから雑煮を食べた。食べてからまたひっくりかえった。
 ――保の頭のなかを、空想のかぎり……ありとあらゆる少年のロマンが、ときのこえをあげてとおりすぎてゆく……目にも見える……それはひとりの少年で、少年は自分で……旗を立てて、どこまでもなにかにむかって歩いてゆく姿だった。
 <大地の園 第三部 ロマンの門・おわり>

「大地の園(第四部)―知と愛の門― 打木村治 偕成社文庫 1981年 ★★★
中学三年 四年と進むうち 保は文学の魅力にめざめていった 満里への愛の深まり 母かつらや よき先輩の愛情につつまれながら 保は 人生の荒波に立ちむかっていく

第七章 たまゆらの記
     太陽行軍
 四年甲組の四十何名が、川越の町をはずれて、六月初旬の大地の光のなかをのんびりと行軍している。どっちをむいても、森も村も眼路はるかだ。田植えまえの、気の遠くなりそうな広い二毛作田が、いまさかんに水をひく準備でいそがしそうだ。田をおこすのにひきだされた馬も赤牛も、主人とともにいっしょうけんめいだ。人も牛馬もまるっきり小さく見える。
 午後の最後の授業の軍事教練を、しかも高学年が、こうしてぶらっちゃら町はずれを歩くなんて、めったにないことだ。それだけに下級生にもどったみたいな気がして、むやみとたのしい。
 いうまでもなく伊佐沼をめざしている。川中では、なんぞというと伊佐沼だ。とちゅうもいいし、沼もよい。距離もほどほどだ。なんとありがたい場所を持ったものだ。
 きょうは小槇中尉がたいへんごきげんで――「伊佐沼まで行軍する!」――ということで、堂々の行進で校門をでた。でるとすぐ――「歩調やめ!」で、整然たる並み足となる。そのまま町はずれとなり、気の遠くなりそうな歓喜の太陽の広野に、まさにさまよいでたというわけだ。
 それからは自由行進だ。自由行進とは、ぶらっちゃらの別名と解釈できるのである。小槇中尉のゆるしがあったのだから、各自自由行進にはいった。
 てんでんばらばら、いろんなグループができる。小槇先生は、あれこれとグループを訪問し、話しかけ、先生もたのしそうである。
 「よかったな、諸君。ことしの運動会もすばらしかった。ご苦労であった。」
 「そんなによかったですか?」
 「よかった! とくに五年生と合同の軍事教練の実況には、見物人も感嘆しおった。わしは感激家だからな、なみだがでそうでこまった。」
 「先生の号令がいいからですよ。」
 「いやなに……その号令にこまったのじゃよ。」
 「まったく、すごかったです。」
 「そうだったかな……伊草の橋へマラソンの監督にいってからも、感動がのこっておった。」
        (中略)
 「うむ! きょうはばかにいい天気だ」とかれはいった。「腹がへったな。どうだみんな、てんぷらを食う気はないか?」
 「天気とてんぷらと、どういう関係にあるのですか?」
 「文句のあるやつは食うな――どっちにしても天という字がつくではないか。そんなへこたれた顔をしているくせに……そんなやつには食わせぬ。」
 「ヒェー……食います食います!」
 なにしろ午後も三時をすぎている。腹のへっていないやつはひとりもいない。てんぷらときいて、きゅうによろよろするやつもあらわれたくらいだ。」
 食いたい。だが金がない。金を持っているやつと持っていないやつとでは、持っていないやつのほうがだんぜんおおいようだ! ――顔つきでわかる。
 「心配するな」と小槇先生はいった。「わしは、ここに三円持っておる――ひとりが五銭ぶん食うとして……なんとかなるわな。わしがおごる……それ突撃!」
 伊佐沼は、九十川というのを持っている。水のきれいな、川とは名ばかりの堀川だ。それに二枚橋という、これまた九十川ならではといった、いかにもひなびた、ため息のでそうなかわいい橋がかかっている。てんぷら屋はその橋のたもとにある。このかいわいの人は<にめえばしのてんぷら>というが、川越あたりではそうはいわない――ひとくちに<伊佐沼のてんぷら>といってしまう。通りすがりや、沼にあそんだとき、まず寄りこむ店だ。このあたりの農家の人びとや、沼で漁をする人びとにとっては、いのちのせんたく場所といった店だ。いうなれば、土と水のにおいのただなかのかれらのサロンだ。
 いなか家のすきまだらけのだだっぴろい店も、中学生であふれた。店の主人もかつて勇士であった人みたいで、びくともしないで、一家総動員ではじめた。おちつきはらって、揚げるそばから大皿にもりあげてはこんできた。
        (中略)
 ここのてんぷらは、一つ一つがわりあい大きめだった。というのは、ころもがたっぷりついているということだ。腹のへった中学生にはもってこいだった。それにしてもひとりあたり五銭ぶんだから、あっけなかった。あっけなくとも、たのしかった。なんともうまかった。それでもひとりで五つか六つは食べられただろうか。野菜ばかりで、ここの名代の伊佐沼でとれる雑魚とハスではなかった。
 帰途、だれかがそれをブウブウいうと、先生はわらった。
 「ぜいたくをいうな。あのおじさんは、気をきかせてくれたのだ――中学生には、質より量だからな……どうだ、うまかったか?」
 「うまかったです。」
 「腹の虫はおさまったか?」
 「どうやらおさまりました――どうもごちそうさま、先生!」
 「いやどうも……おそまつさまでした。きょうは、いろいろとたのしかったな……諸君もたのしかったか?」
 「はい。こんな軍事教練ははじめてです。」
 「わしもはじめてだ。だが、これも軍事教練のうちだ。」
       (後略)
以下は、小説(8)へ移動しました。

「桐の花」 島村利正 日本経済新聞社 1978年

「東京駅物語」 北原亞以子 新潮文庫 1999年

「花」 林真理子 中央公論新社 2002年

「鐘楼の町」 山と和喜 鳥影社 2004年

「わたしが・棄てた・女」 遠藤周作 講談社文庫 1972年

「放火 ファイヤーゲーム」 平龍生 カドカワ ノベルズ 1973年

「鉄塔武蔵野線」 銀林みのる 新潮文庫 1997年

「桂子と圭子」 弓木すず 日本文学館 2005年

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作成:川越原人  更新:2019/1/11