いまでも、川越のサツマイモを紹介するときは、必ずはじめに「栗(九里)より(四里)うまい十三里」のキャッチフレーズが使われるが、これはいつ頃から言われだしたのかというと、かなり古いものらしい。
江戸の町では、はじめはふかし芋屋だけだったが、寛政の頃、焼芋屋が現われ、たちまち大人気になったが、この焼芋屋の競争と共に出来た言葉といっていいのではないか。現代流に言えばコピーライターだが、焼芋屋に関係する江戸のコピーライターが流行させたのではないかと想像できる。
風俗随筆「俗事百工起源(ひゃっこうきげん)」(慶応元年序)のなかに、文化三、四年に薩摩芋を焼て売し看板に、八里半と書て売し処、大きに売れたる、其こころは、此の風味よろしき故、栗の味ありとて、栗に近しと云へる謎を看板に書しものなり、其後また十三里芋と書し看板も有し、是れ八里半の上にて、くりよりうましと云へることなりしか………という文が見られる。これを信ずれば、文化年間(1804〜)のはじめに、栗(九里)に近い八里半、栗(九里)より(四里)うまい十三里というシャレで焼芋が人気を集めたこととなる。
一説に、江戸からサツマイモの産地川越まで十三里あるので、それを語源とする説もあるが、焼芋は栗の味に近いので「八里半」、そして味で一歩譲っていたのを、更に美味しい焼芋の出現で「九里四里うまい十三里」となったのではないか。更に付け加えれば、中国の「農政全書」にサツマイモの13の利点があるとした「甘薯十三勝」があるので、それにひっかけたのではないだろうか。
川越いもについて学習する場合は、手っ取り早いのは「川越いも友の会」に入会して、おいもの先生方に話しをうかがうことだが、まず、サツマイモや川越いもについて全般的に知りたければ、次の本を読むと良い。
1.「川越いもの歴史」(S57)川越いも研究会
非常に良くまとめられていて、特に巻末の川越いもの歴史年表が便利。
2.「サツマイモの話」(S59)井上浩著
川越イモとその周辺というサブタイトルがついていて、川越イモを中心に諸々のことが随筆風に書かれていて、読み易い。ぜひ一読をすすめたい。
3.「サツマイモのきた道」(S59)小林仁著
著者は、日本におけるサツマイモ品種改良研究の第一人者。サツマイモの起源から伝来、用途、栽培、育種と幅広く書かれている。良書である。
4.「いも〜見直そう土からの恵み〜」(S60)星川清親著
女子栄養大学出版部より出されている本で、サツマイモばかりでなくイモ全般にわたって書かれている。教科書的存在の本。
5.「川越いも入門百科シリーズ」(S58〜)川越いも友の会
一般市民に川越いもについて広く知ってもらおうと福原公民館と共同で出している手作り小冊子。イモの家庭料理、ミニ歴史、栽培、シンポジウム記録など多彩。
6.「昭和甘藷百珍」(S59)川越いも友の会
現代のサツマイモ料理約百点を掲載した冊子。
川越市立図書館では「サツマイモ関係文献目録」をつくり、市民よりのイモ研究にこたえているので、一度たずねてみるとよい。
※この本に関して、掲示板に情報が寄せられましたのでご紹介します。
川越いもQ&Aガイド について No: 221
投稿者:水玉裕 04/07/01 Thu 16:33:06 はじめまして。私、川越市役所に勤めている者です。 サツマイモのことを検索しているうちにたどり着きました。 気づいたことがあったのでご報告します。 川越いもQ&Aガイド(川越いも友の会 編)ですが、出版年によって2種類 存在するようです。 ひとつは制作年が書いておらず、項目が30のもの。現存するのはこちらが多いようです。 もう1つ、昭和62年3月31日発行と奥付にあるものが資料に残っていました。 おもな変更点は ・20と21の間に「遠方の友人に、名物川越いもを送りたいが?(発送いも)」と いう項目があり、全体の項目数が31になっている。 ・発行者が市長ではなく農業祭実行委員会長になっている。 などです。 どちらが先に発行されたかは判明しません。 |
ベニアカ―川越イモの代表として知られた紅赤(ベニアカ)は、今では埼玉県三芳野町の上富地区でわずかに栽培されているにすぎない。約30戸の農家が「富の川越イモ」として出荷し、一部を直販している。ベニアカは俗称キントキと呼ばれ、中身が黄色で美しく、お正月料理には欠かせない。紅東(ベニアズマ)と比べてやや甘みが少ないといわれているが、味と香りに優れ、舌ざわりがよく、火が通りやすく、天ぷらやきんとんに適している。
ベニアカは、浦和市針ヶ谷の農家、山田イチが発見した埼玉生まれのサツマイモの品種。「栗(九里)より(四里)うまい」から「一三里」だなどといわれ、大正時代には盛んに作られた。しかし、栽培が難しく、収穫量も10e当たり1d程度と、ベニアズマと比べてニ、三割は少ない。現在は、市場での女王の位置をベニアズマに譲っている。
農家庭先売り―このサツマイモを手に入れたかったら、10月中旬から11月下旬にかけて、上富地区のけやき並木通りを訪ねるとよい。この辺り一帯は、江戸時代に柳沢吉保が開拓した所として知られている。関越自動車道所沢ICから浦和所沢線を所沢方面に向かい、亀ヶ谷の交差点を右折し、南永井の交差点を直進する。小さなカーブを左に曲がり、信号機を右折するとけやき並木通りの入口になる。しばらく進むと、道の両側に農家直販ののぼりが見える。いもは5`の箱入りの泥付きで1800円前後で売られている。大きさのそろったかつおぶしのような形をしたものがよく、家で洗って表面が鮮やかな紅色をしていれば合格品だ。ベニアズマも売っている(9月下旬〜10月下旬)が、ぜひベニアカを買い求めてほしい。
ついでに―上富地区の多福寺わきには、関東地方にサツマイモ作りをもたらした「青木昆陽」の記念碑が建立されている。けやき並木通りの近くには、川越イモの元祖である「吉田弥右衛門(所沢市)」がサツマイモの試作をした南永井地区(所沢市)が隣接しているので立ち寄ってみてほしい。
川越の旧市街を歩くと「いもせんべい」、「いもなっとう」、「いもまつば」などの伝統菓子を売る店が多い。川越市内の「えぷろん亭」(049-226-3370)や「いも膳」(049-243-8551)では、いもを使った料理が食べられる。サツマイモについてもっと詳しく知るには、「いも膳」の隣の「さつまいも資料館」(049-243-8243入場無料)が便利。
昔、「栗より美味しい十三里半」と書いた焼き芋屋さんが寒い冬の町を歩いていました。この言葉の意味がわからずにいろいろ考えていたことがありました。さつまいもといえば川越、この言葉ができた時代には松平家の城下町で、そのころの地図の里程標を考えてみても、どう考えても川越まで十三里半はないのにおかしいなと思ったものです。
川越から新河岸という所まで荷物を運び、新河岸川を下って荒川に出て、それから隅田川に出て、そして大根河岸まで運んで、ややそれに近い距離になるな、など半分楽しみながら考えたりしたものです。
大根河岸の名前が出たので、ちょっと話は外れますが、昔の市場のことを書いてみましょう。大根河岸というのは東京(江戸)で一場(ママ)初めにできたやっちゃ場で、今の日本橋のずっと隅田川よりにありました。当時は青果も鮮魚も同じ市場でした。大根を荷あげするということからこの名がつきました。それが魚は築地へ移り、青果は神田多町に移りました。多町の青果物市場は大正十四年の関東大震災で焼けてしまい、現在の外神田にある青果市場になりました。
閑話休題。
本当の意味は、栗(九里)より(四里)で十三里、それより美味しいから十三里半と、そんなギャグなのです。栗よりもう少し美味しいと言いたい、名コピーだと思います。
さつまいもは中南米で生まれ栽培されました。それがヨーロッパにもちこまれたのが十五世紀ごろ、そして十五世紀おわりに新大陸発見とともにアメリカに渡りました。
同じころ東南アジアにも伝わり、そこから沖縄を経て中国に渡り、薩摩の国、鹿児島へ入ってきました。私たちはさつまいもといっていますが、鹿児島の人たちには、沖縄いもとか唐いもといっている人も多いようです。
徳川吉宗の時代に、さつまいもを凶作のときのための救荒植物として、青木昆陽という人が広く全国に普及させて話は有名です。徳川の時代ばかりでなく、戦中戦後にかけてさつまいもばかり食べさせられた記憶をお持ちの方は多いと思います。
市場に出荷されている中で一番多い品種は、高系一四号と紅高系、農林一号、金時だと思います。高系はホックリしていて甘味も強く美味しいものなので、この系統のものが多く出荷されています。紅香川、紅土佐、紅千葉などと名前がつけられています。
この他にも、次々に新しい品種が研究されていますが、今年あたりから新しく出てきた品種に紅あずま、紅隼人があります。この紅隼人はポクポクしていて美味しいのですが、甘味はあまり強いとはいえません。大学いもなどにするには最適でしょう。また、この紅隼人の最大の特徴はビタミンAの含有量が非常に多いことで、普通のさつまいもの20倍もあります。
私たち青果商が仕入れる条件として気にするのは、表面の赤い皮がむけていないかということです。また、まるっこいマルMとかマルLといわれているものは、見た目のよい長いものより三〜四割安いので、料理の用途によって買っていただきたいものです。
私がいつもお客様にすすめるのは鹿児島の「黄金千貫」という種類です。これは皮がまっ白で、ちょっとさつまいもには見えませんが、ポクポクして非常に美味しいものです。
●さつまいものりんご煮
さつまいもは皮を厚めにむいて1cmくらいの輪切りにして水にはなしておきます。紅玉など酸味のあるりんごは皮をむいてうす切りにして塩水に入れておきます。
鍋にさつまいもと水をヒタヒタに入れて火にかけ、さつまいもがやわらかくなったらりんごを加え再び煮ます。
あとは何も入れません。りんごの酸味が少ない場合にレモンを入れる程度ですが、ほんのり甘くて美味しく、いくら食べても胸やけしません。
日本史を大きく変えた琉球出兵とさつまいもの伝来
いまの日本人は、さつまいもを大して重要な食品と考えていないかもしれない。しかし、江戸時代半ば以降にあって、それは米の代用品として広く主食に使われていた。下層農民でさつまいものおかげで命をつないだ者も多い。
慶長一四年(1609)の薩摩藩主島津家久による琉球(沖縄)出兵は、二つの意味で日本史を大きく変えるものであった。一つは、それが古代以来、中国に属しているようでもあり、日本に従っているようでありながら、独立した統治権をもっていた尚氏が支配する琉球王国を日本の一部と位置づけたことである。
そしてもう一つは、薩摩藩が沖縄からさつまいもを持ち帰ったことである。
島津家は、関ヶ原の戦いで負け組になったことによって、その地位は大きく後退した。
そのため、義弘の子の島津家久は自家の失地回復をめざして、一五万石に相当する経済力をもつ沖縄を武力で併合したのである。当時の沖縄に、国内にはない特産品が多いことや、沖縄を仲介した中国との貿易で大きな利益があげられることが、島津家を琉球出兵に踏み切らせた。琉球王朝の尚家はそれまでに大がかりな戦闘を経験したことがなかったため、ほとんど戦わずに三〇〇〇の島津勢に屈伏した。
さつまいもは、アメリカ原産の作物で、コロンブスがそれをスペイン女王イザベラに献上したことをきっかけに世界中に広まった。さつまいもはスペイン領であったモロッコやフィリピンに伝えられた。さらにルソン島(フィリピン)から中国福建省と沖縄に広まったのである。沖縄にさつまいもが入ったのが慶長二年(1597)で、その栽培が本格化したのが同一〇年である。
ゆえに、島津家は栽培開始のわずか四年後にさつまいもを得たことになる。ただちに、さつまいもが南九州のシラス台地に適していることが注目され、さつまいも栽培が薩摩藩領に広められた。
そのあと、さつまいもはじわじわと北上し、一八世紀はじめに長崎に伝えられた。このことをきっかけに、蘭学者がそれに注目するようになり、さつまいも栽培に関する著作がつくられるようになった。
さつまいもは畑で効率よくとれるので、飢饉に備える非常食によいという意見書が幕府にいくつか出された。そして、そのことを知った石見国の幕府領、大森の代官(大森銀山とその周辺の飛び地を治める役人)の井戸正明が、さつまいもを植えさせて多くの飢民を救った。かれは、のちに「芋代官」とよばれる。
この井戸正明の働きを知って、徳川吉宗がさつまいもの栽培を全国に広めようとした。このとき、吉宗の命をうけて小石川薬園で、薩摩から取り寄せた種いもを用いてさつまいもをつくったのが、蘭学者の青木昆陽である。
このあと川越でさつまいもがつくられ、そこのいもは天明と天保の大飢饉の折には、江戸の町の多くの下層民を救っている。
江戸市中にも焼き芋屋もあらわれたと記録されている。
外国から米の輸入がはじまるまで、さつまいもは米の不足を補う貴重な作物であった。
ホクホクの石焼き芋は、現在でもいたるところで売られている。冬場になると、昔ながらの屋台の石焼き芋屋から、お洒落れな屋台カーまで登場する。そのルーツといえる江戸の焼き芋も、当時庶民の間で大ヒットした。その経緯と、関わる職業を紹介しよう。
焼き芋の食材である薩摩芋(甘藷ともいう)は、江戸時代初期に中国から琉球を経て長崎へ、また呂宋(ルソン)(現在のフィリピン)から薩摩(鹿児島県)へと、大きく二つのルートを経て日本に伝わった。このため薩摩芋または琉球芋と呼ばれた。
この薩摩芋が荒地でも栽培が容易であることに着目したのが、儒者・蘭学者の青木昆陽であった。昆陽は薩摩芋が飢饉の救荒作物に有益であることを八代将軍吉宗に進言して、享保20年(1735)、小石川御薬園でその栽培に成功した。これがきっかけとなって、各地で薩摩芋が栽培されるようになり、多くの人々が飢えから救われることになった。
江戸周辺においても、武蔵野台地の川越(埼玉県)と上総・下総(ともに千葉県)が、江戸への大量供給が可能な薩摩芋の一大産地となった。
薩摩芋は安価であるにもかかわらず重量があるため、陸上輸送では手間賃(経費)がかかりすぎて生産費との折りあいがつかないという問題があった。しかし、川越には江戸とを結ぶ新河岸川が、上総・下総には海路があり、水上輸送が可能な地理的条件にも恵まれていた。
江戸ではこの二地域産の薩摩芋の陸揚げに便のよい場所に、薩摩芋を専門に扱う甘藷問屋が多くできた。川越産は新河岸川から隅田川を下り浅草駒形で、上総・下総産は江戸湾から京橋川を上り、大根河岸で陸揚げされた。川越産の薩摩芋は上総・下総産より上質とされ、浅草駒形の甘藷問屋には川越出身者が多かったともいう。
江戸市中に薩摩芋が出回るようになったのは明和・天明(1764〜89)ごろからである。当初売り出されたのは蒸かし芋だった。のちに焼き芋が広まったことで主流の座を譲り渡すことにはなったが、幕末まで、蒸かし芋屋は市中に散在して商いを続けた。日本橋堀江町には夏に団扇をつくる店が多くあったが、冬になるとそれらの店では蒸かし芋を売ったという。
そして焼き芋の登場となる。
焼き芋は薩摩芋を焙烙で蒸し焼きにしたものである。焙烙は食品を煎ったり蒸し焼きにしたりするための調理具で、縁の浅い素焼きの土鍋であった。竈に載せた焙烙の底に薩摩芋を並べて、木の蓋をして蒸し焼きにしたことから、焼き芋は別名・焙烙焼きとも呼ばれた。焙烙は素焼きのために割れやすく、大きなものはつくれなかったが、のちに焼き芋が江戸庶民の間食として盛んに食べられるようになると、鋳物製の大きく浅い平鍋が使われるようになった。
この新商品の焼き芋は、寛政5年(1793)の冬に、本郷四丁目の番屋(木戸番小屋)で売り出したのが始めとされる。番屋とは、江戸の消防、自警団を担う自身番の詰所である。この焼き芋が評判となり、江戸で大ヒットしたのである。焼き芋は各町にある番屋の番太郎(番人)の重要な副業のひとつとなり、専業の焼き芋屋をも凌ぐほどであったという。
薩摩芋の需要は、もっぱら木戸番と焼き芋屋であったので、甘藷問屋は青物市場を通さずに品物を直接彼らに卸した。問屋のなかには自ら焼き芋を売る者もあった。
焼き芋には、丸のまま焼く丸焼きと、いくつかに切り分けて焼く切り焼きあったが、人気は丸焼きが高く、焼き芋屋の看板にはこれを示す「○焼」と書いて掲げたものが多かった。
文化3〜4年(1806〜7)に現れた焼き芋屋の看板には「八里半」と書かれていた。これは栗(九里)に近いうまさという洒落で、これがのちに「栗(九里)より(四里)うまい十三里」の成句に発展していった。一説に「十三里」は川越から江戸までの距離で、川越産の薩摩芋のことだともいう。
焼き芋は庶民相手の安価が売り物だったために、燃料費を切り詰めるために、使い古しの俵と縄が使われた。これは江戸に入るさまざまな物資の梱包材に使われた俵と縄を安く仕入れたものだった。ここには江戸人のリサイクル精神が生きているといえる。
薩摩芋は焼く・蒸す、だけではなく、揚げる調理法もあった。お芋の丸揚げは、蒸かした薩摩芋の皮をむいて丸のまま竹串に刺し、小麦粉に塩を加えた衣をつけ、油に入れて揚げたものである。行商のお芋の丸揚げ売りは、芋を入れた岡持を提げ「お芋の丸揚え」と呼びながら売り歩いたという。なかには、薩摩芋をいくつかに切り分けて揚げる、切り揚げと呼ばれる品を売る者もいた。
川越イモは、川越城主松平大和守が10代将軍家治に地元産のサツマイモを献上、その皮の美しさ、味のよさから名前がついた、という話がある。 天保年間(1830〜44)の諸国名物番付「天保時代名物競」によると、幕下のどんじりに「川越薩摩芋」の名がある。 川越イモは、この時代にすでに主産地としての地位を固めていたわけだ。ちなみに、本家の薩摩は「上布帷子地」で関脇クラス。
江戸に焼きイモ屋が出現したのは、寛政年間(1789〜1801)といわれる。たちまち江戸中に広まり、需要が増大。 それに伴って、一大供給源としての「川越」の名声は高まり、「本場」の地位が固まっていった。
だが、川越イモといっても、必ずしも川越で作っていたわけではない。 川越イモの研究家、井上浩氏によると、主産地は川越の南に広がる武蔵野台地上、今でいえば所沢、狭山、三芳あたりだったという。 採れたイモは新河岸川舟運の基地、川越に集められ、「川越イモ」のブランド名で江戸へ出荷されていた。
甘い芋なので甘藷、また、中国から沖縄の宮古島に最初に伝わったので、唐芋、琉球芋とも呼ばれる。野菜中、糖質が最も多く、ビタミンCやE、ミネラル、繊維質も豊富に含む。
種類は多く、現在、広く出回っているのは、紅あずまや紅小町といった、皮が赤く、甘くほくほくとした粉質の品種。同じ赤い皮でほくほくの仲間には高系14号もある。昔からの品種で、品質がよいことで有名なのが紅赤。きめ細かい肉質と甘みが強いのが特徴で、金時ともいう。
新芋は7月頃から出回るが、おいしいのは秋から翌年の春にかけて、とくに貯蔵して水分が減ったものは甘みを増して美味。
旬:紅あずま 9〜11月。高系14号 8〜9月。紅赤 10月〜3月。価格(100gあたり):年間平均で25円前後。
■紅赤
埼玉県川越で発見された品種で、通称金時。おいしいさつま芋の代名詞となっているが、実際に市場に出回る量は少ない。形は細く、皮は鮮やかな赤で過熱すると肉は濃い黄色になる。やや粘りのある粉質できんとんに最適。
焼 芋
落語「大工調べ」のなかで、大工の与太郎が、未払いの家賃の抵当物件として、家主に道具箱を取りあげられて仕事に出られないので、内金を入れた棟梁が、家主に道具箱を返してくれと頼む場面がある。 はじめは下手に出ていた棟梁も、家主の横暴ぶりに怒りを爆発させ、すごいたんかを浴びせかける。「てめえの運の向いたのアなあ、ここの六兵衛さんが死んだからだ。六兵衛番太の死んだの忘れたら罰があたるぜ。そこにいる婆アは、六兵衛のかかアじゃねえか。 その時分にゃアぶくぶくふとって、黒油アつけて、おつウきどりゃアがって、いやらしい婆アだ。婆アが、ひとりでもって、さびしいばかりじゃアねえや。人手が足りなくなって困ってるとこへつけこみゃアがって、 『おかみさん、水汲みましょう、いもを洗いましょう、薪を割りましょう』、てめえ、ずるずるべったり、その婆アとくっついて、入夫とへえりこみゃアがったろう。その時分のことをよく知ってるんだい。 六兵衛はなア、おい、町内でもって評判の焼きいも屋だ。川越の本場を厚ッぺらに切って安く売るから、見ろい、子どもは正直だい、八ッ時刻ンなりゃ六兵衛ンとこア客止めだ。わざわざ隣り町から買えに来らあ。 てめえの代になってみやがれ、そんな気のきいたいもを売ったことがあるか。場ちげえのいも売りゃアがって、焚き付けを惜しみゃアがるから、生焼けのがりがりいもでもってな、そのいもを買って食って、腹アくだして死んだやつが、何人いるかわからねんだ、このひと殺しめッ」いささか引用が長くなったが、このたんかのなかに、江戸後期からはじまった焼きいも屋の実状がよくえがかれていた。
天和元年(1681)に、さつまいもが日本に伝来したのち、江戸付近でつくられるようになったのは享保二十年(1735)だが、江戸で焼きいもが名物になって来るのは、文化年間(1804−18)あたりからであったらしい。
風俗随筆『俗事百工起源』(慶応元年序)のなかに、文化三、四年に薩摩芋を焼て売し看板に、八里半と書て売し処、大きに売れたる、其のこころは、此の風味よろしき故、栗の味ありとて、栗に近しと云える謎を看板に書きしものなり、其後また十三里芋と書きし看板も有し、是れ八里半の上にて、くりよりうましと云へることなりしか……という文章が見られ、文化年間のはじめに、くりに近い八里半、くりよりうまい十三里という謎めいたしゃれで人気を集めたことが述べられている。
これを裏書きするかのように、式亭三馬の『浮世風呂』三篇(文化九年)のなかに、「お芋お芋。ムム八里半か」とあり、また、『浮世床』初篇(文化十年)にも、「流行の八里半がいいのさ」とある。
さきのたんかのなかに、焼きいもが、六兵衛番太の家で売られていたとあるが、番太というのは、江戸時代に、町の自身番にやとわれて番小屋に住み、火の番や盗賊の警戒や、その他の雑用に従事して町役をつとめた。番人の擬人名で番太郎と呼ばれ、内職に駄菓子や雑貨や荒物の類を売り、冬には焼きいもも売ったのだった。明治以降も、駄菓子屋で焼きいもを売る店が多く見られたのは、その名残りと言えよう。
現在では、焼きいもと言えば、「石焼きいも」の売り声が証明する通りだが、むかしは、さきのたんかにもあったように、厚く切ったいもを、大釜のなかの内釜とも言うべき鉄板で焼いて、塩とゴマをふりかけるスタイルが多く、つぼのなかに、いもを入れて蒸し焼きにする<つぼ焼き>というものもあった。
江戸庶民にとって、さつまいもは、絶好のおやつとして欠かせないものになっていった。大 通(だいつう)<あけてびっくり玉手箱>というところだが、現代でも、食通をふりまわしながら、ひとりになると、インスタント・ラーメンで間にあわせるなんているのがいるから、時代は変わっても人間の生きかたは変わらない。
何の何がしといふ、きつとした通り者(りっぱな通人)、着類はいふに及ばず、きせる、たばこ入れ、その外、手道具、座敷の物好き、何暗からぬ大通。毎日毎日、友だちをあつめての女郎買い咄にも、世の中の人をば、みな、やぼと見下し、我れひとり、いきなる者と、見識を立てけるが(見識があるように見せていたが)、ここにふしぎなる事は、食事するに、けつして人に見せずに大屏風を立て廻し、その中に、たつたひとり、給仕さへ入れずに食ひしまふ。友達共も合点ゆかずと、いろいろ気をつけても、さつぱり見せず。さては狐か猫のとりつきしにきはまつたと、皆々云ひ合はせ、何とぞして見届けんと、いつものごとく打ちより咄して居るに、下女が、「御膳をおあがりなされまし」といへば、「皆様、御免なされまし」といつて立つと、例のごとく屏風を立て廻して内へ入りぬ。皆々ここぞと手ぐすねして、時分を待ち居るに、一人、「それ」と声をかくれば、一時に、ばたばたとをつ取りまき、理不尽に(むりに)屏風を取りのくれば、もろ手で(両手で)さつま芋食つて居た。 (天明八年頃刊『独楽新話』)
焼きいもを扱った小咄を見よう。大あたり五り五りなら、十里で計算は合うのだが、そんないもを食べさせられては、こりごりするいもいもしいはなし。
「十五、六年このかたの、はやりもの、やきいもを、八里半とは、栗の味に、およばぬとの事、ところを一ばん、江戸はだで(江戸風に)栗のうへをいって、十三里うまいとは、九り四りうまいといふこころさ」。また、そばの人、「この間、わたしが、近所の八百屋で、十里といふ焼きいもがあるゆへ、八里半より一里半多ひから、これはよかろうと思ひ、食つてみれば、くさつて、なま焼け、いくたび食つても、同じ事ゆへ、向ふの亭主に聞いたれば、くさつて、なま焼けゆへ十里でござります」「ハテ」「食ふたび、五り五りいたします」。 (天保三年刊『七宝はなし』)
さつまいも(甘藷)は中国で蕃薯、琉球で唐芋、鹿児島で琉球薯と呼び、全国的には薩摩芋と呼ばれる。福岡、長崎ではパチリ、ハッチャンというが、八里、八里半の訛語で九里(栗)に近いとの謙遜である。関東は自慢顔で「九里よりうまい十三里半」から十里芋と呼んでいる。洪水などで不良となった水いものことをゴリゴリ(五里五里)とけなしているが、いずれもさつまいもに尊敬と感謝の念を示したものである。
さつまいもを郷里に持ち帰るまでの人々の苦心は、国の内外をとわず生死を賭したものであった。中国では1594年、陳振竜が呂宋(ルソン)から導入し、弟の経倫が中国全域に広めた。琉球の野国総管が福建省から入れたのは慶長十年(1605)、それを栽培したのは儀間真常である。
薩摩国揖宿郡山川町の漁夫・前田利右衛門が、宝永二年(1705)琉球から鉢植えにして持ち帰ってから領内に普及し、藩は他領に出すことを禁じ、国禁さくもつとなった。このため他領の者は薩摩から盗み出すことに苦心した。その一人に伊予国大三島瀬戸村の下見(あさみ)吉十郎がある。
吉十郎は三十八歳のとき、六部に身をやつして全国を巡礼、正徳元年(1711)十一月、伊集院村の百姓・土兵衛の家に泊まり晩飯にさつまいもを出されて感激した。分与を頼んだが、国禁のためと拒否され,仕方なくひそかに盗み出し、苦難のすえ薩摩領を脱出、故郷に帰った。翌春苗を作り、家人に教え、さつまいもの栽培を奨励した。これが大三島から瀬戸内各島に栽培され、享保十七年(1732)、伊予国の大飢饉に数千人の餓死者を出したときでも、島では餓死者を出さなかった。人々は吉十郎を甘藷地蔵に祀った。
京都富野荘の利兵衛は硫黄島に流刑されたが、将軍・吉宗の御代始めの宣下によって享保元年(1716)恩赦されて帰国するとき、さつまいもを持ち帰り、長池で試作、好成績をあげて山城国全域に広まった。村々はその徳をたたえて甘藷翁、芋宗匠と呼び碑を建立して祀った。
さつまいもは青木昆陽というほど江戸で有名。これは幕府の命により役人・昆陽が、享保二十年(1735)『甘藷考』を書き、薩摩から種いもを取り寄せて小石川薬園に試作、下総馬加村(千葉市幕張)上総不動堂で作らせたので有名となった。昆陽は甘藷先生とあがめられて目黒に碑が建立され、これ以来各地に栽培が普及した。
また、この栽培には婦人たちの活躍がある。肥前樺島の深堀いちは安政六年(1859)「源氏いも」を、埼玉県針ヶ谷の山田いちは明治三十九年有名な「紅赤」を作り出し、全関東に栽培された。とくに東京の市場をにぎわし、都会の婦人に喜ばれた。
食料不足を補う時代には、
十月の朝日目出度し芋の粥 月斗
であったが、最近は婦人専用ともいうべく、オフィス街、団地にまで焼芋屋は進出している。
焼芋屋仲々蓋を開けぬなり 雲雀
(1)「川越いも」の代表、紅赤
埼玉県南部にある川越市・堀兼村・所沢町・大井村・三芳村などの関東ローム層が厚く堆積している武蔵野台地に定着し、産地化したのが川越いもである。
これは江戸時代、川越藩領の川越地方で産するおいしいいもということで、「川越いも」という名がついたようである。その歴史はおよそ200年以上も前にさかのぼる。明治時代までは川越いもといえば青づる、赤づるの二種類であったが、明治31年浦和の山田いちさんが「紅赤」を発見すると、川越地方でいち早くとり入れ、川越いもといえば「紅赤」、別名「金時」をさすまでになっている。
この紅赤は、北足立郡浦和町針ヶ谷の山田いちさんが自分の畑で栽培していた「八つ房」種からの突然変異による鮮紅色の美しい株を発見、その一本を試食したところ、肉質が黄色で粉質でほくほくしておいしいものだった。そこでその株のいもを大切に貯蔵し、種いもとして翌年に継ぎ、この世に紅赤種が誕生したのである。もしこの発見者がおいしいからといってその株のいもを全部食べてしまえば、紅赤種の育成はなかったのである。
(2)川越いもの由来
『蕃薯考』で有名な甘藷先生・青木昆陽が、江戸・小石川の養生所でさつまいもの試作に成功したのは享保二十年(1735)であった。川越地方にさつまいもが入ったのは昆陽の試作後で、やせ地で夏の日照りに耐える作物としてとり入れられ、救荒作物として、また水田がなく米のとれない畑作地帯の自給作物として根をおろした。赤土の土壌に適していたことから、川越いもはやがてその品質と味が優れていることが知られ、商品作物として発展した。
この川越いもの由来について、南永井村(所沢市)の吉田家に伝わる古文書にあらまし次のように記されている。
「寛永四年(1751)二月二十八日に幕府の許しを受け、江戸木挽町の川内屋八郎兵衛さんの世話で上総国(千葉県)志井津村の長十郎さんの家へ吉田家の弥右衛門さんが行き、さつまいも二〇〇貫を五〇〇文で買い、九日目に帰ってきた」
この文中に出ている志井津村はその昔は大岡越前守忠相の領地であり、忠相に認められて幕府に仕えていた青木昆陽が甘藷を試作した地であるといわれている。
そこの種いもが南永井村に入り、この地の風土に合うとともに、人々の工夫によってよいものに育てられ、この地方一帯に栽培されるようになった。そして生れたさつまいもは、当時政治経済の中心であった川越に集荷され、江戸をはじめ各地へ売り出され、「川越いも」の名で全国に知られるようになったのである。
(3)甘藷栽培法を確立した農民
明治時代のさつまいもの先生といわれ、『実験甘藷栽培法』を世に出した農民、赤沢仁兵衛は、天保八年(1837)、今福村(川越市)に生まれ、慶応元年(1865)、赤沢家の婿養子となった。当時の赤沢家は大きな借金をかかえていたため、当時最も有利な商品作物のさつまいもづくりで借金を返そうと考え、仁兵衛は結婚した翌年からさつまいも増収栽培の研究に没頭し、明治初年にはその基本的方法を確立した。後の赤沢式といわれた栽培法がそれで、従来の二倍から数倍の増収をはかった。やがて郡役所の注目するところとなり、明治四十三年、それらの方法をまとめた『赤沢仁兵衛・実験甘藷栽培法』を発行し、いっそうの普及をはかった。
その栽培法の要点は、よい苗をいかに多くとるかの育苗法の研究と、高うね栽培法、堆肥と米ぬか、灰を使った施肥法の確立であった。
(4)江戸の人気を集めた焼きいも屋
江戸に焼きいも屋が現われたのは、昆陽の試作後六〇年たった寛政のころだったといわれる。それはよほど江戸っ子の好みに合ったためか、たちまち焼きいも屋のない町はないほどになった。この爆発的な人気にのって、江戸周辺に焼きいも用のさつまいもをつくる村々が現われた。そうした村は千葉と川越周辺に多かったが、とりわけ川越産のものは質・量ともに優れていた。そのため「本場もの」として評価されるようになり、諸国名物番付の中にも「さつまいもは川越」となっている。
明治維新で江戸が東京になっても焼きいも屋は繁盛し、全盛期に入った。この焼きいも用の川越いもは、新河岸川の舟運で東京へ運ばれ、下町の甘藷問屋から各焼きいも屋へ渡っていった。当時の焼きいも屋は、だんご屋などと並んで店を構えていたようである。土で固めたかまどを使い、薪を燃していもを蒸し焼きにした。その焼きいも屋が衰えだすのは、関東大震災以降のことである。
(5)さつまいもと農家の暮らし
昭和に入り、農村は不況の波を受け、農家の暮らしは厳しくなった。とくに畑作地帯では米は陸稲にたより、日照りの年には収穫皆無のことさえあるので、さつまいもはきわめて貴重な収入源であり、また食べものとなった。
さつまいもは、春の彼岸ごろ山林の落ち葉を熱源としたさつま床に種いもを伏せこみ、萌芽した苗が七、八寸に伸びたものをていねいに抜きとり、五月、麦の間に植え付ける。そして秋の十月中旬から掘りとりがはじまるが、霜が降り日も短くなるころなので、朝日がのぼるのを待って家中総出でさつま掘りをする。
こうして収穫したさたまいもは、自家消費の分は穴蔵に貯蔵し、販売用はさつま買い(仲買商人)に正味一二貫のかますや俵に詰めて売る。さつま買いは「川越いも」の名札をつけて最寄の鉄道駅まで運び、そこから関西や東京、東北方面へ出荷される。
昭和初期の統計では一反歩の収量は三二〇貫ていど、「紅赤」「おいらん」などが主力品種である。さつまいもの用途別では、いものままでの食用が七五パーセントで最も多く、以下飼料、種子、澱粉、焼酎などに使われている。
さつまいもの相場は一俵が約一円で、軽い土の畑でとれたいもは品質がよく、重い土の畑のいもより一割前後の価格の開きがあるといわれる。
また昭和九年ごろから、県外へ出す貨車積みの俵については移出検査が実施されるようになった。その理由は、他県との販売競争が激しくなり、「紅赤」という銘柄なのにほかの品種が混じったり、規格外のものが入ったりし、購入者から苦情が出るなどしたので、品質保持をはかって販売を安定させるためである。
さつまいもは、夏の安定作物として、まさにこの川越地方の畑作農家の生活に切っても切れない深いかかわりをもっている。
(6)さつまいもの利用と料理
一般的な農家の食事は麦飯主体で、さつまいもは基本食の補いとして、また間食として、日々の食生活に欠かせないものになっている。ふかしいも、さつまだんご、麦飯にいもを炊きこんだいもごはん、乾燥いもなどに利用されている。また、紅赤などの粉質のいもは、てんぷらにするとおいしい。
いも菓子 焼きいものほか、さつまいもを原料とした菓子には、いもせんべいや栗きんとん、いも納豆などがあり、いずれも川越の菓子屋でつくられている。このうちいもせんべいは、いもを薄い輪切りにして鉄板の上で焼き、砂糖をまぶして仕上げる。いも納豆は小さいいもを三分くらいの厚さに切り、煮て砂糖をしみこませてつくる。
ふかしいも
大きな釜やせいろでたくさんふかし、そのまま皮をむいて食べる。また、ふかしいもをいろりや焚き火のまわりでこんがり焼いて食べると、焼きいものようにいっそうおいしくなる。
ごはんの補いとしても間食としても、最も簡単にいつでもどこでも食べられるので、一番多く利用される食べ方である。
ふかしいもには、おいらんがよい。
さつまだんご
さつまだんごは、さつまいものいわば保存食利用の一つである。
秋の収穫時から冬にかけて、さつまいもを薄く切って天日で乾燥し、それを立臼で粗砕きし、石臼でひいて粉にする。この粉を水で練って片手で楕円形に丸め、蒸す。ゆでる場合もある。温かいうちに砂糖醤油やきな粉をつけて食べるが、冷めたら焼いて食べる。
春から初夏のころ、麦刈りや茶摘みのお茶うけとして利用する。
乾燥いも
乾燥いもは蒸したさつまいもの保存食である。売りものにならないくずいもをおもに利用する。品種は太白などの粘質のものがよく、紅赤のように粉質のものは不向きである。
さつまいもを丸のままやわらかくなるまで蒸し、冷たくなったら包丁で三分くらいの厚さに切る。秋から冬の天気のよい時期に天日で干す。ニ、三日干したあとは日陰につるし、干し柿と同じくらいの固さになるまで干す。箱にわらを敷いてそれを並べて保存し、一か月ぐらいで白い粉が吹くようになればできあがり。
(参考文献 川越いも友の会編「川越いも入門百科シリーズ」)