川越のさつまいも(3)

川越のさつまいもに関する本(その3)です

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日本甘藷栽培史ものと人間の文化史90 さつまいも川越の文化財91川越とサツマイモ川越市今福の沿革史

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「日本甘藷栽培史」 中馬克己 高城書房 2002年  ★★
第2章 江戸時代/8.東海及び関東地方の甘藷栽培/(2).品種
  (前略)
 埼玉地方への導入は、宝暦元年(1751)に入間郡南長井(ママ)村(現、所沢市)の名主吉田弥右衛門が、その息子弥左衛門を江戸の川内屋八郎兵衛の仲介により、上総国志井津新田(現、千葉県市原市)の長十郎方へつかわし、甘藷二百個を五百文で買い求め、9日間を要して南長井村へ帰ってきた。これが始まりであるという。この入間地方の藷は川越に集まり、市で売られ、やがて「川越いも」と呼ばれていくことになる。このようにして、江戸市中で甘藷の需要が高まり、多くの村で栽培されるようになった。その栽培地は、現在の鴻巣市、北本市、桶川市、伊那町、上尾市、大宮市にわたる広い地域まで広がっていた。(江戸時代人づくり風土記J埼玉)
 品種については、県史や市町史などに何らの記載もなかった。しかし、導入先の千葉地方と同じであった事は間違いない。
   (後略)
第5章 昭和初期から終戦(昭.20)時代/10.東海及び関東地方の甘藷栽培/(8).利用及び食生活
   (前略)
 終りに『川越いも』について説明する。武蔵野台地の真中にある南長井(ママ)村(現所沢市)の名主吉田弥右衛門が、寛延4年(宝暦元年1751)に甘藷を導入し近隣に伝えた。そして武蔵野台地に甘藷栽培が盛んになった。江戸に焼藷屋が現れたのは、寛政(1789〜1801)の頃といわれ、江戸っ子の好みに合ったのか、たちまち焼藷屋のない町はないほどになった。川越から新河岸川の舟便で、容易に江戸へ大量に送り込まれた川越いもは、この焼藷屋向けの藷だったのである。つまり、川越いもは江戸向けの商品作物として発展してきたのであった。武蔵野台地で作られる川越地方の甘藷は、他のどこにも負けないすばらしい藷として、江戸の誰からも愛されてきた。明治時代の川越いもは、赤づる、青づると呼ばれる2種類であった。
 ところが、明治31年(1893)に浦和の『山田いち』という人が、自分のいも畑で突然変異した鮮紅色の美しい皮肌の藷を発見した。これが『紅赤』と名付けられ、商品名『金時いも』と呼ばれて川越いもをさらに有名にしたのである。この名声が明治・大正・昭和と続き現在に至っている。しかし、焼藷屋の全盛期は明治時代で終わった。なお、最近の品種は紅赤と高系14号が中心である。現在は『川越いも栽培研究会』、『川越いも友の会』(昭.59.発足)などが結成されて、川越いもの名声をやっと維持しようとしている状態である。(井上浩『川越いもミニ歴史』)

ものと人間の文化史90 さつまいも」 坂井健吉 法政大学出版局 1999年  ★★
U サツマイモの伝播/三 わが国への伝播
   (前略)
 海上ルートではないが、いま一つ有名な話は川越イモ≠ナある。後述の紅赤≠ニいう品種は在来種八房≠フ芽条変異体で、発見の場所は埼玉県北足立郡木崎村(現在の浦和市針ケ谷)である。このイモが川越イモの代表品種として今日まで続いているが、八房は青木昆陽が薩摩から移入して、小石川で作ったイモの原形に最も近いものであるといわれている。ともあれこれを入れたのは、埼玉県入間郡柳瀬村南永井の旧名主、吉田憲吉氏の家の寛延四年(1751)の古文書によると、名主の弥右衛門が弥左衛門という人を上総(千葉県)まで遣わして、種イモを求めてこさせて栽培し、それが近隣に広がったとする説と、もう一説は埼玉県南埼玉郡久喜町(現在の久喜市)附近のサツマイモで、これは享和元年(1801)、代官として赴任した早川正紀が作らせたものであり、そのためこの地方では正紀のことを芋代官≠ニ称し、八条村大径寺に行実(こうじつ)碑(その人が実際に行なったことがらを記述した碑)を建ててその徳を慕ったものである。いずれが川越イモの元祖か分からないが、同じ入間郡三芳町上富はサツマイモ栽培に最も適した土地で、品質も最高の川越イモの産地であったとされている。
 以上、1605年に琉球に伝来して以来100年かかって1705年に薩摩に伝わり、そこを拠点にして北上し、160年余りかかって1871年に岩手県に伝わるまでの長丁場の概要を述べた。これをまとめれば前頁の表(下表)のようになる。しばしばみられたように、サツマイモはたんに救荒作物としてのみでなく、当時の貧困な畑作農民を救済する新作物としても各地に導入された。このような観点からみれば、まだまだ全国には隠れたエピソードがたくさんあることを付け加えておきたい。

     サツマイモの伝播年表

年  号導入関係者伝来地備考
1492コロンブススペイン新大陸からイサベラ女王へ
1570陳振竜(中国人)中国(南部ビン州)
ビン(門の中に虫)
ルソン(フィリピン)から
1597(慶長2)年長真氏砂川旨屋宮古島中国から
1605(慶長10)年野国総管沖縄(琉球)□(ビン、福建省)から
1609(慶長14)年島津家久鹿児島(薩摩)琉球から(琉球出兵)
1613(慶長18)年ポルトガル人鹿児島(坊津)ルソン(フィリピン)から
1615(元和元)年ウイリアム・アダムズ長崎(平戸)琉球から
1615(元和元)年頃鼎山和尚和歌山(紀伊)薩摩から紀州大辺路へ
1623(元和9)年以前鹿児島(奄美大島)琉球から
1692(元禄5)年江島為信愛媛(伊予)宮崎(日向)から
1698(元禄11)年種子島久基鹿児島(種子島)琉球王から
1705(宝永2)年前田利右衛門鹿児島(山川)琉球から漁船で
1713(正徳3)年下見吉十郎瀬戸内(大三島)薩摩(伊集院)から
1715(正徳5)年原田三郎右衛門長崎(対馬)薩摩から
1716(享保元)年島利兵衛京都薩摩(硫黄島)から
1733(享保18)年井戸正明島根(大森)薩摩から
1734(享保19)年青木昆陽東京(江戸)薩摩から
1735(享保20)年青木昆陽千葉(幕張、九十九里)江戸から
1735(享保20)年頃カツオ船高知(土佐)薩摩から
1751(寛延4)年吉田弥右衛門埼玉(川越)千葉(上総)から
1757(宝暦7)年長浜平吉鹿児島(十島村)琉球から
1766(明和3)年大沢権右衛門静岡(御前崎)薩摩の難破船から
1825(文政8)年川村幸八宮城千葉(下総)から
1834(天保5)年頃関沢六左衛門北陸(加賀)薩摩から
1856(安政3)年田中宮門山形新潟から
1865(慶応元)年漁夫長崎(五島)薩摩(沖の島)から
1868(明治元)年松木五郎滋賀(伊吹)愛知から
1870(明治3)年頃吉田信敬岩手関東から
W サツマイモの品種改良/一 民間育種による優良品種の育成
   (前略)
 品種のできてきた経緯については、明治以前のことはほとんど不明であるが、明治の中頃からは比較的明らかになっている。これは明治二十六年(1893)に国立の農事試験場が創設されたのを皮切りに、各府県の農事試験場が逐時設立され、各地の農業の実態を調査して記録をとどめたためである。以下、明治の中頃から大正初めにかけて、主として民間育種によって育成された優良品種を紹介しよう。
 何といってもこの時期の代表的な品種は紅赤(べにあか)≠ナある。紅赤は青木昆陽が薩摩から関東へもたらした「アカイモ」(リュウキュウイモ)と呼ばれていた伝来品種「八房(はちふさ)」の芽条変異であるが、この八房も昆陽の入れたアカイモそのものではなく、アカイモからでた芽条変異であったといわれている。明治三十一年(1898)当時の埼玉県北足立郡木崎村大字針ケ谷(現浦和市針ケ谷)と呼んだ丘の多い村で、そこの畳屋さんであった山田啓太郎氏の妻イチさんが、自作のイモ畑から八房の収穫をしていたところ、皮色が常に見ない鮮紅色の形状の美しい一株を発見したので、これを食べずに貯蔵しておき、翌年その全部を種イモとして作ったところ、はたして種イモにも勝る鮮やかな紅色のイモを収穫することができ、味も形も申し分のないものであった。試しにこれを市場に出荷したところ大好評で川越イモ≠フ名声を著しく高めた。そこでこのイモを紅赤≠ニ呼んで、種イモを求めてくる人々に分譲したところ、年々作る人が増え一時は埼玉県下の七割がこの紅赤で占められたといわれる。
 紅赤は金時(きんとき)≠ニも呼ばれ、後に東京や神奈川、千葉、茨城など関東一円はおろか、東山・東海地方にまでも広がっていった。東京の金時=A神奈川の高座赤(こうざあか)=A千葉の千葉赤≠るいは大正赤=A茨城の茨城赤=A山梨の甲府赤≠ネど、ほとんどは紅赤≠ゥその芽条変異であったといわれる。その後紅赤≠ヘますます普及し、品種別統計の出た昭和十年には、関東北方のサツマイモの全作付け面積6万5000ヘクタールの四割、2万6000ヘクタール、東海・東山地方を入れると約3万ヘクタールにも普及し、青果用として市場を風靡し、外観、品質の優秀性を誇った。紅赤は現在でも関東地方を中心に広く作られている品種で、民間育種のヒットでありロングセラーでもある。
   (後略)
 二 組織的な育種による優良品種の育成
   (前略)
 委託試験の開始された大正八年(1919)には、さっそくサツマイモの自家受粉による種子をとるための材料として、国立農事試験場から九月に川越種≠フツルが、十一月にはその種イモが沖縄に送付された。翌九年にこの材料について自家受粉を行なったが、492花中、結実したものは1花もなかった。結実しない原因が花粉媒介の不適確によると思われたので、その後も二年間同様の試験が慎重に繰り返されたが結実せず、ついに川越種≠ヘ自家受粉によっては種子がとれないことがわかった。大正十三年(1924)の自家受粉では、他の五品種について行なったが2685花を交配して、僅か97粒の種子しかとれていない。またこの年の異品種間交配では、1803花で758粒の種子がとれているが、なかには異品種間でも全然種子のとれないものがあった。
   (後略)
 六 主な品種
E 紅赤
 明治三十一年、埼玉県の山田イチ氏が、八房の中から見いだした芽条変異系統である。一般には金時の名前で呼ばれているが、埼玉県では「川越イモ」の別名があるほど、川越地方のサツマイモの評判を高めた有名な品種である。近県の千葉、神奈川、東京、茨城の各県で、それぞれ千葉赤、大正赤、高座赤、茨城赤などの名称で栽培が増え、一時は3万6000ヘクタールに及び、西の源氏に対し、東の重要品種となった。形態的には最も古い形のもので、青木昆陽時代のおもかげを残す唯一の品種とみられる。
 戦中・戦後は食糧増産品種のかげにかくれ、一時作付けは急減したが、その後再び市場販売用として増加し、埼玉・千葉両県を中心に特産地を形成し、東京市場で銘柄イモとして復活した。しかし、最近はベニアズマの普及により栽培面積が減少している。
 イモは長紡錘形で揃いがよい。皮色は紫紅で美しく、肉色は黄色で粉質、口当たりがよく味もよいので、「きんとん」や「あん」の材料としても使われる。萌芽および伸長は中程度、ツルは長く伸長する。晩植適応性や耐肥性はきわめて低く、土壌に対する適応性も小さく栽培の困難な品種である。その適地は土の軽い関東洪積台地である。イモの肥大をよくするためには疎植がよい。耐病虫性は小さく、貯蔵が困難で、貯蔵後の品質低下がいちじるしい。
X サツマイモの栽培法/一 種イモの選定と準備
 青果用
   (前略)
 外観と食味には、畑を選ぶことが最も大切で、青果用サツマイモの主産地、千葉県下総台地の古老は、ムギがきれいに熟れ上がる畑が最もよいという。このような畑は土壌の物理的・化学的性質がサツマイモ作りに適しているのであろうが、これを人工的に作り上げてきたのが、埼玉県入間郡三芳町の上富、所沢市の中富、下富にまたがる三富新田にある紅赤の里≠ナある。
 この辺りは武蔵野の平地林が今も残っており、サツマイモの収穫が終わると八本(はちほん)≠ニいう大きな竹籠(落葉を踏み固めて一杯入れると約75キロ入る)に、何杯となく落葉を集めて堆積し、灌水と切り替えしを繰り返しながら完熟腐葉土として、これを大量に畑に入れている。これはここに入植した祖先が、300年も前から続けてきた土作り≠フ方法であり、さらに軽鬆(けいそう)(軽くて質のあらいこと)な関東ローム(火山灰土)を風蝕から守るために、畑の周縁に灌木を植え、かつては麦を作ったが現在はサツマイモの収穫が終わり次第、エンバクなどを播いて五月に緑肥としてすき込む方法がとられている。この土で幅1メートル、高さ60センチくらいの畝を作って紅赤を植えるのであるが、畝に手をつっこむと、何の抵抗もなくスッと肩口まで入るのには感心させられる。さすが川越イモ≠フ本場の畑作りである。
 川越イモはサツマイモの中では最も作りにくい紅赤を用いて、光沢のある赤紅色で超長紡錘形(長さが24〜25センチ、直径が4〜5センチ)、さらに食味も最高のものを作り上げてきたが、このためには反当たり(10アール当たり)収量を300貫(約1トン)に抑えることが必要である。
 四 本圃の準備と植え付け
   (前略)
 関東地方では紅赤の里≠ナも述べたように、土壌が軽鬆(けいそう)で冬期の風蝕が激しい。このためムギを作って風蝕を防止したが、裸(はだか)麦やビール麦でも熟期が五月下旬、コムギになると熟期が六月上旬となる。ムギを収穫してサツマイモを植えたのでは、晩植で減収する。そこでムギ刈りの10日ないし二週間前に、麦の間に畝を立てて植える麦間挿苗が発達した。麦間挿苗は植え付け時期を早くするばかりでなく、麦間の日陰と湿気により苗の活着をよくし、夜間の保温効果により初期生育を良好にするなど、一石二鳥の効果があった。
   (後略)
Z サツマイモの利用/二 主食代替として
   (前略)
 『蕃薯考』以上に、サツマイモの食べ方で、昔からよく知られている料理法の書物は『甘藷百珍(いもひゃくちん)で、寛政元年(1789)に大阪の珍古楼(ちんころう)主人が著したとされるものである。この書物のことはNHKの番組「ためしてガッテン」でも一部紹介されたが、当時はやっていたサツマイモの料理やアイデア料理のすべてを記載したものと思われる。その数は123種類にも達しているが、これを奇品(きひん)、尋常品(じんじょうひん)、妙品(みょうひん)、絶品(ぜっぴん)の4種類に分けている。これは現在からみても驚くべきことで、食べ方に関してこれほどの創意工夫がこらされたことは、当時のサツマイモの人気をあまねく現わしたものであり、まさに食文化の頂点を極めたものであると思われるので、その中の一部を前記鹿児島県農政課の資料により紹介しよう。
○奇品とは少し変わったアイデア料理で、かまぼこ(肉食に羊)いも、玳瑁環(ちくわかまぼこ)いも、紫菜巻(のりまき)いも、昆布巻(こんぶまき)いもなど63品があげられている。その中の一つ御手洗(みたらし)いも≠ニいうのは生のサツマイモをすりおろして、それに小麦粉を少し入れてかきまぜ、ソバやうどんを作る時の餅状の塊とし、それをキンカンほどの大きさに切って丸めて団子状とし、青竹でつくった串に刺して砂糖や醤油をつけながら焼くというものである。
○尋常品とは当時の一般的なサツマイモの料理で、蒸(むし)いも、醢漬(もろみづけ)いも、藷精(いものじん)、飛龍頭(ひりょうず)いもなど21品があげられている。その中の煎餅(せんべい)いも≠ニいうのは、サツマイモを3ミリくらいに切り、2〜3日天日干しをして、遠火でむらなく焼くか、または油で揚げるものであるが、現在ではこれを糖衣で覆ったものが販売されている。糟蔵(かすづけ)いも≠ニいうのはサツマイモを適当な大きさに切り、ぬかみそに一晩漬け、取り出して酒粕に漬けなおすものである。いも雑炊(ぞうすい)≠ニいうのはサツマイモのすりおろしたものを、ご飯のよく煮た中へ入れるとなっているが、これは粥(かゆ)状になって沸騰している中へ入れるということであろう。青菜を刻んで入れるとよく、また焼きイモを篩(ふるい)で裏ごしして入れてもよいとしている。
○妙品とは味や見た目の両方ともすぐれているもので、水前寺巻(すいぜんじまき)いも、巻氈(けんちん)いも、加須底羅(かすてら)いも、片食(べんしん)いもなど28品があげられている。加須底羅いも≠ニいうのはサツマイモをすりおろして藷精 (いもじん)(イモでんぷん)を少し混ぜ合わせ、その中へ鶏卵・砂糖を等分に入れ、焼き鍋で上下を焼き、最後に芥子(けし)をふるとなっている。羊羹(ようかん)いも≠ニいうのは藷精一合、あずきの粉一合半、砂糖蜜三合を混ぜ合わせ、裏ごしをして鍋で煮て練り上げる。それを重箱に入れて冷やして切る。白あずきを使うと白羊羹いもになるとしている。
○絶品とはサツマイモの究極の料理ということで、田楽(でんがく)いも、ハンペンいも、南禅寺仕立(なんぜんじしたて)いも、樺焼(かばやき)いもなど11品があげられている。田楽いも≠ヘサツマイモをすりおろし、薄板の箱に入れてそれごと蒸す。蒸し上がったら適当な大きさに切って、串に刺し味噌をつけ火にあぶって焼く。味噌は木の芽味噌、山椒味噌、わさび味噌など好みのものをつけて食べるとなっている。
 原文はなかなか読みづらいが、当時の常識的な料理であった5品を除いて、123品全部について調理法が書かれている。最もよく使われる料理(加工法)は「色付いも」と「藷精」である。色付いもというのはサツマイモを裏ごししたものに着色する方法で、赤は紅花から作った染料、青は青菜を乾燥させて粉にしたもの、黒は鍋底の墨、紫は紅花に青菜を混ぜて作り、黄はくちなしの実、そして白は藷精で、それぞれ色分けし、見た目を美しくしてから料理に用いている。しばしば出てくる藷精はサツマイモのでんぷんのことで、生イモを大根おろしでおろし、布袋か細かい目の篩に入れてバケツか水槽の水の中でこすとでんぷんだけ下に沈殿する。一昼夜おいて上ずみの水を捨て、再度布袋か篩でこし、沈殿したでんぷんを天日乾燥して粉末状にしたものが藷精であり、保存して必要な時に用いたものである。文中では上質の吉野葛(くず)にも勝ると賞賛し、ほかのイモ料理の素材としても多く使われている。
 調理器具や調味料などは現在と比べると単純で簡単なものだったのだろうが、当時の人々の発想の豊かさや創意工夫には、ただ脱帽するばかりである。サツマイモが古くから食生活を豊かにする優れた食べ物であるとともに、食文化の幅を広げる食材であることが如実に感じられる珍本である。
   (後略)
 三 副食、菓子など一次加工品として
   (前略)
 お菓子の類で昔からあるものは、イモ餡、イモ羊羹、イモ煎餅、イモかりんとう、イモ納豆、蒸切干イモなどである。「イモ餡」は粉質イモをやや厚めに皮をとり、蒸して砂糖を加えて練ったものであるが、上等のものは裏ごしをかける。豆類からできる餡と混ぜて各種の製菓材料となる。「イモ羊羹」の製法は餡と同様だが、腐敗防止のため砂糖を多めにして、ゼラチンや寒天を加えて固まらせたものである。
 イモ餡は東京の浅草に専門の問屋があって、原料のイモは埼玉県の川越で作られた紅赤≠ニ契約栽培が行なわれていたが、現在はなくなっている。イモ羊羹も同じく浅草にあったが、今はなく、わずかに東京の千住に一軒の専門店が残っている。毎年、東京目黒の不動尊境内で行なわれる、青木昆陽の命日の法要には甘藷まつりがあり、イモ羊羹が必ず出されたものである。
 「イモ煎餅」は埼玉県のJR高崎線の北本駅前の売店でよくみられるもので、イモをごく薄く輪切りにして焼き、砂糖を粉衣したものである。「イモかりんとう」はイモをやや太めに千切りとし、油で揚げて砂糖を粉衣したもので、かつては愛媛県岩城島の銘産であったが、昨今では細切りにしたものやイモ粉から作ったものがスーパーマーケットなどに並んでいる。「イモ納豆」はイモの厚皮をとり4〜5ミリの厚さに輪切りにして、水飴や砂糖で煮つめ、さらに砂糖を粉衣したものである。時々スーパーマーケットで見られる。
   (後略)
[ サツマイモにまつわる逸話/一 八里半と十三里
 この言葉は焼きイモ≠フ看板であり、語源は江戸と川越(昔は小江戸と呼ばれた)の距離をもじって「栗(九里)より(四里)うまい十三里」ということである。以下は鹿児島県農政部流通園芸課の資料による。
 一八世紀、江戸の市場に初めてサツマイモが登場した頃は、大変珍品であった。贈答品にもなったというが、見慣れないため、毒が入っているとうわさされたともいう。しかしすぐさま庶民の味となり、夏には扇子、風鈴、金魚、白玉水、スイカなど涼を誘うものを売り、冬は蒸(ふ)かしイモを売る店が現われはじめた。
 一八世紀も末になって寛政の頃、サツマイモの商売に一つの革命が起きたが、それが焼きイモの登場であった。サツマイモは高温でゆっくりと焼くと甘さを増す。その特徴を生かした焼きイモが、女性と子供を中心に圧倒的な支持を得た。
 江戸八百八町、その一つ一つの町で焼きイモ屋のない町はないと言われるほど盛んになったが、その中心になったのは番太郎と呼ばれる人たちであった。江戸時代、各町の出入口には木戸があり、夜は閉めて人を入れなかった。その木戸を管理するのが番太郎で、木戸近くの番戸(番屋)に住み、町の雑用をこなしていた。その番太郎たちが焼きイモの内職を始めたということである。八百八町(寛政年代には1668町あった)すべての番戸が焼きイモを手がけ、四〜五個の焼きがまを持つ専門店もでき、まさに江戸の町々に焼きイモの一大チェーンが展開されたという。
 その目印は、最初は「八里半」とか「十三里」としゃれたものだったが、後に「○(まる)やき焼きイモ」が一般的になっていった。また、番戸の性格上、江戸で珍しく深夜営業を許された業種でもあった。
 明治維新になって番戸制度はなくなったが、焼きイモの人気は衰えなかった。焼きがま一つあればすぐできる商売で、おかみさんたちの恰好の内職となった。しかし、火を扱う商売がら、火事騒ぎもいくつかあって、明治二十四年に甘藷焼場規則、同二十六年に甘藷焼場改造の布令が出て、一定の焼場面積と煙突のついた改良焼場が義務づけられ、手軽な内職というわけにはいかなくなった。それでも、明治三十年代には東京で70軒のイモ問屋、830軒の小売店が年間60万俵のイモを扱い、庶民のファーストフードとしての位置を保ちつづけたという。
 また、明治十年代頃から氷の製造が盛んになり、漱石の『それから』に出てくるような「毎年夏の初めに、多くの焼きイモ屋が俄然として氷水屋に変化する」の言葉どおり、夏は氷水、冬は焼きイモという商売のパターンが生まれ、一世を風靡した。しかし大正十二年(1923)九月一日の関東大震災により、これらの店屋はことごとく灰燼(かいじん)に帰したという。焼きイモは、その後も路上で売る石焼きイモとして、人気を保ちつづけているものの、一九世紀における日本の庶民の暮らしを彩った、サツマイモの栄華な日々は遠くなってしまった。

「川越の文化財 第91号 川越市文化財保護協会 2005年9月 ★★★
 サツマイモが川越にきた道と川越のいも文化
はじめに
一 原産地は熱帯アメリカ
二 野国總管と儀間真常
三 薩摩の国のサツマイモ事情
四 関東への伝来
五 商品作物になった川越いも
六 川越のいも文化
『赤沢仁兵衛実験甘藷栽培法』
いも菓子の元祖、いもせんべい
いも掘り観光農園の先進地
平成の川越はいも菓子、いも料理の町
サツマイモ資料館誕生の背景

第45回企画展 川越とサツマイモ」 川越市立博物館 2018年 ★★★
特別寄稿 川越のサツマイモが有名になるまで
   小江戸川越観光親善大使・日本いも類研究会顧問 井上浩
 はじめに/わが国のサツマイモの元祖/九州の農家から出た「八里」と「八里半」/上方のサツマイモ/享保の大飢饉/川越いもの元祖/江戸の焼きいも屋/おわりに
序 サツマイモの伝来と青木昆陽の功績
 1野国總管甘藷伝来三百五十年記念切手、封筒/2青木昆陽肖像並墓碑銘拓本/3蕃薯考/4甘藷記/5贈正四位 青木昆陽先生伝
 青木昆陽関係史跡分布図
 1昆陽青木先生碑/2青木昆陽墓/3関東地方甘藷栽培発祥の地碑/4昆陽先生甘藷試作之地碑/5甘藷試作趾碑/6青木昆陽先生顕彰碑/7青木昆陽先生之碑/8甘藷先生頌徳碑/9昆陽神社
 碑文
 1昆陽青木先生碑(資料5による・明治45年)/2青木昆陽墓(享保20年)/3関東地方甘藷栽培発祥の地碑(昭和43年)/4昆陽先生甘藷試作之地碑(享保20年)/5甘藷試作趾碑/6青木昆陽先生顕彰碑(昭和43年)/7青木昆陽先生之碑(昭和4年)/8甘藷先生頌徳碑(昭和18年)
第1章 江戸の焼いも人気と川越いも
 @記された焼きいも、描かれた焼きいも
  コラム1 焼きいもの釜
 A川越いもの生産と広がり
  コラム2 紅赤関係資料
第2章 埼玉のサツマイモ作りの貢献者たち
 @川越いもの作り初め、吉田弥右衛門
 A現代に通じる甘藷栽培法を確立 赤沢仁兵衛
 B今年で120年、紅赤の発見者 山田いち
 C紅赤の普及に尽力、吉岡三喜蔵
第3章 川越、いも菓子の世界
 川越のいもせんべい調査/いもせんべい/いも菓子
第4章 川越のいも文化
 @サツマイモを活かした取り組み
  川越いも研究会/川越いも友の会/川越サツマイモ商品振興会/川越いも研究会(生産者)
 Aサツマイモ資料館収蔵品の数々
サツマイモ関連年表
展示資料一覧
サツマイモ関連資料
参考文献
資料の提供及び協力者一覧

「川越市今福の沿革史」 新井博 川越市今福菅原神社氏子会 1975年 ★★★
今福の功労者/赤沢仁兵衛
 天保八年(1837)十月十日大字今福七三九番地に、赤沢又助の三男として生まれた。慶応元年(1865)三月二十八歳のとき分家の赤沢家(大字今福七四七番地)の婿養子となった。赤沢家は宅地一反七歩(約11アール)畑五反歩(約50アール)山林三反五畝歩(35アール)の小農だったうえに、負債が八百円もあったためすべて抵当に入っていた。住んでいた家はとうとう兄の所有になってしまった。そこで彼は一念発起し、他人の世話にならず独力で借金を返済してさらに赤沢家を盛り立てようと決心した。いろいろ考えた末今福の土地はさつま芋の栽培に適しているため、さつま芋で家計を建て直そうとした。後年次のように語っている。「私ガ何故ニ斯ク甘藷ノ事ニ力ヲ入レタカト申シマスト御承知ノ通リ私ノ土地ハ武蔵野ノ原ノ開墾地ニテ、風ノ為メニ土ヲ吹キ飛バサレル様ナ瘠地デ、甘藷ノ外ニ適当ノ作物モ御座イマセン」から「一ツ甘藷デ頭ヲ挙ゲタイト思ヒ付キ、研究シテ見マスト中々面白イ物デ、年毎ニ成績ガ顕ハレテマイリマシテ、漸ク斯ンナ方法ニスレバ甘藷ノ作得ガアルト云フ事ガ分明リマシタ」。苗床の作り方、種子芋の選び方、苗の仕立て方、施肥の方法、苗の植え方等、栽培の全般にわたって昼夜を問わず食事の時間も惜しんで研究に没頭した。こうした努力の結果当時だれが栽培しても反当り(約十アール)三百貫(1200キロ)から四百貫(1600キロ)しか収穫できなかったものが、彼の畑からはどんな不作の年でも六百貫(2400キロ)以上の収穫があった。その結果どん底状態だった家計も徐々に持ち直すことができた。居宅を買い戻し、土蔵を新築したうえ負債も全額返済した。明治末年には宅地一反十七歩(約10アール)、畑二町一畝二十三歩(2.02ヘクタール)、山林七反三畝四歩(約73アール)を所有するまでになったのである。ところが彼の作るのがあまりに収穫量が多いために、ねたんだ者が明治四年(1871)「赤沢は他人のさつま芋を盗んできて、自分の栽培したものといっしょにして多量に収穫したといっている」と川越県役所へ讒訴した者があった。彼は同役所へ呼び出されて取調べを受けるはめになってしまった。妻の千代は非常に憤慨し「とんでもない言い掛りだ、お疑いならばどうぞうちの畑へきて生育状態から収穫量までいっさいを調べてください」と直訴した。さっそく川越県から役人の出役があって収穫量をつぶさに調査したところ、平年作でも他の者より二倍以上の収穫があり、さらに作付け反別と販売したさつま芋問屋の帳簿とを照らし合せてみると、すっかり一致し何ら疑うところが無かったので、直ちに釈放された。釈放されたばかりでなく川越県より「猶一層業務ニ勉励スベキ」という激励の言葉をもらった。やっと世間に認められたことを知って、自信をつけ自分の栽培法を「赤沢式甘藷栽培法」と名付けたのである。
 次に彼の栽培法をみてみよう。第一に種子芋は「其種類固有ノ性質ヲ備ヘテ健全無病デ、一節に二ツ並ンデ結ビタル、大キサ中等ノモノノミヲ種子用トシテ撰ミ、之レヲ別ニ貯ヘ置イテ翌年ノ種子ニ供ヘル」というものである。他の者は彼のように種子芋にはたいして注意を払わず屑いもを使用していたので養分が少なく、発芽が順調にいかなかったという。第二に苗床を作るとき、肌肥という堆積肥料と細土を混ぜたものを使い米糠、人糞尿、鰊のような養分のある肥料を使用しないことである。「何トナレバ、肥料ヲ多ク用ヒマシタナレバ苗ガ太く出来、節ガ長くナリマス。斯クナル苗ヲ以テ、多量ノ収穫ヲ得ヨウトスルハ、山ニ登リテ魚ヲ求メルト同理デアリマス。本畑ニ於テモ之レト同理、蔓ガ蒼々ト繁茂スル様デハ甘藷ノ収穫ハ少ナク、俗ニタコノ足ト称ヘマシテ海ニスムタコノ足ノ如クナルノデアリマス」。第三に苗床温度は華氏70度(摂氏21度)から75度(摂氏24度)で種子芋の伏込み時期は「彼岸十日前」即ち三月十日前が最適である。第四に苗を仕立てるとき、苗が四、五寸(約13―16センチ)に伸びてきたら、一番上にある馬鹿糠といわれる小麦のノゲ(芒)を、一寸(約3センチ)ぐらい残して取り去ってしまう。こうすると苗から無駄な根が張り出さず、太陽に直接あたるから伸びすぎず節数も多くなり自然苗が剛くなって丈夫な苗ができるわけである。したがってこの方法で仕立てた苗は、かなりひどい旱魃の年でも枯れることがなかったといわれている。第五に苗は八寸(約26センチ)ぐらい、節数十五、六節に育て、「小麦の花かけが終った前後四、五日間」即ち五月二十日――三十日が畑へ植えるのに適している。第六に植え方(さし方)は図(略)のように土を小山のように盛り上げて苗を一寸(約3センチ)出し、土の中は釣針形にして直立に植えるのである。図のように伸びた根が全部芋となって大きくなる。これに対して土の盛り方が悪かったり、在来のさし方のように横にして植えると蔓はよく伸びるがいわゆる「タコ根」と称する芋に成長しない細い根となってしまう。
 以上が赤沢式甘藷栽培法の骨子であるが、この他にも床熱の加減、蔓返しと蔓引き、肥料、耕耘、収穫、貯蔵法に至るまで詳細に述べられている。これらはすべて学校や講習所で教わったのではなく、自分の実験で完成させたものである。入間郡役所の農業技手秋田文蔵や福原村長新井玉三郎はこの栽培法に非常に注目し、単に一個人だけで持っているだけでは惜しい技術だとして、日本農業発展のためにも是非とも広く世の中に公開することをすすめた。彼も心よくこれを承知し明治四十三年(1910)二月二十八日福原小学校で講演し、初めて公開した。その中で彼は次のように言っている。自分の若いころ(江戸時代)では、新しい技術を開発しても秘密にしていて、なかなか他人に教えるということはしなかったが、「明治ノ聖代ニ生活シ、文明ノ発展を観マシテモ、自分独リノ宝トシマシテモ、七十ノ坂ヲ三ツ四ツモ超ヘタ今日デ御座イマスレバ、今後何ノ楽シミモナク、之ヲ地獄ヘ持ッテ参リマシテモ、仕方ガ御座イマセンカラ、寧ロ私ノ秘伝ヲ皆サンニ御教ヘ申シテ、国益ヲ計ルハ時勢ニ伴フ仕事ト思ヒマスカラ、皆サンモ其考ヘデ是非共私ノ方法ニヨリ、甘藷栽培ヲ改良スル覚悟デ御聞キ取リヲ願ヒマス」。
 もっとも彼はこれ以前にもうわさを聞いて教えを乞う者があれば、だれにでも教えまた自ら出向いていって苗床や畑で実地に指導し注意したりした。また教えた者にはその翌年の畔の長さ、収穫高、前年度収穫高、施肥の種類や量などをたえず報告させて、自分の栽培法が他の土地でどのような結果になっているか確かめたりしている。
 翌三月「赤沢仁兵衛実験甘藷栽培法」として一冊にまとめて出版した。入間郡長市川春太郎はとくに序文を寄せ、その中で本書は「種薯の選択より収穫の方法に至るまで、其用意の周到と其作業の巧妙と、一読拍子を禁ずる能はざるものあり。世の農業者之に就きて学ばば、蓋し思半ばに過るものあらん。余乏しきを此郡に承け、殖産興業の事は日夕腐心して措かざるところ、今此書を手にして快心に堪へざるものあり。若し夫れ地下の甘藷先生、之を知るあらば其喜果して如何ぞや」とたたえている。なおこの書は明治四十三年(1910)三月十五日初版以来、大正三年(1914)五月四日まで四版を重ねている。大正三年には内容を一新し、三月二十五日「赤沢式甘藷栽培改良秘伝書」として上梓し、これも二版を重ねた。明治四十四年(1911)三月「平素農事ニ奨励シ衆人ノ模範トスルニ足ル」として入間郡農会長(市川春太郎)より表彰され、木杯一組を授与されている。子供にも恵まれ長男の久松は薫焼土灰(薫炭)という肥料を新しく開発したり、明治四十四年(1911)一月十一日――大正二年(1913)一月二十七日福原村長も務めるなど、産業や村政に大いに貢献した。川越の名物いわゆる「芋掘り観光」が、今福字中台で初めて行なわれ現在でも盛んに行なわれているのは、赤沢父子の功績を考えれば決して偶然ではない。大正九年(1920)三月六日大勢の関係者に囲まれ、惜しまれつつ世を去った。享年八十四歳だった。昭和初年に彼の頌徳碑を建てることが、関係者の間ですすめられたが、戦争で残念ながら中止になったといわれている。

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作成:川越原人  更新:2018/11/19