川越大火


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寛永15年の大火
「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
第12章 歴史/事件・通史/寛永の川越大火
 榎本喜一宅(川越市内元町1−14)に残る「榎本弥左衛門覚書」(県指定)は、同家四代目の弥左衛門忠重が書残した覚書で、近世初期の地方町人の自伝的記録として知られている。文中、寛永一五年(1638)寅年の欄に、次のように記している。「一、拾四ツ之時、正月廿八日之朝、大北風ニ、風うへノ町こびき喜右衛門と申者火事を出シ、川越町城共ニ三ヶ一も焼、それら小仙波寺中やけ、丗町程先ノ大仙波村迄飛火二而焼候。(以下略)」。したがって、現在重要文化財として残る喜多院の建造物は、山門をのぞき、すべてこの火災後に江戸城より運ばれて来たものである。   (斎藤)

「川越の城下町 川越歴史新書1 岡村一郎 川越地方史研究会 1984年 ★★★
三.川越藩の成立と都市計画/川越大火と松平伊豆守


明治26年の大火
「埼玉の明治百年(下)」 毎日新聞社浦和支局編 1968年 ★★
 苦闘する県民/町の四割を焼いた川越の大火
 中心街をひとなめ
 冬のなごりをとどめた西北の風が激しく吹き抜ける明治二十六年(1893年)三月十七日夜。午後八時十五分、一瞬、風がとまったかにみえたとき、けたたましく半鐘がなった。「南町の養寿院の門前が火事だぞ!」「風が強い。気をつけろ」人々の騒ぐ間をぬって、町の消防夫は総出で走った。しかし、連日の晴天つづきで、各家の屋根板はカラカラ。風に乗って、火の勢いは落葉を焼くように広がった。南町養寿院門前の北横町、皆川某方から出た火は、本町、多賀町をなめ尽くして下松江町、連雀町へ。さらに志義町、鉄砲町、猪鼻町など計十七町を全焼、小仙波村や喜多町にまで飛び火した。
 アッという間に、火は土蔵と土蔵の間をぬって燃え広がった。焼け落ちた戸数は実に千三百二戸。同年一月の調査で川越町の戸数は三千三百十五だったから、四割近くが焼失したわけだ。
 しかも、そのほとんどが町の中心部。寺三つと銀行、電話局も焼けた。焼死者や負傷者は幸いになかったが、火の回りが早かったため、家財道具を持ち出す暇さえなかった。一晩で全財産を失った人々は道路にうずくまった。被災者は学校や寺院など十一ヵ所に設けられた救助所に集まり、救助米を受け取って飢えをしのいだ。
 川越の大火はこれが始めてではない。明治二十一年三月二十二日にも、高沢町で百二十戸がやけた。この日午後三時二十分ごろ、同町の糸商丸松¥シ井治兵衛方から出た火は、南東の風にあおられて東西に飛び火。三時間も燃え続けてようやく鎮火した。町の消防力といっても手押しポンプがせいぜい。ちょっとした火事でも手を焼いた。明治七年には越ヶ谷でも三百九十四戸が全焼、大正二年(1913)年に埼玉師範が焼けるなど、県内各地で大火が断えなかった。この二つの大火で川越町民は火事に対して深い反省を呼びさまされた。当時の川越は有名な商業の中心地。裏に土蔵を三つも四つも構えているところは多かったが、表通りの店はかわらぶきか、杉皮ぶきの板屋根が普通だったから燃えるのも早かった。
 見直された蔵造り
 ところが二つの大火でびくともしなかった店がいくつかあった。土蔵を店舗にして、重いむねがわらをのせ、厚い壁で塗りあげたいわゆる蔵造り(くらづくり)の店である。南町の西村半右衛門が経営する近江屋商店もそのひとつ。江戸時代天保のキキン≠フとき、失業対策事業としてつくられたこの店蔵は、壁の厚さ二十センチ、土戸の厚さ六センチというがん丈なものだった。二十六年の大火のとき、この店蔵を借りてかすり問屋丹文≠経営していた小川文七氏の娘、寺田けいさんは当時十七才。その思い出をこう語っている。
 「裏にあった水そうの中へむしろをつけて水を含ませ、火の粉を防いだ。店蔵を外から濡らし、戸の間には、みそ蔵から十八本のみそを出してぬめりに使った。だから、大火でも柱が一本こげただけ。土戸を早く開けると、熱気で内部から燃え出すというので、壁が冷えるまで三日間も待った」
 こうして残った店は、このほか山吉(現在の丸木百貨店)、近藤(岸薬局)、利根川筆吉商店(埼玉商事)など。川越商人は防火建築として店蔵が優秀なことを、はっきり目撃した。
 商人にとっては信用が第一。南町、鍛治町の目抜き通りでは、東京の問屋の蔵造りを手本に、東京から職人を呼んで、新しい建築が始まった。
 今日川越にある蔵造りの店は、ほとんどが大火後三年ほどの間に建てられたものだ。
 大火の二日後、銀林県知事が視察、百円を救助費の中へ寄付、県の役人もそれぞれ月給の二十分の一を贈ることにした。東京では県出身の実業家渋沢栄一、代議士高田早苗らが義援金を募集、現金五千六百九円十六銭四厘のほか、米、しょうゆなどが集まった。
 町をあげて復興を喜ぶ川越氷川祭の大祭が行なわれたのは八年後の明治三十四年だった。

「続川越歴史随筆 川越歴史新書4 岡村一郎 川越地方史研究会 1966年 ★★★
 ◆川越大火の新聞と号外
    川越町の大火
             改進新聞号外 明治26年3月19日
 去る17日埼玉県川越町の大火は、該地未曾有の惨状を極めたる景況を掲載せんに、同日午後8時15分南町養寺院門前紺屋職皆川勝五郎仕事場の灰尽より出火し、折ふし北風強くスワ火事よと騒ぐ間に5、6軒焼き煽りて南町の中央に抜き出で火勢尚ほ盛んなるに、22組の消防夫は必死となりて消防に尽力する内、多賀町にある共鐘堂の屋根に燃移り、夫より火の子は八方に飛散して全市街一面にかぶり、火の手は数ヶ所に分れて火焔天に漲り猛威を逞ふするも、数十台の吐水、喞筒1台あると雖ども、矮少の故に用をなさざるが為め、殆んど消防の力も絶えたるに、一方は南町を焼き払つて多賀町、鍜治町、上松江町、本町、猪鼻、連雀町と延焼し、尚ほ尻火にて江戸町を焼払ひ、又横火にて下松江町より相生町、久保町に延焼し、其の他志義町、高沢町、南久保町、北久保町等都合16町悉く焼失し、寺院は広運寺、林渓(蓮馨)寺、法禅(善)寺、長慶(喜)院の4箇寺、電信局及び劇場松蓮座も類焼し、焼失全戸数1350戸、土蔵60棟等にして、翌18日午前5時漸く鎮火し、罹災者は川越学校を避難場として之れに入らしめ、目下救助中なるが、焼失地は悉く商家巨屋を構ひ居る実業家のみなれば、川越町中全焼と見做すも敢て誣言にあらざる程の惨状なれば、昨日よりかけて非常の混雑をなし、県庁より数名の属官出張し、郡役所及び町役所吏員総掛りにて取調中なりしが、幸ひに怪我人一人もなかりしは不幸中の幸なりと云ふ。右は特報のみ掲載したるものなれば、尚ほ詳細は次号に掲載す。  

    川越町大火の詳報
             東京朝日新聞 明治26年3月22日付
 埼玉県川越町大火の事は取敢えず前号の紙上にて記載し置きしが、尚右実況視察の為めに特派したる我社員の報道に拠れば、去17日の夜は同地も西北の風烈しく砂塵を飛ばす程なりしに、たまたま同町429番地皆川勝五郎方灰部屋より出火せりと云ふる間もなく火焔は忽ち同家本宅に燃移りしが、近日の天気続きにて屋根板は宛がらコツパの如く乾き切ったる折柄とて、火勢は恰も落葉を焼くが如く、見る見る一面に拡がりたり。
 右火元の近傍は同町にても殊に目貫と称せられる場所なれば、近傍は相応の土蔵を以て取囲まれあり。去れば当夜若し風力の斯くまで烈しからずば、大抵は此一部分のみにて鎮火すべき筈なりしに、生憎風の為めに火は悪火とて、土蔵と土蔵の間より抜けて出て南町の方へ燃出したるより、同町は忽ち火焔を以って包まるるに至れり。此処より火力次第に猛烈となりて、瞬く間に全町を焼払はんず勢となりしにぞ。 
 町々備付の喞筒、22組の消防夫は総出にて消防に尽力せしも、何分普通喞筒にて十分の作用を為さざるのみならず、同地は堀井戸さへも東京などと違ひて、僅かに水脈のある所まで地を穿ちしに過ぎざれば、瞬間に水は切れて復如何とも為すべからず。平素火事なれぬ場所柄とて是非もなき事といふべし。
 此の如き始末ゆえ消防夫等は殆んど手を束ねて為すべき術なく、恰も風のまま火のままに延焼せしむる姿となりしかば、火は縦横に焼廻りて本町、多賀町、江戸町より上松江町、連雀町、鍛治町、相生町に及び、又一方には南町より志賀(義)町、久保町、鉄砲町、北久保町、南久保町、東明寺相生町、高澤町、猪鼻町に達し、都合17町焼土となしたる上、小仙波村にまで飛火せしが、此処は幸ひに2戸丈にて消止めたり。また北町も風都合よかりしにや、1戸丈の焼失にて難を逃れたり。
 出火の原因は元来皆川勝五郎は形付職を営み居れるものなれば、常に職業用としてとり灰なるものをこしらふ。其とり灰なるものは藁を焼て製するものゆえ、同日勝五郎の老母おすゑ(72)が件の灰をこしらへて灰部屋の中へ入れたるが、未だ十分に消化し居らざりしにや、遂に之より出火して斯る大火を起したるなりと云ふ。当夜焼失の戸数は左の如し。  
   町  名 戸数  半焼土蔵 全焼土蔵
 大字小仙波   2    0   0
 川越上松江町・鉄砲町   72   12  11
 川越北町   1    1   0
 松郷久保町  20    5   0
 川越本町 128    7   3
 松郷下松江町  49    4   7
 川越南町 196   64  19
 川越志義町  72   42  18
 川越鍛治町  37   24  10
 川越多賀町  99   14   7
 川越相生町  13    0   0
 東明寺相生町   7    0   0
 川越南久保町   9    0   0
 川越北久保町  20    2   0
 川越江戸町 124    16   4
 川越高沢町   8    0   0
 川越猪鼻町・連雀町 445   46  17
   合  計1,302  237  96

 川越町の戸数は本年1月の調査に3315戸とあれば、右の中より今回の焼失戸数を引去る時は、余す所は僅かに3分の1に過ぎず、然も目貫の場所は悉く焼失したるものゆえ、之を川越全町の焼失といふも誣言に非ず。又焼失せし寺院は3箇所、銀行は1箇所、電信局は1箇所なり。 
 但し此火災中1人の焼死者怪我人等なかりしは、実に不幸中の幸といふべし。但し財産はかく風力の烈しかりしと火勢の熾んなりしとに依り、多くは之れを持出すの遑なく、昨日まではさしもに富豪を極めたる人も、一夕の中に財産を蕩尽して路傍に号泣する様目も当てられず、無惨とも哀れともなかなか言葉には尽しがたき程なりとぞ。去れば其筋にては取敢へず、光西寺、緑学校、行伝寺、川越学校、栄林寺、養寿院等を以て罹災者救助所に宛てたるが、此処にて救助され居る人員は左の如くなりと。
 光西寺に4戸人員25人○川越学校に67戸人員364人○緑学校に38戸人員157人○栄林寺に5戸人員44人○行伝寺に6戸人員30人○養寿院に38戸人員183人○本応寺に3戸人員19人○大蓮寺に1戸人員六人○公会所に21戸人員81人○川越高等学校に20戸人員98人○観音寺に2戸人員7人○合計戸数205戸人員1014人
 右の報埼玉県庁に達するや、銀林知事は先づ平井参事官及び属官をして払暁川越に出張せしめ、己は翌日の県会散会を待て同しく仝町へ出張、罹災者救助方に尽力し、且金壱百円を救助費の中へ寄附したり。某県官は各月俸の20分の1を義捐し、又川越町の太田元章氏外幾十名にも陸続金員物品等を寄贈したり。
 因に記す。右焼失町村の中本町は全町、高沢は一分、志義町は八分、南町は全町、猪鼻町は八分、上松江町は全町、江戸町は八分、下松江町は過半、連雀町は全町、久保町は三分、多賀町は全町、相生町は一分、北久保町は過半、南久保町は一分の焼失にして、全く鎮火せしは午前8時なりしと。

「川越閑話 川越叢書第1巻 岸伝平 国書刊行会 1982年 ★★★
   雁燈夜話/明治二十六年の川越大火

「川越の蔵造 ―社会経済史的背景― 川越叢書第5巻 宮下辰夫 国書刊行会 1982年 ★★★
三、明治の大火と蔵造の建造

「埼玉史談 第28巻第4号」 埼玉郷土文化会 1982年1月号 ★★★
 川越大火と早川家の記録  井上浩
一、はじめに
二、高沢町の記録
三、早川金次郎さんの記録
四、火事見舞ひ帳
五、あとがき


全 般
「川越大火百年 大火の歴史と街づくり」 川越市立博物館編集発行 1993年 ★★★
 

「川越の政治と生活の聞き書 川越市史資料第五集」 川越市役所市史編纂室 1969年 ★★★
 

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作成:川越原人  更新:2009/8/29