川越と黒船・先登録


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「埼玉県の歴史」 小野文雄 山川出版社 1971年 ★★
 江戸湾の警備
 幕末における外国船のわが国近海への出没は、海からへだたった埼玉の地域にも影響をあたえることになった。文化五年(1808)、長崎でフェートン号事件≠ェ勃発し、長崎奉行が自刃するなどのことがあったが、沿岸警備の重要性を考えた幕府は、文化七年(1810)には白河藩主松平定信に房総沿岸、会津藩主松平容衆に相模沿岸の警備を命じた。会津藩は文政三年(1820)に警備を免除され浦賀奉行がかわって警備にあたることになったが、このとき川越藩に非常のさいの警備を命ぜられた。埼玉県内の藩がはじめて沿岸警備に関係することになったわけである。このとき幕府は相模国三浦郡に一万五〇〇〇石の地をあたえ、これとひきかえに川越藩領のうち一万五〇〇〇石を上知させた。川越藩では新領内の浦郷村に陣屋をおいて120人の藩兵を派遣したが、文政五年(1822)英船サラセン号が薪水を求めて浦賀にきたときには、国元からさらに348名の藩兵を警衛のため派遣した。このとき宿所とした民家への手当や夫人馬・水夫などの雇上げ費のみで約400両の支出があったという。沿岸警備が藩財政にいかに大きな負担となったかがわかる。
 房総警備を受けもっていた白河藩は、文政六年桑名へ転封となり、同時に房総警備を免除された。以後房総の警備は幕府代官が受けもつことになったが、外国船の跳梁をおそれた幕府は文政八年(1825)、ついに異国船無二念打払令≠公布した。このため川越藩ではいっそう警備を厳重にしたが、天保八年(1837)米船モリソン号が漂民を送って浦賀に入港したときは、ただちに砲撃を開始し、これを退去させるという事件もあった。このときモリソン号は非武装であったからすぐに退去したが、幕府は翌年六月オランダ商館長からの報告により、はじめて同船来航の目的を知るありさまであった。
 こうした事情もあったうえ、その後清国がアヘン戦争によって窮地におちいった実情を知った幕府は、外国船撃攘の危険をさとり、天保十三年(1842)にいたり、打払いんの方針を改め、異国船に薪水を給与することとした。しかし江戸湾の警備は従来よりいっそう強化し、川越藩には浦郷から三崎にいたる三浦半島東南岸一帯の警備を命じ、また新たに忍藩にも房総半島の富津から北条にいたる西岸一帯の警備を命じた。こうして県内の二藩が奇しくも江戸湾の入口を扼して警備にあたることになったわけである。
 弘化三年(1846)閏五月、アメリカの軍艦コロンブス・ヴィンセンスの二艦が江戸湾頭に姿を現わした。川越藩・浦賀奉行・忍藩ではそれぞれ小舟をくりだし、両船に漕ぎよせたが、そのうち川越藩内池武者右衛門が先駆してヴィンセンス号に乗り移り、つづいて忍藩の後藤五八も乗船して交渉にあたり(「先登録」)、翌日浦賀奉行が通辞を派遣して両艦を退去させるという事件もあった。
 江戸湾の警備は両藩にとってきわめて大きな経済的負担となった。川越藩では当時二万石の加増をえていたが、新しく警備を受けもった忍藩では竹ガ岡に陣屋を構えるとともに大房崎に砲台をきずいて、約600人の藩兵を派遣して警備をかためた。しかし、このために藩の財政がいちじるしく圧迫されたため、家中に対し面扶持(家族員数に応じて米を給与する方法)を実施するとともに、領内村々に対して高100石につき三両の臨時課税をおこなった。このあと忍藩では幕府に対し、『相州路大和守様(川越藩)御持場は、内海五〜六里で、浦賀奉行と共同して警備しているのに、下総守(忍藩)持場は、内海のみで十八里、外房も入れると実に二十八里の場所となり、小高の忍藩の人数ではとても厳重な警固は行き届き難い』と訴えている。このため弘化四年(1847)警備区域は房総半島の先端洲ノ崎から大房崎までに縮小され、富津から竹ガ岡までは会津藩の分担とされた。藩では北条の陣屋に兵船50隻を常備して異国船来航にそなえた。
 なお、川越・忍両藩のほか、岩槻藩でも外房勝浦の付近に飛地を所有しており、郡奉行以下を派遣していたが、同時に外房沿岸の警備をもおこなっていた。岩槻藩の児玉南柯が郡奉行に在任中の安永九年(1780)、清国船が同地に漂着したが、このとき南柯が現地に急行し筆談をもって事件を処理したことは、その著「漂客記事」にくわしい。
 嘉永六年(1853)幕府はペリーの要求に屈して日米和親条約をむすんだ。これによって幕府は在来の警備体制を根本的に改め、品川沖に台場をきずいて江戸城の防備を厳重にすることになったが、川越藩・忍藩はともに在来の警備区域を免除され、改めて忍藩は第三台場、川越藩は第一台場を受けもつことになった。

「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
 草莽(そうもう)の活動と民衆蜂起
 ●黒船の来航と村々
 寛政四年(1792)のロシア使節ラックスマンの根室来航以来、日本の近海に欧米の船が頻繁に現われるようになった。幕府は海岸の警備を強化することになるが、文政三年(1820)には川越藩が相州(現、神奈川県)の警備を命ぜられている。同藩は天保一三年(1842)に、改めて相州御備場(おそなえば)の警備を命ぜられているが、忍藩もすでに文政六年以降、安房・上総(現、千葉県)の警備を命ぜられている。これらの警備の強化は、川越・忍藩領はもちろんのこと、天領の村々などまで諸種の負担を強いることになる。
 忍藩は上総・安房の海岸防備のために三百余人を派遣し、北条(現、千葉県館山市)に陣屋を定め、砲八二門を備えたという。川越藩は大津(現、神奈川県横須賀市)と三崎(現、神奈川県三浦市)に陣屋を備え、派遣人員は天保一四年に五〇〇人余という多数にのぼり、砲三一門を備えている。
 弘化三年(1846)アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの浦賀来航以降、警備はますます強化されるが、それはまた領民への負担の強化でもあった。忍藩では嘉永三年(1850)以前は国元の村々から高一〇〇石につき馬一匹、人足三人を徴発しており、これだけでもたいへんな負担であったが、嘉永三年になると馬三匹、人足一〇人の負担という増加ぶりであった。いっぽう、商人に対しても御用金の賦課を行い、嘉永三年には二六人の商人から一二三四両を上納させている。
 嘉永六年(1853)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが来航すると、川越・忍の両藩とも急遽国元から藩士や人馬を動員し、また領内村々に御用金や臨時の賦課金を課している。川越藩は大津―鴨居(現、神奈川県横須賀市)で藩士三六五人が警備をしており、またペリーの久里浜上陸に際しては、川越藩兵五〇〇人が警備にあたっている。忍藩では北条陣屋等で四五四人が警備にあたり、同時に海上での警備も命ぜられている。このペリー来航に際し忍藩では、領内村々に高一〇〇石につき永三〇〇文の賦課金を課し、個人の献金も命じている。
 ペリー来航後江戸湾の防備の手薄さを痛感した幕府は、品川沖に台場を築くことになった。嘉永六年一一月、一番台場は川越藩、二番台場は会津藩、三番台場は忍藩が警備することになり。これまでの相州・房総の警備は熊本藩・岡山藩の担当となった。
 川越藩は高輪に陣屋を構え台場警備の準備を進めるが、翌嘉永七年正月ペリーの再来航があり、相州警備の引き継ぎがまだ終わっていなかったので、相州と台場の両者の警備を勤めることになる。川越藩はこのとき大津付近で三六五人が警備にあたり、忍藩では房総で三五〇人が動員されている。川越藩領の人馬の動員はこのときが最高に達し、述べ数合計で六万人余(馬一匹を人足二人と計算)という厖大な数に達している。
 外国船の来航は天領の村々にも負担を増加させる。嘉永七年正月には足立郡下戸田村(現、戸田市)など一三カ村では、非常焚出御用として人足が徴発されており、大門宿(現、浦和市)組合では嘉永六年九月に、台場建設のため空俵七五〇〇俵の刺し出しを命ぜられている。また上戸田村・美女木(びじょぎ)村(現、戸田市)では、台場建設のため冥加金(みょうがきん)の上納をしており、一三人の農民が六四両を納めている。人馬の動員とともに、金銭の面でも負担が強いられたのである。

「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
近世/内憂外患と民衆の諸活動
 ・黒船来航と庶民
 1853(嘉永6)年6月、4隻の軍艦を従えて開国を迫ったペリーの来航は、人々に大きな動揺を与えた。埼玉県立博物館所蔵の『黒船来航風俗絵巻』は、ペリー再来航時の人々の様子を写実的に描いた貴重な資料である。同様の構図で詞書(ことばがき)がつく『幕末風俗図巻』が、神戸市博物館にあり、その写本ではないかと考えられる。
 図1(略)は、芝の絵草子店で異人や黒船の絵を商(あきな)っている様子である。異国人に対する恐怖心と好奇心が表裏一体であったことや、江戸町人の商魂逞しいところを垣間見ることができる。図2(略)は、急を知らせる早馬(はやうま)を描いている。絵馬全体を通じてのんびりとした様子で描かれている庶民と比べ、馬上の武士の表情は険しく緊迫感が伝わってくる。平須賀村(幸手市)の名主船川家には、領主の旗本稲葉氏が、火急の際には妻子を名主宅へ疎開させる旨を命じた文書が残っており、その動揺ぶりがうかがわれる。図3(略)は、品川の台場づくりの場面である。台場は、韮山代官江川太郎左衛門の献策により建造された砲台であるが、75万両の巨費を投じ、ペリーの初来航からわずか10カ月間に、5基を完成させた驚異的な工事であった。こうした防備のための資金や労働力の負担は、農村に転嫁された。とりわけ江戸湾防備の任に当たっていた川越藩や忍藩、また旗本領の村々には、人馬の徴発や御用金など大きな負担が課せられた。
 川越藩領の比企郡宮前村(川島町)の名主であった鈴木久兵衛は、動員された村人たちの差配役を勤めたが、その間の出来事を詳細に記録していた。「相州御用中手控」(埼玉県立文書館蔵、鈴木康夫家文書)など何点かの控帳には、ペリー艦隊、応接場の様子、瓦版の写しからアルファベットなどまでがスケッチされている。他にも埼玉県立文書館の諸家文書の中には、浦賀奉行の与力がペリー一行に最初に応対した時の様子が克明に記されている「亜墨利加(あめりか)異人渡米二付相州浦賀与力合原(ごうはら)氏ヨリ聞書」(船川家文書)など、名主らが収集したペリー来航に関する資料が多数残されており、当時の人々が受けた衝撃の大きさと、名主たちが様々なルートを通じて情報を入手し、伝達した様子をうかがい知ることができる。
 参考文献 品川区立品川歴史館編 『東海道品川宿を駆け抜けた幕末維新』 品川区教育委員会 1999
        太田富康 「ペリー来航時における農民の黒船情報収集」 『埼玉県立文書館紀要』5号 1991

「埼玉県の歴史」 田代脩・塩野博・重田正夫・森田武 山川出版社 1999年 ★★
 ペリー来航と村々

「幕末武州の青年群像」 岩上進 さきたま出版会 1991年 ★★
1江戸湾防備と松平斉典
 川越藩の江戸湾防備/青年藩主の大役/川越藩の総力体制/黒船一番のり/開国への足音/藩政改革

「黒船異変―ペリーの挑戦― 加藤祐三 岩波新書(新赤版)13 1988年 ★
1853年7月、巨大な黒船4隻が浦賀沖に現れた。噂は日本国中をかけめぐり、幕藩体制は大きな動揺をきたす。ペリー来航は日本社会にどのような衝撃を与えたのか、戦争に至らずに条約が結ばれた背景は何なのか。日本近代の開始を「異変」という概念でとらえ、開国へ向けての日米の情報の流れを解明し、幕末社会が変容する姿を描く。

「黒船」 吉村昭 中公文庫 1994年 ★
 ペリー艦隊来航時、主席通詞としての重責を果たしながら、思いもかけぬ罪に問われて入牢すること四年余。 その後、日本初の本格的な英和辞書「英和対訳袖珍辞書」を編纂した堀達之助。 歴史の大転換期を生きた彼の劇的な生涯を通して、激動する時代の日本と日本人の姿を克明に描き尽くした雄編。

シリーズ日本近現代史@幕末・維新」 井上勝生 岩波新書(新赤版)1042 2006年 ★
第2章 尊攘・討幕の時代
 1 浮上する孝明天皇
  大名の世論
第3章 開港と日本社会
 2 国際社会の中へ
  生糸売り込み商人

「幕末外交と開国」 加藤祐三 ちくま新書453 2004年 ★
第三章 議論百出
 3 アメリカ大統領国書の回覧と諮問
  提出された多様な意見
 5 首都防備
  首都防御線の後退

「幕末・京大坂 歴史の旅」 松浦玲 朝日選書620 1999年 ★
元治元年(1864)
 19 京大坂守衛総督――もうひとりの将軍か
   (前略)
 さて守衛と防禦とか言って、いったい何から守るのかという問題がある。表向き夷狄(いてき)から守るのだった。幕府は薩摩の主導権や、参豫(さんよ)会議を嫌い、天皇と公卿の攘夷志向に迎合して朝幕の合意点をわざわざ攘夷寄りに引戻し、それによって政務の幕府一任を確保した。慶喜はそれに協力した。参豫会議を裏切って、せっかく開港容認に向った朝廷の意向をひっくりかえすという高等作戦を展開した。「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」は、その季節外れの攘夷路線の上に創設された。
 休暇を終えて帰任したイギリス公使オールコックは、京都で攘夷の方針が固まったという情報をつかんだ。慶喜の「高等作戦」までは分からないので、単純に攘夷復活と捉えたようである。困ったことに幕府の中でも、二人目の政治総裁職に就任していた川越藩主松平大和守直克(やまとのかみなおかつ)などは、額面通りに横浜鎖港を断行すればよいのだと確信して大いに張切った。幕府は攘夷に戻ったというオールコックの「誤解」が更に増幅される。
 オールコックは仏・米・蘭の代表に呼びかけ、幕府に対する警告を兼ねた下関攻撃の準備を開始した。去年の代理公使ニールは一緒に長州を叩いて欲しいという仏・米・蘭の希望を退けて単独で鹿児島を攻めることを優先させたのだが、帰任したオールコックは幕府の反動化を許すと自国の対日貿易に支障が出ると判断した。彼が今年になって新しく組織した下関戦争は、長州対策であると同時に幕府対策だった。幕府を拘束する(と彼が判断した)京都朝廷対策でもある。
   (後略)

●先登録
「先登録」A 内池武者右衛門 川越市立中央図書館蔵 1846年(弘化3年)
 嘉永5年(1852)の写本を、昭和11年(1936)に峰岸久治氏が写したもの。
 (注1)先登録B(国立公文書館蔵)を参照し、その異同を表記した。( )別字(分り難い所は、該当部分に下線)、〔 〕脱字
 (注2)「ニ」「江」「者」はそのままとした。カタカナもそのままとした。
 
(表紙)
「 先登録
    川越図書館蔵 」
 
弘化三丙午年閏五月二十七日朝五ツ時頃、異国船三崎城か島沖江程近く乗込来る趣、三崎町久野又兵衛手代安五郎と申者大音に御陣屋内往来触廻る、其時御陣屋一統三島浜江面々手鎗にて押出し、直様船の仕度致し乗出る、即〔予〕乗合の士十二人、城か島沖江乗出し候処、風波強く進も〔水主〕手間取り、や(よ)ふやふ三里半程も南の方へ乗出し候処、異船二艘近く乗込来る、予乗上り候船ハ先ニ(江)乗込来りた(ケ)る、近くに相成見るに異人一統白装束にて小筒の先ニ剣を付、鎗のことくして立並ひし有様ハ稲麻(摩)竹葦のことく何のこともなく、白装束故白鷺の集りしことくなり、予〔か船〕異船へ乗付、されとも未た二間程へたゝり居候得共、異船より腕木二間程も出居候に、高さ二間程高く鎖張りて有之に、予飛付とひ上らんとする処に、右の鎖ゆるみて海中江両足踏落し、されとも身をかへし異船の大筒足たまりとして二番乗の内予壱番に乗上る、続いて作(佐)治政記・片手たんみ(片平克美)押上る、其余ハ次第次第に押登る、二番乗の面々壱番乗の船に三尺も予か船後れ乗付候を残念に存、二番乗の面々の抜身の下をかいくゝり無理に飛入申候、一番乗(り)面々ハ上る場所より多く上る、二番乗ハ大筒の矢さまより飛込申候、予直様大壱番に膝の御船印もち上り四方を見廻し候処、東方松下総守様御人数三方より押来る、又北に当て浦賀御人数押来る(候)、右の御船印持上る処、異人大勢集り〔来り〕、異船よりおろせおろせと申手真似にて、何れ(か)ハア(はう)ハアバアバア申、予か持居候御船印に取付大勢大さわきに候間、予片手に御船印を持、片手にて手真似に親指を出し候得ハ異人静まり申候に付、猶又親指を出し○う(ヲ)と申手真似いたし〔候〕、予か鼻へ指差、壱番に上り候印に(を)建ると申手真〔似〕いたし候ヘハ、早速異人承知致候に付、異船のみよしの方へ罷越し右の御船印をふり廻し申候、直様異人共御船印を手伝ひ、みよしに(へ)立呉申候、予異人に向ひ世話に相成候と申手真似いたし、これハ手伝呉候間挨拶也、其時異人御船印に指差日本法と申候、予親指差出し頭分ハ何方に罷在哉と申手真似致し候へハ、異人予か(の)胸を取候に付、打捨置一覧致居候得ハ、其侭異船のともの方江召連、高き処へ案内致し、頭分とおほしきころものことき衣服を着し罷在候男の前江連行(召連)候処、亦々同様予か(の)胸を彼の頭分の男取り候に付、前書の通り打捨置候処、上座の方江座し候様頭分の男手真似いたし、頭分の男挨拶の礼ニ相(と)見江、手を合右の手を差上け申候に付、此の方にても日本通り挨拶致し候、頭分の男横文字を認め出し候に付、予不知と申心持にて頭をふり申候、乗船致し候面々、予をはしめ一統手拭をまき、帆をまけと申真似致し、或ハ陣羽織ぬきてまく真似致し、帆をまき(候)様大勢にて〔度々〕申聞候得共、一向に異人相集り居候ても取合不申候、先方にてもかてん不参様子にて有之候、予をはしめ四五人申合、頭分の男の手を取り帆柱の側に(江)召連参り、帆をまく真似いたし、観音崎の方江一統指差、亦異船の大筒江指差、数々並へ有之、彼(あの)地江乗込候はゝ、此船みちんに打破ると申手真似、其上我々共(等とも)腹切候、果てすハ(半てハ)不相成と申手真似致し候へ共、〔左候得者〕腹切よりハ片はしより切倒し申候と手真似いたし候得ハ、頭分の男驚き候様子にて、やふ(よふ)やふ(よふ)の事にて先方承知致し、彼の男大船の方江指差、大船に帝居の旨、大船〔の方〕止候はゝ、此船供(友)ふねに付留り可申〔候〕旨手真似致候て、早々(く)大船の方江誰なり日本人の内罷越、右の訳申呉候様子(ママ)手真似にて申聞候、並に日本〔人〕腹切と有、夫より異人を片はしより切候と日本人申候間、早々大船止り候様申呉候様にと頭分の男頼有之〔候〕に付、直様船手組を大船の方江差遣し、右の様子(右之場)を日本人乗船の面々江申遣候ヘハ、先方乗船の日本人承知の旨答有之、間もなく大船の方帆をまき、野比浜沖江船を止、右に付此方の異船〔の〕頭分の男先の船止候間、此船帆をまき留る間安堵いたせる也(と)申手真似致し、日本人の気を休め居(候)様にと申手真似致し候、彼〔の〕男船奉行ともおほしき男を召呼、何れ(か)下知致し申伝候ヘハ、船奉行の男短き笛を吹き候ヘハ、水手の人々帆柱又〔ハ〕帆縄〔縄〕ばしこ江登申候、右の船奉行日本にて相用(申候おら)ふると申様なる銀にて拵申候 (挿図あり) ことき此(如此)の二尺計の物を口江当て、色々申差図致し候ヘハ、早速に帆をまき申候て、同様野比浜に船を止る間もなく、亦々頭分の男横文字其外色々わかり不申手真似いたし候間、此方にてハ相知れ不申と申〔候〕手真似、横文字も同様不知と申手真似にて頭をふり候得ハ、頭分の男何れ(か)外〔之〕異人に申付候得ハ、間もなく人物も違ひ候人下より〔三人来り、頭分之男に何か礼とおほしき様子にて〕手を合、両の手を差上〔申〕候得ハ、頭分の男頭を少し動し〔申〕候て、文字認め候真似致候ヘハ、右三人の内二十二三歳の男、此方江向〔て〕日本と認出し見せ候に付、夫て(ニて)ハ相知れ〔申〕候と申手真似一統にて致し候得ハ、右の三人頭分の男に向何れ(か)申候、右三人はけし坊主にて髪の長き事、三四尺ともおほしき右の毛を三〔ツ〕よりに致頭をまき居候、右の二十二三歳の男、紙と白箸の様なる物を持来り、右の白箸の様成物を小刀にて四方をけつり、筆の様に致し、右の品にて文字を認め申候、右の箸の中より墨出申候、予軍船何如と認、右の男の前に(江)差出す、右の男認るハ蘭地花旗軍船、水手壱百五十〔余〕人、帝名ハ日本不敵と答ふ、予又問、皆同国か〔ト〕申手真似にてとふ、右の男南京〔人〕三人、亜利加五人、あとハ同国外黒ん坊と申手真似にて黒ん坊江指差す、予又問、名ハ何と申、国ハ何と云と申心にて国と認め出す、南京人と右の男答、〔予〕又問名と認出す、南京人答名ハ信と答、予又問、位〔ハ〕と認め出す、南京人答〔に〕大夫下々と答、予又亦問、孔子を不知哉と申心持にて問ハ孔子と認め出す、南答ハ万国聖と答、南京人日本の婦人人形をひいとろの鏡の内ニ絵書有を持出し為見〔申〕候、其髪形島田の女ニ眉なく、歯を黒く染し女の形を出し、南問、歯を染め眉を落し候ハ何如(義何故)ぞと〔問〕、予答二と不嫁印と認出す、南聖国と認出し右の手を差上る、予大筒に指差、人の国江武器をかさり大面にて罷越候ハ(義)格外不礼なる儀と存候に付、南京人に向不礼と認出す、南答〔に〕大筒江指差不動と申手真似致し候、南京人赤面の体ニ有之、且亦日本人乗船致候面々一統ニ腰兵糧を遣ひ候処、異人大勢相集まり見物致し居候て、其節異人日本〔之〕米宜きと申手真似いたし、先方の米を持出し見せ申候処、此方一統にて一覧致し候に(所)、異国の米細長くしてしゐな米のことく有之候、此方〔一統〕兵粮〔を〕遣ひ仕舞候節、異人きやまんの湯桶の様なる器を台にのせ持出し、同しきやまんの桔梗の花のことき茶碗を、是又(亦)台に載せ持参り、此方の面々江向、食事致し〔候〕て後ハ水を呑候ま(半)てハ落付不申と申手真似致し、自分(ら)毒味致し候間(て)、日本人一統にて呑み(江為呑申)候、右此方一統兵粮入れ(物)明に相成候時に(ニ付)、兵粮方役人稲田弥次右衛門〔と申者兵粮を持来り、右弥次右衛門又〕申候にハ、兵粮差上可申間、御面ニ(之)入れ物一まとめ〔に〕致、〔異船より〕此方の船に(江)なけ落し候様申〔候〕に付、即ち〔一まとめに致し〕なけ落し〔申〕候処に、早速に右の入物江兵粮を入、又一まとめにいたし竹の棒の先に付、異船に(江)乗込み居候面々江相渡可申と、下より差出し候得ハ、上にて請取候を(申候へ者)、異人以ての外立腹の体にて、何れ(か)不分義をわアわア申、元の弥次右衛門の船へなけ戻し〔申〕候に付、此方〔一統〕相談致し高石園(円)治頭分之男の前ニ(江)罷越し、食事致し候真似いたし候て、何卒右の品を上けさせ呉候様、手を合せ頼み候得ハ、異人大勢打寄頭分の男ニ向、火薬と存候に付、先の船江なけ落し申候旨、異人手真似いたし候、左様致し候と頭分〔の男〕此方一統に(へ)向、手真似にて兵粮をなけ落し候ハ不礼致し候旨手真似にて挨拶有之、其上早速ニ兵粮を為上可申旨、厚く手真似にて呉々挨拶に及、全く火薬と心得申候故、失礼致し候と手真似致し候、此方にてハ予罷出、挨拶も不致兵粮を船中江入れ候〔義〕ハ不宜と申手真似にて挨拶致し候、早速異人縄を下け兵粮を上け呉候、且又菓子の類其外食物〔等〕異人持来り、一統江呉申候、一々毒味いたし呉候事に候、頭分の男何れ(か)外の異人を〔召〕呼申付候て、早速ニ六角の〔形の〕ぎやまんの徳利と、日本にて水呑の形の様なる銀の器を添、台に乗せ持来る、頭分の男右の器に酒の様なる〔一〕物をつき〔込〕毒味致し、浦賀同心江遣候、其節南京人つぎ役ニ〔て〕有之〔候〕、南一物ニ指ざし小酒と認め出す、此方一統一礼す、其節頭分の男右の〔銀の〕器にて三ツ呑み候と、よろけ申と云(ゆ)ふ手真似致し、伏すと申す真似致し候、浦賀同心一ツ呑て頭分の男江戻す、頭分〔の〕男二ツ続けて呑み、一統江と申手真似致し〔一統江〕為呑申候、〔右ニ付〕南京人小酒と認め出し候に付、予考ふるに大酒も有之〔可申〕哉と存候に付、南京人に向ひ大酒と認め出す、左様いたし候へハ、南京人頭分の男に向、何れ(か)不分義を申候へハ、頭分の男承知致し候様子ニ候ヘハ、南京人亦同様〔之入物〕に入持来り、頭分の男の前ニ置く、頭分の男又々毒味致し、銘々江と申手真似致し候ヘハ、南京人銘々江持あるき為呑申候、日本にてみりん酒の様ニ有之候、其後頭分の男箱を持来り、中より猩々緋のふくさに包み有之候一物を取出し候、一覧致し候に、天鏡とおほしき八方に遠鏡を籠の様なる物の内に掛けて有之を色々〔に〕動かし、又下に磁石の様なる一物を台にのせ、合せて見て、予あやしく存候に付、天鏡かと申手真似いたし候へハ、先方手真似にて、しかりと答、予無用にいたし様ニ日本の法と申〔手真似致候〕、手真似にて右の品〔を〕仕舞候様申候ヘハ、其内ニ右之品損〔し申〕候間、異人右〔の〕品仕舞申候、其後頭分の男参りか様(候様に)と申手真似にて、予の(か)袖を引候に付、松下総守様御内後藤五八、並に予の(か)船差配の男千助と申者一同にて下のはしごの側を伝下り候得ハ、南京人先案内致し、夫より〔右〕三人一同(同道にて)罷越候へハ、其後ニ(者)続いて頭分の男附添来る、二段目江下り候入口はしこより〔予〕下らんと致し候得ハ、右入口固め居候異人予に向ひ(て)、予か刀江(に)指差し、長く有之間、定〔て〕しやまに相成るべくと申手真似致し、預けて下江おり〔て〕、見物いたせと申手真似致し候、予も手真似にて、日本〔の〕法と(に)て帯すと申し〔手真似にて〕答ふ、夫より南京人一人頭分の男、並ニ此方三人にて、二段目江下り一覧致し候に、小筒数百挺、帆柱の廻りにかさり有之、鎗も同様数百本立てならへて有之、其節頭分の男小筒を取て打ツ(候)真似〔を〕いたし、打候(て)後ハ鎗に致〔候〕と申真似致候、〔予〕一覧致し候にすりわり無之に付、すりわり無之旨〔を〕手真似致し候へハ、又すりわり有之筒を取出し〔申〕候、玉目二匁五分位と存候、鉄炮の長さ五尺位、火皿の処〔ニて〕火打石・火打鉄有之、引鉄をひき候とすれ合火出る、鉄砲の先江(へ)剣を附、鎗の様ニ致候、剣の長さ二尺位〔に〕有之候、右の剣を平生ハ皮の袋に入て腰ニさし居り申候、右の鉄炮打真似、又ハ鎗にいたしつかひ候真似なと〔いたし候義、誠に以〕色々様々の真似致候、〔此所〕ハ筆にて難及候、殊の外利方ニ御座候様存候、其節側らの鎗一覧致候処、殊の外手薄ニ有之候間、突ク間敷と申し手真似を〔予ハ〕致し候ヘハ、頭分の男、南京人に向、何れ(か)申付候ヘハ、南京人かめのことき一物を持出し、予一覧いたし候に、目はり〔いたし〕有之、右南京人ふく面をかけ、右の目はりを切、中より先つ日本にてきん出し油の様なる物を匕に掛て為見候に付、予側江寄一覧致しに未(候半)と存じ候て近より候処、南京人手真似にて無用々々と申〔手真似致し〕候間、予をはしめ後藤五八並千助、頭分の男の側へ罷越候ヘハ、頭分の男右の品を槍にぬりて突といふ真似致し候、右の一物ハ毒薬と相見江申候、夫より頭分の男並南京人両人にて、廊下の様なる処江案内いたし候間、〔予を始右之面々〕参り候処、大の男五人曲□(録ヵ)に腰をかけ、一人ハ書見いたし居候、二番目の男、予に向、腕を差出し〔手を〕ねちり見候様手真似致し候に付、〔予も〕当惑いたし候へ共、甚残念に〔存〕候間、予の腕を差出し、予か腕をねぢり候得と申手真似いたし候ヘハ、右の男立上り、予の(か)手を金剛力を出しねちり申候、予其時一生一代の力を出してかまん致しこらへ(い)申候仕合也(に)、ねちれ不申候、予格外骨折れ草臥申候、夫にて其処を行過さんと致し候処、右の五人何れ(か)バアバア申〔候〕に付、予足を止め、かへり見候得ハ、末席ニ罷在候男、少々腹立の顔色にて眼玉をいからし、予をさしまねき候ニ付、又〔右之〕五人の前ニ罷越候得ハ、右末席の男、予の(に)〔向予の〕腕〔を〕ねちらせ候様、前(先)の男にねちられす(ねしれざる)〔義〕を残念と申し手真似致候て(者)、是非々々ねちらせ候様頼み度〔々〕手真似致し候、〔予〕考へ候に最初の男に仕合せとねちられず候を、大仕合致候を了簡いたし居候処江、又々末席の男、予か(の)腕をねちらせ候様申かけられ、当惑の至、殊に最初力を出し労れ候事〔故〕、右別て難渋致し候、無是非次第腕〔を〕差出し〔腕〕おれる迄ハかまん致さんと〔存〕、腹中にてハ神仏を頼み居候、右の男最初ねちれす候を腹立故、力声を上、予の腕をねちり〔申〕候、予も又一生けんめいの力を出し、異国の人に腕をねちられてハ残念なりと存、かまんいたし候、既にあやふく候へ共、やふ(よふ)やふの事にてこらへ申候、ねちれす仕舞候〔段〕大仕合致し候、其節最初にねちり候男、手真似にて(致し)、予の事を小男にてもねち〔ら〕れ不申と申手真似致し、右五人の異人をはしめ、頭分の男・南京人大笑ひいたし候、予ハ腕を出して、もつとねちて見候〔様〕、異人の前に(へ)差つけ(出し)候得ハ、異人共頭をふり、ねちれすと申手真似致候、予もあまり腹か立候間、先方にて力ちまんいたし候を(義)、こしやくな奴と存候に付、〔兎角〕子供の(か)人差指をまけ動して、馬鹿々々と申義を〔予〕真似(手真似にて)、先方力しまん致し候ても、此男の腕ねちれすと申手真似〔致〕、右申馬鹿々々と申手真似致し候へハ、異人共頭の上江手をあけ、先方にても大笑ひ、此方にても大笑ひ致候、夫より頭分の男と南京人案内にて、武器蔵とおほしき処江〔召連〕参り〔候ニ付〕、色々の品〔右申三人〕一覧致候処〔江〕、野中猪濃八参り、〔夫より〕処々一覧致候、〔夫より〕予後藤五八江申候ハ、兵粮・玉薬・水一覧致度、何程有之候哉、戦にも及候節ハ心得方にも相成候かと存候旨相談いたし候得ハ、五八も落合〔申〕候に付、頭分の男に両人に(し)て食事致〔候〕真似いたし、何方に有之哉と申〔手真似いたし〕候へハ、頭分の男・南京人、又下の段江案内致し行見候ヘハ(下りてみれば)、番人一人罷在候、頭分の男食事の真似致候て指差候に付、予並〔後藤〕五八・千助三人にて一覧いたし候へハ、何分あけ(上ケ)板の下に有之〔候ニ付〕、積込有之(ニて)場ハ十畳敷位に〔有之〕候、右の兵粮を為見候様手真似致し候ヘハ、南京人取出し見せ候処、かますの様なる入物に有之中より出し候ハ、抹香の様なる食物とおほしき物を持出し候間、〔予并後藤五八両人にて〕南京人に問、食物に致し候哉、何に(と)いたし〔候〕やと手真似に〔て問〕、南京人中段に(江)上り、菓子の様なる食物を持来り、右の品に拵へ食物に致すと申手真似致し候、右積込あれとも深さ知れす候故(不申候ニ付)、五八と相談致し、棒を差込見候ハヽ(江者)、大凡見積も付候か(半)と〔予吾八江申候得者、尤のよし答、予〕南京人に向、棒をかせと〔申〕手真似〔を〕致し候へハ、早速に鎗のおれの様なるを持来候に付、〔予〕かますの間に(へ)差て見候に、四五尺〔棒〕通り〔申〕候、側(脇)を見候得ハ大成樽有之に付、何に候哉と〔申〕手真似いたし候処(江得者)、一覧致し〔候〕様〔先方手真似致候〕に付、樽の内を改め見に(両人にて一覧致候所)、梅すのことき物に有之、此方の(是ハ日本にて)醤油の様なるもの〔か〕と被存候、予又腰の兵粮を取出し、頭分の男に為見候て、此品ハ有之哉〔と〕、又外ニ食物ハ無之(き)哉と(ゆふ手真似致)候ヘハ、〔早速に〕上け板を為上見せ候処、二斗俵位の入物〔に〕五六俵分も有之候、頭分の男〔手真似にて〕食物此余ハ生物の外(ハ外に生物より外に)無之(と申)手真似いたし候に付、後藤五八、水と申字を書(認)、南京人の前に差出し候ヘハ(出ス、左様致候得者)、又元の二段目江(へ)案内致し候処(ニ付)、〔五八并千助・予罷越候所〕大樽十七八の内七ツはかりハ水有之候、外ハ並へあるはかり、又重ねて有之樽ハ数多に御座候、(大樽拾七八有之、水七ツ計ニ有之候、水ハ並へ有之計、あるひハ重て有之候、数々にて御座候、)夫より玉薬一覧致し候に(致度旨手真似致候得者)、二段目のともの方に六畳敷程もあるへき(可有之)蔵の様なる処に〔案内いたし候ニ付、罷越一覧致候所〕、かますのことき物に焔硝を入、其数二百余も有之へくやと被存候、又玉〔を〕と申〔手真似致〕候得ハ、大筒玉ハ日本人見る通上段に有之外ハ(に)無之〔と申手真似致候〕、大筒玉ハ五六百可有之やと被存候、小筒玉ハ(小筒の玉と申手真似致候得者、案内致候ニ付罷越一覧致候所、)素麺箱のことくなる入置(箱に玉有之)、箱数三ツ、其内壱箱ハ半分程有之候、夫より以前の上段の高き処江(へ)〔予を始両人打〕登り候、〔予下の方を見るに〕佐治政記一二三より十迄書認、南京人に向、右の一二をよみ問〔に〕、一二(イチニ)と〔段々政記〕よみ候得ハ、南〔京人〕かふり(頭)を〔横に〕振〔候へ者〕、又一二(イチジ)とよみ候ても、かふりを振候、南夫より読み聞かせ候ハ(又政記一二(イツジ)とよみ候得者、先方同様頭を横にふり候て、南京人政記によみ聞せるは)、一をイッケン、二をリヤンと、拳の言にて有之(段々日本にてけんとか申事と同様に南京人申候と)、側に野中猪野八罷在〔候〕て、〔猪野八〕南〔京人〕二(リヤン)迄申し〔候を〕、三より十迄〔猪野八ハ〕指を折りて、〔日本にてのけんの言葉を〕彼(南京人)より先に早くよみ(先へ申)仕舞候ヘハ、〔南京人〕恐れ候様子に御座候、夫より〔野中〕猪野八と〔予〕両人にて黒ん坊の側へ(に)罷越、〔両人にて〕能々見(一覧致)候処、頭ハ〔一面に〕ちゝれ毛にて、耳に金の○(輪ヵ)をはめ居候、〔能々見るに〕黒きハ油薬の様なる物をぬり付居候様ニ見受け〔候間、猪野八ニ余向、黒ん坊ハ〕何れ(か)〔ぬり居候よふ申候へハ、猪野八〕ぬりたるかと〔申〕手真似致し候へハ、黒ん坊ハ笑居候〔ニ付〕、猪濃八〔自分〕指を口中にてしめし、黒ん坊の手をこすり候得ハ、〔右の〕油薬の様なる物はけて白く相成〔申〕候、黒ん坊をはしめ異人共大勢大笑ひ致し候、何のためにぬり居る(候)哉解せ不申候、〔兎角〕異人共此方一統江(に)向、ダチンコと申し(候)、色々の品を持出し〔申〕候処、〔此方にてハ〕其訳一向〔に〕相分不申候処、南京人来りて売買と書認め候(出す)、それにて取替呉候と申事と〔一統〕承知致し、取替の義ハ日本の法にて不致趣を手真似にて〔先方へ此方一統〕相断〔申〕候、〔左様いたし候得者〕南京人セツベン(ぜつへん)と〔申候〕大金銭等を取出しゼツヘンゼツヘンと申し(ハ)、日本人に遣し候と申手真似〔致候〕に付、是又同様不貰旨相断〔申〕候、〔其後〕南京人丹下左市に向、おしいおしい(おじいおじい)と申、〔南京人左市の〕歳を問に、右の手をひらき、左の指にて右の指の通りを横にはらひ、五十〔歳〕位かと云(問)、左市〔自分の歳の数を〕手真似にて答、南〔京人〕健と申真似致し、又南〔京人〕下曽根董に向〔歳を問〕、両手をひろけて〔又〕片手をひろけ、十五〔歳〕位かと問、董手真似致し(にて)、年の数を答、南〔両人手真似にて〕誠にちさし(ちいさい)と〔申〕手真似いたし、側の董の歳位の異人を指し(其側に異人董位に歳ともおぼしき男罷越候か、南京人右之男に指取(差ヵ))、又董に指差し、両手にて同しと申〔手〕真似致て(候)、是ハ同歳と相見え申候、右の異人(男)ハ予より七八寸も身の丈高く候、乍去(御座候得共、)面形ハ子供の様に有之候、夫より異人〔大勢〕夜分に相成候間、寝ると申真似致し、首を(にても)かゝれ候も計り不知と〔申〕真似致し、此方一統江異船より下り呉候様、是ハ用心の為と〔申〕手真似致し候、其内又二段目の方(かた)より鉄砲〔の〕先へ剣を付、大勢参り此方一統の後江(へ)廻り、右の鉄炮を横になし、〔日本人を〕押出さんと致候に付、〔此方一統色々の手真似いたし〕乗上内(り候)人数計ハ此船に(江)置呉候様〔一統手真似致し、此方にても〕此船夜の内に沖へ乗出し候も難計(計不知)に付、成へく〔ハ〕乗船致し居度と、色々手真似〔にて〕致し候ても一向に〔先方〕聞入申さす、其内〔に〕先方少々荒立る様(候)に付、御番頭江右の段申遣し、如何可致哉と聞合(申遣)候、〔其〕内、猶々異人あら立候に付、一統異船より下り申候、予と藤井新八郎両人残り、異人頭分の男に向(の前へ罷越)、両人計りも(にても宜有之間、)此船に為居呉れ様申〔手真似にて致〕候得共聞入不申、荒々敷はアはアと申候、〔其時に〕外の異人予に向、〔手真似にて〕今朝御船印を持上り候〔手真似致し〕、此船江入(人の)国の器を上け候ハ法に無之、されとも日本の法にまかせて上けさせ候〔と手真似致し、予に指差日本にて申せは〕、其様申(候)事ハ聞訳〔勘弁いたし、御船印を為上候間、此方申事をと申手真似いたし、唯今異人申事を聞分〕呉候様船の法ニ無之旨手真似致し候、〔右ニ付両人共下り呉候様手真似にて申候、予も〕右の〔理〕利を被申当惑致し候内、(其内に)御番頭より異人荒立候てハ不宜〔候〕間、異船より下候様申越候に付〔両人異船より〕下り候、後にて〔予〕自分の陣羽織を見候得ハ、見返ニ刃物にて切候様〔成るあと有之、少々計〕切れ居〔申〕候、〔予考へ見るに〕是ハ定めて異船へ飛乗り候節か、又予と新八郎〔に〕異船より下り候様にと〔異人〕申〔候〕節、鉄炮の鎗横に致し押し候時(節)、穂にて切れ候義〔か〕と被存候
一異人共日本日本と申、鏡一面持出し為見〔申〕候、並の鏡に御座候、裏ニなんてんの図あり(有之)、藤原政清と銘有之(名あり)、〔日本の鏡〕如何して所持候哉〔げせ不申候〕
一日本日本と〔申〕日本の絵図と〔も〕おほしき〔図〕を持出し〔為〕見〔申〕候、横文字〔故誰にも〕不知申(知れ不申候)、只〔々〕日本日本と申〔候ニ付、日本の絵図存候〕絵の形も日本の国の様に覚え候
一歳取り候人をおぢい〔おぢい〕と申〔候〕、又日本と申〔事を申候〕、又物を見せ(候へ)と云ふ(申)事を見せへと申〔候〕、法式〔なとの事〕を法と申候、此(等ハ)日本の言葉と同様に有之候
             河越藩 内池武者右衛門記(書)之
是ハ異船江乗上り候に付、船中か有様を文字文章をかさらす、其侭に書記し、家江蔵し子孫に残し置かんと欲するのミ
(これハ異船江乗上り候ニ付、文字文章をかさらす、子孫へのこし置んと存るゆへ記し、家に蔵せんと欲すのミ)
 
  弘化三丙午年閏五月廿七日渡来異船の覚
   北亜米利加州の内ハテソン地■にハホストン
大船 長四十二間五分 幅九間二分  船号エムリユムヒユス
   水深さ 六間四分 水上高さ四間二分五厘也
中墻 長 三十五間二分  艫(トモ)墻 長 二十八間八分
表墻 長 二十四間    同出し墻 十三間七分厘
艀  大小 九艘     人数 八百人
将官 姓 エームス   名 ビッケン  年七十
副将 姓 タムス    名 ウイメン  年三十
 外一人副将病気の由、姓名不知、其外士官兵卒役々之れ有り外水夫
大砲 八十六挺  但左右三段の間
内 ボンベン 六十四挺 ロトン仕掛船玉分量 凡そ八貫目
小筒 八百挺 鉛玉分量八匁位 但ハンヨネツトに付き之れ有り
短筒 剣 一人一挺宛  素鎗数百本之れ有り
小船 長 二十二間四分 幅 五間九分五厘  船号ウリンセンス
水深 四間二分五厘 水上高 二間七分三厘也
艀  大小 五艘   人数 二百人
将官 姓 ハイレムホーン 年四十六
副将 ケヤトルスツケンセス
 其外役々大船同断
大炮 二十四挺  但左右一側備内ポンベン鉛玉分量 凡六貫目
小筒 二百挺 玉目大船同断 短筒・剣其外大船同断
去巳四月彼の六月国元開帆、十二月廿九日清広東着岸通商取結、午四月三日広東開帆、アモイ、ハイにツホウ等所々入津、にツホウ出船より当所着岸
 
   諭文
此度我国と交易いたし度旨願ふといへとも、我国ハ新ニ外国と通信通商をゆるす事堅く国禁にて許さる事なる故ニ、早々帰帆致すへし、先年より度々通商を願ふ国ともあれとゆるさす、其国とても同様の事なれハ、此後幾度来り願ふとも無益の事なり、勿論外国の事ハ長崎にてあつかふ国法にて、此地ハ外国の事にあつかる所にあらされハ、願ひ申旨ありとも、こゝに来りてハ通せさる間、再爰に来る事なかれ
 
   御請
御当国に於て外国の通船商不被為成御免之趣、今般御書附を以て被 仰奉畏候、就てハ風順次第早々出帆可仕候、此段御請奉申上候
  暦数 千八百四十六年
    船 ユリユ  ムヒユス            ビッケン
右の通和蘭語に無之候につき大意和解仕奉差上候、以上
   午六月五日
                     堀 達之助
 
   黒船江被下物
一水             一薪    松大方六千本
一梨子   二百       一李    二千
一りんご  二千二百五十   一大根   千六百
一唐茄子  百二十五     一にんじん 五十八本
一菜    百把       一茄子   千二百五十二
一隠元   八斗九升     一白瓜   百十二本
一青瓜   百五十七本    一薩摩芋  十四貫二百目
一大真桑瓜 百三十      一玉子   二千三百五十
一鶏    四百二十四羽   一籾    七俵
一小麦   二俵       一白米   一俵
一竹細工籠 大小十七     一鰤    十本
一砂    三升
  〆二十五品(ママ)
 
   近国諸家人数出帳
野比村海岸軍船   大久保加賀守
湊口燈明堂嶋陸固  保科能登守
平根崎海岸     酒井安芸守
千駄浦海岸     稲葉兵部大輔
弘化三丙午年閏五月二十七日着岸、同六月七日出帆
大船の方
 一番乗 船中組尾瀬(尾瀬戸)善七    二番乗 浦賀
 三番乗 宇佐美八之平          四番乗 下曽根三左衛門
小船の方
 一番乗  右より乗 木村孫市 橋本源美(深美) 藤井新八郎
    ※橋本深美…五番使役、藤井新八郎…五番組目付
 二番印上ル 左より乗 福垣轍 今唯五郎 高瀬(高須)亀五郎 松下鉄之助
 二番乗 一番印上ル 内池武者右衛門 高岩国治(高石円治) 丹下左市 丹下右衛門八 長崎九兵衛 松下嘉太夫 野中猪濃八 下曽根薫(董) 高須綱三郎 高石斧太郎 佐治政記
 三番乗 松下総守様御内 後藤五八 志村久右衛門
 四番乗 浦賀 江原操蔵 石山佐之丞 今西完十郎 
     従是次第々々に押乗
 
弘化三丙午年六月二十九日異船渡来の節覚書
 
六月廿九日の暁、烈風厳敷雨また篠つくかことく空暗く、何か物すこく海波△るき震動とも覚えて、おそろしく候処に異船渡来々々と大騒動にて罵り罵り、最早間近く乗入りたりとさわく人計なれハ、こはたまらしといまた朝喰も食ふるいとまなかりけれハ、其侭鎗おつとり走り出、海岸に止まりけるに、風雨強くして目も開き見る事もなり難く、雨の面に当るハ小石を打かくることくにして、目もひらきかたく海岸に船一艘もなかりけれハ、こは何故に船なきか船を出せ出せとよははりけれハ、船士の面々相集まり、如此大波に船容易に出し候てハ巌石にて船打砕け、人も鱗の餌になり申也と各答おくれ唯波を見、異船何方にあるやと一同沖の方をにらみ見るに、異船も荒波に隠れてハあらはれ出る有様にてさたかならす、殊に風波あらくして雨ハ篠をつくことく強く、霧深くして闇夜のことくなれハ、中々小船にてハ少しも乗出しかたき体なれハ、船士も顔色を変しためらひおそれし容体也けれハ、己れ等恐るゝな船出せ出せと大音に罵りけれハ、小船三艘出しけれハ、いさこきはたせと乗入々々すゝめと下知をなし、山のことき大波を物の数ともせす進み、かの小船の前後左右に高山ことき大波ゆれ来り、みちんに砕く勢ひにてあひせかゝり候故、進む毎に大波水船に打こみけれハ、頭よりあひる波水より船中の水次第に満ち、今ハ船しつみ覆らんとする故ニ、船士等とても難計危し危しと言なから、各桶を以て船中に満来る水を汲出し汲出し進むと言へとも、中々進むにはかとらず、浪間浪間よりあらはれ出たる異船にすハ近付たり、いそけ進めとエヒエヒ声を上け、沖中大浪の処にて側異船に乗着たり、時にはるか西の方と見れハ、松並木と覚えて見えしかは、あれハ何国なりやと問ふに、船士ハ大磯の松並木なりと云、然らハ此所ハ大磯の沖かと云ふに、もはや三嶋よりハ里程七八里も乗来りしなり、此とき異船人も閏五月二十七日来りしとハことなり、此度の船ハおらんたの内てハねまろくと云処なりと、やはらかはらす軍船にて、大筒三十挺余備へ、小筒何程とも数知れす、異人三百余人乗居たり、大将と覚しきハ別間に位義を正し居たりしか、其江ハ中々一人も不入、唯ハアハアとのゝしりさわきける、案するに風破荒く船止かたく如何とも風あしく荒ら荒らしく沈みくつかへらんとするを、あはて騒く様子にて乗入たる人ニも其事を知るなり、はやとあせり騒くにて、おりよおりよあふなしと云事と見えたり、やかて通弁右の危きよし、且つ異人風波の荒きに恐れ頻りに帰帆をいそきけれ共、我等乗船の面々中々不退故迷惑し、日本人を損せん事をなけき思ふと云程なれハ、無余義船より下の風波荒き故、はや異船より程へたゝり、予か船先の小ふね江下曽根三左衛門乗居たりしか、何やらん異船より煙気空に上り候様見けれハ、ヤイ下曽根下曽根異船に煙気の上たる様なりとよはりけれハ、下曽根居丈高になつて異船の煙気ハ大筒打と覚えたり、ヤヨのかすな内池内池とともに進みて打破れ打砕けと大音にのゝしり、たとへ此身ハ微塵になる共、のかすな追打に打破れと勇み進みし勢ひ、鉄城も破れかしと大風波の恐れなく、小船の先ニ鎗を杖としつゝ立あかり、大音によはゝり、かくハ古戦場の勇将を知らさるか、海陸の決戦に士卒を進め手負血監の其侭にて歌をよみし事あり、我等将にハあらされ共、此荒浪に小船にて異船に向ふ勢ハ、昔八島段の浦に異なるまじ、戦猛く不為とも風烈強雨の有様は八島の浦に異なるましと言葉の下よりも
    玉棚に這ふ子這はせて見やうかな
                  下曽根三左衛門
とよはゝりよはゝりあとつけよ、内池内池と大音に呼はりけれハ
    むかふ筒さき船をかすりて
                  内池武者右衛門
    こほろきのなかしの下の声々に
と附たり、はや異船ハ走り出し、其早き事あたかも鳥の飛ふかことく、あら浪に乗船して下曽根氏の勇士の勇さにやはら劣るましと思ふ、是書帳致し苦しみ候、有の侭を記し家に蔵せんとするのミ
 
     嘉永五年壬子十月
      川越藩中従内池氏かり受書写、従三宮山かり書写ス
 
     嘉永五年壬子十二月
            薬王山
 
     昭和十一年六月十七月
      菅原一氏より借覧
         峯岸久治
            写之

 川越市立図書館のデジタルアーカイブで画像を公開しています→先登録

「弘化雑記・川越藩内池武者右衛門異国船風聞」(「先登録」B) 内池武者右衛門 国立公文書館蔵 1846年(弘化3年)
(注1)先登録A(川越市立図書館蔵)を参照し、その異同を表記した。( )別字(分り難い所は、該当部分に下線)、〔 〕脱字
(注2)「ニ」「江」「者」「而」はそのままとした。カタカナもそのままとした。
 
弘化三丙午〔年〕閏五月廿七日朝五ツ時頃、異国船三崎城か島沖江程近く乗込来る趣、三崎町久野又兵衛手代安五郎と申者大音に御陣屋内往来触廻る、其時御陣屋一統三島浜江面々手鑓にて押出し、直様船の仕度致し乗出る、〔即〕予乗合の士拾弐人、城ケ島沖江乗出し候所、風波強く〔進も〕水主手間取り、よふよふ三里半程も南の方へ乗出し候所、異船弐艘近く乗込来る、予乗上り候船は先江乗込来りケる、近くに相成見るに異人一統白装束にて小筒の先に釼を付、鑓の如くして立並ひし有様ハ稲摩竹葦のことく何の事もなく、白装束〔故〕白鷺乃集りし如くなり、予か船異船江乗付、され共未た弐間程へたゝり居候得共、異船より腕木弐間程も出居候に、高サ弐間程高く鎖張りて有之に、予飛付飛上らんとする所に、右の鎖ゆるみて海中へ両足踏落し、されとも身をかいし異船の大筒足たまりとして弐番乗の内予壱番に乗上る、続て佐治政記・片平克美押上候、其余ハ次第くに押登る、弐番乗の面々壱番乗の船に三尺も予か船後れ乗付候を残念に存、弐番乗の面々〔の〕抜身の下をかいくゞり無理に飛入申候、壱番乗り(の)面々ハ上る場所より多く上る、弐番乗は大筒の矢さまより飛込申候、予直様大壱番に膝の御船印もち上り四方を見廻し候所、東〔の〕方松 下総守様御人数三方より押来る、又北に当て浦賀御人数押来候、右の御船印持上ル所、異人大勢集り来り、異船よりおろせくと申手真似にて、何かはうはうばあばあ申、予か持居候御船印に取付大勢大さわきに候間、予片手に御船印を持、片手にて手真似に親指を出し候得者異人静まり申候ニ付、猶又親指を出し○ヲと申手真似いたし候、予か鼻江指差、壱番に上り候印を建ると申手真似いたし候ヘ者、早速異人承知致候ニ付、異船のみよしの方へ罷越右の御船印をふり廻し申候、直様異人〔共〕御船印を手伝、みよしへ立呉申候、予異人〔に〕向ひ〔御〕世話に相成候と申手真似いたし、是ハ手伝呉候間挨拶なり、其時異人御船印に指差日本法ト申候、予親指差出し頭分ハ何方に罷在哉と申手真似致し候へ者、異人予の胸を取り候ニ付、〔予〕打捨置一覧致居候得者、其侭異船の友の方江召連、高き所へ案内いたし、頭分とおぼしきころもの如き衣服を着し罷在候男の前江召連候所、亦々同様予の胸を彼の頭分の男取り候ニ付、前書之通り打捨置候所、上座之方江座〔し〕候様頭分の男手真似いたし、頭分の男挨拶の礼と見へ、手を合右の手を差上け申候ニ付、此方にても日本通り挨拶いたし候、頭分の男横文字を認出し候ニ付、予不和(知ヵ)と申心持にて頭をふり申候、乗船致し候面々、予を始一統手拭をまき、帆をまけと申真似いたし、或ハ陣羽織ぬきてまく真似致し、帆をまき候様大勢にて度々申聞候へとも、一向〔に〕異人相集り居候而も取合不申候、先方ニ而もがてん不参様子に〔て〕有之候、予を初四五人申合、頭分の男の手を取り帆柱の側江召連参り、帆をまく真似いたし、観音崎〔の〕方江一統指差、〔亦〕異船の大筒江指差、数々並へ有之、あの地〔江〕乗込候ハゝ、此船みぢんに打破ルと申手真似、其上我等とも腹切候半而ハ不相成と申手真似〔致し候へ共〕、左候得者腹切よりハ片はしより切たをし申候と手真似致し候得者、頭分の男おとろき候様子にて、よふよふの事にて先方承知いたし、彼の男大船の方江指差、大船に帝居の旨、大船の方止候ハゝ、此船友舟ニ付留〔り〕可申候旨手真似致し候て、早く大船の方江誰成日本人之内罷越、右之訳申呉候様手真似ニ而申聞候、并日本人腹切と有、夫より異人を片はしより切候と日本人申候間、早々大船止り候様申呉候様〔に〕と頭分の男頼有之候ニ付、直様船手組を大船之方へ差遣し、右之場を日本人乗船の面々江申遣候ヘ者、先方乗船の日本人承知之旨答有之、間もなく大船之方帆をまき、野比浜沖江船を止、右ニ付此方の異船の頭分の男先の船止め候間、此船帆を巻留候間安堵いたせと申手真似致し、日本人之気を休め候様にと申手真似致し〔候〕、彼の男船奉行ともおほしき男を召呼、何か下知致し〔申〕伝候得者、船奉行の男短き笛を吹き候得者、水手の人々帆柱又ハ帆縄縄ばしこ江登り申候、右の船奉行日本にて相用申候おらふると申様成ル銀にて拵申候 (挿図あり) 如此の弐尺計之物を口へ当て、色々申差図致し候得者、早速に帆を巻申候而、同様野比浜に船を止ル間もなく、亦々頭分の男横文字其外色々ワかり不申手真似致し候間、此方にてハ相知れ不申と申候手真似、横文字も同様不知と申手真似ニて頭をふり〔申〕候得者、頭分之男何か外之異人ニ申付候得者、間もなく人物も違ひ候人下より三人来り、頭分之男に何か礼とおほしき様子にて手を合、両乃手を差上申候得者、頭分之男頭を少し動し申候て、文字認め候真似致し候得者、右三人之内弐拾弐三歳之男、此方へ向て日本と認出し為見候ニ付、夫ニ而者相知レ申候と申手真似一統にて致し候へ者、右之三人頭分之男ニ而(向)何か申候、右三人ハけし坊主にて髪之長き事、三四尺共おほし〔き〕右の毛を三ツよりに致し頭をまき居〔申〕候、右之弐十弐三歳の男、紙と白箸のよふなる物を持来り、右之白箸のよふ成物を小刀ニて四方をけづり、筆の様ニいたし、右の品ニて文字を認申候、右之箸中より墨出申候、予軍船何如と認、右之男の前江差出、右之男認るハ蘭地旗軍船、水手壱百五拾余人、帝名は日本不敵ト答、予又問、皆同国〔か〕ト申手真似にて問、右之男南京人三人、亜利加五人、後者同国外黒ん坊と申手真似にて黒ん坊〔江〕指差ス、予又問、名ハ何と申、国ハ何とゆふと申心にて国と認め出ス、南京人と右之男答、予又問名と認出す、南京人答〔名〕者信と答、予又問、位ハト認出ス、南京人答に大夫下々と答、〔予〕又々問、孔子を不知哉と申心持にて問は孔子と認出ス、南答は万国聖と答、南京人日本之婦人形をひいとろの鏡の内ニ絵書有ルを持出し為見申候、其髪形嶋田の女に眉なく、歯を黒く染し女の形を出し、南問、歯を染め眉を落し候義何故ぞと問、予答二〔と〕不嫁印と認出す、南聖国と認出し右〔の〕手を差上ル、予大筒に指差、人の国江武器をかざり大面にて罷越候義格外不礼成義と存候ニ付、南京人に向不礼と認出ス、南答に大筒江指差不動と申手真似致し候、南京人赤面之体に有之、且亦日本人乗船致し候面々一統に腰兵糧を遣ひ候処、異人大勢相集り見物いたし居候て、其節異人日本之米宜きと申手真似いたし、先方の米を持出し為見申候所、此方一統にて一覧いたし候所、異国の米細長くしてしいな米の如く有之候、此方一統兵粮を遣仕廻候節、異人きやまんの湯とふの様成器を台に乗せ持出し、同しきやまんの桔梗乃花の如き茶碗を、是亦台にのせ持参り、此方の面々江向、食事いたし候て後は水を呑候半てハ落付不申と申手真似致し、自ら毒味致し候て、日本人一統江為?申候、右此方一統兵粮入れ物明ニ相成候ニ付、兵粮方役人稲田弥次右衛門と申者、兵粮を持来り、右弥次右衛門又申〔候〕ニ者、兵粮差上可申間、御面之入れ物一まとめに致し、異船より此方の船江なけ落し候様申候ニ付、〔即ち〕一まとめに致しなけ落し候申処、早速に右之入物江兵粮を入、〔又〕一まとめ〔に〕いたし竹の棒の先ニ付、異船江乗〔込み〕居候面々江相渡し可申と、下より差出し候得者、上にて請取申候へ者、異人以て之外立腹之体にて、何か不分義をわあく申、元の弥次右衛門〔の〕船へなけ戻し申候ニ付、此方一統相談いたし高石円治頭分之男の前江罷越、食事いたし候真似致し候て、何卒右の品を上ケさせ呉候様、手を合頼み候へ者、異人大勢打寄頭分の男に向、火薬と存候ニ付、先の船江なけ落し〔申〕候旨、異人手真似致し候、左様致し候と頭分の男此方一統へ向、手真似にて〔兵粮をなけ落し候ハ不礼致し候旨手真似にて〕挨拶有之、其上早速に兵粮を為上可申旨、厚く手真似にて呉々挨拶に及、全く火薬と心得申候故、失礼いたし候と手真似いたし候、此方にてハ予罷出、挨拶も不致兵粮を船中へ入候義者不宜と申手真似にて挨拶致し候、早速異人縄を下ケ兵粮を上呉候、且又菓子の類〔其〕外食物等異人持来り、一統江呉申候、一々毒味致し呉候事に候、頭分の男何か外之異人を召呼申付候と、早速ニ六角の形乃きやまんの徳利と、日本にて水呑の形の様成ル銀の器を添、台に乗せ持来る、頭分の男右の器に酒のよふ成ル一物をつき込毒味いたし、浦賀同心江遣候、其節南京人つぎ役ニ而有之候、南一物ニ指差小酒と認出す、此方一統一礼す、其節頭分の男右之銀の器にて三ツ呑み候と、よろけ申とゆふ手真似致し、伏すと申す真似致し候、浦賀同心一ツ呑て頭分の男江戻す、頭分の男弐ツ続けて呑、一統江〔と申〕手真似いたし一統江為呑申候、右ニ付南京人小酒と認め出し候ニ付、予考ルに大酒も有之可申哉と存候ニ付、南京人に向大酒と認出す、左様いたし候へ者、南京人頭分の男に向、何か不分義を申候へ者、頭分の男承知いたし候様子に候得者、南京人亦同様之入物に入持来り、頭分の男の前に置く、頭分の男又々毒味いたし、銘々江と申手真似致し候得者、南京人銘々江持あるき為呑申候、日本と(にて)みりん酒の様ニ有之候、其後頭分の男箱を持来り、中より猩々緋のふくさに包み有之候一物を取出し、一覧致し候に、天鏡とおほしき八方に遠鏡を籠のよふ成る物之内に懸けて有之を色々に動し、又下タにきしやく(磁石)のよふ成る〔一〕物を台にのせ、合して見くて、〔予〕あやしく存候ニ付、天鏡かと申手真似いたし候へハ、先方手真似にて、しかりと答、予無用に致し様〔ニ〕日本の法と申手真似致候、手真似にて、右の品を仕舞候様申候得者、其内に右之品損し申候間、異人右の品仕舞申候、其後頭分の男参り候様にと〔申〕手真似に〔て〕、予か袖を引候ニ付、松 下総守様御内後藤五八、并予か船差配之男千助と申者〔一同にて下のはしごの側を伝下り候得ハ、南京人先〕案内致し、夫より右三人同道にて罷越候へ者、〔其〕後者続て頭分の男附添来る、二段目江下り候入口はしごより予下らんと致し候得者、右入口固居候異人予に向て、予か刀に指差、長く有之間、定てしやまに相成へくと〔申〕手真似いたし、預ケ而下江おりて、見物いたせと申手真似致し候、予〔も〕手真似に〔て〕、日本の法にて帯スと申手真似にて答、夫より南京人壱人頭分之男、并此方三人〔にて〕、二段目江下り一覧致し候に、小筒数百挺、帆柱の廻りにかざり有之、鑓も同様数百本立て並へ〔て〕有之、其節頭分の男小筒を取て打候真似を致し、打て後ハ鑓に致し候と申真似致し候、予一覧いたし候にすりワり無之ニ付、すりワり無之旨を手真似いたし候へ者、又すりワり有之筒を取出し申候、玉目弐匁五分位と存候、鉄炮の長さ五尺位、火皿之所ニ而火打石・火打鉄有之、引鉄を引て候とすれ合火出ル、鉄砲の先へ剣を附、鑓のよふに致し候、釼の長サ弐尺位に有之候、右之剣を平〔生〕ハ皮の袋に入て腰に差居り申候、右之鉄炮打真似、又者鑓にいたし遣候真似〔なと〕いたし義、誠に以色々様々の真似致し候、此所ハ筆に〔て〕難及候、殊之外利方に御座候様存候、其節かたわらの鑓一覧致候所、殊の外手薄に有之候間、突間敷と申し手真似を予ハ致し候得者、頭分の男、南京人に向、何か申付候得者、南京人かめの如き一物を持出し、予一覧致し候に、目ばりいたし有之、右南京人ふく面〔を〕かけ、右之めはりを切、中より先ツ日本にてきん出し油の様成物を匕に懸て為見候ニ付、予側江寄一覧いたし候半と存候て近より候所、南京人手真似にて無用無用と申手真似致し候間、予を始後藤五八并千助、頭分の男の側へ罷越候得者、頭分の男右之品を鑓にぬりて突といふ真似いたし候、右之一物〔ハ〕毒薬と相見へ申候、夫より頭分の男并南京人両人ニ而、廊下の様成る所江案内致候間、予を始右之面々参り候所、大の男五人曲□(録ヵ)に腰をかけ、壱人は書見いたし居候、弐番目の男、予に向、腕を差出し手をねしり〔見〕候様手真似致候ニ付、予も当惑いたし候へ共、甚残念に存候間、予の腕を差出、予か腕をねじり候へと申手真似致候得者、右之男立上り、予か手を金剛力を出しねじり申候、予其時一生一代の力を出てかまんいたしこらい申候仕合に、ねじれ不申候、予格〔外〕骨折草臥申候、夫にて其所を行過さんと致し候所、右之五人何かばあばあ申候ニ付、予足を止、かへりミ候得者、末席ニ罷在候男、少々腹立之顔色にて眼〔玉〕をいからし、予をさしまねき候ニ付、又右之五人の前に罷越候へ者、右末席の男、予に向予の腕をねじらせ候様、先の男にねしれざる義を残念と申手真似致し候者、是非々々ねちらせ候様〔頼み〕度々手真似致し候、(予脱ヵ)考へ候に最初の男に仕合〔せ〕とねしられず候を、大仕合致候〔を〕了簡いたし居候所へ、又々末席の男、予の腕をねしらせ候様申かけられ、当惑之至、殊ニ最初力〔を〕出し労れ候事故、右別て難渋致候、無是非次第腕を差出し腕おれる迄ハがまんいたさんと存、腹中にては神仏を頼居候、右之男最初ねしれす〔候を〕腹立故、力声を上け、予の腕をねじり申候、予も又一生懸命の力を出し、異国〔の〕人に腕をねじられてハ残念なりと存、がまんいたし〔候〕、既にあやうく候へ共、よふよふの事にてこらひ申候、ねじれず仕舞候段大仕合いたし候、其節最初にねしり候男、手真似〔にて〕致し、予の事を小男にてもねじられ不申と申手真似致し、右五人之異人を始、頭分乃男・南京人大笑致し候、予を(ハ)腕を出して、もつとねじて見候様、異人の前へ差出し(つけ)候得者、異人共頭をふり、ねじれすと申手真似致候、予もあまり腹〔か〕立候間、先方ニて力じまん致し候義(を)、こしやくな奴と存候ニ付、兎角子供か人差指をまけ動し〔て〕、馬鹿馬鹿と申義を予手真似にて、先方力じまん致し候ても、此男の腕ねじれずと申手真似致、右申馬鹿馬鹿と申手真似いたし候得者、異人共頭の上江手をあけ、先方に〔ても〕大笑、此方にても大笑致候、夫より頭分の男と南京人案内にて、武器蔵とおほしき所江召連参り候ニ付、色々の品右申三人一覧いたし候所江、野中猪濃八参り、夫より処々一覧致候、夫より予後藤五八江申候ハ、兵粮・玉薬・水一覧いたし度、何程有之候哉、戦にも及候〔節ハ心得方にも相成候かと存候旨相談いたし候〕得ハ、五八も落合申候ニ付、頭分の男ニ両人し(に)て食事致候真似いたし、何方に有之哉と申手真似いたし候へ者、頭分の男・南京人、又下の段江案内〔致〕し下りてみれば(行見候ヘハ)、番人壱人罷在候、頭分の男食事の真似致候て指差候ニ付、予并後藤五八・千助三人にて一覧いたし候得者、何分上ケ板の下に有之候ニ付、積込ニて(有之)場ハ拾畳敷位に有之候〔右の兵粮を為見候様手真似致し候ヘハ、南京人取出し見せ候〕所、かますのよふ成入物に有之中より出し候者、抹香の様成食物とおほしき物を持出し候間、予并後藤五八両人にて南京人に問、食物に致候哉、何と致候哉と手真似にて問、南京人中段江上り、菓子の様成食物を持来り、右之品に拵へ食物に致すと申手真似致候、右積込あれとも深さ知れ不申候ニ付(す候故)、五八と相談いたし、棒を差込見候江者、おふよそ見積りも付候半(か)と予吾八江申候得者、尤のよし答、予南京人に向、棒をかせと申手真似を致し候へ者、早速に鑓のおれのよふ成を持来候ニ付、予かますの間へ差て見候ニ、四五尺棒通り申候、脇(側)を見候得者大成樽有之ニ付、何〔に〕候哉と申手真似いたし候江得者(処)、一覧致し候様先方手真似致候ニ付、両人にて一覧致候所(樽の内を改め見に)、梅すの如き物ニ有之、是ハ日本にて(此方の)醤油の様成物かと被存候、予又腰の兵粮を取出し、頭分の男に為見候て、此品ハ有之哉と、〔又〕外に食物ハ無き(之)哉とゆふ手真似致(問)候得者、早速に上ケ板を為上見候所、弐斗俵位の入物に五六俵分も有之候、頭分の男手真似にて食物ハ外に生物より外に(食物此余ハ生物の外)無之と申(候)手真似致候ニ付、後藤五八、水と申字を認(書)、南京人〔の〕前に差出ス、左様致候得者(出し候ヘハ)、又元之二段目へ案内致候ニ付(処)、五八并千助・予罷越候所、大樽拾七八有之、水七ツ計ニ有之候、水ハ並へ有之計、あるひハ重て有之候、数々にて御座候(大樽十七八の内七ツはかりハ水有之候、外ハ並へあるはかり、又重ねて有之樽ハ数多に御座候)、夫より玉薬一覧致度旨手真似致候得者(致し候に)、二段目の友之方ニ六畳敷程も可有之(あるへき)蔵のよふ成所江案内いたし候ニ付、罷越一覧致候所、かますのことき物に焔(エン)硝を入、其数弐百余も可有之哉(有之へくや)と被存候、又玉をと申手真似致候へ者、大筒玉ハ日本人見る通上段に有之外に(ハ)無之と申手真似致候、大筒玉ハ五六百可有之哉と被存候、小筒の玉と申手真似致候得者、案内致候ニ付罷越一覧致候所、(小筒玉ハ)素麺箱の如く成箱に玉有之(入置)、箱数三ツ、其内壱箱ハ半分程有之候、夫より以前の上段の高き所へ予を始両人打登り〔候〕、予下の方を見るに、佐治政記一二三より十迄書認、南京人に向、右の一二をよみ問に、一二(イチニ)と段々政記よみ候得者、南京人頭(かふり)を横に振候へ者、又政記一二(イツジ)とよみ候得者、先方同様頭を横にふり候て、南京人政記によみ聞せるは(又一二(イチジ)とよみ候ても、かふりを振候、南夫より読み聞かせ候ハ)、一をイッケン、二ヲリヤンと、段々日本にてけんとか申事と同様に南京人申候と(拳の言にて有之)、側に野中猪野八罷在候而、猪野八南京人二迄申候を(し)、三より十迄猪野八ハ指を折りて、日本にてのけんの言葉を南京人(彼)より先へ申(先に早くよみ)仁(仕ヵ)舞候ヘハ、南京人おそれ候様子〔に〕御座候、夫より野中猪野八と予〔両人にて〕黒ん坊の側に罷越、両人にて能々一覧致(見)候所、頭ハ一面にちゞれ毛にて、耳に金の○をはめ居候、能々見るに黒きハ油薬の様成物をぬり付居候よふニ見請候間、猪野八ニ余向、黒ん坊ハ何かぬり居候よふ申候へハ、猪野八ぬりたるかと申手真似いたし候へ者、黒ん坊ハ笑居候ニ付、猪濃八自分指を口中にてしめし、黒ん坊の手をこすり候へ者、右の油薬のよふ成物はげて白く相成申候、黒ん坊を始異人とも大勢大笑いたし候、何のためにぬり居候(る)哉げせ不申候、兎角異人とも此方一統に向、だちんこと申候、色々の品を持出し申候所、此方にてハ其訳一向に相分不申候処、南京人来りて売買と書認め出す(候)、夫ニて取替呉候と申事と一統承知致し、取替之義ハ日本の法にて不致趣を手真似にて先方へ此方一統相断申候、左様いたし候得者南京人ぜつへん(セツベン)と申候大金銭等を取出しぜつへんくと申ハ(し)、日本人に遣〔し候〕と申手真似致候ニ付、是亦同様不貰旨相断申候、其後南京人丹下左市に向ひ、おじいくと申、南京人左市の歳を問〔に〕、右の手をひらき、左りの指にて右之指の通りを横にはらい、五十歳位かと問(云)、左市自分の歳の数を手真似にて答、南京人健と申真似致し、又南京人下曽根董に向ひ歳を問、両手〔を〕ひろげて又片手をひろげ、十五歳位かと問、董手真似にて(致し)、年の数を答、南両人手真似にて誠にちいさい(ちさし)と申手真似致し、其側に異人董位に歳ともおぼしき男罷越候か、南京人右之男に指取(差ヵ)(側の董の歳位の異人を指し)、又董に指差、両手にて同しと申手真似いたし候(て)、是は同歳と相見へ申候、右の男(異人)者ハ予より七八寸も身の丈高く御座候得共、(候、乍去)面形ハ子供の様に有之候、夫より異人大勢夜分に相成候間、寝ると申真似いたし、首にても(を)かゝれ候も計り不知と申真似いたし、此方一統江異船より下り呉候様、是ハ用心のためと申手真似致候、其内又二段目のかたより鉄砲乃先へ釼を付、大勢〔参り〕此方一統の後へ廻り、右之鉄炮を横になし、日本人を押出さんと致候ニ付、此方一統色々の手真似いたし乗上り候(内)人数計ハ此船江おき呉候様一統手真似致し、此方にても此船夜の内に沖へ乗出し候も計不知(難計)ニ付、成へくハ乗船いたし居度〔と〕、色々手真似にて致し候ても一向に先方聞入不申、其内に先方少々荒立候(る様)ニ付、御番頭江右之段申遣、如何可致哉と申遣(聞合)候、其内猶々異人あら立候付、一統異船より下り申候、予と藤井新八郎両人残り、異人頭分の男にの前へ罷越(向)、両人計にても宜有之間(りも)、此船に為居〔呉れ〕様〔申〕手真似にて致候得共聞入不申、荒々敷ばあばあと申候、其時に外の異人予に向、手真似にて今朝御船印を持上り候手真似致し、此船江人の(入)国の器を上ケ候ハ法に無之、されとも日本の法にまかせて上ケさせ〔候〕と手真似致し、予に指差日本にて申せはハ、其様候(申)事ハ聞訳勘弁いたし、御船印を為上候間、此方申事をと申手真似いたし、唯今異人申事を聞分呉候様船の法ニ無之旨手真似致し〔候〕、右ニ付両人共下り呉候様手真似にて申候、予も〔右の〕理利を被申当惑致候、其内に御番頭より異人荒立候てハ不宜候間、異船より下り候様申越候ニ付両人異船より下り〔候〕、後にて予自分の陣羽織を見候へハ、見かいし(返)に刃物にて切候様成るあと有之、少々計切れ居申候、予考へ見るに〔是ハ〕定て異船江飛乗り候節か、又予〔と〕新八郎に異船より下り候様〔にと〕異人申候節、鉄炮の鑓横にいたし押候節(時)、穂にて切れ候義かと被存候
一異人〔共〕日本日本〔と〕申、鏡壱面持出し為見申候、並の鏡ニ御座候、裏になんてんの図有之(あり)、藤原政清と名あり(銘有之)、日本の鏡如何して所持候哉げせ不申候
一日本くと申日本の絵図ともおほしき図を持出し為見申候、横文字故誰にも知れ不申候(不知申)、只々日本日本と申候ニ付、日本の絵図存候絵図存候(衍ヵ)絵の形も日本の国の様に覚候
一歳取り候人をおじいくと申候、亦日本と申事を申候、又物を見せ候へ(よ)と云ふ(申)事を見せへと申候、法式なとの事を法と申候、是等ハ(の)日本の言葉と同様に有之候
一諸道具類数多有之、□書に予絵不得手故不認候、右□敷事ゆへ異船の中の有様を記しはぐりぬ、其文字文筆善悪に不抱、しるすのミ、四方の君子共文筆よし悪し□□
             河越藩 内池武者右衛門書(記)之
 
これハ異船江乗上り候ニ付、文字文章をかさらす、子孫へのこし置んと存るゆへ記し、家に蔵せんと欲すのミ
 
〇相州浦賀といへる所江アメリカといふ異国より船の来り候にて
               川越
本国を離れ一海越川越之所囲れことの騒かし
               忍
下総(シモフサ)に楫をとらるゝ唐船は風さへまゝにならぬ沖中
               大久保
大久保の目に見る沖の異船かな
               一柳
番船の中にも一ツ柳かな
日の本へ水で異国の船かつき
 けふもあめらかあすもふらんす

 国立公文書館デジタルアーカイブ

「江戸諸藩 妖談奇譚手控え帖」新人物往来社編 新人物文庫 2010年 ★★
 江戸三百藩で起きた、世にも不思議な快事件・珍騒動…。
【関東地方】
 武蔵 川越藩  黒船一番乗り争い ………中村整史朗
 甲板にとび上がった内池武者右衛門は船首へ走り、川越藩の御船印を掲げた…。
黒船によじ登る武者右衛門
艦上の武者右衛門

「日本名城紀行2 南関東・東海」 小学館 1989年 ★★
 川越城 幕閣要人が治めた小江戸の城  尾崎秀樹
  黒船一番乗り
 柳沢吉保のあと、秋元氏四代、越前系松平氏七代、松井松平氏二代で明治四年(1871)七月の廃藩となるわけだが、そのなかでは松平大和守斉典が有名である。
 斉典が藩主となったころ、川越藩の財政はかなり逼迫していた。そこで城下きっての大商人である横田家を勘定奉行格に任じて、藩財政の立て直しにかからせた。藩財政の立て直しというと聞えはいいが、じっさいは横田家に赤字分を肩代わりさせるねらいだったのであろう。いろいろ方策を講じたすえにスッカラカンになり藩財政と心中する結果となっている。
 斉典は、荒れた水田の回復のために川島領鳥羽井堤の築造を手がけたりしたが、とくに藩校博喩堂の創建は、よく知られている。博喩堂は、江戸の藩邸(赤坂)、川越・松山・前橋の四か所にあり、十五歳から四十歳までの男子は、すべて出席するよう規定した。好学心に富んだ斉典が講学所を設けたのはうなずけるが、その裏をさぐってみると封建体制の動揺を士風の刷新によって防ごうとする意図があったともみられるのだ。
 川越藩が、相州(神奈川県)警備に人員を派遣するのは、文政三年(1820)である。
 幕府はそれまでの相州警備役だった会津・白河両藩にかわって川越と小田原藩を、その任にあて、浦賀奉行の支配下においた。そして相州三浦に一万五千石余の一部の替地をあたえられるが、川越藩は浦之郷に陣屋を設け、黒船の渡来にそなえた。
 藩では替地に反対で、なんとか預り地とならないものかと願い出たが、うけ入れられず、派遣にともなう予想外の出費に苦しみ、そのピンチを切り抜けるために半知借り上げなども行なわれた。倹約をしいられたのは藩士だけでなく、川越城下の問屋商や、新河岸の船問屋なども同様であった。
 しかし、そのおかげで黒船一番乗りの栄誉は川越藩がいただくことになった。弘化三年(1846)、ビッドル提督の率いるコロンブス号とヴィンセンス号が、城ヶ島の沖合にさしかかったとき、川越藩の浦之郷陣屋から小舟で同船に乗りつけたサムライたちがいた。
 このサムライたちは、ヴィンセンス号に乗り込み、ある種の記号をしるした二本の棒を船首と船尾にそれぞれ立てたが、アメリカ人には、それが何を意味するのかまるでわからなかった。どうやら船を占領したつもりでいるらしい。そんなことをされてはかなわないと、すぐさま撤去するよう命令した。そのひとりのサムライは、意味が通じたのか、特別抵抗もせずに、その棒を取り去った――。
 これはペルリ『日本遠征記』にある話だが、じつはこの人物こそ川越藩士内池武者右衛門だったのである。彼が立てた棒状のものは、藩の御船印だったらしい。そのときのもようを武者右衛門は「先登禄」という記録に書き残している。
 黒船来るの連絡をうけた陣屋の警備役たちは、すぐさま船の支度をして、城ヶ島沖へ漕ぎ出したが、風が強く、波が立ってなかなかすすまない。やっとの思いで三里半(約一四キロ)ほど乗り出したところで、二隻の黒船を発見、先頭のヴィンセンス号に武者右衛門が押しのぼった。
 異人たちは白装束で、まるで白鷺のかっこうだ。おまけに小筒の先に剣をつけて槍のように構えている。武者右衛門は夢中で船首に駆けつけ、手にしていた御船印を掲げて、一番乗りの名のりをあげた。その彼より一足早く別の一隊が昇降口から甲板上にあがっていたが、一番乗りの名のりは、武者右衛門が早かったらしい。
 異人たちは、船印をとり巻いて「おろせ」と手まねでいい、わめきたてたが、武者右衛門にはわからない。「ハアハア、バアバアと申すばかりにていっこうにわかり申さず候」というわけで、親指で自分の鼻をさし、「一番乗りの船印をおれが立てるんだ」と身振りで伝えた。すると異人には通じたのか手伝ってくれたというのである。
 武者右衛門らはやがて、艫の一段高いところへ連れてゆかれ、いろいろ尋ねられるが、チンプンカンプンである。日本側も停船するように伝えようとつとめたが、なかなかうまくゆかず、ボスとおぼしき人物を帆柱の前へ連れて行って帆を巻くまねをしたりしたあげく、やっと停船し、同船していた中国人を介して筆談をまじえ、しだいにうちとけるようになる。
 わたしは岡村一郎の『川越歴史随筆』などでこの「先登禄」の内容を知ったが、内池武者右衛門もまた当時の日本人のなかで、とびぬけた体験をもったわけである。

「幕末ものしり読本」 杉田幸三 廣済堂文庫 1989年 ★★
 22.米船一番乗りの川越藩士
 高野長英が脱走したのは弘化二年、その翌年(1846)アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが、軍艦二隻を率いて浦賀沖にあらわれた。
 日本に対米通商の意思があるのかないのか、その確認が目的。おだやかだったせいもあり、幕府は馬鹿にしてか、追いかえした。「通商は国禁ゆえ、なん度来られてもムダであろう。もう来なさるな」ビッドルはおとなしく帰った。
 米本国では「ビッドル君、君は訓令の字句にとらわれすぎたのではないかね」非難である。「日本人の敵愾心を挑発し、米政府の威信損するなかれとありました。態度軟弱とか日本役人の常套手段に乗ぜられたなどとは……」そりゃ聞えませぬと答弁したらしい。が、親和的ではあったようだ。
 当時、相模一帯の沿岸防備は川越藩内藤(ママ)武者右衛門という藩士がいた。この時彼は黒船一番乗りをやり、その模様を書いた『先登録』というのが川越の市立図書館にあるという。昭和34年1月号特集『人物往来』に、当時同図書館長だった岡村一郎が書いている。
 同氏の解説では、武者君は海防艦ヴィンセンス号から出ていた腕木の鎖に飛びついて艦上にあがり、「ボスはどこだ」右手の親指を立てて手真似をやった。艦長らしい者の所へ連れていかれたが、なにしろ手真似だけ。まったくチンプンカンプン。そのうちあらわれたのが中国人らしい。彼の記録には、白い箸のようなものをナイフでけずり、「右の箸中より墨いで申し候」とある。鉛筆での鉛筆談か。
 少しずつわかり出した。水夫百五十人中、南京(中国)三人、亜米利加五人、あとは同国黒人であった。この時数名の川越藩士が艦上にいたらしい。飯時なので武者君以下腰にゆわえつけてあった兵糧を食べはじめた。
 ワイワイいって黒人が見ている。中には、白米の飯を少しつまんで自分の口へ放り込む奴まで出た。
 武者君の記録、「日本米よろしきと申す」なおこの白米は戦時兵食だ。
 彼は艦内をだいぶ見学している。その途中で腕相撲も実施。「一生一代の力を出してこらえ申したが、骨折れて草臥(くたぶれ)」たという。夕闇が迫り生涯の記念となる経験をした彼も下船を余儀なくされる。こういう日本人への態度がビッドルの非難された軟弱にあたるのか? この年、幕末の天皇ともいうべき孝明天皇が即位。しかも将軍に対し、「しっかりせよ」家康以来ありえなかった、国政に対するご発言。いよいよ幕末≠ナある。

「川越歴史随筆」 岡村一郎 川越地方史研究会 1981年 ★★★
 2.黒船一番乗りの武者右衛門

※掲示板に内池武者右衛門に関する投稿がありましたので、ご紹介します。

内池武者衛門のことについて   No: 141
投稿者:三浦三崎 03/12/08 Mon 08:38:05
川越藩の内池武者衛門について検索していましたら、川越原人さんのHPにたどり着きました。
神奈川県三浦市三崎にある、光念寺には、内池武者衛門尉郷輝が、弘化4年8月に建立したお墓があります。
川越防禦士 内池伊賀介郷永墓 と刻まれておりますが、苗字が一緒ですので内池武者衛門ゆかりの方かと思われます。
もしご存知でしたら、お教えくださいませんでしょうか。
昨日、お墓参りに行って来たところです。

※続いて、つぎのような、興味深い記事を送って頂きました。

Re: 内池武者右衛門のことについて  Prev: 145 / No: 146
投稿者:三浦三崎 03/12/09 Tue 00:05:27
このころ、光念寺では三浦半島防御のため会津藩が駐留したあと、川越藩が陣取っていたそうです。
年代的にも、内池武者右衛門がいたことは間違いないようです。
昭和の時代に、このお墓を探して、川越の方から調査の人が来たそうです。
私の母方の先祖が、たまたま隣に墓地があり、今から160年ほど前墓を改修する際に、寺の住職から、無縁仏になるのは、はかないので面倒を見てくれと言われ、その後ずっと花と線香を絶やすことなくお守りしています。
私も子供の頃、祖父母からこの墓標について話を聞きましたが、すでに祖父母、両親とも亡くなり、詳細は判らないままです。
(子供の頃は、お侍様のお墓という記憶だけでした)
平成7年に墓所を改装しましたが、この墓碑だけは残しております。
何か武者右衛門さんの事が判ればと思った次第です。

※久しぶりに、三浦三崎さんから続報がありましたので、ご紹介します。

川越防禦士のこと  No: 691
投稿者:三浦三崎 06/05/07 Sun 02:04:07
川越原人さん、こんにちは。
今から2年半くらい前に、この掲示板に書き込みをした者です。

川越藩士の内池武者右衛門の建立した墓碑についてのことでしたが、これに関する続報です。
平成18年4月1日付で「会津藩士とその家族の墓碑」が、神奈川県三浦市指定重要文化財に指定されました。
詳細は、次のURL(PDFファイル)からご覧いただけます。
http://www.city.miura.kanagawa.jp/index/download/013026;000001.pdf
ここにも、川越藩のことが記載されていますが、この連休を利用して少しばかり調べてみました。
川越藩が三崎(現在の神奈川県三浦市三崎)の海防陣屋に駐留したのは、天保13年(1842年)から弘化4年(1847年)の5年間のようです。
会津藩士と同様、在任中病没した川越藩士の墓4基が三崎にありました。
光念寺の「内池伊賀介郷永」と、無縁寺(焔魔堂)の「高須信○」の墓碑=この墓碑は写真に収めました。このほか見桃寺に2基あるそうです。(今回は見桃寺へは行けませんでした)
内池伊賀介郷永の墓は弘化4年8月に内池武者右衛門が建立しており、高須信○の墓は子の高須信文が建立しております。碑文からは弘化4年6月に病により51歳で亡くなったことが読み取れ、また辞世の句も刻まれております。
ぶしつけで恐縮ですが、ご参考までにお知らせいたします。

注記:○は、「口」くちへんに「羽」はねを書いて、下に「珍」の王へんを取った字  (文字化けしてしまいますので、あえて表記していません)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 堀達之助(ほり たつのすけ)
1823〜94(文政6〜明治27)幕末・維新期のオランダ通詞。英学の先駆者。
(系)オランダ通詞中山作三郎武徳の5男、母は陳。オランダ通詞堀儀左衛門政信の養子。
(生)肥前(長崎県)。 (名)徳政、のち達之。
1848(嘉永1)アメリカの捕鯨船員マクドナルドから英語を学び、'54(安政1)ペリー再来航の際に小通詞として徴用され、応接掛林大学頭をたすけて活躍した。のちに下田奉行付の通詞に任ぜられたが罪を得て入牢。'59才能をかわれて出牢を許され、蕃書調所対訳辞書編輯主任、翌年同所筆記方を兼任。'62(文久2)「官板バタビヤ新聞」を発売させた。同年、わが国最初の「英和対訳袖珍辞書」を発行。のち開成所教授となり、維新後は開拓使大主典に任ぜられた。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 ペリー Perry,Matthew Calbraith
1794〜1858 アメリカの海軍軍人。
1852東インド艦隊司令長官に補せられ、駐日合衆国特派使節を兼ねた。'52旗艦ミシシッピーに乗り、海難船員の生命財産の保護、薪水食料の補給、港の開放、貯蔵所の設置権などを日本に要求するために出発、'53(嘉永6)那覇を経て浦賀に入港し、幕府に大統領の親書を受領させることに成功、翌年回答を得る約束を得て、退去。'54(安政1)幕府と和親条約の調印に成功した。本国へ帰国の途中、琉球王国と通商条約を調印した。日本遠征についてはホークスの「ペリー提督日本遠征記」がある。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 オールコック Alcock,Sir Rutherford
1809〜97 イギリスの外交官、幕末の駐日公使
1858(安政5)日本総領事兼外交代表に任命され、翌年江戸に着いた。

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作成:川越原人  更新:2024/01/28