武州一揆


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武州一揆
「埼玉県の歴史」 小野文雄 山川出版社 1971年 ★★
 近世/5維新の鼓動/慶応の打ちこわし
 前項でみたとおり、安政の開国は攘夷の嵐をまきおこしたが、同時に物価高騰による経済的混乱をもひきおこした。幕府は連年物価引下げ令をだして取り締まるとともに、五品(雑穀・生糸・呉服・水油・蝋)江戸廻し令を公布して、貿易制限を通じて物価騰貴をおさえようとした。しかし、物価はあがる一方で、安政六年(1859)から慶応三年(1867)の九ヵ年間に、江戸諸品相場は、米3.7倍、水油4倍、繰綿4.3倍、煎茶1.3倍、砂糖3.2倍、干鰯3倍、〆粕4倍、蝋2.4倍、紙3.4倍、瓦2.5倍、材木2.5倍、舟賃1.4倍に上昇したという(「幕末貿易史」)
 こうした物価の高騰にさいし、県内の農家が必ずしも困ったわけではない。それどころか、養蚕・製茶など商品生産に関係していた農家のなかには巨利をえたものもあった。大里郡血洗島村(豊里村)の渋沢宗助のごときは、慶応二年に附近の農家六軒と共同出資して奥州蚕種を仕入れ、横浜で売却して約1000両の純利をえている。また、なかには穀物の買占めなどにより不当利益をむさぼろうとするものもあった。安政六年(1859)八月、関東取締出役が、『其の身の利欲にふけり、買〆め等をする』不心得者を召し捕って調べるから、その旨末々の農民にまで申請しておくようにと、村々に通達をだしているのはそのためである。
 しかし、こうした農家とは反対に、物価騰貴によって苦しむ人びとも少なくなかった。とくに都市部や、山寄りの生産力の低い村などではそうした傾向が強かった。こうした状況のもとで、慶応二年(1866)六月、川越城下町および周辺の大工職が、米価引下げの要求をかかげて氷川神社境内に集まるという事件がおこった。事態を重視した川越藩では、急遽評議を開き、藩米1000俵を放出するとともに、安売米仕法≠だし、極貧のものへは一日一人三合の割りで、米価も100文当り二合のところを三合に引き下げて売り渡すことを布告し、ようやく事態を収拾した。しかしこうした救済をえられない地域では、貧農の不満が急速に高まった。同年六月十三日、突如として秩父郡名栗谷(入間郡名栗村)の農民が蜂起し、途中で参加した貧農を加えてしだいに人数を増しながら、まず飯能にいたり、富農数軒を打ちこわし、さらに扇町屋(入間市)で富農をおそったのち、所沢に押しよせたが、このときは人数も2000人におよび、富農18軒を打ちこわし、さらに二手に分かれて一隊は小川町方面、一隊は引又町(志木町)方面に向かった。この一揆の中心となっていたのはおよそ30人といわれ、真綿を頭上にかぶり鉢巻をし、太鼓や銅鑼で合図をしたという。一揆に参加した農民たちの武器は斧・鳶口・かけや・鎌などで、帯刀のものはほとんどいなかったが、なかには鉄砲をもったものもいたらしい。
 引又町へ押しよせた一隊は、高崎藩野火止陣屋の藩士たちによって空砲で追い散らされたので方向をかえて北上し、途中で富農を打ちこわしながら川越に押しよせた。川越藩ではすでに事件を知っていたので取締りの人数を派遣し、鉄砲を打って一揆を追い散らしたが、一群のものはそれから川島に向かい、高坂・坂戸・松山方面を打ちこわし一群といっしょになり、熊谷に向かって押しよせ、その途中、冑山村(大里村)の富豪根岸友山の家に押しよせた。根岸家では最初酒食をだしてもてなし難をまぬがれたが、やがて小川町方面を打ちこわした一隊が第二波として押しよせるのを知って、近隣の農民をかり集め、武装させて一揆にあたったから、烏合の衆であった一揆は四散し、近傍の農家は難をまぬがれた。この事件の顛末は、当時根岸家に寄食していた安藤野雁の書いた「冑山防戦記」にくわしい。
 小川町を荒らした一揆の一群は、その後秩父方面へ押しよせた。秩父大宮(秩父市)付近を支配していた忍藩代官は村役人に通達をだし、猟師を集めて防御することを命じたが、一揆側が、もし村で抵抗する場合は打ちこわしするとして、つぎのような回状を村々にまわした。
  大 急 用
以廻章申達候 然者打ちこわし一条ニ付、其村々惣百姓、十五才以上之者不残、 明十八日早朝、宮地まで可罷出候、若不参之者有之おいてハ不残打ちこわし可申候間、尤も銘々得物之義者、刀脇差等決て持参致候間敷候、但四ツ子、鎌、鋸様之物持参可致候、道筋之者往還端へ食物施し差出置可申候事
 このため、村役人たちは藩に事件を穏便にすますよう出兵をみあわせてもらいたいと嘆願した。しかし忍藩秩父領に乱入した一揆は、各地で打ちこわしをはじめたため、結局、代官所から人数をくりだし、徒党を追い散らす結果となり、事件後、村役人たちは藩に対し、自分たちの不明を詫びている。
 一方、幕府は事件を重視し、歩兵頭河津駿河守および関東郡代木村甲斐守に命じて一揆の鎮圧を命じ、関係地域の各藩に対しても両人の指揮にしたがって出兵することを命じたが、当時、各藩では京都警護のため多数の藩兵を上洛させており、そのうえ江戸湾警備や天狗党逮捕者の囚獄を受けもつものもあったから、藩兵は手うすで取締りに手を焼いたようである。このため忍藩のごときは、一時、品川台場の警備を軽減してもらいたいと幕府に願いでているほどである。
 しかし、幕府および諸藩の警備態勢がととのうと一揆はしだいに鎮圧され、六月十八日、上州新町宿をおそった一揆が岩鼻代官所と高崎藩連合軍に徹底的にうちのめされ、死傷者35人、逮捕者70人をだすにおよんでようやく鎮静に向かった。
 この事件はせまい名栗の谷で生じた貧農の蜂起がきっかけで、結局、約一週間にわたり、全県域に暴動の嵐が吹き荒れることになり、打ちこわしにあった家は約300軒におよんだ。これは各地の貧農たちが社会的不満をいだいており、これれ貧農が各地で一揆に参加したから、一揆の勢いがあたかも雪だるまのようにふくれあがったからである。
 しかし、結局は烏合の衆であり、群集心理にかられて各所で不必要な乱暴を働いたため、その行動は一般農民の支持をえられず、やがて、一般農民をも鎮圧軍に参加させる結果となった。もっとも、忍藩などでは翌月村々に触れをだして極貧の者を報告させ、米を支給するなどの処置をしているから、民政に対する為政者の関心をよびおこすうえで、事件の効果がなかったとはいえない。いずれにしても、これは幕末転換期を象徴するような大きな事件であった。

「埼玉県の歴史」 田代脩・塩野博・重田正夫・森田武 山川出版社 1999年 ★★
 武州一揆と維新前夜の社会

「埼玉民衆の歴史 明治をいろどる自由と民権の息吹 中沢市朗 新埼玉社 1974年 ★★
 ―はたらく埼玉県民の百年史―
明治維新から自由民権の激動をへて、黎明期社会主義へ
この時代を埼玉県民はどう生きぬいたのだろうか 埼玉の進歩と革命の伝統をかずかずの史実をつうじてリアルに描きだす

 第一章 埼玉の夜明け前/2 武州一揆前後
  狂い世のさま
 慶応二(1866)年という年は、大雨が降りつづいた。作物の出来は悪く、どこでも凶作であった。さらに困ったことには、物価がしきりにたかくなったことであった。米の値段は慶応元年には一駄(馬の背に荷をのせて送る単位で三十六貫を一駄の重さとする)四両だったものが、慶応二年六月には六両、同年十二月には八両になった。唐鍬の先がけも二百七十文もあがり、一両になった。当時の大工一日分の手間が二百五十文であったのだから、その値上りの分の大きさが推察できるだろう。食う物がなく、人びとは山へ登って、かずらを掘って食った。ある一農民は、こうした慶応の世を「狂い世」と呼んだ。
 全国各地に世直しをのぞむ農民の打こわしや、一揆がおこっていた。その噂は、埼玉全土にもたらされていた。「此頃諸国一般ニ打毀(うちこわし)流行スル、月日モ何レモ余リ不遠(とうからず)、不思議ナル事共也」――秩父郡薄村(両神村)の木公堂(ぼくこうどう)と号す農民柴崎谷蔵は、一揆の噂を耳にしそう日記に書いた。そしてこの年六月に入り、埼玉の人びとも自ら世直し一揆の主人公としてたちあがったのである。県下の民衆が体験した。それが御一新の始まりであった。

  川越の大工たつ
 慶応二年六月七日、川越城下の大工職人たちが、米の安売りを要求して、城下の氷川神社境内に集まった。彼らは百文につき白米五合の安売りを要求にかかげた。この年、幕府の第二次長州征伐を契機に、米価は前年の数倍にはねあがった。関東の小売り相場は、四月には百文につき米二合であった。当時大工の賃金は、一日三百文と米三合である。だから三百文では米六合しか買えない。これではとても生活してゆくことはできなかった。しかも当時は政変による動揺や資材の暴騰で普請の仕事はすくなく、長雨による休みもあったので、大工たちの生活は、困窮をきわめていたのである。
 川越藩はただちに藩米千俵を放出し、それを百文につき米三合で払いさげることにした。その結果六月十三日には、城下の騒ぎは一応静まった。だがこの大工たちのたたかいは、貧窮にあえぐ武州西北部一帯の民衆の心に、ともし火をともしたのであった。
  ひるがえる「世直将軍」の旗
 六月のある日、外では雨が降りつづいていた。秩父郡名栗村は天領支配下にある。この村の正覚寺本堂に、住職祖善をはじめ、同村竜泉寺の僧侶らが四、五名集り密談をしていた。彼らは安政の開港以来、米価の暴騰に苦しむ人びとをいかにして救うかを協議していたのだった。長い協議であった。その結果彼らは、つぎのような檄文を近隣の村むらへ飛ばすことをきめた。「開港が米価暴騰の元凶であり、富豪の米の買い占めにより、人びとの生活はまったく苦しくなっている。そのために、今や世直しをおこなわなければならない。よって十五歳から六十歳までの男は、おの、まさかり、のこぎりなどを持って集まること」――この檄のよびかけにこたえ、川越の大工のたたかいが一応鎮静した六月十三日未明、上名栗村の農民が蜂起した。この村での指導者は所有地わずか二十八歩の豊五郎、三畝十五歩の紋次郎の二人の貧農であった。そして上名栗村農民の蜂起を皮切りに、名栗谷、成木谷(多摩郡)一円の村民が立ちあがった。木びき職人、貧農が一揆の中心であったが、このたたかいの炎は、またたく間に開港の影響に洗われる武蔵西北部の養蚕地帯にひろがっていった。近世最大といわれる武州世直し大一揆は、こうしてはじまったのである。
 名栗谷、成木谷よりはじまった一揆勢は、飯能を最初に打ちこわし、近在の農民をまきこみながら、急速にふくれあがっていった。所沢、坂戸、松山、寄居、熊谷、本庄、秩父などの養蚕絹織物中心地域に打ちこわしの波は及んだ。そして六月十九日までの一週間に、南は多摩川、東は川越藩領新河岸川を越え、北は中山道を上下し、西は神流(かんな)川を越えて上州本動堂にいたる、まさに武州全域をおおいつくしたのであった。その参加人員は十万とも、二十万ともいわれている。
 世直し団は、梵天をえがいた戦旗をひるがえし、「平均世直将軍」と書いたのぼりを高くかかげ手におのやまさかり、のこぎりをもち、さらし木綿のはちまきをしめ、たすきをかけ進んだ。白、赤、萌黄(もえぎ)その他色とりどりの布を竹の先にくくりつけて、ときの声をあげながら進行した。彼らは打ちこわすべき穀屋、酒屋、高利貸などの名を帳面に記し、その土地土地で参加したものを案内にたてて、その家をたずねた。世直し団の頭取が「窮民を救う気持がありますか」とていねいに聞く。その家のあるじが要求を聞きいれるや、そこに札を立てて去る。不当な返答の場合は、ただちに打ちこわし、そのまま暴風雨のように去った。だが世直し団は、横浜越えをする貿易商の家だけは、問答無用に打ちこわしていった。

  「悪党にあらず打ちこわし様なり」
 六月十四日、飯能町酒屋八左衛門をたずねた世直し団は、「諸人助けのため、百文につき玄米五合大麦一升で売りだして欲しい」とかけあった。だがあるじはそれを聞きいれなかった。とみるや、大工、桶屋の二人の頭取りの合図がかかり、いっせいに打ちこわしがはじまった。一揆勢はどらや太鼓をならし、ほら貝や竹笛を吹き「諸人助けのためなり」と叫びながら大黒柱を切り倒し、屋根に縄をかけて引き倒した。土蔵の瓦をはぎ、酒、醤油、油樽のたがを切り、米俵をさいた。金子(きんす)をまきちらし、さらに質地、質物証文を残らず破りすてた。一方川越城下に迫った一隊は、川越藩兵と衝突した。だが、こともあろうに、藩兵は大砲、鉄砲を打ち放った。日本近世史を通じて、民衆の一揆に、大砲を打ち放った例は、私の知る限りでは、それまでにない。それは世直し一揆に恐れおののく封建権力の実態をまざまざと物語るものであり、彼らの残忍性を語るものであった。
 だが世直し団のなかから進みでた一人が、大声で叫んだ。「百姓兵を相手にして、あまりにも仰山なるやり方ではないか。貴方達のやり方は、ただ人の命をそこなうのみで、穏便に事をしずめようとするやり方ではない。百姓は百姓だけの考えで、世の見せしめのために、非道の者をこらしめているだけであり、われわれはあえて人命をそこなうための武器は持っていない。しかし、やむをえない時は、わが党も武器を持ってたたかう。その時はこんな城の一つくらい攻めおとすことは、わけはないのだ」―この確信に満ちたことばのなかには、武州一揆に起ちあがった世直し団の思想が表明されている。農民たちはもう、封建権力をも恐れないほどに成長していたのだ。川越藩兵はこの言葉にたじたじとなった。
 世直し団の主流は、坂戸から松山へ、そして寄居に進んだ。そしてここで二手になり、一隊は本庄から上州へ向い、一隊は荒川に沿い秩父盆地に入った。ここでは三日間にわたり、盆地内を打ちこわしたが、とくに十八日には山都大宮郷(秩父市)にある忍藩陣屋と牢屋を打ちこわし、囚人を解放した。またそこでの糸会所を襲撃した。藩の陣屋を攻撃したことのなかに農民たちの眼が、封建権力にも向けられていたことが物語られている。そして十九日、世直し一揆勢は、のちに秩父困民党のふる里になる、秩父郡西北部一帯を席捲し、十四軒の糸繭商人の家を打ちこわした。「多人数とは申しながらよく行届いている」とある人は言い、さきの伊古田純道は「財宝を陽に奪うことを禁じ、婦女は決して侵す事なし」と言って、その規律性を賞賛した。民衆は「悪党にあらずして打ちこわし様なり」とささやき、一揆勢力を歓迎したのである。
 この間、幕府、藩は鎮圧の体制を大わらわでとった。しかし、鎮圧者同士があわてて衝突したり、忍藩のある武将などは、山のうえから一揆勢が去るのを見届けてから、出兵する始末であり、また花火の筒を大砲にみせて一揆勢をおどすという状態で、ほとんど役に立たなかった。こうした藩兵にかわり、一揆勢を鎮圧した主力は、各地の富農を中心としてつくられていた農兵隊などの「自衛」組織であった。もともと農兵隊は文久元年に代官江川太郎左衛門英敏が、海防のために創設することを幕府に建言し、つくられたものであったが、幕府はこれを百姓一揆などの人民弾圧につかおうとしたものであった。しかし、この組織に集められた農民の間でもつぎのようなことが語られていたのだった。「一揆勢は貧民を救うのが目的であり、それを敵として争い、非道な物もちどもへ加勢するのは、自分で自分の首をしめるようなものだ。体をはってまで一揆勢をくいとめようとするのはおろかなことだ」と。このようにして一週間にわたり吹き荒れ、三百軒におよぶ家を打ちこわした武州世直し一揆は六月十九日に終った。
 上名栗村で一揆の先頭にたった紋次郎と豊五郎は、村に老衰、病身の親をのこしたまま、岩鼻代官所の獄につながれた。八月には、上名栗村の役人惣代が、両名の赦免を願いでたが、それは聞き届けられぬまま、紋次郎、豊五郎は獄死した。僧祖善は秩父郡大田村(現秩父市)で逮捕されたが、そのあとの行方はわからない。
 藩領、天領、旗本領という地域的分割をのりこえ広域闘争に発展したこの世直し一揆は、埼玉の地に封建制度を打ち破る力が大きく育ってきたことをあきらかに物語っていた。

  武州世直し一揆の意義
 慶応二年という年は、江戸時代をつうじて百姓一揆の件数が一番多い年であった。
 第二次長州征伐に出かけた将軍家茂が大阪に滞在中であったこの年五月、大阪近郊の農村で貧農を中心に一揆がおこり、それはまたたく間に大阪市中そ騒擾に発展した。そして五月末から六月にかけて、江戸で大規模な打ちこわしがおこり、それは関東一円にひろまった。この一揆のどよめきは北は奥州から、南は九州まで、まさに全国各地を席捲したのであった。その数八十一件といわれるが、この巨大な力が、幕藩体制の土台を大きくゆすぶり、明治維新変革の原動力となったのである。
 「諸国泰平」「平均世直し」を指導理念としてたたかわれた武州大一揆は、将軍のひざもとでの江戸の打ちこわしとともに、封建権力に終止符を打つ偉大なたたかいであった。それはたんなる自然発生的な暴動ではない。「人間の生命は大切にすべきものだ」という人間尊重の思想が世直し団の思想であった。だからかれらは人身加害をさけ、大砲をかまえた川越藩兵にむかって、堂どうと自己の正当性を主張できたのであった。囚人を解放したのもこの思想のあらわれであった。それは「切りすてごめん」の封建的な武士の道徳にたいし、それをのりこえた新しい時代の思想であり、道徳であった。また打ちこわすまえに必ず「窮民を援助するか否か」を交渉したことにみられるように一定の規律性をしめしていた。
 武州一揆は、県内の封建支配の基礎を根底からゆすぶった。このたたかいのなかで、自分の藩は守るが、天領のことはわれ関せずという封建支配者の無能が暴露された。川越、忍の殿様の時代はもう去ってゆくのだ、という実感を当時の民衆はいだいたのではなかったろうか。そしてこの一揆は、このたたかいに参加することのできなかった地域の人びとの魂に火をつけ、かれらをして反封建のたたかいに決起させる契機をつくりだした。
 江戸期をつうじてバラバラな状態で生きてきた人びとが、このたたかいのなかで結ばれたことの意義は大きく、それは新しい時代の台頭を意味していた。そしてこの連帯をつくりだした土台は、武州西北部における商品生産の急速な展開と前期的プロレタリアの発生であった。この一揆をつらぬいた経済的平等の思想、人間尊重の思想は、その後の埼玉の歴史のなかで、すぐれた県民の伝統として発展的にうけつがれていったのである。のちにのべる明治十七年の秩父事件もまた、武州大一揆の継承としてたたかわれたものであったのである。

  ゆらぐ川越藩主
 川越藩主松平大和守直克は、武州一揆の情報を江戸赤坂の藩邸で聞いた。直克は慶応元年の暮から病床にあった。直克は報告のなかで、川越藩兵が城下町にせまった一揆軍をあいてに、大、小砲をむけたこと、しかし一揆を最後に鎮圧したのは、農兵と高崎藩兵であることをも聞いたにちがいない。ことに一揆勢のまえで自藩の鉄砲隊も決定的な力にはなり得ず、高崎藩の力で一揆がしずめられたとする報告は、直克にとり衝撃的であったろう。
 川越藩は一揆直前の五月に軍制の大改革をおこない、西洋式の砲術を採用し、西洋銃を装備した銃隊を編成している。この軍制改革も人民攻勢のまえには、十分力を発揮できないことが実証されたからである。直克はそのころ黒星つづきであった。文久三(1863)年、尊皇攘夷運動が最高潮に達し、鎮港問題が国内政局の重要課題となっていた時、直克は幕府の政治総裁職にあった。この年水戸で過激攘夷派が徒党をくんで決起したいわゆる天狗党の乱がおこったが、直克はこの反乱を水戸藩のみの力で鎮圧せよと主張した。そして幕兵を動員してとりしまるべきだと主張する水戸藩主と鋭く対立、老中とも意見がわかれた。結局は天狗党の討伐に幕府は幕兵を動員したが、川越藩は兵を動かさず、そのため直克はその職をやめさせられ、当分登城みあわせ、謹慎の処分を受けていたのである。水戸藩のみの力で天狗党の乱を鎮圧せよと主張した直克にしてみれば、今度の一揆を自藩のみではどうすることも出来ず、他に波及させ、高崎藩がこれを鎮圧したということは、重大な政治責任の問われる問題であったろう。武州一揆直前の六月七日、幕府はふたたび長州征伐の火ぶたをきり、川越藩にもそのための費用を分担せよとの命令が来ている。それとの関連で領民にたいし、ふたたび入用金を命じねばならず、領民が騒擾をおこさない保障はなかった。
 直克は六月の一揆鎮圧に農兵が力を発揮したことを想いおこした。幕府に忠実であることにより自己の政治的安泰をはかろうとする直克は、ここで農兵の組織化をはじめようと思いたったのである。
 武州一揆の余じんの消えやらぬ慶応二年八月、川越藩は自領の農民を徴発して、農兵を新設する令をくだした。

  農兵新設に反対
 「お殿様も長州征伐のため上京するようだ。それと一緒に俺たちを連れて行くのにちがいない」「百姓仕事にさしつかえる、農兵なんてとんでもないことだ」「費用は村もちだという。迷惑千万なことだ」――村高百石につき一人の農兵、その費用として十五両を出せと命じてきた農兵新設令は、領民の不満をよびおこし、藩領砂久保村(現川越市)の農民のあいだに、右のような声が流れた。そしてその空気はすぐさま藩領南方十余ヵ村をつつんだ。幾年かまえとはちがい、武州大一揆の影響をうけた領民は急速に成長してきていた。そして藩当局はそれをみぬくことができなかったのだ。
 町奉行の農民説得もなんら効果をあらわさず、反対に農民は農兵反対の嘆願書を藩庁に提出することに決め、これを提出したが却下された。
 農民は、砂久保村の百姓源五右衛門をはじめ、十八ヵ村の惣代二名づつを指導者に選んだ。八月十九日武蔵野つづきの大野原に農民は集合した。雨が降ってきたので、その日は解散し、翌日ふたたび協議会をもった。そこへ藩の役人が鎮圧にやって来たので、農民はいったん解散し、会場を移して協議をすすめた。百姓源五右衛門の発議で、小前百姓(貧農)だけでなく、百姓代を含めて、大井町頭取りに嘆願書を提出することをきめ、団結を誓いあった議定書を作成、二十八名が連判した。その議定書には「今後いかなることがおこり、又は費用がかかったとしても、連印した村むらは裏切らないことにしよう」と申しあわせてあった。
 藩当局は、農民が藩主へ強訴でもしたら一大事と考え「とに角鎮静第一の義」として、一揆を未然にふせぐため、必死になって弾圧の手をのばした。目付を回村させて、指導者を血まなこで探索し、源五右衛門をはじめ万兵衛、豊吉ら四名を逮捕した。これを知った農民は、指導者の釈放を要求、その協議のため、ふたたび大野原へ集合した。たたかいは新しい局面にはいった。

  分裂けって強訴
 この農民の反対運動のたかまりに、藩側は一応譲歩した。農兵反対の嘆願書をうけとり、指導者の釈放を聞きいれることで、農民側と妥協し、八月二十六日源五右衛門らを釈放した。だが農兵新設の計画をすてたわけではなかった。藩は代官所をつうじ、あらためて「身柄の者」、つまり上層農民のなかより徴兵するという指示をおろしてきた。あきらかに分裂政策であった。農民はこの命令をも拒否した。上層農民も俺たち同様に難渋しているのだ、とさけんだ小前の主張が、藩の攻撃をけった力であった。すると藩はくじに当ったものが、農兵になるのだ、という主張をもちだしてきた。
 ふたたび嘆願書が作られた。その時浅右衛門は言った。「皆の衆、今一度この嘆願書を藩役所に出そう。それが聞きとどけられぬ時は、江戸迄も、どこ迄も行きましょう」――その時作られた「議定連印の事」なる連判状には、「村々一同命をかけ候とも、いずれの強談強訴にても嘆願たてまつるべく候事にとりきめ」―と書かれ必死に抵抗する農民の心情をつたえている。
 この段階で藩令を承諾しようという名主も幾人か出てきた。だが強訴(集団で訴える)を主張する小前層の決意は固く、動揺する名主をまきこみ、たたかいは進められていったそして藩側との再度の交渉が不成立に終ると江戸藩邸への強訴以外に方法はないという自覚が全体のものとなっていった。
 十月三日、ふたたび集会が大野原で開かれた。そしてこの会議の中心になったのは、小前層の人びとであった。
 農民が川越街道を江戸にむけて出発したのはこの直後である。藩の役人は必死になってこの動きを弾圧しようとしたが、農民はひるまずに江戸へむかい、あるきつづけた。大井町からは代表だけが江戸へむかう。役人はこれを押し返そうとする。「このままひきあげるわけにはゆきません。大井の宿で返答を待っている人びとがいるのですから」―事実、大井町には惣代の帰りを首を長くして待つ小前たちがたむろしていた。だが農民が死力をつくしたこの強訴は成功せず、藩権力によりふたたび弾圧された。十八名の者が逮捕され、これを契機に、藩はその後、砂久保村ほか十一ヵ村にたいし、頭取名主新井代助をつうじて、農兵差出しを積極的に働きかけてきたのであった。農兵徴発に応ずるなら指導者を釈放するというのである。このため、村のなかには、農兵取立てをやむなく承諾するところも出てきた。
 川越藩は一応初期の目的を達したかにみえた。だが藩主松平直克の「処変え」により、農兵新設の計画はみのらなかった。直克が前橋藩主に処変えになったのは、その年十月の暮れであった。行列を見送る農民の目は冷たかった。新藩主には前宇都宮藩主松平康秀がやってきた。首のすげかえではあったが、農民のねばり強いたたかいが、直克をして、川越藩主の座からひきずりおろす原動力になったことは疑いない。
 農民はこのたたかいで、逮捕者、入牢者を出した。源五右衛門は、前橋の獄につながれ数年をそこで送った。また彼とともに、この一揆の先頭になって奮闘した福原村の亀吉は、まだ二十九歳の若さであったが、ひどい責苦にあって両眼をつぶされた。
 いま川越市砂久保をたずねると、石川家の墓地に源五右衛門の墓がある。明治維新以後七十七歳で永眠したこの男は、生前将棋三段の資格をもっていたが、墓の台石は将棋の盤。その戒名は「棋翁博碩居士」。墓石の面に、源五右衛門の一揆への業績をたたえる文章が綴られているのをみることができる。彼ら指導者が入獄していたとき近隣の農民は、その苦しみをわがこととして受けとった。源五右衛門らが出獄するまでたがいに謹慎し、正月の餅もつかず、朝夕の食事を指導者にそなえ、そのあと食事をしたと伝えられている。
 このたたかいは武州一揆とはちがい、藩政策そのもに直接対決した一藩限りのたたかいであった。このなかで藩のたびかさなる分裂、懐柔政策をけって、たたかいに参加した農民の統一をまもり、前進させる中心となったのは、小前とよばれた貧農たちであった。
 川越藩の農兵設置反対闘争は、幕藩体制をゆるがす基本的な力が農民の闘争であることを象徴的に物語る事件であり、武州一揆を経験した農民は、すでに封建勢力にたいし、堂どうと自己を主張する勢力に成長してきていたのである。

「埼玉史談 第29巻第1号」 埼玉郷土文化会 1982年4月号 ★★
 武州一揆勢の進路についての一考察 ―引又を中心として―  神山健吉
一 はじめに
二 所沢から引又に向かうコース
三 引又以遠のコース
四 おわりに

「川越市今福の沿革史」 新井博 川越市今福菅原神社氏子会 1975年 ★★★
江戸時代の今福/農兵取立て一件と今福村/一 農兵隊設立の前提

「幕末の世直し 万人の戦争状態」 須田努 吉川弘文館 2010年 ★★
世直しと万人の戦争状態
 武州世直し騒動にみる「悪党」と暴力
  農兵設置に反対する人々

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作成:川越原人  更新:2010/12/5