川越の歴史6(騒動)


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騒動・一揆・運動
「歴史読本262 特集 徳川300藩騒動録 昭和51年12月号 新人物往来社 1976年 ★★
 列藩騒動録総覧/関東地方/明和伝馬騒動(川越藩)
明和元年(1764)
藩主 秋元凉朝
関係者 間瀬九右衛門、兵内

 中山道の往来激増のため、幕府は増助郷の課役を強いた。板橋から和田宿までの上野、武蔵、信濃の二十八宿に高百石につき人足六人、馬三疋である。これに反対する農民は、明和元年十二月免除を要求して蜂起する。助郷を命じた道中奉行安藤弾正は、間道をとおって江戸に逃れ、騒動を幕閣に伝えた。団結する農民を恐れて、命からがらの体たらくであったろう。
 老中松平武元は、同十二月二十九日増助郷免除を触れることを関東郡代伊奈忠宥に命じた。かれらの要求はは通ったものの、川越周辺の六十九ヵ村の一揆勢はまだ翌年の正月五日まで打ちこわしを続けていた。家老の間瀬九右衛門らは藩士を指揮して城下の入口を固め、防備した。そして、一揆が鎮圧され、責任ある者の犠牲を数えるのは、常に同じことであった。武州児玉郡関村の名主兵内は発頭人として獄門にかけられ、他に三百六十九人が処罰された。領内取締り不行届き、藩主凉朝も山形へ転封となった。

「埼玉県の歴史」 小野文雄 山川出版社 1971年 ★★
 伝馬騒動
   (前略)
 江戸時代を通じて、県内には、現在までに判明しているだけでも約五〇の農民騒動が発生しているが、その七〇パーセントが中期以降におこっている。また地域的にみると県の北部に多く、南部に少ない。これは県の北部が秩父山地およびその山麓地帯で生産力の低い村が多く、経済的に恵まれなかったのに対し、県の南部は平地がひろがり、江戸を近くにひかえて、経勢的にも恵まれていたためと解することができよう。
 これらの農民騒動のなかでももっとも大規模のものは明和元年(1764)に発生した伝馬騒動(天狗騒動・武上騒動ともいう)である。この年は朝鮮使節の来朝により、高一〇〇石につき金三両一分と銀七匁五分という高額の国役金が賦課されていた。ところが幕府は翌二年に日光東照宮で一五〇回忌の法要が営まれることを理由に、日光道中および中山道筋の助郷役を増強する計画をたて、その年から助郷村の調査に着手した。岩鼻代官所ではこの指令を受けて手代を本庄宿に出張させ、群馬県佐位郡・那波郡・新田郡および埼玉県の児玉郡・榛沢郡・賀美郡・那珂郡・秩父郡など九五ヵ村に対し、村役人の出頭を命じたが、これを知った村々では大騒動となり、道中奉行へ訴訟をおこそうという機運が高まってきた。そのうち誰がだしたものか、『閏十二月十六日に村々の百姓のうち十五から六〇までの男は一人のこらず、十条(美里村)の身馴川原に集まれ、もし集まらぬ場合は、その村に乱入して讐(あだ)をする』との触れがでたから、一揆の人数はふくれる一方であった。この報を聞いた幕府はただちに勘定奉行所の倉橋与四郎を派遣し一揆を鎮撫させようとしたが、一揆はこれを無視してさらに熊谷宿に押しかけた。このとき熊谷宿助郷村々の農民をあわせてその数は七〇〇〇人にもおよんでいたという。これを知った忍藩では、ただちに役人および足軽兵を熊谷に派遣して警備をかためさせ、町の商人たちも本陣に集まって一揆にそなえた。このため一揆が二十七日に宿場に進入するとたちまち衝突がおこり、一揆側は多数の負傷者をだして追い散らされた。しかし鴻ノ巣宿・桶川宿などでもすでに同宿助郷の農民が結集しはじめていた。事態を重視した幕府はついに増助郷中止を決定し、郡代伊奈半左衛門に農民の鎮撫を命じた。半左衛門はただちに役人を桶川宿に派遣し、増助郷中止を触れさせたから、一揆はようやく解散した。
 ところがそのあと晦日から翌年正月にかけて、各地で農民の富農襲撃、すなわち打ちこわし≠ェはじまった。打ちこわしにあった家は足立郡で一軒、比企郡で二軒、高麗郡で六軒、入間郡で三軒、埼玉郡で四軒におよんでいる。そのほかにも多数の富農がねらわれたようであるが、あるいは金品をだし、あるいは炊出しをするなどによって難をまぬがれた家も多い。また打ちこわし≠ノあった家のなかには、足立郡川田谷村の甚佐衛門のように多数の人足をやとい、打ちこわし≠むかえうった家もあった。打ちこわし≠ヘ目的をもたぬ烏合の衆であったから、川越藩(秋元氏)からも藩兵が出張するにおよび、正月八日ごろまでにすべて鎮圧された。
 こうして幕府をおどろかせた伝馬騒動もおさまったが、幕府は事後処理として一部村役人を処罰するとともに、騒動に加わった農民たちを捕えて処分をおこなった。このとき児玉郡関村(美里村)の名主兵内は事件の首謀者とされ、死罪獄門に処され、その他流刑・入牢・追放などの刑に処されたものは群馬県下を含めて三六〇名余におよび、その三分の二以上が村役人層であった。これらのなかには入牢中病死したものも一〇数名におよんでいる。なお兵内は義民としてその一〇〇年後の文久三年(1863)神にまつられ、現在も地元の人びとが毎年欠かさず祭りをおこなっている。兵内の義挙をうたったものに兵内くどき≠ェある。
   兵内くどき(文久三年作)の一節
 …………ここは名におう十条河原、其の日集る人数のほどは、凡そ一万八千余人、名主兵内諸人に向い、当時お上の御無理な事や、時の役人非道な故に、しかし大勢騒立つなれば、上のおきてを破るも道理、吾はもとより諸人の為に、捨る命は覚悟の上と…………(以下略)
   (後略)
小説 (「伝馬騒動と義民・兵内」

「川越歴史随筆」 岡村一郎 川越地方史研究会 1981年 ★★★
 5.明和二年の武上騒動

「百姓一揆」 若尾政希 岩波新書 2018年 ★
「反体制運動ではなかった」、「竹槍や蓆旗(むしろばた)は使われなかった」――百姓一揆の歴史像は、研究の進展によって大きく転換した。なぜ百姓は、訴訟や一揆を通して粘り強く自己主張することができたのか。各地に残る「一揆物語」には、どんな思想が盛りこまれているか。その独特のピープルズ・パワーから、近世という時代を考える。
 
第1章 近世日本はどんな社会だったか
 2転換の時代に生きて
  「個人」の思想形成に着目してみる
  書物と読書を手がかりに
第2章 百姓一揆像の転換
 『民衆運動史』と展示「地鳴り山鳴り」と
  「地鳴り山鳴り」
第4章 百姓一揆物語はなぜ生まれたか
 1一揆物語の構造
  一揆物語を年表にすると
表 百姓一揆物語年表
 一揆発生年月タイトル(書名)地 域所 領作 者成立時期書写情報
221764年(明和1)閏12月『川越蠢動記』武蔵・上野・下野・信濃国幕領地白ガイ道人1771年11月 
501821年(文政4)11月『勧農教訓録』上野国那波郡川越藩林八右衛門  

「秩父事件 自由民権期の農民蜂起」 井上幸治 中公新書161 1968年 ★
 明治国家がまさに確立されんとする時期、秩父の渓谷を中心舞台に蜂起し、「無政の郷」を現出した農民たちのエネルギーはどのようにして発揮されたのか。事件の策源地に生まれ育ち、この事件を歴史家としての原点とする著者が、新資料をもとに、 困民党の反権力意識、行動形態、組織など農民の主体的基盤となるものを解明する。 ここには、農民の生き生きとした変革の精神があふれ、さらに従来の見解に対して再検討を迫るものがある。

Y.本陣の崩壊/軍隊の出動

 埼玉県首脳部は、困民軍は一直線に寄居を突破し、浦和に向かって進出をくわだてる可能性があると判断しており、三日午前六時には(山県)内務卿にたいして警視庁巡査七〇名を浦和に派遣するよう電報で要請しているが、これは却下された。 東京鎮台の参謀の高井少佐は笹田書記官につぎのように語る。
  内務卿ハ川越地方ノ事最モ懸念ナリ、一端此ニ及ブトキハ害又少々ニアラズ、注意スベキ事云々
  スデニ派遣スベキ(鎮台兵ノ)隊名モ定マリ居レリ云々
 山県が川越地方を警戒したのは、おそらく輸送機関のないためであったろう。県は川越地方に憲兵隊を重点的に配置したため、寄居に出張した県令の電請により、鎮台兵は児玉地方に派遣されることになったのである。
Y.本陣の崩壊/包 囲
 いま困民軍にとって、秩父全体が自由な作戦場であった。
 これにたいして寄居本部は、警官およそ四三〇名、来援の憲兵三小隊、鎮台一中隊の大兵力となり、これを寄居口・飯能口・八幡山口・小川口の四方面、七ヵ所に派遣し、秩父から平野に進出する主道はもちろん、間道まで閉鎖することになった。 この守備態勢は四日には確立した。さらに三日には川越士族五三名を動員して、小川口の間道坂本に配置することにした。 県の本部としては、なんとしても浦和の県庁へ強請の進撃をくとめなければならなかった。 
Y.本陣の崩壊/「運命ヲ俟タン」
 織平が周三郎の事件で手まどり、皆野に来たとき、すでに栄助のゆくえはわからなかった。「故ニ自分モ逃ゲルヨリ外ナキト思ヒ」その場に居合わせた善吉、為吉、荻原勘次郎ほか吉田某など、五名で蓑山にのぼり、山道づたいに慈光寺のある比企郡平村に出たのは五日の朝だった。 ここで織平と善吉、勘次郎は為吉とわかれ、その日は川越の大黒屋という宿屋で不安な夜をおくり、翌日、東京に出るまで二度ばかり不審訊問を受けたがなんとかきりぬけ、三人で東京にはいり、神田小柳町の宿屋にとまっているところを押えられた。
 為吉は川越から所沢に出て、途中で吉田とわかれ、七日東京にはいった。品川の妓楼で一泊したのち、芝に住む同郷の菊池藤助の家で二泊し、一五日まで旅人宿におり、そこで捕らえられた。
Z.山中谷/粥仁田峠
 めぼしい幹部は戦列をはなれてしまった。しかし、その時刻に皆野における本陣の解体を知らず、峠に哨兵線を張ったり、出動の途中であったりした部隊にとって、戦闘はこれからはじまるところであった。
 山県内務卿が川越方面について埼玉県の注意を喚起したことは、警備の上にいくつかの反応を起した。一一月三日、川越では警察と群長の斡旋で、士族五三名をつのり、その夜のうちに外秩父に出発させたのも、反応の一つであった。
 外秩父から川越方面に出る道は小川口とよばれ、粥仁田峠をこえる坂本口、二、三の峠道をたどり慈光寺の村に達する西平口にわかれていた。両方の地帯の郡境は、分水嶺の外側の斜面までのびるために、古くから外秩父とよばれている。 秩父の内部では遊撃隊が自由にはせまわり、軍用金の徴発や焚出し、人夫駆出し、高利貸打ちこわしが自由におこなわれているが、この作戦を外秩父に延長すると、警察はこれを秩父から平野部、川越方面への出撃と解釈することになる。 

「日本の歴史21 近代国家の出発」 色川大吉 中公文庫 1974年 ★
資本主義創世記(二)/山県の心痛 に秩父事件の川越に関する記載があります。
 大宮郷占領のしらせは、十一月三日の朝になって、ようやく山県有朋のもとにとどいた。笹田からの電報によると、賊軍はさらに二手に分かれ、一隊は名栗をこえて川越へ、もう一隊は小川をめざし、北回りに川越に入って合流し、浦和の県庁へ乱入のみこみである、と。
 山県が憂慮したのは、戦闘が東京近郊でおこなわれ、その連鎖反応が内外に波及することであった。これは内務卿兼参謀本部長山県有朋の体面をいちじるしく傷つける。 かれはすぐに憲兵二小隊の増援の措置をとり、午後二時特別仕立ての汽車で浦和へ出発させた。さらに東京鎮台の参謀高井少佐を同行させた。笹田は浦和駅へかけつけ、参謀らをむかえて意見をきいた。
 「其談ニ曰ク、内務卿ハ川越地方ノコト最懸念ナリ、一端此ニ及ブトキハ害亦少々ニアラズ」
 川越警備を第一とし、憲兵一小隊を飯能・名栗に急行させて敵に備え、もう一小隊を二つに分けて、その一隊を松山から小川にむけて配備した。高井参謀はそれから寄居の本部に急行。その寄居では金崎村での敗戦によって、この寄居本部すら危険におちいったと騒いでいた。
 (中 略)
 客観的に見て、このときの政府側の配備はまったく見当ちがいだった。かれらがもっとも恐れ、重視していた飯能口や小川からの川越→浦和→東京進攻などというものは、農民軍には計画すらなく、まったくの蜃気楼にすぎなっかた。 むしろ、児玉郡へ突出して中仙道の深谷へでるか、信州へぬけるコースこそが、もっとも現実化する可能性があった。

「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
近代・現代/日清・日露戦争の時代
  ・女工哀史と廃娼運動
 日清・日露戦争を経て日本の資本主義は「進展」する一方、都市貧民問題、工女を中心とした労働問題、公害問題、小作争議の発生、子女の身売りなど深刻な社会問題を起こした。1899(明治32)年に横山源之助は都市下層民の生活を『日本之下層社会』で著し、1903年に農商務省は、紡績・製糸・鉄工業などで働く労働者の実態を『職工事情』で著した。農村は若年で安価な労働力の供給地となり、女子の中には半奴隷的は工女、芸娼妓酌婦(げいしょうぎしゃくふ)、海外「醜業婦(しゅうぎょうふ)」(「からゆきさん」)などで酷使される者もでた。彼女たちは、出身階層、就業事情、教育程度、前借金(まえしゃっきん)による年季奉公(ねんきぼうこう)制などの点で共通していた。1911年10月から3カ月間、『埼玉新報』は「職工優遇模範工場投票募集」を行い、1位は深谷町(深谷市)の富国館製糸場、2位は同町の開国館製糸場、3位は大宮町(さいたま市)の大宮館製糸場となった。明治天皇の三回忌にあたる14(大正3)年7月30日の『埼玉日日新聞』は、一面全面を「明治天皇祭」として明治天皇の胸像を掲載した。最下段のコラムには、「昨深谷に至り、製糸工場の外郭を見る、総ての窓には鉄柵あり鉄網を張る、殆ど牢獄と同一也、内には猛獣を飼へるに非ず、狂人を繋げるに非ず、可憐なる少女を容るる也……」とあった。深谷と本庄の遊廓は、1876年に熊谷県から埼玉県に移管されていた。
 1893年頃、入間郡豊岡町(入間市)に設立された石川組製糸場は、1908年には川越町に工場進出した。一族の石川和助がクリスチャンだった影響もあって、工女の教育に力を注ぐなど待遇に若干の違いがあった。工女の多くは山梨県から来ていた。東京英和学校神学生の和助は、1889年7月から長老師ジュリアス=ソパールとともに豊岡町で伝道を始め、豊岡と川越をメソジスト派の中心地とした。川越分教会牧師には同校出身の山内庫之助を任命した。山内は91年4月に辞職して弁護士活動に入り、94年7月には豊橋教会から別所梅之助が牧師として赴任した。95年1月下旬から川越に公娼新設の計画が起こると、別所らは反対運動を行った。埼玉では1888〜89年、95年、99〜1900年、28年の4回、廃娼運動のピークがあり、1929(昭和4)年、埼玉県の深谷・本庄の遊廓は廃止された。廃娼運動には山内、石川、安部磯雄、『毎日新聞』の島田三郎木下尚江らが関わった。
 参考文献 鹿野政直・由井正臣編『近代日本の統合と抵抗』第二巻 日本評論社 1982
近代・現代/戦後の民主化
  ・労働組合の誕生
 1946年(昭和21)年5月1日、戦後初の第17回メーデー(全国で200万人が参加)にあわせて、埼玉の第9回メーデーが開かれた。川越市でも蓮馨寺(れんけいじ)境内を会場に開かれ、4000人が参加した。図1(略)のように川越郵便局従業員組合は、「ナイカクソーリダイジン(宛)ソクジクワセルセイジヲジツゲンシロ」という電報風立て看板や、「生活の安定なくし何の通信事業だ!」「労働者万歳!メーデー万歳!」などの立て看板を掲げて参加した。
 戦後も政府は「国体護持」にこだわり、労働運動の意義は認めず、45年10月3日、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の山崎内相・岩田法相は「治安維持法は継続」と表明した。自由を抑圧し続ける政府に外国人記者からの批判が高まり、10月10日に政治犯3000人が釈放された。10月20日には共産党機関紙『赤旗』が再刊され(党大会は19年ぶり12月に開催)、11月2日には日本社会党が結成された。戦時中軍需工場だった川越市三徳(さんとく)工業(新報国製鉄)は、敗戦後700人の従業員全員を解雇し、平和産業に転換して300人だけを再雇用する方針をとった。戦時中は徴用工として低賃金で酷使しながら、職業復帰の目途(めど)のたたない段階で解雇を行うのは不当だとして、10月22日、33人の労働者が首切り反対運動のため連帯して1日間のストライキを行い、全員の再雇用を勝ち取った。
 東京では10月24日に『読売新聞』従業員が、社内の戦争責任を明らかにするため、社長・副社長・全重役・全局長の即時退陣を要求し、新聞の自主的生産(生産管理闘争)を始めた。12月22日には労働組合法が公布された。しかし人々の生活は苦しく、翌46年5月1日、皇居前広場は50万人のメーデー参加者で埋まった。5月19日には同所に25万人が集まって「飯米獲得国民大会」が開かれた(食糧メーデー)。5月20日には「組閣、流産の危機へ、吉田(茂)氏は投げ出し決意」と報道された。しかし、GHQのマッカーサーは、輸入小麦の日本国内への放出許可を与えて、21日に「暴民デモは許さず」として、高揚した民主化運動の弾圧を示唆し、政権は維持された。埼玉の労働組合結成状況は、統計では46年4月以降低迷した。
 参考文献 川越地方労働運動史編集委員会編『川越地方労働史』上巻 2000

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 安部磯雄(あべ いそお)
1865〜1949(慶応1〜昭和24)明治・大正・昭和期のキリスト教社会主義者・社会運動家。

 島田三郎(しまだ さぶろう)
1852〜1923(嘉永5〜大正12)明治・大正時代のジャーナリスト・政治家。

 木下尚江(きのした なおえ)
1869〜1937(明治2〜昭和12)明治・大正・昭和期の小説家・思想家・社会運動家。

 MacArthur,Douglas(マッカーサー
1880〜1964 アメリカの陸軍軍人。

武州一揆
「埼玉県の歴史」 小野文雄 山川出版社 1971年 ★★
 近世/5維新の鼓動/慶応の打ちこわし
 前項でみたとおり、安政の開国は攘夷の嵐をまきおこしたが、同時に物価高騰による経済的混乱をもひきおこした。幕府は連年物価引下げ令をだして取り締まるとともに、五品(雑穀・生糸・呉服・水油・蝋)江戸廻し令を公布して、貿易制限を通じて物価騰貴をおさえようとした。しかし、物価はあがる一方で、安政六年(1859)から慶応三年(1867)の九ヵ年間に、江戸諸品相場は、米3.7倍、水油4倍、繰綿4.3倍、煎茶1.3倍、砂糖3.2倍、干鰯3倍、〆粕4倍、蝋2.4倍、紙3.4倍、瓦2.5倍、材木2.5倍、舟賃1.4倍に上昇したという(「幕末貿易史」)
 こうした物価の高騰にさいし、県内の農家が必ずしも困ったわけではない。それどころか、養蚕・製茶など商品生産に関係していた農家のなかには巨利をえたものもあった。大里郡血洗島村(豊里村)の渋沢宗助のごときは、慶応二年に附近の農家六軒と共同出資して奥州蚕種を仕入れ、横浜で売却して約1000両の純利をえている。また、なかには穀物の買占めなどにより不当利益をむさぼろうとするものもあった。安政六年(1859)八月、関東取締出役が、『其の身の利欲にふけり、買〆め等をする』不心得者を召し捕って調べるから、その旨末々の農民にまで申請しておくようにと、村々に通達をだしているのはそのためである。
 しかし、こうした農家とは反対に、物価騰貴によって苦しむ人びとも少なくなかった。とくに都市部や、山寄りの生産力の低い村などではそうした傾向が強かった。こうした状況のもとで、慶応二年(1866)六月、川越城下町および周辺の大工職が、米価引下げの要求をかかげて氷川神社境内に集まるという事件がおこった。事態を重視した川越藩では、急遽評議を開き、藩米1000俵を放出するとともに、安売米仕法≠だし、極貧のものへは一日一人三合の割りで、米価も100文当り二合のところを三合に引き下げて売り渡すことを布告し、ようやく事態を収拾した。しかしこうした救済をえられない地域では、貧農の不満が急速に高まった。同年六月十三日、突如として秩父郡名栗谷(入間郡名栗村)の農民が蜂起し、途中で参加した貧農を加えてしだいに人数を増しながら、まず飯能にいたり、富農数軒を打ちこわし、さらに扇町屋(入間市)で富農をおそったのち、所沢に押しよせたが、このときは人数も2000人におよび、富農18軒を打ちこわし、さらに二手に分かれて一隊は小川町方面、一隊は引又町(志木町)方面に向かった。この一揆の中心となっていたのはおよそ30人といわれ、真綿を頭上にかぶり鉢巻をし、太鼓や銅鑼で合図をしたという。一揆に参加した農民たちの武器は斧・鳶口・かけや・鎌などで、帯刀のものはほとんどいなかったが、なかには鉄砲をもったものもいたらしい。
 引又町へ押しよせた一隊は、高崎藩野火止陣屋の藩士たちによって空砲で追い散らされたので方向をかえて北上し、途中で富農を打ちこわしながら川越に押しよせた。川越藩ではすでに事件を知っていたので取締りの人数を派遣し、鉄砲を打って一揆を追い散らしたが、一群のものはそれから川島に向かい、高坂・坂戸・松山方面を打ちこわし一群といっしょになり、熊谷に向かって押しよせ、その途中、冑山村(大里村)の富豪根岸友山の家に押しよせた。根岸家では最初酒食をだしてもてなし難をまぬがれたが、やがて小川町方面を打ちこわした一隊が第二波として押しよせるのを知って、近隣の農民をかり集め、武装させて一揆にあたったから、烏合の衆であった一揆は四散し、近傍の農家は難をまぬがれた。この事件の顛末は、当時根岸家に寄食していた安藤野雁の書いた「冑山防戦記」にくわしい。
 小川町を荒らした一揆の一群は、その後秩父方面へ押しよせた。秩父大宮(秩父市)付近を支配していた忍藩代官は村役人に通達をだし、猟師を集めて防御することを命じたが、一揆側が、もし村で抵抗する場合は打ちこわしするとして、つぎのような回状を村々にまわした。
  大 急 用
以廻章申達候 然者打ちこわし一条ニ付、其村々惣百姓、十五才以上之者不残、 明十八日早朝、宮地まで可罷出候、若不参之者有之おいてハ不残打ちこわし可申候間、尤も銘々得物之義者、刀脇差等決て持参致候間敷候、但四ツ子、鎌、鋸様之物持参可致候、道筋之者往還端へ食物施し差出置可申候事
 このため、村役人たちは藩に事件を穏便にすますよう出兵をみあわせてもらいたいと嘆願した。しかし忍藩秩父領に乱入した一揆は、各地で打ちこわしをはじめたため、結局、代官所から人数をくりだし、徒党を追い散らす結果となり、事件後、村役人たちは藩に対し、自分たちの不明を詫びている。
 一方、幕府は事件を重視し、歩兵頭河津駿河守および関東郡代木村甲斐守に命じて一揆の鎮圧を命じ、関係地域の各藩に対しても両人の指揮にしたがって出兵することを命じたが、当時、各藩では京都警護のため多数の藩兵を上洛させており、そのうえ江戸湾警備や天狗党逮捕者の囚獄を受けもつものもあったから、藩兵は手うすで取締りに手を焼いたようである。このため忍藩のごときは、一時、品川台場の警備を軽減してもらいたいと幕府に願いでているほどである。
 しかし、幕府および諸藩の警備態勢がととのうと一揆はしだいに鎮圧され、六月十八日、上州新町宿をおそった一揆が岩鼻代官所と高崎藩連合軍に徹底的にうちのめされ、死傷者35人、逮捕者70人をだすにおよんでようやく鎮静に向かった。
 この事件はせまい名栗の谷で生じた貧農の蜂起がきっかけで、結局、約一週間にわたり、全県域に暴動の嵐が吹き荒れることになり、打ちこわしにあった家は約300軒におよんだ。これは各地の貧農たちが社会的不満をいだいており、これれ貧農が各地で一揆に参加したから、一揆の勢いがあたかも雪だるまのようにふくれあがったからである。
 しかし、結局は烏合の衆であり、群集心理にかられて各所で不必要な乱暴を働いたため、その行動は一般農民の支持をえられず、やがて、一般農民をも鎮圧軍に参加させる結果となった。もっとも、忍藩などでは翌月村々に触れをだして極貧の者を報告させ、米を支給するなどの処置をしているから、民政に対する為政者の関心をよびおこすうえで、事件の効果がなかったとはいえない。いずれにしても、これは幕末転換期を象徴するような大きな事件であった。

「埼玉県の歴史」 田代脩・塩野博・重田正夫・森田武 山川出版社 1999年 ★★
 武州一揆と維新前夜の社会

「埼玉民衆の歴史 明治をいろどる自由と民権の息吹 中沢市朗 新埼玉社 1974年 ★★
 ―はたらく埼玉県民の百年史―
明治維新から自由民権の激動をへて、黎明期社会主義へ
この時代を埼玉県民はどう生きぬいたのだろうか 埼玉の進歩と革命の伝統をかずかずの史実をつうじてリアルに描きだす

 第一章 埼玉の夜明け前/2 武州一揆前後
  狂い世のさま
 慶応二(1866)年という年は、大雨が降りつづいた。作物の出来は悪く、どこでも凶作であった。さらに困ったことには、物価がしきりにたかくなったことであった。米の値段は慶応元年には一駄(馬の背に荷をのせて送る単位で三十六貫を一駄の重さとする)四両だったものが、慶応二年六月には六両、同年十二月には八両になった。唐鍬の先がけも二百七十文もあがり、一両になった。当時の大工一日分の手間が二百五十文であったのだから、その値上りの分の大きさが推察できるだろう。食う物がなく、人びとは山へ登って、かずらを掘って食った。ある一農民は、こうした慶応の世を「狂い世」と呼んだ。
 全国各地に世直しをのぞむ農民の打こわしや、一揆がおこっていた。その噂は、埼玉全土にもたらされていた。「此頃諸国一般ニ打毀(うちこわし)流行スル、月日モ何レモ余リ不遠(とうからず)、不思議ナル事共也」――秩父郡薄村(両神村)の木公堂(ぼくこうどう)と号す農民柴崎谷蔵は、一揆の噂を耳にしそう日記に書いた。そしてこの年六月に入り、埼玉の人びとも自ら世直し一揆の主人公としてたちあがったのである。県下の民衆が体験した。それが御一新の始まりであった。

  川越の大工たつ
 慶応二年六月七日、川越城下の大工職人たちが、米の安売りを要求して、城下の氷川神社境内に集まった。彼らは百文につき白米五合の安売りを要求にかかげた。この年、幕府の第二次長州征伐を契機に、米価は前年の数倍にはねあがった。関東の小売り相場は、四月には百文につき米二合であった。当時大工の賃金は、一日三百文と米三合である。だから三百文では米六合しか買えない。これではとても生活してゆくことはできなかった。しかも当時は政変による動揺や資材の暴騰で普請の仕事はすくなく、長雨による休みもあったので、大工たちの生活は、困窮をきわめていたのである。
 川越藩はただちに藩米千俵を放出し、それを百文につき米三合で払いさげることにした。その結果六月十三日には、城下の騒ぎは一応静まった。だがこの大工たちのたたかいは、貧窮にあえぐ武州西北部一帯の民衆の心に、ともし火をともしたのであった。
  ひるがえる「世直将軍」の旗
 六月のある日、外では雨が降りつづいていた。秩父郡名栗村は天領支配下にある。この村の正覚寺本堂に、住職祖善をはじめ、同村竜泉寺の僧侶らが四、五名集り密談をしていた。彼らは安政の開港以来、米価の暴騰に苦しむ人びとをいかにして救うかを協議していたのだった。長い協議であった。その結果彼らは、つぎのような檄文を近隣の村むらへ飛ばすことをきめた。「開港が米価暴騰の元凶であり、富豪の米の買い占めにより、人びとの生活はまったく苦しくなっている。そのために、今や世直しをおこなわなければならない。よって十五歳から六十歳までの男は、おの、まさかり、のこぎりなどを持って集まること」――この檄のよびかけにこたえ、川越の大工のたたかいが一応鎮静した六月十三日未明、上名栗村の農民が蜂起した。この村での指導者は所有地わずか二十八歩の豊五郎、三畝十五歩の紋次郎の二人の貧農であった。そして上名栗村農民の蜂起を皮切りに、名栗谷、成木谷(多摩郡)一円の村民が立ちあがった。木びき職人、貧農が一揆の中心であったが、このたたかいの炎は、またたく間に開港の影響に洗われる武蔵西北部の養蚕地帯にひろがっていった。近世最大といわれる武州世直し大一揆は、こうしてはじまったのである。
 名栗谷、成木谷よりはじまった一揆勢は、飯能を最初に打ちこわし、近在の農民をまきこみながら、急速にふくれあがっていった。所沢、坂戸、松山、寄居、熊谷、本庄、秩父などの養蚕絹織物中心地域に打ちこわしの波は及んだ。そして六月十九日までの一週間に、南は多摩川、東は川越藩領新河岸川を越え、北は中山道を上下し、西は神流(かんな)川を越えて上州本動堂にいたる、まさに武州全域をおおいつくしたのであった。その参加人員は十万とも、二十万ともいわれている。
 世直し団は、梵天をえがいた戦旗をひるがえし、「平均世直将軍」と書いたのぼりを高くかかげ手におのやまさかり、のこぎりをもち、さらし木綿のはちまきをしめ、たすきをかけ進んだ。白、赤、萌黄(もえぎ)その他色とりどりの布を竹の先にくくりつけて、ときの声をあげながら進行した。彼らは打ちこわすべき穀屋、酒屋、高利貸などの名を帳面に記し、その土地土地で参加したものを案内にたてて、その家をたずねた。世直し団の頭取が「窮民を救う気持がありますか」とていねいに聞く。その家のあるじが要求を聞きいれるや、そこに札を立てて去る。不当な返答の場合は、ただちに打ちこわし、そのまま暴風雨のように去った。だが世直し団は、横浜越えをする貿易商の家だけは、問答無用に打ちこわしていった。

  「悪党にあらず打ちこわし様なり」
 六月十四日、飯能町酒屋八左衛門をたずねた世直し団は、「諸人助けのため、百文につき玄米五合大麦一升で売りだして欲しい」とかけあった。だがあるじはそれを聞きいれなかった。とみるや、大工、桶屋の二人の頭取りの合図がかかり、いっせいに打ちこわしがはじまった。一揆勢はどらや太鼓をならし、ほら貝や竹笛を吹き「諸人助けのためなり」と叫びながら大黒柱を切り倒し、屋根に縄をかけて引き倒した。土蔵の瓦をはぎ、酒、醤油、油樽のたがを切り、米俵をさいた。金子(きんす)をまきちらし、さらに質地、質物証文を残らず破りすてた。一方川越城下に迫った一隊は、川越藩兵と衝突した。だが、こともあろうに、藩兵は大砲、鉄砲を打ち放った。日本近世史を通じて、民衆の一揆に、大砲を打ち放った例は、私の知る限りでは、それまでにない。それは世直し一揆に恐れおののく封建権力の実態をまざまざと物語るものであり、彼らの残忍性を語るものであった。
 だが世直し団のなかから進みでた一人が、大声で叫んだ。「百姓兵を相手にして、あまりにも仰山なるやり方ではないか。貴方達のやり方は、ただ人の命をそこなうのみで、穏便に事をしずめようとするやり方ではない。百姓は百姓だけの考えで、世の見せしめのために、非道の者をこらしめているだけであり、われわれはあえて人命をそこなうための武器は持っていない。しかし、やむをえない時は、わが党も武器を持ってたたかう。その時はこんな城の一つくらい攻めおとすことは、わけはないのだ」―この確信に満ちたことばのなかには、武州一揆に起ちあがった世直し団の思想が表明されている。農民たちはもう、封建権力をも恐れないほどに成長していたのだ。川越藩兵はこの言葉にたじたじとなった。
 世直し団の主流は、坂戸から松山へ、そして寄居に進んだ。そしてここで二手になり、一隊は本庄から上州へ向い、一隊は荒川に沿い秩父盆地に入った。ここでは三日間にわたり、盆地内を打ちこわしたが、とくに十八日には山都大宮郷(秩父市)にある忍藩陣屋と牢屋を打ちこわし、囚人を解放した。またそこでの糸会所を襲撃した。藩の陣屋を攻撃したことのなかに農民たちの眼が、封建権力にも向けられていたことが物語られている。そして十九日、世直し一揆勢は、のちに秩父困民党のふる里になる、秩父郡西北部一帯を席捲し、十四軒の糸繭商人の家を打ちこわした。「多人数とは申しながらよく行届いている」とある人は言い、さきの伊古田純道は「財宝を陽に奪うことを禁じ、婦女は決して侵す事なし」と言って、その規律性を賞賛した。民衆は「悪党にあらずして打ちこわし様なり」とささやき、一揆勢力を歓迎したのである。
 この間、幕府、藩は鎮圧の体制を大わらわでとった。しかし、鎮圧者同士があわてて衝突したり、忍藩のある武将などは、山のうえから一揆勢が去るのを見届けてから、出兵する始末であり、また花火の筒を大砲にみせて一揆勢をおどすという状態で、ほとんど役に立たなかった。こうした藩兵にかわり、一揆勢を鎮圧した主力は、各地の富農を中心としてつくられていた農兵隊などの「自衛」組織であった。もともと農兵隊は文久元年に代官江川太郎左衛門英敏が、海防のために創設することを幕府に建言し、つくられたものであったが、幕府はこれを百姓一揆などの人民弾圧につかおうとしたものであった。しかし、この組織に集められた農民の間でもつぎのようなことが語られていたのだった。「一揆勢は貧民を救うのが目的であり、それを敵として争い、非道な物もちどもへ加勢するのは、自分で自分の首をしめるようなものだ。体をはってまで一揆勢をくいとめようとするのはおろかなことだ」と。このようにして一週間にわたり吹き荒れ、三百軒におよぶ家を打ちこわした武州世直し一揆は六月十九日に終った。
 上名栗村で一揆の先頭にたった紋次郎と豊五郎は、村に老衰、病身の親をのこしたまま、岩鼻代官所の獄につながれた。八月には、上名栗村の役人惣代が、両名の赦免を願いでたが、それは聞き届けられぬまま、紋次郎、豊五郎は獄死した。僧祖善は秩父郡大田村(現秩父市)で逮捕されたが、そのあとの行方はわからない。
 藩領、天領、旗本領という地域的分割をのりこえ広域闘争に発展したこの世直し一揆は、埼玉の地に封建制度を打ち破る力が大きく育ってきたことをあきらかに物語っていた。

  武州世直し一揆の意義
 慶応二年という年は、江戸時代をつうじて百姓一揆の件数が一番多い年であった。
 第二次長州征伐に出かけた将軍家茂が大阪に滞在中であったこの年五月、大阪近郊の農村で貧農を中心に一揆がおこり、それはまたたく間に大阪市中そ騒擾に発展した。そして五月末から六月にかけて、江戸で大規模な打ちこわしがおこり、それは関東一円にひろまった。この一揆のどよめきは北は奥州から、南は九州まで、まさに全国各地を席捲したのであった。その数八十一件といわれるが、この巨大な力が、幕藩体制の土台を大きくゆすぶり、明治維新変革の原動力となったのである。
 「諸国泰平」「平均世直し」を指導理念としてたたかわれた武州大一揆は、将軍のひざもとでの江戸の打ちこわしとともに、封建権力に終止符を打つ偉大なたたかいであった。それはたんなる自然発生的な暴動ではない。「人間の生命は大切にすべきものだ」という人間尊重の思想が世直し団の思想であった。だからかれらは人身加害をさけ、大砲をかまえた川越藩兵にむかって、堂どうと自己の正当性を主張できたのであった。囚人を解放したのもこの思想のあらわれであった。それは「切りすてごめん」の封建的な武士の道徳にたいし、それをのりこえた新しい時代の思想であり、道徳であった。また打ちこわすまえに必ず「窮民を援助するか否か」を交渉したことにみられるように一定の規律性をしめしていた。
 武州一揆は、県内の封建支配の基礎を根底からゆすぶった。このたたかいのなかで、自分の藩は守るが、天領のことはわれ関せずという封建支配者の無能が暴露された。川越、忍の殿様の時代はもう去ってゆくのだ、という実感を当時の民衆はいだいたのではなかったろうか。そしてこの一揆は、このたたかいに参加することのできなかった地域の人びとの魂に火をつけ、かれらをして反封建のたたかいに決起させる契機をつくりだした。
 江戸期をつうじてバラバラな状態で生きてきた人びとが、このたたかいのなかで結ばれたことの意義は大きく、それは新しい時代の台頭を意味していた。そしてこの連帯をつくりだした土台は、武州西北部における商品生産の急速な展開と前期的プロレタリアの発生であった。この一揆をつらぬいた経済的平等の思想、人間尊重の思想は、その後の埼玉の歴史のなかで、すぐれた県民の伝統として発展的にうけつがれていったのである。のちにのべる明治十七年の秩父事件もまた、武州大一揆の継承としてたたかわれたものであったのである。

  ゆらぐ川越藩主
 川越藩主松平大和守直克は、武州一揆の情報を江戸赤坂の藩邸で聞いた。直克は慶応元年の暮から病床にあった。直克は報告のなかで、川越藩兵が城下町にせまった一揆軍をあいてに、大、小砲をむけたこと、しかし一揆を最後に鎮圧したのは、農兵と高崎藩兵であることをも聞いたにちがいない。ことに一揆勢のまえで自藩の鉄砲隊も決定的な力にはなり得ず、高崎藩の力で一揆がしずめられたとする報告は、直克にとり衝撃的であったろう。
 川越藩は一揆直前の五月に軍制の大改革をおこない、西洋式の砲術を採用し、西洋銃を装備した銃隊を編成している。この軍制改革も人民攻勢のまえには、十分力を発揮できないことが実証されたからである。直克はそのころ黒星つづきであった。文久三(1863)年、尊皇攘夷運動が最高潮に達し、鎮港問題が国内政局の重要課題となっていた時、直克は幕府の政治総裁職にあった。この年水戸で過激攘夷派が徒党をくんで決起したいわゆる天狗党の乱がおこったが、直克はこの反乱を水戸藩のみの力で鎮圧せよと主張した。そして幕兵を動員してとりしまるべきだと主張する水戸藩主と鋭く対立、老中とも意見がわかれた。結局は天狗党の討伐に幕府は幕兵を動員したが、川越藩は兵を動かさず、そのため直克はその職をやめさせられ、当分登城みあわせ、謹慎の処分を受けていたのである。水戸藩のみの力で天狗党の乱を鎮圧せよと主張した直克にしてみれば、今度の一揆を自藩のみではどうすることも出来ず、他に波及させ、高崎藩がこれを鎮圧したということは、重大な政治責任の問われる問題であったろう。武州一揆直前の六月七日、幕府はふたたび長州征伐の火ぶたをきり、川越藩にもそのための費用を分担せよとの命令が来ている。それとの関連で領民にたいし、ふたたび入用金を命じねばならず、領民が騒擾をおこさない保障はなかった。
 直克は六月の一揆鎮圧に農兵が力を発揮したことを想いおこした。幕府に忠実であることにより自己の政治的安泰をはかろうとする直克は、ここで農兵の組織化をはじめようと思いたったのである。
 武州一揆の余じんの消えやらぬ慶応二年八月、川越藩は自領の農民を徴発して、農兵を新設する令をくだした。

  農兵新設に反対
 「お殿様も長州征伐のため上京するようだ。それと一緒に俺たちを連れて行くのにちがいない」「百姓仕事にさしつかえる、農兵なんてとんでもないことだ」「費用は村もちだという。迷惑千万なことだ」――村高百石につき一人の農兵、その費用として十五両を出せと命じてきた農兵新設令は、領民の不満をよびおこし、藩領砂久保村(現川越市)の農民のあいだに、右のような声が流れた。そしてその空気はすぐさま藩領南方十余ヵ村をつつんだ。幾年かまえとはちがい、武州大一揆の影響をうけた領民は急速に成長してきていた。そして藩当局はそれをみぬくことができなかったのだ。
 町奉行の農民説得もなんら効果をあらわさず、反対に農民は農兵反対の嘆願書を藩庁に提出することに決め、これを提出したが却下された。
 農民は、砂久保村の百姓源五右衛門をはじめ、十八ヵ村の惣代二名づつを指導者に選んだ。八月十九日武蔵野つづきの大野原に農民は集合した。雨が降ってきたので、その日は解散し、翌日ふたたび協議会をもった。そこへ藩の役人が鎮圧にやって来たので、農民はいったん解散し、会場を移して協議をすすめた。百姓源五右衛門の発議で、小前百姓(貧農)だけでなく、百姓代を含めて、大井町頭取りに嘆願書を提出することをきめ、団結を誓いあった議定書を作成、二十八名が連判した。その議定書には「今後いかなることがおこり、又は費用がかかったとしても、連印した村むらは裏切らないことにしよう」と申しあわせてあった。
 藩当局は、農民が藩主へ強訴でもしたら一大事と考え「とに角鎮静第一の義」として、一揆を未然にふせぐため、必死になって弾圧の手をのばした。目付を回村させて、指導者を血まなこで探索し、源五右衛門をはじめ万兵衛、豊吉ら四名を逮捕した。これを知った農民は、指導者の釈放を要求、その協議のため、ふたたび大野原へ集合した。たたかいは新しい局面にはいった。

  分裂けって強訴
 この農民の反対運動のたかまりに、藩側は一応譲歩した。農兵反対の嘆願書をうけとり、指導者の釈放を聞きいれることで、農民側と妥協し、八月二十六日源五右衛門らを釈放した。だが農兵新設の計画をすてたわけではなかった。藩は代官所をつうじ、あらためて「身柄の者」、つまり上層農民のなかより徴兵するという指示をおろしてきた。あきらかに分裂政策であった。農民はこの命令をも拒否した。上層農民も俺たち同様に難渋しているのだ、とさけんだ小前の主張が、藩の攻撃をけった力であった。すると藩はくじに当ったものが、農兵になるのだ、という主張をもちだしてきた。
 ふたたび嘆願書が作られた。その時浅右衛門は言った。「皆の衆、今一度この嘆願書を藩役所に出そう。それが聞きとどけられぬ時は、江戸迄も、どこ迄も行きましょう」――その時作られた「議定連印の事」なる連判状には、「村々一同命をかけ候とも、いずれの強談強訴にても嘆願たてまつるべく候事にとりきめ」―と書かれ必死に抵抗する農民の心情をつたえている。
 この段階で藩令を承諾しようという名主も幾人か出てきた。だが強訴(集団で訴える)を主張する小前層の決意は固く、動揺する名主をまきこみ、たたかいは進められていったそして藩側との再度の交渉が不成立に終ると江戸藩邸への強訴以外に方法はないという自覚が全体のものとなっていった。
 十月三日、ふたたび集会が大野原で開かれた。そしてこの会議の中心になったのは、小前層の人びとであった。
 農民が川越街道を江戸にむけて出発したのはこの直後である。藩の役人は必死になってこの動きを弾圧しようとしたが、農民はひるまずに江戸へむかい、あるきつづけた。大井町からは代表だけが江戸へむかう。役人はこれを押し返そうとする。「このままひきあげるわけにはゆきません。大井の宿で返答を待っている人びとがいるのですから」―事実、大井町には惣代の帰りを首を長くして待つ小前たちがたむろしていた。だが農民が死力をつくしたこの強訴は成功せず、藩権力によりふたたび弾圧された。十八名の者が逮捕され、これを契機に、藩はその後、砂久保村ほか十一ヵ村にたいし、頭取名主新井代助をつうじて、農兵差出しを積極的に働きかけてきたのであった。農兵徴発に応ずるなら指導者を釈放するというのである。このため、村のなかには、農兵取立てをやむなく承諾するところも出てきた。
 川越藩は一応初期の目的を達したかにみえた。だが藩主松平直克の「処変え」により、農兵新設の計画はみのらなかった。直克が前橋藩主に処変えになったのは、その年十月の暮れであった。行列を見送る農民の目は冷たかった。新藩主には前宇都宮藩主松平康秀がやってきた。首のすげかえではあったが、農民のねばり強いたたかいが、直克をして、川越藩主の座からひきずりおろす原動力になったことは疑いない。
 農民はこのたたかいで、逮捕者、入牢者を出した。源五右衛門は、前橋の獄につながれ数年をそこで送った。また彼とともに、この一揆の先頭になって奮闘した福原村の亀吉は、まだ二十九歳の若さであったが、ひどい責苦にあって両眼をつぶされた。
 いま川越市砂久保をたずねると、石川家の墓地に源五右衛門の墓がある。明治維新以後七十七歳で永眠したこの男は、生前将棋三段の資格をもっていたが、墓の台石は将棋の盤。その戒名は「棋翁博碩居士」。墓石の面に、源五右衛門の一揆への業績をたたえる文章が綴られているのをみることができる。彼ら指導者が入獄していたとき近隣の農民は、その苦しみをわがこととして受けとった。源五右衛門らが出獄するまでたがいに謹慎し、正月の餅もつかず、朝夕の食事を指導者にそなえ、そのあと食事をしたと伝えられている。
 このたたかいは武州一揆とはちがい、藩政策そのもに直接対決した一藩限りのたたかいであった。このなかで藩のたびかさなる分裂、懐柔政策をけって、たたかいに参加した農民の統一をまもり、前進させる中心となったのは、小前とよばれた貧農たちであった。
 川越藩の農兵設置反対闘争は、幕藩体制をゆるがす基本的な力が農民の闘争であることを象徴的に物語る事件であり、武州一揆を経験した農民は、すでに封建勢力にたいし、堂どうと自己を主張する勢力に成長してきていたのである。

「埼玉史談 第29巻第1号」 埼玉郷土文化会 1982年4月号 ★★
 武州一揆勢の進路についての一考察 ―引又を中心として―  神山健吉
一 はじめに
二 所沢から引又に向かうコース
三 引又以遠のコース
四 おわりに

「近代日本農民運動史論」 田村栄太郎 月曜書房 1948年 ★★
  −目 次−
序 論
第一章 世直し(打毀し)
 一 上野・信濃餓民の世直し
 二 武蔵大工・貧農の世直し
 三 戊辰贋金インフレと世直し
    越後長岡領民の世直し・村松領民の愁訴
    岩代会津領民の贋金インフレ世直し
    信濃上田領民の贋金インフレ世直し・強訴
    信濃松代領民のインフレ藩札一揆・世直し・小作強談
 四 埼玉県困民党高利貸付打毀し
第二章 強 談
 出羽漆山幕府領質地強談
第三章 一 揆
 一 磐城白河藩政争と農民一揆
 二 播磨姫路領農民一揆・打毀し・落書
 三 信濃上田領民の一揆・打毀し
 四 三重県地租改正反対一揆
第四章 乱
 一 肥前島原の乱と農民の切支丹一揆
 二 越後柏崎の乱
 三 西南戦役と豊前農民の世直し
第五章 強 訴
 上野・高崎領農民強訴
第六章 愁 訴
 一 上野沼田領主真田領地没収事件と農民愁訴・落書
 二 農兵採用反対愁訴・強訴(未遂)
結 論

「一揆 雲助 博徒」 田村栄太郎 雄山閣 1972年
  −目 次−
博 徒
 国定忠次郎
 清水の次郎長
 会津の小鉄
 新門辰五郎
 勢力冨五郎(佐助)
 乱波と風呂寺
雲助、その他
 交通労働者雲助の生活
 茶壺通行と伝馬
 徳川時代の京阪旅篭屋の客引
 徳川将軍代替り巡見使旅行
 徳川時代の宿場女郎
 エロ幕末史
一揆、その他
 白河藩政争と農民一揆
 上州絹一揆
 農民一揆と落書
 長岡領民の諷刺小唄

「近世の農民一揆・上」 田村栄太郎 雄山閣 1985年
  −目 次−
序論 農民運動発生の基盤
 一、「五公五民」どころか「八公二民」の搾取
 二、戦国大名以来の「軍役養兵主義」が主因
 三、尖鋭・複雑化する農民運動の特質
第1章 経済的搾取に対する「強談」の悲劇
 一、裏切りで潰えた出羽漆山幕府領質地をめぐる「強談」
第2章 農民武力闘争「一揆」の要因と限界
 一、奥州白河藩の政争と農民一揆
 二、土地肥沃の播州姫路領の農民一揆と落書
 三、増税と夫役に泣く信濃上田領民の一揆・打毀し
 四、米売買にからむ出羽上の山領の町民・農民一揆
 五、浅間山の噴火による天明饑餓一揆
 六、三重県の地租改正反対に立ち上がった農民一揆

「近世の農民一揆・下」 田村栄太郎 雄山閣 1985年 ★★
  −目 次−
第3章 権力組織の変革を目的とした乱と農民一揆
 一、肥前島原切支丹宗徒の乱と農民一揆
 二、飢民の窮状を見かねた志士・生田萬の越後柏崎の乱
 三、西南の役に乗じた豊前農民の世直し一揆
第4章 酷税改正を叫んで蜂起した農民強訴
 一、強訴して悪税法の改正を迫った大名領″m阯フ民
 二、伝馬労役の加重負担に喘ぐ高崎宿民の強訴
 三、農民強訴を招いた沼田領主土岐美濃守殿の見取田畑改正
第5章 幕府衰亡の誘因・乱脈藩政と農民愁訴
 一、上野沼田領主真田伊賀守領地没収事件と農民愁訴
 二、幕府領の農兵採用反対愁訴と未遂強訴
第6章 農民搾取をめぐる政争と農民運動
 一、幕府直轄・岩代代官支配所における農民・郷頭の論争
 二、松平大和守と酒井左衛門尉の移封をめぐる政争
 三、幕府の悪政を痛烈に解剖した一農民の政治批判
 四、江戸時代の治安維持法とその効果
あとがき

「川越市今福の沿革史」 新井博 川越市今福菅原神社氏子会 1975年 ★★★
江戸時代の今福/農兵取立て一件と今福村/一 農兵隊設立の前提

「幕末の世直し 万人の戦争状態」 須田努 吉川弘文館 2010年 ★★
世直しと万人の戦争状態
 武州世直し騒動にみる「悪党」と暴力
  農兵設置に反対する人々

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作成:川越原人  更新:2023/02/03