城主 | ━━ | 老中 | ━━┳━━ | 年寄 | ━┳━ | 番頭 (1〜6番) | ━ | 組頭 | ━ | 組目付 | ─ | 番士 | ※小姓、小納戸、祐筆など | |||
(家老) | ┃ | ┣━ | 番外頭 | ──────────── | 番外 | |||||||||||
│ | 城代(1) | ┣━ | 奏者番(歩行頭兼) | ───── | 歩行目付 | ──── | 歩行 | |||||||||
与力 | │ | ┣━ | 触 流 | ──────────── | 医師 | ※匙、本道、外科(外料)、眼科など | ||||||||||
│ | 城代組 | ┣━ | 大目付(3)※ | ──── | 大目付組 | ─ | 宗旨方 | |||||||||
老中手付 | │ | ┣━ | 町奉行(1) | 町在奉行(寺社奉行兼) | ──── | 町方組 | ||||||||||
与力 | ┣━ | 郡 代(2) | ──── | 在方組 | ||||||||||||
┣━ | 勘定奉行 | |||||||||||||||
┣━ | 物頭 ※以下は内訳 | |||||||||||||||
┃ | ├ | 旗奉行(2) | ─────────────── | 先手組 | ||||||||||||
┃ | ├ | 持弓(2) | ─────────────── | 先手組 | ||||||||||||
┃ | ├ | 持筒(2) | ─────────────── | 先手組 | ||||||||||||
┃ | ├ | 先筒(11) | ─────────────── | 先手組 | ||||||||||||
┃ | ├ | 先弓(1) | ─────────────── | 先手組 | ||||||||||||
┃ | ├ | 長柄頭(2) | ─────────────── | 先手組 | ||||||||||||
┃ | ├ | 留守居(聞番) | ※定府 | ※他に京都留守居 | ||||||||||||
┃ | └ | 江戸定詰組 | ※定府 | |||||||||||||
┣━ | 膳 番(馬奉行兼) | |||||||||||||||
┣━ | 使 番 | |||||||||||||||
┣━ | 目 付 | |||||||||||||||
┣━ | 武具奉行 | ─────────────── | 武具方 | |||||||||||||
┣━ | 作事奉行 | ─────────────── | 作事方 | |||||||||||||
┣━ | 会所目付 | ※大納戸奉行と兼帯の場合あり | ||||||||||||||
┣━ | 大納戸奉行 | |||||||||||||||
┗━ | 蔵奉行 |
五男直基は、慶長9年(1604)生まれ、元和五年(1619)元服して、大和守直基と称する。寛永元年(1624)家光より新知3万石を賜い、越前国大野郡勝山城に住した。当時は結城(ゆうき)を称していたが、のち松平に復した。同3年従四位下。同12年2万石を加増され、同郡大野城に移る。同21年、10万石加増、合わせて15万石となり、出羽国村山郡山形城主となる。正保2年(1645)には侍従に任ぜられた。慶安元年(1648)6月14日、姫路城主となる。
この大和守系の越前松平家は、四男(ママ)の家にしては、15万石を与えられ、西国守護の要である姫路城主となるという、重要な位置づけをされることになった。これも家康の孫であることの恩寵であろう。しかし、残念なことに直基はこの年8月15日に没し、嫡子の直矩に15万石の相続を許されたが、姫路は与えられず、翌年越後国岩船郡村上城に転封になった。
直基(ママ)は、姫路の回復を強く望んでおり、寛文七年(1667)6月19日、ようやく村上から姫路への転封が実現された。ただし姫路には定着せず、2万石を加増されて村上に転封、のち陸奥国白川、上野国群馬郡前橋などを転々とした。寛保元年(1741)には再び姫路に復するが、五代朝矩の時代に、前橋、次いで武蔵国入間郡川越に転封になる。その後は川越に定着し、幕末に前橋城を築城して前橋に移った。
要するに中堅どころの一門として、その時代時代の都合で最重要ではないまでも重要な城を任された家と言うことができよう。官位は従四位下大和守に任じられていることが多く、一定の年月を過ぎると侍従に任じられた。
図4は、万延元年(1860)に訪日したプロセン公使オイレンブルクが書き残した記録に掲載されているスケッチである。東海道品川宿近くの御殿山の北方に広がっていた武蔵川越藩松平家(十七万石)下屋敷内部を描いた貴重なものだ。屋敷内部に建ち並んでいた長屋の具体的な様子が分かる。江戸詰の川越藩士たちが、この長屋に住んでいたのである。
勝山藩3万石を領していた秀康の5男直基(なおもと)は、寛永12年(1635)、2万石を加増され、兄直政の旧領大野に転封になります。当時は結城を称していましたが、のち松平に復します。
同21年には10万石を加増され、合わせて15万石となり、出羽山形藩主となります。正保2年(1645)、侍従に任じられ、慶安元年(1648)6月14日には、播磨姫路藩主となります。
この家は、4男(ママ)を祖としながら15万石を与えられ、西国守護の要で姫路を賜うという重要な位置付けをされることになりました。これも家康の孫であることの恩恵でしょう。
この年8月15日に直基が没すると、嫡子の直矩に15万石の相続は許されましたが、姫路は与えられず、翌年越後国岩船郡村上城に転封になりました。
直矩は、姫路の回復を強く望んでおり、寛文7年(1667)6月19日、ようやく村上から姫路への転封が実現されました。
しかし、先に述べた越後騒動に連座して、領地を7万石に削減され、豊後日田に転封になります。
貞享2年(1685)7月、直矩は3万石を加増されて出羽村山郡山形城を与えられます。ようやく越後騒動の処罰が許されたということでしょう。元禄5年(1692)7月には、さらに5万石を加増され、陸奥国白河城を与えられます。これで、もとの15万石に復帰しました。
寛保元年(1741)11月、第4代藩主明矩(あきのり)の時、再び姫路に復します。しかし、第5代朝矩(とものり)の時代には、上野国前橋、次いで武蔵国川越に転封になります。その後は川越に定着し、幕末に領地の前橋に築城して前橋に移ります。
要するにこの家は、中堅どころの一門として、その時代時代の都合で再重要ではないまでも重要な城を任されたと言うことができるでしょう。官位は従四位下大和守に任じられることが多く、一定の年月を過ぎると侍従に任じられました。
明治二年のことでした。川越大和守様がお出(いで)になって「松竹(まつたけ)と申すのはその方か」「ヘエ左様で」「あの若殿を刈って貰いたい」とおっしゃって、十五、六歳になる若殿様をお連れになりました。御家来が三人附添(つきそい)で、縮緬(ちりめん)の羽織に御髪(おぐし)も房々と、見るから凛々(りり)しい若殿ぶりでした。いよいよ櫛と鋏を持って後へ廻るてえと、御家来が、「御髪の散りませんように」といって盆を差出して、刈落した髪を受けるんです。すると殿様が、「盆の上へじかではいかん、紙を敷け紙を敷け」というので、盆へ奉書を敷く。それへジョキジョキと切(や)りました。
殿様も御満足の態(てい)で、「松竹、ただ今何時(なんとき)であるか」「ヘエ、午後二時と心得ます」「左様か、午後二時になったぞ、早う持って行け」どうなるのかと思っていますと、その刈落した髪を持って、早打駕籠(はやうちかご)で御国の川越へ行き、唯今(ただいま)若殿様御元服(ごげんぷく)相成りました、と奥方へ言上するという訳なんですが、芝居掛りで面白いじゃありませんか。まア御祝儀もたっぷり戴いて、殿様も「満足に思う」と仰(おつ)しゃって御帰りになりましたが、先だってまでいらしゃったあの御隠居様が多分そうだろうと存じます、今じゃア全く一ツ話です。
まだ明治御維新前のこと、数寄屋橋見附に松竹床というのがあった。看板に松茸の絵が描いてあったのでそう呼んだが、のちには松と竹の絵に変った。この床屋が奥州征伐から帰った岡山藩の人たちの頭を刈ったのが、散切あたまの早いところだそうだ。いわゆる椀かぶりと称する刈り方で、まわりを短く、頭の上を長く刈っただけの話であるが、「叩けば文明開化の音がする」といって次第に普及していった。
明治二年のことである。この床屋に川越の大和守様がおいでになって
「松竹と申すのはその方か。」
「へい左様で。」
「あの若殿を刈って貰いたい」
とおっしゃって、十五、六歳になる若殿様を連れてきた。御家来が三人附添で、縮めんの羽織に御髪もふさふさと、見るからにりりしい若殿ぶりであった。いよいよ櫛と鋏をもって後ろへ回ると御家来が、御髪が散りませんようにと盆を差出した。すると殿様が、
「盆の上へじかではいかん。紙を敷け。」
というので盆へ奉書を敷いてジョキジョキとやった。
殿様も御満足のていで、
「松竹、ただ今何時であるか」
「へえ、午後二時と心得ます」
「左様か、午後二時になったぞ、早う持って行け。」
どうなることかと思っていると、早打駕籠でお国の川越へ行き、ただいま若殿様御元服相成りました、と奥方へ言上するためであった。床屋は御祝儀をたっぷりいただき、殿様も満足に思うとおっしゃて帰られた。
この話は篠崎鉱造の「明治百話」に出ている話であるが、このときの若殿様というのは松平家第十二世の直方公で、父君の殿様は川越最後の城主であった直克公だろうと思う。直方公は明治四十年に五十歳で沒くなられたから、明治二年には十一歳の勘定になる。もっとも散髪脱刀が正式に発令されたのは明治四年の八月十日であるから、あるいはこの話は三、四年の誤差があるかもしれない。また大和守は慶応三年にすでに上州前橋に所替えになっている点も注意を要する。
だがざん切頭になって元服というところ、いかにも時代の推移をあらわしているし、早打駕籠でお国元の奥方に知らせるあたり、芝居がかっていて面白いではないか。
まえがき佐々木克本書は東京の本郷森川町に勤務する巡査・喜多平四郎(旧川越藩士。当時三十五歳)が記録した、西南戦争の従軍手記である。喜多平四郎ほか東京の巡査六百名は、明治十年二月九日の夜、急に召集されて九州出張を命ぜられ、十一日に横浜を出航して九州・博多に向かった。鹿児島で私学校党が部隊編成を行ったのが十三日で、西郷軍の先発隊が出発したのが翌十四日であるから、政府は西郷軍が蜂起する以前に動いていたのである。
喜多らは、二十日に熊本城に急行し、そのまま熊本鎮台兵とともに籠城体制に入り、城を包囲する西郷軍と戦うことになった。そして喜多は運悪く、三月十三日の戦闘で負傷して、約一ヶ月間、城内の病院に入院する。本書の前半部分は、入院治療の生活描写にあてられている。喜多の本意ではなかったであろうが、戦闘の記述よりも、籠城中における病院の模様や、食料が少なくなってゆく様子、そして西郷軍を破って応援の政府軍が入城する日をまちこがれる気持ちの動きなど、類書には見られない記述があり、これが結果的に大変興味深い記録となっているのである。
四月二十八日に戦場に復帰した喜多は、水俣の東方の山間部で、人吉に本拠を移した西郷軍と戦うことになった。以後、本書の後半部分は、七月二十六日に鹿児島城下に入るまでの戦闘の模様が記される。戦場における喜多の視線は、多角的でありかつ柔軟である。上官の作戦や部下に対する態度に批判の目を向ける。また敵の西郷軍であるが、これを仇敵視しない。士族である喜多は、西郷軍がなぜ蜂起したのか、その理由の一端は理解できるのである。
また戦場になった村の人々や、西郷軍に軍夫として徴用された農民にも、同情の視線を注ぐ。これはおそらく下級武士だった彼が身につけた、生活者としての視点なのだろう。従軍の記録は、ふつう自己の戦闘の記録であり、戦争でいかに功労があったかを誇るものが多い。しかし本書はそのような意味では、抑制的である。いわば戦闘の手記ではなく、戦争以外の、さまざまな場面の彩りが盛り込まれた、戦場の記録として読まれるべきものであろうと思う。
西南戦争の記録には、西郷軍に参加した兵士の記録はいくつかある。しかし政府軍側のそれはきわめて少ない。政府軍の一般の兵士は、徴兵による農民出身の若い兵士が多かったからである。その意味でも政府軍の一兵士が見、そして体験したこの西南戦争の記録は、大変貴重でありかつ興味深い読み物となっている。(京都大学教授)
解説 2 喜多平四郎について
著者の喜多平四郎については、これまでの私の調査では詳しい経歴が判っていないが、現段階での知り得たことを記しておくことにしたい。
喜多平四郎は天保十三(1842)年一月元旦、讃岐国高松に生まれた。父安助は高松藩士である。嘉永五(1852)年に、父とともに高松から相模国大津陣屋に移り、川越藩籍にはいった。この時、大津陣屋には川越藩士祖父喜多武平がいて、この祖父に呼ばれたもののようである。
祖父喜多武平はもともと高松藩士であるが、天保十四(1843)年に川越藩士(十五人扶持、士分格)となった。この経緯について少しくわしく述べておこう。
祖父喜多武平は高松藩の砲術家である。その武平が天保年間に浦賀に行き、浦賀奉行配下の与力佐々倉勘蔵に海防論を述べ、大いに賞賛された。武平が浦賀に行ったのは、高松藩が幕府に命じられて江戸湾や相模湾警備を担当していたからである。浦賀の与力佐々倉勘蔵の推挙があってのことと思われるが、浦賀奉行のもとで、浦賀奉行配下の子弟に砲術を教え、あるいは大砲を鋳造し砲台を築くことなどをおこなった。
天保十三年、川越藩が相州三浦半島の観音崎より三崎にわたる沿岸の警備を幕府に命じられた。この際に川越藩が浦賀奉行に砲術師を推薦してくれるようにと依頼したことにより、武平が推薦され、このことにより武平が川越藩士となったのである。時の川越藩主は松平直候(徳川斉昭の子・徳川慶喜の弟)であったが、高松藩の藩主松平頼胤の養父松平頼恕が徳川斉昭の兄であるという関係もあって、人材の移籍が無理なくおこなわれたのではなかろうか。
このような経緯で喜多は父・祖父とともに川越藩士となり、祖父武平が居住する相州大津陣屋の近傍で暮らすこととなった。安政元(1854)年、川越藩は江戸湾品川沖の台場の警備に担当替となり、これにより喜多の一家は川越に移り、祖父武平は文久二(1862)年に川越で没した。なお川越藩(藩主松平直克)は慶応三(1867)年一月に前橋に転封となり、このため喜多家も前橋に移った。
喜多平四郎の経歴にかんしてはほとんど判らない。喜多には自筆の手記『戊辰周旋記』というものがあり、それによれば喜多は慶応四(1868)年三月末に藩庁から国事周旋方(情報収集や探索を担当)を命ぜられて江戸に出、さらに川越藩の分領がある上総国富津にゆき、上総方面でなされた戦争を体験し、八月に江戸を経て川越に帰国している。なお祖父に関する記述も、この喜多の手記『戊辰周旋記』によるものである。
喜多が前橋で廃藩置県(1871)年をむかえたのが二十九歳のときである。前橋(旧川越)藩は譜代の小藩(一万七千石)であるから、喜多家の生活は相当に苦しかったにちがいない。廃藩となって喜多家も外に職を求めなければならなくなる。平四郎が警察に入ったのが何時のことであるか不明である。一般の士族(旧武士)が政府機関の職につくことはそれほどたやすいことではなかったから、喜多平四郎の場合は運があったのだろう。あるいは、この『征西従軍日誌』をよめばわかるように、喜多の人間性や、歴史や戦史についての素養を評価する人物が、政府の警察関係者のなかにいたのかもしれない。
喜多平四郎は明治三十八(1905)年に六十三歳で没し、東京の十方寺(現文京区向丘)に埋葬された。京都大学教授 佐々木克
●幕府の転封政策とは
異動といえば部署の異動、任地の異動、子会社への異動といろいろだが、ここでは徳川幕府をひとつの大きな企業体として、その中での異動、つまり転封(てんぽう)を中心に考えてみよう。転封はまた、論功行賞(ろんこうこうしょう)として出世街道をいくもの、明らかに左遷のもの、あるいは脅しの類まである。いや、そもそも江戸幕府開府は、徳川家康が小田原の役後、豊臣秀吉によって駿河(静岡県)・三河(愛知県)など五カ国から江戸へ転封を受けたことからはじまる。秀吉がどういう意図でこの転封を考えたかは、はっきりしないのだが。
とにかく徳川時代の転封はめまぐるしい。つねにどこかで転封が行われているといってもいいすぎではない。
たとえば、家康の二男結城松平秀康の四男直基(なおもと)の松平家は、播磨国姫路15万石を皮切りに、5代100年ほどのあいだに9回も転封している。およそ10年ごとに移っていたことになる。これでは新しい任地の整備をする暇もない。
5代朝矩(とものり)は上野国前橋(群馬県前橋市)15万石に移ったとき、城を修復する資金がなく、藩士の禄から100石につき1両2分ずつ徴収したという。
異動先が暮らしよいところならいい。しかしそうは問屋が卸さない。もうすこし松平朝矩を見てみよう。そもそも初めから財政が苦しいうえに、宝暦6年(1756)大火に見舞われた。つづいて7年、大洪水で国中が甚大な被害を受ける。藩士の中に不安と不穏な空気が広がり、朝矩はついに城の放棄を決意した。
宝暦13年、幕府はようやく朝矩の願いを聞き入れ武蔵川越(埼玉県川越市)を7万5000石の代替地とした。前橋領は分領7万5000石としてそのまま残されたので、城を壊し陣屋を置いた。
それはそれで出費をともない、藩財政の楽になることはなかった。よそ目には裕福に見えても内実は火の車というのが、多くの藩の実情である。
(後略)
●覆された異動
「三方領地替え」という言葉が残っている。武蔵川越藩主松平斉省※(なりさだ)は11代将軍家斉(いえなり)の実子でわがまま放題。かねて川越藩15万石の実収入が少ないのが気に入らない。もっとましなところへ移せとだだをこねた。
候補にあがったのが出羽(でわ)(秋田県〜山形県)庄内13万8000石酒井忠器(ただたか)の所領。ここは元和(げんな)8年(1622)以来280年、酒井家の領地としてつづいていた。天保(てんぽう)4年(1833)の東北大飢饉(だいききん)に死者をひとりも出さなかったことで知られていた。じつはそのために藩主以下並々ならぬ努力をしたのだが、よそ目にはそうは見えない、豊かな国と考えられていた。聞かされて斉省はもちろん大喜びだ。
それでは庄内を追い出さた酒井はどうなるのか。越後長岡藩(新潟県長岡市)牧野忠雅のところへ移る。牧野は川越へ国替え。これで三方領地替、めでたしめでたしと発案者の水野忠邦は自画自賛するが、割に合わないのは酒井だ。なにせ長岡藩は7万4000石だ。いっぽう川越藩では意気揚々として、7人の視察の者を庄内にやった。
ところが、酒井の長岡転封に反対する農民たちに、この視察役が軟禁されてしまった。折しも、天保12年(1841)閏正月、家斉が死んだ。待っていたように諸大名のあいだから三方領地替への批判が噴き出した。さすがに水野も引っこめざるをえなくなった。人事の異動が、地元の意向を無視できなかったという、ちょっと今風な事件であった。
(後略)
(前略)
展示は三つの柱から成っていた。一つ目は、「描かれた一揆――『夢の浮橋』の世界」である。天保11年(1840)、庄内藩(現山形県庄内地方)で起きた三方領知替え反対一揆――小説家藤沢周平の名著『義民が駆ける』でよく知られる一揆――を描いた絵巻物『夢の浮橋』(致道(ちどう)博物館蔵)の全公開は、まさしく圧巻であった。50メールになろうかという長大な絵巻には、一揆の発端から終結まで微細に描写されており、いつまで見ていても飽きることがなかった。
この一揆について、簡単に解説しておこう。天保11年11月、幕府は、出羽国鶴岡(現山形県鶴岡市)の酒井忠器(さかいただかた)を越後国長岡(現新潟県長岡市)へ、長岡の牧野忠雅(まきのただまさ)を武蔵国川越(現埼玉県川越市)へ、川越の松平斉典(まつだいらなりつね)を鶴岡へ転封(てんぽう)させるという、三方領知替えを命じた。松平斉典が大御所の徳川家斉(とくがわいえなり)に、酒井が領する豊かな庄内藩への転封を働きかけたともされている。
この報を受けた庄内藩の百姓は、転封反対の声をあげはじめる。はやくも同年12月を皮切りに、百姓の代表たちがたびたび江戸に向かい幕府への越訴(おっそ)を敢行、また近隣諸藩へも訴えをくり返した。領内でも、百姓は数万人規模で「大寄(おおより)」と呼ばれる集会を開き、藩主引留(「おすわり」「御永城」などとも)を求める示威行動をくりひろげる。日本史の教科書や概説書などで、百姓一揆について記述する際に必ずといっていいほど掲げられるのが、その大寄の模様を描いた『夢の浮橋』の有名な場面だ。
「雖為百姓不事二君(百姓たりとも二君につかえず)」という旗を立てて行動したという百姓は、後世、領主を慕う「義民」とも称賛された。しかし、運動の背景には、転封・新領主入部にともなう負担増を懸念する百姓側、また転封を望まない藩側や酒田の本間家をはじめとする商人層などの、さまざまな思惑が交錯していたと考えられる。江戸でも諸大名から転封に反対する意見書が出されるなどして、結局、命令は翌天保12年7月に撤回、幕府権力の弱体化を示した事件としても知られている。
(後略)
天保十一年(1840年)の「三方替」というのは、出羽庄内の酒井忠器を越後長岡に、武州川越の松平大和守斉典を庄内に、越後長岡の牧野備前守忠雅を川越へ、それぞれ移そうとしたことであり、諸老中の反対をおしきって水野忠邦が発令したのである。 ところが、一二八年の長期にわたる領主支配の変動に大きな不安をもった庄内領民が、激烈な転封反対運動をおこしたので、ついにこの三方替は中止された。