剣豪と仁侠で世に知られた人に秋山要助がある。彼は安永元年十一月二十五日、熊谷宿在箱田(熊谷市)の紺屋の倅として生れたが、幼少から剣術を好み修得したという。彼が時代を少しく遅く生れて明治維新の舞台に健在で活躍させたら、剣豪とて種々の話題を志士として残したことであろう。水戸藩士に交友のあつた人だけに考えられる。元来禄取りと仕官を好まなかつた彼は、自由の社会に身を置いて旅に過し、侠客の間にも仁侠をもつて慕われ、一生を客寓で終えた剣士であつた。
彼の門人である侠客の赤尾の林蔵の仇討は小説で知られているが、人間味の豊富であつた人と見え逸話が多い。しかし要助の一生は剣であり、剣道をもつて生命とし、多くの志士も門下に取り立てている。当代に神道無念流の達人として、精妙至剛の剣は特技と賞賛され、いつも真剣勝負の試合に打勝つていた。
彼の得意は突手で、これは天下無敵と称された。かつて千葉周作の道場に至り立合を望んだが、周作は堅く辞して厚く彼をもてなして帰したと伝えられている。要助は性来に勝気の人とて試合にも容易に人に屈しなかつた。周作も剣豪であり、又水戸藩の師範に召抱えられている身分ゆえ、万一に敗北すれば主名に係わるし、また勝てば要助のこととて直ちに真剣勝負でも望まれては事面倒と避けたのだともいう。
要助が始め剣道を志したのが十五才の頃で、当時剣士として有名な甲源一刀流の達人、逸見多四郎の道場を訪れた。門人にと弟子入りを頼んだのに、どうしたのか逸見は要助の切なる願いを聞入れず断つた。要助の手先が紺屋の倅とて色に染まり黒くなつているのをぢろりと見て「紺屋に倅には剣道の必要はない」ときつぱり断つた。この言葉を聞いた要助は「よーし、それなら」と発奮し、剣道に専念しようと心のうちに決心したという。そこで剣豪の戸ヶ崎熊太郎のもとに行き、つひに弟子入りして戸ヶ崎道場で熱心に学び、神道無念流の極意を許された。
この頃より諱名を正武と名乗つた。この戸ヶ崎道場は埼玉の他に江戸にも道場があり、初代の知道軒、二代有道軒、三代喜道軒、四代尚道軒等が相続いた剣客の家であり、北武蔵地方において戸ヶ崎道場は有名であつた。ここで知道軒のもとに秋山要助は修行した。二十二歳の時には早くもその奥儀を極めて、戸ヶ崎道場の鬼才と称された。また師範代の岡田十松に愛されて稽古に励んだので、武名は世に喧伝され、諸方の大名からも招ぜられたが、堅く辞して受けなかつた。また有道軒の門人に木村定次郎や中村万五郎等もあつて、戸ヶ崎門人には水戸藩士が剣士として多く輩出していた。
秋山要助は情熱家であつて、堅苦しい仕官は好まなかつたが、いつしか侠客の仲間に親しまれ、赤尾の林蔵を始め多くの弟子を養成した。かの大親分になつた大前田英五郎も彼の弟子であつた。また剣士にも川越藩の指南役になつた大川平兵衛英勝や後年の志士達も多く弟子であつたゆえ、その墓石に門弟の名が刻記されている。晩年に野州の佐野に仮寓し、尚志道人と親交があつた。比企郡の東吉見村丸貫の生れであつた大乗愚禅和尚とも親交があつて参禅し、晩年は剃髪して名を雲嶺と称した。また南画を善くした。画は水戸藩の立原杏所と親交があつたゆえ、この影響と指導があつたものであろう。天保四年八月二十五日、野州の佐野で客寓中に没した。行年六十二歳。佐野町の興福寺に墓石が建てられている。
墓石の書は水戸藩士の立原任(杏所)の筆になつて雲嶺秋山先生之墓とあり、辞世の
世の中はただ春の夜の夢なれや
富も誉れも何にかはせん
という歌が彫られている。側面に門人四十三名の名が記されている。晩年は尚志道人の感化で風月を友として画を描き、歌をよむ雅懐の人となつたことが床しく偲ばれてくる。生前に実用の剣と真剣勝負を好んだ剣豪の秋山要助正武の晩年は、一段と文雅に進んだ心境が悟られたものであろう。熊谷市の箱田に秋山屋敷と生地が呼ばれている。また大川道場の川越や横沼にも久しく逗留して、剣豪秋山要助の逸話が残されている。
農家の出から剣道の達人となり、十七万石の川越藩剣道師範役にまで出世した人に大川平兵衛がある。
平兵衛は諱名を英勝と称し、熊谷の上之村渡辺家の三男に生れた。始め小鮒氏を継いで姓とした。子供の時から身体が大きく力量も人に勝れ、天性に撃剣が好きであつたから、近隣の箱田出身の剣士秋山要助の門人となつて神道無念流を学んだ。師の秋山は当代の名剣士で真剣勝負においては向うところ敵なしと称された達人であつた。
秋山は平兵衛の実直なる人柄を愛し、また剣筋が好いので己の剣の後継者と嘱して、みつちりと仕込んだ。農家の子供ながら熱心に仕込まれ、昼間は家業の農耕に励み、夜は箱田の道場まで通つて一心不乱に剣道を稽古し習得した。天分があつたためか忽ちに技倆が上達し、二十歳の時には神道無念流の極意皆伝を授けられた。ここに恩師の世話で川越領の入間郡横沼(三芳野村)の名門であつた大川与左衛門の養子となつた。妻は糸子と呼んで琴瑟相和し家業を継いで、横沼にも剣術の道場を開設し、また川越通町にも町道場を開設し、ここに門弟を取り立てた。
当時の剣道は型にながれ華美に走つたが、師の秋山要助はこれを排して実戦の試合に役立つようと実用の剣に重きを置いて仕込んだ。大川も師にならつて身を守る武術と実用剣に師法と守つて重厚に地味な試合を教授していた。時流に媚びない正しい無念流の教え方に、自然と子弟が集つて剣士として名声を博した。元来愚直の性質とて派手ではないが、一歩一歩と道場が盛んになつた。当代に孝子の仇討に助勢して首尾よく仇を斬つて成功させた。この噂が藩主の上聞に達して、川越藩の衛士に取立てられ、累進して藩の子弟の師範役となつた。
当時に百姓の出たる大川が指南役に召抱えられたるを、ひそかにねたむ輩があつた。これらが大川を侮つて主用で帰川するところを突如に襲つて斬りかかつた。大川は少しもひるまず、何人かと声をかけて騒がず、静かにあしらつて去つてしまつた。このあとで大川が敵を恐れて、逃げたと噂が立つた。この謗にも大川は平然としていた。城代家老の吉田筑波が案じて平兵衛にたづねると、その答えに「公用中ゆえ私闘をさけて立合わなかつた。御許しがあれば数人たりとも相手となつて打果す所存」と云い放つた。その夜の大川の私闘と私怨を避けた静かな振舞が、城代たる筑波に賞された。彼は胆力のすわつた人で、立合にも相手の前で竹刀を廻し、声をかけてぢりぢりと進んで、突きの一手が得意であつたという。やがて藩士たちにもその人柄が慕われた。
多くの門人があつた中には志士の西川練造、尾高惇忠、笠井伊蔵等があり、藩士にも剣士とて館ノ内八兵衛、田村定五郎、山本三四郎、大島藤太夫、奥平鉄吉等が有名である。大川は明治四年九月十一日、七十歳で病没した。横沼の大川邸前に松平春獄の題字、撰文は尾高惇忠、書は日下部鳴鶴で建碑されている。かつて渋沢青淵も剣は大川の門人の一人であつた。また実業家の大川平三郎は平兵衛の曾孫である。
島田義助――戦火で永久に失われた幻の名槍御手杵(駿河国/650万円)
戦国時代末期の駿河国(静岡県)で栄えた島田鍛冶は、相州伝と備前伝を会得した康正年間(1455〜57)の刀工・義助(よしすけ)を祖とする一門だ。文安年間(1444〜49)の助宗も同じ一門で、義助・助宗の刀工銘は以降の時代にも見受けられるため、歴代の島田鍜治が襲名していたと考えられる。
義助を始めとする島田鍛冶が手がけた刀と脇差の姿は、反りが浅くて身幅(みはば)が広い、相州伝末期の作風である。短刀は重ねが厚く、いずれも重厚と言えるものだ。なお、助宗作の短刀は刀身の半分以上が切っ先になる、特殊な造型の「おそらく造(づくり)」として有名である。
駿河を支配下に置いた徳川家の恩顧を受けて繁栄した島田鍛冶は、刀や脇差、短刀だけではなく、槍や薙刀も手がけた。とりわけ槍作りの名手と謳われた義助作の御手杵(おてぎね)は、村正一門の正真作の蜻蛉切(とんぼきり)、作者不詳の日本号≠ニもども、天下三槍に数えられる名槍だ。蜻蛉切は徳川家康に仕えた勇将・本多平八郎忠勝の愛槍として、日本号は黒田家の豪傑・母里(もり)太兵衛の名前と一緒に知られているが、御手杵なんて聞いたことが無いという方も多いと思う。現存していないことも、語られる機会が少ない理由のひとつなのだろう。
古来より、戦火で失われた名刀・名槍は数知れない。焼直しという修復を施すことで、形だけは昔日の姿を取り戻した事例もあるが、御手杵が見舞われた戦火は中世・近世の合戦のそれとは比較にならない。松平大和守家が秘蔵していた御手杵は、昭和20年(1945)5月25日、埼玉県川越市を襲った空襲で、完全に焼失してしまったのだ。
在りし日の御手杵は総長が七尺(約210センチメートル)で、刃長(じんちょう)四尺六寸(約138センチメートル)の大身槍(おおみやり)だったと伝えらる。大身槍とは合戦向けに作られた大型の槍のことで、刃長が二尺(約60センチメートル)以上のものを指す。御手杵は、最大の部類に属する大身槍だ。操方の難しさに加えて、よほどの膂力(りょりょく)を備えていなくては使いこなせない剛槍であり、主君に付き従う松平家の槍持足軽は運搬に苦労したと伝えられる。
最後に、御手杵という号の由来だが、槍穂にかぶせる鞘の形状が手杵に似ていたからだと伝えられる。手杵とは平安時代以降に用いられた、片手で握って縦に突く棒状の杵のことである。餅つきでおなじみの、両手で握るタイプの横杵が登場したのは江戸時代中期で、それまでは手杵が全国で使用されていた。どことなく微笑ましいネーミングと言えるだろう。
※これに関連して、掲示板に情報を寄せて頂きましたのでご紹介します。
Re: 川越の空襲 Prev: 89 / No: 182 [返信][削除]
投稿者:松平大和守家来 04/04/12 Mon 13:05:33 小生、松平大和守家来の末裔です。 想像ですが、この空襲とは東京地区に対するものでは。 松平家現当主の話では、先祖伝来の物は、地下に埋めるよう申し付けて出征したにも関わらず、執事が一旦埋めたものを掘り返し空襲で全て失ったと聞いております。 当時屋敷は、麹町、大久保にあったとのことです。 おそらく戦中、松平家は川越、前橋には直接関係はなく、松平家としての秘蔵品の保管場所はなかったと思います。 おそらく残っているのは、家臣や神社仏閣への寄進物のみと思われます。 現当主は、現在横浜在住です。 なお当家も20年8月の前橋空襲で研ぎに出していた先祖伝来の刀を失いました。 Re: 川越の空襲 Prev: 183 / No: 186 [返信][削除]
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※「松平直正回想録」を調べると、御手杵について書かれていました。次に、その内容を記載します。
――― 大久保のお屋敷には、刀とか鎧とかずい分たくさんの家宝があったでしょうね。
松 平 骨董品の山でしたね。
――― 刀剣類はどの位あったんですか。
松 平 二百振位ありました。式部政宗とかいろいろありましたね。今あれば一振一億五千万はするでしょうね。
――― その家宝はみんな戦災で焼けてしまったんですか。
松 平 灰ですね。残念ですよ。お金の問題じゃなくてもう二度とああいういい刀というのは打てないでしょう。
――― 家宝はすべて蔵の中に入れてあったんですか。
松 平 そうです。五つの蔵に入れていました。
――― 爆弾の直撃を受けたんですか。
松 平 焼夷弾です。焼夷弾が雨のようにふってきて、それが蔵の屋根瓦を通して中に入っちゃったからたまらない。蔵の回りはしっかりしてるから、逆に煙突にようになって燃えちゃった。蔵の中には湿気防ぎのために炭がいっぱい詰めてあって、それが燃えたからみんな溶けてしまったんですよ。
――― ご家来の方は、空から攻撃されるのを知らなかったんですか。
松 平 空から攻撃されるのは分かっていたらしいんだけど、まさか蔵の屋根を通すということに気がつかない。早く疎開すればいいのに、しないんだもん。私は南方の戦線に行ってたし、どうにもならんですよ。とにかくうちの年寄り達は、蔵の中に入れておけば安心だと思ってんだから。うちの家扶にはいいのがいなかったですね。
一番惜しいことをしたのは刀はもちろんですが、あの日本外史の川越版というのがあるんですが、それの元版をうちが持ってたんですよ。木に一枚一枚彫ってあってね、何千枚ってありました。日本外史はその元版で刷っていたんですが、それもみんな焼けました。駕籠もずい分たくさん吊ってありましたね。定紋の附いた塗りの膳なんかもたくさんあったんですよ。長持ちもあんなにたくさんあったのに、一つも残ってないんですよ。不思議なくらい。
――― 美術品も相当あったんでしょうね。
松 平 ありましたね。掛軸なんかもいいのがありました。疎開しないんだったら防空壕かなんかに埋めときゃ良かったんですよ。戦地に行ってて私は知らなかったんですが、うちの若いご家来が一度埋めたらしいんですよ。そうしたら年寄り連中が、ご家宝を土の中に埋めるなんてとんでもないと言って、掘り出したらしいんだな。残念ですよ本当に。でもね、私の息子なんかは家宝を見た事がないから平気なんですよ。うちのお父さまが一番悔しかったでしょうね。いつも(家宝を)そばに置いて見てたから。
――― お若い頃、どういう時に正宗の刀を抜いたりされたんですか。
松 平 本阿彌光遜という刀剣家がいたんですが、その人が月に一度位屋敷に来て、刀を手入れしていくんですね。その時に虫干しにしますからそういう時に見せてもらいました。鎧や兜もたくさんありましたね。それから首が三つささるという有名な手杵の槍がありました。鞘が杵の恰好をしているのでその名がついたんですが、鞘を抜くと必ず雪が降るという伝説がありました。
――― 本当に雪が降ったんですか。
松 平 降りましたよ。槍の穂先というのは普通は鋭い三角形でしょ。それが手杵の槍は四角形でね。いい槍でした。
――― 惜しいことをしましたね。
松 平 ええ、焼けたんじゃどうにもならんです。
(後略)
※これを見ると、「剣豪その流派と名刀」にある、「松平大和守家が秘蔵していた御手杵は、昭和20年(1945)5月25日、埼玉県川越市を襲った空襲で、完全に焼失してしまったのだ。」という記述は間違いであろうと思われます。