塚 原 ト 伝


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「川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 川越歴史新書5 1973年 ★★★
12.塚原ト伝の川越試合
 塚原ト伝が川越で試合をしたなんていうと、そらっぺいこくなとやられそうだが、これは実際にあった話である。私もじつは村雨退二郎先生に教えられるまで気がつかなかったが、「菅政友雑稿」にこの試合のことが出ており、場所も武蔵川越にてと記しているから間違いない。
 相手は下総の住人で梶原長門という手だれの薙刀づかいであった。柄は七尺、刃渡りは一尺五寸の小薙刀で、空に飛び交う燕や地にあさる雉を切るのに、ひとつも過ちがなかった。切りこもり、放し打ちも幾度となくやったが、始めに左の手を切って、あとで首を落して見せるというと、かならずその通りになったので、世間から恐れられていた豪の者であった。
 ト伝が川越でこの長門と試合をすることになったとき、門人たちは勝負の末を気遣って、思い止まらせようと言葉をつくして諌めた。しかしト伝はいや大丈夫だ、任せておけといって、その道理をこう説いた。鵙は自分の体の四五倍もある鳩を追うほどの猛禽ではあるが、小鷹に逢えばたちまち木の蔭や竹の茂みに隠れてしまう。長門も長門ほどの名人に逢わないからこそ、そんな器用な真似もできるのだ。
 薙刀は元来太刀よりも六尺も一丈も遠くにあるものを斬るように拵えてある。したがって刃が長くなければ役に立たない。三尺の太刀でさえ思うように敵は打てないものを、何で一尺余りの小薙刀で真の働きができよう。左右の腕を二度に斬られたと申すのは、斬られた人間が木偶の坊なのだ。飛燕を切るとうのも、相手が鳥なればこそできたのだ。仮りに九尺、一丈の槍で突かれたとて、当の太刀は打つことができる。まして薙刀などで突かれようと、斬られようと大したことはない。
 ト伝は日頃刀はその人の身の丈によって定めるのが一番安全である。鍔が臍を越すようなのは、かえって身の害になると訓しており、いつも二尺四寸の刀を帯び、事あるときには三尺ほどのを用いた。さて試合当日になって、ト伝はとくに二尺八寸余りの太刀をさして場に臨んだ。長門は例によって小薙刀を携えてきた。はじめ床机に掛けていた双方が、やがて静かに立ち上がった。とみる間に鋭い気合が一声、長門の薙刀は鍔元一尺ばかりを余して切り落され、二の太刀はただ一刀のもとに長門を斬り伏せてしまった。あっけないほどの勝負で、ト伝の説いた道理の正しさが立証された。
 塚原ト伝は元亀三年(1572)三月、八十三歳の高齢をもって歿するまでに、軍の場を踏むこと九度、誉の高名をなしたことは七度、敵の首を捕ること二十一級といわれているが、これはト伝いまだ若き日の川越試合、梶原長門撃破の一齣である。

「人物日本剣豪伝(一)」 戸部新十郎ほか 学陽書房人物文庫 2001年 ★★
 剣聖上泉伊勢守をはじめ、柳生石舟斎、富田勢源、塚原ト伝、斎藤伝鬼房、伊藤一刀斎、吉岡憲法……。戦国の荒々しい風が吹きすさぶ中で、剣ひとすじに、自分を最大限に活かす方途を探究し続けた剣豪たち。生死を賭けて戦い続けた名人、達人たちの飽くなき探究の姿に、現代人が失いかけているなにかがある……。
  塚原ト伝    安斉篤子
   豪雄梶原長門との対決
 大永三年(1523)から天文二年(1533)まで、ちょうど十年におよぶ再度の廻国修行は、ト伝の兵法と人格の完成をめざすものであったと言ってよかろう。
 よく知られている梶原長門との立合いも、この時期のこととみられる。
 梶原長門は下総の生れで、やはり仕官をせずに旅をして回る兵法者だった。かねてから塚原ト伝の高名を耳にし、真剣による試合を望んでいた。
 たまたま長門が、上杉朝興の拠る川越城下に滞在中、ト伝が来合わせた。そこで長門は早速、立合いを申し入れた。ト伝はむろん、すぐ承知した。
 長門はそのころ、かなり名の知れた兵法者であったので、ト伝も評判を聞き知っていた。噂によれば長門は、小薙刀をもっとも得意とするという。刃渡一尺四、五寸ほどの小薙刀をふるって、目の前を飛ぶ燕を切り落とす。立ち合う相手を嘲弄するように、「左手、右手と順に斬り、最後に首を落とそう」と声をかけ、相手がひるんだところへ踏みこんで広言どおりに斬る。事実とすれば、おそるべき相手である。しかしト伝には成算があった。長門は手練の早業を自慢にしている。しかしト伝も、す早い動きでひけをとるとは思えない。
 長門と立ち合う相手は、長門の得物の小薙刀に眩惑される。刀より長い分だけ、向うが有利と思いこんでしまう。が、必ずしもそうとは限らない。ト伝はかねてから、並より一寸長い八寸の柄を用いていた。刀身が二尺九寸であれば、刀の長さは三尺七寸にもなる。
 約束の日の早朝、長門とト伝は、これもかねてから申し合わせておいたとおり、川越城下の松原で相対した。
 無雑作に走り寄った二人の手には、それぞれ得物が握られている。長門はト伝の頸筋めがけて、小薙刀を横に払ったが、それより早くト伝の刀が一閃して、長門の得物の蛭巻きを鍔元から一尺さがったあたりで切り落としていた。返す刀で長門を袈裟がけに斬り殺した。
 梶原長門との立合いにもみられるように、ト伝は敵を怕れぬとともに、周到な用意を怠らなかった。自分の技倆を恃んで相手を見縊るということをしない。若いころからの慎重な性格が、年齢とともにますます磨かれたものであろう。

「日本剣豪伝」 鷲尾雨工 富士見書房 時代小説文庫 1992年 ★★
 ピタリ! 鮮やかに鋩子尖が停まった。鼠を斬ろうとした北畠具教卿は斬るのを止めた。太刀先より速く心が動いて心機が一転したからだ。「お見事! その心!」襖口で微笑む塚原ト伝。「斬れば斬れるものを斬らぬ心―それで御座るぞ!」「およそ一個の太刀にて―― 一の位と申すは天の時―― 一つの太刀と申すは地の理―― 一の太刀と申すは、即ち人物の巧に結びつく!」と秘義を伝授した。
 宮本武蔵、荒木又右衛門、柳生宗厳、上泉信綱ら剣聖、剣豪にまつわる秘話や剣法の起源、奥儀、秘法を描いた傑作列伝集。

 <塚原ト伝>

  水切り薙刀

 晴れた夏空に、秩父の山々が、くっきりと峰を聳えさせていた。
 入間川の清流が、せせらぎの音を立てている岸べに、一人の血気ざかりの、がっちりした体格の男が、刃渡りの一尺七、八寸もあろう大薙刀を、ふり廻している。
 だが、相手もないのに、何をしているのだろう?
 薙刀を持っているから、武士かと思われるが、丸腰で、逞しい毛脛を剥きだしに、尻絡げをしているところは、猟師みたいでもある。
 丈は、ひどく高くもないけれど、怒り肩の肩幅の広いこと!
 そして何と頑丈で、腰骨の出ッ張っていることよ!
 まるで、四角の石みたいな感じだ。
 手足の筋肉は、隆々と節瘤立っていて、たとい刀で斬ろうと、短刀で突こうと、撥ねッ返って、屎ッ皮さえ剥けそうもない。
 不死身というのは、こんな体をこそいうのだろう。
「ええッ!」
 と、不死身男は、またも大薙刀を揮った。
 一体、なにをするのか?
 薙刀(なぎなた)の刃は、スウッと水を切る。
 まさか、川と真剣勝負をしている訳でもあるまいに――。
 男は、さも満足げに頷いてから、また、じいっと水の面を見つめる。そして、
「ええッ!」
 と、薙刀で水を切る。
 これでは矢張、川の水と闘っているとしか思われない。
 だが、もっとよく注意して川の面を見るなら、呀っと驚かずにはいられまい。
 というのは、鮎が、頭から縦に、まっ二つに切り裂かれたのが、川下へ流れてゆくではないか!
 その男は、清らかな川水の中を、目にも止まらぬような速さで動く鮎を覘って、それを縦に斬り裂くのだった。
 横に斬るのならば、いくらかは容易いでもあろうが、あの速くて小さい魚を、縦に斬るのだから、愕く。
 水切り薙刀と見えたのは、実は鮎切り薙刀だったのである。
 まったく人間業とは思えない手並だ。
 武州川越の住人、梶原長門の薙刀は、こうして鍛錬されたものであった。
「天下無敵、薙刀の名人」
 と、長門の名は、やがて四方に響きわたった。
 武芸勃興の時代だから、そんな名人のぐるりには、忽ち人が、われも、われもと押し掛けて、弟子入りをする。
 もともと相当な武士の家に生れた長門が、数百人の門弟を持つようになったので、傍が敬う。
 川越では、飛ぶ鳥も落としそうな豪勢さだ。
 世は戦国の中頃で、血なまぐさい、殺伐な時だから、武芸を競べる他流試合となると、真剣勝負の方が、むしろ多かった。
 で、川越にその人ありと知られた梶原長門と、腕くらべをして天晴うち勝てば名誉至極――たちまち天下の名人になれると、そう思う腕自慢が、時々、やってきて試合を申し込むが、長門は、いつも、
「真剣勝負ならば、相手をいたそう」
 と、答えた。
 怖れて申し出を引っ込めてしまえば、それまでだが、負けるものかという自信があるか、または申し込んだ手前引っ込みがつかないかすれば、
「よろしい。いかにも真剣で雌雄を決しよう」
 ということになる。
 だが、こうして真剣で勝負をして、長門の薙刀に勝てた者はまだ一人もなかった。「鮎切り薙刀」は、じっさい無敵だった。
 来る武芸者も、来る武芸者も、斬り殺されるか、殺されないまでも、重傷を負って、手無し、足無しになった。さあそうなると、評判は大層なものだ。
 ますます人が尊敬するから、おのずと長門の鼻は、高々となるし、持って生れた怒り肩は、一しお高慢ちきに、突張ってくる。 

  長門の挑戦

 鼻高々も無理はなかった。長門は、試合するときは、いつも定って、まず声をかけて、相手へ、
「右腕を斬るぞッ」と、予告する。それから、
「そおれ右腕ッ!」と、叫ぶと、かならず右腕を斬り落したし、また、
「左腕を斬るぞ」と予告した場合は、
「そおれ左腕ッ!」と、叫びながら相手の、左腕を斬り放す。
「右の足ッ!」といえば、右の足、
「左の足ッ!」といえば、きっと左足を斬って捨てた。
 だから、梶原長門の雷名は、轟いたし、「鮎切り薙刀」は、武者修業者たちを恐れおののかせた。
 しまいには、武芸者は誰も、怖いので川越へは、寄りつかない。ある秋の末のこと、
「退屈だなア」
 と長門は、大きな欠伸をした。すると、門人の一人が、
「ところが先生、大そう耳寄りな話が御座いまするよ!」
 そういったので、
「何だ、耳寄りとは?」
「常陸は鹿島、塚原の小太郎が、参りましたぞ。氷川明神へ参詣に来て、秩父の社へもお詣りするのだと申します」
「ふうむ、それで川越を通るのか」
「素通りでは御座いません」
「なに、素通りでないとは? 俺にむかって、試合でもいたす気なのか?」
「それはどうか解りませぬが、宿をとって、今夜は川越泊りで御座います。年こそ若けれ、剣術は天才的だという噂の塚原小太郎が、当地へ参ったからには、ただ通す訳には参るまいと存じますが、いかがでしょう?」
「むむ能くぞ言った」
「では、賞めて戴けまするかな?」
「賞めて遣わすとも」
「は、有難き仕合せ!」
「さっそく此方から、試合を申し込め」
「先生。お立ち合いは、真剣勝負で御座いましょうな?」
「解りきった事を申すなッ、馬鹿野郎!」
「いけねえ、折角賞められたのが、ふいになった」
「早くせい」
「は!」  

  勝負の予感

 翌る日の朝は、秩父颪(おろし)が吹き荒んで、霜は、雪のように白かったが、群衆は、押すな、押すなで、押しかけた。場所は、喜多院という名高いお寺の、うしろの原であった。
 その頃の川越は、北条綱成の城下だったから、群衆は、半分ほどが武士で、あと半分が町人と百姓だった。
「塚原小太郎は、若いというが幾歳なんだ」
「十七か八だろう、元服したばかりだと言うからのう」
「なアんだい、そんな若衆か!」
「なアんだとは何だ? 若けりゃ若いほど偉いではないか」
「箆棒(べらぼう)め、そんな理屈があるものか。若いほど傑いなら、オギャアと生れた赤ン坊と、雛ッ子が一等えらいことになる」
「とん痴気め、貴様みたいに言うんなら、まだ生まれない腹ん中の子が、もっと傑いぞ」
 どっと笑い声が、傍から起こる。
「おいおい貴様たちア、詰まんないことを言ってないで、どっちが勝か、賭けたらどうだ?」
「よオし賭けよう、小判一枚!」
「はッは、ケチな野郎! おれは大判一枚で、むろん勝は、梶原殿だ」
「ちぇ、大判一枚はチト応えるのう」
「見ろ! 他に誰か、大判で、小太郎に賭ける奴はいないか?」
 だが、大判となると、思いきって小太郎に賭けようというものがなかった。
「小太郎も、強いには違いなかろうが、なにしろ天下無双の梶原殿が相手ではな」
「梶原長門の大薙刀を、一度でも、受け止めた者があるかッてんだ」
「誰もあるとは申さん」
「無敵の薙刀、これまで一遍も、負けた例があるかッてんだ」
「わかったよ、そう同じことを言わずともさ。だけど、小太郎にしても負けた例なんぞないだろう」
「それは相手が弱かったからだ」
「そんな事が解るものか」
「それが解るのだ」
「え、どうして?」
「ありゃあ殿様芸というやつさ。塚原館の若殿なんだからなア、小太郎は。――常陸の国で塚原といえば、ちょいとした小大名ぐらいでは、足許へも寄りつけないほどの家柄なんだ。そこの若様とあれば、人が遠慮もするし、手加減もしようではないか。小太郎よりも腕前が、まさっていても負けてやる。だから殿様芸は、あてにならんと、俺は言うのだ」
「ふうむ、そう言われると、そんな気もするなあ」
「それ見い。いわば身の程知らずの小太郎よ。わざわざ殺されに来るようなものだ。勝負は、闘う前にチャンと決ってるんだ」
 夜が明けないうちから詰めかけた見物人は、誰も彼も皆、梶原長門の勝利を信じた。歳に似合わぬ小太郎の勇名は、この武州へも聞えてはいたけれど、とても梶原大先生の敵ではない、と思われたのであった。

  雀鷹と鵙

 今年十八歳の青年小太郎は、もはや真剣勝負の時刻が迫っているのに、悠々と、朝飯を食べていた。
「もう一杯」
「や、まだ召し上りまするか?」
 家来の一人、井川半蔵が、驚いて訊くと、
「食べるよ。朝寝坊をしたせいだろう、うんと腹が減った」
 と、小太郎は微笑む。事実、小太郎は、熟睡して、日が高く昇ってから起きたのである。
 だが、供の家来たち二十名ほどは、まんじりともせず夜を明かした。心配でとても眠るどころではなかった。
 うとうとともしないのに、
(呀っ!)
 と、おぼえず戦慄するものさえあった。
 それは、主人小太郎が、大薙刀で腕を、宙へ斬り飛ばされたような幻影が、フイと、目に見えたからであった。
 昨日の夕方、梶原長門から、真剣試合の申し込みがあった時、小太郎は、即座に、
「承知いたした」
 と、返辞をして、先方の使者をかえしたので、供頭の半蔵は、青くなった。
(うっかり川越に、来たのが間違いだった。ああ来なければ宜かったのに!)
 小太郎の入神の技を、決して疑うわけではなかったけれど、
(相手が鬼長門、「鮎切り長門」では、なんとしても心もとない!)
 一睡もせずに案じ明かしたから、昨晩の青い顔が、なおさら真っ青になったままだ。飯などは一粒だって咽へ通りそうにないのである。
 大薙刀が、目先にチラつくようで、歯と歯がガタガタする。
「顫えているのではないか、半蔵」
 と、小太郎が言った。
「はい!」
「肝の置き場所の、悪い男だな」
「はい!」
「そちは、悦哉(えっさい)という鳥を知っているか?」
 突拍子もない問いようだったので、訊かれた半蔵は、いうに及ばず、並んでいた家来ども一同が、思わず目を見張った。
「えっさい? 鳥で御座いますか?」
「そうだ、知らんと申すか?」
「そんな鳥の名は、聞くのも今が初めてで御座います」
「では教えて遣ろう。悦哉という鳥は、別の名を雀鷹(すずめだか)ともいう。鳩の半分にも足らぬ小さい鳥なのだ」
 小太郎は、そう教えたのであるが、
「して?」
 と、半蔵は、一向に解らないという顔で、
「その、えっさいがどうなので御座いますか?」
「鵙(もず)は、どうじゃ?」
「え?」
「なんぼ半蔵でも、鵙なら存じているだろう」
「百舌で御座いますか。百舌ならば、よく存じておりまする」
「む、その鵙だが、半蔵」
「鵙という鳥は、自分の形よりも、ずっと大きい鳩などを追い廻す。ずいぶん猛しい小鳥だが、悦哉に出会うと、すぐ木の葉の陰や、笹薮へ、逃げこんでしまう」
 小太郎が、そう言って聞かせても、半蔵たちには、まだ解りかねた。
(つまらないことを、一体なんの為に? えっさいだの百舌だのと、言っている時だろうか! 命がけの勝負がもう目の前に迫っているのではないか。ああどうにも気の揉めることだッ)
 と、家来どもが思った時、
「なぜ逃げ込むかといえば、鵙は、悦哉の強いことを、よく知っているからだ」
 と、小太郎が言ったので、
「若様ッ、もうそのお話は、け、結構で御座いますッ!」
 半蔵は、堪らなさそうに叫んだ。
「もう、おしまいだよ。梶原長門は、鵙にも劣る男だ。長門は、彼自身よりも強い者のあることを、知らないから、心が奢り高ぶっている」
 小太郎は、にっこりして、箸を置いた。食事を済ますと、
「どれ、そろそろ行こう」
「若様ッ、お支度、いかがなされますか?」
「支度は出来ているよ」
「え、どこに」
「このままで宜いのだ」
「なんと仰しゃいますッ」
「参ろう」
「せめてお召物の下に、鎖帷子(くさりかたびら)くらい……」
 半蔵が、そう言うのを、耳にもかけず、小太郎は、宿の座敷から出るのだった。
 一方、試合の場所では、いつまで待っても小太郎が現れないので、おびただしい見物は、わいわい騒いでいた。
「いざとなると、怖じ気がついたのだ」
「だけど、まさか逃げもしまい」
「逃げては物笑いになるからな」
「そうとも、逃げては恥だよ」
 見物は、試合場所の中央に、例の大薙刀を提げて突立つ長門を眺めて、時々、歓呼の声を張り上げていた。
 と、やがて、群衆の一角が、どよめき出した。
「やあ来た、来たッ!」
「塚原だア。おそいぞウ!」
「小太郎だア、待ったぞウ!」
「若いなあ! しっかり頼むぞッ!」
「負けても健気だア!」
 さて、この真剣勝負はいかに闘われることであろう!

  幻影の逆

 青年小太郎の供頭の、井川半蔵は、
「うッ、うッ、う―ッ!」
 と、呻いた。
 顔色は、真っ蒼、手足は、わなわな。タラリ、タラリと冷い汗が滴り、ながれる。
 それも道理、いまや「鮎切り長門」の、刃渡り六十センチもあろう大薙刀が、ギラギラッと日光に閃いて、もの凄い構えは、「斜交上段(はすかいじょうだん)」――
 これぞ無敵梶原の、得意無双の構え方。
 この姿勢が採られたら最後、
「それ、右腕ッ」
 とか、
「そら、左腿ッ」
 とか、掛け声が、咽から迸るのだ。しかも、迸ったら、その刹那には、掛け声どおりに、右腕か、左腿かが、水も堪らず斬り放されるのである。
(ああ若様、危いッ)
 と、半蔵は、心でさけんだ。けれども小太郎は、白刃を抜いたには抜いたが、構えもせずに鋩子尖(きっさき)を、垂れているではないか。
 途端に、長門の大喝が、
「右腕ッ!」
 と、響く。烈しく響く時、瞠る半蔵の眼はクラクラッと眩んで、
「あッ!」
 しぶく鮮血が、パッと唐紅(からくれない)
 宙を染めて、ぎゃーあッと喚く悲鳴と共に、斬りはなされた腕が、得物をつかんだまま、ふッ飛んだ。
(おう何としよう、若様の右腕が! 刀を握った右腕が! 得物をつかんだままだから右腕に違いないが! 肩の付け根から! おお、き、き、斬られた、斬り離された! ああどうしよう!)
 半蔵は、半分気を失って、よろよろと仆れた。その他の家来たちも、大勢の見物人も、思いは同じく、呀っと、目を閉じ、顔に手を当てて、辣むものもあれば、よろけるものもあり、うわーあッと叫ぶ人々、哮く人々。
 だが然し、半蔵の目に見えたのは――それは幻影だった。
 実際は、血煙もろともに腕と一緒に吹ッとんだのは、刀ではなかった。宙に飛ばされたのは薙刀だ。そして長門の、逞しい右腕だ。斬ったのは刀だ。小太郎青年の刀が、斬ったのであった。
 むろん、ぎゃーあッと悲鳴をあげたのは、斬られた方の梶原長門で、涼しい顔の小太郎は、莞爾(にっこり)と刀の血糊を、拭っていたのだった。
 その光景が、はッきりと見物の眼に、心に、解った時、たちまち挙がる感嘆のどよめき声は、
「日本一ッ!」
「天下一ッ!」 
 と叫び合い、叫び返した。
 さすがの長門も、この重傷では、惨敗を自覚しなければならなかった。おびただしい出血だ。瀕死の痛手なのである。
(ちぇぇッ無念、無念ッ!)
 心は、はやっても、貧血のために刻々と衰えてゆく体の手当てを、受ける外には何と仕方も無いのだった。
「天下無双だア!」
 褒め讃える叫び声は、声に重なり、重なって、暫らくの間は鳴りも止まずに、喜多院の背後の森に谺してひびいた。

「塚原ト伝」 中山義秀 徳間文庫 1989年 ★★
 足利政権の末期、京に一人の若者が現われた。若者の名は、塚原新右衛門高幹。常陸の国鹿島に伝わる剣技をたずさえて、兵法修業の旅に出た、後の剣聖・塚原ト伝の若き日の姿であった。
 十有余年後、鹿島に戻った新右衛門は、一朝、鹿島神宮の神木の前で、ついに秘伝の一の太刀≠完成する。新当流の一流をたてた彼は、やがて新たな修業の旅へ出た。剣に命を賭けた男を描く傑作時代長編。(カバーのコピー)

  情 焔
    
 梶原長門は、川越城下の侍屋敷にすんでいる。
 長門は上杉家の執事で、川越城主である曽我兵庫頭神四郎則員に扶持されている牢人衆の一人であるが、戦国時代の牢人衆は、客分の待遇をうけて、威張っていたものである。
 彼等は領主の家臣となって、知行の土地を持たないから、所領に縛られることがなく、一身の自由がきく。
 自分の要求が満たされなかったり、待遇が気にくわなかったりした場合、よりよい扶持主をもとめて、何処へ行こうと彼等の勝手だ。
 諸国到る処で戦争をやっているから、牢人衆が訪ねてくれば、誰でも悦んで扶持する。
 ことに武功者の名をとった、牢人衆が訪ねてきたとすると、扶持主はそれを名誉にして、生活一切の面倒をみた上、手厚く待遇した。
 塚原新右衛門が一生涯の間に、戦の場数を踏むこと三十七度、討取った敵首二百二級などと伝えられているのも、こうして諸国をめぐり歩いたからである。
 これが所謂、武者修業だ。つまり、戦争屋である。三十七度も戦争にでれば、その道のヴェテランになる。身に一創も蒙らなかったというのは、戦場の働きに馴れきっていればこそ、敢て不思議とするに足りまい。
 梶原長門も、その一人である。故郷の下総を出て諸国をめぐり、再び関東に帰ってきて、兵庫頭に扶持されている訳だ。
 齢は四十一、二歳といったところ、経験をつみ度胸ができている。
 一尺四寸の小薙刀を、自由自在に取扱って、飛鳥を切って落す手練は、我ながら神技に達したものと自負していた。
 長門は妻をもち、若党一人、小者の中間二人ほど使って、不自由なく暮らしながら、家中の侍達を相手に、武技の稽古にあたっていた。
 しかし彼は、兵法を専門に修業したわけではなかった。度々戦場にでたり、扶持主にたのまれて、主人の意にさからう家来や、取籠り者などを討取ったりしている間に、生来の器用さから手がかれて、名人と云われるようになったものである。
 それ故一流をたてて、表裏の組太刀や奥義を伝えるというようなことはない。経験からえた太刀打の呼吸や、はやわざを稽古するにとどまる。
 「旦那、御城代より、お召しでござります」
 炎暑の一日が、ようやく夕べに近づきかけた頃、若党が長門に告げた。城代は扶持主の曽我兵庫、時折こうして晩餐によばれることがある。
 長門はすぐ仕度して、城代の屋敷にむかった。
 兵庫は城を主君の上杉朝興にあけ渡して、城の大手に住んでいた。
 川越城は六町四方、太田道灌父子が築いた。平野の平城である。
 西が大手で、東が搦手、城内は本丸、子丸にわかれ、外廓の東北は池水、西南は平地になっている。
 江戸城、太田三楽斎のいる岩槻城、川越城、その西北にある、難波田弾正の松山城、これ等はみな扇谷の上杉が命じて築かせたもので、太田、上田、曽我、難波田等の家臣に、預け守らせておいた。
 今年の正月半ば、小田原の北条氏綱に攻められ、江戸城は夜遁げしてきてから、上杉朝興はこの城を本拠にして、江戸城の恢復を狙っている。
    (中略)
    
 川越の城下へ、塚原がやってきた。
 大胡の館に二週間あまり滞在している間に、小笠原の訓閲集を借覧して、大いにうる所があった様子である。
 その間秀綱を相手に、組太刀の研究につとめ、これまた、相互に役立った。
 後年上泉秀綱が、新陰流をおこして、実あって花のない陰流に、あらたに花を添えたものと自讃しているのは、この時学んだ塚原の新当流から、種々工夫することがあったからに相違ない。
 陰流が文字通り、陰微を主とする陰の太刀ならば、塚原の一の太刀は天地を両断するていの陽の太刀である。この陰陽をあわせえて、新陰流と号したものであろう。
 城下の旅籠、加納屋治郎吉方に草鞋をぬいだ塚原は、亭主の治郎吉を座敷によんで、
 「当地に梶原長門という御牢人が、居られるであろうな」
 「へえ、御城代御自慢の牢人衆であられます」
 「長門殿の宅は、ここより余程、遠方であろうか」
 「いや、左ほどではありません。長門様は大手近くの侍屋敷におられますから、七、八町の距離にござります」
 「然らば御苦労ながら、この書状をとどけて下され。返事は、すぐに貰って来なくとも宜しい」
 「畏まりました」
 塚原が亭主に託した書状は、試合の申込みである。立合の日時や場所は、すべて先方の決定にまかせてある。
 但、勝負は塚原と長門と一対一、どちらが勝っても負けても、双方に遺恨をのこさず、助勢は無用という条件がついている。これはこの当時の、勝負の常道である。
 その日のうちに、長門の若党が返事を持ってきた。長門の方でも、待ちかまえていたものと思われる。
 時日は明後日の朝六時、場所は城下の松原ということであった。
 塚原は自身立出て若党に会い、承知の旨を答えた。
 塚原が寝についた、その夜の亥の下刻(午後十一時)不意に訪問客があった。
 起された塚原は、取次の若い衆にむかって、
 「当地に、知人はない。何かの間違いであろう。一体どんな客だ」
 「顔を布でつつんでいるので、しかと分かりかねますが、女子のお客でござります」
 「ははア、拙者に婦人客が……」
 塚原はますます、解らなくなり、
 「女子の身をもってこの夜ふけに、何の用で拙者をたずねてきたものか。名は何と云われた?」
 「名は申しませぬ。じきにお会いすれば、すぐにわかると云うております」
 「名をあかさず、用向きの次第も不明とあっては、会うわけにはゆかぬ。強いて面会致したいとあれば、明日お出あれと申せ」
 若い衆は去って行ったが、間もなく又ひっかえしてきて、
 「お身の大事にかかわることなれば、是非とも今夜お会いして、密々に申上げねばならぬそうでござります。あれあれ、はやあそこに見えられました。一寸の間でも、お目にかかっておあげなされませ。寝床は、手前が片付けます」
 宿の若い衆は、客に鼻薬でもきかされたものとみえ、塚原の返事もまたずに座敷の取片付けにかかった。
    (中略)
    10
 梶原長門は塚原を、妻の情夫と思い違いしていた。
 もっとも辻の跡をつけてきて、垣根の隙から塚原に抱きついている、妻の姿を覗き見したのであるから、そう考えるのも無理はない。
 夏の夜のこととて、雨戸障子はすかっり閉ざされてはいなかった、それを用心しなかった辻は、前後を忘れてしまっていたのであろう。
 妻を我が手にかけて、立合の場に現れた、長門の形相は変っていた。
 定刻の六時前に松原へやってきて、苛々しながら塚原の現れるのを、今やおそしと待構えている。
 立合の契約を守って、彼は一人であった。腹巻具足をつけて、身ごしらえは厳重をきわめている。兜はさすがに、かぶってはいない。
 城下の松原は、ふだん家中の侍の馬場に使われているところ、緑の芝生におおわれて、試合には屈強の平場だ。
 塚原は着込みをつけ、脚絆草鞋に袴の股立をとって、一刀をひっさげ、定刻にやってきた。
 立合人も何もない、一騎一騎の勝負である。いつ何処から不意に襲われようと、おくれをとるまいとして、あたりに眼をくばりながら、ゆっくりと近づいてくる。
 長門は塚原の現れたのを見ると、躍りあがって彼の方へ駆けだしてゆき、
 「塚原、遅いぞ」
 「遅くはない。今明け六つの鐘が、鳴ったばかりだ」
 長門は塚原を睨みつけ、歯がみをしながら、
 「おのれ妻敵、覚えておれ」
 妻敵とは、姦通された良人の相手に対する言葉である。塚原は怒って、
 「妻敵呼ばわり、無礼であろう。何を証拠に、左様な云いがかりを申す」
 「ぬけぬけと、しらをきるな。証拠というのは、これだ」
 長門は腰にさげた網の首袋から、辻の生首をとりだすと、その黒髪をわしづかみにして、塚原の前へほうり投げてよこした。
 塚原の目の前に、ごろんと転がってきた首は、濠から拾いあげたものと見え、黒髪に藻草がからみついていた。顔色は土色にくろずみ、顔を横にして両眼をひらいている。うつろな眼で、何を見ようとして、いるのであろう。
 「やア、こりゃ辻……」
 塚原がその前に駆けよって、思わず首の面を覗きこみ、
 「不憫や、長門に討たれたな」
 そう痛歎の声をもらした刹那、ヒュウッという風鳴りの音が、彼の頸筋をうってきた。
 「うぬが首も、一緒にならべてやる」
 その叫びよりも速く、横にひらめいた長門の小薙刀が、蛭巻下からすぱっと宙に切放され、すかさず踏みこんだ塚原の燕返しの一刀に、長門の左半面が斜めにざっくと開き割れた。
 「あああああア」
 長門が最後にもらした、断末魔の声である。呻くともなく叫ぶともなく、われ鐘をすりあわしたような、異常な顫え声……
 塚原は辻の首を拾いとると、にわかに地に伏した。彼を目がけて、数条の矢が飛んできたからだ。
 方向を窺うと、城の方からである。濠の土塁の上に築かれた、土塀のはざまから、彼を狙いうちしているらしい。塚原は長門の死骸を小楯にとって、ぶると武者顫いした。

「剣豪伝 天の巻 歴史を旅する会編 講談社文庫 2003年 ★★
宮本武蔵と佐々木小次郎の本当の実力は、どちらが上だったのか? 「巌流島」の決闘の真実とは? 戦いを回避する塚原卜伝こそ最強の武士? 伊藤一刀斎の知られざる素顔とは? など南原幹夫、加来耕三、早乙女貢、神坂次郎氏ら著名作家たちが剣豪の謎に迫った秘話満載のアンソロジー。
第二部 乱世の剣
塚原卜伝――無双の英雄、秘剣一つ太刀  上之郷利昭
塚原卜伝――鵙と雀鷂  火坂雅志

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 塚原ト伝(つかはら ぼくでん)
1489〜1571(延徳1〜元亀2)戦国時代の武芸者。
(系)鹿島社祠官卜部覚賢の次男、塚原土佐守安幹の養嗣子と伝える。
(生)常陸。
(名)高幹(たかもと)、土佐守。
 下総国香取の兵法家飯篠長威斎の刀槍術を継承し、また上野国の上泉武蔵守信綱(伊勢守秀綱)にも学んで高名な武芸者となり、将軍足利義輝・伊勢国司北畠具教らの指南もした。琵琶湖上の船中で武芸者から真剣勝負を挑まれたが、うまく相手を小島に置き去りにしたという無手勝流の話などが巷間に多く流布したが、いずれも真偽は不明である。
(参)吉田精顕「正伝塚原卜伝」1943

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上泉伊勢守(こういずみ いせのかみ)
生没年不詳。戦国時代の剣客。
(系)秀郷流藤原氏の出。大胡氏の支族。
(名)秀綱、のち信綱。引田伊勢守ともいう、
 上野国大胡郷の上泉、引田付近の土豪。長野氏の箕輪城支城の厩橋城の寄衆。武田氏の西上野進出に抵抗した。長野氏滅亡後、浪人して諸国を遊歴する。1570(元亀1)剣技を正親町天皇に見せて、従四位に叙せられた。門人に柳生宗厳・疋田文五郎らがいる。

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作成:川越原人  更新:2010/5/15