東京に近く人の出入りも激しい川越では、文化的交流がたいへん盛んである。言語の上でもこの土地固有の訛りや方言は急速に消えていった。しかも最近のラジオ、テレビの普及が、全国的に言語の平均化に果した役割は甚大である。川越ことばは、地方方言としてその音韻・語法の点から見ても、関東地方全般に類似したものが多く、かならずしも川越だけにかぎったものではない。また言語自体生きている以上、矯正されたり、長く使わずにいて自然に消えていったものもある。昔使われた農具や家具、あるいは年中行事などに表現されたことばの類(たぐい)のように、時代の推移によってすでに失われた方言も多いが、それらも含めて、古老の口からもれたものは、一応の目安として総覧147川越ことば一覧に収録した。 (斎藤)
今でこそ、東京では川越の甘藷のみが名を残しているが、太田道灌が築城した頃は、江戸に職人がいないので、川越からその供給を仰ぎ、僅々100日の間に江戸城を築きあげた。道灌が入城したのちも、川越は地方文化の中心で、風俗・言語すべて川越をまねるのがハイカラだったから、江戸人は川越に対して頭が上がらない。それに山王様も築城と同時に川越の星野山無量寿寺から輸入した。無量寿寺の開山慈覚大師が、比叡山から分霊して境内に祀っておいた山王権現を、「これは手頃だ」といって江戸城内紅葉山へ持ってきて、江戸城の産土神(うぶすながみ)と崇めた。山王様はその後貝塚(半蔵門外の総称)に移され、明暦の大火に焼けたのちは、溜池の築山といった今の所へ遷座した。家康入城後は山王権現を徳川家の産土神に定め、武蔵の総社たる神田明神とともに深く尊信した。6月15日を山王祭り、9月15日を明神祭りと称し、これを天下祭りと称した。以上は矢田挿雲の大著「江戸から東京へ」に明記しているところである。また川越商人は、江戸の大都市化とともに、そこを取引の大きな対象にし、城下周辺の物資の集散よりも、むしろ江戸を相手にする取引に重点を置き始めた。江戸は元禄年間(1688〜1704)頃すでに人口100万に達し、その半数の50万は純然たる消費層である武家人口であった。それに目をつけたのである。江戸と川越を結ぶ輸送路である新河岸川の舟運をおおいに利用し、しだいに城下町商業は発達していった。川越―大江戸間の直結の成果は、嘉永年間(1848〜1854)頃の「全国御城地繁花鑑」を見てもわかる。東前頭12位、武州川越の名が光っている。その頃の問屋商人はしだいに資本を蓄積して豪商となり、あるいは領内物資の取扱いにより領主と密接な関係を持つ御用商人として台頭した。中でも穀類商人は、大坂堂島の米相場を左右するほどの力を持っていたといわれている。城下町の商工業の区域は、上五カ町が商人町で、下五カ町は職人町と、分けられていた。さて、そこでの会話には、商人あていねいな江戸弁、職人、特に鳶や棟梁たちは歯切れのよいべらんめえを使った。粋で威勢のよい言動が、開城前の江戸人には大変な魅力で、さっそくまねが流行(はや)ったのである。こういうわけで川越っ子が江戸弁を使ったという表現は正確でない。川越弁を江戸っ子が使い出し、いつのまにかこれが江戸ことばに化けてしまい、本家・分家が逆になってしまったのである。一方「だんべえ」は、江戸者にいわせると、ずっと奥の山家の者たちの日常語ということになる。川越では近郷はすべて、また北の熊谷、西の秩父方面、南はずっと東京の農村部まで、それに神奈川の北部・西部も「だんべえウクライナ」といえた。しかし最近は、この地帯も首都圏とあって標準語に侵蝕されてしまっている。戯作者十返舎一九の「江戸見物」には「花のお江戸のまん中、馬喰町、小伝馬町は他国の人のための旅籠屋が多く、大江戸の気性そなわり、難渋する旅人をすくひ、金銭にかかわらず、世話をなして、万事親切にするを商売の冥加と考へるがゆへに、日ましに繁盛しにぎわひける。かの山家の二人づれ、はなげののびたか、ここに逗留し、名所名所を見物と出かけける」――さてこの二人「お江戸は、がいに(非常に)にぎやかなこんだァ、この人どをりを見なさろ、うらァうったまで申した」「あ(な)るほど、人のよんこ(しこたま)あるところだァ、この人さあが毎朝小便(しょんべん)するだんべいが、一人(ふとり)で一合づつしても、でかいこんであんべい。うらが国さあの肥(こやし)にしてへもんだァ」「やうやうと馬喰町へきた。そふぞよい髱(たぼ)(遊女の意)のある家へとまりたいものだ」――と投宿するまでを描いている。今は、こういう形でしか「正調だんべえ」は残っていない。川越市西部の霞ヶ関地区で、昭和11年から18年までに集録した地方語を挙げる総覧147は川越市文化財調査委員矢島健三が現地で集録したものの主要な一部であるが、市街地でも、かなり通用していた。現在は人口流入と都市化が進み、方言は死語化が著しい。 (東郷)
総覧147.川越ことば一覧
※下線の付いたものは、「小江戸川越検定認定問題集」から追加。
【あ】 あいつ(彼) あかっこ(赤子) あかっぱじ(恥) あかんこ、あかんばや(たなご) あかんべえ(嫌(いや)) あくてえ(悪口) あげもん(天婦羅) あしいれ(樽入れ:公家の婚前結婚、花嫁の家に男が一晩泊る。足入れ婚のこと) あしっこ、あとっこ(足) あったけえ(温(ぬく)い) あなっこ、あなぼこ(穴) あに(何) あにこく、あにこきゃがる(何をいう) あばらっばね(肋骨) あんだべ、あんだべえ(なんだろう) あんちゅうこと(なんということ) あんも(餅) あんよ(足) |
【い】 いいだんべ(よろしい) いくべえ(行こう) いしあたま(堅物(かたぶつ)) いしっころ(石) いっかど(ひとかど) いどころね(居眠り) いぬっころ(犬) いのちしらず(むこうみず) インギン(隠元豆) |
【う】 うっくるけえる(転倒) うっちゃあすれる(忘れる) うっちゃける(つぶれる) うっちゃる(捨てる) うっちんだ(死ぬ) うまのべろ(木蓮) うんこ、うんち(糞) |
【え】 えぐべえや(行こう) えっかど(ひとかど) えっくくる(くくる) えっける(乗せる) えっつける(くくりつける) |
【お】 おかちめんこ(みにくい顔) おかぶ(陸稲) おがみや(先達(だつ)) おくり(奥の方) おけら(一文無し) おこわくった(参った) おちゃおけ(茶受け) おっことす(落す) おっちばる(縛る) おっちんだ(死ぬ) おっつぶれる(つぶれる) おっぱさむ(挟む) おっぱしる(走る) おっぱずす(外す?) おっぺしょる(圧し折る) おっぺす(押す) おてて(手) おとうか(狐) おとと(魚) おにっぱ(犬歯) おめえ(お前) おもる(奢る) おんべっかつぎ(御幣担ぎ) |
【か】 かあながれ(水死体) 蚊いぶし(蚊遣(や)り) かえりんぼ(先祖帰り) かかあでんか(嬶あ) かくねっこと(隠れんぼ) かくねざとう、かくれざとう(神隠し) がしゃがしゃ(クツワムシ) かぜばば(風) かたいれ(あしいれ、婚前結婚) かたっきん(インポ) かち(拍子木) がっかり、がっから(落胆) かつぎや(御幣担ぎ) かったるい(疲労) かっぽ(足袋) かどっこ(角) からきし(ぜんぜん) からっけつ(一文無し) かんぐ(嗅ぐ) かんご(籠) かんじゅうする(数える) |
【き】 きそっぱ(紫蘇) きどころね(居眠り) きぬう、きにゅう、きんにゅう(昨日) きびしょう(急須) きゃあるか(帰ろう) きゅうすなう(気絶する) きれっこ(布切れ) |
【く】 食うべえ(食べよう) くさわけ(発起人) くず(落葉) くぜる(鳥の鳴声、くどい) くそっぱじ(恥) くつける、くっつける(つける) くっちゃく、くっつぶす(かみつぶす) くでえ(くどい) くびくくり、くびっこ(首吊り) |
【け】 げえぶん(外聞) けえりんぼ(先祖帰り) けえるべえ、けえんべえ(帰ろう) けなりい、けなるい(うらやましい) けぶい、けぶたい、けぶってえ(煙い) |
【こ】 こえたんご(肥桶) こじい(行け) こすい(狡い) こっぱ(木片) こっぱんざる(小笊) ごまっかす(狡い) こんこんさま(狐) こんぼう、こんぼうず(蕾(つぼみ)) |
【さ】 ささらほうさら(目茶苦茶) さっぽる(捨てる) さびい、さぶい、さみい(寒い) |
【し】 しかめっつら(顔) しっちゃかむんちゃか(支離滅裂) しとっぽい(湿っぽい) しび(藁) しめえっこ(末子) しゃつら(顔) しょうぎ(小笊) しんだんべ(死体) しんどい(疲労) じんばら(大腸) |
【す】 すいっちょ、すいっちょん(馬追い) すえて(仲間に入れて) すっからかん、すっかんぴん(一文無し) すっぽる(捨てる) すりがね(早鐘) するべえ(やろう) |
【せ】 せえ(茶漬け、おかず) せえめし(混飯) せともん(瀬戸焼) せなだめ(肥壺) ぜに、ぜね、せね(銭) せんみ、せんめ(蝉) せんみつ(嘘つき) |
【そ】 |
【た】 たかみ(高所) たっぽ(足袋) だぶ、だぶせえ、だぶすかし(馬鹿) たまっこ、たまっころ、たまんころ(玉) |
【ち】 ちっとんばい(少し) ちにる、ちにくる(つねる) ちびてえ(冷たい) ちゃおけ(三時休み) ちゃぞっぺ(茶漬け) ちょんぎん(切る) ちんころ(犬) ちんば(跛者) |
【つ】 つぎ(布切れ) つけあげ(天婦羅) つっけえす(突返す) つっけんどん(邪慳(じゃけん)) つっつく(突く) つっぴゃある(水に落ちる) つぶあし、つぶっこ(素足) つましくする(節約する) つら(顔) つんだす(突出す) つんもす(燃やす) |
【て】 でえく、でゃあく(大工) でえこ、でやこ(大根) できもん(腫物) でっかい、でっけえ(大きい) てて(手) てばたき(拍手) でほうでえ(出まかせ) てめえ(お前) てやぁ(手合い) てんぐっぱ、てんごっぱ(八ツ手) でんぐりけえる(転倒) てんご(天狗) てんぬき(時どき) でんべそ(出べそ) |
【と】 とうし(始終) ときたま(時どき) どくそ、どんぐそ(糞) ところまんだら(所どころ) どざえもん(水死体) とっつぁばく、とっつえる(裁く) とっつかまえる、とっつかめる(捉まえる) とっとかめる(掴まえる) とっぱしる(走る) とっぱずす(外す) とと(魚) とんかち(金鎚) とんかちあたま、とんかちやろう(堅物) とんちゃんさあぎ(大騒ぎ) とんとん(等しい) とんび(鳶) どんぶり(腹掛け) |
【な】 なっぱ(菜) なめらっくじら(なめくじ) ならび(等しい) なりてん(南天) |
【に】 にいやか(賑やか) にごい、にゅうい(匂い) |
【ぬ】 ぬ(の)くとい(温い) |
【ね】 ねぶい、ねぶたい、ねぶってえ(眠い) ねぶき(いびき) ねるべえ、ねるべえや(寝よう) ねんじん(人参) |
【の】 のしこみ(うどん) のす(急ぐ) のっける(乗せる) のて、のてっぱち(むこうみず) のめっこい(滑らか) のんのさま(神様・お月様・仏様) |
【は】 はいつくばい(はらばい) はかがいく(はかどる) はかせえ、ばかすかし(馬鹿) ばかっつぁぎ(大騒ぎ) ばくちうち、ばくちぶち(博徒) はし、はじ、はじっこ、はじっばた(端) はずれ(不作) はなぐるま(いびき) はなたれこぞう、はなったらし(鼻垂れ) はばきき(顔役) はらぺこ(空腹) はんとっこ(未熟児) ばんばん(はらばう) |
【ひ】 ひかげもん(罪人) ひくみ(低所) ひだりい、ひだるい(空腹) ひっくくる(くくる) ひっくじく(圧し折る) ひっくりけえる(転倒) びっこ(跛者) ひっこぬく(引抜く) ひっつねる、ひねくる(つねる) ひっぱる(引く) ひっぱれ(遠縁) ひぼか、ひもかあ(煮込みうどん) ひゃあもねえ(一文無し) ひゃある(はいる) ひゃくひろ(大腸) 百万だら(くどい) ひゃっこい(冷たい) ひょっこ(雛) ひよわい(病弱) ひんにくる(つねる) ひんぬく(引抜く) ひんまくる、ひんめくる(引きめくる) ひんまげる(引曲げる) |
【ふ】 ぶきっちょ(不器用) ふたがっこ(双子) ぶっちゃける、ぶっつぶれる(つぶれる) ぶっつく(触れる) ふんじばる(縛る) ぶんず(エンドウ) ぶんまあし(分度器) ぶんまわす(回す) |
【へ】 へえてえ(軍人) へえてえふく(軍服) へそまがり(変人) へんくつ、へんぼうれ(変人) |
【ほ】 ほそっぴい(やせる) ぼっころす(打殺す) ほっぽ(穂) ほねがらみ(梅毒) ほらふき(嘘つき) |
【ま】 まがりっかど(角) まっしき(ぜんぜん) まっさら、まっつあら(真新しい) まねっこと(まねごと) まやかされる(化かされる) まるっきり(ぜんぜん) まんみつ(嘘つき) |
【み】 みじこく(みじめ) みそっぱ(虫歯) みたび(隠元豆) みはぐる、みはぐった(見落とす) |
【む】 むしき(虫封じ) むてっぽ(むこうみず) |
【め】 毎日、毎年等…毎のつくことばはほとんど「めえ」と発音する めっける(みつける) めったやたら(目茶苦茶) めどっこ(穴) めのたま、めんたま(目玉) めめず(ミミズ) めをつぶる、めをくっつぶす(目を瞑る) めんめん(うどん) |
【も】 |
【や】 やせっこける、やせっぽち(やせる) やつ(彼) やっぱ、やっぱり(やはり) やめべえ(止そう) やるべえ(やろう) |
【よ】 よかんべ(よろしい) よすべえ(止そう) |
【ら】 らんぐいば(虫歯) らんちきさあぎ(大騒ぎ) |
【り】 りんりん(鈴虫) |
【わ】 わらしび(藁) わるさ(いたずら) 【ん】 んまのしたべろ(木蓮) |
※川越の方言に関して、掲示板に投稿がありましたのでご紹介します。
川越ことば No: 192
投稿者:シドニーの川越人 04/04/20 Tue 15:45:49 先祖代々川越人で、私1人がどう言う訳かオーストラリアのシドニー嫁ぎ住んでいます。2児の母となり、里帰りをする度に両親との会話が川越弁になり、今では主人と娘達にも川越語を教えています。一覧の中には両親が今でも使う”あくせぇこく(呆れてものが言えない)”と言うのがなかったので、ちょっと寂しくなり投稿しました。”他にもよぉ、まっとあっけど、今日んとこは、こんくらいにしとっかんね。” |
川越ことば No: 213
投稿者:シドニーの川越人 04/06/14 Mon 15:26:09 川越原人様 先日は”あくせぇこく”についてお調べ頂いて有難うございました。 幾つか頭に浮かぶものが有りましたので、お言葉に甘えて書かせて頂きました。これらはもしかしたら埼玉語であって川越語でないかもしれませんが、ご参考まで、 いっとう(一番)、いら(沢山)、おっぴしょく(折る)、おっぴらぃる(あふれる)、かんます(掻き回す)、きない(来ない)、けむ(煙り)、 こば(端)、しめぇ(最後)、そらっぺ(嘘)、〜したばい(〜したばかり)、とばくち(入り口)、べっちょ(泣き顔)、やっこい(柔らかい) |
@秩 父 郡
162 S37 市教育委員会 『秩父の伝説と方言』
F北 足 立 郡
730 S5 池ノ内好次郎 『埼玉県入間郡宗岡村言語集』昭和5年版
767 S40〜42 『小針小学校をとりまく言語的環境調査(中間報告)』第1〜第3冊 小針小学校、小針小学校母の会共編
G入 間 郡
830a S5.5 宮本明 『方言訛語の研究』(大井小学校)
830c S5 杉山正世編 『埼玉県川越市近傍言語集稿』
831a S6 高麗川尋常高等学校編 『国語読本に現れたる標準語と郷土の方言・訛言』
837d S12.2 池ノ内好次郎 『埼玉県入間郡方言集稿』方言
838b S13 野本米吉 「川越地方の方言調査」
868b S43 川越市 『川越市史民俗編』第10節 方言
878 S53 坂戸市教育委員会『坂戸の方言』
※また、インターネットで検索したところ、「消滅寸前博多弁事典」につぎのような記事を見つけました。
アクセイウツ
【困り果てる】
『ていしゅの ばくちぐせにゃ いいかげん あくせいうっとります』
「主人の賭け事好きにはいいかげん困り果てています」
アクサイウツの転。アクサイは厄災のおこるという悪歳か。また、あくせくすることの転意か。
これを含めて、別の方言辞典で調べてみました。
埼玉県入間郡地方には「なから」という方言がある。「どうだ、おめえの方はもう田植は終ったかよ」「うん、まあなからちう所だんべ」てな具合で、大半とか殆んどという意味に使われる。「全国方言辞典」によると、この方言は上州、秋田県鹿角郡、新潟、長野、群馬県山田郡などに分布している。別に静岡県田方郡、兵庫県揖保郡、高知県安芸郡、長崎県佐世保、鹿児島県などでも使っているが、この方は同じなからでも少し違って半分、なかばの意に用いているようである。
このなからという言葉は非常に古い言葉で、すでに万葉集にその用例がみられる。すなわち巻十六の作者不詳の歌に
法師らが髭の剃杭(そぐい)馬つなぎいたくな引きそ法師なからむ
という僧侶をからかった歌がある。剃杭はいい加減に延びた無精髭のことで、そのくいに馬をつないでも、ひどく引っぱるなよ、法師が半分になってしまうだろう、という意味である。これに応えた歌が、
檀越(だんおち)や然もな云ひそ里長(さとおさ)らが課役(えつき)徴(はた)らば汝もなからむ
で、やはり半かむを使っている。檀那よ、そう威張りなさんな、もし村長さんがきて、税金や労役のことで攻め立てるなら、あなたも半分になってしまいましょう、という位のわけである。万葉集中にはこの二例だけだが、ほかに枕草子には「坂のなからばかり歩みしかば、巳の時になりにけり」、宇治拾遺物語には「舟の内なる者ども、これがしわざを見るに、なからは死に入りぬ」という用例があって、いずれにしてもかなり古く使われた言葉だということが分る。
それが江戸時代になるともう色々渉ってみても、この言葉は出てこないようで、わずかにこれを転用した「なから半尺」という語がでてくるくらいのものである。これも中途半端というほどの意味に用いられ、川柳に勾当内侍を得た義貞を
なから半尺で義貞づるけ出し
京都で横暴を極めた義仲を
なから半尺で仕廻ったは義仲
などとやゆしたものがある。面白いのはこの「なから半尺」ともう一つ「なからなまじ」という使い方が、やはり方言として東北六県に現在でもその命脈をつないでいることである。
ところで柳田国男のとなえた学説に方言周圏論がある。全国における数百のカタツムリの方言をデデムシ系、マイマイツブロ系、カタツムリ系など、六系統に整理してその分布を調べてみたところ、方言はおおよそ近畿をぶんまわしの中心として段々に幾つかの円を描いた。いいかえると池の中に投げられた石の波紋がしだいに広がってゆく有様とよく似ている。したがって日本のような細長い列島では、南海の島々と奥羽の端とに同じような方言が分布することがみれらるというのである。これは全国を幾つかの方言区に機械的に分割しようとするゆき方に鋭い批判を浴びせたものである。
あれこれ考えてみると、このなからという方言もやはりこの学説の正しさを立証しているようである。いにしえの奈良の都に始まって、少なくとも平安、鎌倉時代までは中央の標準語として使われていたものが、追々に都を離れた地方に波及し、千余年の長い歳月を経た今日では、この国の東西の果てに方言としてその名残りを留めるにいたった。しかしその用法も東の方に流れたものが、だいたい、ほとんどを現わし、西の方に落ちていったものが、半分、半ばというぐあいに、よい対照をなしているのも興味をひくところである。お百姓さんたちが日常無造作に使っている言葉のなかにも案外な秘密が隠されている実例として挙げておきたい。
(前略)
また「予が角力」というだけで四股名のはっきりしないお抱え力士の一人は、「諸国を周行すること常なり」という相撲取りの特権を利用して収集した諸国売女方言一覧≠静山に提供してくれた。売女(売春を業とする女性)のことを武州川越では「這込(はいこみ)」と呼び、上州高崎では「おしくら」、越後出雲崎では「鍋」、そして佐渡では「水銀(みずがね)」と呼ぶ等々……全国41の事例を挙げた貴重な風俗言語資料が、居ながらにして静山の手元にもたらされたのである。 (後略)
関東地方の語彙
関東七都県は、基本的に「バカ系語」の文化圏に属す。しかし北関東・千葉など東京を囲む地域で独自の言語圏を有している。
特徴的なのは「ゴジャ(ッペ)」と「デレ(スケ)」、そして「コケ(虚仮)」の分布である。「ゴジャ(ッペ)」「デレ(スケ)」は江戸の流行語と考えられるが、いずれも「コケ」と同じく元来は京都の言葉である。また同じように古く東漸してきたと思われる「タワケ」は、今も神奈川・埼玉・群馬の一部に残っている。
関東には他に「マヌケ系」「ボケ系」「アンポンタン」「オタンコナス」「トンマ」「ポンツク」「ホイト(陪堂)系」「サンタロウ」「ノッポ」などが、各地に分布する。阿部次郎『三太郎の日記』、サトウサンペイ『フジ三太郎』は、この「サンタロウ」からきているのだろう。
埼玉県
1=県下で広く回答された言葉
バカ系――バカ・バッカ・バカスカシ・バカチョン・バカヤロウ・バッカヤロウ・バッキャロー・ウスバカ・ウスバカヤロウ・コバカ・オオバカ・オオバカヤロウ・バカチクショー・カラバカ
2=一部地域で回答された言葉
タワケ系――タワケ・タワケヤロー
マヌケ系――マヌケ・マヌケヤローヌケサク
デレ・デレスケ/コケ(虚仮)/ウスヌケ・ウスヌケヤロー/ナンケ・ナンケヤロー/ドジ/ダブ・ダブセー/メッタメッタ/ナスアタマ(茄子頭)
アホ系――アホー・アホ・アホンダラ
オタンコナス/タンサイ/カボチャヤロウ/タゴサク
【幸手市:『幸手の言葉』(上野勇著)】
アンピッチョ(お多福の意)/アンピッツラ/イケロノマ/ウダリ/オーカンドーラク(往還道楽)/ゲタッペラシ(下駄減らし)/カスッタカリ/イヌクタバリ/オークタバリ/オケラ/オテンタラ/ガキ/クソジジー/クソババー/クソッタレ/ケツマガリ/ゴーツクバリ/ゴクッツブシ/シブッカキ/スケジー/スケバー/スベタ/チャラッポコ/ドンビャクショー/バカチクショー/ベタッカス/ホーロクダマ(←表六玉)/他
【所沢市市史編纂室:木村氏による地元四人のご年配者聞き取り調査結果】
バカ・ウスバカ・オオバカ・デレスケ・ベラボウ(メ)・チキショウ・アンチキショウ・コンチキショウ・マヌケヤロウ・ノロマ・テメエ・アンポンタン・バカスカシ
大正二年生まれの男性(所沢市日比田)の証言――
「『バカ野郎』というのが多かった。次に多かったのは『バカスカシ』だった。大人が子供を叱りつける時に多い。他に子供を叱りつける時には『大バカ野郎』と言った。子供同士では『チキショウ』とか『コンチキショウ』なども使った。『うすバカ野郎』なども言った。また怒った時とかに『アンポンタン』などと言うこともあった。(中略)『アホ』という言葉は、私が16、7歳のころ(昭和4、5年)、初めて耳にした。ちょうど東京へリヤカーを引っ張っていって、リヤカーを置いたところで言い争いがあった。そのとき一方の人が『このアホー』と言っていた。使われ方が『バカ』というのと同じだと思ったので、そういう言葉があることを知った」