川越のエッセイ・自伝(1)


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狐のだんぶくろ澁澤龍彦事典澁澤龍彦の時空大人のしつけ紳士のやせがまんすこし枯れた話可笑しな宿

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「狐のだんぶくろ」 澁澤龍彦 河出文庫 1997年 ★★
 人一倍記憶力のいい著者が語る昭和初期の思い出。記憶の底から、まぼろしのように浮かびあがってくる光景。いまでも正確におぼえているが、他の誰も知らない童謡。正月のチョロギへのこだわり。両国国技館の大鉄傘。病気の問屋さんといわれていた子どもの頃。漫画、替え歌の思い出……。のぞき眼鏡でのぞいた。光りかがやく少年期という黄金時代。
 
チンドン屋のこと
 近ごろ、街でチンドン屋が一向に見られなくなったのは、さびしいことだと私はつねづね思っている。あれも昭和初年の流行現象として、いまでは忘れ去られてゆく運命にある風俗の一つなのだろうか。
 鉦(かね)、太鼓、三味線、クラリネットなどの楽器をにぎやかに鳴らしながら、三人ないし五人、それぞれ背中にポスターみたいな広告を垂らして、千鳥足で街をねり歩く。お白粉をべたべた塗って、時代劇の役者みたいな扮装をしているやつもいる。三味線をかかえた、ちょいと色っぽい女が混っていることもある。
 先頭には旗持ちがいて、大名行列の奴(やっこ)さんみたいに踊りながら一行を先導する。いちばんうしろにはビラ配りがいて、だれかれの区別なく通行人にビラを配ってゆく。もともと宣伝広告のためだから、このビラが配られなければ意味がないのだ。
朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
泣いちゃいけないクラリオネット
ながれながれて浮藻の花は
明日も咲きましょ あの町で

 一世を風靡した「サーカスの唄」の一節だが、どういうわけか、チンドン屋にもクラリネットは付きもので、私の記憶している範囲では、クラリネットがいつも物悲しいメロディーを奏していたような気がする。
 チンドン屋の奏楽は、必ずしも陽気でにぎにぎしいとはかぎらない。いまも述べたように、へんに物悲しいところもあってハメルンの笛吹きのように、子どもたちを否応なく惹きつけるのである。私はチンドン屋のあとについて、街をどこまでも歩いていった記憶がある。もう帰らなければ、と何度も思いながら、ついつい見知らぬ街まで来てしまったときの心細さをよくおぼえている。
 チンドン屋にビラをもらうのも嬉しかったものだ。贅沢に慣れた今日の子どもには想像もつかないだろうが、私たちは争って、なんということもない一枚のビラを手に入れようとしたものである。チンドン屋ではないが、そのころはよく飛行機からも宣伝のためにビラをまいたもので、ふり仰ぐ空にぱっとビラの塊りが撒布されるのを見ると、私たちはビラの落下する方向をめざして、やみくもに駆け出したものであった。
 どうしてあんなに夢中になってビラを手に入れようとしたのだろうか。考えるとふしぎだが、やはり他人より先に、すばしこく立ちまわって、得がたいものを手に入れるという、一種の快味がそこに感じられたためであろう。
   (中略)
 私は前に、チンドン屋のクラリネットに物悲しい情緒を感じると述べたが、あらためて考えてみると、単に物悲しいというだけではまだ足りないような気がする。なにか不気味な、白昼の狂気とでもいった情緒に私たちを誘いこむ、面妖な気分を伝播していたように思われてならないのだ。話がどうも大げさになってきたようだが、こういう話はうんと大げさにしたほうがおもしろい。
 梅崎春生が死ぬ前に書いた『幻花』という名作に、街でチンドン屋に出会うと急に気分がへんになって、精神病院に入院してしまうという爺さんのエピソードがある。梅崎はこう書いている。
 「チンドン屋を見ると、なぜ変になるのか。一歩踏み込むと判りそうな気がするのだが、その一歩が踏み込めない。爺さんにも判っていないらしい。一度訊ねたことがある。爺さんは答えた。
 『わしにも判らんがね、なんか気分がおかしくなるんだ』
 『おかしなもんだね』
 『うん、おかしなもんだ』」
 あるとき、精神病院の同室の仲間三人が共謀して、爺さんの目の前で、チンドン屋の真似をしてみたことがあった。爺さんがどんな反応を示すか、ぜひとも知りたかったのである。夕食がすんだあと、三人がいきなり立ちあがり、茶碗をたたきながら、
 「チンチンドンドン、チンドンドン」
 口ではやして、床を踏み鳴らして歩いた。頭に派手な手拭いをかぶり、衣紋をぬいて、女形のつもりになっているやつもいる。
 爺さんはきょとんとした表情で、しばらく三人の動作を眺めていたが、そのうちにやにや笑い出すと、自分も茶碗をもってベッドから飛び降り、チンドン屋の行列に参加した。どうやら爺さん、おもしろがっているらしいのだ。
 「爺さん、気分がおかしくならないのかい」
 「おかしくならないね」
 「なぜ」
 「お前さんたちが本もののチンドン屋でないからさ」
 このエピソードも、私の大いに気に入っているものの一つなのである。梅崎は決して抽象概念をひねくりまわすタイプの人間ではないが、このエピソードは、心理学上のペルソナの問題を鋭く浮き彫りにしているといえるだろう。
 さて、私自身のチンドン屋体験は非常に古く、記憶もさだかでない幼児期にさかのぼる。
 私は四歳まで、埼玉県の川越市に住んでいたが、たぶん近所に花柳界があったのだろう、家から二、三軒はなれたところに箱屋のタッちゃん、通称ハコタッちゃんという爺さんがいた。念のために説明しておくと、箱屋というのは三味線箱をもって、客席に出る芸者のお供をする職業の男である。このハコタッちゃん、近所の名物男で、しかもチンドン屋の親分だった。箱屋とチンドン屋という二つの職業を、どう折合いをつけていたのかは知らないが、よく自分の小さな家の前で、子分どもをあつめては、チンチンドンドンとにぎにぎしく、商売の練習をしているのを私は見かけたものであった。
 もちろん、爺さんの顔なんかちっともおぼえていないが、これが私の幼児期の最初の記憶の一つであることは間違いないところだ。
 父の転勤とともに東京に出てきて、滝野川中里い住むようになったのが昭和七年である。そのころ、私の住んでいる界隈にチンドン屋がやってくるのは、きまって駒込神明町の方面からだった。
 三流芸者街があって、寄席があって、カフェやバーがあって、さらに少年の目から見ると、電信柱に花柳病科の医院の広告がやたりに目につくところ、それが神明町だった。ときどき旅まわりの芝居がかかって、そんなときにはリヤカーに太鼓をのせ、メーキャップした剣劇の役者がドンドコドンドコ太鼓をたたきながら、中里のほうまで触れてまわる。チンドン屋というのは、そういうあやしげな場所から忽然として出現してくるストレインジャーのように私には思われたものだ。
    (後略)
狐のだんぶくろ
    (前略)
 さて、なつかしい歌といえば、私には女中に教わった歌がいくつかある。
 当時は中産階級の家に女中がいるのは決してめずらしいことではなく、また女中という呼称はどこから見ても蔑称ではなかった。このことをお断りした上で、私は私の愛すべきとよやについて語りたいと思う。
 
  さらさらと こころ細かに雪が降る
  スキーで行こうよね
  行きましょうよね
  広い野原をどこまでも
  ツッツガツー ツッツガツー
 
 これはとよやに教わった歌である。埼玉県入間郡霞ケ関のゴルフ場近くの村から、高等小学校を卒業して私の家にやってきた彼女は、なかなか頭がよくて、勝ち気で、私にとってはいい相手だった。ずいぶん喧嘩もしたが、それだけになつかしい。ちなみに、この調子のよい「さらさらと」は、高野盛義作詞、中山晋平作曲である。もう一つ、
 
  板屋の軒に 降りくる音は
  あられか雪か 木の葉か雨か
  消えずに残れ 枯生(かれう)の芝に
  鵞鳥の羽の 散りくるごとく
 
 これもとよやに教わった歌である。よく分らないが、おそらくヨーロッパ種の曲ではないだろうか。どうも歌詞が翻訳くさいような気がするからだ。
 この同じ歌を母親から教わったという愚妻の記憶するところによると、私がおぼえている歌詞とはやや違って、最後の二行は次のごとくだという。
 
  消えずにとまれ 垣根の松に
  わが待つ梅の 蕾のごとく
 
 「垣根の松」というのが少しおかしく、彼女の記憶ちがいの可能性も大きいが、これもどうやら翻訳くさい歌詞ではないだろうか。
    (後略)
水鉄砲と乳母車
    (前略)
 記憶の底から、まぼろしのように浮かびあがってくる一つの光景がある。これについて書こう。
 滝野川の家だったか、それとももっと古く川越の家だったか、庭で母が洗い張りをしている。
 雨あがりの陽がよくあたって、庭ではアジサイの花が咲いている。柿の木があり、井戸があって、いかにもお背戸(せど)といった感じの庭である。たぶん季節は六月ごろだろう。姉さんかぶりに襷がけをした母が、ほどいた着物にのりをつけて、立てかけた張り板に一枚ずつ張っている。手でごしごしと布の皺をのばしている。
 私はそのそばで、水鉄砲かなんかで遊んでいる。そういえば私は子どもの時分、じつによく水鉄砲で遊んだような気がする。
 近くには乳母車があって、そのなかに妹が寝ている。なぜわざわざ乳母車のなかに寝かせておいたのか。おそらく、家のなかに寝かせておくよりも、自分の目のとどくところに寝かせておきたいと母は思ったのではないだろうか。
 いつのまにか目をさました妹が、不意に乳母車のへりにつかまって立ちあがろうとする。バランスを失って、ゆっくり乳母車がひっくりかえる。まるでスローモーション映画のようだ。地上に落ちた妹が、火がついたように泣き出す。母があわてて駆け寄る。
 そんな一続きの光景を、私は地上にしゃがんだ姿勢のまま、最初から最後まで呆然と見ていたような気がするのであるが、もちろん、これにはいくらか記憶の修正作用も加わっていることであろう。乳母車のゆっくり倒れるところを私が見ていたかどうかは、じつはすこぶるあやしいのだ。
    (後略)
最初の記憶
    (前略)
 四つまで私の住んでいた埼玉県の川越市の家のことは、もう少しはっきりおぼえている。
 正確にいえば川越市で三回ほど転居しており、最初が黒門町、次が志多町、それから御獄(おんたけ)下曲輪町という順序であるが、このうち黒門町の家はぜんぜん記憶になく、記憶は志多町の家からはじまっている。
 当時の銀行員の月給がどれくらいだったかは知らないが、御影石の門のある志多町の借家はずいぶん広く、庭にはイチゴ畑があって、イチゴ畑のはずれにはお稲荷さんがあった。たまたま父や祖母といっしょに日光へ旅行して、何日ぶりかで家に帰ってくると、留守中に地震があったらしく、庭の石燈籠の笠が落ちていたのをおぼえている。
 この日光旅行も断片的に記憶していて、たとえば華厳の滝の周辺を歩いているシーンが思い浮かぶ。タクシーの運転手が私の前を歩いており、不意にポケットから仁丹のようなものを出して、それを口の中へほうりこんだのをおぼえているのだ。
 どうしてそんなつまらないことを五十年間もおぼえているのか、考えると妙な気がしてくる。
 志多町の家の近所に箱屋のタッちゃんというチンドン屋が住んでいたことは前に書いたが、私の家のすぐ隣りには、雑貨屋をやっている家主さんの家があって、お店に大きなカルピスのポスターが貼ってあった。例のシルクハットをかぶった黒んぼが、蝶ネクタイをしめ、ストローでカルピスを飲んでいる図である。
 なぜそんなことをおぼえているのかというと、これにはちゃんとした理由があって、私には、あのにやにや笑っているような黒んぼの顔が不気味に見えて仕方がなかったのだ。
 そういえば、私はレコード会社のポリドールのマークも、べつに気味がわるいというのではないが、なんだか気になって仕方がなかったのを思い出す。あのラッパのようなもの、耳のようなものを左右に突っぱらかした、黒んぼの顔みたいなマークである。
 当時、川越は古い城下町の雰囲気をのこした、まことに静かな街だった。それでも花柳界のそばにカフェーみたいな店があって、そこで一日中、川越音頭とかいうレコードをかけていた。
 
  武蔵川越 御城下町よ
  月も薄(すすき)も ヤンレヤレコノ
  出てのぞく 出てのぞく
 
 そのころ家にいた女中は群馬県の高崎から来た、たいそう元気のよい「さくや」という娘だったが、どういうわけか、私は彼女を「アジヤ」と呼んでいた。早合点で、失敗ばかりやらかしている娘だったが、いたって気がよくて憎めないところがあった。或る晩、アジヤは血相かえて台所からばたばたと駆けてきて、
 「きゃー、奥さま、奥さま」
 なにごとならんと母が驚いて飛び出してゆくと、彼女は畳の上にへたりこんで、放心したように肩で息をしている。きいてみると、いまネズミが着物の襟首に飛びこんで、背中を駆けおり、裾から出ていったのだという。泣きそうな顔をしている彼女の前で笑っては気の毒だったが、これには家中が思わず吹き出したものであった。
 昭和七年の白木屋の火事のとき、裾のみだれを気にして、和服の女店員ら十四人が逃げおくれて焼死した。このときからズロースが普及したという伝説があるくらいだから、アジヤはもちろんズロースなんかはいていなかったにちがいない。そう考えると、アジヤの受けたショックも無理はないという気がする。
 しかし私自身は当時まだ三つか四つだったから、この女中のネズミ事件に関して、とりわけエロティックな想像をめぐらすというようなことはなかった。ただ、ふしぎなこともあればあるものだと思ったにすぎなかった。
 ネズミといえば、当時はどこの家にも天井裏に必ずネズミがいたもので、まるで運動会でもしているように、夜になると天井裏で盛大に走りまわったものである。下から棒で突ついて威嚇しても、さっぱり効果はなかった。
 アジヤの武勇伝はまだある。ついでだから書いておこう。
 或るとき、彼女は川越の街を歩いていて、猛スピードで突進してくる自転車にぶつかった。いや、ぶつけられたというべきだろう。しかるに彼女は倒れもぜず、からだのどこにもかすり傷一つ受けず、かえって自転車にのっていた男のほうがひっくりかえって、怪我をしてしまったというのである。
 これも志多町に住んでいたころのことだったと思うが、私は近所に住むリョウ子ちゃんという女の子といっしょに、その女の子のお父さんに連れられて、トーキーを観に行ったことがあった。まだトーキーがめずらしいころで、たしかそれは外国映画だったと思う。少女歌劇のターキー(水の江滝子)が人気絶頂だったから、ターキーとトーキーとを間違える頓馬なやつもあったらしい。
 映画の内容はまったく忘れてしまったが、西洋の幽霊、つまりKKK団みたいな、目と口の孔のある白頭巾をかぶった幽霊が、ふわりふわりといくつも出てくる場面があって、それが私には非常にこわかった。
 映画がおわって、夜道を歩いて帰るとき、リョウ子ちゃんのお父さんが、
 「タツオちゃん(私のこと)、こんなのが出てきたね」
 からかうように笑いながら、両手をだらりとさせて、幽霊のまねをして見せる。私がこわがるものだから、わざとやっているのだ。こっちは思い出したくないのに、わざと思い出させようとしているのだ。おとなのくせに、子どもをこわがらせて喜んでいるのだ。
 リョウ子ちゃんは私のなつかしい最初のガールフレンドだが、そのお父さんに対しては、こんなことがあったので、よい印象をもっていない。
 こわいといえば、川越には、幼児の私をもっとも恐怖せしめたものがあった。蓮慶寺のおびんずるさまである。
 蓮慶寺は喜多院とならぶ川越で屈指の名刹で、その本堂の前に、はげちょろけの奇怪なおびんずるさまが安置してあった。善男善女が手でさすって、病気の平癒を祈願するのである。といっても、いまでは私の記憶には、蓮慶寺の境内のイメージはなにも残っていない。ただ、やみくもにこわかったということをおぼえているだけなのである。
 おとなになってから、私は一度も川越を訪ねていない。おそらく訪ねても、初めて見る町のような印象しか得られないのではないか、という気持が強いからで、それでも近ごろ、雑誌のグラビヤなどで紹介される古い城下町のたたずまいを眺めると、一度は再訪してみたいような気がしてきている。
 志多町から御獄下曲輪町に移ると、私の記憶はさらにはっきりしてくる。
 その家は崖の下にあって、庭から崖につづいており、崖の上の道を通ると、わが家を眺めおろすことができた。やはり閑静な住宅地で、付近にお寺や雑木林があった。庭から崖にかけて、紅紫色のツツジがいっぱい咲いていたような気もしている。
 畳敷きだが、カーテンのついたガラス窓があるので、ちょっと洋間のような感じの部屋があった。私の記憶の底から浮かびあがってくるのは、この部屋のなかの情景である。
 それはじめじめした雨の日で、窓から雨に濡れた棕櫚(しゅろ)の樹の葉が見える。部屋のなかでは、ひとりのおばあさんが玩具のヴァイオリンを弾いている。私と妹が「ばあや」と呼んでいた、手伝いのおばあさんである。
 ヴァイオリンを弾くといっても、むろん、おばあさんは本式に弾いているわけではない。歯の抜けた口で、流行歌かなにかを口ずざみながら、でたらめに弾くまねをしているだけのことである。そのころの流行歌、たぶん「紅屋の娘」かなにかだろう。
 母が用事で東京へ行ったかどうかしたので、留守番の子どもたちを淋しがらせないために、おばあさんは一所懸命にサービスに努めていたのではなかったかと思う。
 おばあさんが次から次へと身ぶりよろしく、いろんな曲を弾いてくれるので、私はおもしろくてたまらず、そのキーキーいう玩具のヴァイオリンに合わせて、妹とふたりで、畳の上で飛びはねて踊っているのである。
 もしかしたら、母が家にいないという淋しさをまぎらわせるために、私はそのとき意識して陽気に振舞っていたのかもしれない。なぜかといえば、このときの情景を頭のなかに思い浮かべると、きまって一種の悲哀感を私はおぼえるからである。
 父の転勤とともに、川越市を引きはらって、私の一家が東京の滝野川へ移ったのは昭和七年、私が四歳のときであった。引越しのとき、乗っていたタクシーのなかに、どういうわけか、南部の鉄瓶が置いてあったのをはっきりおぼえている。
病気の問屋さん
    (前略)
 話が妙な方向へ逸れてきたので、ついでにもう一つ、私の少年時代の性的な好奇心に関係のあるエピソードを書いておこう。
 埼玉県入間郡霞ケ関のゴルフ場の近くの村から、とよやという娘が私の家に働きにきていたことは前に書いたが、私は或るとき、彼女が白い割烹着のポケットにすばやく脱脂綿をつめこんで、そそくさと便所へ駆けこもうとしているのを見とがめて、
 「わあ、おかしいな。とよやは脱脂綿でお尻をふくの」
 大声ではやし立てると、とよやは真赤な顔をして、きっと私をにらんだものであった。それに気押されて、私はだまってしまった。
 このときも、私には、どうして女中が脱脂綿なんか持って便所へ行こうとしているのか。その意味がまったく理解できなかった。しかし理解できないながらも、これは何か隠された意味があるらしいな、という漠然とした予感をいだかせられた。そいうことにはとりわけ敏感だったのである。
 これに関連して、次のようなエピソードも書いておくべきかもしれない。
 滝野川中里町に住んでいた私たちの氏神さまは、京浜東北線上中里の駅に近い平塚神社という古い神社で、私たちはよくそこへ遊びに行ったものだった。或るとき、とよやといっしょに平塚神社へ行くと、彼女は参道のまんなかを通らず、わきを通ろうとする。鳥居をくぐろうとせず、鳥居の横から行こうとする。私は不審に思って、
 「どうしてまんなかを通らないの」
 すると彼女は神妙な顔をして次のように答えたものである。
 「いま、あたしのからだは汚れてるの。だから神さまの前で遠慮してるんです」
 これは私には文字通り理解を絶することばだった。脱脂綿と便所の判じものには、まだしも手がかりをつかむことができそうな気がしたが、こればっかりはお手あげだった。それでも、そこに何か関連のありそうなことを見やぶっていたのだから、私の眼力も相当なものだったというべきかもしれない。事実、あとになって考えてみれば、たしかに関連はあったのである。
 おそらく今日の若い読者には、このとよやの態度は、ばかげた迷信以外の何ものでもないであろう。少年の私にとっても、事情は似たようなものではなかったかと思う。よく分らないながらも、「そんなこと迷信だよ!」と私はとよやに向って強くいったような気がする。それに対して彼女がなんと答えたかは、おぼえていない。
    (後略)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 梅崎春生(うめざき はるお)
1915〜65(大正4〜昭和40)戦後の小説家。
(生)福岡県。(学)東大。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 中山晋平(なかやま しんぺい)
1887〜1952(明治20〜昭和27)大正・昭和期の作曲家。
(生)長野県。(学)東京音楽学校(東京芸大)。

「澁澤龍彦事典」 構成/巌谷國士・高橋睦郎・種村孝弘 平凡社コロナ・ブックス 1996年  ★★
川 越  巌谷國士
 1928年(昭和三年)五月八日、澁澤龍雄(本名)が生まれたところは東京の高輪にある母・節子の実家だったが、父の勤務地は埼玉県川越市にあったので、生後しばらくしてそこにもどり、幼時のほぼ四年間をすごしている。借家ずまいで、「最初は黒門町、次に志多町、それから御嶽下曲輪町に移る」と「自作年譜」にある。
 父・武は同県の名家・澁澤一族の出である。開成中学から金沢の四高、東京帝大の法学部に進み、卒業後は住友商事に入ったが、いわゆるサラリーマンの出世コースが性にあわないと悟ってすぐ退社し、縁故のある武州(のち埼玉、現あさひ)銀行に勤めていた。長男・龍雄が生まれたときには入間川支店長、ついで川越支店の副支店長に昇任している。
 川越はいうまでもなく「小江戸」と呼ばれもする古い城下町だ。維新後も商業・交通の要地として発展し、このころにはすでに国鉄や西武、東武の各線が引かれていたから、東京への便はよかった。もともと遊び好きの都会人だった両親はよく龍雄を東京へつれていったらしい。したがっていわゆる地方都市育ちとはすこしちがうが、四歳までのあいだに、ある種の風土感覚が身についていたろうことは想像できる。たとえば関東の自然、城下町の風儀、近所づきあい、それに近郊からやってくる女中や「ばあや」たち。
 はじめに住んだ黒門町というのは旧市街の南部、現在では西部本川越駅の東側の新富町にあたるところで、八幡神社に近いやや古びた一郭だが、一年後には引っこしているから記憶にはなかったろう。ただ、一歳の八月にドイツの世界一周飛行船ツェッペリン号が来たとき、その雄姿を「眺めたような気がする」と書いているのがおもしろい。
 引っこし先の志多町は北のほうで、十七世紀に松平信綱が定めた川越十カ町のうちに数えられる。新河岸川にかかる東明寺橋周辺をいい、いまはなんの変哲もない住宅地だが、昔は職人や商人が多く住んでいたという。ここの借家は広い庭つきで、苺畑、稲荷があった。となりの大家さんは雑貨屋兼業、近くに箱屋でチンドン屋の親分の「タッちゃん」(龍雄自身も「タッちゃん」とよばれていたのだが)なる人物がいたというから、なんとなく界隈の雰囲気も察せられる。
 ただ、家のそばに沼があり、遊び友だちをそこへつきおとしたという回想は、その沼がいまでは見あたらないこともあって、まさに夢幻めいている。家にいた粗忽者の女中「さくや」、一緒にはじめての映画を見た年上のガールフレンド「リョウ子ちゃん」の思い出なども、どこかしら輪郭がぼやけて美しく切なく、『玩物草紙』や『狐のだんぶくろ』の著者にとって川越というところが、空間的にも時間的にも、遠い郷愁のスクリーンになっていたことを想像させる。
 三歳になるころには御嶽下曲輪(くるわ)町に移っていたが、これは現在の廓町(郭町が正しい)だろう。川越城址の西にひろがる一帯で、土地に高低があり、丘の上の御岳神社や三芳野神社など、古い文化財級のものが残っているところだ。「その家は崖の下にあって」「付近にはお寺や雑木林があった」という記述にまちがいはない。いまでも古い樹木が多く、どこかしっとりとした趣の残る住宅地だ。浸潤な低地もあるので、先の「沼」の思い出はここに移ってからのことかもしれない。
 現在の川越は観光都市でもある。そのため古い家並の保存につとめているが、それも中心部の幸町近辺にかぎられたことなので、澁澤家のあった区域についてはもちろん昔のままというわけではない。ただ、父の勤めていた武州銀行の建物だけはいまも仲町に残っている。現在は商工会議所となっているクラシックな隅切りの石造洋式建築だ。昔の黒門町からも志多町からも曲輪町からも一キロ以内の位置である。副支店長の澁澤武が渋い背広に蝶ネクタイなどして、速足でここへかよっていた様子が思いうかんでくる。
 この町には由緒正しい寺社も多いが、澁澤龍彦が回想を記しているのは蓮馨寺(れんけいじ)だけである。前記・武州銀行のすぐ近くで、「毎月八日 安産子育呑龍上人縁日」の看板をかかげている。のちにドラコニア(龍の国)の主(ぬし)となる澁澤龍雄の「」の字と、晩年に思いうかんだという「珠庵」なる号を考えあわせれば、この看板はなにか意味ありげに見えてこないでもない。しかも龍雄は五月八日の生まれである。少なくともここへよく子どもをつれてきた母にとって、この符合には偶然以上のものがあったのかもしれない。
 もっとも当人は「自作年譜」で「蓮寺」という誤植(誤記?)をゆるしているくらいだから、そんなことには頓着していなかったろう。ただ、そこの「おびんずる様をこわがって泣いた」という記述はおもしろい。お賓頭盧(びんずる)さまは十六羅漢の第一。日本ではその像の頭を撫でると除病の功徳があるといい、よく堂の前に置かれる。蓮馨寺にはいまもこれがあって、赤いテカテカの木像が前掛をしてすわっている。なるほどすこし「こわい」。先日ここをおとずれたとき、私もまた、その大きな「珠」のような禿頭をおそるおそる撫でてみたものである。

「澁澤龍彦の時空」 巌谷國士 河出書房新社 1998年  ★★
家について

 高輪に生まれる
 「昭和三年(1928)五月八日、東京市芝区(現在は港区)高輪車町三五番地に生まれる。本名は澁澤龍雄。父武(たけし)、母節子の長男。父は埼玉県のいわゆる澁澤一族の出で、武州銀行(のちの埼玉銀行)に勤務。」(「澁澤龍彦自作年譜」、『澁澤龍彦全集』第十二巻「補遺」所収)
 ここにいう高輪車町三五番地(現・高輪二丁目一五の三五)の家というのは、母・節子の実家であった。いまはあとかたもない。のちに日本鋼管の土地となり、鉄筋コンクリートのビルが建てられた。二、三年前までは同社経営の料亭「高輪クラブ」がそのビルのなかにあり、春なら白魚のオドリなど特色ある料理を供していたが、現在は「ホテルエース高輪」と名をあらてめている。
 筆者も高輪(南町五三番地)に生まれ育った縁があるので、このあたりの土地柄はよく知っている。都営浅草線の地下鉄駅からすこし坂をのぼった左手の高台の中腹で、四十七士の泉岳寺はつい目と鼻の先だ。いまではビルが林立し、ホテルやマンションや会社の寮の多いところだが、この名刹の周辺にはまだほんのすこし、昔の木造家屋や古木ものこっている。十二月十四日の討入りの日などは、あたり一面に線香のけむりと匂いがただよい、一種独特の情緒をかもしだしもする。
 そんな同郷のよしみ(?)ということもあって、生前の母堂から何度か思い出ばなしを聞いた。母堂の父君は磯部得次といい、茨城県笠間から東京に出て慶応義塾を卒業し、ガス会社などを興して財を築いた立志伝中の人物だったらしい。実業界で成功してから政界にも出て、政友会の代議士として六期ほどつとめた。母堂は明治三十九(1906年)に芝の増上寺の近くで生まれたが、幼いころにこの高輪の大きな家に引っこしてきたのだという。
 近くの高輪(現・高輪台)小学校を出てから、白金三光町の聖心女学院に進んだ。十九で卒業して花嫁修行。兄君の顧問弁護士だったある埼玉県人にすすめられて、川越市在住の澁澤武氏と見合をする。生粋の東京育ちで田舎へ行くのはいやだったというが、昭和二年二月二十二日に数えの二十二歳で結婚。武氏のほうは三十三歳で、当時武州銀行の入間川支店長という固い職業人だったが、芝居好き、競馬好き、花札好き、また登山、カメラなど多方面に趣味をもつ自由人としての人柄にひかれたのでもあろう。
 長男・龍雄が生まれたのはその翌年の五月八日である。実家にもどって出産というのはよくあることで、龍雄はしばらくのあいだ高輪で育てられたにすぎず、もとよりそのころの思い出がるわけでもない。だがその後つれてゆかれもしたはずだから、家そのものの記憶はのこっただろう。それかあらぬか、のちの澁澤龍彦は、「芝の生まれ」を強調することがしばしばだった。たとえば1968年のエッセー「肉体のなかの危機――土方巽の舞踊について」(『澁澤龍彦集成W』所収)にはつぎのようなくだりが見られる。
 「1928年、土方巽は東北地方の秋田市で生まれている。私も同年生まれだが、私は東京の芝で生まれた。こういう地域差は、場合によっては決定的だと思う。」
 じっさいにはその後四年間を川越市ですごし、「埼玉県のいわゆる澁澤一族」のひとりとして育ったわけだが、のちの滝野川時代もふくめて、東京人としての自覚のほうが強かったということだろう。それも出身は芝の高輪。澁澤さんが晩年まで、戦前の東京市市街地図を大事にしつづけ、ときどきそれをとりだして見せたことを思いおこす。
 母堂は1991年の十一月十六日に亡くなった。信じられないことだった。文字どおり矍鑠(かくしゃく)としており、美しく、鎌倉彫に精を出すなど、とても八十五歳とは思えないほどだったからである。前日もひとりで元気に外出したが、北鎌倉の駅のホームでたおれ、入院後しばらくして息を引きとったのだという。1955年に夫君・武氏に先だたれてからも、三十二年間、長男・龍雄とともにくらしていたこの母堂が、作家・龍彦にとってどのような存在であったのか、彼自身はこの点については不思議に言葉少なだったが、いかにも興味ぶかいところではあろう。
1993年6月5日

 川越の四年間  →「澁澤龍彦事典」川越の項にほぼ同じ文章が掲載されています。
 澁澤龍雄が生まれたところは東京の母の実家だったが、父の勤務地は埼玉県川越市にあったので、生後しばらくしてそこへもどり、幼時のほぼ四年間をすごしている。借家ずまいで、「最初は黒門町、次に志多町、それから御嶽下曲輪町に移る」と前出の「自作年譜」にある。
 父・武は同県の名家・澁澤一族の出である。明治二十八年(1895年)の生まれ。開成中学から金沢の四高、東京帝大の法学部に進み、卒業後は住友商事に入ったが、いわゆるサラリーマンの出世コースが性にあわないと悟ってすぐ退社し、縁故のある武州(のち埼玉、現あさひ)銀行につとめていた。長男・龍雄が生まれたときには入間川支店長、ついで川越支店の副支店長に昇任している。
 川越はいうまでもなく「小江戸」と呼ばれもする古い城下町だ。維新後も商業・交通の要地として発展し、このころにはすでに国鉄や西武、東武の各線が引かれていたから、東京への便はよかった。もともと遊び好きの都会人だった両親はよく龍雄を東京へつれていったらしい。したがっていわゆる地方都市育ちとはすこしちがうが、四歳までのあいだに、ある種の風土感覚が身についていたろうことは想像できる。たとえば関東中部の自然、城下町の風儀、近所づきあい、それに近郊からやってくる女中や「ばあや」たち。
 はじめに住んだ黒門町というのは旧市街の南部、現在では西部本川越駅の東側の新富町にあたるところで、八幡神社に近いやや古びた一郭だが、一年後には引っこしているから記憶にはなかったろう。ただ、一歳の年の八月にドイツの世界一周飛行船ツェッペリン号が来たとき、その雄姿を「眺めたような気がしてならない」(『玩物草紙』)と書いているのがおもしろい。
 引っこし先の志多町は北のほうで、十七世紀に松平信綱が定めた川越十カ町のうちに数えられる。新河岸川にかかる東明寺橋周辺をいい、いまはなんの変哲もない住宅地だが、昔は職人や商人が多く住んでいたという。ここの借家は広い庭つきで、苺畑、稲荷があった。となりの大家さんは雑貨屋兼業、近くに箱屋でチンドン屋の親分の「タッちゃん」(龍雄自身も「タッちゃん」と呼ばれていたのだが)なる人物がいたというから、なんとなく界隈の雰囲気も察せられる。
 ただ、家のそばに沼があり、遊び友だちをそこへつきおとしたという回想(同前)は、その沼がいまでは見あたらないということもあって、まさに夢幻めいている。家にいた粗忽者の女中「さくや」、一緒にはじめての映画を見た年上のガールフレンド「リョウ子ちゃん」の思い出なども、どこかしら輪郭がぼやけていて美しく切なく、『玩物草紙』や『狐のだんぶくろ』の著者にとって川越というところが、空間的にも時間的にも、遠い郷愁のスクリーンになっていたことを想像させる。
 三歳になるころには御嶽下曲輪(くるわ)町に移っていたが、これは現在の廓町(郭町が正しい)だろう。川越城址の西にひろがる一帯で、土地に高低があり、丘の上の御岳神社や三芳野神社など、古い文化財級のものが残っているところだ。「その家は崖の下にあって」「付近にはお寺や雑木林があった」(『狐のだんぶくろ』)という記述にまちがいはない。いまでも古い樹木が多く、どこかしっとりとした趣のただよう住宅地だ。浸潤な低地もあるので、先の「沼」の思い出はここに移ってからのことかもしれない。
 現在の川越は観光都市でもある。そのため古い家並の保存につとめているようだが、それも中心部の幸町近辺にかぎってのことなので、澁澤家のあった区域についてはもちろんむかしのままというわけではない。ただ、父のつとめていた武州銀行の建物だけはいまも仲町にのこっている。現在は商工会議所となっているクラシックな角切りの石造洋式建築だ。旧・黒門町からも志多町からも曲輪町からも一キロ以内の位置である。副支店長の澁澤武がしぶい背広に蝶ネクタイなどして、速足でここへかよっていた様子が目にうかんでくる。
 この町には由緒正しい寺社も多いが、澁澤龍彦が回想を記しているのは蓮馨寺(れんけいじ)だけである。前記・武州銀行のすぐ近くで、「毎月八日 安産子育呑龍上人縁日」の看板をかかげている。のちにドラコニア(龍の国)の主(ぬし)となる澁澤龍雄の「」の字と、晩年に思いついたという「珠庵」なる号を考えあわせるとき、この看板はなにか意味ありげに見えてこないでもない。しかも龍雄は五月八日の生まれである。少なくともここへよく子どもをつれてきたという母にとって、この符合には偶然以上のものがあったのかもしれない。
 もっとも当人は「自作年譜」で「蓮寺」という誤植(誤記?)をゆるしているくらいだから、そんなことには頓着していなかったのだろう。ただ、そこの「おびんずる様をこわがって泣いた」という記述はおもしろい。お賓頭盧(びんずる)は十六羅漢の第一。日本ではその像の頭を撫でると除病の功徳があるといい、よく堂の前に置かれる。蓮馨寺にはいまでもこれがあって、赤いテカテカの木像が前掛をしてすわっている。なるほどすこし「こわい」。先日ここをおとずれたとき、筆者もまた、その大きな「珠」のような禿頭をおそるおそる撫でてみたものである。

「大人のしつけ紳士のやせがまん」 高橋義孝 新潮社 1981年 ★★
V 酒飲みの心得
 料理屋のいのち
 私の心の中に常住翳(かげ)を落している三つの土地がある。その第一は前にも書いた千葉外房の大原海岸であり、その二は亡母の実家のある埼玉の川越市、三番目が九州の博多である。
 博多には家こそ持たなかったが、東京から二十年の間通い続けた。博多の風物、人情が私の心に灼きつけられずにいる筈はないのである。何分にも下宿住まいの身の上であったから、準備に手間取る大事な講義を翌日に控えた夜以外は、夕食は町へ出て摂った。永い間、これという店、料理屋が見つからぬままに、随分いろいろな店を渡り歩いたが、遂に一軒、この店ならという小料理屋にめぐり会うことが出来た。
 呉服町の交叉点近くにあった「×××」という小さな店である。主人が陣頭指揮で料理を作る。その料理がまた実によかった。ろくに品書きなどもなかったが、すっぽんの雑炊かたカツ丼まで、何でも作ってくれた。しかしこの店は、私が九州大学をやめるずっと前に業を廃してしまった。親しい友人に死なれたようなもので、一時はただ町中(まちなか)をうろうろするばかりであったが、ひと晩偶然「○○○」に飛び込んで、うむ、ここならと安堵の胸を撫で下した。
 むかしある年増芸者が私を評して「旦那は贔屓(ひいき)強い方(かた)ね」と云ったことがある。「贔屓強い」というのは妙な言葉だが、一旦贔屓にすると、とことんまでそれを貫くというほどの意味らしい「○○○」の白木の長いテーブルで他の客と並んで坐り、盃を傾けていて、店の者に指図をしたり猪口で吸いものの味見をしたりする「○○○」のあるじのぎょろつく大目玉を見て、私はここの料理なら心配はないと悟った。何かと厄介になった店も多いが、私の博多料亭番付の東の横綱を張っているのは年来この「○○○」である。
 総じて料理屋というものは、主人が調理場から奥へ引込んで、単なる経営者に成り下がってしまうと、大抵店がさびれてくる。「○○○」も主人の藤井さんが調理場に立って、あの大目玉をぎょろつかせているうちはお家安泰であろう。不思議とこれはとかく忘れられがちなことであるが、料理屋のいのちは唯ただそこで調進される料理の味一つに懸かっているのであって、座敷や器(うつわ)や女中さんたちは二の次、三の次のことである。
 「×××」の御主人とは今でもおつき合いが続いている。私は、「○○○」の藤井さんとも末永いおつき合いをと念じている者である。
X ことばのガイド・ほんの教養案内
 記憶に残る最初の本(わが読書遍歴1)
 記憶に残っている最初に読んだ本は、立川文庫の『真田十勇士』である。立川文庫の各巻は、子供向けに書かれた講談風の物語をその内容としていた。漢字にはすべてルビが振ってあったので、小学校の二、三年生にも読むことが出来た。そういえば、昔は新聞も総ルビであった。漢字の字体を変えたり、使用する漢字の数を制限したりするよりも、漢字の正字体を用いて総ルビを振った方がはるかに文化的で教育的だと私は考える。
 私が小学校へ入学したのは満六歳の折であったから、七歳、八歳で、今でいう正字体のむずかしい漢字を並べた立川文庫を読んでいたことになる。ルビが振られていたればこそである。忍術を遣って姿の見えない相手に武士が髻(もとどり)を切られたりすると、彼らは必ず「こりゃどうじゃ」と叫ぶ。この「こりゃどうじゃ」という驚きの一声はいまだに忘れられない。猿飛佐助、三好清界入道などという豪傑と馴染みになったのも立川文庫によってである。
 立川文庫を卒業すると、童謡に夢中になった。当時は、今日ではもう見られないような豪華な装丁の童謡集が出版されていた。自分でも童謡を沢山作った。それを綺麗に書き上げて綴じて本をこしらえた。四年生、九歳位のころか、これを学校へ持って行って先生に提出すると、先生はびっくりして、教壇に起って皆の前で朗読せよと言った。私は得々として自作の童謡の一篇を読み始めたが、ある一行に至って、はたと困った。実はその一行は、ある童謡作家の作品からの盗用だったのである。その行には「夜」という字が出てくる。これは「ヨル」と読むべきところなのに、私は「ヨ」と読みそうになった。しかし「ヨ」と読んでは、一音足りなくなって、七五調が崩れてしまう。「ヨル」と読まなければ、七五調にならない。ところが教壇上の私は、どうしても「ヨル」と読むことに気がつかなかった。仕方がないので、顔を赤くしながら「ヨ」と読んで済ましてしまった。盗作の報いである。
 童謡に並行して、私が心を躍らせたのは、「少年倶楽部」、「譚海」などという少年向けの月間雑誌であった。発売になったばかりのそういう雑誌を手に取る時の気分は、とても言葉にしてみることは出来なかった。何とも言えない気分というよりほかはなかった。私はある特定の構図を持った風景に出会う時にも、同じような「何とも言えない気分」になる。それから川や海、湖や沼の水を見ても、そういう気持ちに襲われる。曰く云い難しというやつである。小学校時代の読書については、以上のほかとくに言うべきことがない。
 十二歳、中学一年生である。このころから史学と文学とに強く惹かれ出した。いずれも教わった先生の影響である。もうかなり年配の国語の先生は一度教室で自作の短篇小説を読んで聴かせて下さった。むろん私も自分で創作の筆を執り出した。中学一年の時に書いた『白石と順庵』という短篇の載っている交友会雑誌が現在まだ手許に残っている。読んでみると、文章は今よりもうまい位で、何だか、くすぐったい気がする。この先生の文学好きに感染したのか、私は創作のかたわら夏目漱石、田山花袋、長塚節などの作品に読み耽った。中でも田山花袋の『田舎教師』は私に強烈な印象を与えた。もっとも私は人間の姿によりも、自然描写に心を惹かれた。母の実家が埼玉県の川越だったこともあって『田舎教師』に描かれている埼玉の風景は私にある特別な感慨を催させずにはおかなかった。こらは現在でも渝(かわ)らない。
 ところで東洋史の、東大を出たばかりの先生は私にとって極めてブリリアントな存在であった。この先生の講義は実に興味深く、しまいには私はこの先生の黒板に書かれる字体の真似さえし出した。
Y 人生のかんどころ
 歳歳年年人不同
 朝、顔を洗い終って、手拭いを二つ折りにして、張り渡してある紐に掛ける。その度毎に、先年歿した伯父の小言を思い出す。「義孝(ぎこう)、手拭いの絞り方が足りないぞ。」
 大正十二年の関東の大地震後、私は埼玉の川越にある母の実家に預けられて、川越の小学校へ通った。第五学年の二学期と三学期は川越で過した。その当時のある朝、伯父から上に書いたような小言を云われたのである。今でも毎朝、手拭を掛ける度毎に必ずこの小言を思い出す。
 誰の身の上にも、何かしたり、何かを見たりする毎に、きまっていつも同じある事を思い出すというようなことがあるのではなかろうか。
 朝御飯の時、熱い御飯に生卵をかけると、やはり川越に厄介になっていた時分、学校へ行く前の朝食時に、大きな鉢に盛った御飯に生卵をかけて掻きまぜた伯母の手つきを思い出す。この伯父夫婦は相次いで高齢で世を去った。
 小さな金の爪切鋏を使う時には、必ず高見順さんのことを思い出す。もう随分昔のことになるが、高見順さんと杉浦幸雄さんと一緒に東北地方へ講演旅行に出かけたことがある。久慈の宿で、高見さんは「寒い、さむい」を連発して、随行の出版社の人に毛のスエーターを買いに行かせた。私は化粧袋の中へ爪切を入れ忘れてきたので、爪切鋏を買ってきてくれるように頼んだ。それからのち、旅行用の化粧袋に入れてあるその爪切を使う度毎に高見順さんのことを思い出すのである。そのうちこの爪切は壊れてしまったので、同じような粗末な爪切を新しく買って化粧袋に入れてあるが、この新しいのを使う時も、やはり必ず高見順さんのことを思い出す。
 昭和十七年に高田馬場から、現在の目白のうちへ引越した。目白駅の近くにある一軒の床屋さんへは、その時依頼通い続けている。かれこれ四十年(しじゅうねん)にもなろうという永いつき合いで、頭をやってくれる理髪師さんもその時以来の同じ人である。つい二、三日前、髪を刈って貰って、うちへ帰ろうと川村女学院のところを歩いていて、舗道に沢山の銀杏の落葉が散っているのを見て、一亡友のことを思い出した。むろん戦前のことであるが、三人目の子が生れて、その子供の名前をこの友人につけて貰い、秋のひと夜、うちへ招いて一緒に盃を挙げ、酔った友人をうちから目白駅まで送って行った時も、風の吹き荒れた日の翌日だったので、道一面に銀杏の葉が散り敷いていた。学習院と川村女学院を左右に控えた目白通りの銀杏並木の落葉を見るたびに、私は必ずもうかなり以前に亡くなったこの友人のことを思い出すのである。
 伯父も伯母も、高見順さんもその友人も、みんなもう点鬼簿中の人となってしまった。そして私はこの秋も、歳歳年年人同ジカラズの感を催すことしきりである。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 猿飛佐助(さるとび さすけ)
伝説上の甲賀流忍術の名人。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 田山花袋(たやま かたい)
1871〜1930(明治4〜昭和5)明治・大正期の小説家。
(生)栃木県館林町(1876群馬県に編入)。(名)本名録弥。

「すこし枯れた話」 高橋義孝 新潮社 1981年 ★★
U ア・ラ・カルト
 言葉の鵺(ぬえ)的性格
 亡母がよく「しちっぷり」という言葉を使っていた。「あんなしちっぷりをしてさ、なんだねえ」といった具合である。さてこの語の意味であるが、いい気になって飾り立てるとか、これ見よがしにごてごてと細工するとか、不相応なしつらえをするとかいうようなことらしいが、どうも他の言葉ではその意味がうまく云い現わせない。たとえば、猫の額ほどの庭に池を掘ったり石燈籠を据えたり枯松葉を敷き詰めたりするようなのを「しちっぷりをする」というのであろうか。身辺を飾り立てることも、何かと造作することも「しちっぷり」に入るらしい。辞書を見ると「しちふり」という語が出ている。「いたずら」の意で、群馬、埼玉の方言とある。母は埼玉の川越生れであったから、母の「しちっぷり」は恐らくこの「しちふり」であろうと察せられるが、しかし母は上に述べたようにな意味でこの語を使っていたらしく、「いたずら」の意味は念頭にはなかったようである。
 同じ一つの言葉も仁々(にんにん)によってかなり違った意味でつかわれるもののようで、先日京都の人と話をしていて、「しんきくさい」という言葉が問題になった。その人はこの語の意味を「焦立たしい、焦々する」と解していたが、私などは日常「鬱陶しい、小煩さい、煩わしい、厭になってしまう」の意味で使っている。同じ一つの言葉もこんな風に人によって違った意味で使われているので、時には行き違い、喰い違いも起る。尤も「しんきくさい」は今日ではもう半ば廃語になってしまったようである。
 「なんどり」という東京語がある。「おだやかに、丸く、角を立てずに」という意味らしい。私がこの言葉に接したことは二度ある。一度は桂文楽の噺の中にこの言葉が出てきた。もう一回は幸田文さんの小説『流れる』の終りの方でこの言葉にお目にかかった。
 華やかに明るいという意味の「はんなり」という言葉が京阪地方にある。しかし「華やか」と「明るい」とを足し合せれば「はんなり」になるか、つまり「はんなり」は「華やかに明るい」と云い換えられかというと、どうもそうではないようである。「華やか」「明るい」プラス・アルファで初めて「はんなり」になるらしく、すなわち「はんなり」はやはり「はんなり」であって、云い換えは効かないのである。さてその「はんなり」を各人各様に解釈して使うわけであろう。言葉というものは複雑で微妙だとつくづく思う。そこが一寸人間に似ている。人間も一方では「似たり寄ったり」であるが、他方では「十人十色」である。
 言葉のこういう曖昧で複雑な性格のお蔭で文学というものが成り立ち得るのであろう。文学、特に小説の定義が至難である所以である。

「可笑しな宿 ときに寝たふり 堀内俊宏 二見書房 1993年 ★★
恋ごごろ/ノンさんの恋人
    (前略)
 さてこの辺でノンさんとの若き日の交遊録などにふれてみたい。
 ノンさんは遠藤昇といい、あの安藤昇さんと一字違いだが、堅物で真面目の代表のような男(ひと)だ。性格いたって温厚で、楽しかったり、面白かったりは「クッ、クッ」と声を殺すように笑って表現する癖がある。
 若い頃はそこそこのハンサムで、女の子によくもてた。ノンさんに出会ったのは、お互い 花の十代、早稲田の同級生である。彼にはサッちゃんと呼ぶ恋人がいた。
 ノンさん実家は入間川(埼玉県)で、呉服屋を何代も商う大店(おおだな)であった。
 そこの商店街は今でこそ、結構な賑わいだが、昭和25年頃は、一画の商店をのぞけは辺り一面は茶畑で、その中央を入間川がゆっくりと流れ時を刻んでいた。まことにのんびりとした田舎町であった。彼の中学は川越市にある川越中学で、県では名門校の一つである。紅顔の美少年のノンさんが駅まで通う途中に、紅屋という和菓子屋があり、そこにノンさんより二つ年下の娘がいた。
 昔々 紅屋の娘のいうことにゃ、という歌があった。以来紅屋の暖簾(のれん)は和菓子屋の代名詞で、そこには美人がつきものである。
 まったく歌の文句そっくりな小柄で可愛いい少女、それがサッちゃんであった。
 彼女はやはり川越にある川越女学校に通っており、偶然だがしめし合せたように、毎朝ノンさんと同じ電車で、通学をしていた。
 朝の時間の西武線は、近くから乗り合せる学生でいつも満員である。その日も押されて乗り込むと、ノンさんの目の前にサッちゃんはいた。
 「いやア、いつから夏休み……」とノンさんは訥々(トツトツ)と初めて話しかけた。
 「ウン……。20日」とサッちゃんは答え、耳もとまで赤くなり、その声が消えるとそれっきり俯(うつむ)いてしまった。それから二人の交際は始まったのである。
 「お盆に八幡さまの勝抜き相撲の大会に出るんだ」ノンさんは『鯉昇』というしこ名で出場するからと、彼女を誘った。
 もちろんサッちゃんの声援で、彼はみごと勝抜き、準決勝で隣村の熊ノ山≠ノ負けた。
 こんな話をノンさんから、説々と毎日聞かされて2年が過ぎた。
 昭和26年の夏休みが終ると、友人たちは就職活動を始めた。もう卒業も近い。
 戦後間もないこの頃の労働条件は悪く、上野の森は職を求めて上京する人であふれ、浮浪者がたむろしていた。
 その東京の顔、上野駅を綺麗にしようと、改札の上に狩野画伯の大きな絵が飾られたのもこの年である。平均初任給は7、8千円で、1万円を超すのは炭鉱産業ぐらいであった。
 久しぶりに出会った仲間が、ノンさんを見かけると、
 「サッちゃんとあれから、どうなった」と挨拶がわりに聞いた。
 「クックッ」と鳩が鳴くように笑い。
 「よせよ」といつもの口癖で答えるノンさんが、その日ばかりは違っていた。
 「なんでもないよ……。なにも」と不機嫌である。ノンさんの沈んだ顔が暫く続いた。そして暮も迫り、お互いの進路も決った頃、『サッちゃんが嫁に行く』という噂が立った。
 なんでも女学校を出るとすぐ、お父さんが世話になっている人とかの仲立ちで、見合いの話が持ちあがった。もちろんノンさんは俺と一緒に≠ニ主張はしたものの、まだ学生。生活能力を問われた。当時、学生結婚という流行語があったが、学生で結婚するなどとは、とんでもないと思われた時代でもある。彼はさんざんに悩んだが、ついにサッちゃんとの愛を捨てた。その時のノンさんは、金色夜叉の間貫一を絵にしたようであった。
 
 傍目にもボロボロになったノンさんだが、それでも卒業するとどうにか横浜日野≠ニいう会社へ入社した。冬が行き、春が来てもノンさんは、入間川で見た雁の群れや、葦を飛ぶ青い蛍にサッちゃんへの思いは断ち切れなかった。
 また3年が経ち、狭山茶を摘むこの地の農繁期に、サッちゃんは男の子を出産した。しばらくして、川越中学の友人から、繁田茶≠フ八十八夜の新茶と、故郷の近況がノンさんのところへも届いた。彼は他人ごとのようにそれを聞き、なんとも複雑な心境のようだった。丁度そんな時に会社の上役からノンさんに、縁談が持ち込まれたのである。
 ノンさんは少ない月給から6千円の背広を新調して、過去を忘れる意味でも生まれて初めての見合にのぞんだ。
 相手の女性は、ノンさんより一つ下だったが、落ち着いてキリッとして顔つきの美人であった。俗にいう小股の切れ上った和服の似合う女(ひと)で、名前を千恵子≠ニいった。
 ちょっと勝気な性格は、傷心のノンさんを引っぱってゆくに十分な女でもあり、その頃からノンさんの心は、ようやく千恵子さんに移っていった。
 昭和32年の春、ノンさんは中野の日本閣で、ごく内輪で挙式をすませた。そして矢切の渡し≠ナ有名な柴又に小さな新居を構えた。
 その後ノンさんは、学友の川口隆三君(ロンシール工業)の会社へ転職し、いまはその会社の重役さんになっている。
    (後略)

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作成:川越原人  更新:20145/4/12