川越の紀行


<目 次>
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「さいたまの細道」 画と文・横内浦男 さきたま出版会 1994年 ★★
時は昭和三十七、八年 およそ三十年前
場所は朝日新聞埼玉版
ハガキより大きめのスペースで 絵と文の
軽い読物が連載されました
題して「さいたまの細道」
スゲ笠に画板を抱えたおじさんが
絵と文で県内を気楽に行脚するという趣向でした (まえがきより)

春の細道
  さすらい (川越市)

 天は広く、さえぎるものもない。地は広く、見渡すかぎりの麦畑。緑の中の黄色は菜の花、紅いはれんげ草。
 麦畑の小道を、道のあるままに足をはこぶ。ひばりがひっきりなしにさえずる。小道は、すぐ別の小道と出会う。出会ったままの小道を進む。進むとすぐ、堀に出会う。広い古谷たんぼの春である。
 堀の土橋を渡って、また小道。ヨシの枯葉がボサボサと立っていて、また堀がある。
 堀のふちを歩くと、また別の小道。
 緑から黄へ、黄から紅へ。春の野の、さすらいである。
 しばらくゆくと塚があって古木が一本。古木の下で、小さなホコラがいねむりをしている。ホコラの前を進むと用水がある。用水の土橋の上でひとやすみ。ひばりは、どうしてあんなになくのかな。用水を渡って、また小道から堀へ。
 旅は果てなく、野はただ広くゆくえ定めぬ、さすらいの
 演歌の文句のような、さすらいの旅の味。や、おばさんがこっちを見ている。キツネにばかされたか? と、おもったかな。

●ひとこと●
古谷たんぼ 川越と大宮をはさんで、荒川が流れて支流や小川が四方八方に流れ出る。古谷村や南古谷村はこの中だからたんぼの天地になったのは当然。見渡す限りのたんぼになった。この広いたんぼの耕地は、古谷たんぼ≠ニ呼ばれていた。
  カメの池 (川越市)

  オヤガメの背中にコガメをのせて
  コガメの背中にマゴガメのせて
 ききおぼえのトボケ歌が口をついて出る。
 池の中に、ほんとに子をおんぶしたカメがいるからである。タタミ二十枚ほどの池の中はカメでいっぱい。何百匹いるのかな。
 ここは、川越市小仙波の不動様。門をはいると、すぐ左側に売店がある。駄菓子があったり、オモチャがぶらさがっていたり。
 売店の前がカメの池。店ではカメのエサも売っている。おや、だんごを焼くにおいがしてくるよ。近所にだんご屋があるのかな。
 坊やの頭越しにのぞくと、何百ものカメは考えこんでいたり、モサモサと動いていたり。あちこちに島があって、島の上はコウラボシで満員である。満員のところへ、割りこんでいくやつもある。人間みたいだな。
 このカメは、近郷近在の人たちが、もってきては放したものだそうな。いろいろな願いを、カメにたのんだ人もいるだろう。自分の放したカメに、ときどきあいにくる人もいるそうな。あれ、島の上からころげおちたよ。
  オヤガメこけたら、みなこけた――

●ひとこと●
川越不動 本名は成田不動尊別院。つまり成田不動の支院。千葉の成田様まで出かけなくても同じだから、むかしから近郷近在の善男善女で賑う。交通の便は四通八達で、バスもひんぱんに出るから足には困らない。
秋の細道
  ディーゼルカー (川越市)
 
 広い広い古谷たんぼ≠フまん中を、ディーゼルカーがたった一両、ヒョコヒョコと走っている。川越線の南古谷あたり。本人? は走っているつもりでも、こっちから見ていると、風に吹かれて飛ばされているようだ。
 古谷たんぼはことしも豊作。どのたんぼにも、刈りとられた稲が、ズッシリと稲架に重なっている。わがこと成れり、という様子である。
 たんぼの細道から見回すと、遠くに赤城、男体、妙義、近くに笠山、堂平山が、悠然ととりまいている。
 たった一両のディーゼルカーは、わき見もしないで走っている。たった一両でも、一人前にブウブウならしながら、走っている。いいなあ、とおもった。
 気がついてみると、目の届く限り、野立ちの看板が一つもない。稲架の上に、ポツンとみえる白いものは、南方行き≠ノ乗りおくれた子サギだろうか。
 古谷たんぼの細道はいいなあ。
 ほほう。ディーゼルカーはまだ走っている。ブウブウならしながら、いっしょうけんめいに。

●ひとこと●
川越線 数年前までは、国鉄川越線と呼ばれて、ディーゼル車だったが、いまは、JR川越線・埼京線などといって、一人前の大きい電車が走る。東京方面への通勤サラリーマンの大動脈、大黒柱である。
  松並木 (川越市)
 
 むこうに、見事な松並木が続いている。あれが川越街道の松並木だろう。ゴースカ、ゴースカ、遠雷のようにきこえるのは街道をつっ走るクルマの音。
 旅は細道、のんびり旅。うるさい大道をはずれて畑の道。入間郡は大井村、三芳村あたり。茶の木で仕切った畑が、広く続いている。
 このあたりは入間ゴボウ、川越いもの名産地だそうな。天下の川越いもも、実はこのあたりが本場だそうな。むかし、なになにの宮家などへ献上した川越いもも、ここらのサツマイモだというはなし。
 畑の小道は春のようにかげろうがもえている。この土の中に、でっかいゴボウや、ふとったダイコンがのんびりといねむりをしているのだろう。
 それにしても惜しいねえ、あの松並木。新しい家が街道沿いにたてこんで、スソのほうがまったく絵にならない。そうそう、ちょっと失礼して、消しゴムでスソのほうを消してみよう。
 おっほほ。きれいになったよ。絵になったよ。
 どれ、土のかおりをかぎながら、松並木のむかしむかしをしのんでみよう。

●ひとこと●
松並木 川越街道は国道二五四号線の俗称で、東京―小諸線のこと。江戸と川越を結ぶ最大のルートで東京街道と呼ばれた。川越地方では東京街道だが、東京の方では川越街道と呼んでいるから、話がこんがらかることがある。

「歴史読本450 特集探訪・知られざる城下町の秘密 昭和62年4月号」 新人物往来社 1987年 ★★
スーパー詩人ねじめ正一の 「愛の川越 ことさら城下町」

「江戸人の老い」 氏家幹人 PHP新書143 2001年 ★★
頑健・有能な大将軍であった徳川吉宗にも「老い」は訪れた。半身麻痺と言語障害を抱え手厚い介護を受ける一方で、側近たちに対しては往年の為政者としての力を発揮しつづけたという。家族との確執に悩み、七万字もの遺書をしたためた、ある偉人。世の安直な風潮を醒めた目で観察し、十八年にもわたる散歩の記録を残した不良老人。本書では丹念に史料を読みときながら、江戸に生きた三人の老いの姿を描きだす。それからの人生をどう生きるか?時代を超えて変らぬ人生最後の問いへの示唆。

第三話 老人は郊外をめざす――『遊歴雑記』を読む
一幕 元気なお爺さん
 夢にまで見る旅
 見知らぬ土地を旅したり郊外を散策することが及ぼす効果は、もちろん単純に健康の増進だけに止まらない。
 江戸は新橋で仕立屋を営んでいた竹村立義(たつよし)の旅好きは、いささか尋常の域を越えていた。暮らしは家族を養って余りあるほど豊かではなく、加えて生来の肥満体質で年齢ももう若くはない。これら悪条件にもかかわらず、これといった持病もなく意外にも健脚だった彼は、家業の暇をみては取るものも取りあえず方々へ出かけ、旅から帰ると多数の挿絵を添えた紀行をまとめた。
 文化十五年(1818)三月五日未明、友人と弟の三人連れで江戸を発ち、川越方面に五泊六日の旅に出た立義は(『川越松山巡覧図誌』)、文政五年(1822)九月十七日にも、旅仲間と一緒に秩父路へ旅立っている。この年、五十九歳の立義は、山深い秩父地方では食物に不自由すると予想して、地図や地誌のほかに、梅干しや砂糖、煮豆まで携えて出かけたという(『秩父巡拝図絵』)。
 そうまでしてどうして旅に出たのか? 未知の風景や人との出会いが旅人に与えたときめきの大きさは、旅の機会が限られていた時代だけに、今日の想像をはるかに越えるものだったにちがいない。旅は幾多の困難をともなう苦行であったと同時に、発見の喜びと思い出をもたらす人生最高の楽しみの一つでもあった。
   (後略)
二幕 隠者のように
 自称「隠者」
 文化九年(1812)、江戸は小日向(こひなた)にある廓然寺(かくねんじ)の住職を五十一歳で退き、悠々自適の隠居暮らしを始めた十方庵(じつぽうあん)こと大浄敬順は、たっぷりの余暇(生活そのものが余暇と化していた)を近郊の散策と小旅行に費やした。その印象をこまごま記したのが『遊歴雑記』。五編十五冊からなるこの書には、文政十二年(1829)、彼が六十八歳になるまでに綴った紀行や散策の記が、実に九百五十七話も収めされている。
   (後略)-->

 笑わば笑え
 文化十二年(1815)三月二十二日、親友の遠山瀾閣(らんかく)(和算家で本多利明の高弟。串原正峯の名で知られる)と下谷のさる寺を訪ねた彼は、例によって眺めのいい所に野蒲団(ピクニック用の敷物)を広げて野点の茶を喫した。茶菓子は長崎屋の丸ぼうると越後屋の塩釜。この日の楽しさを敬順は「たのしみ此上(このうえ)あるべからず」と絶賛し、「驕奢(きょうしゃ)の者のせざる処、高貴の人のしらざる事也」とも書いている。金満家や身分の高い人には到底味わえない、ささやかな隠居の愉悦とでもいったところだろうか。さて、景色を愛で茶を啜りながら二人が詠んだ句は……。

  隠居とは能もなりしぞはるのたび  以風
  気まゝにあそぶはなのみちくさ   瀾閣

 敬順が好んで散策するのは、江戸の人々が風流とも何とも思わない穴場が多かったから、突然「帖昆炉(たたみこんろ)」(携帯こんろ)で湯を沸かし野点を始める彼の姿は、奇異の目で見られることもすくなくなかった。
 文化十一年(1814)二月、うららかな陽気に誘われて家を出た敬順は、浅草の北、菫(すみれ)、蒲公英(たんぽぽ)が咲き乱れ娵菜(よめな)や土筆(つくし)が真っ盛りの綾瀬川の土手にやってきた。土手は南に面してまるで「乳母がふところ」に抱かれたように温かく、遠く浅草寺の五重の塔や待乳山(まつちやま)が望める景色もまた絶品。すっかり気に入った彼は、用意して来た野蒲団に腹這いになって風景を眺めつくし、やがて綾瀬川の清流を汲んできて茶を煎じ始めた。本当は友人の馬欄亭高彦と一緒に来るはずだったのだが、折悪く持病で臥していたので一人きりだった敬順は、まれに道行く人があると、「煎茶一服まいらぬや」(お茶を一杯召し上がれ)と声を掛けた。すると、これはかたじけないとしみじみ茶を啜る人もあったが、まるで狂人か狐狸に遭遇したように「ジロジロと見ながら挨拶もせで早足に行過」ぎ、後を恐る恐る振り返る人もいたという。
 文政二年(1819)の春、川越街道を松山まで行って帰った旅でも、同様の場面が見られた。入間川の川端で例によって帖昆炉を取り出し川の水を沸かして茶を煎じている敬順と瀾閣を目にして、土地の農民は、「不審にや思ふらん」(あやしいと思ったのか)じろじろ見回しながら行き過ぎていったというのだ。彼らの不審もうなずける。なにしろ見知らぬ老人二人が、川端の枯れ芝の上に腰をおろしてのんびり茶を煎じていたのだから。しかし二人にとっては、枯れた芝原に安座して眺める入間川両岸の景色は「奇々妙々にして言語におよびがたし」だった。「天然の風景」の素晴らしさを解さない者は笑うがいい。変な爺さんがいると嘲り恐れて通り過ぎる人たちがいるのも「又面白し」。敬順は超然と構え、存分に風情を満喫している。
 笑わば笑えという姿勢は、風体にもおのずと現れた。たとえば、組み立て式の帖昆炉と共にいつも持ち歩いていた野蒲団も、端から見れば奇妙なものだった。それは敬順が独自に考案した品で、ただの野蒲団ではない。十文字紙という厚手の紙に油を引き裏に島木綿を縫い付けた縦百六十四センチ・横七十センチの敷物で、中央に二十四センチほどの裂け目があり、両脇に紐が付いている。ピクニックに出かけ草の上に敷くときは木綿を上に、雨や雪が降ってきたときは油紙の面を上にして中央の裂け目から頭を出してレインコートのように着ることができる。頭を出して両脇の紐を結べば、とりあえず防水防寒の用をなすというのである。
 素晴らしいアイデア。とはいえこんな格好で雨のなかを歩けば、世間の人は変に思ったにちがいない。しかしそれは承知のうえで、『遊歴雑記』に野蒲団を図入りで紹介しながら、「左はいへ予が異形なる姿を見て笑ふものも多からん」と書くのを忘れていない。笑わば笑え。「かゝる事も風流とて遊歴せり」、野蒲団を被って雨をしのぐ姿も風流ではないかというのだ。
三幕 老後の達人
 落書き常習犯
 市井の隠者を自負して世の俗物たちを憐れみ笑った敬順は、また落書きの常習犯でもあった。
 と言うと「落書きじゃなくて落書でしょ?」と聞き返されてしまうかもしれない。かなり偏屈な爺さんだったとはいえ、まぎれもなく知的な老人の敬順が、まさか悪戯っ子や不埒な若者のようにラクガキなんかするはずはない。辛口のユーモアをたっぷり効かせて政治や世間を風刺したラクショを書きまくったというならいざ知らず。たしかに、あれほど自然を愛し歴史と文化を尊んだ彼が、落書きの常習犯だったどは考えにくい。
 しかし真実は曲げることはできない。論より証拠。『遊歴雑記』から、彼の犯行現場をいくつか拾ってみよう。
 文化十一年(1814)、野火止の平林寺(現・埼玉県新座市)にやって来た敬順は、松平信綱の時代に開削された野火止用水の流れを見て、「堀かねもむかしや広き野火どめの流れのどけき春の水音」と詠んでいる。ところで、この歌が書かれたのは短冊でも手帳でもない。ならばどこに。『遊歴雑記』には「頓(やが)て矢立取出し、杜撰にも惣門の柱に落書し置り」と書かれている。われながら感心しないとは思ったが、寺の門柱に落書きしてしまたというのである。
 反省しながらも、敬順は同様のことを繰り返している。下総中山(千葉県市川市)の「法花経寺」では、祖師堂の丸柱に「しづかさや只折ふしはとりの経」の句を「楽書」したし、岩室の観音堂(埼玉県吉見町)では堂内の柱にやはり和歌が発句を落書きしている(どんな作品だったかは不明)。観音堂の前の山桜が満開で花の香りも格別だったから、と弁解しているが、落書きに違いはない。
 もっとも、街道沿いには落書き御免の茶店もあったようだ。川越―松山間にあった神田屋八十八の店で、敬順は悠然と矢立を取り出し、軒先の柱に「旅馴た身にもうるさし秋の蝿」と書きつけている。店で休憩する旅人が発句を柱に墨書きしても、店の主人は何も言わなかったのだろう。文句を言わないどころか、どうぞ落書きしてくださいと筆記具を提供する店もあった。
 それは「しがらきの茶店(さてん)」(神奈川県横浜市)で旅の足を休めていたときのこと。店の鴨居や長押(なげし)にさまざまな句を詠み「むだ書」した紙片が貼られているのを眺めていると、店の者が「何なりと出吟(しゅつぎん)し給はれ」(どうぞご自由に句や歌を詠んでください)といって、墨をすり流した硯を指し出したというのである。現代でも同様の趣向で客を喜ばせる店があるが、この茶店も客の落書きごころ≠商売にしていたのだろう。
    (後略)
四幕 老年期の役割
 散歩老人の厳しい眼差し
     (前略)
 宝物を買ったり捏造する寺があるかと思えば、歴史的に貴重な墓石を惜しげもなく捨ててしまう寺もあった。江戸牛込の万昌院は吉良上野介義央の墓があることで知られるが、もとは義央の墓の周囲に赤穂浪士討入りの際に討死した家来の墓も並んでいたという。ところが以前の就職が、縁者も絶えた無縁の墓だといって撤去し、敬順が訪れたときは跡形もなくなっていた。寺にとっては金を生まない無縁の墓だとしても、義央にとっては命を捨てて主君を守ろうとした「真忠の者」たちなのに……。その墓をあばき捨てるとは「無慙といふべし」(酷すぎる)と、敬順は件の住職を非難するのだった。
 川越城下(埼玉県川越市)東妙寺も同じ理由で批判されている。この寺には十六世紀後半の名だたる合戦で戦死した人々の首を埋葬した首塚があったが、やはり「無縁」で境内の場所をふさいでいるだけで「益なし」との判断から破壊されてしまった。敬順の非難はさらに厳しい。「無慙とやいはん。心なき仕方、放逸の振舞たるべし――。
 死者を安らかに眠らせるのが仕事なのに、無益だ、場所ふさぎだと歴史的な墓や塚をさっさっと処分してしまう寺の姿勢、ひいては僧侶の資質に彼は疑問を抱かずにはいられなかった。どうやらこの時代から、大都市圏の寺は、効率と経済性を第一に経営されるようになっていたらしい。無駄をすくなくし境内を効率的に活用するというと聞こえはいいが、それは要するに寺の俗化、堕落と背中合わせであると、『遊歴雑記』は随所で警鐘を鳴らしているのである。

 宗教ビジネスを批判する
    (前略)
 有馬、京極両家の成功に刺激されて新たに神を祭り、お守りを発行する大名家もすくなくなかった。これは流行現象なのだろうか(「此類ひ天行(はやり)ものにや」)と疑いながら、敬順は思いつくまま例を挙げている。以下そのうちのいくつかを紹介すると……。

 川越藩(松平家)の藩邸では蛇よけのお守りを販売、これさえあれば毒蛇も身をちぢめて死ぬと宣伝しているし、高畑藩(織田家)の藩邸でも「ころばずの守」を一枚十二文で売っている。読んで字のとおり転倒よけのお守りで、身につけていれば、たとえ転んでも怪我はないという。足腰の弱った老人向けのお守りか。
 大名家だけではない。旗本のなかにもお守りを発行する家がある。塙宗悦は表御番医師を務める五百石取りの旗本だが、水難よけのお札を出している。紙に塙宗悦と署名し判を押しただけの簡単な手札で、航海の安全を祈ってこれを懐中する人が多い。もっとも誰でも入手できるわけではなく(非売品?)、手に入らなかった人は、塙宗悦の名を唱え続けてこれに代えるという。どんな風が激しく波が高くても、塙の名を一心不乱に唱えるだけでやがて穏やかになると信じられているというのだ。このほか能勢氏の屋敷でも狐落としの札(狐憑きを払い落すと札)を発行していて、江戸の人々はこれを「能勢の黒札」と呼んで絶大な信頼を寄せている。

 敬順が散策していた当時の江戸は、寺院や神社に各藩の江戸藩邸も加わって、宗教ビジネス、霊感商法真っ盛り。迷信とそれにつけこむ金儲け主義が町の隅々にまで蔓延していた。人一倍江戸を愛し、江戸の住人であることに誇りを感じていた敬順には、このような風潮は、まるで江戸の知的水準の低さや趣味の悪さを見せつけられるようでたまらなく嫌だったらしい。『遊歴雑記』四編上巻で有馬家の水天宮ほかを紹介した彼は、神様を利用したあまりに無批判で無節操な風潮を「爰(ここ)の守りかしこの御札と信じおもへるは性盲昧(もうまい)にして魯鈍なる故なり」と口を極めて罵っている。
 江戸の信仰というと、えてしてわれわれは、多彩で功利的な信仰を誰もがおおらかに享受していたと想像しがちだ。事実はさにあらず、彼のように胸を憤慨で一杯にしながら、流行りの神様やお守りを点検して歩いた知的老人がいたことを忘れてはならない。

「遊歴雑記初編1」 十方庵敬順 朝倉治彦校訂 平凡社東洋文庫499 1989年 ★★
遊歴雑記初編之上
 第七 川越喜多院の怪談
 廿五 野火留村平林禅寺
 四十六 武州みよしのゝ里城地の年元
遊歴雑記初編之中
 騎西大明神の神湯

「遊歴雑記初編2」 十方庵敬順 朝倉治彦校訂 平凡社東洋文庫504 1989年 ★★
遊歴雑記初編之下
 四十三 川越城下孝顕寺・蓮馨寺
 六十一 入間郡いさ沼の風望
 六十二 みよしのゝ里の風色、よな川の由来

「新編 埼玉県史 資料編10 近世1・地誌」 埼玉県 1979年 ★★
 遊歴雑記(抄)   津田大浄
入間郡
 川越喜多院の怪談(初篇上7)
 武州みよしのゝ里城地の年元(初篇上46)
 川越城下孝顕寺蓮馨寺(初篇下43)
 秋津村慈妙院池の奇事(初篇下45)
 武州入間郡大井川の事実(初篇上60)
 入間郡いさ沼の景望(初篇下61)
 みよしのゝ里の景色よな川の由来(初篇下62)
 多麻郡柳沢むさしのゝ原(三篇中6)
 入間郡ところ沢の町並(三篇中7)
 吾庵観自在の霊場(三篇中57)
 将軍山日暮の眺望(三篇中59)
 武蔵野の原埴生の感慨(三篇下13)
 上冨村木の宮地蔵尊大権現(三篇下14)
 入間郡三冨山多福禅寺(三篇下15)
 川越大仙波愛宕山の風景(三篇下16)
 喜多院の再遊鈴の法度(三篇下17)
 石原町の旅泊按摩の清談(三篇下18)
 川越城内みよしのゝ里天神(三篇下19)
 川越氷川大明神片葉の芦(三篇下20)
 高沢橋筋赤間川の螢(三篇下21)
 新座郡水子村観音の画像(四篇中5)

「江戸の旅人 大名から逃亡者まで30人の旅 高橋千劔破 集英社文庫 2005年 ★
江戸時代、五街道が整備され宿泊施設が整うと、寺社参詣や宗教登山を名目とする物見遊山の旅が登場する。庶民が、娯楽として旅を楽しむようになるのだ――。芭蕉と奥の細道、大名夫人と伊香保温泉、和宮と中山道婚礼旅、村娘と西国巡礼、文人をはじめ武士、町人、農民にいらるまで、元祖ウォーカー達の足跡を辿る。旅籠代、交通費など、徒歩で行く旅の実情を知るとともに江戸の豊かさを実感できる一冊。

第一章 文人たちの旅
 十返舎一九と秩父巡礼の旅
十返舎一九(1765〜1831)江戸後期の戯作者で本名は重田貞一。今の静岡市に生まれ、旗本に仕えたが、思うところあって世相や心情と描く作家に転身。代表作の『東海道中膝栗毛』の好評を受けて出版した戯作本の一つが『諸国道中金草鞋』。今回はその中の「秩父巡礼」をもとに、当時の巡礼の旅を再現する。江戸から秩父まで、そのころの旅程や旅人の様子が意外と面白い。
弥次さん・喜多さんの珍道中
 十返舎一九は、江戸後期の売れっ子戯作者()で、『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』ほか、多くの滑稽(こっけい)本や人情本、黄表紙(きびょうし)本を書いた。なかでも「膝栗毛」は大ベストセラーとなって、以後の旅行ブームに大きな影響を与えた。
 「膝栗毛」は初め八編十八冊であったが、大人気を博したため、その後も続編が次々に書かれて、十二編二十五冊が「続膝栗毛」として刊行された。話は、江戸神田に住む弥次郎兵衛と喜多八が、女性関係ですったもんだの揚げ句、お伊勢参りの旅に出発するところから始まる。二人の旅は、小田原で五右衛門風呂と知らず底を踏み抜いたり、静岡の蒲原(かんばら)では巡礼娘を口説いて失敗したりと、珍道中の連続である。
 江戸の庶民は、この滑稽本に夢中になり、自らを弥次さん・喜多さんに仮託して架空の旅を楽しむとともに、何とか暇とお金を捻(ひね)り出して現実の旅にも出かけたのだ。
 この本が大ヒットしたのは、弥次・喜多コンビの滑稽譚(こっけいたん)にからめて、東海道の各宿場の様子がさりげなく紹介されていたからだ。実際に一九は、東海道に精通していた。
 駿府(すんぷ)(静岡県)に生まれて若いころ江戸に出、旗本の小田切土佐守に仕えていたが、小田切土佐守が大坂町奉行に就任すると、従って大坂へ移った。だが義太夫作家を志して勤めを辞め、しばらくして再び江戸に出て戯作者となった。
 つまり、東海道を往ったり来たりしていたのだ。
 「膝栗毛」によって人気作家としての地位を不動のものとした一九は、多くの著述のかたわら『諸国道中金草鞋(きんのわらじ)』二十四編を著している。多くは諸国の霊場めぐりの道中記で、絵と文で道中および目的の寺社を描写し、狂歌師「はなげののびたか」と僧の「ちくらぼう」という二人の珍道中を記す。いわば「膝栗毛」の亜流といえるが、ユーモア短編付き旅のガイドといった趣で、これはこれで面白い。
 なぜ霊場めぐりかといえば、当時の旅には通行手形が必要であり、目的もなく手形を得ることはできなかった。そこで観光旅行の場合には、ほとんどが寺社参詣を名目として手形を得たのだろう。弥次・喜多も名目は伊勢参宮であった。一九の「金草鞋」を読んで霊場めぐりの旅に出た者も、少なくはなかったであろう。
 
 川越を通って秩父の札所へ
 さて、「金草鞋」の第十一編が「秩父巡礼」である。これは、秩父札所(ふだしょ)めぐりの旅、すなわち秩父三十四観音霊場をめぐる案内書であり、滑稽本でもある。もっとも、「膝栗毛」のように一九自身が歩いたことがあって記されたものではない。
 「金草鞋年々其続(そのつづき)を出板(しゅっぱん)し、又この秩父巡礼の記行(きこう)を露(あらわ)すといへども、作者不案内の地なれバ、委敷(くわしく)ハ記さず」
と、一九は巻頭で自らことわっている。だが、
 「巡礼せし人にたよりて聞書し編合(つづりあわせ)せたれバ、行程の里数順逆の次第ハ、少しも違ふことなし。又霊場の荘厳、境内の光景ハ、その地の縮図得て模写」
 と自慢している。たしかに、一九自身が歩いた記録ではないにしろ、旅行者に取材したり、いろいろ資料を集めて記したものであり、当時の旅程や旅の様子がしのばれて興味深い。
 ちなみに、近畿地方の代表的な観音霊場を参詣する西国三十三所、関東一円に広がる霊場参詣コースである坂東三十三所に、この秩父三十四所をあわせて日本百観音霊場という。すなわち、西国一番の熊野の青岸渡寺(せいがんとじ)にはじまる観音霊場の旅は、秩父三十四番の水潜寺(すいせんじ)で結願(けちがん)する。
 西国と坂東の霊場が広範囲にわたるのに対して、秩父の霊場は秩父盆地にかたまっており、一番から三十四番までの行程約二十里(約八十キロ)と範囲が狭い。江戸から近く十一、二日ですべてをめぐって江戸に戻ることが可能であり、途中関所も通らずににすんだことから、けっこう人気があった。ことに、大名家の女中衆や商家の娘など女性に人気が高かったという。
 さて、「秩父巡礼」の道中を追っていくことにしよう。
 「秩父巡礼の道、江戸よりゆくに三筋あり。川越通(どおり)、戸田(とだ)通、あれの通也(なり)
 川越通は現在の川越街道に沿ってたどる道で、川越城下を抜け、松山(東松山市)から小川(小川町)を経由して秩父に至る。もっともポピュラーなコース。戸田通は中山道経由のコースで、戸田で荒川を渡り、蕨(わらび)、浦和、大宮、桶川(おけがわ)、鴻巣(こうのす)などを通過して熊谷に至り、現在の秩父鉄道に沿って寄居(よりい)から秩父に入る道筋。あれの通は吾野(あがの)通で、所沢を経由する現在の西武池袋線に沿う道であったらしい。
 この「秩父巡礼」では、川越通をたどる。
 まず、旅人たちの諸相が記されて面白い。
 旅が好きでよく出かけるが、いつも真黒に日焼けして帰るので嬶(かかあ)に小言をいわれて困るという者。同じく嬶がやかましいので、日に焼けない方法はないかと思案して、むしろ思い切り日に焼いて一皮むいてから帰るという者もいる。
 さらに、駆け落ちして来たが追手(おって)が来ない、つまらないから家に戻ろうかと考えている者。無尽(むじん)が当たるようにと松山の稲荷へ毎月、この道を通っているという者。こっそり囲っている愛人をほったらかして来たので、愛人が短気を起こして無茶をしないか心配している男。家来の三助を連れ、自分はたらふく食って、家来がひもじくても平気な旦那……。いろいろな庶民の旅人の顔がうかがえて興味深い。
 なお松山の稲荷とは、現在も東松山市にある箭弓(やきゅう)稲荷のことだ。川越から四里ほどで、「近年繁盛の稲荷にて参詣おびただし」と、一九は書きとどめているから、江戸時代から人気があったことが分かる。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)
1765〜1831(明和2〜天保2)江戸後期の戯作者。
(生)駿府。(名)本名重田貞一(しげたさだかず)、幼名幾五郎、通称与七、別号を酔斎。幾五郎の幾から一九と号す(三田村鳶魚

「埼玉叢書 第二」 埼玉懸史編纂事務所 柴田常惠・稲村坦元編 三明社 1929年 ★★
川越松山遊覧記
川越の紀行

「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
小林一茶(『草津道の記』)はどこをたどったか?
 知友の俳人鷺白(ろはく)(黒岩忠右衛門)が返事を寄越した。「今年は『古今綾襄』(ここんあやぶくろ)を編んでおります。頂きました佳句、入集いたしました」。
 鷺白は草津で温泉宿を営み、上毛俳壇の中心として活躍し、一茶との風交は深かった。『草津道の記』は文化5年(1808)6月、一茶が信濃国柏原村(長野県上水内郡信濃町柏原)に帰郷したおり、江戸を出立してから草津に辿り着くまでの紀行文である。
 旅程はこうなっていた。
 ○25日(曇)朝6時、日本橋久松町(松井宅)出立―雑司ヶ谷の鬼子母神参拝、板橋、練馬―和光市白子(しらこ)(昼食)―朝霞市膝折(ひざおり)「暑き日や籠はめられし馬の口」―新座市野火留(のびどめ)「瓜むいて芒(すすき)の風に吹かれけり」平林寺、大和田―三芳町藤久保―大井町亀久保―川越市藤間、城下の「あかしや伝次郎」泊。
 26日(雨)川越市寺山宿料(しくりょう)網代(あじろ)志垂(しだり)福田―入間川(渡舟)―川島町伊草、戸守(ともり)―東松山市古凍(ふるこおり)、柏崎、野本「涼風に立ちふさがりし茨哉」、矢弓稲荷参拝、松山宿(昼食)、東平の念仏堂前で雨宿り―大里村兜山(かぶとやま)―荒川(渡舟)―熊谷市久下の林屋勘六方にて小休、中山道の熊谷宿―深谷市橘屋泊。
 ○27日(晴)本庄市金鑽(かなさな)神社参拝―群馬県新町―高崎市―榛名町―倉淵村泊。
 ○28日(雨)榛名神社参拝−吾妻町泊。
 ○29日(雨)長野原町―草津着。江戸を発ってから5日目であった。鷺白らとのしばしの交遊ののち、7月2日に柏原に着いた。
 帰郷にはこんな目的があった。可愛がってくれた祖母の33回忌法要(7月9日)に参列するためと遺産の相続問題に決着をつけるためであった。11月24日、弟仙六と父の遺産を折半相続する確約をし、「取極一札之事」(とりきめいつさつのこと)を連名で村役人に提出した。この後、一茶は故郷への定住を確かなものとするため、北信濃に自分の社中の結成に努める。
 江戸での人気も虚名に思え、安定した生活を漂泊(さすらい)のなかで望むようになった。この旅は、彼にとり大きな節目となった。
(黒沢 栄)

「川越歴史点描」 岡村一郎 川越地方史研究会 1982年 ★★★
5.小林一茶の「草津道の記」

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年
  小林一茶

「幸せ暮らしの歳時記」 藤野邦夫 講談社文庫 2000年
 11月19日 一茶忌

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 小林一茶(こばやし いっさ)
1763〜1827(宝暦13〜文政10)江戸後期の俳人。
(生)信濃国上水内郡柏原村。 (名)弥太郎、俳号い橋・二六庵・俳諧寺一茶、法名釈一茶。
継母と異母弟のいる家庭の不和のなかで育ち、1777(安永6)15歳の時父の計らいで江戸へ出、二六庵竹阿について俳諧を学んだ。'90(寛政2)竹阿が没したので二六庵を継ぐ。'92〜'98竹阿の跡を辿って西日本を行脚して本格的な俳諧修業をした。「寛政句帖」「旅拾遺」などはその頃の作である。江戸に帰ってから房総地方を遊歴し、1801(享和1)帰省して父の発病に遇い、その死に至るまでの手記「父の終焉日記」を記した。これから13年にわたる異母弟仙六との遺産争いが始まり、再び江戸へ出たが、年とともに強まる愛郷心と、この問題解決のために何度も郷里との間を往復。この間、徐々に門人が増えた。'12(文化9)帰郷して遺産問題を解決し、'14妻きく女を迎えてやや安定した生活に入ったのは52歳の時であった。それも束の間、子供たちに死なれ、妻にも先立たれ、3度目の妻やを女を迎えてまもなく中風のために没した。やお女の胎内にいたやた女が一茶の血統を伝えた。句日記「七番日記」、俳諧集「おらが春」などのほか発句は2万句以上におよぶ。
(墓)長野県上水内郡信濃町の明専寺。
(著)「一茶全集」全8巻、別巻1、1976〜80.
(参)小林計一郎「小林一茶」1961。

「花と歴史の旅」 駒敏郎 毎日新聞社 1978年
新河岸「伊勢安」 ★★
 晩春の小雨の降る日に、利根運河を調べることがあって、千葉県下の葛飾の野を歩いた。この運河は利根川と江戸川とをつなぐ人口水路で、茨城県人広瀬誠一郎が半生の努力を傾けて、明治21年に開通させたものだ。
 この事業に注がれた誠一郎をはじめ人びとの情熱と努力とはおびただしいものだったが、運河は約50年の短い生命しか保ち得なかった。水路を通る船の姿が消えて、さらに30年の月日が流れている。
 小雨に煙る芦叢の中の廃水路に、いいしれぬ空しさを覚えながら、私はふと、ほど遠くない野のかなたを流れるもう一筋の舟運水路のことを思い浮かべた。埼玉県の川越から東京の浅草花川戸まで、近世の300年間を水の大動脈として流れつづけた新河岸川がそれである。
 千葉県から帰洛して数日後、その川越から一冊の書物が贈られて来た。私が新河岸川の舟運を調べに川越へ行ったのは、5年前の10月の初めだった。そのとき、下新河岸にたった一軒残る船問屋を訪ねている。書物はその船問屋「伊勢安」の老主人の息子さんの編集で、『新河岸川舟運の盛衰』と題されたものだった。
 新河岸川がまだ盛んに舟を通していた明治から大正へかけての珍しい写真が、たくさん収録されている。その古い写真を眺めながら、私は5年前の秋の一日の船問屋の白壁に照る午後の日射しを、木目の浮き出た格子に揺曳するふかい翳を、そして、水路に映るこまかないわし雲を、鮮やかに思い出した。その水路へ下りていく草叢には、白い小さな野菊がいちめんに咲き乱れていた……。
 船問屋のあるじ斎藤安右衛門さんは、「伊勢安」の16代目、当時すでにそうとうの齢のようだったが、元気に私を案内してありし日の船問屋の位置を教え、また家の中を説明しながら見せてくれた。その人がこの1月に高血圧で倒れて、そのまま病床に臥している、と息子さんの手紙は語っていた。
 新河岸川が川越と江戸とをつなぐ舟運路として改修されたのは、正保年間である。川越6万石のあるじとなった松平信綱が、城下町の殷賑策の一つとしてはじめたものだ。
 「伊勢安」は、船着場として上・下新河岸が設けられたときに、現在の場所に業を創めている。正保から昭和の現在まで325年、建物は明治3年の大火のあとで再建築されたものだが、江戸時代の船問屋をまのあたりに見る思いがした。
 間口の3分の2は障子が入れられているが、内は広い土間になっている。その片隅に帳場格子を置いた畳敷の間がある。昔はもちろん、障子などはなくて吹き放しだったのだろう。
 昭和の初めに通船が完全に止まって、新河岸川の舟運は長い歴史を閉じた。船問屋「伊勢安」もそのときに業を廃したわけだが、古い家だけに貴重な資料がたくさん残されている。河岸の絵図、大福帳、荷船の運賃の定め、川蒸気の料金表など、どの一つにも、水路とともに暮した歳月の長さが、重くしみこんでいるかのようだった。
 「伊勢安」の裏手には三つの蔵がある。表土間から大きなかまどのある台所を抜けると、広い裏庭へ出る。安右衛門さんは蔵の一棟を指さして、「文政年間のものです」といった。文政といえばまず150年は経っている。次に井戸のそばの一棟を指さして「あれは寛政のもの」という。いそいで暗算をして200年に少し欠けるかな、と思っていると、文政の蔵も横のもう一棟をしげしげと眺めながら、「こちらはもう少し古い。元禄のはずです」と呟くようにいった。
 その蔵が元禄のものとすれば、新河岸川の舟運が開けて40年たらずの後に建てられたことになる。おそらくは「伊勢安」の初代か二代目のあるじが建てたものだろう。新河岸の盛衰を見つくした蔵だ。安右衛門さんがその蔵を見る目には、一種あたたかい光が宿っていた。
 土間の畳敷に戻って、帳場格子のうしろに坐った安右衛門さんは、ひとまわり大きく見えた。問屋業はこの人の若い頃に廃めているわけだが、古い家に育った人間の風格というものは、坐るべき所へ坐ったときに、ハッとするほどみごとに現れるものだと、その時に思った。
 「伊勢安」を出て、もう一度川岸へ下りてみた。野菊の群は、傾きそめた秋の日に染まって、武州の川風にしきりにそよいでいた。
(46・10)

「風吹き騒ぐ平原で 日本随筆紀行第5巻ー関東 徳富蘇峰ほか33名 作品社 1987年 ★★
武州喜多院   中里介山
 これも五月のはじめ、郊外の新緑にひたろうと、ブラリ寓を出でて、西武線の下井草まで、バス、あれから今日の半日を伸せるだけのして見ようと駅で掲示を見る、この線の終点は川越駅(現本川越駅)になっている、発駅は高田馬場である。そこで六十何銭かを投じて川越駅までの切符を求めた。
 特に川越を目的とする何等の理由は無かった、全く出来心ではあったし、川越という処も一両度訪れたことはあるのだがどうも、東京もよりでは、すでに歩くだけは歩きつくしているような我身だから、時にはおさらいをして見るより外はないという事情もある。
 川越といえば、今ではお薯の名所となっているが、近世史上から云えば、なかなか由緒のある土地である、武蔵国では江戸を除いては一二と云う都会であったのだ、小田原北条以来勇武の歴史もあるし、徳川になっても有力な大名が封ぜられている、併し、名所及び人物としての川越は、今では喜多院及び天海僧正にとどめを差すのである。そこで、兎に角、喜多院を目ざして、そうしてその主目的は武蔵野の新緑に酔わんとするのにあったのだ。
 喜多院と云っても、はじめてではない、先年、花の盛りにも来て見たことはあるが、今度はその時見残した国宝の職人図だの、岩佐勝以の三十六歌仙だの、そんなものを見せてもらうことが出来れば幸だと思った。
 入間川までは電車も相当混む、今は花時だから、それから先きが存外長いと思った、川越駅で下車して見る、別に昔と比べて目醒(めざ)ましい発展をしているとも思われない、下車すると大宮行きのバスがある、それへ乗り込んで七八丁、喜多院前で下車する、境内はだだっ広くしまりがない、本堂も大きいには大きいがかなり汚ない、それから宝物を見せて貰えまいかと頼むと庫裡へおいでなさいという、庫裡へ行って見たが誰も居ない、そのままずんずん上りこんで奥の方へ行くと奥庭に大きな桜の老木がある、ハヽアこれだな! と思った、鳴雪の句に、

 南無大師三百年の桜かな

 という句があったのを覚えているが、先年来た時本堂の前庭の桜は花盛りであったが、三百年に該当するような大木はついぞ見出されなかったがここへ来て見てはじめてそれと分った、立札を見ると、

  三代将軍家光お手植桜
  樹高――三十二尺、周囲――八尺、樹齢――二百九十年
  寛永十六年再築の時植付

 とある、それから書院を廻って見ると三代将軍誕生の間というのがある、ハテ、家光公はここで生れたのかしら、どうも家光が川越で生れたという説は聞かない、そこで思案にくれていると、髪の毛を分けた若い書生さんが出て来たからその人を捕えて聞くと、この書院なるものがその以前江戸城内のもみじ山にあったのをそっくりそのまま当院へ寄付されたということで、それから今須弥壇になっている一間を通してあちらの間は春日局がお産の祷りをした間であると伝えられ、それからまた国松方の間者として入り込んでいた侍女を差し殺したという伝説もある。
 というようなことを教えてくれた、そう云われて見るとなるほどこの建築は普通寺院の書院とはちがってどこぞ古城の櫓の中を見るような気持がする、果して三代将軍が生れたもみじ山御殿そのものでありとすれば徳川初期の有数な建築史料の一つであるが、うち見た処如何にも質素で柱なども太(はなはだ)しく奢った点は更に見えない、これが天下の大将軍の城内の御殿かと疑われるほどだ、史料建築としてはもう一吟味して見なければならないが、印象としては徳川初期の三河武士の質素さをよく表わしたものと云ってよろしい。
 それから、種々の宝物がある、家康の武器だの日用食器だのというものが相当にあるが、そのうち一番眼についたのは家康着用という、麻の小紋の着物だ、これを見ると丈が短く肥った色の黒い、大庄屋の親分といったような家康の風ぼう(ふうぼう)が眼の前にちらついて来る。
 それから三代将軍以来この寺へは代々将軍が太刀を納めることになっているが、家光は「友成」で、これは今九段の遊就館に陳列してあるそうだ、それからまた有名な国宝の職人絵づくしは今報知新聞で催している国宝展覧会に貸してあるとのこと、それでは岩佐勝以の三十六歌仙を拝観は出来ないかというと「あれは当院のものではありません、この隣りの東照宮の所蔵品です」とのこと、喜多院の岩佐勝以とばかり耳馴れていたのに、それと聞いてやや意外の思いをしたが、本来東照宮はこの喜多院の中の一つの存在であったのを、神仏混淆がやかましくなって以来の分離なのだから、喜多院所蔵と覚えていてもさして無理はない。
 それからここを立ち出でて東照宮の方へ行く途中天海大僧正お手植の槙、

  樹高――七十一尺、周囲――九尺七寸、樹齢――二百七十五年
  寛永十六年本院再築の時植付

 とある、この位の槙の大木は関東では珍しいものに属する。
 それからまた人皇九十三代後伏見帝正安二年造と称する国宝の梵鐘がある、それからまた本堂の一間に宋版の大蔵経がある、これは山門の方に別に経蔵があって保存していたのだが、改築か虫干かの必要上こちらへ移入してある間に乞食が経蔵の空屋に入って焚火をしたのが原(もと)で先年経蔵が焼けてしまったが偶然中味だけがここに残されたということだ。
 それから空濠の上の小山を辿って行くと、巨大な石塔がある。
 
  南无慈眼大師 寛永二十之天
十月二日寂

 と彫んである、即ち天海大僧正の墓だ。
 天海という坊さんは春日の局と並んで黒衣の宰相として家康の有力なるお師匠番と立てられているが、家康がどれだけこの坊主の指導を受けたか、この坊さんの俗権に及ぼす勢力がどのくらいのものであったかということはもう一応研究して見る必要がある。
 それから東照宮へ行った、大した建築ではないががっちりしたものである、ここの拝殿に例の岩佐又兵衛国宝歌仙額があるが鍵ががっちりして開かない、階段を下りて社務所のような処へ行って見ると、そこに大丸髷の絵看板をあげて女髪結を業としている、どうも社務所で女髪結はちとへんだ、ここで宝物を見せて貰えないかと頼むと、おかみさんがそれは御祭礼の時でなければ公開しないが、お望みならば連雀町の稲葉さんというのへ行ってお頼みなさると鍵をもって来て見せてくれます、その稲葉さんがここの神主様だという、連雀町では大変だ、とこっちは神田の連雀町とばかり受取ったが、やがてこの川越にも連雀町というところがあるのだと気がついたが、然し今日は時間を惜しむからわざわざという気にはならない、そのままここを出て中院の方へ向った。
 喜多院はもと北院と書いたもので、ここには北院、中院、南院の三大寺院があったのだ、東院というのは聞かないが南院は今農学校(現川越総合高校)になっている、中院は誰れも気付かない北院より南寄りに一廓をなしているがこの寺は境内といい建築といい荘厳にして清楚、北院のごみごみして汚れたのとは比較にならない、庭にも北院のに劣らない枝垂桜の大木がある。
 それからバスに乗ろうと思って北院前へ出て見たが、いくら待っても来ないから近い処の動物園へ入る、入場料五銭、相当のものであった、それから再び北院の境内へ入って葉桜の下のかけ茶屋で団子を食べる、程遠からぬ大宮行の電車停留所へ行って待ち合せている田舎の花嫁さんが角かくしをして、裾模様の着物を着ながら見ているうちにそのお嫁さんがミルクキャラメルかなにかを頬ばりながら大股にさっさと歩き出した、さすがの川越ッ子もそれを見て「あれ、あのお嫁さんはものを食いながら歩いている」と指差しをしていた、斯う云う光景は川越でも珍しいものと見える。
 それからバスで前の西武線の駅へ来てやや暫く待ち合せ帰途に着いた。
 川越という土地は本当の武蔵野の原ッパの中の一都会で、山があるでもなし、川があるでもなし、湖水があるでもなし、土気の中の一都会だから風情のないことは夥しい、土も耕土だから庭にも余りさびもつかないし、風が吹けば飛び上るし、決して住みよい気分のところではないが、然し土地の生産力としては肥えたものであり、徳川将軍には縁故が深いし、柳沢吉保などもこの地に封ぜられたこともあり、秋元家などもここへ封ぜられた時は六万石の表高でその倍以上の実収があったと称せられ、かつ江戸へは近いし、有力な富藩であったとはうなずかれるが風景としてはこんな平凡なところも少なかろう。
 それから西武電車で帰途花小金井駅で下りて畑と山林の間を十丁ばかり歩いて小金井土手の葉桜へ来た、ここからまたバスを待って境駅へ出て中央線で帰ろうと思っているうちに、東京帰りの円タクが舞い込んで来たから談じこんで五十銭で阿参堂まで飛ばして帰りついたのが午後の五時であった。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 中里介山(なかざと かいざん)
1885〜1944(明治18〜昭和19)明治・大正・昭和期の小説家。
(生)東京。(名)本名弥之助。

「赤線跡を歩く 消え行く夢の街を訪ねて 木村聡 ちくま文庫 2002年 ★★
公娼制度の廃止に伴い、戦後間もない昭和21年頃から形成された赤線地帯。そこでは鮮やかなタイルとガラス、入口にホールのある独特の様式が生まれ、カフェー調の店が全国の盛り場で流行した。昭和33年の廃止後、アパートや旅館、町工場などに姿を変えて余生を送ってきたそれらの建物も、半世紀が経過し風化が進む。戦後の都市空間を彩った建築物とわずかに残る街並みを記録した貴重な写真集。
【関東】 川越  名刹の傍らにひかえた廓 小江戸を巡り 色里の名残を訪ねる
  五百羅漢と花魁イモ
 蔵造りの店舗が街道に面して建ち並ぶ川越市は、都心から一時間ほどで行ける小江戸として、日帰りの行楽客を集めている。「時の鐘」「蔵造り資料館」「菓子屋横丁」とともに、一度は立ち寄るのが、正月にダルマ市の開かれる喜多院で、境内には有名な五百羅漢がある。
 埼玉県は公娼制度を認めていなかったが、乙種料理店(達磨屋)と呼ばれる遊廓が各所にあり、川越にも喜多院の手前、西小仙波町に、熊谷とならぶ堂々たる遊廓が存在した。戦後の事情については『全国女性街ガイド』が、<赤線の街で、駅から三十分ほどの著名な名刹喜多院のそばにある廓町に二十軒、花魁イモのような顔の花魁が八十一名。風物はよきだが、女はダメ。>
 と、なぜか断をくだしている。
 現在も往時の木造家屋が、旅館、割烹、スナックなどに姿を変えて残り、静かなたたずまいを見せている。

「鎌倉街道T 歴史編」 栗原仲道 有峰書店 1976年 ★★
九、戦国の道
 『廻国雑記』と鎌倉街道
 『廻国雑記』は天台修験道の本山、京都聖護院二十九代門跡道興准后の関東を中心とした旅行記である。道興は関白近衛房嗣の第三子として生まれたが、幼時より出家して、のちに天台修験(本山修験)の総師となった。
 准后(じゆごう)とは准三后の略で、太皇太后・皇太后・皇后に順ずる待遇を許されるもので、親王・法親王・摂政・女御・大臣に与えられたが、のちには名誉称号となった。道興の准后も名誉称号であったろうと思われる。道興准后は本山修験の総師として諸国を巡歴したが、文明十八年には関東を巡錫したのである。
 道興准后は文明十八年六月上旬、北征東行を思い立ち、京都を立って北陸路を廻り、七月十五日越後国府(高田)に着いた。そして関東入りをしたのは七月下旬の頃であった。
 「上野国大蔵坊といえる山伏の坊に十日あまりとどまりて、同国杉本といふ山伏のところへうつりける」と関東入りについて『廻国雑記』は書いている。杉本は鳥川を渡ったところにあり、そこからは信濃の浅間山が近々と眺められた。准后が杉本で見た八月十五夜は雨であった。おそらく准后は翌十六日に杉本を発ったのであろう。宮の市・しほ川・白石・いたづら野・上長川・おしまの原などを通って武蔵国へ渡り岡部原に来たのであった。
岡部の原といへるところは、かの六弥太といひし武士の旧跡なり。近代関東の合戦に数万の軍兵討死の在所にて、人馬の骨をもて塚につきて、今に古墳あまた侍りし。しばらく回向して口にまかせける。

 なきをとふ岡部の原の古塚に秋のしるしの松風ぞふく
 岡部原で和歌一首をよんだ准后は、浅間川を渡り、古川というところで舟にのり、下総国郡山に出た。そして足の赴くままに房総へと旅した。上総国千種の浜、木更津。安房の清澄山、那古観音、野嶋が崎、河名、鋸山と巡って東京湾を舟で渡って三浦半島の三崎に上陸、鎌倉には九月初めに着いた。
  鎌倉にて第三まで独吟
  霧ふかし鎌倉星月夜
  朝鳴く鶴が岡の松風
  葛の葉の色づく野沢水枯れて
 当時流行した歌合を鎌倉に着くと早速に催したものと思う。そして九月九日には
  九月九日、野を分けつくして山にいたりけるに、菊いと面白く咲きて感緒きはまりなし。重陽の宴には菊を擬し侍りて、
   けふはまた野を分けすぎて仙人となりてや菊の花を飾らん
と歌っているのである。そして九月十三夜の月は日光中禅寺で眺めているのであるから、全く気の忙しい門跡様である。もっとも後再び鎌倉をゆっくり訪ねているかた、何か宗門上の用事があったのかもしれないのである。日光山に登り、中禅寺で十三夜の月を眺めた准后は、宇都宮・鬼怒川と遊んで常陸の小栗に行った。例によって山伏の坊を宿舎としている。そして九月二十三夜は筑波山に登ろうとしたが、その夜は猛烈な雨だったので、麓の草庵で夜を明かし、翌二十四日に登った。ちょうど初雪が降り、准后の歌心を喜ばせた。

  いづれをか深し浅しと眺めましもみじの山のけさの初雪

 かくして准后は筑波から稲穂に廻り、岩付、浅草に出て、浅草寺に参詣し、隅田川、忍カ岡、小石川、芝の海、駒林、新羽とすぎて再び鎌倉に入った。こんどは「鎌倉中彼方此方順見し侍りて」扇が谷・鶴が岡八幡宮・由井が浜・建長寺・円覚寺・金沢の称名寺などを見て廻った。

  神もわが昔の風を忘れずば鶴が岡への松と知らなん

  朽ちのこる鳥居の柱あらわれて由井の浜辺にたてる白浪

 そしてそれから准后は、藤沢道場の遊行寺、大磯、西行ゆかりの鴫立沢をめぐって小田原に廻った。早川の浦で一泊、箱根山権現に参拝し、その後は田子の浦、三保の松原、浮島原と駿河路に出たが、再びUターンした准后は、足柄山峠をこえて、鞠子川から剣沢、そして相模の大山に参詣した。そして鉈彫りで有名な日向薬師、小野の熊野堂をめぐり、再び武蔵入りとなる。実はこれからが、『廻国雑記』の中心的な叙述となるのである。
   (後略)

「鎌倉街道U 実地調査・史跡編」 蜂矢敬啓 有峰書店 1976年 ★★
廻国雑記…………道興准后

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作成:川越原人  更新:2010/6/13