川越の歌と文学(1)


<目 次>
童謡
通りゃんせ  ([歌]に秘められたウソのような本当の話県民性の法則川越歴史小話唱歌・童謡ものがたり童謡の謎2わらべ唄風土記なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのかこんなに面白い民俗学川越市史民俗編日本の神々と仏蘇る中世の英雄たち
あんたがたどこさ  (川越歴史小話童謡の謎2
青い目の人形  (図説川越の歴史唱歌・童謡ものがたり横浜殺人事件

 トップページ  サイトマップ  →   歌と文学(2)  文学散歩1  文学散歩2  島崎藤村と川越
童 謡
通りゃんせ
「[歌]に秘められたウソのような本当の話」 博学こだわり倶楽部編 青春BEST文庫 1991年 ★★
 『通りゃんせ』の舞台、川越市ではなぜ帰りがこわい?
 行きはよくても帰りはこわい≠ニ歌われた『通りゃんせ』のモデルとなった場所は、埼玉県の川越市だといわれる。
 川越市は「小江戸」とも形容されるように、江戸時代には都とずいぶんなじみの深い土地がら。江戸の北の守りとして、また、江戸の台所として代々幕府がおさめてきた天領である。
 さて、そんな川越には、かつて城があり、城の本丸の近くに三芳野神社が建立されていた。この神社、幕府とかかわりが深く、庶民の身ではふだんは参詣もかなわず、庶民の参詣が許されるのは、年に一回の大祭のときだけだったという。
 とはいえ、そんなときでも、場所がら、警備の者が多い。町人たちがめずらしさのあまり、キョロキョロしようものなら、「何をしている」「はやく歩け」と叱声が飛んできた。そんな庶民の落ち着かない気分が「行きはよいよい帰りはこわい」と表現されたという。
 三芳野神社は、現在も川越市の一角に健在である。

 とおりゃんせ とおりゃんせ
 ここはどこのほそみちじゃ
 てんじんさまのほそみちじゃ
 ちょっととおしてくだしゃんせ
 ごようのないものとおしゃせぬ
 このこのななつのおいわいに
 おふだをおさめにまいります
 いきはよいよいかえりはこわい
 こわいながらも
 とおりゃんせ とおりゃんせ
 ♪とおりゃんせ(MIDI)
 ♪とおりゃんせ
 (MIDI:サイト「童謡・唱歌の世界」より)
  

三芳野神社の写真

「(珍)【県民性】の法則」 人間おもしろ研究会編 青春BEST文庫 1995年 ★★
 なぜかコワい童謡「とおりゃんせ」のナゾと川越天神の関係   埼玉県・川越市
 ♪通りゃんせ、通りゃんせ、こ〜こはど〜この細道じゃ。天神様の細道じゃ、という童謡「とおりゃんせ」は江戸の町で子どもの遊び歌として流行した。30代以上の人なら、小さいころこれを歌いながらふたりがアーチをつくって、歌い終わったときにとおった子が鬼になる。という遊びをしたことがあるだろう。
 その発祥の地は埼玉県川越市、川越天神・三芳野神社といわれている。川越市は「小江戸」といわれ栄えた城下町で、いまも蔵造りの家並みや城跡、多くの社寺が残る町だ。
 三芳野神社というのは、室町中期に形成された川越城内にあって、菅原道真(天神様)を祭ったもの。ふつうの人は年に1回お祭のときにしかはいれなかった。その昔は7つになると天神様の氏子になれる。昔は医療も発達していなかったから、7つになるということはその子が育つ目安となり、いまでいう成人式のようなお祝いをしたのだ。
 そのために天神様を訪れたのだが、到着するまでには南大手門から入って、さらに門を3つくぐっていかなければならなかった。厳しいチェックを受ける。そこで、♪行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ、となるのだ。
 こんな暗い歌の発祥の地であることは「学問の神様、菅原道真を祀っているので暗くてもいいんじゃないですか」と川越市文化財保護課担当者。なんだか妙に納得いくお返事。受験の祈願に行く機会があれば、「とおりゃんせ」を歌いながら川越天神の細道を歩いてみてほしい。帰りはきっとこわ〜いのだ。

「川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 1973年 ★★★
24.天神様の細道じゃ
 著者は、わらべ唄「通りゃんせ」の三芳野天神起源説に疑問を呈しています。
 ここはどこの細道じゃ
 天神様の細道じゃ
というわらべ唄は、川越の三芳野天神から起った唄だという説がある。本当にそうだろうか。今回はこの問題について少し考えてみたい。 
 三芳野天神は川越城中の鎮座である。その所在地は昔から現在の所と変りはないが、ここはもと城内本丸の中心部に相当する。したがってごく古い時代のことははっきりしないが、すでに松平伊豆守信綱の明暦二年(1656)には本丸のご本社とはべつに田郭に外宮を建てて、ここに一般諸人を参詣させるようにした。この仮殿はもと江戸城中紅葉山にあった東照宮の空宮を拝領して移築したもので、現在川越氷川神社の境内社である八坂神社の社殿がそれである。また田郭というのは松平信綱時代の城地拡大によって増設された曲輪で、外宮の所在地は現在の市水道部浄水場のあたりに相当する。
 ではこの外宮に参詣するのに、どの城門から入れたかは、秋元喬房時代の元文三年(1738)に書かれた「川越城御番所定」によって多少窺うことができる。すなわち天神宮参詣の者とその別当高松院に用事のあるものは、いずれも西大手の御門から通した。しかも「様子をたしかに承り、疑わしき者は御門継ぎに送れ」とあるように、決して無条件に参詣させたわけではない。
 西大手から入ると外曲輪を東に進み、中の門を経て中曲輪に入る。そして南行して田郭門を通って田曲輪内に入るわけである。南大手から入ると右折すればすぐ田郭門の前にでる。田郭門の位置は富士見櫓前の堀の南側で、やや手前の方である。この田郭門は年に一度の大祭である正月十八日(今は四月十八日)には大扉を開いたと記している。ざっと考えて西大手門から天神外宮に達するには八百米、南大手からは三百米位はあったようだ。松平大和守時代には外宮からわずか百米位の所にあった清水門から入れたこともあるらしいが、まだ確証は得られない。
 そこでこのわらべ唄の川越起源説を唱える者は、天神外宮に達するまでの長い細道をひとつの根拠としている。さらにお城の縄取りは極秘のことに属するから、要所要所に警固の士が見張っていた。町人どもがもの珍しそうにきょろきょろしようものなら、容赦なくどやしつけられた。こころ落着かぬ思いで参拝する町人どもの気持を表現したのが「行きはよいよい、帰りは怖い」の文句だと説明するのである。
 だが私は川越の天神様に参拝するのに長い細道を通ったことは認めるけれども、あのわらべ唄の発祥の地がここだという説には賛成できない。なぜなら前節につづく唄は、
 ちょっと通して下しゃんせ
 御用のない者通しゃせぬ
 この児の七つのお祝いに
 お札を納めに参ります
であるが、この唄のすこし古い形を追って江戸時代までさかのぼると、「御用のないもの」というところが「手形の無い者通しゃせぬ」となっている。
 これが何を意味するかというと、じつはこの唄が関所に関連のあることを立証しているのであって、この童謡が徳川氏の江戸居城以後のものであることは論をまたない。徳川氏は西国の雄藩から江戸を守るために、箱根の天険を利用して関所をかまえ、道中通行の吟味を厳重にした。武家、商人、百姓を問わず、関所手形のない者は絶対に通行は許されなかった。この禁令を犯す者がすなわち関所破りで、重い刑罰に処せられた。
 しかしそうした裏面にも親の重病とか、主人の危篤などという火急の場合で、どうしても手形をうけるいとまのないときは、関所役人に哀願すると、表面は拒否するが、
 「こらこら貴様は此方から参ったのに、そちらに参るとは不都合な奴じゃ」
といって、わざと来たときと反対の方向に出してくれた。いわゆるお上のご慈悲である。けれども用事が済んで帰る時には、ふたたび寛大な扱いに預かるわけにもゆかない。はてどうしたものだろうと、大いに苦慮せねばならなかった。
 行きはよいよい帰りは怖い
 怖いながらも通りゃんせ
ここではじめてこの文句が生きてくるのである。この関所説は酒井欣氏の「日本遊戯史」によるまでもなく、諸書にみえており、大体定説として是認されているものだ。
 さてこういうと、いかにも川越の郷土伝承にけちをつけるようであるが、川越側のいい分にこの定説を覆すほどの根拠がない限りはやむをえない。それともまだ何かほかにお考えのある方がいれば、教えていただきたいとおもう。

「唱歌・童謡ものがたり」 読売新聞文化部 岩波書店 1999年 ★★
 通りゃんせ (作詞・不詳/編曲・本居長世)
   (前略)
 かつて「小江戸」と呼ばれた埼玉県川越市は、東京のベッドタウンになっても、江戸時代の面影を街の随所に残している。重厚な蔵造りの町並みは往時、物資の集散地として商業が栄えたことをうかがわせ、堂々とした風格を漂わす川越城の本丸御殿は、江戸を守る城下町であったことの証でもある。
 川越城の鎮守として、1624年、城主の酒井忠勝によって再興されたといわれる三芳野神社は、その本丸御殿の東方、歩いて1、2分のところにある。創建は九世紀初めにさかのぼり、もともとは菅原道真を祭ったことから「お城の天神さま」とも呼ばれてきた。
 「わらべ唄発祥の所」。境内の一角にある石碑には、こう刻まれている。「ここはどこの細道ぢゃ 天神さまのほそみちぢゃ」の歌詞が添えられ、1979年11月3日、元埼玉銀行頭取、山崎嘉七の手によって建てられたことが紹介されている。
 江戸のわらべ歌『通りゃんせ』は、この神社の境内から生まれたというのだ。
 氏子総代会の会長、鈴木一郎(68)は言う。「川越に来る観光客は、近くの本丸御殿や市立博物館には足を運んでも、神社まで来る人は残念ながら少ないんです。だから、時々私がガイド役になって博物館のお客さんたちを連れてきて、『通りゃんせ』の話をするんです。みなさん、へぇー、そうなんですか、と驚いた顔をしますよ」
 
 「発祥の所」とする根拠はどこにあるのだろうか。川越で生まれ育ち、埼玉県文化財保護協会会長を20年近く努めた山田勝利(88)は「このわらべ歌が現れる歴史的環境、条件が川越の三芳野神社には整っているということでしょう」と説明する。
 『通りゃんせ』の歌詞には<天神さまの 細道じゃ><御用のないもの 通しゃせぬ>とある。三芳野神社は「天神さま」を祭っており、「細道」は社殿に至る参道を指すのだろう。また、神社が城内にあったため、番所に詰める見張りの侍が一般庶民の出入りを禁止していたことも、歌詞の内容と合致する。
 江戸時代、庶民が城内に入り、参詣できたのは年一度の大祭の時が、七五三の祝いの時だけだったという。<この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります>との歌詞も、当時の庶民の姿をよくとらえていると言える。
 <行きはよいよい 帰りはこわい>はどうだろう。ようやく城内に入ったのに、見張りの侍の監視の目が鋭く、庶民がおそるおそる帰っていった様子を表した内容と考えれば、歌詞と歴史的環境との相関は成り立つ。
 こうして川越で生まれたわらべ歌が江戸に伝わり、各地から江戸に集ってきた人たちが、またそれぞれの地に戻ってこの歌を伝え、やがて全国に広まった。これが、山田の見解である。
 
 しかし、「川越発祥論」には異論もある。これまでにも埼玉県の他市から、また他県などからも「発祥の地はうちだ」という声が幾度となく出されてきた。「通りゃんせ」「細道じゃ」「まいります」などの言葉は関西、西日本方面の表現では、と指摘する学者もいる。
 こうした異論が出ていることも、山田は十分に承知している。「どこが発祥の地なのかは、本来どこであっても構わないものなのかもしれません。ただ、私にとっては『通りゃんせ』は、古里そのものであり、川越市民の多くもそう思っています」
 子どものころ、よく歌って遊んだのを思い出したのだろう。石碑の前に立った山田は、とてもうれしそうに見えた。
(松)
 

案外、知らずに歌ってた 童謡の謎2」 合田道人 祥伝社黄金文庫 2004年 ★★
第二章 あまりに恐ろしい童謡たち
 B通りゃんせ
 行きはよいのに、なぜに帰りはこわいのか?
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちぃっと通して 下しゃんせ
ご用のない者 通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
 行きも恐いし、帰りも恐い
 この歌の発祥地は、今も残る埼玉県川越市にある三芳野(みよしの)神社だという。川越は小江戸と称され、城跡、喜多院、時の鐘、蔵造の商家などが残された江戸風情(えどふぜい)にあふれる町だ。
 川越城が建てられたのは長禄(ちょうろく)元年(1457年)だが、築城前から神社はあった。ちゃんと、
   ♪天神様(てんじんさま)……
 を祀(まつ)っており、詩のとおりに天神様に続く長い細道もあり、歌碑も建つ。
 このわらべ歌、川越城内の子女の間で歌われていたものが、城下に流れ江戸から全国に広まったものとされ、また城内の子女を、意識的に外部とのふれあいから避けるために作られ遊ばせた歌ともされる。はたまた、その最後に手の門が下りてくる遊びの意味から、城の近くにあった遊郭に売られた女の子を歌っているともいわれる。
 つまり手の門は廓(くるわ)、遊郭のことをさすというのだ。廓とは城の周囲にめぐらせた囲いのことでもあるが、遊郭のこともさす。現に今もこのあたりは郭町(くるわまち)という町名である。
 行きは支度金(したくきん)が用意されるのでよいが、帰りは身も心もぼろぼろになって帰される。荒くれ男の相手をして何度も恐い思いもしたし、もし身ごもったりしたら冷たい水をかけたりする方法でお腹の子供の命を自らの手で絶たなければならない。でも遊郭に売られていく子の家は貧しい。だから金のために、
   ♪こわいながらも……
 廓の門をくぐらなければならない。「通りゃんせ」なのだ。この遊びを通して手の門が下りてきたときに捕まった子が、次に売られるのはお前だぞ≠ニ天神様が決めるという、残酷かつ恐怖に満ちた歌だというのだ。が、子供を堕(お)ろしたりしたのだから、
   ♪七つのお祝い……
 は、辻褄(つじつま)が合わないだろう。水子の年齢を数える遊女の呪(のろ)い歌だとでもいうのか?
 だからこれは、簡単に三芳野神社に子供を引き連れて詣(もう)でる歌だと解すほうがいいのだ。でもなぜ、神社に参るだけなのに、
   ♪行きはよいよい、帰りはこわい……
 というのか?
 それは三芳野神社が、城内にあったからである。
   ♪この子の七つのお祝いに……
 の七つのお祝いとは、七五三のお参りのことだ。その頃の子供は抵抗力がなく、よく死んだ。医療も発達していなかった。だから三歳まで生かせていただいた、五歳、七歳を迎えることができたというお礼とこれからの安全を祈願するために、七五三の行事は始まったのだ。
 だが、ここの神社は城内にある。ほかの神社ならすぐにお参りもできるが、ここはいちいち門番に詰問(きつもん)される。そりゃそうだ。お城に普通の人が入るのだ。ひょっとして忍(しの)びかもしれないではないか。
   ♪ご用のない者、通しゃせぬ……
 なのである。それでもなんとか中に入れてもらってお参りに行く。門番だけでなく、参道には何人も見張りが立っている。確かに恐い。でもこれなら、行きもこわいし 帰りもこわい……≠ナはないか。なぜ帰りだけ恐いというのだ?
 それは門を出るとき、城内の手紙や文書を盗み出していないかと、携帯品を何度も調べられるからだという。
 でも、一般人をほんとうに、
   ♪七つのお祝い……
 だけで、城の門をくぐらせたりしたものだろうか? 普通ならしないはずだ。
 調べていくうちに、本丸横にある神社とは別に外宮(げぐう)がちゃんと建てられていたことが判明した。そしてなんとその建物は、今もなお川越の氷川神社境内に、八坂(やさか)神社の社殿(しゃでん)として残されていたのである。
 その建物は、寛永14年(1637年)に江戸城二の丸の東照宮(とうしょうぐう)として建立(こんりゅう)されたが、その後、明暦(めいれき)2年(1656年)に三芳野神社の外宮として江戸城から縮小して移築されたいわれている。廃藩置県(はいはんちけん)の公布(こうふ)が明治4年(1871年)、それにより今まで厳重だった城内に誰でも自由に出入りできるようになる。三芳野神社本殿にお参りできるようになったのだ。翌5年(1872年)、城が民間などに払い下げられると同時に、外宮も氷川神社に移された。
 でもひとつ疑問が増える。本社に参拝できるようになったのだから、外宮が他の場所に移されたことはよく分かる。ではどこから氷川神社に運ばれていったのか? 仮宮はどこにあったのか? それが本社から歩いて5分ほど、現在の川越市水道郭町浄水場あたりに建てられていたのだ。これでは近すぎる。それも、わざわざ江戸城からやってきたような大事な建物を城外に建てるということ自体非常識だ。変な話、仮宮ならどんな建物でもよかったはずではないか。本社すら別段、大きく立派なものでもないのだから……。
 そうだったのだ。実は本丸から多少遠くなっただけで、仮宮もしっかり城内に建てられていたのだ。厳重に用向きを尋ねられ、西大手門から入ることも決められ、
   ♪天神様の細道
 を通って参拝したとされる。でもほんとうにそうなのか? これでは同じなのである。七つの祝いのためだけにお城の中に入れることに変わりはないではないか。
 川越市立博物館で、ここの部分を詳細に尋ねてみた。すると、
 「内宮(ないくう)はもちろん外宮も普段は参拝できませんでした。一年に一回の大祭の日、正月18日にだけ大扉が開かれ、外宮の参拝のみ許されていたのです」
 やっぱりそうだ。そこでこんな説がある。城内に入った町人が、物珍しくキョロキョロ周りを見回していると、警護の者が、何を見ている、ささっと歩け≠ニ、どなりつける。庶民のおどおどした様子が、
   ♪帰りは こわい……
 に、なったというものだ。でも年に一度の祭りだ。そんなことを言うなら、最初っから入れなきゃいいじゃないか!
 同じ大祭でもちょっと違う説もある。何しろ大勢の人が集まる。意気揚々(ようよう)として出かけて、お参りするまではいい。でも帰りは人がごった返して押すな、押すな≠ェ恐いと解す。ちょっと待ってほしい。これじゃあ、祭りでみんな入れるのだから、
   ♪ちぃっと通して 下しゃんせ……
 などとお願いすることはなくなる。その上、
   ♪七つのお祝い……
 は、どこに行ってしまったのか? いよいよ川越発祥説がゆるぐ。だからということでもなかろうが、わが町こそが「通りゃんせ」発祥の地≠ニ名のりをあげる場所がやたら多いのだ。そして、私も川越以外の発祥地探しを始めた。
 手形の無い者 通しゃせぬ
 菅原神社へ「通りゃんせ」
 天神様は祟り神

「わらべ唄風土記 下」 浅野建二 塙新書 1970年
七 遊戯唄 その二
 <関所遊び> 通りゃんせ
 通りゃんせ
 「通りゃんせ」は、一名「天神様(参り)」ともいって、江戸時代から殆ど全国に普及した「関所遊び」の唄であるが、京都地方ではこれを一種の子取り遊びにしている。
  通りゃんせ 通りゃんせ
    此処(ここ)は何処(どこ)の細道じゃ
  天神様の細道じゃ
    ちいっと通して下しゃんせ
  御用のない者(もの)通しゃせぬ
    この子の七つのお祝いに
    お札(ふだ)を納めに参ります
  行(い)きはよいよい 帰りは恐(こわ)
  恐いながらも 通りゃんせ
           通りゃんせ
 東京地方の普通の遊び方は『日本児童遊戯集』に見える左の方法である。
    ここはどこの細道じゃ
二人対(むか)い合いて立ち、一人の左手と一人の右手と組み、肩の辺の高さに挙げ居れば、他の児はその傍らに来り二人に対して「ここはどこの細道じゃ――(繰り返し)「天神様の細道じゃ――」「どうぞ通して下さんせ――、この子の七ツのお祝いに――、お札を納めに参ります――」「通りゃんせ――」といえば皆々その下を潜(くぐ)るなり。その時「往きはよいよい還りはこわい」「こわい筈だよ狐が通る」といいて他の児その下を潜りゆき、又直ちに帰るを待ち、二人はそを打たんと試むるなり。
 つまりアーチをつくっている子どもに背を叩かれると、叩かれた子は叩いたアーチの子と交替しなければならない。現行の唄は問答風に斉唱と独唱と交互に繰り返すが、もともとは両手(または左手)をアーチに組んで立った二人の子とその下を潜る子どもとの問答形式の唄であったと思われる。「ちいっと」は、「ちょっと」とか「どうか」ともいうし、「御用のない者云々」は古くは「手形の無い者通しません」ともいったらしい。
 この唄は、江戸幕府の頃、箱根の関所の通行が厳重を極め、手形のないものは絶対に通さず、何か特殊の事情、例えば親の重病とか主人の危篤などの場合だけ、関所に哀訴して通して貰った。しかし、その帰りには絶対に許さなかったことを歌ったものだという。また一説によると、穀物の豊作を祈って、人身御供(ひとみごくう)をささげた原始時代の人類の信仰が、この唄のもとになっているともいう。「七つのお祝い」は、七五三の宮詣り。「お札を云々」は「天神さんに願(がん)かけて」ともいうし、「恐(こわ)いながらも云々」のところは「帰りのお土産なァに」とか「こわい橋からお化けが出るよ」ともうたう。京都地方では「恐いながらも通りゃんせ」の後を、「此の児はよい児、親に何食わす/鯛の身/此の児はよい児、親に何着せる/絹物(もん)/此の児はよい児、親の許(もと)い帰れ(または「此の児は悪い児、地獄い飛んでいけ」)と歌いながら、次のような方法で遊ぶ。
最初子供の並ぶ順序を決めるために、やはり組長格の児が二人向かい合って両手を握り合い上に挙げている。そして輪になった他の児らがこの手のアーチの下をくぐりながら「桜、桜、弥生の空は見渡す限り、霞か雲か、朝日に匂う」の歌をうたい、歌が終わったとたんに、二人は挙げた手を下ろして下をくぐっていた児をとりこにする。そのとりこにした子供から順々に並べておいて、全部並んだら親(鬼?)はそのまま両手をアーチに組んで立っており、子供達はそのアーチの下を走ってくぐる。親は急いで手を下ろして走り抜ける子を捕えようとする。捕えた時「此の児はよい児、親に何食わす」と聞き、聞かれた児が「鯛の身」とか「ひじきに油揚げ、雁もどき」または「お寿司に柏餅」と答える。親は「この児はよい児、親に何着せる」と聞く。児は「絹物」といった風に答える。それで合格すれば、親は、「この児はよい児、親の許い帰れ」とか「……元の家へ帰れ」「極楽へ飛んでゆけ」と言って元の方へ返す。もし合格しなかったら、「此の児は悪い児、地獄いとんでいけ」または「……針の山いとんでいけ」と言って反対側へ送る。これを繰り返すのだが、一度捕えられ判定を受けた児は、それ以後は加わらず、加わる者の数は次第に減る。(楳垣氏『京都のわらべ唄』)
 愛知県岡崎辺では、やはり京都のように問答をするが、「親に何くわす」「鯛の身をくわす」と答えると、「この子はよい子、大きになったら出世せ」などともいう。『童戯集』の<伊勢>の部には女子の遊戯法として次のように説明している。
   天神様の細道(女子)
両人手を連ねて門の如くその手を挙げ、他の子供のくぐるを待つ。
  甲 「そこは何処の細道や」
  両人 「天神様の細道じゃ」
  甲 「一寸(ちょっと)一ぺん通らしてんか」
  両人 「御用の無いのに通らされぬ」
  甲 「天神様へ筆上げに」
  両人 「往きは、ゆるゆる、還りは、こわい」
往きや、ゆるゆると云いて徐(しず)かに通らしめ、還りはこわいと云いて、両人挙げたる手にて背中を打つなり。
 この遊戯法から思い出されるのは『尾張童遊集』に見える「くんぐれくんぐれ山伏(ヤンマブシ)くんぐれやんまぶし」という遊びで、同書に、「手を手を持て真丸になり、如此いひながら廻りくぐりぬけて、うしろに向にみなみな成、又もとのごとくなるなり」とか、「今世童遊びに、手と手を取合せで、くぐれくぐれ山伏、又くぐれ山伏と云は、吉野山上する先達の股をくぐれば小児疱瘡をかろくすると云、今も峯入の帰りに市町にて小児を連出、股をくぐらす也、峯入は山伏の行也、因て股くぐれば山伏也」とあるので、ほぼ察せられる。因みに同種の遊び唄「通れ通れ山伏」が『童戯集』の<摂津>の部に見える。とにかくこの唄がこんなに盛んになったのは、大正時代に本居長世という作曲家が編曲して童謡として広めてからで、明治時代の曲調は同じメロディをくり返すような、もっと単調なものであったといわれる。

「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」 島田裕巳 幻冬舎新書 2013年
日本全国の神社の数は約8万社。初詣、宮参り、七五三、合格祈願、神前結婚・・・・・・と日本人の生活とは切っても切り離せない。また伊勢神宮や出雲大社など有名神社でなくとも、多くの旅程には神社めぐりが組み込まれている。かように私たちは神社が大好きだか、そこで祀られる多種多様な神々について意外なほど知らないばかりか、そもそもなぜ神社に特定の神が祀られているかも謎だ。数において上位の中から11系統を選び出し、その祭神について個別に歴史と由緒、特徴、信仰の広がりを解説した画期的な書。
 第2章 天神
  天神と寺子屋と通りゃんせ
 天神と寺子屋との結びつきということでは、「通りゃんせ」の歌が思い起こされる。これは江戸時代にできた童歌(わらべうた)と言われるが、その歌詞は次のようになっている。
通りゃんせ通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちっと通して下しゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります
行きはよいよい帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ通りゃんせ
 なぜ行きはよくて、帰りは怖いのか。いろいろと想像させてくれる不思議な歌だが、天神信仰に関係するのが、「この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります」の箇所である。
 子どもが生まれると、宮参りをして、そこで氏子の一員となるというのが昔からの習俗だが、「七つまでは神のうち」ということばもあり、7歳が幼児から子どもへと成長する一つの節目になっていた。七五三の習俗も、そこから来るが、7歳になって改めて正式に氏子入りするという地域もあり、地域の子ども組に所属することとなった。若者組(わかものぐみ)や娘組(むすめぐみ)の前段階である。
 そして、この7歳くらいの時期に寺子屋へ入門し、読み書きを習うようになる。寺子屋では、学問の神として天神を祀っていて、道真が生まれて亡くなった25日に、毎月「天神講」を営み、道真の姿を描いた天神像を掲げて、それを子どもたちが拝んだ。そのことが、「通りゃんせ」の歌詞に反映されているわけである。

「図解雑学こんなに面白い民俗学」 八木透・政岡伸洋編著 ナツメ社 2004年
 第7章 ことばと遊びの民俗学
  神に守護される子どもたち
  「とおりゃんせ」の歌はなぜ怖い?
  7歳の子どもはそれまでの守護神から離れ、以後は自分の力で力強く生きてゆかねばならなかった。
●「七つ前は神の内」という伝承の意味
 まず「とおりゃんせ」の歌詞を思い出してほしい。「とおりゃんせとおりゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっと通してくだしゃんせ。ご用のないもの通しゃせぬ。この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります。行きはヨイヨイ帰りは怖い。怖いながらもとおりゃんせとおりゃんせ」。幼い頃にこの詞を聞いていいようのない恐怖心に駆られた記憶があるのは筆者だけではあるまい。なぜ「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」のだろう。
 子どもの7歳の意味を考える時、「七つ前は神の内」という伝承が重要なヒントとなる。これは7歳までの子どもは神の領域にいることを表した一種の格言である。不安定であった子どもの魂は7歳になってようやく安定し、この世に定着すると考えられていたのである。
 伊豆大島の南にある利島(としま)と新島(にいじま)では、子どもの生後14日目にハカセババアとよばれる産婆(さんば)さんが「ハカセ(博士)」という子どもの守り神を作る。ハカセは半紙を二つに折って三角形の底の部分に米を入れた簡素なものであり、子どもが7歳になるまで神棚で祀られる。子どもは7歳まではハカセがついているから危険な場所へ行っても難を逃れるといわれている。やがて子どもは7歳になると晴着を着て氏神(うじがみ)に参り、ハカセを納める。家では「七つ子の祝い」が盛大に行われる。これは子どもがハカセの守護下を離れて人間社会の仲間入りをしたことを披露する祝いであるといわれている。
 ハカセの伝承は、7歳になった子どもはそれまでの守護神を氏神に返し、以後は自分の力で災厄(さいやく)を振り払いながら力強く生きてゆかねばならないことを意味している。つまり「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」とは、7歳の宮参りの本質を今につたえているのではないだろうか。(YT)

「川越市史民俗編」 川越市総務部市史編纂室編 川越市 1968年 ★★★
 第1章 民俗/第3節 産育習俗
  23 7歳の祝い
 ヒモトキッコ
 旧川越町や朝霞市では7歳の祝いをする子をオビトキッコ、狭山市入間川・川島村中山ではヒモトキッコといい、7歳の11月15日にヒモオトシをして宮参りをする。滑川村宮前では里方から着物・帯・はきものなどが祝われ、旧田面沢村では里方から着物(四つ身)二重ねと羽織が贈られる。ヒモトキ以後は子供の着物に付けひもをつけない。ヒモトキまでは鎮守さまがついて子供を守って下さったが、以後はついていて下さらないので今までのお礼に鎮守さまに参るのだという。

「日本の神々と仏」 岩井宏實監修 青春出版社プレイブックス 2002年
 第二章 暮らしの中の神々と仏/身近な神々
  ●天神さま
――通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ……
 童謡「通りゃんせ」は天神さまへ子どもの七歳のお参りに行く様子が歌われている。
 しかし、この歌はよく聞くと怖い。「行きはよいよい、帰りは怖い」といって、こどもを捕まえてしまうのである。
 天神さまといえば、学問の神として名高い。しかし、神なのに天神さまには怖いイメージがついてくる。
 なぜなのか。
 じつは天神さまは、ほかの神とは性格と生い立ちがちがう。多くの神社は自然や神話に出てくる神や天皇を祭っている。ところが、天神さまはそのどれにも当てはまらないのである。
 天神さまはもとは天皇の臣下で、名を菅原道真(すがわらのみちざね)といった。平安時代の秀才で、認められて右大臣まで出世したエリートである。書にもすぐれ弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)や、小野道風(おののみちかぜ)らと日本の三筆に数えられる。天神さまの「学問や書道の神さま」という性格づけは、生前の道真の資質に由来している。
 道真は恵まれた人生を送るはずだった。だが朝廷の政争に巻き込まれ、落とし穴にはまる。左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん)によって九州の大宰府(だざいふ)に左遷され、あげく失意のうちに亡くなった。かれの死は、都の人々にとって後味の悪いものだった。その後、都に疫病が流行り、落雷や火災が相次ぎ、示し合わせたように道真を陥れた政敵が次々と不慮の死を遂げると、道真の怨霊の仕業にちがいないと人々は考え、その祟りにおののいた。
 当時は御霊(ごりょう)信仰が盛んだった。不遇の死を遂げた者が怨霊となって人々に祟り、疫病を流行らせ、厄難を招くと信じられていた。そのため、霊を神さまとして祭って怒りを鎮めようとしたのだった。
 道真の家があった京都の桑原(くわばら)の地だけが落雷の被害に遭わなかったこともあって、かれを火雷天神とする御霊信仰が起こった。雷が鳴ると、身を守るために「桑原、桑原」と唱えるのは、このことに由来している。のちに道真の祟りを恐れた人々は、霊をなぐさめるために京都北野にあった天神社のかたわらに霊を祭る社(やしろ)を建てたのだが、これが北野天満宮(北野天神社)の始まりでるこっこで。
 ここで、おやっと思われるかもしれない。道真の霊を祭るまえから、天神さまがすでにあったからである。じつは、天神さまはもとはあまつかみ、すなわち天の神として祭られていのだ。時が経つにつれて、天神社と道真を火雷天神とする御霊信仰がひとつになった。ややこしい話だが、このように長い時の溶炉のなかで、いろいろな信仰がひとつに溶け合ってゆくのは珍しいことではない。
 今では学問の神さまとして高名な菅原道真も、「天神さま」として祭られた当時は、何をしでかすかわからない怨霊として怖れられていたのである。

「蘇る中世の英雄たち」 関幸彦 中公新書1444 1998年
 U章 道真と将門

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 菅原道真(すがわらのみちざね)
845〜903(承和12〜延喜3)平安前期の官僚・文人
(系)菅原是善の子、母は大伴氏。(生)左京(菅原院という)。
 家学である文章道をよくし、11歳で初めて詩を詠み、15歳で刑部福主四十の賀の願文を草するほどであった。862(貞観4)文章生試に及第し、’67に文章得業生となり、ついで正六位下下野権少掾(しもつけのごんのしょうじょう)に任ぜられた。’70方略試に及第して正六位上となり、翌年玄蕃助、少内記を歴任。’74従五位下となり、兵部少輔、民部少輔、式部少輔をへて、文章博士となり、’86(仁和2)讃岐守に任ぜられるまで、諸貴族の願文を度々草し、「治要策苑」や「日本文徳天皇実録」の序を草した。さらに藤原良房・基経らとの交際も親密なものがあった。讃岐の任地での漢詩は道真のその道での一期を画するものといわれるが、この間中央では阿衡(あこう)事件がおこっており、道真も事件の調停にあたった。’90(寛平2)帰任ののち、翌年基経の死の直後に蔵人頭となり、ついで式部少輔、左中弁、左京大夫をへて、’93には参議兼式部大輔となった。この間「三代実録」の撰修、「群書治要」の侍読などに参加。その後、左大弁、勘解由長官、春宮亮(とうぐうのすけ)などをへて、’94には遣唐大使となったが、在唐中僧崔(王偏に崔)の奏状などによりその中止すべきことを奏し、停廃となった。その翌年従三位中納言となり、さらに民部卿を兼ね、長女衍子を入内させ、自らも正三位権大納言右大将となり、’99(昌泰2)には右大臣となった。翌年三善清行が辞職をすすめたが、その予想どおり901(延喜1)従二位に叙せられた直後、藤原時平の讒言により大宰権師に左遷され、’03任地で失意のうちに59歳で没した。その作品は「菅原文草」「菅原後集」などに収められているが、とくに唐の単なる模倣ではなく、日本の心情を描写したものとして著名である。その不遇な最期から、死後天神信仰などとして民衆に強い影響を与えた。
(参)坂本太郎「菅原道真」1962、大宰府天満宮文化研究所編「菅原道真と大宰府天満宮」全2巻、1975。

 通りゃんせの細道

(ブログ)天神さまの細道じゃ


あんたがたどこさ
「川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 1973年 ★★★
 1.仙波山のたぬき
 川越地方のわらべ唄にこんなのがある。
 仙波山には狸がおってさ
 それを猟師が鉄砲で打ってさ
 煮てさ、焼いてさ
そして子どもたちはこの仙波山を喜多院のある仙波のことだと思っている。しかしこれはこの唄の冒頭に
 あんた方どこさ、肥後さ
 肥後どこさ、熊本さ
 熊本どこさ、洗馬さ
 洗馬山には……。
とあるとおり熊本城下の洗馬山のほうが正しい。何でもそこには自然の湧水があって、藩中の者が馬を洗う場所だったと聞いている。もちろん川越の子供たちが仙波だと考えたって別に差支えがあるわけではなし、あながち幼い者たちの夢をこわす必要はない。
 それにしても仙波山に狸がいただろうか。「仙波川越由来見聞記」には、享保19年(1734)喜多院の慈恵堂の下にある穴を、御用懸りの平尾平三、吉岡五郎左衛門などが検分した記事がみえる。それによると穴は縁の下の西の方にあって、大きさは四、五尺位もあろうか。そのまた東の方にも穴があるが、この方は少し埋まっている。両者の距たりは約四五間あるが、どうも洞になってつながっているらしい。そこで縄を入れてみたが、横穴のために縄がうまく下りないので、今度は灯を入れて探ってみたけれども、どれほど深いものやら見当がつかない。
 ただ穴のあたりに狐か狸とおぼしき足跡が沢山あったから、多分そうしたものの棲家に違いない。そういえばこの慈恵堂の裏手の土手に大きな杉の木があるが、その根方にも穴がある。ひょっとするとこの穴から縁の下に出入りするのかも知れない。そしてこの穴のことは寺内の年寄たちにも尋ねてみたが、誰ひとり知る者がない。折よく来合わせた南の院の住職だけが、つぎのような話をしてくれた。
 何でも実海僧正が住職のときだというから、天正頃のことであろう。この縁の下に年久しい狸がいて日夜勤行を聴聞していたが、のちに新三位という僧になって慈恵堂の堂守になった。しかしある日その寝姿を人に見られ、本性を見破られてしまったので、もはや仙波にもいられなくなり、どこへともなく姿を消してしまった。何でもその新三位とやらが書いた聖教が伝わっていたが、それも先年の火事で焼けてしまって今はない。その後この狸の子孫が喜多院の山内にいたというから、大方その穴ででもあろう。近頃はとんとそんな噂も聞かないし、私もこの穴は始めてみた。
 この話から考えると昔はどうやら狸がいたことになるが、今はこんなことをいっても、誰もあまり信用してくれまい。もっとも狸がかならずしも四つ足に限らぬという解釈ならば話はまた別であるが……。

案外、知らずに歌ってた 童謡の謎2」 合田道人 祥伝社黄金文庫 2004年 ★★★
第二章 あまりに恐ろしい童謡たち
 Cあんたがたどこさ
 煮て焼いて食われたのは 誰だったのか?
一、 あんたがた どこさ
肥後さ 肥後どこさ
熊本さ 熊本どこさ
せんばさ
せんば川には えびさがおってさ
それを漁師が 網さでとってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
うまさの さっさ
二、 あんたがた どこさ
肥後さ 肥後どこさ
熊本さ 熊本どこさ
せんばさ
せんば山には
たぬきがおってさ
それを猟師が
鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で ちょいとかぶせ
♪あんたがたどこさ
(MIDI:サイト「童謡・唱歌の世界」より)
 たぬきとえび
 参勤交代が作ったわらべ歌
 なんだって? まさか。いや、待った……、そうか!
   ♪肥後(ひご)さ……
 だから、熊本県だけとは限らない。ちなみに肥後とは江戸時代には熊本、人吉(ひとよし)、宇土(うと)、高(たか)、富岡(とみおか)の5藩からなっていた。廃藩置県後にそれらが熊本県になったのだ。ということは、肥後のどこかの歌だったのか? それが違うのだ。答えは、まったく振り出しに戻る勢いのものだったのだ。
 「違いますよ。『あんたがたどこさ』は関東のわらべ歌なんです」
 この話を聞いたある町とは埼玉県川越である。先に書いたわらべ歌の「通りゃんせ」の取材の最中だった。「通りゃんせ」は、川越城内にある三芳野(みよしの)神社の天神様≠歌ったものといわれているが、「あんたがどこさ」の発祥までが、まさかここであったとは驚き!
 ただ川越に限らず、これを関東のわらべ歌としている資料はかなりあるのだ。最大の理由は、
   ♪あんたがた どこさ
    肥後さ
    肥後どこさ 熊本さ
    熊本どこさ せんばさ……
 この〜さ≠ヘ、熊本では使われない言葉であるからということなのだ。よく見てみると、この歌は問答形(もんどうけい)になっている。
   ♪あんたがた どこさ……、
 と、尋ねられてから、
   ♪肥後さ……
 と、答えている。今の時代でもあるまいし、お父さんの転勤で肥後から遠くに来て、子供たちがあなたどこから来たの?≠ニ聞くわけもないし……。でもそれがそうなんだ。あんたがた≠ニいうことは、複数をさしている。じゃあ、貧しさゆえの集団就職? または人さらい? まさか。たとえば当時の女の子が就職先やさらわれた先として行くのは、子守奉公(こもりぼうこう)か遊郭になってしまう。それならのんきに、まりついて遊んでいられるはずなどない。
 これは参勤交代のため、藩主(はんしゅ)やその家来たちの家族が江戸住まいをしていたときに、歌われた歌だとすれば納得がゆかないか? 近くに住む江戸の子供たちでもいいし、江戸城や川越城などいわゆる都会派の士族仲間の子供でもいい。どこから来たの?≠ニ、問いかける。つまり江戸弁で、
   ♪あんたがた どこさ……
 と。
 子供に限らず、大人でも都会の言葉には憧(あこが)れるものだ。方言は国の宝≠ニはいえ、子供同士であなたたちどこから来たの?≠ニ尋ねられ、わざわざ肥後でごわす≠セなんて答えやしないだろう。参勤交代で先に江戸へ来ていて、国許(くにもと)へ帰ったお姉さんたちから
 「江戸では、〜さ≠チて使うよ。〜ごわす∞〜ばってん≠ネんて使わんとよ」
 などと言われてりゃ、女の子たちはますますそんな使ったっことのない言葉を恰好いいと思ったとしても不思議じゃない。
 今の若い子たちがかっこいいじゃん≠ニか超かわいい≠チて使っているのと同じようなもんだ。今も昔も女の子は敏感なのだ。
 一般の熊本人は〜さ≠ニは使わないが、城中の参勤交代経験者の中では十分に使われていた言葉だと考えてもいい。だからこの歌は、言葉が違うという理由からだけで肥後の歌ではないとは、言い切れなくなるのだ。
 ただ、
   ♪あんたがた どこさ……
 と、尋ねるほうの子を考えるとこの歌の発祥は確かに関東だと思われてくる。だが、答えているのは、やっぱり肥後の子供でなければおかしいのだ。そしてある時期まで、この歌の主人公はやはり、たぬきではなく、えび≠セったのではないか?
 それが、ある時期からたぬき≠ノその座を奪われた。話が遠回りしたが、実はここからが川越発祥説になるのである。
 川越は、徳川家康が江戸に幕府を開いてから川越藩となり、親藩(しんぱん)として老中や大老ら大名が代々藩主となった江戸の護(まも)りの地である。この町に天長(てんちょう)7年(830年)創建の天台宗(てんだいしゅう)喜多院がある。ここの27世を継いだのが、家康の信頼が厚かった天海大僧正(てんかいだいそうじょう)だったのである。
 喜多院の境内には有名な五百羅漢像(ごひゃくらかんぞう)も残されているが、その奥にあるのが仙波山(せんばやま)とよばれる小高い丘なのだ。さらにここには明治維新のときに薩長(さっちょう)連合の東征軍が駐屯(ちゅうとん)していたので、兵士と子供たちのやり取りがこの歌を作ったとされるのである。
 兵士に向かって、
   ♪あんたがた どこさ……
 と、子供が聞いた? ちょとこの説はいかがなものかと思う。
 ただ私は、この場を訪れてみてこういうことであれば川越発祥≠烽ネきにしもあらず……と感じたのである。
 たぬきの正体、見〜つけた!
 喜多院の境内の中にある仙波山には今、東照宮(とうしょうぐう)が建てられている。仙波東照宮とよばれる。天海が寛永(かんえい)10年(1633年)に建てたものである。家康が75歳の生涯を、駿府城(すんぷじょう)で閉じたのは元和(げんな)2年(1616年)のことだ。
 遺体は家康の死んだ暁(あかつき)には……≠フ命に従って久能山(くのうざん)に移され、葬儀が執り行なわれた。その後、遺骸を久能山から日光東照宮に移す途中に喜多院に入り、4日間の法要が営(いとな)まれている。そして日光へ運ばれていったのである。
 世の中では泣くまで待とうほととぎす≠フ徳川家康のことを、その計画性の巧妙(こうみょう)さから腹黒いたぬきおやじ≠ニ形容して呼んでいたといわれることが多い。
 75歳で天寿(てんじゅ)を全(まつと)うというのも長生きそのもの。当時は人生50年。いや、それもうまく生きることができて50年という時代だった。たぬきは、生命力の強い生き物だといわれる。それがとうとう、そんなたぬきも病いには勝てず死んでいった。だから、
   ♪せんば山には たぬきがおってさ……
 と皮肉(ひにく)ったのではなかろうか。わらべ歌には、お上(かみ)に言上(ごんじょう)できない庶民の願いが歌として託されている、というものが数多い。城下で歌われていたえび≠フ歌が仙波山に引っかかり、仙波山がある川越に死んだたぬき≠ェやって来た……、と考えれば、川越説もなかなか説得力があるだろう。
 さらにたぬき≠ヘ家康でもいいのだが、そのたぬき≠キら化かしていた大だぬき≠ェ天海だったのでは? とも思えてくるのだ。
 天海は家康と近しくなる以前は、武田信玄(たけだしんげん)の下(もと)についていた。その後、信玄は、織田信長(おだのぶなが)と雌雄(しゆう)を決しようとしている最中に病いを得て死去する。信長が明智光秀(あけちみつひで)に本能寺(ほんのうじ)で死に追いやられ、明智の三日天下≠ナ豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代に移る。秀吉の関東攻略の成功により家康が関東に入国した頃、天海は家康に接近。関ヶ原(せきがはら)の戦いの勝利で家康は江戸に幕府を開く。慶長(けいちょう)8年(1603年)のことだ。
 実は天海が喜多院27世を継いだのが、関ヶ原の戦いの前年に当たる。そして家康から厚い信頼を受けるようになる。その結果、寺領4万8000坪及び500石を下され、寺勢盛んとなる。
 慶長12年(1607年)、比叡山(ひえいざん)内部の争いのときに、家康が天海を使って復興に当たらせ成功させたことで、そこらにいる坊主とは格が違う≠ニ周囲に認めさせた。このことを発端にして二代将軍秀忠(ひでただ)、三代家光(いえみつ)とも深く関(かか)わってゆくのである。
 業績を残しさらに5年後、天海は夢だった無量寿寺(むりょうじゅじ)の再興(さいこう)に着手、この際に寺を喜多院という名前に改め、ここを関東天台宗の本山(ほんざん)とさせ、自身をもっとも位の高い僧にのし上げさせた。建立された大堂には、国中の大名から礎石(そせき)をひとつずつ寄進させ、多数の仏像を京都の一流仏師に作らせた。この関東天台宗法度≠ェ幕府から発布されることにより、主導権を比叡山から関東に移させたのである。
 家康死去後も力を振るう。側近たちは神として家康のことを大明神≠ニ祀(まつ)りたいと進言したが、即刻却下。仏教界の用語権現(ごんげん)=Aつまり仏として祀らせている。権現とは、仏が身を変えて、わが国の神として現れることである。神仏習合の時代ではあったが、それでも仏教こそ神の上に立つものという思いが、ここに表われていると指摘する説もある。秀吉が大明神≠ニして祀られているから、どうしても家康には権現≠名のらせたかったともいわれている。
 さらに家康の葬儀場所、遺言にあった久能山からわざわざ遠回りさせて喜多院に寄らせ、そこから日光山へと送り出す。そしてそれから17年も後になって、仙波東照宮を造営するつ間もなくして、江戸寛永の大火である。
 江戸城はもちろん、川越も大火によって喜多院も東照宮も焼失する。しかし東照宮をすぐに直さなければと復興に着手。その際に江戸城の徳川家光御誕生の間≠喜多院の客殿として、春日局化粧(かすがのつぼねけしょう)の間≠書院として移築させた。
 しかしこれは大火を免(まぬが)れた江戸城唯一の遺構(いこう)だったのである。そんな大切なものを運ぶのだからと、川と舟の便をよくさせ、川越の町を経済的に発展させたのである。当然、川越に着いた人々は、権現様が祀られる喜多院の東照宮に足を運ぶという計算が成り立つ。
 旅人が多くなると町は栄える。仙波には茶屋まで登場する。そこで茶屋女が遊女のまねごとまでしていたとされる。遊郭の女はかごの鳥¥態の悲しい身の上だが、茶屋女は違った意味で売春して小金を稼ぐ性悪(しょうわる)女だった。
 それこそたぬき≠サのものではないか? これを推奨したのも天海だとさえいわれる。
   ♪せんば山には たぬきがおってさ……、
 やはり、大だぬき≠フ正体は天海だったのではないか? それらを見届けて天海が亡くなったとき、天海は107歳だったとも117歳だったともいう。75歳の家康も足元に及ばぬ大だぬき=A人々はこの大だぬき≠ノ踊らされている徳川家康を腹の底では、せせら嘲(わら)っていたとしたらどうであろう? 庶民の口はうるさいものなのである。
 秀吉のうまさのさっさ′v画
 鉄砲で撃たれた藩主


青い目の人形
「図説 川越の歴史」 監修/小泉功 郷土出版社 2001年 ★★
 青い目の人形と川越
 近代日本の移民は、慶応4年(1868)4月、アメリカ人の世話でドイツ商社に雇われた男女42人がグアムに移住し、141人(諸説あり)がハワイに移住したことに始まる。日清戦争開始前の明治26年(1893)までは、ハワイ政府と日本政府との契約によるハワイ甘蔗園への労働者が主だった。同31年、ハワイがアメリカに合併されるとハワイへの移民は困難となり、アメリカやカナダへの移民が急増した。自由渡航が可能で、日本国内より労働賃金が高く、生活の容易さが魅力的だった。だが、日本人の低賃金労働者がアメリカ人の職場を奪い、集団で日本人街を作る日本人への蔑視などが加わり、日露戦争前後からカリフォルニア州を中心に日本人移民排斥問題が大きくなった。外交交渉もうまくいかず、大正13年(1924)には排日条項を含む新移民法がアメリカ議会で制定され、日本人移民は禁止された。以降、日本では明治41年から始められたブラジル移民と、東洋拓殖会社と南満州鉄道株式会社をテコとした朝鮮と満州への「殖民」(強引な農業移民)政策が進んだ。
 日米関係悪化の中、明治21年から大正2年まで日本に滞在したシドニー=ルイス=ギューリックは、大正15年に世界国際児童親善会を作り、人形を日本に贈る計画を立てた。日本では昭和2年2月に渋沢栄一を会長とする日本国際児童親善会が作られ、ギューリックの計画を支援した。同年3月3日の雛祭りに間に合う形で、アメリカの子どもたちから1万2,739体の「青い目の人形」が到着した。人形には「友情の手紙」が添えられ、ギューリックからの「アメリカの子どもたちへ手紙や美しい日本の絵葉書、学校・家庭などの写真を送ってやってください」のメッセージもあった。埼玉県には178体の人形が配布され、4月4日に埼玉会館で人形歓迎会が開かれた。川越地域では、川越、川越第一、川越第二、川越第三、霞ヶ関、芳野、古谷、南古谷、日東の各尋常高等小学校(現川越第一、川越、中央、仙波、霞ヶ関、芳野、古谷、南古谷、大東西の各小学校)、名細北尋常小学校(現名細小)、川越幼稚園に贈られた。
 その後、クリスマスに間に合うよう、日本から「答礼人形」を贈ることになった。制作費をこどもから1銭ずつ出してもらって各府県で最低1体の人形を作り、日本のこどもたちの手紙を添えることが計画された。埼玉県で作られた答礼人形は、渋沢栄一によって、「秩父嶺玉子」と名づけられ、昭和2年10月15日に埼玉会館で送別会が行なわれた。全国で58体の人形が作られ、同年11月4日に明治神宮外苑の日本青年館で人形の送別会が行なわれた。アメリカに贈られた答礼人形は現在も39体が存在するが、日本に贈られてきた「青い目の人形」は、昭和16年からのアジア太平洋戦争を機に憎悪の対象とされ、多くが焼却されたり破壊されたりした。そんななか、心ある人たちによって守られた「青い目の人形」が、全国で286体(県内に12体)現存している。
(堀口博史)

「唱歌・童謡ものがたり」 読売新聞文化部 岩波書店 1999年 ★★
 青い眼の人形 (作詞・野口雨情/編曲・本居長世)
青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港へついたとき 一杯涙をうかべてた
「わたしは言葉がわからない 迷い子になったらなんとしょう」
やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ
仲よく遊んでやっとくれ
♪青い眼の人形
(MIDI:サイト「童謡・唱歌の世界」より)

  (前略)
 『青い眼の人形』は、作曲者の本居長世が娘の三人姉妹と全国公演し、爆発的に流行した。そこへ、アメリカから海を渡り1万2千体の人形が日本にやって来たのだから、偶然とは不思議なものだ。
 「友情の人形」の到着は1927年。キューピーでこそなかったが、日系移民排斥運動に心を痛めたアメリカ人、ギューリック博士の呼び掛けによって、童謡と同じ国際親善の願いを込めて贈られたものだった。
 茨城県古河市の古河幼稚園に残るメリーも、この友情の人形の一つ。
 「『青い眼の人形』の童謡でお遊戯をして、歓迎しました。懐かしいねえ」。当時園児だった園長の丸山悦(76)は、振り返る。
 同様の歓迎の光景が、人形の届いた各地の小学校や幼稚園で繰り広げられたことだろう。
 このとき、歌のライバル≠煬サれた。文部省側は『青い眼の人形』は感傷的すぎると考えたらしく、『故郷』の高野辰之に『人形を迎える歌』を作らせている。
 しかし『迎える歌』は当時の式典だけで忘れ去られ、後世まで残ったのは『青い眼の人形』だった。「友情の人形を迎えるため、『青い眼の人形』が作られたという誤解も多い。親しまれた歌の持つ力でしょうね」。友情の人形を調査する作家、武田英子(67)は感心する。
 人形と童謡の友好の祈りが、昭和の世相に歓迎されたのもつかの間、戦争の時代の足音に、次第にかき消されていった。日米が開戦すると、「鬼畜米英」の象徴として火あぶりにされた友情の人形もあった。子供たちの歌も、軍事色一色に塗りつぶされた。
 普遍的な愛を人形に託した雨情。在米日系人の望郷の涙を見た長世。戦争賛歌を童心に歌わせる時代を、どんな思いで生きたのか。
 雨情は45年1月、自由に同様が歌われる戦後を知ることなく、疎開先で静かに息を引き取った。長世は空襲相次ぐ東京でピアノまで手放し、「病気もあって生きる気力を失い、死後に自分の歌は歌われると話していた」(三女の若葉)という。同年10月の他界後、机から見つかった遺作は、『終戦賛歌』と題されていた。
 日米の人形交流は80年代以降、祖父の志を継いだギューリック三世がかかわって再開され、数多くのドラマを生んでいる。その交流の場面で決まって歌われるテーマソングがある。国境や時代を超えて<仲よく遊んで>と祈り続ける、雨情と長世の童謡だ。
(佐)

「横浜殺人事件」 内田康夫 角川文庫 2002年
 「赤い靴はいてた女の子はどこへ行ったか知りませんか?」横浜テレビの看板レポーター山名めぐみが殺された。最後に取材したVTRを見た浅見光彦は彼女のインタビューが事件の鍵を握ると睨む。「赤い靴」と「青い眼の人形」、二つの童謡に隠された謎とは? また金沢八景で死んでいた会社員浜路恵一と事件の関連とは? 異国情緒漂う横浜の街を舞台に、テレビスタッフの藤本紅子、浜路智子、浅見の三人が事件の真相を追う!

 あの歌、この歌、童謡・唱歌・わらべ歌 歌集   童謡・唱歌の世界


 ▲目次  サイトマップ  トップページ  →   歌と文学(2)  文学散歩1  文学散歩2  島崎藤村と川越


作成:川越原人  更新:2022/04/01