島崎藤村と川越

藤村と川越に関する本の紹介とリンク集です

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島崎藤村
「夜明け前」第1・2部(各上・下) 島崎藤村 新潮文庫 1954・1955年 ★★
 明治維新前後に働いた庄屋、本陣、問屋の人たちを中心に、作者の父島崎正樹にあたる青山半蔵を主人公として書いた小説。
 半蔵が江戸へ出たとき、本所相生町の親子三人暮らしの家に置いてもらった。 その家の亭主多吉は、深川の米問屋へ帳附に通い、俳諧の道に遊ぶような人であるが、生れは川越で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であった頃には、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。
 かみさんのお隅は、多吉が古い暖簾もたたまねばならなくなった時、草鞋ばき尻端折りになって「おすみ団子」というものを売り出したこともあり、江戸に移り住むようになってからも、夫を助けて運命を開拓しようとしている健気な婦人である。 このお隅には、こんな話もある。
彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越の方に暮していた頃のことだ。当時、御国替の藩主を迎えた川越藩では、厳しい御触れを町家に廻して、藩の侍に酒を売ることを禁じた。 百姓町人に対しては実に威張ったものだという川越藩の新しい侍の中には、長い脇差を腰にぶちこんで、ある日の宵の口にひそかに多吉が家の店先に立つものがあった。 ちょうど多吉は番頭を相手に、その店先で将棋をさしていた。 いきなり抜身の刀を突きつけて酒を売れという侍を見ると、多吉も番頭もびっくりして、奥へ逃げ込んでしまった。 その頃のお隅は十八の若さであったが、侍の前に出て、凄い権幕をも畏れずにきっぱりと断った。 先方は怒るまいことか。そこへ店の小僧が運んで来た行燈をぶち斬って見せ、店先の畳にぐざと刀を突き立て、それを十文字に切り裂いて、これでも酒を売れないかと威しにかかった。 何と言われても城主の厳禁をまげることは出来ないとお隅が答えた時に、その侍は彼女の顔を眺めながら、「そちは、何者の娘か」と言って、やがて立ち去った。
 巻末の年譜によれば、
昭和3年(1928年)56歳 4月『夜明け前』執筆準備のため、木曽路を旅行する。11月、「処女地」の同人だった加藤静子と再婚。
とあります。
この加藤静子の母加藤みきの墓が川越の中院にあります。 

感想集 桃の雫」 島崎藤村 岩波書店 1936年 ★
六十歳を迎えて/路/生一本/大きな言葉と小さな言葉/昭和六年のはじめに/寝物語/回顧/第三の目/交通の変革が持ち来すもの/町人峰谷源十郎の覚書/笑/ごめん下さい/餞の言葉/東歌/澤木梢君のおもひで/『根岸の鶯』/秋草/このごろの日課/小半日/伊香保土産/京都日記力餅/三義鳩の記/煙草/破屋/文章を学ぶものゝために/世咄/老子/パスカル/杜子美/芭蕉/本居宣長/トルストイ/チェホフ/バルザック/ゾラ/岡倉覚三/鴎外漁史/シェークスピア/応援の辞/世界文学大辞典/愛兒読本/文壇出世作全集/木の実、草の実/著作者としての自分の出発/二つの像/婦人の笑顔/TERRE/覚書/昼寝/ある人へ/雪の障子/紫の一もと/人工の翼/歴史と伝説と実相/牧野信一君の『文学的自叙伝』/好き距離/日本海と太平洋
 
生一本
 あるところより、日本最古の茶園で製せらるゝといふ茶を分けて貰った。日頃茶好きなわたしはうれしく思って、早速それを試みたところ、成程めづらしい茶だ。往時支那人がその実をこの園に携へて来て製法までも伝へたとかいふもので、大量に製産する今日普通の機械製とちがひ、こまかい葉の色艶からして見るからに好ましく、手製で精選したといふ感じがする。まことに正味の茶には相違ないが、いかに言っても生一本で、灰汁が強い。それに思ったほどの味が出ない。わたしは自分の茶のいれかたが悪いのかと気づいたから、丁度茶の道に精しい川越の老母が家に見えてゐるので、この老母に湯加減を見て貰った。香も高く、こくもある割合には、どうも折角の良い茶に味がすくない。自分の家の近くには深山といふ茶の老舗があって、そこから來るものは日頃わたしの口に適してゐるので、試みに買置きの深山を混ぜて見た。どうだろう、実に良い風味がそこから浮んで来た。その時の老母の話に、茶には香にすぐれたものと、味にすぐれたものとの別がある。一體に暖国に産する茶は香気は高くてもその割合に味に劣り、寒い地方に産する茶は香気には乏しいがこまやかな味に富むといふ。この老母に言はせると、おそらく深山のやうな老舗で売る茶は多年の経験から、古葉に新葉をとりまぜ、いろいろな地方で産するものを塩梅し、それに茶の中の茶ともいふべき『おひした』(味素)を加味して、それらの適当な調合から香もあり味もある自園の特色を造り出してゐるのであろうとの話もあった。
   (後略)
寝物語
   三
    (前略)
 わたしの家には今、埼玉の冬を避けに出て来た川越明仁堂の老母がいる。この年とった婦人が自分の父親から聞いた話だとして、小紋の染模様の意匠を遠く在原業平の昔にまで持って行ってみせた。老母の口吻によると、業平はよほどの洒落者であったと見えて、鼠地の衣裳の上に白い雲の振りかゝったのをおもしろく思い、それを模様に染めさせたのが、そもそもの小紋のはじめであると、その道の人の間にいい伝えられて来たとか。業平小紋なるものがそれだともいう。この話をある人にしたところ、こういうことには兎角附会の説が多いから、業平小紋もおそらく伝説的な形容の言葉であろうと言っていた。兎もあれ、小紋を着るに最もふさわしく思われるのは冬の日だ。雪やあられと同じ灰白な色調を着て徘徊した時代もあったと考えて見ただけでも、そこにいいあらわしがたい風情が浮かんで来る。
   (後略)
京都日記
六月八日。
 川越の老母、昨日上京。わたしたちの京都行が川越へも知らせてあったので、留守居かたがた出て来て呉れた。家内の実母は根が東京の人であるところから、わたしの仕事のあいまを見ては、一年に四度づゝはかならず上京し、吾家に滞在することを楽みにしている。
   (後略)
力餅
    (前略)
 金剛力というべきものが人間の大きい体躯にのみ宿るとは限らないようだ。むしろそういうすぐれた力の持主というものは、背とてもあまり高くなく、どちらかと言えば小柄な人の方にあると聞くのもおもしろい。不思議な縁故から、わたしは、川越の隠居を通して真庭流の剣客、故樋口十郎左衛門という人の平生をすこしばかり知る機会を持ったことがある。この剣道の達人は好きな蕎麦など人並はづれて食い、台所に置く昔風な銅壺附きの二つ竈ぐらいは楽々と持ち運び、夜中の半鐘に眼をさまして、それ火事だと聞きつける時は、明治初年の頃まで東京の町々の角にあった木戸を飛び越えるくらいの早業を平気でして、まことに不思議な力の持主であった。しかも平素それを人に誇る気色もなかったということで、人もまたこの一芸に達した剣客がおよそ何程の力を貯えているのやら測りかねていたところ、ある日、ふとしたことから夫婦で争った際に、さすが曲者の正体をあらわした。
 十郎左衛門は寡黙の人であったから、口に出してそう争おうとはしなかったが。そのかわり対い合って坐っている細君の膝の下へ両手をさし入れたかと思うと、いつのまにか細君のからだは庭の真中へ飛んでいたという。しかもすこしも細君を傷つけることなしに。そういう十郎左衛門その人がまた、至って小柄、小造の男であったとも伝えられる。
   (後略)
覚書
    (前略)
 異国の教授の上ばかりでなく、過ぐる七年の月日の間に亡くなった老幼の旧知を数えて見ても驚かれるばかり。小山内薫君、岡野知十君、いづれも今は故人だ。根岸の岡崎孝之助君は旧姓池田と言って、高橋の河岸の角に薪炭問屋を営んでいた岡崎家を相続した人で、高橋数寄屋河岸の泰明小学校へ通って来られた頃はわたしも共に机を並べた少年時代からの友達であるが、その人なつこい性質は年を取っても変りがなく、時にはこれは昔の岡崎と思えと言って記念の置時計を持って来て呉れたり、時には互いにいそがしいからでも一つどうかいう日を見つけて湯河原あたりへ骨休めに同行したいものだと言い出したりして、ことしの蜜柑の黄色くなる頃こそはと、その約束までしてあったのに、この旧い馴染も最早この世にはいない人だ。不思議な縁故からつながれるようになった浦島堅吉老人、幼い加藤二郎さん、川越の老母、この人達もまた亡き数に入ってしまった。殊に、川越の老母は東京生まれの人であったところから、自分の長い仕事が一ト切りになる頃を見計らっては、一年に四度づゝは必ず東京町中の空気を吸いに、上京することを楽みにし、『はい、今日は』とでも言うべきところを、『はい只今』などゝ言うほどにしてわれらが家の格子戸をくゞり、昨年、一昨年、一昨々年の冬もわれらと一緒に年を越して、短くても二十日、どうかすると三十日も四十日も長く家に逗留したものであった。この老母まことに者話はおもしろく、茶と音曲と料理の道にも明るく、かずかずの美しい性質を具えていたことは稀に見るほどの老婦人で、自分が長い仕事を終るまでは是非達者でいると言い言いして、ことし六月の上京をも心待ちにしていたということであったのに実に惜しいことをした。
   (後略)

「埋もれた日本」 和辻哲郎 新潮文庫 1980年
倫理学に、哲学に、歴史学に、数々の業績を残し、今なお学会の雄峰としてそびえる和辻博士の随想等二十編を収める。身辺について語ることの少なかった博士が、恩師について、友人について、また京都の美について、筆のおもむくままに書き綴った貴重な随想集である。
 藤村の思い出
  (前略)
 若いころに私が藤村と接触したのはその程度であるが、大正の末に京都に移った後、偶然の機縁で新しい接触の道が開けた。それは新しい藤村夫人静子さんを通じてである。
 そのころ私の家では静子さんの親しい友人の伊吹信子さんとなじみになり、昭和の初めごろ信子さんは私の家に住んでいた。静子さんはその前から藤村の飯倉片町の家に家政婦のようにして住み込んでいたのであるが、いよいよ結婚しようかと思うということで、信子さんに相談するために京都へ見え、私の家に泊られたことがあった。それで私の家でも静子さんと知り合ったのである。
 静子さんはある意味ではちょっと風変わりの、現代に珍しい婦人である。全身が藤村崇拝の結晶のようで、文字通りにおのれの一切を創作家藤村にささげた人であった。ちょうどそのころ、藤村は『夜明け前』の準備に取りかかっていたのであるが、静子夫人はそういう創作活動が自由にのびのびとできるようにと、ただそれだけに努力を集中した。衣食住の一切のことから、さまざまの人間関係に至るまで、藤村の趣味や性向を絶対の権威として、すべてをそれに合わせるように努めた。それはいわば奴隷の態度であるが、静子さんはみずから進んでその態度を取ったのである。
 藤村は相当に殻の固い人であったし、その趣味や性向もかなり独自であったから、それを絶対の権威としてその世界の中に閉じこもっている静子さんの姿は、外から見るとちょっとおかしくも見えたが、しかし創作家である藤村にとってはこれは非常な慰めであったろうと思われる。創作に熱中している時には、人事関係のきしみなどは非常に煩わしく感ぜられるであろうが、そういう煩いはすべて静子さんが引きうけ、藤村をいつも藤村崇拝の雰囲気で包んでおこうとしていたように見えた。藤村がその自伝的小説のなかで詳しく描写しているさまざまの煩累も、静子夫人の努力で、よほどその圧力を減じていたであろう。『夜明け前』の読者は、この作が従前の藤村の作よりもよほど明るくなっていることを気づくに相違ない。
  (後略)

「島崎藤村」 平野謙 岩波現代文庫 2001年 ★
晩年の藤村

「幸せ暮らしの歳時記」 藤野邦夫 講談社文庫 2000年
8月22日 藤村忌

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 島崎藤村(しまざき とうそん)
1872〜1943(明治5〜昭和18)明治・大正・昭和期の詩人・小説家。

藤村義母の墓
「埼玉文学探訪」 朱樓藝文會編 紅天社 1969年 ★★
二 県西文学探訪
 藤村義母の墓碑 川越小仙波町
 藤村年譜によると、大正十四年の項に六月より「藤村読本」(全六巻)を「処女地」同人たりし加藤静子を助手として編む≠ニある。
 「処女地」は島崎藤村を中心として大正十一年に創刊された婦人雑誌であるが、この加藤静子はのちに藤村夫人となったひとである。
 やはり年譜を見ると昭和三年十一月加藤静子と結婚、十二月埼玉県川越に義母を訪ふ≠ニ記されている。昭和三年といえば、藤村が畢生の大作「夜明け前」の準備に着手したころである。
 この藤村夫人は川越と縁が深く、夫人の生母・加藤みきは茶道をよくしたが、その生涯を川越に送った。お互いに深く心に通うものがあったのであろうか、藤村は夫人とともに折に応じて川越を訪れているし、またみきさんも時々上京して藤村宅を訪れており、相互に往来がしばしばであった。
 特に昭和七年には義母(みき)七十歳の祝いに藤村夫妻は川越を訪れ藤村は自作のいろはかるたを義母に贈っている。例えば「犬も道を知る」「櫓は深い水、棹は浅い水」「鼻から提灯」「鶏のおはようも三度」「星まで飛べ」……といったものであり、藤村の精神の諧謔な一面を知る上に参考となる。
 みきさんは昭和十年五月に七十三歳で没し、藤村夫妻により川越中院に埋葬された。その白い御影石の墓塔には、藤村の自筆による「蓮月不染乃墓」が刻まれている。この蓮月不染とはみきさんの茶道方面の名にちなんだものである。
 中院の楼門を入ってゆくと、釈迦堂のすぐ左にひっそりと立っている。それは藤村の枯淡の筆跡といかにもふさわしく、またみきさんの人柄をよくしのばせているようである。(I)

「埼玉の文学めぐり」 関田史郎 富士出版 1972年 ★★
 藤村義母の墓
 島崎藤村は、明治四十三年妻の冬子が亡くなってから、二十年ほど経って、加藤静子と再婚した。藤村五十六歳、静子三十二歳であった。藤村が、大正十一年雑誌「処女地」を創刊した時、静子は河口玲子の筆名で参加していたし、また十四年「藤村読本」を編集した時援助している。藤村のよき理解者だった。
 その夫人の母を加藤みきといい、川越出身だった。藤村は、義母と折り合いがよく、夫人とともに、よく川越を訪れた。みきさんも藤村の飯倉宅に、出かけたらしい。昭和十年、みきさんは亡くなり、川越の中院に埋葬された。
 その墓石の文字が、藤村によって書かれた。釈迦堂の左に、白御影石で建てられている。表に「蓮月不染乃墓」。裏に、昭和十年五月没、加藤みき、七十三歳とある。戒名は茶道の名からとったらしい。藤村らしい、実直な感じのいい筆蹟である。

「新埼玉文学散歩・上」 榎本了 まつやま書房 1991年 ★★
 島崎藤村義母の墓
 島崎藤村は、明治四十三年に妻の冬子がなくなってから、二十年ほどたった昭和三年十月(ママ)、加藤静子と再婚した。藤村五十六歳、静子三十二歳であった。藤村が大正十年、雑誌「処女地」を創刊した時、静子は河口玲子の筆名で参加していた。また大正十四年に「藤村読本」(全六巻)を編集した時の助手をしている。藤村のよき理解者であった。
 静子の母は加藤みきといい、川越の出身で、茶道をよくし、その生涯を川越に送った。藤村は義母との折り合いがよく、静子と共によく川越を訪れた。義母も藤村の飯倉宅に出かけたらしい。昭和十年五月に七十三歳で義母は亡くなり、川越市小仙波の中院に埋葬された。
 その墓石の文字が、藤村によって書かれた。中院の楼門を入っていくと、釈迦堂のすぐ左にひっそりと立っている。石は白御影石で、表に「蓮月不染乃墓」、裏に昭和十年五月没、加藤みき、七十三歳とある。戒名は茶道方面の名からとったものである。
 ※現在、墓は釈迦堂のすぐ左ではなく、南側の塀に沿って南面している墓地の最も東側にある。

「川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 川越歴史新書5 1973年 ★★★
37.蓮月不染の墓
 「日本医事新報」の杉野大沢氏が訪ねてきて
 「島崎藤村が字を書いた墓が川越にあるのをご存じですか」
と聞かれたが、正直のところ知らなかった。
 「ついどうも、うっかりして……」
といって話を聞けば、藤村の二度目の夫人静子さんのお母さんの墓だという。それなら川越の人だと前から知っていたし、あり得るわけだと、さっそく連れ立って中院にいった。楼門を入って釈迦堂の左に白い御影石の莫塔があり、表に
 蓮月不染乃墓
裏に
 昭和十年五月廿二日没、加藤みき、七十三歳
と誌してある。この戒名も藤村がつけたものだというが、おなじみの藤村らしい筆跡の特徴がよく出ており、いかにも優雅な墓である。
 加藤みきは川越の生れであるが、はやく郷里を出て東京京橋の采女町に産婦人科を開業していた浦島堅吉と結ばれた。この浦島堅吉は国木田独歩の愛人佐々城信子が独歩の胤を宿したとき、自分の病院にほそかに入院させて面倒をみた人である。大正十二年の震災で鎌倉に隠退、その地で昭和七年二月に他界している。
 浦島堅吉と加藤みきとの間には大一郎、忍平、静子、他にもう一人の女子と、都合四人の子女があったが、いずれも東京神田猿楽町三ノ二で生れている。しかしちょっとこみ入った事情があって、これらの子ども達はみな浦島姓を名乗らず、母方の加藤姓を称していた。
 長兄の加藤大一郎は独逸協会中学から一高、東大と進学して大正五年に卒業、その後浦島病院の内科主任として大正十二年の震災まで通勤していた。母の加藤みきを伴ってその郷里川越に移転してきたのは同年の十二月であった。これが黒門町の明仁堂医院であって、患者のうけもよく相当に繁昌した。けれども生来あまり頑健でなかったところへ、医業があまり多忙だったためか、昭和二十年一月に六十一歳でなくなられた。子供は三人あったが、みなそれぞれに生長して、現在では大一郎氏の未亡人ひとりが同所に住んでおられる。
 一方加藤大一郎氏の妹静子は、島崎藤村が大正十一年に発刊した婦人雑誌「処女地」に同人として参加、河口玲子の筆名で文筆もふるい、ときおり藤村の仕事を手伝ったりして早くから交渉があった。
 藤村が先妻冬子を歿くしてから四人の遺児を育てながら、二十年近い独身を通してきたことは著名であるが、子供たちも一応立身した昭和三年に静子夫人を迎えて新家庭をつくった。ときに藤村が五十七歳で、夫人は三十三歳であった。藤村としては子供たちの手前、若い後妻を迎えることは何か面映ゆかったらしく、この頃の微妙な心の動きはその随筆によって知られる。
 昭和十一年に藤村夫妻は世界ペンクラブ大会に出席するため、有島生馬などと南米に旅立ったが、そのときの挨拶状に記した留守宅の宛名は川越市黒門町加藤大一郎方であった。また昭和十八年八月二十一日に藤村が歿くなってから、未亡人となった静子夫人は戦後しばらく川越に身を寄せた。兄大一郎氏はすでに他界した後であるが、やはりこの黒門町の実家であった。現在は神奈川県大磯に住んでおられとのことだ。
 つづいて藤村の義母にあたる加藤みきの人となりについてふれておこう。藤村と静子夫人の関係が前記のようであるから、母堂のみきも早くから藤村を知っていた。それが正式の結婚後は年譜にもあるように「川越の老母、時々上京して飯倉の家に逗留」「この年の六月川越の老母死去」とかあるように、藤村にとっても因縁の浅からざる存在となった。
 とりわけ加藤みきは昔かたぎなしっかりした性格だったので、ものごとに几帳面な藤村とは気分的にうまく合ったようだ。東京の下町に育っただけに話題も豊富だし、適当に冗談を飛ばすことも忘れなかった。また記憶が確かで昔の人の感情や着物の模様、食物の変遷などにもよく通じていたため、藤村も興味深下に耳を傾けることが多く、「夜明け前」の細部の描写などには、これが大いに役立ったという話である。
 さらに茶の湯の造詣も深かったので、藤村は時に老母のお点前によって創作の疲れを癒すこともあったらしい。何にせよ藤村がこの老母の性格をこよなく慕ったことは相当なもので、昭和六年に老母が重い病気にかかったときは、自身川越まで見舞に訪ねている。一説には藤村は実母に対する愛情が種々な事情で絶えたので、そのぶり川越の義母加藤みきによって、母性愛の空虚をみたされたのだともいわれている。
 蓮月不染――なかなか味のある墓碑銘で、様々のことを考えさせるものがある。近代文学遺跡の少ない川越にとっては、藤村関係の文化財として見逃すことのできないものであろう。

「さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景 朝日新聞さいたま総局編 さきたま出版会 2009年 ★★
「夜明け前」 島崎藤村
 「川越の老母」の墓 ひっそりと
 <木曽路はすべて山の中である>――島崎藤村(しまざきとうそん)の大作『夜明け前』は、有名なこのひと言で始まる。
 一九二九(昭和四)年から六年余をかけて雑誌「中央公論」に分載された。中山道は馬籠の本陣・庄屋の当主だった実父をモデルとする青山半蔵が、明治維新のために奔走した末に心を病み、五六歳の生涯を終えるまでを、膨大な資料を織り込んでつづった小説。
 川越が、舞台になっているわけではない。川越の大きな店をたたんで江戸に出た一家(多吉、お隅夫婦と一女)の家に、半蔵が前後三度ほど寄宿。温かな交情ふりが随所に描かれる。
 この話を、藤村は二人目の妻静子の母、加藤幹(みき)に聞いた事実をもとに仕立てたのだ、といわれる。
 幹は川越藩士の家に生まれ、東京に住んでいた時に関東大震災(一九二三・大正十二年)に遭い、医者の長男らと一緒に川越に戻った。料理や茶もよくする教養人だったと伝えられる。一九二八年の結婚以来、藤村も「川越の老母」などとよんで敬愛、「不染亭(ふせんてい)」と名付けた茶室をプレゼントし、一九三五年に七三歳で幹が亡くなると、その墓に「蓮月不染之墓」と自ら揮毫(きごう)した。
 地元の藤村研究家・尾崎勝美さん(68)によると、黒門町(現新富町)にあった加藤家を、藤村は「わかっているだけでも七回は訪れている」。
 一八九四(明治二七)年創業の割烹(かっぽう)旅館「佐久間」(松江町)もひいきにした。「少なくも六回、いつも何日かお泊まりになった。私は旧制中学生。恐れ多くて遠くから眺めるだけでしたが、白足袋をはき、もの静かな方でした」と、動物学者でもある三代目当主の佐久間勇次さん(84)。『夜明け前』の最終章が書き上げられたのも、この「奥の間」だった。
 それが、今。幹が住んだ家は高層マンションに変わり、玄関近くに小ぶりな「藤村ゆかりの地」の碑が立つだけ。不染亭は菩提寺(ぼだいじ)の「中院(なかいん)」(小仙波町)に移され、幹の墓とともにひっそりとたたずんでいた。同じ市内にありながら、観光客がひきもきらない「蔵の街」などは別世界のようだ。
 幹の縁者は、誰も川越にいないという。
(二〇〇八年一一月一一日)

(Memo)島崎藤村(一八七二〜一九四三)は明治学院卒業(一八九一年)後、北村透谷らと「文学界」を創刊。「若菜集」で新体詩人の位置を確立し、のち小説に転じ、『破戒』や『春』『家』などで自然主義文学の方向を決定づけた。加藤幹については感想集『桃の雫』(一九三六年刊)の「寝物語」「京都日記」「力餅」などで触れている。

 中 院


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作成:川越原人  更新:2021/01/27