テキスト名 | 年 代 | 篆額・題額 | 文 | 書 | 刻 | 出典・石碑所在 | 開催年月日 | |
1 | 濯紫園記 | 文化3年(1806)4月6日 | 大梁原信 | 青陵海保皐鶴 (海保青陵) | 大梁原信 | 掛軸:川越市立中央図書館蔵 | 2017/11/19,12/3、2018/1/21、2/4 | |
2 | 武蔵国川越城漏鐘銘并序 (時の鐘銘文) | 明和7年(1770)9月 | 川越儒士臣斉藤允升 | 「記録」(前橋市立図書館蔵) ・『川越藩松平大和守家記録2』 | 2018/4/8,5/6、6/3 | |||
3 | 河越善行録跋 | 文政庚辰年6月 | 河越 楽水堂道意 | 川越市立博物館蔵 | 2018/7/1 | |||
4 | 尺牘(せきとく) <中島孝昌> | 市立図書館蔵(K900-N.34,1580) | 2018/8/12 | |||||
5 | 文考冊序<中島孝昌> | 北山 山本信有 | 董堂敬義 | 市立図書館蔵(K900-N.34,1580) | 2018/9/23 | |||
6 | 川越城跡碑(案文) | 明治30年(1897)8月 | 大勲位功四級 載仁親王 | 錦□(けい)間祇侯正三位勲二等 辻新次 | 錦□(けい)間祇侯正三位勲二等 野村素介 | 山崎松寿 | 案文:市立博物館蔵 石碑:富士見櫓跡 | 2018/10/14,11/4 |
7 | 酔春亭記<中島孝昌> | 青陵海保皐鶴 | 2018/12/9、2019/1/6 | |||||
8 | 事後継志録序 | 宝暦9年(1759)11月 | 吉田世子信礼 | 『続々群書類従』(明治44年) | 2019/2/10、3/3 | |||
9 | 祭朏解 | 青陵海保皐鶴 | 「さくらのにほひ」(館蔵) | 2019/4/7 | ||||
10 | 校刻日本外史序 | 天保15年(1844)8月 | 保岡孚(保岡嶺南) | 川越市立博物館蔵・松平家文書 | 2019/5/5 | |||
11 | 寅齋家君之墓 (川越藩家老岩田彦助墓碑) | 享保19年(1734)5月18日 | 岩田種徳 | 博物館図録『譜代大名秋元家と川越藩』p50、墓は養寿院 | 2019/6/9 2025/3/2A(2回目) | |||
12 | □蘭臺大父故紙碑 | 嘉永3年(1850)8月 | 孝孫三玄 | 孝孫三玄 | 広群鶴 (広瀬群鶴) | 石碑:妙養寺境内 □:うづムル | 2019/7/7 | |
13 | 故川越城主馨徳源公神道碑銘 | 天保15年(1844)正月8日 | 保岡孚 | 朝岡穆謹 | 石碑:喜多院・松平大和守家廟所 | 2019/8/11,9/23 | ||
14 | 故川越城主俊徳源公神道碑銘 | 天保6年(1835)12月 | 石井文衷 | 久保隆文 | 石碑:喜多院・松平大和守家廟所 | 2019/10/6、11/17 | ||
15 | 故川越城主従四位上行左近衛権少将兼大和守興国源公神道碑銘 | 慶応2年(1866)5月 | 保岡孚 | 戸井田廣 | 石碑:喜多院・松平大和守家廟所 | 2019/12/9,2020/1/18、2/9、6/7、7/7 | ||
16 | 故川越城主従四位下行侍従兼大和守建中源公神道碑銘 | 慶応2年(1866)10月 | 保岡孚 | 戸井田廣 | 石碑:喜多院・松平大和守家廟所 | 2020/8/9、9/6 | ||
17 | 神祠一新記 | 明治27年(1894)10月 | 蘇水利根川尚方 | 蘇水利根川尚方 | 富沢義久 | 石碑:元町1丁目稲荷神社境内 | 2020/10/11 | |
18 | 不二庵榊原翁寿碑 | 明治29年(1896)7月 | 鴻斉居士石川英 | 松琳藤延 | 山崎鶴年 | 石碑:野田神社境内 | 2020/11/8 | |
19 | 松郷沿革之記 | 明治22年(1889)11月 | 山田遜書 | 利根川蘇水 | 山田遜書 | 山崎鶴年 | 石碑:川越熊野神社境内 | 2020/12/6、2021/1/17 |
20 | 祖前甃石碑 | 明治32年(1899)6月 | 市河三兼 | 市河三兼 | 市河三兼 | 吉野豊 | 石碑:川越別院成田山本行院境内 | 2021/1/17 |
21 | 修石像記 | 明治31年(1898)2月 | 東京青巒居士 大内退 | 東京青巒居士 大内退 | 石碑:喜多院五百羅漢内、拓本写真:『写真集 川越忌憚五百羅漢」』P136後 | 2021/3/7、4/11 | ||
22 | 石造参尊五百羅漢記 | 享和3年(1803)11月 | 僧正慈等 | 石碑:喜多院五百羅漢前、拓本写真:『写真集 川越忌憚五百羅漢」』P134後 | 2021/4/11、6/6、7/4 | |||
23 | 星野霊刹 (星野山無量寿寺喜多院沿革碑) | 明治37年(1904)1月 | 叡嶽安楽律院兼東台浄名院大和尚 妙運 | 本院五十四世現董兼叡嶽宝園学督国師大僧正 慈熏 | 東台円珠沙門僧都 義良 | 吉野豊 | 石碑:喜多院境内 | 2021/7/4,8/8 |
24 | 威稜徳潤碑 | 明治9年(1876) | 東京逸老 萩原秋巌 | 河越迂人 佐佐泉翁 | 東京逸老 萩原秋巌 | 広瀬群鶴 | 石碑:川越別院成田山本行院境内 | 2021/9/5 |
25 | 範士中井翁碑 | 大正2年(1913)2月 | 元帥正二位伯爵 伊東祐亮 | 法学博士 高田早苗 | 東台沙門 杉谷義良 | 小池銀次郎 | 石碑:喜多院境内 | 2021/10/3 |
26 | 親塚稲荷神祠碑 | 天保10(1839)年4月 | 従四位町田久成 | 沼田順義 | 九十一歳 柳田貞亮 | 広群鶴 | 石碑:烏山稲荷神社境内 | 2021/11/14 |
碑陰記 | 明治20(1887)年4月 | 新井政毅(まさはた) | ||||||
27 | 鈴木政足之碑 | 明治12(1879)年6月 | 旧川越藩主従五位松井康載 | 福山和一 | 西川元譲 | 広群鶴 | 石碑:三芳野神社境内 | 2021/12/5 |
28 | 相場少佐之碑 | 明治27(1894)年12月 | 郷友陸軍歩兵大佐従五位勲三等浅田信興 | 戦友陸軍歩兵大尉正七位勲四等 津田教修 | 冨澤久長 | 石碑:三芳野神社境内 | 2022/1/10 | |
29 | 古墳改葬碑 | 明治41(1908)年3月 | 岡本定 | 星野文一郎 | 山崎松寿 | 石碑:中院墓地 | 2022/2/6 | |
30 | 御嶽神社遙拝所碑 | 明治15(1882)年6月 | 先達 伊藤慶次郎 | 中嶋与十老 | 山崎太右衛門 | 石碑:富士見櫓跡・御嶽神社 | 2022/2/6 | |
31 | 河越氏遺愛碑 (河越重頼経重遺愛碑) | 明治22(1889)年12月 | 内大臣従一位大勲位侯爵 三條実美 | 元老院議官兼文祈大学教授従四位勲五等文学博士 重野安繹 | 大内青巒 | 富沢久長 | 石碑:養寿院境内 | 2022/3/6 |
32 | 令反惑情歌碑 | 明治16(1883)年5月 | 前官幣大社氷川神従社宮司大教役六位 平山省斎 | 中島与十郎 | 山崎太右衛門 | 石碑:氷川神社境内 ・山上憶良「令反惑情歌」の碑について 山野清二郎 (「埼玉史談」1986年10月) | 2022/4/10 | |
令反惑情歌碑陰記 | 明治16(1883)年5月 | 川越町氷川神社祠官権中講義 山田衛居 | 小川平三郎 | |||||
33 | 勲八等大室房次郎之碑 | 明治32(1899)年3月 | 参謀総長陸軍大将正三位勲一等功二級子爵 川上操六 | 川越 利根川丈雄 | 柏原 増田忠順 | 山崎鶴年 | 石碑:笠幡鏡神社境内 | 2022/5/15 |
34 | 忠勇烈士之碑 | 明治30(1897)年10月 | 枢密顧問官正三位勲一等子爵 海江田信義 | 衆議院議員正五位 高田早苗 | 澤田盛斉 | 高野金蔵 | 石碑:古尾谷八幡神社境内 | 2022/6/5 |
35 | 整田記功之碑 | 大正12(1923)1月 | 神山茗園 | 神山茗園 | 川越市石原町 河野乙平 | 石碑:小ヶ谷稲荷社境内 | 2022/6/5 | |
36 | (筆塚) | 明治32(1899)年12月 | 勅選議員正四位勲四等文学博士 重野安繹 | 従七位 市川三兼 | 山崎松寿 | 石碑:内田家門前 | 2022/7/3 | |
37 | 耕地整理記念碑 | 大正6(1917)年10月 | 衆議院議員勲三等 粕谷義三 | 粕谷義三 | 川越町 石工 山崎敬一郎 | 石碑:小ヶ谷白山神社境内 | 2022/8/7 | |
38 | 不肖男 山本治郎平 | 山本治郎平 | 石碑:大蓮寺墓地 | 2022/8/7 | ||||
39 | 故周防守松平寛隆公旧塋碑 | 明治9(1876)年3月 | 参議木戸孝充 | 那珂通高 | 内田義修 | 広群鶴 | 石碑:喜多院境内 | 2022/9/4 |
40 | 文政7(1824)年3月 | 川越高□享 | 石碑:東明寺境内 | 2022/10/2 | ||||
41 | 川越故大夫小河原政陽之墓 | 墓石:喜多院墓地 | 2022/10/2 | |||||
42 | 川越故大夫白井元政墓 | 左登 | 墓石:喜多院墓地 | 2022/11/6 | ||||
43 | 清節内田君寿碣銘 | 明治41(1908)年3月 | 正三位勲一等男爵 野邨素介 | 野邨素介 | 山崎松寿 | 石碑:藤倉天神社境内 | 2022/12/4 | |
44 | 高林謙三君墓誌 | 墓石:喜多院墓地 | 2023/1/9 | |||||
45 | 忠魂碑及石華表由来記 | 明治43(1910)年11月 | 乃木希典 | 発智庄平 | 発智庄平 | 石碑:尾崎神社境内 | 2023/1/9 | |
46 | 太陽寺盛方墓碑銘1 (盛方墓) | 明和2(1765)年8月 | 墓石:中院境内(中央) | 2023/2/5 @ | ||||
47 | 西福寺本堂改修記念碑 | 昭和8(1933)年1月 | 星野山喜多院貫首僧正 願海雄舜 | 星野山喜多院貫首僧正 願海雄舜 | 金龍山沙門僧都 壬生真亮 | 石碑:西福寺境内 | 2023/2/5 A | |
48 | 岩田作兵衛翁記功碑 | 大正10(1921)年12月 | 鱸猛麟 | 石碑:喜多院境内(慈眼堂下) | 2023/3/5 | |||
49 | 六塚神社改築落成之碑 | 昭和6(1931)年12月 | 陸軍中将従三位勲二等功三級 朝久野勘十郎 | 氷川神社社司正七位 山田年風 | 山田年風 | 石碑:六塚神社(元町2丁目) | 2023/4/9 @ | |
50 | 川越高等小学校改築記 | 明治37(1904)年5月 | 正二位勲一等伯爵 大隈重信 | 法学博士 高田早苗 | 高田早苗 | 石碑:川越第一小学校地内 | 2023/4/9 A | |
51 | 太陽寺盛方墓碑銘2 (盛昌墓) | 享保7(1722)年5月没 | 墓石:中院境内(向って右側) | 2023/5/7 @ | ||||
52 | 肥料共同購入組合十週年記念碑 | 明治40(1907)年4月 | 石川巖 | 志村宣益 | 小池角年 | 石碑:河岸街道交差点 | 2023/5/7 A | |
53 | 重修神垣之碑 | 大正2(1913)年10月 | 官幣大社氷川神社宮司從五位勲六等 中島博光 | 川越 利根川丈雄 | 竹香 星野文 | 川越六反 山ア鶴年 | 石碑:神明町 神明神社 社殿裏 ・「川越の民話と伝説」 ・「校注武蔵三芳野名勝図会」 | 2023/6/4 |
54 | 森下無彊(疆ヵ)先生碑 | 明治40(1907)年11月 | 埼玉県知事従四位勲三等 大久保利武 | 埼玉県事務官正六位勲五等 大城戸宗重 | 埼玉県女子師範学校ヘ諭 木村増二 | 石碑:南古谷小学校地内 | 2023/7/2 @ | |
55 | 征露記念碑 | 明治39(1906)年3月10日 | 乃木希典 | 森下因是 | 森下因是 | 富亀巌 | 石碑:南田島氷川神社境内 | 2023/7/2 A |
56 | 友山居士墓 | 天明8(1788)年 | 龍洲源和鼎 | 墓石:久下戸奥貫家墓地 | 2023/8/6 @ | |||
57 | 合寺記念碑 | 大正2(1913)年7月 | 大司教大僧正 権田雷斧 | 二等司教権少僧 正小林正盛 | 四等司教中僧都 中林覚翁 | 石碑:西光院境内 | 2023/8/6 A | |
58 | 福田整理耕地之碑 | 明治41(1908)年1月 | 埼玉県入間郡長正六位勲五等 嶋崎広太郎 | 川越 汪水 利根川丈雄 | 同 莪洲 | 川越六反 山崎鶴年 | 石碑:福田赤城神社境内 | 2023/9/10 @ |
59 | 耕地整理記念碑 | 大正5(1916)年10月 | 原任埼玉縣知事従四位勲三等 島田剛太郎 | 埼玉縣入間郡長正六位勲五等 市川春太郎 | 埼玉縣入間郡書記 神山太三郎 | 石碑:山田山田神社境内 | 2023/9/10 A | |
60 | 廓聖院泰翁淨安居士之墓 (高橋兵右衛門安族) | (天明5(1785)年10月没) | 東都 鳳山巖□(セン) | 東都 鳳山巖□(セン) | 墓石:渋井蓮光寺墓地/「埼玉史談」第51巻第2号(平成16年7月発行) | 2023/10/1 @ | ||
61 | 参宮記念碑 | 明治26(1893)年8月 | 東亰 栗本鋤雲 | 川處士 片岡勇 | 上尾 山崎恕 | 富沢義久 | 石碑:鹿飼神明神社境内 | 2023/10/1 A |
62 | 三学生追悼碑 | 大正7(1918)年7月 | 埼玉県立川越中学校長正七位文学士 古賀毅 | 川越 利根川丈雄 | 竹内脩 | 高野正三郎 | 石碑:藤間東光寺境内 ・「日本少年 大正6年10月」 ・「日本少年 大正6年11月」 ・「大地の園(第二部)」 | 2023/11/05 |
63 | 忠魂碑 | 大正4(1915)年3月 | 陸軍大将伯爵寺内正毅書 | 川越 汪水 利根川丈雄 | 新井藤助 | 小池銀次郎 | 石碑:藤間諏訪神社境内 | 2023/12/03 |
64 | 安田金藏墓表 | 明治33(1900)年8月 | 新井藤助 | 新井藤助 | 新井藤助 | 藤田三五郎 | 石碑:藤間東光寺門前 | 2024/1/8 @ |
65 | 深川浄心寺梵鐘 (元川越行伝寺梵鐘) | 文久元(1861)年4月 | 行伝寺27世日浩 | 鋳造:鈴木重次郎好ロ | 梵鐘:深川浄心寺 ・「みて学ぶ埼玉の歴史」 | 2024/1/8 A | ||
66 | 退筆塚銘 | 明治24(1891)年6月 | 川越 新井政毅 | 山崎鶴年 | 石碑:的場・愛宕神社境内 | 2024/2/4 @ | ||
67 | 高橋軍曹之碑 | 明治40(1907)年2月 | 陸軍大將勲一等男爵乃木希典 | 曹洞宗大学林教頭 山田孝道 | 長谷部与三郎 | 石碑:砂・高橋家門前 | 2024/2/4 A | |
68 | 星野山無量壽寺鐘銘并序 | 元禄15(1702)年12月15日 | 住持沙門僧正義天 | 鋳工:椎名伊予藤原重休 | 新編武蔵風土記稿巻の163 入間郡の8 | 2024/3/3 @ | ||
69 | 水村精墓碑 | 明治19(1886)年7月 | 川越 利根川尚方 | 友人 中嶋与十良 | 水村家文書 | 2024/3/3 A | ||
70 | 蓮馨寺釣鐘銘文 | 元禄8(1695)年5月18日 | 孤峯山宝池院蓮馨寺第十五世揚蓮社称誉弁意鼎寂 | 鋳工:木村将監 | 多濃武の雁(埼玉叢書 第2巻) | 2024/4/7 @ | ||
71 | 観音寺釣鐘銘文 | 享保7(1722)年仲夏吉旦 | 真光寺住持権僧正仏印 | 鋳物師:矢沢隼人藤原種求 | 多濃武の雁(埼玉叢書第2巻) | 2024/4/7 A | ||
72 | 広済寺釣鐘銘文 | 明暦3(1657)年 | 矢沢四郎右衛門 | 多濃武の雁(埼玉叢書第2巻) | 2024/5/5 @ | |||
73 | 妙養寺釣鐘銘文 | 元禄13(1700)年霜月吉日 | 總陽妙雲山法輪寺31世大中院日孝 | 鋳物師大工:椎名伊予藤原良寛 | 多濃武の雁(埼玉叢書第2巻) 新編武蔵風土記稿巻の162 入間郡の7(銘文なし) | 2024/5/5 A | ||
74 | 長喜院釣鐘銘文 | 延享5(1748)年3月吉旦 | 当院第六世暾霊梅園 | 多濃武の雁(埼玉叢書 第2巻) | 2024/6/2 @ | |||
75 | 天神廟鐘銘并序 | 寛文元(1661)12月如意珠日 | 尊師権大僧都竪者乘海法印 | 冶工:田中大和守藤原重正 | 多濃武の雁(埼玉叢書 第2巻) | 2024/6/2 A | ||
76 | 合衆国書翰和解(1/5) | 嘉永5(1852)年10月6日 | 松平大和守家記録 嘉永6年7月29日 | 2024/7/7 | ||||
77 | 合衆国書翰和解(2/5) | 嘉永5(1852)年10月6日 | 松平大和守家記録 嘉永6年7月29日 | 2024/8/4 @ | ||||
78 | 合衆国書翰和解(3/5) | 嘉永6(1853)年6月2日 | 松平大和守家記録 嘉永6年7月29日 | 2024/8/4 A | ||||
79 | 合衆国書翰和解(4/5) | 嘉永6(1853)年6月7日 | 松平大和守家記録 嘉永6年7月29日 | 2024/10/6 @ | ||||
80 | 合衆国書翰和解(5/5) | 嘉永6(1853)年6月8日 | 松平大和守家記録 嘉永6年7月29日 | 2024/10/6 A | ||||
81 | 斎藤善蔵君碑陰記 | 明治38(1905)年9月24日 | 猪鼻健文 | 墓石:中院墓地 | 2024/10/6 B | |||
82 | 閣老秋元公像賛并序 | 正徳4(1714)年8月晦日 | 紫野長老大心義統 | 紙本着色秋元喬知画像(個人蔵) | 2024/11/4 | |||
83 | 高橋育梧の墓碑 | 延享2(1745)年5月22日 | 墓石:渋井蓮光寺墓地/「埼玉史談」第51巻第2号(平成16年7月発行) | 2024/12/1 | ||||
84 | 高橋安峰の墓碑 | 天明6(1786)丙午年2月 | 友人 鳳山処士巖□(王+睿) | 墓石:渋井蓮光寺墓地/「埼玉史談」第51巻第2号(平成16年7月発行) | 2025/1/12 @ | |||
85 | 高橋勝の墓碑 | 天明6年(1786)7月 | 東都 鳳山人巖□(王+睿) | 東都 鳳山人巖□(王+睿) | 墓石:渋井蓮光寺墓地/「埼玉史談」第51巻第2号(平成16年7月発行) | 2025/1/12 A | ||
86 | 亀台尼無縫塔 | 文化7(1810)庚午 | 鹿山前堂竺曇煕 | 墓石:渋井蓮光寺墓地/「埼玉史談」第51巻第2号(平成16年7月発行) | 2025/2/2 @ | |||
87 | 高橋瑾の墓碑 | 安永9(1780)年庚子夏5月 | 東都 井純郎 | 左定綱 | 墓石:渋井蓮光寺墓地/「埼玉史談」第51巻第2号(平成16年7月発行) | 2025/2/2 A | ||
88 | 高橋嘉世の墓碑 | 天保13(1842)年壬寅 | 墓石:渋井蓮光寺墓地/「埼玉史談」第51巻第2号(平成16年7月発行) | 2025/2/2 B | ||||
89 | 醉月内田先生之碑 | 明治28(1895)年9月 | 貴族員議員従三位勲三等 名村泰蔵 | 内田正信 | 堀江磐男 | 石碑:猪鼻自治会館(藤倉)・猪鼻不動堂/「大袋新田 内田家文書目録」口絵 川越市立博物館 2024年7月 | 2025/3/2@ | |
90 | 大川先生墓表 | 明治6年(1873) | 正二位 松平慶永 | 勧業大属 尾高惇忠 | 少内史正六位 日下部東作 | 広群鶴 | 石碑:大川平三郎翁記念公園(坂戸市)隣接の大川家墓地 | 2025/4/6 |
テキスト名 | 年 代 | 篆額・題額 | 文 | 書 | 刻 | 出典・石碑所在 | 開催年月日 |
分 類 | 年 代 | 住 所 | 場 所 | 碑 名 | 備 考 | テキスト | |
3 | 記念碑 | 大正8年(1919)4月 | 川越市大字谷中 | (五差路北側角) | 耕地整地記念碑 | 碑苔にて読めず | |
17 | 記念碑 | 明治26年(1893)8月 | 川越市大字鹿飼 | 神明神社境内 | 参宮記念碑 | 碑苔にて読み難し | 61 |
18 | 記念碑 | 明治25年(1892)12月 | 川越市元町2-11 | 養寿院 | 河越氏遺愛碑 | 31 | |
21 | 供養塔 | 明治21年(1888)10月 | 川越市末広町1-7 | 栄林寺 | 三界萬霊供養塔 | ||
31 | 記念碑 | 嘉永3年(1850)8月 | 川越市末広町1-45 | 妙養寺 | □蘭台大父故紙碑 | 12 | |
45 | 記念碑 | 明治3年(1897)10月 | 川越市古谷本郷下 | 古尾谷八幡神社 | 忠勇烈士之碑 | 34 | |
46 | 記念碑 | 大正元年(1912) | 川越市古谷本郷下 | 古尾谷八幡神社 | 忠魂碑 | 確認できず | |
47 | 銅鐘 | 明和3年(1766) | 川越市喜多町 | 広済寺 | |||
52 | 歌碑 | 明治8年(1875) | 川越市大字大中居654 | (新井家地内) | (芭蕉句碑) | ||
57 | 記念碑 | 明治39年(1964) | 川越市大字南田島 | 氷川神社境内 | 征露記念碑 | 55 | |
58 | 筆塚 | 明治32年(1899)12月 | 川越市小ヶ谷 | 最明寺の北方 | 36 | ||
69 | 記念碑 | 明治40年(1908)11月 | 川越市南古谷 | 南古谷小学校地内 | 54 | ||
74 | 記念碑 | 大正4年(1915)3月 | 川越市藤間346−1 | 諏訪神社境内 | 忠魂碑 | 63 | |
76 | 記念碑 | 大正7年(1918)7月 | 川越市藤間1126 | 東光寺境内 | 三学生追悼碑 | 62 | |
82 | 記念碑 | 明治40年(1907)5月 | 川越市今福1275−1 | 河岸街道交差点 | 肥料共同購入組合十周年記念碑 | 52 | |
99 | 記念碑 | 昭和8年(1933)1月 | 川越市南大塚23 | 西福寺境内 | 西福寺本堂改修記念碑 | 47 | |
113 | 記念碑 | 明治43年(1910)11月 | 川越市笠幡 | 尾崎神社 | 忠魂碑 | 45 | |
116 | 記念碑 | 明治32年(1899)3月 | 川越市笠幡大町 | 鏡神社 | 勲八等大室房次郎之碑 | 33 | |
131 | 記念碑 | 明治41年(1908)1月 | 川越市福田424 | 赤城神社境内 | 福田整理耕地之碑 | 58 | |
137 | 記念碑 | 大正2年(1913)7月 | 川越市寺山5 | 西光院境内 | 合寺記念碑 | 碑苔にて読み難し | 57 |
138 | 記念碑 | 明治26年(1893) | 川越市大字山田640−9 | 安養院墓地内 | 律師佛淡道翁生拡碑銘 | 彫り浅く読めず | |
140 | 記念碑 | 明治34年(1901) | 川越市上寺山 | 八咫神社西南の墓地内 | 八塩栄□翁墓碑銘 | 墓石の後にて読めず | |
149 | 松平直恒の墓碑 | 天保6年(1835)12月 | 川越市小仙波町1-20-1 | 喜多院松平大和守家廟所 | 14 | ||
150 | 松平直温の墓碑 | 天保15年(1844)1月 | 川越市小仙波町1-20-1 | 喜多院松平大和守家廟所 | 13 | ||
151 | 松平斉典の墓碑 | 慶応2年(1866)5月 | 川越市小仙波町1-20-1 | 喜多院松平大和守家廟所 | 15 | ||
152 | 松平直侯の墓碑 | 慶応2年(1866)10月 | 川越市小仙波町1-20-1 | 喜多院松平大和守家廟所 | 16 | ||
158 | 記念碑 | 大正6年(1917)10月 | 川越市小室 →小ヶ谷156 | 田面沢農協傍 →小ヶ谷白山神社境内 | 耕地整理記念碑 | 36 | |
159 | 記念碑 | 大正12年(1923)正月 | 川越市小ヶ谷 | 川越橋堤防摺付の下 →稲荷社境内 | 整田記功之碑 | 35 | |
173 | 記念碑 | 明治22年(1889)11月 | 川越市連雀町8 | 熊野神社境内 | 松郷沿革之記 | 19 | |
178 | 記念碑 | 天保10年(1887)4月 | 川越市仲町10番地 | 烏山稲荷神社境内 | 親塚稲荷神祠碑 裏:碑陰記 | 26 | |
181 | 記念碑 | 明治42年(1909)3月 | 川越市小仙波町5−15 | 中院境内(墓地入口付近) | 古墳改葬碑 | 29 | |
184 | 記念碑 | 明治9年(1876)3月 | 川越市小仙波町1-1-2 | 閻魔堂内 →喜多院境内・松平大和守家廟所参道脇 | 故周防守松平寛隆公舊塋碑 | 39 | |
185 | 記念碑 | 明治17年(1884)6月 | 川越市宮下町2−11 | 氷川神社境内 | 五領堂先生之碑 | ||
186 | 記念碑 | 明治29年(1896)7月 | 川越市野田町1−11 | 野田神社境内 | 不二庵榊原翁寿碑 | 18 | |
187 | 記念碑 | 大正10(1921)年12月 | 川越市小仙波町 | 喜多院境内 | 岩田作兵衛翁記功碑 | 48 | |
193 | 記念碑 | 昭和6年(1931)12月 | 川越市元町2−6−9 | 六塚稲荷神社境内 | 六塚神社 改築落成之碑 | 49 | |
196 | 歌碑 | 文政7年(1824)3月 | 川越市喜多町13−1 | 東明寺境内 | 40 | ||
197 | 歌碑 | 明治16年(1883)5月 | 川越市宮下町2ー11 | 氷川神社境内 | 令反惑情歌碑 裏:令反惑情歌碑陰記 | 32 |
分 類 | 年 代 | 住 所 | 場 所 | 碑 名 | 備 考 | テキスト | |
548 | 記念碑 | 享和3年(1803) | 小仙波町1−20 | 喜多院境内 | 石造参尊五百羅漢記 | 22 |
分 類 | 年 代 | 住 所 | 場 所 | 碑 名 | 備 考 | テキスト | |
198 | 筆塚 | 文久2年(1862)3月 | 川越市砂708 | 勝光寺 | |||
201 | 筆子塚 | 明治25年(1893)9月 | 川越市松原264 | ||||
213 | 記念碑 | 明治41年3月 | 川越市藤倉 | 天神社境内 | 清節内田君寿碣銘 | 43 | |
240 | 奥貫友山の墓碑 | 天明8年(1788) | 川越市久下戸508 | 左側 | 56 | ||
241 | 奥貫正康の墓碑 | 不明 | 川越市久下戸508 | 左側 | |||
242 | 奥貫正孝の墓碑 | 文久2年(1862) | 川越市久下戸508 | 右側 |
以上のような議論の文章とならんで、唐末以後の「古文」の文学の、重要な部分となるのは、種種の形の伝記の文章である。叙事の文章である点は、歴史書の文章とおなじであるけれども、公的な記録である歴史書の「列伝」が、歴史の組成にあずかった重要な人物の伝記のみを叙するのとはちがっている。歴史書にのるような重要人、著名人を対象とすることが、この種の文章にも、むろんある。しかしより多くは、友人、知己、ないしは家族など、周辺の個人についての、私的な記録としての、伝記文である。
そのもっとも多くは「墓誌銘」の形をとる。それは墓上の石ではない。死者生前の事蹟を綴った文章を、碁盤形の石にきざみ、棺とともに墓中にうずめるのである。重要な部分は散文であるが、さいごに韻文の「銘」が加わるため、「墓誌銘」と呼ぶ。またより少い場合として、墓上に立てる「墓碣(ぼかつ)」「墓表(ぼひょう)」、更にまた大官の場合は、墓への参道に建てられる「神道碑(しんとうひ)」などがある。また、それら墓誌銘、墓碣、墓表、神道碑は、友人または門下生によって書かれるが、それらに材料を提供するため、家族もしくは門下生によって書かれた最も詳しい伝記は、「行状(ぎょうじょう)」「行実(こうじつ)」などと呼ばれる。その他ぶっつけに何某の「伝」というのもあり、あわせて「碑誌伝状(ひしでんじょう)」の文という。要するに個人の私的な伝記である。しかしそれゆえに、個人の事蹟を記述しつつも、それによってひろく人間の問題を説こうとする態度が、一そう顕著である。一そうというのは、「史記」以来の歴史書の「列伝」が、すでにそうであろうとする傾斜をもつからであるが、「碑誌伝状」の「古文」は、一そうその機会に富む。歴史書を大きなロマンとすれば、これは私小説である。
(後略)
さて、『日本外史』の草稿は、だいたい文化六年(一八〇九)、山陽が三十歳のころには出来上がっていたようです。その後、論賛を加えるなど増補を重ね、一通りの完成を見たのは、文政九年(一八二六)、山陽四十七歳の冬でした。まさに二十年を費やしたことになります。年が明けた文政十年の詩には、こうあります。千載将誅老姦骨 千載 将(まさ)に誅せんとす 老の姦骨「千年までさかのぼって姦賊(かんぞく)に筆誅(ひっちゅう)を加え、黄泉(よみ)の国までおよんで無実の忠臣の魂を慰めた。文章は無力だと言わせはしない。公議は紙上にて決するものだ」とうたうのは、初志を貫いた感慨でしょうし、『日本外史』を公にする意欲を示してもいます。この著作は、まさに天下国家を語るために書かれたというわけです。山陽は自らの「立志論」を裏切らなかったと言うべきでしょうか。
九原欲慰大冤魂 九原 慰めんと欲す 大冤魂(えんこん)
莫言鉛槧無権力 言うなかれ 鉛槧(えんざん) 権力無しと
公議終当紙上論 公議 終(つい)に当(まさ)に紙上に論ずべし (「修史偶題」其三)
実際、山陽は知己を通じて、この書物の写本が大学頭林述斎(はやしじゅつさい)か元老松平定信の目に触れる機会が得られるよう画策しました。そして策は成功し、定信から『日本外史』献上の命がもたらされたのです。
定信の高い評価を得た『日本外史』は、さまざまなルートで写本が流通したのですが、山陽の生前は版本として刊行されることはありませんでした。没後四年にして、ようやく木活字本の『日本外史』が刊行され、さらに弘化元年(一八四四)、親藩である川越藩(越前松平家)が開板した、いわゆる川越版の『日本外史』が出て、大ベストセラーとなったのです。
『日本外史』保元・平治の乱による源氏・平氏の台頭から徳川の天下統一に至るまで、部門の興亡を記した書物です。それが大ベストセラーとなった原因については、やはり、武家の興亡という歴史そのものの面白さがあると思われます。源平から徳川に至る時代は、今日でもNHKの大河ドラマが数年おきに必ず取り上げる時代であるように、ドラマとしての面白さがあります。そして『日本外史』は、お手本とした『史記』がそうであるように、ドラマ性や臨場感を重視してこの時期の歴史を描こうとしました。
こうした手法は、歴史記述としては、かなりすれすれなものになります。徳富蘇峰は、『日本外史』が「藝術品として誠に能く出来て居る」と言って、『八犬伝』や『水滸伝』を読むのと変わらない小説的な構成の面白さがあることを指摘し、「保元平治より慶長元和に至る、凡そ四百五十年間に亙る時代を経となし、其間に出で来る人物を緯となし、其間の治乱興廃を、劇作家的眼光を以て之を観、劇作家的筆を揮(ふる)うて之を描き出したものだ」と称賛しています。つまり、ほとんど歴史小説としてしか見ていないようなのです。
もう一つは、よく言われるように、君臣の分を重んじる大義名分論を、皇室と武門との関係に当て――つまり皇室が君で武門が臣とうわけです――、尊皇思想を記述の根幹としたことが、時代の好尚に合ったということもあります。もちろん大義名分をあまり強調すると、これも、史実に合わない叙述が出現することになります。『日本外史』はこの点でも、後世の批判を浴びました。
けれども、忠孝を軸とした道徳に馴染んだ人々にとって、たとえば徳川氏が天下を統一できたのは祖先の新田氏が南朝に忠誠を尽くしたからだと説明されれば、なるほどと納得するところも大きかったに違いありません。人々がわかりやすい歴史を欲するのは、是非はともかく、いつの世もあることです。
さらに言えば、書かれているのが武門の興亡であることが、士族階級もしくはそれへの志向をもつ人たちにとって、自らが何者であるかを知るよすがになった、ということでもあるでしょう。そういう観点からすれば、尊皇思想も、つまるところ自身の行動原理を求めてのことであったと言えますし、山陽の『日本外史』がひたすらに武門のことを記すのも、やはり士としての意識のなせるわざであったことが、見えてきます。言い換えれば、『日本外史』は、武士がいかに行動すべきか、その指針を示したものであり、かつ、指針を示したということに、大きな意味があった。思想の中身もさることながら、歴史を一つの原理、一つの流れでわかりやすく描き出し、規範を示したことが、人々に歓迎されたのです。
そして、それと同様に注目すべきは、それがわかりやすい漢文、朗誦しやすい漢文で書かれていた、ということです。たとえば川越版『日本外史』の巻頭に載せられた保岡嶺南(やすおかれいなん)の序文には、「此書質実易読、雖武人俗吏不甚識字者、皆可辨其意義[この書物は中身がしっかりしていて読みやすく、漢字をあまり知らない武人や俗吏であっても、その意義を理解することができる]」とあって、漢文を読み書きする層が拡がったその裾野に位置する者たちにも、十分に理解できると考えられていたことがわかります。煩瑣で難解になりがちな儒家の議論とは大きく異なるところです。
先の書簡にもあったように、『日本外史』はさまざまな史料や史書を駆使して出来上がったものです。その中には和文で書かれたものも少なくなく、また史書というよりも小説に類するものもあったわけですが、山陽はそれを巧みに漢文に直しました。一種の漢作文と言ってもよいでしょう。『平家物語』の有名な一節、平清盛の子重盛が、父と後白河法皇との板ばさみになった苦しさを訴えたことばを例に挙げて見ましょう。悲哉(かなしきかな)、君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷慮八万の頂より猶たかき父の恩、忽(たちまち)にわすれんとす。痛哉(いたましきかな)、不孝の罪をのがれんとおもへば、君の御ために既(すでに)不忠の逆臣となるぬべし、進退惟(これ)きはまれり、是非いかにも辨(わきまへ)がたし。見た通り、これはこれで音調もよい文章なのですが、『日本外史』では次のような漢文になっています。欲忠則不孝、欲孝則不忠。重盛進退、窮於此矣。訓読して読めば、「忠ならんと欲すれば則ち孝ならず、孝ならんと欲すれば則ち忠ならず。重盛の進退、ここに窮まれり。」となります。おそらく『日本外史』の中でも最も人口に膾炙した一節だと言ってよいでしょう。簡潔かつ調子よくまとめている点で、いかにも漢文らしい文章になっていることがわかります。そして、こうした文章が人々に好まれたのもまた、素養としての漢文が広まりつつあった時代に適合していたからでした。先に述べたように、『日本外史』で書かれている歴史的事件は、それ自体がドラマティックであり、講談や芝居の素材になっているようなものも多くありましたから、『日本外史』を読む以前に、読者がその内容を熟知していたとしても、不思議ではありません。むしろ、『日本外史』を読む喜びは、歴史的な事実を知るというよりも、それが読みやすく調子のよい漢文で書かれていることに由来するのだとすら言えるのです。
『日本外史』の文章については、平明でわかりやすいという評がある一方で、俗っぽく和習に満ちている、という非難もあります。もちろん、わかりやすさと俗っぽさは、同じ文章をどういう目で見るかに依存しますから、どちらの評もでてくるのは道理です。古色蒼然たる文章こそが漢文だという立場からすれば、たしかに山陽の文章は平俗に過ぎるのかもしれません。では、和習ということについてはどうでしょうか。そもそも和習とは何を指して言うのでしょうか。
日本人の漢文には和習があると強調したのは、荻生徂徠(おぎゅうそらい)です。徂徠は徹底して中華の言語を学ぶことを提唱し、和字・和句・和習の三つを誡めました。和字とは、平仮名や片仮名のことではなく、「和訓を以て字義を誤る」もの、つまり同訓異義の字を誤用することを言います。たとえば、「以(もって)」の代わりに「持(もって)」を使えば誰でもそれが間違いだと気づくでしょう。けれども、「聞」と「聴」など、うっかりすると間違えそうな微妙な例は少なくありません。そこを注意すべきだ、と言うのです。
そして和習。「語気声勢の中華に純ならざる」ものだと徂徠は言います。しかしこれはなかなか判断が難しいものです。「語気声勢」は要するにことばの調子のことですから、そもそも莫然としていますし、何をもって中華に純とするか、そう簡単に言えるはずがありません。徂徠もそれは承知していて、古文辞、すなわち秦漢以前の文章こそが中華の真正の言語であると言って、一応の規準を定めたのでした。しかしこれはやや強引です。
山陽も、文章に意を用いる以上、和字や和句は徹底して避けました。しかし徂徠の言う和習は避けなかったのです。「日東ニ生レタル儒ノ職分ニハ、和漢時勢ヲ較量(かうりやう)シ、西土[中国]ノ聖訓我邦ノ時宜ニ合スベシト云フコトヲ此(この)君民ニシラスガ当リマエ也」(前掲書簡)なる意識があれば、むしろ日本において読まれることが前提ですし、しかも『日本外史』の内容は日本のことです。その中には、しばしば官名や物名がそのまま使われたりもします。山陽にとって、それは当然のことです。中国の史書で、異域の事を記すのにその土地で生まれた漢語がしばしば用いられているのと同じだからです。
『日本外史』の文章を実際に検討してみても、和習という非難は、どちらかと言えば『日本外史』の文章が読みやすかったことに向けられているとしたほうがよさそうなのです。『日本外史』は清朝光緒元年(一八七五)に中国広東でも出版されているのですが、その序文には「至其筆墨高古、倣之左氏以聘其奇、参之太史以著其潔、可不謂今之良史哉[その文章は古えの風格があり、左伝に倣って文章の起伏を富ませ、史記の風格をまじえて高潔さを示している。まことに今の世のすぐれた史である]」と称されています。和習がことさら非難されることはなく、その文章は『左伝』や『史記』に範をとっているとむしろ褒められているのです。
おそらく、専門に漢文を学んでいる儒者からすれば、山陽の漢文は平明すぎて漢文らしくないと思われたのでしょう。豊後の儒者帆足万里(ほあしばんり)は、「頼生所作、無論文字鄙陋、和習錯出、加以考証疎漏、議論乖僻、真可以覆醤□、渠以是横得重名、真可怪嘆[頼とやらの書いたものは、文章は俗っぽく、和習だらけであるのはもちろん、考証もいいかげんで、議論も偏っており、味噌がめに蓋をするのにしか使えないような代物だ。こんなもので盛名を得ているとは、まったく嘆かわしい]」(復子□」『西□先生餘稿』下)と、口をきわめて非難しています。たしかに『日本外史』に考証の誤りが少なくないことは事実ですが、山陽の眼目はむし露歴史の大きな流れを明らかにすること、臨場感を大事にすることにありました。他の儒者とは目指すところがそもそも違うのです。また、文章も、山陽はむしろ平俗でこそよいと考えていたのであり、それでこそ「武人俗吏」にも読みやすいものとなったのです。
しばしば言われるように『日本外史』はさかんに暗誦された書物である。もちろん全編通じて暗誦というのはさすがに困難としても、いくつかの有名な場面について諳んじているのは珍しいことではなかった。ただし、そのすべてが漢文を直接読んで諳んじたものであるかと言えば、おそらくそうではあるまい。『日本外史』を諳んじていることと漢文が読めることは別である。というのも、すでに示したように、『日本外史』は明治のごく早い時期から全編を訓読文にしたものが出版されていて、それが『日本外史』読者の裾野を拡げたであろうことは想像に難くないからである。もちろん、読本や作文書にも、その訓読文がさかんに採録されている。
明治以前、『日本外史』の版本は、川越版にしても頼氏版にしても、返り点のみで読み仮名は振られてはいなかったから、朗誦に便とは言い難く、独力で読み通すには一定の学力が必要だった。明治初年から版を重ねた『訓蒙日本外史』や、『啓蒙日本外史』は訓読文の本文だから、すぐに読めるし、朗誦も容易である。なお、両書ともに大槻東陽による「解」であることは先に述べた通りで、東陽の序文の日付は前者が明治六年四月、後者が翌七年一月となっている。サイズはどちらも小本、表紙の色も当時の啓蒙書類によくある黄色で共通するが、中を開けば前者は活版、後者は木版という違いがある。また、前者の校訂は長田簡斎、後者は渡辺益軒であり、訓読文や左右のルビが基本的には同じでありつつ微妙な違いも散見されるのは、あるいは校者の違いによるのかもしれない。また、木版であった後者は、明治十六年『挿画啓蒙日本外史』と題を改め、挿絵を加えて漢字平仮名交りの活版で出版しなおさている。
興味深いのは、返り点に読み仮名を加えた『日本外史』の版本で最も早いのが管見の限り明治八年刊の吉原呼我注『点註標記日本外史』(開心庠舎)であり、のちに版を重ねた頼又二郎注『標註日本外史』(頼氏版)はさらに遅れて明治十年刊、つまり訓読文版の方が先んじていることだ。とはいえ、注釈本はどちらもサイズは中本、装いはむろん、中身も本格的だから、いかにも簡便な訓読文版に比べれば出版に時間がかかるのは異とするに足りない。むしろ訓読文版が早々に出版されたことに注意を引かれるのである。
漢文の史書としてきちんと読むなら、原文を保存する注釈本の方がすぐれているのは自明である。考証も加えられ、字句の説明も詳細である。しかし、暗誦や朗誦ということに限れば、訓読文のテキストを使用したとしても、不都合はない。「直読スベキ片仮名雑リ」で書いてある方が読誦には便利ですらある。明治十六年の『挿画啓蒙日本外史』が片仮名交りを平仮名交りに改めているのも、もとが漢文であることを象徴的に示す片仮名を使うことよりも平仮名による読みやすさを優先させたがゆえと言える。東陽による漢文の序には、「婦女子」にも読みやすいよう平仮名を用い挿絵を加えた旨が記されているが、『日本外史』が、漢文としてでなく、訓読文、すなわち漢文の音声として裾野を拡げていったことがここにも見て取れる。音声に力点をおけば、仮名が片仮名であろうと平仮名であろうと変わりはない。訓読文は書き下しであることに意味がある。
こうした訓読の定型化、また、それによって生み出される訓読文の定型化によって、近世後期以前はさまざまにバリエーションがあった訓読体もまた、定型化を余儀なくされていくことになる。明治の訓読体に音読語が多いのは、近世後期の訓読法に由来するが[陳 二〇〇五]、たんに訓読法の変化にのみにもとづくのではなく、素読とその書記としての訓読文というシステムが成立したがゆえに、訓読体もまた定型化したのであった。そして、その定型化によって、漢文を背後に持つ文体であることが明確に意識され、文体として一定の基準が得られ、権威を獲得することになる。そうでなければ、詔勅や法令に用いられることはなかったであろう。もちろん、基準としての漢文からの離脱は、その後、さまざまな局面において進むのであるが、訓読体が近代文体として成立するためには、一時的なものであったにせよ、この基準は大きな意味をもった。
また、定型化された訓読体は、その出自からして権威的な性格が強いものとなったが、その表徴となったのが漢字片仮名交りという書記法であった。漢字片仮名交り文は、中世から近世にわたって、仏典や漢籍(あるいは漢訳洋書)にもとづく知識を記すために用いられてきたように、外来知識の権威を示す書記法として機能していた。それは、日本で作られた漢字語を多用する候文が、御家流の文字とともに平仮名で綴られるのとは対照的であった。
すなわち、日常の書きことばとして広く用いられていた漢字平仮名交り文の候文とは異なり、定型化された訓読にもとづく漢字片仮名交りの訓読体は、ことさらに日常性を排除した書きことばとして登場したことになる。本章の前半で述べたように、それは翻訳という問題とも大きくかかわっている。そしてそれゆえにこそ、通用性もまた高かったのである。
奈良時代末期からはじまった記号を用いる訓読は、語順符や句読点、レ点の応用、ヲコト点など、さまざまな方法を試行錯誤的に生み出しつつも、それらはおもに仏教書のごく一部の個所に便宜的、恣意的に用いられるにすぎなかった。この段階での訓読は、あくまでも本文を理解するための補助的な方便であったと言ってよい。
ところが平安中期以降、院政期になると、本文の一部ではなく全文くまなく訓点を付けるようになる。かつその範囲も内典(仏書)から外典(儒教や文学の書)へと広がり、それにともなってヲコト点と語順符などを併用する方法が主流となった。『白氏文集』はその好例である。
このことはすでに述べたように、梵語と日本語の対応関係を通じて、日本語の訓読と漢文が対等の関係に立ったことの結果であり、いわゆる国風時代のはじまりとも軌を一にしている。この時期、漢文は訓読で読むことが当たり前になり、訓読自体が目的になったと言ってもよい。
この段階では、訓読によって本文の意味が理解できればよいというだけではなく、訓読自体の定型化した読み方、すなわち訓読の文体が問題になる。『白氏文集』を例にとると、「序ニ曰ク」と「序シテ曰ク」も、意味に変わりはないにもかかわらず、わざわざ二通りの読み方を示しているのは、本文の意味ではなく、訓読の読み方が問題になっているからである。
このように全文に訓読を行い、かつその読み方の細かいところまでを正確に指定するには、ヲコト点は適した方法であった。しかしここにもうひとつの問題がある。ヲコト点は、どの位置の点がどの読み方に対応するのかをあらかじめ知っていなければ、読むことができない。しかもその方式は、仏教の各宗派や朝廷の博士家によって異なっており、奈良の南都系の三論宗点、喜多院点、天台宗系の西墓点、仁都波迦点、真言宗系の東南院点、円堂点、さらに博士家では清原家の明経点、菅原家の紀伝点など、さまざまな流派が精緻で煩雑な流儀を発展させた。このため点の位置や形と読み方の対応関係を図示した点図が作られたが、それらの点図は格流派によって、保持あるいは秘匿されたようである。
このことは仏教にせよ儒学にせよ、学問が師から弟子へと秘伝的に伝授されたこの時代の学術のあり方と密接にかかわっている。したがって鎌倉時代以後、新たな仏教、儒学が生まれ、学術全体が開放的な方向へと変化した時、訓読のあり方も自ずと変わることになったのである。なお訓点という言葉は、元来はヲコト点を指したものであったが、後に「一二上下」などの訓読記号や送り仮名など点でないものも、その延長でみな訓点とよんでいる。
(前略)
訓読廃止が困難な理由は少なくともふたつある。まず訓読は一定の決まりにもとづいて、記号を用いて読む方法であり、決まりと記号の意味さえ知っていれば、だれでもが比較的簡単に漢文が読める。さらに当時の鎖国の状況下で、多くの人が中国語を学習することは、まったく非現実的であったろう。のちに青木正児(まさる)(一八八七―一九六四)が提唱したように、日本の漢字音で直読する方法もありうるが、長年の習慣をやめることはやはり難しい。
現実的に実行可能な唯一の方法は、訓読をできるだけ原文に忠実なものとすることであった。その一つの極致が、江戸末期の佐藤一斎(一七七二―一八五九)による一斎点である。一斎点は文之点と同じく、助辞をすべて読むだけでなく、さらに漢字をできるだけ訓で読まずに音読した点に特徴がある。たとえば『論語』の「人不知而不慍」は、ふつう「人知らずして慍(いか)らず」と読むが、一斎点では「人知らずして慍(うん)せず」と、「慍」の字を音で読む。これは「いかる」はふつう「怒」を使うので、混同を避け、訓読から原文を復元しやすくするためである。
しかしこれでは逆に、「慍」が「いかる」というい意味であることをあらかじめ知っていなければ、なんのことかわからないことになってしまい、翻訳としての訓読の機能は大きく損なわれる。しかも日本語の文章としても、はなはだ奇妙である。このため一斎点は、のちに日本語の語格を故意に破壊するものであるという非難を浴びることになった 。
一斎点の趣旨は、訓読から原文を復元することにあり、実際に「復文」とよばれる訓読からの原文復元の練習が、作文能力を高めるために、広く行われていた。これによってこの時期の日本人の漢文能力の水準は大きく向上し、かつて東涯が、日本人の漢文を評して「華人の通暁するを得ること難し」と歎いた状況は、よほど改善されたのである。
一斎点は、いわば直読一歩手前の訓読であった。このような訓読方式の出現は、奈良時代以来の漢文学習の長い歴史の結果、漢文が公的な権威をもった最後の段階である江戸後期になって、ようやく翻訳術としての訓読を借りずに漢文をじかに理解できるレベルに多くの人が到達したことを意味する。江戸中期の学者、江村北海(一七一三―一七八八)は、「無点ノ書ヲヨミ得ルホドノ人ニハ、訓点ハモトヨリ無用ノモノナリ」(『授業編』巻三)と、訓読無用論を唱えている。
一斎点は幕末から明治にかけて大いに流行し、明治期の漢文訓読体の文章にも大きな影響をあたえた。たとえば明治初年の政治小説として有名な東海散士の『佳人之奇遇』(一八八五刊)は、一斎点による訓読体で書かれている。
第二の例は、訓読が中国にあたえた影響である。明代の学者、宋濂が、日本人は訓読をするので漢文が下手だと言ったことからもわかるように、日本の訓読は近代以前、すでに中国にある程度知られていたらしい。ただし近代以前の中国人にとって、それは外国人のおかしな読み方として、好奇心もしくは軽蔑の対象以上のものではなかったであろう。しかし近代になって事情は一変する。それは日本よりおくれて西洋文明を受け入れ、改革に着手した中国が、日本を通じて西洋の学問を導入しようとしたからである。その代表的な人物は、清朝末期の改革派の主導者の一人、梁啓超(一八七三―一九二九)であった。
一八九八年の改革派による政変、いわゆる戊戌政変が失敗に終わった後、梁啓超は同年九月に日本に亡命する。翌年の四月、彼は自ら創刊した『清議報』に、「論学日本文之益」(日本文を学ぶの益を論ず)という題の文章を書き、およそ以下のようなことを述べている。
中国人が西洋の学術を学ぶには、西洋の本を読むよりも日本の本を読む方が手っ取り早い。その理由は、日本は中国に先んじて西洋文明を受容しており、維新以来三十年、すでに多くの翻訳の蓄積があること、また英語を学ぶのは難しいが、日本語は簡単で、特に日本文を読むのは、数日で小成、数カ月で大成できるからである。日本文は漢字が十中七、八で残りの仮名の部分は、動詞などの活用語尾か助辞である。また実字(名詞)が前に、虚字(動詞)が後に来るので、あ「その例に通じてこれを顛倒」すればよい。自分はこの方法を『和文漢読法』という本に書いたので、それを読めば、労せずして日本語を読むことができるだろう。
これはいわば逆訓読法とでもいうべきものであろう。その原理は、先にふれた日本の復文とまったく同じで、ただ復文は訓読文をもとに漢文に復元するのに対して、梁啓超の場合は明治の漢文訓読体の文章を当時の新式の漢文に直す点が異なるだけである。
梁啓超が自薦する『和文漢読法』とは、この年の二月に、彼が同郷の友人で彼よりも一年前に日本に来た羅晋という人物とともに、箱根塔ノ沢の環翠楼という旅館に投宿し、羅晋に日本語を習い、日本の本をいろいろ読みながら研究した結果で、彼の回想によれば一日で書きあげたというものであった。この時、梁啓超は日本に来てわずか半年、日本語はできないに等しい。先生となった羅晋の実力も知れたもので、文法などはろくに知らなかったであろう。二人はただ日本の書物の漢字だけをたよりに、仮名の助辞などを帰納類推して、この方法を考案したわけである。それはかつて中国語を知らない日本人が、漢文の助辞などを研究して訓読を編み出した過程を、いわば逆に行ったものであった。
全四十二節からなる『和文漢読法』は、第一節でまず日本語と中国語の語順の相違を説明して、「漢文読書、日文則云〔書ヲ読ム〕、漢文遊日本、日本則云〔日本ニ遊フ〕」と、伊藤東涯や太宰春台と同じことを、これまた逆の立場から述べている。第二節以下は、助辞や活用語尾の解説、また「切符―券、票」など和製漢語を部首別にならべ、中国語に翻訳した一種の辞書などから成る。これも『桂庵和尚家法和訓』など日本の訓読教科書が、漢文の助辞の用法の説明に力をそそいでいるのと軌を一にする。
『和文漢読法』は出版後、版を重ねて、当時の中国人に大きな影響をあたえた。ただしそれは中国人が日本文を読むための一種の便法としての役割をはたした反面、そのあまりに図式化、単純化された方法はしばしば誤読を生み、また中国人に日本語は簡単だという錯覚をあたえたことも否めない。
近代中国文学の父、魯迅の弟で、兄とともに日本に留学し、後に中国随一の日本通として知られた周作人(一八八五―一九六七)に『和文漢読法』という題の随筆がある(『苦竹雑記』)。それによると、彼もまた若いころにこの本を読んだようで、その影響について、「日本語学習を広めた一方で、日本語は容易だという誤解をあたえた」と述べ、さらにこの方法は、明治初期の『佳人之奇遇』のような漢文訓読体を読む場合には、それなりに有功だが、ほかの文体では役に立たない、日本語と中国語は根本的にちがう言葉であるから、やはり一からじっくりと勉強して、日本語として日本文を読まなければだめだと、しごくまっとうな警告を発している。徂徠や春台の唐話で漢文を読まなければだめだという説と一脈通じる点、興味深いものがある。