川 越 漢 文 の 会


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「川越漢文の会」テキスト一覧
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「川越漢文の会」テキスト一覧
 
テキスト名年 代篆額・題額出典・石碑所在開催年月日
1濯紫園記文化3年(1806)4月6日大梁原信青陵海保皐鶴
海保青陵
大梁原信掛軸:川越市立中央図書館蔵2017/11/19,12/3、2018/1/21、2/4
2武蔵国川越城漏鐘銘并序
(時の鐘銘文)
明和7年(1770)9月川越儒士臣斉藤允升「記録」(前橋市立図書館蔵)
『川越藩松平大和守家記録2』
2018/4/8,5/6、6/3
3河越善行録跋文政庚辰年6月河越 楽水堂道意川越市立博物館蔵2018/7/1
4尺牘(せきとく)
<中島孝昌>
市立図書館蔵(K900-N.34,1580)2018/8/12
5文考冊序<中島孝昌>北山 山本信有董堂敬義市立図書館蔵(K900-N.34,1580)2018/9/23
6川越城跡碑(案文)明治30年(1897)8月大勲位功四級 載仁親王錦□(けい)間祇侯正三位勲二等 辻新次錦□(けい)間祇侯正三位勲二等 野村素介山崎松寿案文:市立博物館蔵
石碑:富士見櫓跡
2018/10/14,11/4
7酔春亭記<中島孝昌>青陵海保皐鶴2018/12/9、2019/1/6
8事後継志録序宝暦9年(1759)11月吉田世子信礼『続々群書類従』(明治44年)2019/2/10、3/3
9祭朏解青陵海保皐鶴「さくらのにほひ」(館蔵)2019/4/7
10校刻日本外史序天保15年(1844)8月保岡孚(保岡嶺南)川越市立博物館蔵・松平家文書2019/5/5
11寅齋家君之墓
(川越藩家老岩田彦助墓碑)
享保19年(1734)5月18日岩田種徳博物館図録『譜代大名秋元家と川越藩』p50、墓は養寿院2019/6/9
12□蘭臺大父故紙碑嘉永3年(1850)8月孝孫三玄孝孫三玄広群鶴
(広瀬群鶴)
石碑:妙養寺境内
□:うづムル
2019/7/7
13故川越城主馨徳源公神道碑銘天保15年(1844)正月8日保岡孚朝岡穆謹石碑:喜多院・松平大和守家廟所2019/8/11,9/23
14故川越城主俊徳源公神道碑銘天保6年(1835)12月石井文衷久保隆文石碑:喜多院・松平大和守家廟所2019/10/6、11/17
15故川越城主従四位上行左近衛権少将兼大和守興国源公神道碑銘慶応2年(1866)5月保岡孚戸井田廣石碑:喜多院・松平大和守家廟所2019/12/9,2020/1/18、2/9、6/7、7/7
16故川越城主従四位下行侍従兼大和守建中源公神道碑銘慶応2年(1866)10月保岡孚戸井田廣石碑:喜多院・松平大和守家廟所2020/8/9、9/6
17神祠一新記明治27年(1894)10月蘇水利根川尚方蘇水利根川尚方富沢義久石碑:元町1丁目稲荷神社境内2020/10/11
18不二庵榊原翁寿碑明治29年(1896)7月鴻斉居士石川英松琳藤延山崎鶴年石碑:野田神社境内2020/11/8
19松郷沿革之記明治22年(1889)11月山田遜書利根川蘇水山田遜書山崎鶴年石碑:川越熊野神社境内2020/12/6、2021/1/17
20祖前甃石碑明治32年(1899)6月市河三兼市河三兼市河三兼吉野豊石碑:川越別院成田山本行院境内2021/1/17
21修石像記明治31年(1898)2月東京青巒居士 大内退東京青巒居士 大内退石碑:喜多院五百羅漢内、拓本写真:『写真集 川越忌憚五百羅漢」』P136後2021/3/7、4/11
22石造参尊五百羅漢記享和3年(1803)11月僧正慈等石碑:喜多院五百羅漢前、拓本写真:『写真集 川越忌憚五百羅漢」』P134後2021/4/11、6/6、7/4
23星野霊刹
(星野山無量寿寺喜多院沿革碑)
明治37年(1904)1月叡嶽安楽律院兼東台浄名院大和尚 妙運本院五十四世現董兼叡嶽宝園学督国師大僧正 慈熏東台円珠沙門僧都 義良吉野豊石碑:喜多院境内2021/7/4,8/8
24威稜徳潤碑明治9年(1876)東京逸老 萩原秋巌河越迂人 佐佐泉翁東京逸老 萩原秋巌広瀬群鶴石碑:川越別院成田山本行院境内2021/9/5
25範士中井翁碑大正2年(1913)2月元帥正二位伯爵 伊東祐亮法学博士 高田早苗東台沙門 杉谷義良小池銀次郎石碑:喜多院境内2021/10/3
26親塚稲荷神祠碑天保10(1839)年4月従四位町田久成沼田順義九十一歳 柳田貞亮広群鶴石碑:烏山稲荷神社境内2021/11/14
碑陰記明治20(1887)年4月 新井政毅(まさはた)  
27鈴木政足之碑明治12(1879)年6月旧川越藩主従五位松井康載福山和一西川元譲広群鶴石碑:三芳野神社境内2021/12/5
28相場少佐之碑明治27(1894)年12月 郷友陸軍歩兵大佐従五位勲三等浅田信興戦友陸軍歩兵大尉正七位勲四等 津田教修冨澤久長石碑:三芳野神社境内2022/1/10
29古墳改葬碑明治41(1908)年3月 岡本定星野文一郎山崎松寿石碑:中院墓地2022/2/6
30御嶽神社遙拝所碑明治15(1882)年6月 先達 伊藤慶次郎中嶋与十老山崎太右衛門石碑:富士見櫓跡・御嶽神社2022/2/6
31河越氏遺愛碑
(河越重頼経重遺愛碑)
明治22(1889)年12月内大臣従一位大勲位侯爵 三條実美元老院議官兼文祈大学教授従四位勲五等文学博士 重野安繹大内青巒富沢久長石碑:養寿院境内2022/3/6
32令反惑情歌碑明治16(1883)年5月前官幣大社氷川神従社宮司大教役六位 平山省斎 中島与十郎山崎太右衛門石碑:氷川神社境内
山上憶良「令反惑情歌」の碑について
 山野清二郎
(「埼玉史談」1986年10月)
2022/4/10
令反惑情歌碑陰記明治16(1883)年5月 川越町氷川神社祠官権中講義 山田衛居小川平三郎
33勲八等大室房次郎之碑明治32(1899)年3月参謀総長陸軍大将正三位勲一等功二級子爵 川上操六川越 利根川丈雄柏原 増田忠順山崎鶴年石碑:笠幡鏡神社境内2022/5/15
34忠勇烈士之碑明治30(1897)年10月枢密顧問官正三位勲一等子爵 海江田信義衆議院議員正五位 高田早苗澤田盛斉高野金蔵石碑:古尾谷八幡神社境内2022/6/5
35整田記功之碑大正12(1923)1月神山茗園神山茗園川越市石原町 河野乙平石碑:小ヶ谷稲荷社境内2022/6/5
36(筆塚)明治32(1899)年12月勅選議員正四位勲四等文学博士 重野安繹従七位 市川三兼山崎松寿石碑:内田家門前2022/7/3
37耕地整理記念碑大正6(1917)年10月衆議院議員勲三等 粕谷義三粕谷義三川越町 石工 山崎敬一郎 石碑:小ヶ谷白山神社境内2022/8/7
38不肖男 山本治郎平山本治郎平石碑:大蓮寺墓地2022/8/7
39故周防守松平寛隆公旧塋碑明治9(1876)年3月参議木戸孝充那珂通高内田義修広群鶴石碑:喜多院境内2022/9/4
40文政7(1824)年3月 川越高□享石碑:東明寺境内2022/10/2
41川越故大夫小河原政陽之墓墓石:喜多院墓地2022/10/2
42川越故大夫白井元政墓左登墓石:喜多院墓地2022/11/6
43清節内田君寿碣銘明治41(1908)年3月正三位勲一等男爵 野邨素介野邨素介山崎松寿石碑:藤倉天神社境内2022/12/4
44高林謙三君墓誌墓石:喜多院墓地2023/1/9
45忠魂碑及石華表由来記明治43(1910)年11月乃木希典発智庄平発智庄平石碑:尾崎神社境内2023/1/9
46太陽寺盛方墓碑銘1
(盛方墓)
明和2(1765)年8月墓石:中院境内(中央)2023/2/5 @
47西福寺本堂改修記念碑昭和8(1933)年1月星野山喜多院貫首僧正 願海雄舜星野山喜多院貫首僧正 願海雄舜金龍山沙門僧都 壬生真亮石碑:西福寺境内2023/2/5 A
48岩田作兵衛翁記功碑大正10(1921)年12月鱸猛麟石碑:喜多院境内(慈眼堂下)2023/3/5
49六塚神社改築落成之碑昭和6(1931)年12月陸軍中将従三位勲二等功三級 朝久野勘十郎氷川神社社司正七位 山田年風山田年風石碑:六塚神社(元町2丁目)2023/4/9 @
50川越高等小学校改築記明治37(1904)年5月正二位勲一等伯爵 大隈重信法学博士 高田早苗高田早苗石碑:川越第一小学校地内2023/4/9 A
51太陽寺盛方墓碑銘2
(盛昌墓)
享保7(1722)年5月没墓石:中院境内(向って右側)2023/5/7 @
52肥料共同購入組合十週年記念碑明治40(1907)年4月石川巖志村宣益小池角年石碑:河岸街道交差点2023/5/7 A
53重修神垣之碑大正2(1913)年10月官幣大社氷川神社宮司從五位勲六等 中島博光川越 利根川丈雄竹香 星野文川越六反
 山ア鶴年
石碑:神明町 神明神社 社殿裏
「川越の民話と伝説」
「校注武蔵三芳野名勝図会」
2023/6/4
54森下無彊(疆ヵ)先生碑明治40(1907)年11月埼玉県知事従四位勲三等 大久保利武埼玉県事務官正六位勲五等 大城戸宗重埼玉県女子師範学校ヘ諭 木村増二 石碑:南古谷小学校地内2023/7/2 @
55征露記念碑明治39(1906)年3月10日乃木希典森下因是森下因是富亀巌石碑:南田島氷川神社境内2023/7/2 A
56友山居士墓天明8(1788)年龍洲源和鼎墓石:久下戸奥貫家墓地2023/8/6 @
57合寺記念碑大正2(1913)年7月大司教大僧正 権田雷斧二等司教権少僧 正小林正盛四等司教中僧都 中林覚翁石碑:西光院境内2023/8/6 A
58福田整理耕地之碑明治41(1908)年1月埼玉県入間郡長正六位勲五等 嶋崎広太郎川越 汪水 利根川丈雄同 莪洲 利根川鼎吉川越六反
 山崎鶴年
石碑:福田赤城神社境内2023/9/10 @
59耕地整理記念碑大正5(1916)年10月原任埼玉縣知事従四位勲三等 島田剛太郎埼玉縣入間郡長正六位勲五等 市川春太郎埼玉縣入間郡書記 神山太三郎石碑:山田山田神社境内2023/9/10 A
60廓聖院泰翁淨安居士之墓
(高橋兵右衛門安族)
(天明5(1785)年10月没)東都 鳳山巖□(セン)東都 鳳山巖□(セン)墓石:渋井蓮光寺墓地2023/10/1 @
61参宮記念碑明治26(1893)年8月東亰 栗本鋤雲川處士 片岡勇上尾 山崎恕富沢義久石碑:鹿飼神明神社境内2023/10/1 A
62三学生追悼碑大正7(1918)年7月埼玉県立川越中学校長正七位文学士 古賀毅川越 利根川丈雄竹内脩高野正三郎石碑:藤間東光寺境内
「日本少年 大正6年10月」
「日本少年 大正6年11月」
「大地の園(第二部)」
2023/11/05
63忠魂碑大正4(1915)年3月陸軍大将伯爵寺内正毅書川越 汪水 利根川丈雄新井藤助小池銀次郎石碑:藤間諏訪神社境内2023/12/03
64安田金藏墓表明治33(1900)年8月新井藤助新井藤助新井藤助藤田三五郎石碑:藤間東光寺門前2024/1/8 @
65深川浄心寺梵鐘
(元川越行伝寺梵鐘)
文久元(1861)年4月行伝寺27世日浩鋳造:鈴木重次郎好ロ梵鐘:深川浄心寺
「みて学ぶ埼玉の歴史」
2024/1/8 A
66退筆塚銘明治24(1891)年6月川越 新井政毅山崎鶴年石碑:的場・愛宕神社境内2024/2/4 @
67高橋軍曹之碑明治40(1907)年2月陸軍大將勲一等男爵乃木希典曹洞宗大学林教頭
 山田孝道
長谷部与三郎石碑:砂・高橋家門前2024/2/4 A
68星野山無量壽寺鐘銘并序元禄15(1702)年12月15日住持沙門僧正義天鋳工:椎名伊予藤原重休新編武蔵風土記稿巻の163 入間郡の82024/3/3 @
69水村精墓碑明治19(1886)年7月川越 利根川尚方友人 中嶋与十良水村家文書2024/3/3 A
70蓮馨寺釣鐘銘文元禄8(1695)年5月18日孤峯山宝池院蓮馨寺第十五世揚蓮社称誉弁意鼎寂鋳工:木村将監多濃武の雁(埼玉叢書 第2巻)2024/4/7 @
71観音寺釣鐘銘文享保7(1722)年仲夏吉旦真光寺住持権僧正仏印鋳物師:矢沢隼人藤原種求多濃武の雁(埼玉叢書第2巻)2024/4/7 A
テキスト名年 代篆額・題額出典・石碑所在開催年月日


金石文 ※漢文のみ
「川越の金石文(1)」 川越市教育委員会 1982年 ★★★
 
分 類年 代住 所場 所碑 名備 考テキスト
3記念碑大正8年(1919)4月川越市大字谷中(五差路北側角)耕地整地記念碑碑苔にて読めず
17記念碑明治26年(1893)8月川越市大字鹿飼神明神社境内参宮記念碑碑苔にて読み難し 61
18記念碑明治25年(1892)12月川越市元町2-11養寿院河越氏遺愛碑 31
21供養塔明治21年(1888)10月川越市末広町1-7栄林寺三界萬霊供養塔
31記念碑嘉永3年(1850)8月川越市末広町1-45妙養寺□蘭台大父故紙碑 12
45記念碑明治3年(1897)10月川越市古谷本郷下古尾谷八幡神社忠勇烈士之碑 34
46記念碑大正元年(1912)川越市古谷本郷下古尾谷八幡神社忠魂碑確認できず
47銅鐘明和3年(1766)川越市喜多町広済寺
52歌碑明治8年(1875)川越市大字大中居654(新井家地内)(芭蕉句碑)
57記念碑明治39年(1964)川越市大字南田島氷川神社境内征露記念碑 55
58筆塚明治32年(1899)12月川越市小ヶ谷最明寺の北方 36
69記念碑明治40年(1908)11月川越市南古谷南古谷小学校地内 54
74記念碑大正4年(1915)3月川越市藤間346−1諏訪神社境内忠魂碑 63
76記念碑大正7年(1918)7月川越市藤間1126東光寺境内三学生追悼碑 62
82記念碑明治40年(1907)5月川越市今福1275−1河岸街道交差点肥料共同購入組合十周年記念碑 52
99記念碑昭和8年(1933)1月川越市南大塚23西福寺境内西福寺本堂改修記念碑 47
113記念碑明治43年(1910)11月川越市笠幡尾崎神社忠魂碑 45
116記念碑明治32年(1899)3月川越市笠幡大町鏡神社勲八等大室房次郎之碑 33
131記念碑明治41年(1908)1月川越市福田424赤城神社境内福田整理耕地之碑 58
137記念碑大正2年(1913)7月川越市寺山5西光境内合寺記念碑碑苔にて読み難し 57
138記念碑明治26年(1893)川越市大字山田640−9安養院墓地内律師佛淡道翁生拡碑銘彫り浅く読めず
140記念碑明治34年(1901)川越市上寺山八咫神社西南の墓地内八塩栄□翁墓碑銘墓石の後にて読めず
149松平直恒の墓碑天保6年(1835)12月川越市小仙波町1-20-1喜多院松平大和守家廟所  14
150松平直温の墓碑天保15年(1844)1月川越市小仙波町1-20-1喜多院松平大和守家廟所  13
151松平斉典の墓碑慶応2年(1866)5月川越市小仙波町1-20-1喜多院松平大和守家廟所  15
152松平直侯の墓碑慶応2年(1866)10月川越市小仙波町1-20-1喜多院松平大和守家廟所  16
158記念碑大正6年(1917)10月川越市小室
→小ヶ谷156
田面沢農協傍
→小ヶ谷白山神社境内
耕地整理記念碑  36
159記念碑大正12年(1923)正月川越市小ヶ谷川越橋堤防摺付の下
→稲荷社境内
整田記功之碑  35
173記念碑明治22年(1889)11月川越市連雀町8熊野神社境内松郷沿革之記  19
178記念碑天保10年(1887)4月川越市仲町10番地烏山稲荷神社境内親塚稲荷神祠碑
裏:碑陰記
 26
181記念碑明治42年(1909)3月川越市小仙波町5−15中院境内(墓地入口付近)古墳改葬碑  29
184記念碑明治9年(1876)3月川越市小仙波町1-1-2閻魔堂内
→喜多院境内・松平大和守家廟所参道脇
故周防守松平寛隆公舊塋碑  39
185記念碑明治17年(1884)6月川越市宮下町2−11氷川神社境内五領堂先生之碑 
186記念碑明治29年(1896)7月川越市野田町1−11野田神社境内不二庵榊原翁寿碑  18
187記念碑大正10(1921)年12月川越市小仙波町喜多院境内岩田作兵衛翁記功碑  48
193記念碑昭和6年(1931)12月川越市元町2−6−9六塚稲荷神社境内六塚神社 改築落成之碑  49
196歌碑文政7年(1824)3月川越市喜多町13−1東明寺境内   40
197歌碑明治16年(1883)5月川越市宮下町2ー11氷川神社境内令反惑情歌碑
裏:令反惑情歌碑陰記
  32

「川越の金石文(2)」 川越市教育委員会 1983年 ★★★
分 類年 代住 所場 所碑 名備 考テキスト
548記念碑享和3年(1803)小仙波町1−20喜多院境内石造参尊五百羅漢記 22

「川越の金石文(3)」 川越市教育委員会 1984年 ★★★
 
分 類年 代住 所場 所碑 名備 考テキスト
198筆塚文久2年(1862)3月川越市砂708勝光寺 
201筆子塚明治25年(1893)9月川越市松原264 
213記念碑明治41年3月川越市藤倉天神社境内清節内田君寿  43
240奥貫友山の墓碑天明8年(1788)川越市久下戸508左側 56
241奥貫正康の墓碑不明川越市久下戸508左側
242奥貫正孝の墓碑文久2年(1862)川越市久下戸508右側


漢文関連
「漢文の話」 吉川幸次郎 ちくま学芸文庫 2006年
江戸の伊藤仁斎、荻生徂徠、明治の漱石、鴎外、露伴、昭和の荷風、芥川龍之介・・・・・・、日本人は漢文を愛し、日々覚えや自らの思いを漢文で記した。また、「論語」「五教」「史記」などの古典は必読の書でもあった。私たちの教養に深く入り込んでいた漢文を歴史的に解き起こし、その由来や美しさ、読む心得や特徴などをわかりやすく解説する。見慣れぬ漢字に臆せず、直感を養い、リズムを重視する――中国文学の碩学が、優れた例文を示し、漢文が本来的に持っている魅力を余すところなく語った最良の入門書。
 
第七章 近世の叙事の文章としての「古文 」碑誌伝状の文章
 以上のような議論の文章とならんで、唐末以後の「古文」の文学の、重要な部分となるのは、種種の形の伝記の文章である。叙事の文章である点は、歴史書の文章とおなじであるけれども、公的な記録である歴史書の「列伝」が、歴史の組成にあずかった重要な人物の伝記のみを叙するのとはちがっている。歴史書にのるような重要人、著名人を対象とすることが、この種の文章にも、むろんある。しかしより多くは、友人、知己、ないしは家族など、周辺の個人についての、私的な記録としての、伝記文である。
 そのもっとも多くは「墓誌銘」の形をとる。それは墓上の石ではない。死者生前の事蹟を綴った文章を、碁盤形の石にきざみ、棺とともに墓中にうずめるのである。重要な部分は散文であるが、さいごに韻文の「銘」が加わるため、「墓誌銘」と呼ぶ。またより少い場合として、墓上に立てる「墓碣(ぼかつ)」「墓表(ぼひょう)」、更にまた大官の場合は、墓への参道に建てられる「神道碑(しんとうひ)」などがある。また、それら墓誌銘、墓碣、墓表、神道碑は、友人または門下生によって書かれるが、それらに材料を提供するため、家族もしくは門下生によって書かれた最も詳しい伝記は、「行状(ぎょうじょう)」「行実(こうじつ)」などと呼ばれる。その他ぶっつけに何某の「伝」というのもあり、あわせて「碑誌伝状(ひしでんじょう)」の文という。要するに個人の私的な伝記である。しかしそれゆえに、個人の事蹟を記述しつつも、それによってひろく人間の問題を説こうとする態度が、一そう顕著である。一そうというのは、「史記」以来の歴史書の「列伝」が、すでにそうであろうとする傾斜をもつからであるが、「碑誌伝状」の「古文」は、一そうその機会に富む。歴史書を大きなロマンとすれば、これは私小説である。
   (後略)

「漢文脈と近代日本」 齋藤希史 角川ソフィア文庫 2014年 ★
政治と学問、隠逸と感傷を軸とする漢文脈は、幕末の志士や、漱石・鴎外をはじめとする明治知識人たちの思考と感情の支えとなった。一方、機能化された訓読体は、文明開化のメディアとなり、新しい「文学」への道を用意する。漢文は言文一致で衰えたのか、いまなお日本文化の底に流れているのか――。大げさで古くさい文体でもなく、現代に活かす古典の知恵だけでもない、「もう一つのことばの世界」として漢文脈を捉え直す。
 
第一章 漢文の読み書きはなぜ広まったのか――『日本外史』と訓読の声
 『日本外史』の完成
 さて、『日本外史』の草稿は、だいたい文化六年(一八〇九)、山陽が三十歳のころには出来上がっていたようです。その後、論賛を加えるなど増補を重ね、一通りの完成を見たのは、文政九年(一八二六)、山陽四十七歳の冬でした。まさに二十年を費やしたことになります。年が明けた文政十年の詩には、こうあります。
千載将誅老姦骨  千載 将(まさ)に誅せんとす 老の姦骨
九原欲慰大冤魂  九原 慰めんと欲す 大冤魂(えんこん)
莫言鉛槧無権力  言うなかれ 鉛槧(えんざん) 権力無しと
公議終当紙上論  公議 終(つい)に当(まさ)に紙上に論ずべし      (「修史偶題」其三)
 「千年までさかのぼって姦賊(かんぞく)に筆誅(ひっちゅう)を加え、黄泉(よみ)の国までおよんで無実の忠臣の魂を慰めた。文章は無力だと言わせはしない。公議は紙上にて決するものだ」とうたうのは、初志を貫いた感慨でしょうし、『日本外史』を公にする意欲を示してもいます。この著作は、まさに天下国家を語るために書かれたというわけです。山陽は自らの「立志論」を裏切らなかったと言うべきでしょうか。
 実際、山陽は知己を通じて、この書物の写本が大学頭林述斎(はやしじゅつさい)か元老松平定信の目に触れる機会が得られるよう画策しました。そして策は成功し、定信から『日本外史』献上の命がもたらされたのです。
 定信の高い評価を得た『日本外史』は、さまざまなルートで写本が流通したのですが、山陽の生前は版本として刊行されることはありませんでした。没後四年にして、ようやく木活字本の『日本外史』が刊行され、さらに弘化元年(一八四四)、親藩である川越藩(越前松平家)が開板した、いわゆる川越版の『日本外史』が出て、大ベストセラーとなったのです。
 ベストセラーの要因
 『日本外史』保元・平治の乱による源氏・平氏の台頭から徳川の天下統一に至るまで、部門の興亡を記した書物です。それが大ベストセラーとなった原因については、やはり、武家の興亡という歴史そのものの面白さがあると思われます。源平から徳川に至る時代は、今日でもNHKの大河ドラマが数年おきに必ず取り上げる時代であるように、ドラマとしての面白さがあります。そして『日本外史』は、お手本とした『史記』がそうであるように、ドラマ性や臨場感を重視してこの時期の歴史を描こうとしました。
 こうした手法は、歴史記述としては、かなりすれすれなものになります。徳富蘇峰は、『日本外史』が「藝術品として誠に能く出来て居る」と言って、『八犬伝』や『水滸伝』を読むのと変わらない小説的な構成の面白さがあることを指摘し、「保元平治より慶長元和に至る、凡そ四百五十年間に亙る時代を経となし、其間に出で来る人物を緯となし、其間の治乱興廃を、劇作家的眼光を以て之を観、劇作家的筆を揮(ふる)うて之を描き出したものだ」と称賛しています。つまり、ほとんど歴史小説としてしか見ていないようなのです。
 もう一つは、よく言われるように、君臣の分を重んじる大義名分論を、皇室と武門との関係に当て――つまり皇室が君で武門が臣とうわけです――、尊皇思想を記述の根幹としたことが、時代の好尚に合ったということもあります。もちろん大義名分をあまり強調すると、これも、史実に合わない叙述が出現することになります。『日本外史』はこの点でも、後世の批判を浴びました。
 けれども、忠孝を軸とした道徳に馴染んだ人々にとって、たとえば徳川氏が天下を統一できたのは祖先の新田氏が南朝に忠誠を尽くしたからだと説明されれば、なるほどと納得するところも大きかったに違いありません。人々がわかりやすい歴史を欲するのは、是非はともかく、いつの世もあることです。
 さらに言えば、書かれているのが武門の興亡であることが、士族階級もしくはそれへの志向をもつ人たちにとって、自らが何者であるかを知るよすがになった、ということでもあるでしょう。そういう観点からすれば、尊皇思想も、つまるところ自身の行動原理を求めてのことであったと言えますし、山陽の『日本外史』がひたすらに武門のことを記すのも、やはり士としての意識のなせるわざであったことが、見えてきます。言い換えれば、『日本外史』は、武士がいかに行動すべきか、その指針を示したものであり、かつ、指針を示したということに、大きな意味があった。思想の中身もさることながら、歴史を一つの原理、一つの流れでわかりやすく描き出し、規範を示したことが、人々に歓迎されたのです。
 読みを意識した漢文
 そして、それと同様に注目すべきは、それがわかりやすい漢文、朗誦しやすい漢文で書かれていた、ということです。たとえば川越版『日本外史』の巻頭に載せられた保岡嶺南(やすおかれいなん)の序文には、「此書質実易読、雖武人俗吏不甚識字者、皆可辨其意義[この書物は中身がしっかりしていて読みやすく、漢字をあまり知らない武人や俗吏であっても、その意義を理解することができる]」とあって、漢文を読み書きする層が拡がったその裾野に位置する者たちにも、十分に理解できると考えられていたことがわかります。煩瑣で難解になりがちな儒家の議論とは大きく異なるところです。
 先の書簡にもあったように、『日本外史』はさまざまな史料や史書を駆使して出来上がったものです。その中には和文で書かれたものも少なくなく、また史書というよりも小説に類するものもあったわけですが、山陽はそれを巧みに漢文に直しました。一種の漢作文と言ってもよいでしょう。『平家物語』の有名な一節、平清盛の子重盛が、父と後白河法皇との板ばさみになった苦しさを訴えたことばを例に挙げて見ましょう。
悲哉(かなしきかな)、君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷慮八万の頂より猶たかき父の恩、忽(たちまち)にわすれんとす。痛哉(いたましきかな)、不孝の罪をのがれんとおもへば、君の御ために既(すでに)不忠の逆臣となるぬべし、進退惟(これ)きはまれり、是非いかにも辨(わきまへ)がたし。
 見た通り、これはこれで音調もよい文章なのですが、『日本外史』では次のような漢文になっています。
欲忠則不孝、欲孝則不忠。重盛進退、窮於此矣。
 訓読して読めば、「忠ならんと欲すれば則ち孝ならず、孝ならんと欲すれば則ち忠ならず。重盛の進退、ここに窮まれり。」となります。おそらく『日本外史』の中でも最も人口に膾炙した一節だと言ってよいでしょう。簡潔かつ調子よくまとめている点で、いかにも漢文らしい文章になっていることがわかります。そして、こうした文章が人々に好まれたのもまた、素養としての漢文が広まりつつあった時代に適合していたからでした。先に述べたように、『日本外史』で書かれている歴史的事件は、それ自体がドラマティックであり、講談や芝居の素材になっているようなものも多くありましたから、『日本外史』を読む以前に、読者がその内容を熟知していたとしても、不思議ではありません。むしろ、『日本外史』を読む喜びは、歴史的な事実を知るというよりも、それが読みやすく調子のよい漢文で書かれていることに由来するのだとすら言えるのです。
 和習への非難
 『日本外史』の文章については、平明でわかりやすいという評がある一方で、俗っぽく和習に満ちている、という非難もあります。もちろん、わかりやすさと俗っぽさは、同じ文章をどういう目で見るかに依存しますから、どちらの評もでてくるのは道理です。古色蒼然たる文章こそが漢文だという立場からすれば、たしかに山陽の文章は平俗に過ぎるのかもしれません。では、和習ということについてはどうでしょうか。そもそも和習とは何を指して言うのでしょうか。
 日本人の漢文には和習があると強調したのは、荻生徂徠(おぎゅうそらい)です。徂徠は徹底して中華の言語を学ぶことを提唱し、和字・和句・和習の三つを誡めました。和字とは、平仮名や片仮名のことではなく、「和訓を以て字義を誤る」もの、つまり同訓異義の字を誤用することを言います。たとえば、「以(もって)」の代わりに「持(もって)」を使えば誰でもそれが間違いだと気づくでしょう。けれども、「聞」と「聴」など、うっかりすると間違えそうな微妙な例は少なくありません。そこを注意すべきだ、と言うのです。
 そして和習。「語気声勢の中華に純ならざる」ものだと徂徠は言います。しかしこれはなかなか判断が難しいものです。「語気声勢」は要するにことばの調子のことですから、そもそも莫然としていますし、何をもって中華に純とするか、そう簡単に言えるはずがありません。徂徠もそれは承知していて、古文辞、すなわち秦漢以前の文章こそが中華の真正の言語であると言って、一応の規準を定めたのでした。しかしこれはやや強引です。
 山陽も、文章に意を用いる以上、和字や和句は徹底して避けました。しかし徂徠の言う和習は避けなかったのです。「日東ニ生レタル儒ノ職分ニハ、和漢時勢ヲ較量(かうりやう)シ、西土[中国]ノ聖訓我邦ノ時宜ニ合スベシト云フコトヲ此(この)君民ニシラスガ当リマエ也」(前掲書簡)なる意識があれば、むしろ日本において読まれることが前提ですし、しかも『日本外史』の内容は日本のことです。その中には、しばしば官名や物名がそのまま使われたりもします。山陽にとって、それは当然のことです。中国の史書で、異域の事を記すのにその土地で生まれた漢語がしばしば用いられているのと同じだからです。
 『日本外史』の文章を実際に検討してみても、和習という非難は、どちらかと言えば『日本外史』の文章が読みやすかったことに向けられているとしたほうがよさそうなのです。『日本外史』は清朝光緒元年(一八七五)に中国広東でも出版されているのですが、その序文には「至其筆墨高古、倣之左氏以聘其奇、参之太史以著其潔、可不謂今之良史哉[その文章は古えの風格があり、左伝に倣って文章の起伏を富ませ、史記の風格をまじえて高潔さを示している。まことに今の世のすぐれた史である]」と称されています。和習がことさら非難されることはなく、その文章は『左伝』や『史記』に範をとっているとむしろ褒められているのです。
 おそらく、専門に漢文を学んでいる儒者からすれば、山陽の漢文は平明すぎて漢文らしくないと思われたのでしょう。豊後の儒者帆足万里(ほあしばんり)は、「頼生所作、無論文字鄙陋、和習錯出、加以考証疎漏、議論乖僻、真可以覆醤□、渠以是横得重名、真可怪嘆[頼とやらの書いたものは、文章は俗っぽく、和習だらけであるのはもちろん、考証もいいかげんで、議論も偏っており、味噌がめに蓋をするのにしか使えないような代物だ。こんなもので盛名を得ているとは、まったく嘆かわしい]」(復子□」『西□先生餘稿』下)と、口をきわめて非難しています。たしかに『日本外史』に考証の誤りが少なくないことは事実ですが、山陽の眼目はむし露歴史の大きな流れを明らかにすること、臨場感を大事にすることにありました。他の儒者とは目指すところがそもそも違うのです。また、文章も、山陽はむしろ平俗でこそよいと考えていたのであり、それでこそ「武人俗吏」にも読みやすいものとなったのです。

「漢字世界の地平 私たちにとって文字とは何か 齋藤希史 新潮選書 2014年 ★
「読み書き」とはいかなる行為か? 漢字論の新たなる挑戦!
私たちは漢字のことをどのくらい知っているだろう。漢字はいつどのようにして漢字となり、日本人はこれをどう受けとめて「読み書き」してきたのか。そもそも話し言葉にとって文字とは何か。和語、訓読、翻訳とは? 古代中国の甲骨文字から近代日本の言文一致へ――漢字世界の地平を展望し、そのダイナミズムを解き明かす。
 
第五章 新しい世界のことば
 訓読文の『日本外史』
 しばしば言われるように『日本外史』はさかんに暗誦された書物である。もちろん全編通じて暗誦というのはさすがに困難としても、いくつかの有名な場面について諳んじているのは珍しいことではなかった。ただし、そのすべてが漢文を直接読んで諳んじたものであるかと言えば、おそらくそうではあるまい。『日本外史』を諳んじていることと漢文が読めることは別である。というのも、すでに示したように、『日本外史』は明治のごく早い時期から全編を訓読文にしたものが出版されていて、それが『日本外史』読者の裾野を拡げたであろうことは想像に難くないからである。もちろん、読本や作文書にも、その訓読文がさかんに採録されている。
 明治以前、『日本外史』の版本は、川越版にしても頼氏版にしても、返り点のみで読み仮名は振られてはいなかったから、朗誦に便とは言い難く、独力で読み通すには一定の学力が必要だった。明治初年から版を重ねた『訓蒙日本外史』や、『啓蒙日本外史』は訓読文の本文だから、すぐに読めるし、朗誦も容易である。なお、両書ともに大槻東陽による「解」であることは先に述べた通りで、東陽の序文の日付は前者が明治六年四月、後者が翌七年一月となっている。サイズはどちらも小本、表紙の色も当時の啓蒙書類によくある黄色で共通するが、中を開けば前者は活版、後者は木版という違いがある。また、前者の校訂は長田簡斎、後者は渡辺益軒であり、訓読文や左右のルビが基本的には同じでありつつ微妙な違いも散見されるのは、あるいは校者の違いによるのかもしれない。また、木版であった後者は、明治十六年『挿画啓蒙日本外史』と題を改め、挿絵を加えて漢字平仮名交りの活版で出版しなおさている。
 興味深いのは、返り点に読み仮名を加えた『日本外史』の版本で最も早いのが管見の限り明治八年刊の吉原呼我注『点註標記日本外史』(開心庠舎)であり、のちに版を重ねた頼又二郎注『標註日本外史』(頼氏版)はさらに遅れて明治十年刊、つまり訓読文版の方が先んじていることだ。とはいえ、注釈本はどちらもサイズは中本、装いはむろん、中身も本格的だから、いかにも簡便な訓読文版に比べれば出版に時間がかかるのは異とするに足りない。むしろ訓読文版が早々に出版されたことに注意を引かれるのである。
 漢文の史書としてきちんと読むなら、原文を保存する注釈本の方がすぐれているのは自明である。考証も加えられ、字句の説明も詳細である。しかし、暗誦や朗誦ということに限れば、訓読文のテキストを使用したとしても、不都合はない。「直読スベキ片仮名雑リ」で書いてある方が読誦には便利ですらある。明治十六年の『挿画啓蒙日本外史』が片仮名交りを平仮名交りに改めているのも、もとが漢文であることを象徴的に示す片仮名を使うことよりも平仮名による読みやすさを優先させたがゆえと言える。東陽による漢文の序には、「婦女子」にも読みやすいよう平仮名を用い挿絵を加えた旨が記されているが、『日本外史』が、漢文としてでなく、訓読文、すなわち漢文の音声として裾野を拡げていったことがここにも見て取れる。音声に力点をおけば、仮名が片仮名であろうと平仮名であろうと変わりはない。訓読文は書き下しであることに意味がある。
 こうした訓読の定型化、また、それによって生み出される訓読文の定型化によって、近世後期以前はさまざまにバリエーションがあった訓読体もまた、定型化を余儀なくされていくことになる。明治の訓読体に音読語が多いのは、近世後期の訓読法に由来するが[陳 二〇〇五]、たんに訓読法の変化にのみにもとづくのではなく、素読とその書記としての訓読文というシステムが成立したがゆえに、訓読体もまた定型化したのであった。そして、その定型化によって、漢文を背後に持つ文体であることが明確に意識され、文体として一定の基準が得られ、権威を獲得することになる。そうでなければ、詔勅や法令に用いられることはなかったであろう。もちろん、基準としての漢文からの離脱は、その後、さまざまな局面において進むのであるが、訓読体が近代文体として成立するためには、一時的なものであったにせよ、この基準は大きな意味をもった。
 また、定型化された訓読体は、その出自からして権威的な性格が強いものとなったが、その表徴となったのが漢字片仮名交りという書記法であった。漢字片仮名交り文は、中世から近世にわたって、仏典や漢籍(あるいは漢訳洋書)にもとづく知識を記すために用いられてきたように、外来知識の権威を示す書記法として機能していた。それは、日本で作られた漢字語を多用する候文が、御家流の文字とともに平仮名で綴られるのとは対照的であった。
 すなわち、日常の書きことばとして広く用いられていた漢字平仮名交り文の候文とは異なり、定型化された訓読にもとづく漢字片仮名交りの訓読体は、ことさらに日常性を排除した書きことばとして登場したことになる。本章の前半で述べたように、それは翻訳という問題とも大きくかかわっている。そしてそれゆえにこそ、通用性もまた高かったのである。

「漢文と東アジア ――訓読の文化圏 金 文京 岩波新書 2010年 ☆
漢文の訓読は従来、日本独自のものと思われてきたが、近年、朝鮮、ウイグル、契丹など中国周辺の民族の言語や中国語自体の中にも同様の現象があったことが明らかになってきた。仏典の漢訳の過程にヒントを得て生まれた訓読の歴史を知ることが東アジアの文化理解に必要であることを述べ、漢文文化圏という概念を提唱する。
 
第1章 漢文を読む
 訓読文体の確立と秘伝性
 奈良時代末期からはじまった記号を用いる訓読は、語順符や句読点、レ点の応用、ヲコト点など、さまざまな方法を試行錯誤的に生み出しつつも、それらはおもに仏教書のごく一部の個所に便宜的、恣意的に用いられるにすぎなかった。この段階での訓読は、あくまでも本文を理解するための補助的な方便であったと言ってよい。
 ところが平安中期以降、院政期になると、本文の一部ではなく全文くまなく訓点を付けるようになる。かつその範囲も内典(仏書)から外典(儒教や文学の書)へと広がり、それにともなってヲコト点と語順符などを併用する方法が主流となった。『白氏文集』はその好例である。
 このことはすでに述べたように、梵語と日本語の対応関係を通じて、日本語の訓読と漢文が対等の関係に立ったことの結果であり、いわゆる国風時代のはじまりとも軌を一にしている。この時期、漢文は訓読で読むことが当たり前になり、訓読自体が目的になったと言ってもよい。
 この段階では、訓読によって本文の意味が理解できればよいというだけではなく、訓読自体の定型化した読み方、すなわち訓読の文体が問題になる。『白氏文集』を例にとると、「序ニ曰ク」と「序シテ曰ク」も、意味に変わりはないにもかかわらず、わざわざ二通りの読み方を示しているのは、本文の意味ではなく、訓読の読み方が問題になっているからである。
 このように全文に訓読を行い、かつその読み方の細かいところまでを正確に指定するには、ヲコト点は適した方法であった。しかしここにもうひとつの問題がある。ヲコト点は、どの位置の点がどの読み方に対応するのかをあらかじめ知っていなければ、読むことができない。しかもその方式は、仏教の各宗派や朝廷の博士家によって異なっており、奈良の南都系の三論宗点、喜多院点、天台宗系の西墓点、仁都波迦点、真言宗系の東南院点、円堂点、さらに博士家では清原家の明経点、菅原家の紀伝点など、さまざまな流派が精緻で煩雑な流儀を発展させた。このため点の位置や形と読み方の対応関係を図示した点図が作られたが、それらの点図は格流派によって、保持あるいは秘匿されたようである。
 このことは仏教にせよ儒学にせよ、学問が師から弟子へと秘伝的に伝授されたこの時代の学術のあり方と密接にかかわっている。したがって鎌倉時代以後、新たな仏教、儒学が生まれ、学術全体が開放的な方向へと変化した時、訓読のあり方も自ずと変わることになったのである。なお訓点という言葉は、元来はヲコト点を指したものであったが、後に「一二上下」などの訓読記号や送り仮名など点でないものも、その延長でみな訓点とよんでいる。
 訓読廃止論の限界と一斎点
     (前略)
 訓読廃止が困難な理由は少なくともふたつある。まず訓読は一定の決まりにもとづいて、記号を用いて読む方法であり、決まりと記号の意味さえ知っていれば、だれでもが比較的簡単に漢文が読める。さらに当時の鎖国の状況下で、多くの人が中国語を学習することは、まったく非現実的であったろう。のちに青木正児(まさる)(一八八七―一九六四)が提唱したように、日本の漢字音で直読する方法もありうるが、長年の習慣をやめることはやはり難しい。
 現実的に実行可能な唯一の方法は、訓読をできるだけ原文に忠実なものとすることであった。その一つの極致が、江戸末期の佐藤一斎(一七七二―一八五九)による一斎点である。一斎点は文之点と同じく、助辞をすべて読むだけでなく、さらに漢字をできるだけ訓で読まずに音読した点に特徴がある。たとえば『論語』の「人不知而不慍」は、ふつう「人知らずして慍(いか)らず」と読むが、一斎点では「人知らずして慍(うん)せず」と、「慍」の字を音で読む。これは「いかる」はふつう「怒」を使うので、混同を避け、訓読から原文を復元しやすくするためである。
 しかしこれでは逆に、「慍」が「いかる」というい意味であることをあらかじめ知っていなければ、なんのことかわからないことになってしまい、翻訳としての訓読の機能は大きく損なわれる。しかも日本語の文章としても、はなはだ奇妙である。このため一斎点は、のちに日本語の語格を故意に破壊するものであるという非難を浴びることになった 。
 一斎点の趣旨は、訓読から原文を復元することにあり、実際に「復文」とよばれる訓読からの原文復元の練習が、作文能力を高めるために、広く行われていた。これによってこの時期の日本人の漢文能力の水準は大きく向上し、かつて東涯が、日本人の漢文を評して「華人の通暁するを得ること難し」と歎いた状況は、よほど改善されたのである。
 一斎点は、いわば直読一歩手前の訓読であった。このような訓読方式の出現は、奈良時代以来の漢文学習の長い歴史の結果、漢文が公的な権威をもった最後の段階である江戸後期になって、ようやく翻訳術としての訓読を借りずに漢文をじかに理解できるレベルに多くの人が到達したことを意味する。江戸中期の学者、江村北海(一七一三―一七八八)は、「無点ノ書ヲヨミ得ルホドノ人ニハ、訓点ハモトヨリ無用ノモノナリ」(『授業編』巻三)と、訓読無用論を唱えている。
 一斎点は幕末から明治にかけて大いに流行し、明治期の漢文訓読体の文章にも大きな影響をあたえた。たとえば明治初年の政治小説として有名な東海散士の『佳人之奇遇』(一八八五刊)は、一斎点による訓読体で書かれている。
 梁啓超の逆訓読法――西洋の学問導入のために
 第二の例は、訓読が中国にあたえた影響である。明代の学者、宋濂が、日本人は訓読をするので漢文が下手だと言ったことからもわかるように、日本の訓読は近代以前、すでに中国にある程度知られていたらしい。ただし近代以前の中国人にとって、それは外国人のおかしな読み方として、好奇心もしくは軽蔑の対象以上のものではなかったであろう。しかし近代になって事情は一変する。それは日本よりおくれて西洋文明を受け入れ、改革に着手した中国が、日本を通じて西洋の学問を導入しようとしたからである。その代表的な人物は、清朝末期の改革派の主導者の一人、梁啓超(一八七三―一九二九)であった。
 一八九八年の改革派による政変、いわゆる戊戌政変が失敗に終わった後、梁啓超は同年九月に日本に亡命する。翌年の四月、彼は自ら創刊した『清議報』に、「論学日本文之益」(日本文を学ぶの益を論ず)という題の文章を書き、およそ以下のようなことを述べている。
 中国人が西洋の学術を学ぶには、西洋の本を読むよりも日本の本を読む方が手っ取り早い。その理由は、日本は中国に先んじて西洋文明を受容しており、維新以来三十年、すでに多くの翻訳の蓄積があること、また英語を学ぶのは難しいが、日本語は簡単で、特に日本文を読むのは、数日で小成、数カ月で大成できるからである。日本文は漢字が十中七、八で残りの仮名の部分は、動詞などの活用語尾か助辞である。また実字(名詞)が前に、虚字(動詞)が後に来るので、あ「その例に通じてこれを顛倒」すればよい。自分はこの方法を『和文漢読法』という本に書いたので、それを読めば、労せずして日本語を読むことができるだろう。
 これはいわば逆訓読法とでもいうべきものであろう。その原理は、先にふれた日本の復文とまったく同じで、ただ復文は訓読文をもとに漢文に復元するのに対して、梁啓超の場合は明治の漢文訓読体の文章を当時の新式の漢文に直す点が異なるだけである。
 梁啓超が自薦する『和文漢読法』とは、この年の二月に、彼が同郷の友人で彼よりも一年前に日本に来た羅晋という人物とともに、箱根塔ノ沢の環翠楼という旅館に投宿し、羅晋に日本語を習い、日本の本をいろいろ読みながら研究した結果で、彼の回想によれば一日で書きあげたというものであった。この時、梁啓超は日本に来てわずか半年、日本語はできないに等しい。先生となった羅晋の実力も知れたもので、文法などはろくに知らなかったであろう。二人はただ日本の書物の漢字だけをたよりに、仮名の助辞などを帰納類推して、この方法を考案したわけである。それはかつて中国語を知らない日本人が、漢文の助辞などを研究して訓読を編み出した過程を、いわば逆に行ったものであった。
 全四十二節からなる『和文漢読法』は、第一節でまず日本語と中国語の語順の相違を説明して、「漢文読書、日文則云〔書ヲ読ム〕、漢文遊日本、日本則云〔日本ニ遊フ〕」と、伊藤東涯や太宰春台と同じことを、これまた逆の立場から述べている。第二節以下は、助辞や活用語尾の解説、また「切符―券、票」など和製漢語を部首別にならべ、中国語に翻訳した一種の辞書などから成る。これも『桂庵和尚家法和訓』など日本の訓読教科書が、漢文の助辞の用法の説明に力をそそいでいるのと軌を一にする。
 『和文漢読法』の功罪
 『和文漢読法』は出版後、版を重ねて、当時の中国人に大きな影響をあたえた。ただしそれは中国人が日本文を読むための一種の便法としての役割をはたした反面、そのあまりに図式化、単純化された方法はしばしば誤読を生み、また中国人に日本語は簡単だという錯覚をあたえたことも否めない。
 近代中国文学の父、魯迅の弟で、兄とともに日本に留学し、後に中国随一の日本通として知られた周作人(一八八五―一九六七)に『和文漢読法』という題の随筆がある(『苦竹雑記』)。それによると、彼もまた若いころにこの本を読んだようで、その影響について、「日本語学習を広めた一方で、日本語は容易だという誤解をあたえた」と述べ、さらにこの方法は、明治初期の『佳人之奇遇』のような漢文訓読体を読む場合には、それなりに有功だが、ほかの文体では役に立たない、日本語と中国語は根本的にちがう言葉であるから、やはり一からじっくりと勉強して、日本語として日本文を読まなければだめだと、しごくまっとうな警告を発している。徂徠や春台の唐話で漢文を読まなければだめだという説と一脈通じる点、興味深いものがある。

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作成:川越原人  更新:2024/04/07