川越の漢文3(その他)


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校注武蔵三芳野名勝図会豆相記八幡宮記星野山喜多院無量寿寺記題三芳野名勝図会後詩

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「校注武蔵三芳野名勝図会」 校注/山野清二郎 川越市立図書館 1994年 ★★★
河越城 一名初雁城(ト)
豆相記
『豆相記』曰 群書類従第三百八十五巻 合戦部十七
(上略)
于茲両上杉有間昆弟之言而不和久矣、
(ここ)に両上杉に昆弟の言に間(へだて)有りて不和なること久し。
或潜自山内遣使告扇谷曰、先代之北条苗裔有新九郎氏盛(一本氏茂))者、
或ひと潜(ひそか)に山内より使を遣はして扇谷に告げて曰はく、先代の北条苗裔に新九郎氏盛(一本氏茂)なる者有り。
既主豆州、
既に豆州に主たり。
興北条久廃、
北条の久しく廃(すた)るるを興す。
此於当家累代讎敵之最也、
此れ当家に於(おい)て累代の讎敵(しうてき)の最たるなり。
今忘当敵之罰、而両家不和之事、
今当敵の罰(つみ)を忘れて両家の不和の事。
堪拍掌一咲、
(てのひら)を拍(う)ちて一咲するに堪たり。
蚤悔先非、疾調和睦、而戎夷退治之謀、不回踵、
(はや)く先非を悔い、疾(と)く和睦を調(ととの)へて、戎夷退治の謀、踵(くびす)を回(か)へさじ。
此於両家可為本意(云云)
此れ両家に於いて本意と為す可し。
扇谷対使者曰、実当家世々汚管領職、執権柄威之間、積勲漸久矣、
扇谷使者に対(こた)へて曰はく、実(まこと)に当家は世々管領職を汚し、権を柄威に執るの間、勲を積むこと漸く久し。
然北条氏盛出張于豆、襲侵地辺、此当家之急務也、
然れども北条氏盛豆に出張し、地辺を襲侵す、此れ当家の急務なり。
不可忽、
(ゆるが)せにす可からず。
最合体一志而可有誅於寇讎之旨有回答、
最も合体一志して寇讎(こうしう)を誅する有る可きの旨回答有り。
而両家和睦之事、人皆呼万歳矣、
而して両家和睦の事、人皆万歳を呼(さけべ)り。
自山内亦告扇谷曰、熟尋不和之濫觴、当家家老長尾伊玄、与貴家之耆老太田道観(灌)、極己之奢侈、震私之威勢、
山内より亦(また)扇谷に告げて曰はく、熟(つらつら)不和の濫觴を尋ぬるに、当家家老長尾伊玄、貴家の耆老太田道観(灌)と、己の奢侈を極めて、私の威勢を震ふ。
而□暢巧言令色之諛、時以浸潤膚受之讒搆二家也、    ※□(尸+婁)
而して□(しばしば)巧言令色の諛(へつら)ひを暢(の)べ、時に浸潤膚受の讒を以て二家を搆((ひ)くなり。
是可忍也孰不可忍也、
是れをも忍ぶ可くんば孰(いづ)れをか忍ぶ可からざらん。
於伊玄即可戮之、
伊玄に於いては即ちこれを戮す可し。
道観(灌)亦可見害、
道観(灌)も亦た害せらる可しと。
扇谷然之、
扇谷これを然(うべ)なふ。
而終与道観(灌)於属鏤剣矣、
而して終(つひ)に道観(灌)に属鏤(しよくる)の剣を与ふ。
此山内計策也、
此れ山内の計策なり。
故山内不誅伊玄、
故に山内は伊玄を誅さず。
和睦忽破両雄□起、六軍虎窺而大戦岩戸(比企郡高見原)(松山)福田邑矣、    ※□(逢+虫+虫))
和睦忽(たちま)ち破れ両雄□起し、六軍虎窺して大いに岩戸(比企郡高見原)(松山)福田邑に戦ふ。
(下略)
 
八幡宮 御城中ニ鎮座 別当 高松院
鎮座之年暦ハ不詳。昔ハ御本城の近辺ニ有しを、元禄五壬申年、伊豆守信輝侯、造営之時、今の地に遷し給ふと云云。
『八幡宮記』曰
『八幡宮記』に曰く
夫城者、所以講武而戒非常、防姦而備不虞、安民人而保社稷、養軍機而衛国家也、
(それ)城は、武を講て非常を戒め、姦を防て不虞に備へ、民人を安じて社稷を保ち、軍機を養ひて国家を衛る所以(ゆえん)なり。
(中略)
于茲天正十八年、東照宮徙居関之東州、同年、以此城賜酒井河内守重忠、     ※天正十八年(1590年)
(ここ)に天正十八年、東照宮居を関の東州に徙(うつ)したまひ、同年、此城を以て酒井河内守重忠に賜ふ。
重忠領此城十有九年、
重忠此城を領すること十有九年。
慶長十三年、徙上州前橋城、     ※慶長十三年(1608年)
慶長十三年、上州前橋城に徙る。
即以此城賜酒井備後守忠利、
即ち此城を以て酒井備後守忠利に賜ふ。
忠利領此城二十年、
忠利此城を領すること二十年。
至寛永四年、嫡子讃岐守忠勝襲封領此城八年、     ※寛永四年(1627年)
寛永四年に至り、嫡子讃岐守忠勝封を襲(かさ)ねて此城を領すること八年。
寛永十一年、徙若州、
寛永十一年、若州に徙る。
寛永十三年、以此城賜堀田加賀守正盛、
寛永十三年、此城を以て堀田加賀守正盛に賜ふ。
正盛領此城三年、
正盛此城を領すること三年。
寛永十五年、徙信州松本城、
寛永十五年、信州松本城に徙る。
寛永十六年、以此城賜我祖伊豆守信綱、
寛永十六年、此城を以て我が祖伊豆守信綱に賜ふ。
其頃雖有城郭之体制、門墻頽敗隍塁陵夷、郭内亦狭隘也、
其頃(ころほひ)城郭の体制有と雖も、門墻頽敗(たいはい)し隍塁(くわうるい)陵夷し、郭内も亦狭隘なり。
是以信綱、奏之蒙台許大企修造使我父甲斐守輝綱幹其事、
(ここ)を以て信綱、之を奏して台許(きょ)を蒙り大に修造を企て我が父甲斐守輝綱をして其事を幹(かん)せしむ。
乃改城郭之形勢、深隍高塁、建門楼営墻柵、経営之十有一年、
乃ち城郭の形勢を改め、隍(ほり)を深くし塁を高くし、門楼を建て墻柵を営み、之を経営すること十有一年。
而後城郭之制、全備矣、
而して後城郭の制、全く備れり。
爾来毎歳唯加修繕而已、
爾来(しかつしよりこのかた)毎歳唯(ただ)修繕を加ふるのみ。
(中略)
于茲自故時祭八幡宮於城内、高松院為之令、
(ここ)に故時より八幡宮を城内に祭り、高松院之(これ)が令為(た)り。
其地狭迫而宮殿亦朴素、
其の地狭迫にして宮殿も亦朴素(ぼくそ)なり。
且以近本城之故、来拝之徒希而境致甚寂寥、
(か)つ本城に近を以ての故に、来拝の徒(ともがら)(まれ)にして境致甚だ寂寥たり。
恐是非神意之所安焉、
恐くは是れ神意の安んずる所に非ざらんや。
陸夢観『城隍記』曰、
陸夢観が『城隍記』に曰く、
城者以保民禁姦通節内外其有功於人最大、
城は民を保て姦(かん)を禁じ節を内外に通ずるを以て其の人に功有ること最も大いなり。
故自唐以来郡県皆祭城隍、至今世猶謹
故に唐より以来(このかた)郡県皆城隍を祭ること、今の世に至るも猶ほ謹めり。
守令謁見在他神祠上、
守令の謁見他の神祠の上に在り。
社稷雖尊特以令式従事、
社稷尊しと雖も特に令の式(しき)を以て事に従ふ。
至祈禳報賽独城隍而已、
祈禳(じやう)報賽に至ては独り城隍のみと。
然則城隍之神其尊如是、
然れば則ち城隍の神其の尊きこと是(かく)の如し。
其於宮社土地胡為可軽忽乎
其の宮社土地に於為(お)ける胡為(なんすれ)ぞ軽忽す可けんや。
是以余欲修造八幡宮既有年矣、
(ここ)を以て余八幡宮を修造せんと欲すること既に年有り。
是歳相其攸而徙外郭、
是歳(ことし)其の攸(ところ)を相(み)て外郭に徙(うつ)す。
是則所以欲張宮地之広袤且便祈謁之徒也、
是れ則ち宮地の広袤(もう)を張り且つ祈謁(きえつ)の徒に便りせんと欲する所以なり。
乃造営宮室安置八幡尊像、建拝殿華表、且令鋳帳前之神鏡、
乃ち宮室を造営し八幡尊像を安置し、拝殿華表(とりゐ)を建て、且つ帳前の神鏡を鋳さしむ。
遂拓嘉日良辰、調遷宮之式、
遂に嘉日良辰を拓て、遷宮の式を調ふ。
伏願神意昭答
伏て願くは神意昭(あきらか)に答へて
聖寿万年、
聖寿万年。
国家益平、
国家益(ますます)平かに。
余門葉士民、
余が門葉士民。
□蒙多福、     ※□(彳+扁)
(あまね)く多福を蒙らんことをと。
(下略)
于時元禄五年壬申五月嘉日     ※元禄五年(1692年)
時に元禄五年壬申五月嘉日
松伊豆守信輝謹記
 
星野山喜多院無量寿寺 天台宗 東叡山末 僧正地也
御神領 二百石 寺領五百石 合七百石
寺記曰
武州入東郡(中古、入間郡ヲ分テ、入東郡・入西郡ト云。)仙波郷星野山無量寿寺者、江城之西北十里、
武州入東郡(中古、入間郡ヲ分テ、入東郡・入西郡ト云。)仙波郷星野山無量寿寺は、江城の西北十里。
其地接武野倚河越、竹樹泉石実壮観之地也、
其の地武野に接し河越に倚(よ)り、竹樹泉石実に壮観の地なり。
古老相伝云、
古老相伝て云。
昔日有真人名仙芳者、
昔日真人仙芳と名(なづく)る者有り。
不知何許人、曾来于茲而逍遥言曰、過去毘婆尸仏、説法之遺跡者、直此地也、
何許(いづこ)の人なるかを知らず、曾(かつ)て茲(ここ)に来りて逍遥し言(いひ)て曰く、「過去の毘婆尸(びばし)仏、説法の遺跡は、直に此地なり」と。
当時眼界数里、滄海漫々、而非舟航、不可進歩矣、
当時眼界数里、滄海漫々として、舟航に非れば、歩を進むる可からず。
時有一老夫卒爾来、
時に一老夫の卒爾として来る有り。
仙曰、汝為孰乎、
仙の曰く、「汝孰(たれ)(た)るか」と。
対曰、吾神龍之所化、而且此海之主也、
(こた)へて曰く、「吾は神龍の化する所にして、且(か)つ此の海の主なり」と。
仙曰、請、汝令我得一小地乎、
仙曰く、「請ふ、汝我をして一小地を得(え)しめんや」と。
老夫曰、諾、
老夫曰く、「諾」と。
仙曰、我掌中有袈裟、
仙曰く、「我が掌中に袈裟(けさ)有り。
所得之地与此大斉、
得る所の地此の大さと斉(ひと)しからん」と。
於是乃布袈裟于波上、則延及数十里、
是に於て乃(すなは)ち袈裟を波上に布くに、則ち延(のび)て数十里に及ぶ。
老夫大驚曰、今為神術故、潭底無地居、
老夫大に驚て曰く、「今神術を為(な)すの故に、潭底(たんてい)に地居する無し。
為是如何、
是が為(ため)に如何(いかん)せん」と。
仙乃留小池、而復神龍之居、
仙乃ち小池を留めて、神龍の居に復す。
(郭之東南九町余有小池、祠弁天者是也、)
(郭の東南九町余に小池有り、弁天を祠るは是なり。)
又作土仏、而投波底、則海水忽乾、而赤脚猶可歩、
又土仏を作りて、波底に投ずれば、則ち海水忽ち乾て、赤脚も猶ほ歩す可し。
竟営伽藍、
(つひ)に伽藍を営ず。
仙波之名拠焉、
仙波の名焉(これ)に拠(よ)れり。
至桓武平城之朝、堂宇傾側、而荒廃日久、
桓武・平城の朝に至て、堂宇傾側して、荒廃日久し。
淳和帝天長七年庚戌、勅慈覚大師再置寺、且賜無量寿寺之号、
淳和帝天長七年庚戌、慈覚大師に勅して再び寺を置き、且つ無量寿寺の号を賜ふ。
本尊安弥陀、左不動尊、右多聞天、
本尊は弥陀を安し、左は不動尊、右は多聞天。
又将一切経、埋于堂後之叢中、而上築一小丘、造二層塔、中安釈迦多宝二仏、
又一切経を将(もつ)て、堂後の叢中に埋て、上に一小丘を築き、二層塔を造り、中に釈迦・多宝二仏を安す。
(即云、塔之山者是也、)
(即云、塔の山は是なり。)
左祠二山王、右置白山之社、
左に二山王を祠り、右に白山の社を置く。
(白山者、即地主神也、)
(白山は、即地主神なり。)
其傍有法華三昧堂矣、
其の傍に法華三昧堂有り。
伝布密乗闡揚妙法、
密乗を伝布し妙法を闡揚(せんよう)す。
白黒之徒、
白黒の徒。
附而化者甚衆、
附して化する者甚だ衆(おほ)し。
土御門帝元久元年甲子、為兵火亡而(実朝将軍之年、此地兵乱、猶可考、)緇錫駭散、而降無能起旧業者、
土御門(つちみかど)帝元久元年甲子、兵火の為に亡びて(実朝将軍の年。此地兵乱、猶考可し。)緇錫(ししゃく)(がい)散し、而して降(のち)能く旧業を起す者無し。
滅跡廃名者、殆九十余歳、
跡を滅し名を廃するは、殆(ほと)んど九十余歳なり。
伏見亭永仁四年丙申、勅僧正尊海、令再営焉、
伏見亭永仁四年丙申、僧正尊海を勅して、再び営せしむ。
臨発言曰、以駕車之所駐、為霊境之古跡、
発するに臨んで言て曰く、「駕車の駐(とどま)る所を以て、霊境の古跡と為さん」と。
行至三芳野邑、有一小橋、
行て三芳野邑に至るに、一小橋有り。
牛及此不進、
牛此(ここ)に及んで進まず。
傍有野婦種?謡歌者、
傍に野婦の□(もちあは)を種て謡歌する者有り。 ※   □(禾+朮)
一婦歌曰、十行出仮之菩薩者、習円之無作乎、
一婦歌て曰く、「十行(じふぎやう)出仮の菩薩は、円の無作を習ふか」と。
一婦応曰、習不習観所依之文、
一婦応(こた)へて曰く、「習ふも習はざるも所依の文を観よ」と。。
亦須臾有一点星放光飛、
(また)須臾(しゆゆ)にして一点星の光を放ちて飛ぶ有り。
(堂後数十歩竹叢中、有小池、名明星水、)
(堂後数十歩竹叢中に、小池有り。明星水と名づく。)
海乃悟為霊境、而造堂奉仏矣、
海乃ち霊境為るこをを悟て、堂を造り仏を奉ず。
星野山之名本此、
星野山之名此に本(もとづ)く。
後奈良帝天文六年丁酉七月十五日、北条氏綱攻河越城、而与上杉朝定戦大克抜城、
後奈良帝天文六年丁酉七月十五日、北条氏綱河越城を攻て、上杉朝定と戦て大に克(かち)て城を抜く。
当此時、堂宇経籍悉為兵燧滅、而後地属芻蕘者五十二年、
此時に当りて、堂宇経籍悉(ことごと)く兵燧(すゐ)の為に滅し、而して後(のち)地芻蕘(すうぜう)に属すること五十二年。
嗚呼尊海没而仏声寝、霊境廃而法不起、
嗚呼(ああ)尊海没して仏声寝ね、霊境廃して法起らず。
台徒無不戚?者矣、
台徒□(はなばしら)を戚(ちぢ)めざる者無し。    ※□(安+頁)
後陽成帝天正十六戊子歳、慈眼大師初管此、
後陽成帝天正十六戊子歳、慈眼大師初て此に管す。
自患霊区之荒蕪、而心要再振宗風也、
(みづか)ら霊区の荒蕪(ぶ)を患(うれへ)て、心に再び宗風を振はんことを要す。
時源君大権現奮起于東州、
時に源君大権現東州に奮起す。
素与師相好、
素より師と相ひ好し。
一日源君問師曰、東八州之中、為台家之雄者、為孰乎、
一日源君師に問て曰く、「東八州の中(うち)、台家の雄為(た)るは、孰(いづれ)(た)るか」と。
対曰、無如無量寿寺者、
(こた)へて曰く、「無量寿寺に如(し)く者無し」と。
源君乃有復営之志、
源君乃ち復営の志有り。
慶長十七壬子年、源君猟遊河越之日、偶過茲、自採準縄而為画地、
慶長十七壬子年、源君河越に猟遊するの日、偶(たまたま)茲に過(よぎり)て、自(みづか)ら準縄を採りて為(ため)に地を画(くわく)す。
令源忠利監事、(河越城主酒井備後守)堂宇悉模天長之営、
源忠利をして事を監せしめ、(河越城主酒井備後守)堂宇悉(ことごと)く天長の営に模せり。
後陽成帝、自書星野山之三大字而賜焉、
後陽成帝、自(みづか)ら星野山の三大字を書して賜ふ。
乃顔屋頭、改本尊安薬師仏、
乃ち屋頭に顔し、本尊を改めて薬師仏を安す。
新造慈恵堂経蔵鐘楼僧舎若干間、不日而成矣、
新に慈恵堂・経蔵・鐘楼・僧舎若干間を造り、日あらずして成る。
修造爾来結夏之僧、歳不暇数百、
修造爾来(このかた)結夏(けちげ)の僧、歳に数百に暇あらず。
遠近緇白所帰依者、亦不為少矣、
遠近の緇白帰依する所の者、亦(また)少しと為(せ)ず。
源君権現薨後、慈眼大師新営東照神君之霊廟於此処矣、
源君権現薨後、慈眼大師新に東照神君の霊廟を此処に於て営す。
寛永十五戊寅年、左大臣源家光公、復改造之、令堀田加賀守正盛(河越城主)知其事、
寛永十五戊寅年、左大臣源家光公、復改めて之を造り、堀田加賀守正盛(河越城主)をして其の事を知らしむ。
金殿碧廊、巍々焉、煥々焉、
金殿碧廊、巍々(ぎぎ)たり、煥(くわん)々たり。
惟清惟静、洋々乎、如在矣、
(こ)れ清く惟れ静なり、洋々乎(やうやうこ)として、在(いま)すが如し。
大師嘗管茲、五十六年而化、
大師嘗(かつ)て茲に管すること、五十六年にして化す。
法印倫海継之未幾寂、
法印倫海之に継ぐに未だ幾(いくばく)ならずして寂す。
僧正周海次之、
僧正周海之に次ぐ。
明暦二丙申歳、右大臣家綱公、命伊豆守源信綱(河越城主)修営霊廟堂宇、
明暦二丙申歳、右大臣家綱公、伊豆守源信綱(河越城主)をして霊廟堂宇を修営せしむ。
寛文元辛丑年、周海就信綱、乞霊廟之祭田、
寛文元辛丑年、周海信綱に就て、霊廟の祭田を乞(こ)ふ。
(時信綱執天下之大柄)
(時に信綱天下の大柄を執る。)
信綱以聞、
信綱以て聞(ぶん)す。
竟加附官田二百石、供東照宮之次(粢)盛矣、
竟に官田二百石を加附し、東照宮の次(粢)盛に供す。
寛文十一辛亥年、復悉修造、令甲斐守源輝綱奉事、
寛文十一辛亥年、復た悉く修造し、甲斐守源輝綱をして事に奉ぜじむ。
(信綱子継主河越城)
(信綱子継河越城主)
嗚呼微尊海、不能起慈覚之業、
嗚呼(ああ)尊海微(なかりせ)ば、慈覚の業を起すこと能(あた)はず。
不有慈眼大師、不能振二師之頽風、
慈眼大師有らざれば、二師の頽(たい)風を振(すく)ふこと能(あた)はざらん。
後世居職於此者、豈可不仰乎
後世職を此に居る者、豈(あ)に仰(あふ)がざる可けんや。
(云云)
 
題三芳野名勝図会後詩  三芳野名勝図会の後に題するの詩

武蔵国志不伝久  武蔵国志伝はらざること久し、
古跡霊区名空朽  古跡霊区、名空しく朽(く)ちたり。
莽蒼之野八百里  莽蒼(まうそう)の野八百里、
茫々靄々幾培□  茫(ぼう)々靄(あい)々として幾培□(ほうろう)ぞ。    ※□(土+婁)
万葉千載和歌詞  万葉千載に和歌の詞(ことば)
只説曠漠寄所思  只(ただ)曠漠(くわうばく)たるを説きて思ふ所を寄す。
草間月従草間没  草間の月は従(ほしいまま)草間に没し、
霞外山偏霞外移  霞外の山は偏(ひとへ)に霞外に移る。
堪仰昇平三百載  仰ぐに堪(た)ふ昇平三百載、
千邨万落人如海  千邨(そん)(村)万落、人海の如し。
野雲散尽竈烟騰  野雲散じ尽きて竈(さう)烟騰(のぼ)り、
原草焼罷桑田改  原草焼く事罷(や)みて桑田改まる。
多是名朽跡亦湮  多くは是(こ)れ名朽(く)ちて跡も亦湮(またうづも)れ、
独有三芳野神在  独り三芳野の神の在(いま)す有るのみ。
奉祉綿々永不絶  奉祉すること綿(めん)々として永く絶えざれば、
威霊赫々列鼎□  威霊赫(かく)々として鼎□(ていだい)に列す。      ※□(乃+鼎)
玉川之陰入間郡  玉川の陰、入間郡、
河肥名区不荒磊  河肥の名区は荒磊(らい)ならず。
維昔杉氏領関東  維(これ)昔杉氏、関東を領し、
宰臣太田據武中  宰臣太田、武中に據る。
遂城此地為要害  遂(つひ)に此の地に城づくり要害と為(な)し、
遠拒信越振威風  遠く信越を拒(こば)み威風を振(ふる)ふ。
而後厳然大都会  而(しか)して後厳然たる大都会、
人富土肥四境通  人富み土肥(こ)え四境に通ず。
時清政泰多和楽  時清(たひら)けく政(まつりごと)泰くして和楽(くわらく)多く、
土人風物都且□  土人風物都(みや)びやかにして且(か)つ□(うつく)し。    ※□(女+卓)
破寺土階布黄金  破寺の土階すら黄金を布(し)き、
古城茅社施丹□  古城の茅社も丹□(たんわく)を施す。           ※□(丹+艸+隻)
糟丘肉山開亭□  糟丘肉山、亭□(ていしや)に開かれ、           ※□(木+射)
歌塵舞雲鎖楼閣  歌塵舞雲、楼閣に鎖(とざ)さる。
仮睡何羨邯鄲夢  仮(か)りの睡(ねむ)り何ぞ羨(うらや)まん邯鄲(かんたん)の夢、
遠遊無意揚州鶴  遠く遊ぶも意(こころ)無し揚州(やうしう)の鶴。
訪雪趁蛍興幾場  雪を訪(たづ)ね蛍を趁(お)ふ興幾(いく)場ぞ、
賞花弄月酔一郷  花を賞(め)で月を弄(もてあそ)びて酔ふこと一郷なり。
行楽之地偏不空  行楽の地偏(ひとへ)に空しからざらん、
名勝之跡伝更長  名勝の跡伝ふれば更に長し。
里正済美頗風流  里正済美頗(すこぶ)る風流、
好画嗜書有文章  画を好み書を嗜(たしな)みて文章有り。
図会集成無遺漏  図会集成、遺漏無く、
一城壮観一相簇  一城のごと壮観にして一(いつ)に相(あ)ひ簇(むらが)る。
恰似当年左太仲  恰(あたか)も当年の左太仲(さたいちゆう)に、
蜀都山川待賦秀  蜀都の山川、賦の秀(ひい)づるを待つに似たり。
享和二年壬戌臘月五日
          野火止(のびどめ) 菅清成

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作成:川越原人  更新:2021/09/23