川越の古墳


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「さいたま古墳めぐり―古代ロマンの70基― 宮川進 さきたま双書 1997年 ★★
 埼玉県内の古墳というと「さきたま古墳群」と「吉見百穴」の他にもあったかな?というのがふつうのようです。でも、他にも一杯あるんですよ。それぞれに大きな謎とロマンを秘めた古墳が…。ただ、そこへの行き方がわからない。むつかしい。行き方さえわかれば多くの方々に、たくさんの古墳をまわっていただき、埼玉県の古代のロマンにたっぷりとひたっていただけるのではないかと思いました。(あとがきより)

 川越にある4つの古墳が紹介されています。 

喜多院の中に… ―慈眼堂古墳
(所 在) 川越市小仙波町
(形 状) 全長80mの前方後円墳
(年 代) 6世紀
(行き方) 東武東上線・JR川越線の「川越」駅下車。歩いて約30分。喜多院の南西側の入口である「どろぼう橋」から近い。
 「喜多院には行ったけれど、古墳なんてあったかしら…と見すごされそうだが、境内には立派な前方後円墳の慈眼堂古墳がある。
 山門を入って前方左側、ちょっとした木立に囲まれ、天海僧正を記念して建てられた慈眼堂があるので、頭の中で先入観?を振り払い、改めて見直すと古墳の立派さがよくわかる。」

県内最古の方墳、鏡や釧も出土 ―三変稲荷神社古墳
(所 在) 川越市小仙波町4丁目
(形 状) 一辺20〜25mの方墳
(年 代) 4世紀末
(行き方) 東武東上線・JR川越線「川越」駅下車。喜多院の南東にある。歩いて約20分。
 「決して大きくない、普通のお稲荷さんの祠がのっている、単なる土盛りのようなものだが、どうして、どうして、県内で十指に入る古い古墳。方墳としては県内で最古(4世紀後半)という立派な古墳である。
 出土品もみごとだ。鏡(径13.4cmのだ龍鏡)や碧玉製石釧、そして古墳の古さをさらに立証する底部穿孔壺形土器という埴輪の前身である土器が多量に配列してあったようである。
 今、これらの出土品は川越城本丸御殿そばにある川越市立博物館の中に展示されているので、ぜひ見ておきたい。」

のんびり、牛の寝姿 ―牛塚古墳
(所 在) 川越市的場牛塚
(形 状) 全長47mの前方後円墳
(年 代) 7世紀初め
(行き方) 東武東上線「霞ヶ関」駅下車。JR川越線の線路の方へ約15分歩く。
 「入間川流域最大の前方後円墳である。JR川越線の線路のそばに、その名のとおり、牛が一匹寝そべっているような古墳だ。
 的場古墳群を形成していたもので、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、三十ばかりとあって、この辺り、古墳が群集していたようである。
 その中で一番大きな前方後円墳だから、ボスの中のボスだったのだろう。昭和40・41年に発掘調査が行われたが、すでに一部荒らされていた。」

あたたかさとやさしさと ―山王塚古墳
(所 在) 川越市豊田本字中原2116他
(形 状) 方形部63m、円形部径47m、高さ4.5mの上円下方墳
(年 代) 7世紀初め
(行き方) 西武新宿線「南大塚」駅下車。徒歩約20分。
 「前方後円とか前方後方などという形式と比べ、この上円下方、円と正方形という幾何学模様には野性味を消す端正さがあるのだろうか、被葬者は猛々しいだけの支配者ではなかったような気がする。
 そして、広い、大きな下方部は、同じ上円下方墳で有名な熊谷の宮塚古墳が青年貴族的な感じがするのと対照的に、何となく、その乳母のようなあたたかい母性が感じられる。
 このような山王塚を含む古墳群は南大塚古墳群といい、川越市の西部にあっていま7基の古墳が残されている。」

「【探訪】武蔵の古墳」 野崎正俊 新人物往来社 1998年 ★★
埼玉県/川越市
30 山王塚古墳  市史跡
 川越市大塚新田山王前436-1
 〔墳形〕上円下方墳 〔築造〕不明
 山王塚古墳を主墳とする南大塚古墳群は川越台地の北西縁部に築かれ、北西2キロを流れる入間川によって形成された沖積地に臨んでいる。これまでのところ20基が確認されている。
 国道16号線から関越自動車道に入る入口の300メートルほど北にある。古墳群の最西端に1基だけ離れて築かれている。周辺は徐々に開発がおよんで来ているとはいえ、古墳の周囲にはまだ自然や畑が残っていて、墳丘もこんもりとした山林がそのまま保持されている。それだけに保存状態も良好ということができる。
 ところで山王塚古墳が特異な古墳として知られているのは、奈良県明日香村の石舞台古墳、奈良県と京都府にまたがる石のカラト古墳、京都府の天智天皇陵(山科御廟野古墳)などにみられる上円下方墳という大変珍しい墳形をしているからである。埼玉県内では熊谷市の宮塚古墳も同じ形の古墳であり、国史跡に指定されているが、この山王塚古墳のほうが規模がはるかに大きく、東日本最大の上円下方墳である。
 一辺63メートル、高さ1メートルの正方形の方形部の上に、直径47メートル、高さ4.5メートルの円形部が乗っている。そして方形部の南辺と東辺の外側には幅5メートルの周堀が今でも残っているが、かつては古墳全体に巡らされていたものと考えられている。
 墳丘南側の鳥居をくぐって墳丘につけられた参道を登っていくと、墳頂の山王神社の祠に至るが、この程度大きな墳丘となると、古墳というよりも林の中の小道を歩いて行くという感じである。このように現在は古墳の正面は南を向いているが、本来は西側が正面であったようで、ここには陪冢らしき小古墳があったほか、ほかの辺よりも幅の広い周堀があったことが分かっている。
 発掘調査が行われていないので埋葬施設は不明であるが、墳頂近くに盗掘の跡が認められるという。そして今までに古墳から出土した須恵器や土師器は川越市立博物館に保管されている。
 川越地区には入間川北岸に立地する牛塚古墳があり、山王塚古墳はこれと対峙するような形で築かれている。この2基の古墳の築造時期はほぼ同時期と考える人が多いが、古墳を築いた勢力はまったく別のものと考えられている。
31 愛宕神社古墳[母塚](ママ:正しくは父塚)  市史跡
 川越市富士見町21
 〔墳形〕円墳 〔築造〕6世紀中葉
 喜多院を中心とした小仙波古墳群に対して、新河岸川右岸の仙波台地東南端には大仙波古墳群と呼ばれる3基の古墳がある。いずれも川越市街南東部の国道16号線沿いに立地しているが、愛宕神社古墳は仙波交差点から500メートルほど南の左手の広場の開けた場所の奥にある。富士見町交差点からは100メートルほど北である。
 現地の説明板には「かつてこの付近には六つ塚稲荷の名称から考えても多くの古墳群が存在していたことがうかがえる」と記されている。説明が不十分であるが、稲荷神社を祀った塚が六つあったということなのであろうか。
 母塚(ママ)とも呼ばれる愛宕神社古墳は、直径は東西が30メートル、南北が53メートル、高さ6メートルの基壇を持つ二段築成の円墳である。墳丘南側に鳥居をくぐると、墳頂まで石段が設けられている。墳頂は平に削られて、北隅に愛宕神社の社殿が鎮座しているが、その南側にはかつてもっと大きな社殿があったことを示す基礎の切石が並んでいる。
 墳頂北縁あたりな枯れはてた樹木が数本立っているが、どうやらこれは落雷にやられたものらしい。現在の神社社殿はその後に建てられた仮社殿であるに違いない。実は愛宕神社には火除けの神が祀られていたはずであるが、そのご利益がなかったのは皮肉である。墳丘の東側は台地縁の崖になっているが、古墳には幅6メートルの周堀があったことが確認されている。
 愛宕山古墳は、一説によると鎌倉時代の武蔵七党のひとつである村山党に属した仙波七郎高家の墓だといわれるが、古墳は6世紀代の築造になるので、もとより単なる伝承にすぎない。もしそうであるとしたならば、古墳を二次的に利用したものであろう。
32 浅間神社古墳[父塚](ママ:正しくは母塚)  市史跡
 川越市富士見町33-1
 〔墳形〕円墳 〔築造〕6世紀中葉
 愛宕神社古墳から国道16号線を南に200メートルほど進むと、国道の右側にもう一本市道が平行して走っていて、その道の向こう側の奥まった所にこんもりした小山がある。これが浅間神社古墳である。現地の説明板には高さ5メートル、周囲42メートルの円墳であると記されているが、周囲というのは直径の誤記である。ただし最近の調査によると、浅間神社古墳の大きさは直径38メートル、高さ5.8メートルとなっている。正面の石鳥居の右側には富士浅間神社と書かれた石柱の標識が立っているので、富士山の浅間神社をこの地に勧請したことが分かる。
 鳥居をくぐって古墳に上る前に、左のほうを見ると、県指定・旧跡「占肩の鹿見塚」という石碑と説明板が立っている。『万葉集』巻14の中の歌を引用して、このあたりの地名に「シシミ塚」「シロシ塚」というのがあったことから、ここが古代において鹿狩りが行われた場所であり、鹿が寄って来るのを望む塚があったという言い伝えが紹介されている。
 その鹿見塚は1914年に200メートルほど南を通る東武東上線開設工事のために破壊消滅してしまた。したがってこの石碑は便宜上選ばれたこの場所に立てられているわけである。
 浅間神社古墳の現状はこんもりと木々が茂る丘であるが、石段を上ると墳頂は平らにならされて浅間神社の社殿が建っている。社殿の裏手に溶岩を模した岩で囲まれた直径1メートル位の穴が開いている。説明によると、富士山山頂の噴火を模した擬山であり、開運および安全を祈願するものだという。浅間神社は江戸中期に浅間信仰が盛んになった時に創建された神社である。
 古墳の埋葬施設は、愛宕神社古墳の場合と同じく未発掘のために不明であるが、共に埴輪があり、周堀の跡が検出されている。また、浅間神社古墳出土と伝えられる直刀が残されている。
 この古墳の被葬者の具体的な名前はもとより分かろうはずはないが、おそらくは6世紀に仙波地区一帯の農耕村落を治めていた長であろうとされている。
33 三変稲荷古墳  市史跡
 川越市小仙波町4-4-9
 〔墳形〕方墳 〔築造〕4世紀末
 仙波古墳群は喜多院のあたりを中心にした6基の古墳からなるが、2キロほど離れている浅間神社古墳と愛宕神社古墳を別古墳群とみなし、残る4基の古墳を小仙波古墳群と称することがある。
 三変稲荷古墳は小仙波古墳群のひとつで、県立川越農業高校(現県立川越総合高校))の東200メートルにあり、喜多院からも500メートルほどしか離れていない。この土地の所有者は喜多院である。
 古墳の現況は東西15メートル、南北14.5メートル、高さ2.5メートルほどの墳丘を持ち、墳頂には稲荷神社の小さな社殿が建っている。社殿の裏手には欅の大木が生えていて、墳丘の封土がかなり崩れ落ちて土肌が露出していまっているので、一見円墳のように見える。しかし原形は北辺20.5メートル、南辺23メートル、西辺22メートル、東辺25メートル、高さ3メートルの方墳とされ、幅6〜7メートルの周堀があった。
 東側の道路標にある石鳥居から7、8基の赤い鳥居をくぐってゆるやかな石段を登る参道が敷設されている上に、現在の社殿改築などに際して封土が大幅に削り取られたために、墳丘が変形したものと考えられている。この時に埋葬施設は破壊されてしまったものらしく、1985年の発掘調査では見つかっていない。
 ただ1962年に墳丘西側の茶畑から碧玉製石釧が、墳頂西側から三つに割れた白銅製のほう(イに方)製四神四獣鏡が発見された。そのほかに土師器が出土している。これらの出土品から三変稲荷古墳は川越市内では最古の、おそらく入間・比企地方でもっとも古い時期の古墳のひとつであり、桶川市の熊野神社古墳と同じか、それに次ぐ4世紀第4四半期に築かれた県内有数の古式古墳であることが明らかになった。
 なお三変稲荷という名称の起源は、大昔喜多院の尊海僧正がこの稲荷神社を参詣した時に白狐が現れて、自分はインド、中国、日本に各千年ずつ住んで世の中のあらゆることを知っているといい、僧正の求めに応じて2500年前の風景を出現させた。ところが事前の約束に反して僧正が驚きの声を発したので狐の息が絶えた、といわれる。この三つの世界を変わって生きた白狐に因んでつけられた名前が三変稲荷というわけである。
34 慈眼堂古墳
 川越市小仙波町1-1-481
 〔墳形〕前方後円墳 〔築造〕7世紀初頭
 喜多院の山門から境内に入った正面にある大堂が、大師堂とも呼ばれる慈恵堂で、もちろん喜多院の本堂である。寛永15年(1638)の大火で焼失し、翌年再建された建物といわれる。
 その左手前のこんもりとした小山が慈眼堂古墳で、墳頂に建っている国重文の慈眼堂に因んで名前がつけられた古墳である。原形は著しく損なわれているものの、東西に主軸をとる前方後円墳で、全長45メートル、高さ5.4メートルを測る小仙波古墳群の主墳である。
 東照宮に面する墳丘の南側には堀がえぐられているが、これは周堀の跡ではなくて、太平洋戦争中に掘られた防空壕の名残である。
 古墳の墳丘上はすっかり平らに削平されていて、慈眼堂の裏手は墓地になっている。正面と左側から墳丘に登る石の階段が設けられているので、慈眼堂を見学することができるが、古墳裏手からも墓地に上がる道がついている。緑の木々で覆われた古墳は、これがいかにも古墳であることを認識するには時間がかからないが、手前側の墳裾は石垣で固められているので、原形がどんな形をしていたかはちょっと想像しにくい。むしろかつて防空壕があった東照宮寄りの南側のほうが古墳らしい面影を残している。
 なお慈眼堂は1643年に107歳で他界した天空(ママ:天海)僧正を記念して建立された御影堂で、慈眼大師とは天空(ママ)の謚号である。建てられたのは天空(ママ)の没後2年経った1645年で、徳川家光の命による。桁行3間、梁間3間の単層方形造りで、等身大の慈眼大師の木像が厨子の中に安置されている。
 このほかに喜多院には、山門右手に日枝神社古墳または山門前古墳とも呼ばれた多宝塔古墳がかつて存在したが、1923年に県道工事のため墳丘の大部分が取り崩され、今では日枝神社の境内にわずかに墳裾の一部が残るだけである。
35 牛塚古墳  市史跡
 川越市的場2473
 〔墳形〕前方後円墳 〔築造〕6世紀末〜7世紀初頭
 入間川中流域には古墳が多く存在するが、かつて三芳野の里と呼ばれた左岸域には的場古墳群がある。ここには30基ほどの古墳があったといわれるが、現存するのはその主墳とされる牛塚古墳1基のみである。
 JR川越線の的場駅と西川越駅のほぼ中間地点の線路の南際にあり、東京電力の高圧線の鉄塔近くの畑の中にある。東京国際大学第二キャンパスの裏手を目標にするとよい。
 牛塚古墳は1965年と66年に発掘調査が行われたが、全長47メートル、高さ4メートルの川越市内最大の前方後円墳である。
 古墳は前方部が北で、後円部が南を向いているが、後円部の先端あたりに雑草をかき分けて墳丘に上がる登り道がつけられている。墳丘上は雑草に覆われているが、ほかには数本の小さな潅木が生えているだけなので、後円部上に立っている説明板まですぐに辿り着くことができる。ただこの古墳は前方部が著しく発達した形を示しているのと、原形からかなり変形しているため、何の予備知識も持たずにいきなり訪れたのでは、南と北のどちらが前方部でどちらが後円部かはちょっと判断がつきにくい。
 発掘調査の結果、後円部から河原石を用いた片袖型横穴式石室が検出されたが、崩れた築造当所の石室の上にさらに石室が構築された重葬形式がみられる珍しい古墳であることが判明した。盗掘を受けていたものの、第一次棺床面からは金銅環、玉類、直刀、鉄鏃などが、それを覆う第二次棺床面からは金銅環、金銅製指輪、直刀、刀子、玉類、馬具などが多数出土した。墳丘からは土師器、須恵器などが見つかっている。
 金銅製指輪の出土は県内では珍しい唯一の貴重な遺品で、これらの出土品は川越市立博物館で展示されている。
 なお牛塚という名称は、かつて死んだ牛をこのあたりに多数埋めたといわれることから名づけられたといわれる。
36 舟塚古墳  市史跡
 川越市上老袋字前通191
 〔墳形〕前方後円墳 〔築造〕6世紀後半
 舟塚古墳が築かれた川越市上老袋はかつて戸数180ほどの植木村の老袋という地区であった。入間川が大きく蛇行する地点の左岸の微高地であるが、現在は堤防が築かれているのでその上に登らなければ川の流れを見ることはできない。
 国道254線を川越市街地北部の氷川町交差点から県道51号川越―上尾線を約4キロ東に向かい、入間大橋手前の老袋バス停から北へ600メートルほど入った地点にある。あたりは水田地帯であるが、その中に民家や工場が散在している。舟塚古墳は道路がカーブしている角に建つ印刷工場の横を左にちょっと曲がった所にある小高い丘である。
 この舟塚古墳は元来全長50メートルほどあった古墳で、1994年発刊の『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』によると墳形は前方後円墳である。川越市教育委員会の資料や1992年に立てられた現地の説明板には円墳と記されているが、舟塚の名が舟を伏せたような形をしていたことから付けられたことを考えると、円墳よりも前方後円墳のほうに妥当性があるように思われる。
 江戸享保年間にこの地区の名主治兵衛がここを発掘すると、周辺から円筒埴輪が出土したことから古墳であることが判明したが、この塚を掘ると罰があたらうという言い伝えがあったためにそのまま放置された。
 その後時代は明治になって1887年、植木村の小学校と村役場建設のために古墳が大きく削平された時、箱式石棺が出土し、石蓋の裏には朱塗りの丸印と四つ目結びの定紋が描かれていた。この定紋は岩槻城主太田道真の家臣であった道祖土(さいど)家の家紋であるので、古墳は江戸元亀元年(1570)に死んだ道祖土下総守家成の墓として二次利用されたものらしい。石棺は二室に分かれ、ひとつには甲冑、太刀などが、もうひとつには貴女の冠などが出土したので夫婦合葬と考えられる。古墳本来の埋葬施設は粘土槨と推定されている。
 ところで小学校と役場は1937年に火災で全焼し、隣の芳野村に移転したので、その跡地に円乗寺が建てられた。現在畑の中に残る古い2本の石柱はかつての学校の門柱である。1970年にまたも古墳の残土の一部が削り取られ、直刀片、鉄環、鉄製杏葉等が出土したが、これらは1887年の削平時に出土した遺物を埋め戻したものの一部であるとされる。
 舟塚古墳の現況は、墳丘の東側の一部が残っていて、こんもりと木が茂る小山になっている。かつて墳頂に祀られていた舟塚明神の小祠は今はないが、北側には円乗寺の墓地がある。

「むさしの古代散策手帖」 平野勝 東京地図出版 2009年 ★★
慈眼堂古墳(じげんどうこふん)
徳川家に仕えた傑僧の木像も
 川越の喜多院。武蔵国内でも有数の天台宗の大寺として知られている。だが、寺の境内周辺が遠い昔、古墳の群集地であったことを知る人は、多くはあるまい。その名残の一基が慈眼堂古墳である。
 慈眼堂古墳は、喜多院の寛永9(1632)年造立の山門(国重要文化財)をくぐって左手、うっそうと茂る木立の中にある。全長80メートルあまりの前方後円墳で、高さは改修されているが、現状で約6メートル。前方部に喜多院中興の祖とされる慈眼大師天海の木像を安置する慈眼堂が立つところから、この呼び名がある。古墳時代後期(6世紀)の構築とみられている。
 急な石段を直登して慈眼堂の前に出る。正保2(1645)年の建築で、国指定の重要文化財。重厚な中にも、扉の朱の彩りが目に鮮やかだ。
 その背後、一段高い後円部には喜多院の歴代住職の墓が並ぶ。中央にひときわ大きな天海僧正の石塔、暦応5(1342)年の青石塔婆もあって、古い寺歴を物語る。
 古代、川越地方に勢威を誇った首長が眠っているであろう後円部のその上に、名僧たちが眠る。因縁めいた巡りあわせではある。
 天海は、徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕えた傑僧。長命を保ち、寛永20(1643)年108歳で示寂したという。
 さまざまな表情を浮べて居並ぶ五百羅漢の石像(見学有料)を見て山門を出る。正面左手に平安時代の創建と伝える日枝神社。社殿と傍らを通る整備された自動車道路にはさまれて、前方後円墳の仙波日枝神社古墳(6世紀)が、窮屈そうに姿を横たえていた。
 古い川越と新しい川越。その縮景を見たような気がした。
山王塚古墳(さんのうづかこふん)
古代の栄華、今何処
 埼玉県川越市の西郊を、入間川支流の赤間川が北東へ曲流する。その右岸、開発が著しい海抜29メートルの大塚台地上にある。東日本最大とされる上円下方墳で、七世紀初めの築造とみられている。
 上円下方墳は、四角形の方墳の上に、円形の土盛りを重ねた構造をもつもの。全国的にも珍しい。(中略)
 山王塚古墳は、方形部が一辺63メートル、高さ1メートル。上円部は直径47メートル、高さが4.5メートル。方形部の周りには、幅約5メートルの周溝の一部が残る。発掘調査はまだなされていない。
 付近には、かつては18基の円墳や帆立貝式前方後円墳が残存、南大塚古墳群を総称されていた。山王塚は、その主墳だったと考えられている。
 近年、市街化の波に洗われて、古墳の多くが姿を消した。南東を走る関越自動車道の敷設に伴って破壊されて円墳からは直刀、壺形土器、鉄製ヤジリなどが出土。マンション建設で消滅した全長36メートルの帆立貝式前方後円墳からは人物・馬・家といった形象埴輪が見つかっている。古代の栄華、今何処。わびしくなった。
 晩春のすがすがしい緑の香りに包まれた坂道を、墳頂へと登った。名前の由来となった、牛頭天王を祭る山王さまの古びた石祠が、山桜の巨木の根元にひっそりと立っていた。
  (後略)

「埼玉の古墳 北足立・入間 塩野博 さきたま出版会 2004年 ★★
〔入 間〕
1 入間地方の古墳分布と研究略史
 入間地方の古墳分布
郡内を流れる三大河川の越辺川流域、高麗川流域、入間川・小畔川流域に分布している。昭和34年(1959)に行われた郡内の古墳分布調査では、とくに入間の西部地域には、近世の十三塚が多く築造されているが、古墳と認定されたのは407基である(埼玉県教育委員会編1961)。また、平成元年(1989)の「古墳詳細分布調査」では、古墳跡や横穴墓を含めて380基である(埼玉県立さきたま資料館編1994)。
 苦林古墳群の構成について
 上老袋古墳群と山田衛居の調査
 古谷古墳群出土の埴輪
 中島孝昌と蔵根古墳群
 仙波古墳群をめぐって
 石函の墨書から
2 越辺川流域の古墳
3 高麗川流域の古墳
4 入間川流域の古墳
 的場古墳群(川越市)/南大塚古墳群(川越市)/上老袋古墳群(川越市)/古谷古墳群(川越市)/蔵根古墳群(川越市)/木野目古墳群(川越市)
5 小畔川流域の古墳
 鶴ヶ丘古墳群(鶴ヶ島・川越市)/下小坂古墳群(川越市)/中野台古墳群(川越市)
6 新河岸川流域の古墳
 三変稲荷神社古墳(川越市)/仙波古墳群(川越市)/多賀町などの古墳(川越市)/岸町横穴墓群(川越市)/旧福原村今福の古墳(川越市)/旧高階村砂新田の古墳(川越市)/南久我原一号古墳(川越市)/
7 柳瀬川流域の古墳

入間 古墳発掘・発見等略年表 (川越関連を抜粋)
元 号西暦事    柄
寛永16年1639喜多院で天海僧上が多宝塔を建てる際、勾玉等を発見(寛永15年)、石函に入れ再埋納する。
寛政10年1798川越城東一里半の荒川の崖が出水のため崩れた、蔵根古墳群から勾玉などが出土した、との記載が、中島孝昌編述の『武蔵三芳野名勝図会』(享和元年)にある。
文化5年1808小林一茶著『草津道の記』に、川越砂新田の「シベイ塚」の記述がある。
文政7年182415年間を費やし『新編武蔵国風土記稿』なる。各地の古墳関係記事も多く登載されている。
明治4年1871「后妃 皇子 皇女等御陵墓」取調べの太政官御布告が各藩府県にだされた。
明治5年1872川越藩は、先の太政官御布告に対し「御布告」の御陵墓の所在について「無御座候」と届け出る。また、埼玉県は元忍藩・元浦和県について、同様に届け出る。
明治20年1887上老袋古墳群舟塚古墳が小学校建設のため発掘され、石棺から金環・馬具などが出土した。川越氷川神社の宮司山田衛居が警察に保管された出土品の調査を行った。
明治43年1910仙波村大字大仙波字中眞中で、道路工事中に岸町横穴墓4基が発掘された。
明治45年1912安部立郎が『入間郡誌』を上梓した。入間郡内の古墳や横穴墓が詳細に記述されている。
大正5年1916古谷古墳群赤城神社境内赤城塚で鉄刀や埴輪などが発見された。
南大塚古墳群山王塚古墳の西北に隣接していた円墳(山王塚西古墳)が開墾され、多くの礫が出土した。また、菅原神社の社務所建設で「二ツ塚」の採土中に人骨と大刀が出土した。
大正9年1920古谷古墳群赤城神社境内赤城塚で人物埴輪の頭部が発見された。
大正10年1921埼玉県の「古墳調」で入間郡長から、仙波村大字大仙波所在の愛宕神社古墳(父塚)を報告している。
大正13年1924仙波古墳群喜多院多宝塔古墳から、寛永16年(1639)に埋納された石函が発掘された。
昭和2年1927大場磐雄が、船津家で喜多院多宝塔古墳出土の埴輪類を調査した。
昭和4年1929浦和・熊谷・川越で「埼玉縣史料展覧会」が行われ、各地の古墳出土品等が出品された。
昭和6年1931清水嘉作が、的場古墳墳牛塚古墳発見の円筒埴輪を『埼玉史談』に紹介した。
昭和7年1932岸町横穴墓群で2基の横穴墓が発見され、人骨や須恵器などが出土した。
昭和8年1933多賀町の下水工事で埴輪が発掘された。
昭和9年1934蔵根古墳群から河川改修工事で人物埴輪などが発見され、東京帝室博物館に寄贈(昭和11年)された。
昭和22年1947岸町横穴墓群で横穴墓1基を発見した。
昭和33年1958東洋大学工学部敷地内の中野台古墳群で円墳3基(中野台1〜3号古墳)が発掘調査された。
川越市の山王塚古墳・牛塚山古墳・愛宕神社古墳(父塚)が、3月6日付けで川越市指定史跡に指定された。
昭和34年1959埼玉県教育委員会による「入間郡・川越市・飯能市・所沢市・狭山市古墳調査」が実施された。
昭和36年1961下小坂古墳群で円墳など4基(下小坂1〜4号墳)が発掘調査され、珠文鏡、馬具などが出土した。
下小坂古墳群小堤山神古墳の調査が行われ、横穴式石室を発掘した。
岸町横穴墓群岸町山下の横穴墓の調査が行われ、人骨が出土した。
昭和37年1962三変稲荷神社古墳の墳丘および西側の茶畑からだ龍鏡と石釧が発見された。
昭和38年1963下小坂古墳群どうまん塚古墳の発掘調査が行われ、主体部(木棺直葬)から乳文鏡、馬具類などが出土した。
昭和39年1964下小坂古墳群の航空写真で古墳11基(下小坂5〜11号古墳)が発見された。
下小坂古墳群西原古墳が発掘調査され、帆立貝式前方後円墳の周溝から形象埴輪類が出土した。
昭和40年1965この年から41年にかけ、的場古墳群牛塚古墳の発掘調査が3回行われ、横穴式石室から金銅製指輪などが出土した。
昭和43年1968岸町横穴墓群の1横穴墓の発掘調査が行われた。
昭和45年1970上老袋古墳群舟塚古墳跡の調査が行われた。
上老袋古墳群の舟塚古墳跡が、1月12日付けで川越市指定史跡に指定された。
下小坂古墳群の出土品が、1月12日付けで川越市指定考古資料に指定された。
昭和46年1971南大塚古墳群で関越自動車道にかかる円墳3基(南大塚1〜3号古墳)が調査され、横穴式石室や礫槨が発掘された。
昭和47年1972仙波古墳群の浅間神社古墳(母塚)が、2月8付けで川越市指定史跡に指定された。
昭和52年1977仙波古墳群喜多院多宝塔古墳の周溝調査が行われ、埴輪片が出土した。
昭和59年1984南大塚古墳群山王塚古墳の周溝確認調査が行われた。
岸町横穴墓群で昭和43年に発掘された1横穴墓の北側で、4基の横穴墓(岸町1〜4号横穴墓)が発掘調査された。
昭和60年1985三変稲荷神社古墳の周溝確認調査が行われ、焼成前底部穿孔壺形土器などが発掘された。
昭和61年1986南大塚古墳群の西中原1号古墳と、2支群1〜4号古墳が発掘調査された。4号古墳は帆立貝式前方後円墳で周溝内から円筒埴輪や形象埴輪が出土した。主体部は横穴式石室であった。
昭和62年1987岸町横穴墓群で、共同住宅の建設にともない6基の横穴墓(1・3〜7号横穴墓)と墓道1基(2号横穴墓)が発掘調査された。
昭和63年1988三変稲荷神社古墳出土品が、1月29日付けで川越市指定考古資料に指定された。
平成元年1989的場古墳群牛塚古墳の出土品が、5月12日付けで川越市指定考古資料に指定された。
平成3年1991南大塚古墳群の山王脇遺跡の一次調査で山王塚古墳の東側周溝の一部が発掘された。
平成4年1992南大塚古墳群山王塚西古墳の調査が行われ、横穴式石室から大刀や鉄鍬、瑪瑙勾玉など多くの副葬品が発掘された。
平成5年1988仙波古墳群愛宕神社古墳(父塚)遺跡の二次調査で、埴輪片を発掘した。
平成7年1995南久我原遺跡で古墳跡(方墳)1基を発掘調査し、周溝から須恵器横瓶や土師器類が出土した。
平成8年1996山王脇遺跡の五次調査で、山王塚古墳の周溝(北東コーナーの一部)を発掘した。
三変稲荷神社古墳の二次調査で、墳丘の南側側溝を発掘し、埴輪壺2点を発見した。
平成12年2000三変稲荷神社古墳(川越市)の墳丘が市指定史跡に指定された。

古墳の写真

 埼玉古墳軍


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作成:川越原人  更新:2020/11/02