河越館跡

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「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
中世館跡を訪ねて―河越館跡
河越館跡の位置
 東京の池袋から東武東上線の電車に乗って北西に約40分、川越市駅のつぎの霞ヶ関駅で下車し、北東に約10分ほど歩けば、時宗寺院の川越山常楽寺(現、川越市上戸)に着く。ここは入間川左岸に隣接し、高麗台地(入間台地)の先端部にあたる。標高は19メートルほどだが、扇状地性台地の先端に位置しているので、土地全体は北側の低地に向かってゆるやかに傾斜している。
 桓武平氏の秩父氏の流れを汲む河越氏は、平安末期以来、入間郡河越荘を基盤に発展し、武蔵国きっての有力武士として活躍したが、応安元年(1368)に平一揆の乱を起して敗北した。この河越氏の館跡の所在地については諸説あるが、『新編武蔵風土記稿』高麗郡上戸村(現、川越市上戸)の常楽寺の項には「……川越城(ママ)の旧跡なり。又大導寺駿河守砦の跡なりとも云ふ事は総説に弁ず」とあり、四方を土塁に囲まれた同寺の境内図を載せている。
 以来、この常楽寺周辺が河越館跡の有力候補地に比定され、昭和7年(1932)には埼玉県の史跡に指定された。その後、ここに近接して小学校の建設問題が起こったため、川越市教育委員会は昭和46年から十数次にわたる発掘調査を実施し、その結果、ここが土塁や堀などをめぐらした南北約300メートル、東西約240メートルのかなり大規模な館跡であることが確認された。そして昭和59年には、国指定の史跡にもなったのである。
堀に囲まれた遺構
 これまで実施した発掘調査は、河越館跡の保存管理計画を策定するためのものだったので、調査区域はおおむね外周部だけにとどまっていた。したがって館跡内部の主要部分はまだまったく未調査のままであるが、これまでに判明した調査の成果は大きなものがある。
 発見された遺構には、古墳時代から平安時代に至るまでの竪穴住居跡が約65ほど含まれているので、この館は先住人の集落の上に構築されていたことが知られる。
 主な遺構としては、古墳時代から戦国時代あたりにかけての各時代の井戸跡が45、中世の竪穴住居と見られる方形遺構が3基、墓壙が120基、竪穴と地下室がセットの中世の地下式壙が2基などのほか、多数の掘立柱の建物跡、また性格不明の土坑や石組遺構などが検出した。
 現在でも、館跡の西側部分を南北に約200メートルほど伸びる土塁があり、さらにいくつかの土塁が部分的に残存しているが、発掘調査およびレーダー探査の結果、こうした土塁の外側には堀がめぐらされてうることが確認された。そのうち、館跡の東北部に接して東西に伸びる堀は、上幅11メートル、底幅5.5メートル、深さ3−3.6メートルほどの大規模な掘割で、入間川と直接つながる運河ではなかったかと推測されている。もしそうであれば、その右岸(南岸)に密集している柱穴群は、掘立柱の倉庫であったと思われる。
多様な出土遺物 
 館跡から検出した出土遺物には、多種多様のものがあるが、とくに中世のものに限ってみても、つぎのようなものがある。
土器・陶磁器類………かわらけ・擂鉢(すりばち)・捏鉢(こねばち)・土鍋・焙烙(ほうろく)・火鉢など。古瀬戸焼や美濃焼などの花瓶(けびょう)・瓶子(へいし)・香炉・天目茶碗・おろし皿。常滑焼の大甕・片口鉢。青磁や白磁の腕・皿。染付など。
木製品………漆塗の椀・皿。曲物(まげもの)・はし・板草履など。烏帽子をつけ口ヒゲを描いた人形(ひとがた)
金属製品………小柄(こづか)・刀子(とうす)・釘・銅銭など。
石製品………滑石製石鍋・硯・砥石・温石(おんじゃく)(身体を温めるために焼く石)・石臼など。
食料品………炭化米。栗・桃の種子など。
 これらのほか、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部や70基以上の多数の板碑も出土しているが、それらは井戸や堀・溝、あるいは墓壙からある程度まとまって検出している。何らかの理由で、まとめて放棄されたのであろう。 
河越館跡の変遷 
 部分的な発掘調査とはいえ、右にみたような遺構や出土遺物から、ここがかなり大規模な館跡であることが判明した。おそらく河越氏の館跡と判断して間違いないであろう。ただし、直接的な物証がないために、ここを河越館跡と断定するのは早計であるという考えもある。
 ともあれ、もしここが河越館跡であるとすれば、河越氏はたびたび増改修を加えながら、約200年にわたってここを居館としていたことになる。そして平一揆の乱で河越氏が敗北したのちは荒廃に瀕し、その持仏堂の後身とされる常楽寺だけが、ひっそりとたたずんでいたのではないだろうか。
 その後、15世紀末に関東管領上杉(山内)顕定が上戸に陣を張ったとされるが、その陣所はこの河越館跡であったと思われる。また前出の『新編武蔵風土記稿』によれば、常楽寺は後北条氏の河越城代、大導寺駿河守(政繁)の砦であったという。おそらく河越城(現、川越市郭町)の出城の役割を果たしていたのであろう。ちなみに、常楽寺には政繁の宝篋印塔が残されている。
(田代 脩)

「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
中世/戦いと浄土の時代
  ・中世武士の実態を知る
 河越館跡(国史跡)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した河越氏の館跡である。河越氏は秩父牧の別当として下向して勢力を広げた秩父平氏の流れを汲む武蔵国の有力な武士で、鎌倉開府以降は源頼朝に従った。河越重頼の女源義経の妻に選ばれるなど優遇されたが、このことは頼朝・義経兄弟の不和が問題化するとかえってマイナスに働き、その勢力は減退させられることになった。しかし、鎌倉中期からは執権(得宗)北条氏との関係を深めて勢力を盛り返した。川越市上戸の日枝神社や小ケ谷の最明寺に北条時頼の廻国伝説が残るが、これもこうした事実の反映であろう。南北朝時代には足利尊氏に従い、入間川に布陣した子息基氏の警護をつとめ、相模国守護にも任じられた。しかし、尊氏の死後は解任され、平一揆のリーダーとして鎌倉府に反抗し、1368(応安元)年に滅ぼされている。
 このように河越氏の活動は長期にわたり、さらにその滅亡後も山内上杉氏や後北条氏によって河越館が使用された形跡もあって、中世武士の実態を知る上で、とても重要な遺跡である。現在、発掘調査が進められ、平安末期の館は簡単な堀に囲まれているに過ぎず、堀と土塁に囲まれた防御機能を持つ館は、鎌倉末期から南北朝期に出現することなどが分かり、従来の通説を大きく覆す成果をもたらしている。また、出土する遺物では、「かわらけ」が注目される。これは素焼きの皿のことで、武士の館での儀式や酒宴に用いられ、一回の使用で捨てられたものである。未使用のものを清浄なものとして、貴(たっと)んでいたのである。河越館からは大量に捨てられた跡も発見されている。また、陶磁器についても、東海地方の瀬戸や常滑(とこなめ)のほか、遠く中国大陸の龍泉(りゅうせん)や景徳鎮(けいとくちん)の青磁や白磁も出土しており、この時代の物流の活発さと広がりを示している。
 河越館跡には、現在、常楽寺という時宗寺院がある。河越氏の持仏堂が発展したものといい、西側には土塁も残っている。この常楽寺を含む二町四方が、河越館跡の領域である。埼玉県内には、このほかにも河越氏の祖秩父重隆が源義平と戦ったという伝承をもつ大蔵館跡(嵐山町)、武蔵七党の丹党の安保氏館跡(神川町)、児玉党の本拠と考えられる大久保山遺跡(本庄市)なども発掘調査されており、中世東国武士の館の様相が次第に明らかにされつつある。
 参考文献 川越市立博物館編 『第16回企画展示図録 河越氏と河越館』 2000
近代・現代/文化・環境・共生の時代
  ・文化財・歴史遺跡を大切にする
 国の文化財保護は1871(明治4)年の古器物保存法、97年の古社寺保存法、1919(大正8)年の史蹟名勝天然記念物保存法、29(昭和4)年の国宝保存法という形で制定された。1932年、県は河越館跡県指定史跡にしたが、その後の施策はなかった。一方、49年に法隆寺金堂が焼失する不祥事から、50年に文化財保護法が制定された。50年代半ばからの開発優先の高度経済成長政策は、文化財保存に危機をもたらした。69年、河越館跡では業者が宅地造成を始めた。地元学生を中心とする「川越郷土保存会」は「川越発生のゆかりのある地域が、環境破壊寸前にある。今こそ川越市民の力で文化遺産を守ろう」と市民に訴えた。1300名の署名に「河越館跡」を公用地として買い上げ、歴史公園として一般公開する要望を添えて、市に陳情書を提出した。69年11月に市は保存に動き、すでに「跡地」に土地を購入した人たちに市の責任と斡旋で代替地へ移した。ところが71年3〜4月の第一次発掘調査中、市が館跡内に小学校と運動場建設を進めていることがわかった。引き続き第二次調査が行われ、同年10月の文化庁視察の結果、「国指定になる可能性が高い」と評価された。「保存会」の地元アンケート調査では、「中世河越氏の館を知っていた65%」「指定史跡内の学校建設は変更すべき90%」「歴史公園にして市民に生きた教材として役立たせた方がよい99%」と関心が高かった。72年に保存会は「河越氏館跡を保存する会」という市民運動に発展した。文化財全国協議会や歴史学研究会なども支援活動を行った。72年8月28日に文化庁から川越市長宛に「発掘や保存のための適切な措置を」との通知も出された。その後も道路建設計画が出るなどしたが、市民レベルの保存運動で変更させた(写真(略)の急カーブ道路はその結果)。84年12月6日に国指定史跡となり、現在も歴史公園化に向けて協議が続く。
 他にも、江戸期から昭和初期の建造物群からなる川越一番街「蔵造りの街並み」は、99年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。また、蕨市の歴史資料館が行う学習会、上福岡市で掘り起こされた戦時中の火工廠跡、富士見市の難波田氏館跡の整備、吉田町の秩父事件の顕彰、北川辺町の田中正造らの活動の顕彰など、博物館や歴史資料館が住民と連携して、地域の文化財・歴史遺産を大切にする動きは今後ますます進むことだろう。
 参考文献 『河越氏とその館跡』聚海書林 1986

「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
武蔵武士河越氏の館「国史跡河越館跡」からは何が知れるか
 国史跡河越館跡(昭和59年12月6日指定)は河越太郎重頼やその子孫の館と推定され、入間川左岸低地帯を臨む入間台地の先端の標高19メートル付近にあり、時宗の常楽寺を中心に広がる館跡である。発掘調査は10次にわたるが、館の領域確定や指定地域外での開発に先立つもので、調査区域は外周部にとどまる。現在まで河越氏に直接つながる遺物はないが、館の規模は南北約300メートル・東西240メートルと、方2町(一辺が約218メートルの正方形)を上回る大規模なもので、武蔵国留守所総検校職という要職にあった河越氏の館以外には考えられないとされる。
 調査では次のように館や周辺の様子がわかりつつある。
○館内外からは古墳から奈良・平安期の竪穴住居が発掘され、縄張に際して農民層が立ち退かされた可能性が高い。
○館の外周の堀からは元宝通宝が発見されていることから、館の築城時期を平安末期に遡る可能性がある。
○館の外周には一重の土塁と二重の堀が廻っていた。
○館の前面、すなわち大手口付近には中世の掘立柱群が検出され、職人や庶民の集落が形成されていた可能性がある。
○館の東北部には、東西に延びる、上幅約11メートル、底幅約5.5メートル、深さ約3〜3.6メートルの大堀が検出され、運河と推測され、脇に倉庫群が存在した。
○土塁や堀はいく度か増改修がなされている。
○土鍋・捏鉢・擂鉢・かわらけなどの土器類のほかに古瀬戸や美濃焼・青磁や白磁などの陶磁器類や漆器を含む椀・曲物、はし、板草履、木製人形などの木器類や、石鍋・硯・温石・石臼などの石製品や、ほかに宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部や70基に及ぶ板碑などが出土し、年代は15世紀末期にまで及ぶ。
 等々である。
 河越館は、史実とあわせて、武蔵武士や在地の暮らしを知る貴重な遺跡で、長く保存したい遺跡である。
(松本 富雄)
中世城館跡の発掘調査はどこまですすんでいるか
 源平の合戦から鎌倉時代には畠山重忠など武蔵武士の登場に始まり、南北朝時代には新田氏と足利氏の抗争の舞台となり、室町から戦国時代には古河公方そして扇谷上杉・山内上杉氏が争い、後半には後北条氏、武田氏、上杉氏などの争いの舞台ともなった。埼玉の中世はまさに武士の躍動の時代といえる。そうした背景もあって、埼玉県には中世の城館跡が数多く679カ所も知られる。これら城館跡の発掘事例や考古学的実験により、中世武士像が徐々に解明されつつある。川越館跡川越市上戸の入間川左岸の台地にあり、土塁と堀に囲まれた南北約300メートル、東西約240メートルを測る大規模な館跡で、源平の時代に活躍した河肥氏の館と推定され、昭和59年(1984)に国指定史跡になった。保存管理計画策定のため、10数次にわたる外周部を中心とした発掘調査が行われ多大な成果を得ている。おもな遺構としては、古墳時代から中世にかけての井戸が45、中世の竪穴住居3、墓壙、掘立柱群、地下式壙、堀割などが発掘され、土器・陶磁器・木器石製品、宝篋印塔(ほうきょういんとう)や金泥塗彩の板碑などが出土している。これらのなかで特筆すべきものは、運河状の堀割が発掘されたことである。館の北東部に接し東西に延びる堀割は上幅11メートル、底幅5.5メートル、深さ3〜3.6メートルを測る大規模なもので、入間川につながる可能性が高い。この堀割の右岸(南)には掘立柱群が集中し、倉庫群の可能性が高い。館のみならず当時の武士の生活や交易、さらには経済活動を解く資料としてきわめて重要な発見といえる。
 戦国時代の城館跡の発掘例としては皆野町下日野沢の高松城がある。鉢形城の支城とされ、昭和50年に全面発掘調査が行われた。この調査では、本丸跡・見張櫓跡・空掘・橋脚穴遺構と、鏃・陶磁器片・古銭などが出土した。
 また、近年、鉢形城とその近辺の山城で烽火伝達実験が行われたと聞く。山城を介在すると、見事に遠方から迅速に烽火伝達が可能なことがわかったとのことである。発掘調査ばかりが考古学的歴史解明の方法ではない。こうした実験も大事な研究方法である。
(松本 富雄)

「埼玉の館城跡」 埼玉県教育委員会編 国書刊行会 1987年  ★★
 57 河越氏館
種     別
所  在  地川越市上戸新田屋敷193〜228番地、同市上戸天王171〜174番地
交 通 の 便東上線霞ヶ関駅下車徒歩10分、東武バス川越駅発坂戸町行名細支所前下車徒歩10分
土 地 所 有 者私有地(同所 常楽寺ほか)
立地・形態・面積平地 長方形 約41000u(約12000坪)
遺     構土塁・空堀共一部残存。水堀なし。
築 造 年 代鎌倉時代
城 主・居住者河越重頼 河越経重 大道寺駿河守政繁
文 献・絵 図新編武蔵風土記稿(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊) 入間郡誌(公刊) 宗祇終焉記(公刊)
伝 承・記 録河越氏は秩父氏の出で、河越荘の荘司。初め平氏に属したが、のち源氏に属し、木曾義仲の平氏追討に武功を立てた重頼はその娘京姫が義経の正妻となってから統領的武士として勢力を張った。その後重頼が誅殺された後、重頼の子孫が居館した。河越氏滅亡後は各氏が拠ったが、天正18年小田原攻めには後北条の家臣大道寺政繁が守衛したが豊臣秀吉の臣前田利家に破れた。

歴史ロマン 埼玉の城址30選」 西野博道/編著 埼玉新聞社 2005年 ★★
 <埼玉を代表する城>
2 川越城
 <武蔵武士ゆかりの城(館)>
10 河越氏館

「川越の城館跡 (改訂版) T氏自費出版 2004年 ★★★
B河越館(平安時代末期〜室町時代末期:大字上戸193〜228番地、171〜174番地・常楽寺一帯)

「河越氏とその館跡」 小泉功 聚海書林 1986年 ★★★
“河越太郎重頼公没後八百年記念”
武蔵武士団の中心的豪族であった河越氏の興亡とその館跡を、興味深く平易にまとめた郷土物語!!
第二章 河越館跡
 一 河越館跡研究のあゆみ
 文献にみる河越館跡
 入間川の左岸で、川越市の中心部より西方約3`に位置する上戸周辺は、川越の旧地だと言われている。
 川越藩主・秋元涼朝(すみとも)の家臣である大陽寺盛胤が、宝暦三年(1753)に著した川越の地誌である『多濃武之雁』によれば、
 「上戸城跡 上戸村。昔川越の城地のよし天神縁起にもあり世人みないふ事也。上戸の城といへる事いづれの書にも見えず。思ふに上戸村鯨井村と隣にて一所の域也。今上戸の城跡といへるには旧記に鯨井の城成べし。鯨井の城は北条家持国の時宮城美作守好居之、御領国となり、戸田左門一西在城す。其後廃城となり、此城に有竹林の類、みな川越に寄たりと云。此言を以て世俗に移せりと云成べし」とある。
 また、川越城下鍛冶町の町名主、中島孝昌が、享和元年(1801)に著した『武蔵三芳野名勝図会』には、「川越の名の起りは、入間川を越る謂か。河越の事(中略)は国書(中略)に所見ありと聞えず。漸やく東鑑に初て河越の名見ゆ。亦河越太郎重頼以下の一族居住の地、今いづくにや不詳。一説に大仙波村に河越太郎が館の堀跡ありといへども、甚非ならんか。すでに東鑑五に仙波次郎と云者有。然は其時代より仙波と河越と別なる事知るべし。河越の館の旧地は河越の内なるべし猶末の條下に辨すべし」
 とあり、河越氏の館については不明であるが、川越の内にあることを示唆している。
 ところが、幕府によって文化文政期(1804〜1830)に編纂された『新編武蔵風土記稿』になると、上戸地域を川越の旧地とする説をとっている。
 「本城ハ山ニヨリ外郭ハ池ヲ背ニシテ西南ノ二面ノミ平地ナリ(中略)当城ハ長禄元年(1457)四月太田備中守入道道真上杉修理大夫持朝ノ命ヲウケテ仙波ニアリシ城ヲ引移シテ要害ノ縄張アリシ処ナリト
 河越城ハ古ヘ今ノ高麗郡上戸村ニアリシトイヘリ ヨリテ今其地ニツキテ捜窮スルニ證跡トヲボシキ事少ナカラス モトヨリ上戸ノ辺昔ハ当郡ニ隷シテ河越ノ内ナリシコトハ既ニ庄名ノ條ニ辨セシ如クナレハソノ理ナシトセス 然ラバ当城始ハ上戸ニアリシヲ後又今ノ所ヘ移セシナラン 小田原記ニ仙波ヨリ移リシトイヘトイカゝアルヘキ東鑑ニノセタル河越太郎重頼等ノ事跡及ヒ南方紀伝桜雲記等ニ正平二十二年(北朝貞治六年)(1367)関東宮方一揆兵ヲ起シテ武州河越ノ城ニ楯籠ルトイヒ武家日記ニ応安元年(1368)六月武州平一揆河越ノ館ニ引籠ルトミユ
 又鎌倉大草紙ニ上杉修理大夫持朝宝徳ノ頃出家シテ道朝ト号シ河越城ニ居リシナト云コトハスヘテ高麗郡上戸村旧蹟ノ條ニ出セリ 又長禄元年コゝヘ移セシ頃ハ城塁ワツカニ今ノ本丸ノアタリノミニテ後世掻上城ト云類ナリシト云云・・・」
 以上の如く『新編武蔵風土記稿』では『東鑑』にある河越太郎重頼の事項をもとに平安末期から、南方紀伝や桜雲記を引用して、関東宮方および平一揆のあった上戸の館こそ河越館であり、上杉持朝が太田道真・道灌に命じて長禄元年(1457)に川越城を築城し移転するが、これまで続いた上戸の城館跡の地は、川越の旧地であるとしている。
 江戸幕府直撰・昌平坂学問所編による地誌であり、『多濃武之雁』『武蔵三芳野名勝図会』よりも、川越の城館跡と旧地の経過について、豊富な文献資料を検討した上で実証的に明らかにしている。この点が従来のものと明確に異なり特に注目に値するところである。

 河越館跡の研究のあゆみ
 八代国治博士は、『武蔵野』の皇室御領より見たる川越≠ナ河越庄の中心について、注目すべき説を述べており、その主要な部分について紹介しておくことにしよう。
 「河越庄の中心について・・・・・・入間川を渡った所のあの上戸の土地が河越荘の本拠であろうと思はれます。此の上戸村付近は、古来より三芳野と称せられ、伊勢物語に出て居る通り、風流者の業平が彼処で有名な歌を詠まれた程で、どうも早くから開けた所であったろうと思ふ。
 河越氏が川に臨んで河越城を開いたのであります。隨って新日吉社も亦同じく彼処に祀られたものであると思はれる。上戸の畑の真中に大きな神社があります。―中略―渡辺(世祐)博士と共に―大正二年一月三日と記憶して居るが―彼処を踏査したことがあります。その踏査のことを述べますと、字山王原に神社があります。松と杉の林の中に寂然として祀られて頗る荒廃して居るが即新日吉社であります。
 其の時の土地の人から聞いた話には、それより四、五年前までは厳然として堀が残って居った。それを心なき人が埋めて桑畑にして、私達の往った時には、毫も堀の跡を留めず、昔の面影を偲ぶよすがも無かったのであります。其の上十四、五年前まで、非常に森が茂って、朱欄苔滑かに、荘厳の気人を襲ふものがあったそうであるが、今やその森は濫伐せられて、僅かに松と杉の若木が点点と残って居るだけである。―中略―
 此の河肥の庄も、恐らく彼の山王様を中心として、順次発展したものであろうと思はれます。凡て地名に八幡とある所には必ず八幡神社があり、神社の社領のある所には必ず伊勢神宮の神明が祀られてある。それと同じやうに、河肥の庄も新日吉の社領であるから、新日吉神社が祀られたものと思はれます」
 八代国治氏は上戸を河越氏の本拠の地であり、自分の邸内に新日吉神社の大きな建物をたてて、河越荘の総鎮守とした見解を述べらている。
 この説にもとづき、私も現地を何回も訪れ踏査をしたが、よく観ると、『新編武蔵風土記稿』にみられる様に若干の土塁と堀跡の痕跡が今も認められる。
 この上戸の新日吉神社の境内から、昭和二十年の台風の際、神木が倒れ、その根元のえぐられた土層中から、剣菱文のある布目の軒瓦が検出された。現在そのうちの二枚が吉田長治氏宅に保管されている。その瓦は鎌倉時代ごろの遺物であり、同神社が、河越荘の総鎮守で、養寿院の銅鐘の銘文にある、「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」であることを補強する有力な物的資料である。
 また『大日本地名辞典』の編著者吉田東伍氏は、同書で「河越又川越、河肥に作り、旧庄名たり。近世には領名に呼び、すべて川越四附の村里を籠絡せしが、境界明白せず。或は河越の本拠を論じて、入間川の西岸、上戸村なりと言ふを以て、河越の言義に協合せしむる者あれども、未確徴を得ず」と論じている。
 同氏は河越の本拠河越氏の本拠と理解するのがその点明確でないが、あえてこのように理解した場合、未確徴を得ずとしているが、それを昭和四十六年(1971)から九次にわたる発掘調査による遺構遺物をとおして、確認することができた。その詳細を後述するが、ニ・三の例証を挙げて、課題に答えることとする。

 発掘調査はかたる
 九次にわたる発掘調査は、領域確定のための確認調査であり、したがって周辺部に主力が注がれ、字地名で言えば竜光・古屋敷・花見堂・天王と新田屋敷の一部である。
 このうち特に新田屋敷は、館の主要部分を占め、常楽寺の寺域でも発掘調査は、土塁の外側の堀の確認調査のみにとどまっている。主要部分は今後の発掘調査にまつところである。
 しかし新田屋敷なる地名は、平一揆で河越氏が衰退し、その後江戸時代になってつけられた名称で、字に古い名称がないからと言って、あたかも河越館でないようなことを言う人もいるが、これはおかしなことであり、また古屋敷の地名のところと、さらに竜光・花見堂からは、弥生や古墳時代の住居址や井戸址なども若干検出されているが、圧倒的に多いのは、平安時代の竪穴住居址や同時代から鎌倉・南北朝期にかけての掘立柱建築址・井戸址や其の他の諸遺構であり、川越市教育委員会の発掘調査報告書をみれば明確である。
 しかも館跡の北東部(第三次調査区)を発掘したところ、真間期から国分期(七世紀〜十一世紀)に至る竪穴住居址・井戸遺構が多数検出されており、館の築造以前にこの地に集落が営まれており、この地に河越氏が館の縄張りをするに当って、農民をはじめ地域住民を立ち退かせていることがわかる。したがって、平安末期の竪穴住居址が検出されたのは一軒のみで、他のはすべてそれ以前のものであった。さらには、この館には入間川に通じる運河が開設されていたことが、七次・九次の発掘調査によって検出されている。この運河の堀は上幅11b、底幅5.5b、深さ3bの大規模なもので、岸辺にもやい柱や、北側に倉庫址も確認されている。しかも、緑釉陶器の坏や、青磁・白磁片や木器・馬の歯・ホラ貝など、鎌倉時代から南北朝期頃の貴重な諸遺物が検出されている。
 入間川は急流の砂利川で、江戸時代筏が下ることはあっても、船の遡行は不可能な川であると言う人がいるが、現在の入間川の川道をみて判断するのは早計である。なぜならば、入間川の沿岸地区にあたる大東地区の増形や大袋新田・大袋・豊田本・小室・上寺山・山内一・寺山・的場・鯨井・府川・北田島などの水田地帯は、かつて入間川が運んできた土砂であり、砂利川ということ事態、変な表現であるが、砂礫を運ぶ急流であったならば、これらの地域では水田はできないはずであり、砂や礫の層で水田が経営され稲ができるであろうか。あったらそれこそ大変である。
 前述した諸字の地域の美田は、肥沃な有機質の土が入間川によって運ばれ堆積したからこそ可能なのである。明治以前には、入間川は古谷地区の蔵根・石田本郷・鴨田・菅間・府川・山田・上寺山などの地区を、しばしば川道を変えて曲流していた。大洪水の時には砂礫を上流から押し流し堆積したこともあったが、普段は豊かな流であったことが考えられる。
 古尾谷氏の館跡である「全中寺」にも運河があり舟だまり≠ェある。しかも、入間川の残した旧河川の一部である伊佐沼からは、老袋と共に、縄文時代の丸木船が出土している。
 上戸地区の現在の入間川の流域に砂礫層が多いのは、砂利取りを営業として日夜採取したためであり、現在もブロック製造のため河川敷が掘られていることをみれば明瞭である。伊佐沼から西へ直線距離で僅か5`であり、曲流する河道にしても10`弱である。
 江戸幕府が、寛政六年(1794)に荒川を入間川とに瀬替して、荒川筋の舟運を行った時には、川越では老袋と蔵根に河岸場がもうけられている。しかもこの時には秩父の武鼻にまで河岸場が設けられたほどであり、砂礫があろうと、江戸への廻米など必要物資を運搬する重要度があれば、かなりな困難を克服して舟運ができるよう改修しているのである。
 入間川へ江戸時代に舟が入らないというのは、江戸幕府が河岸場開設の認可権を有していたので、容易に開設することができなかったのである。
 しかしそれだからと言って、入間川に鎌倉時代から室町時代にかけて舟運が無かったと言う理由にはならないし、同じ時期の古尾谷氏の館に船が入るのに、河越氏の館には船の出入がないということ自体、誠に奇妙なことである。
 かつて、静岡県浜松市の伊場遺跡で、郡衛であると調査団側は遺構遺物から主張したのに対し、確証はないという学者もいたのと全くよく似ており、河越とでもいう文字のある遺物が出なければ信じないという人がいるから、全く困るのである。さも無ければ河越氏の亡霊でも出て証明しなければだめだと、思っているのであろうか。
 それより今後の研究調査の中で河越氏から上杉―北条へと同館跡がどのように変化して行くかで、もっと協力研讃した方が建設的であろう。
 二 館跡の構造と規模
   2号堀遺構/3号堀遺構/掘立柱建物遺構(A柱穴群/B井戸遺構)/館跡の大手の構造/北東部の構え堀と諸施設について/建築遺構/井戸遺構/運河について/運河とその機能/掘立柱の倉庫址について/運河の遺物/常楽寺東側の地域の遺構について/中世の住居規模/井戸遺構の分類/八次の井戸出土品

 三 河越館跡と入間川洪水伝説
 河越館跡は、入間川の左岸の台地上に築かれ、その荘園の耕地は、この館の周辺の沃野があてられた。この荘園の領主と荘民は、入間川の氾濫にたびたび遭遇している。『発心集』に入間川氾濫の情景が記るされている。
 『発心集』の作者は鴨長明(1153〜1216)である。長明は賀茂神社の禰宜、長継の子として生まれ、後鳥羽上皇にその歌才を認められ、和歌所の寄人になったが、父祖の後継者として禰宜を望んだが果たせず、五十歳で出家した。建暦元年(1211)歌人として鎌倉に下り、将軍実朝と会見し、鎌倉初期のはげしい政治的変革や、大地震・飢饉・風水害・火災などを体験し、自己の不遇な生いたちと、貴族社会の没落を重ねあわせ、世の無常と人生の敗北的いとなみを痛切に感じて、やがて日野の外山に方丈の庵をたて、『方丈記』を著した。
 また、晩年に『発心集』を著している。その内容は、百余話の仏教説話に、随想、評論、説教などの文を添えたもので、鎌倉に赴いた折の伝聞の中に、入間川の洪水伝説が記るされている。その部分について次に原文で示す。

   『発心集(慶安四年中野小左衛門刊行本)』
   武州入間河沈水事
 武蔵国入間河のほとりに、大きなるつゝみをつき、水をふせぎて、そのうちに田畠をつくりつゝ@在家おほくむらがり居たる処ありけりA官首と言ふ男なんそこにBとある物にて、年ごろすみける、ある時、五月雨日比になりて、水いかめしう出でたりける、されど、未だ年比此の堤の切れたる事なければ、さりともと驚かず、かゝる程に、雨いこぼす如くふりて、おびただしかりける夜中ばかり、俄にいかづちの如くよにおそろしくなりどよむ声あり、此の官首と家にねたる者ども皆驚きあやしみて、こは何物の声ぞとおそれあへり、官首郎等をよびて、堤のきれぬると覚ゆるぞ、出でて見よと言ふ、即ちひきあけて見るに、二三町ばかりしらみわたりて、海の面とことならず、こはいかがせんと言う程こそあれ、水ただ増りにまさりて、天井までつきぬ、官首が妻子を初めて、あるかぎり天井にのぼりて、けたうつばりにとり付きてさけぶ、この中に官首と郎等とは、ふき板をかきあげて、むねにのぼり居て、いかさまにせんと思ひめぐらす程に、此の家ゆるゆるとゆるぎて、つひにはしらの根ぬけぬ、堤なからうきて湊の方へ流れゆく、その時、郎等をとこの云ふやう、今はかうにこそ侍るめれ、海はちかくなりぬ、湊に出でなば、此やはみな浪にうちくだかれぬべし、若しやと飛入りておよぎて心み給へ、かく広く流れちりたる水なれば、自ら浅き所も侍らんと云ふをきゝて、おさなき子女房なんど、我をすてゝいづちへいまするぞと、おめく声最も悲しけれど、とても角ても助くべき力なし、我等ひとりだにもしやと思ひて、郎等男と共に水へ飛び入る程の心のうち、いけるにもあらず、しばしはふたり云合せつゝおよぎ行けど、水は早くて、はては行末しらずなりぬ、官首ただひとり、いづちとも無くゆかるゝにまかせておよぎ行く、力はすでに尽きなんとす、水は何くをきはとも見えず、今ぞおぼれしぬると心ぼそくかなしきまゝに、かこつかきには仏神をぞ念じ奉りける、いかなる罪のむくひにかゝる目を見るらんと、思はぬ事なく思ひゆく程に、白波の中にいさゝかくろみたる処の見ゆるを、若し地かとて、からうじておよぎつきて見れば、流れ残りたるあしの末葉なりけり、かばかりのあさりも無かりつ、こゝにてしばし力やすめんと思ふ間に、次第に悉くまとひつくを、驚きてさぐれば、皆大くちなは也、水に流れ行くくちなはどもの此蘆にわづかに流れかゝりて、次第にくさりつらなりつゝ、いくらともなくわだかまりゐたりけるが、物のさはるを悦びて、まきつくなりけり、むくつけく、けうとき事たとへん方なし、空はすみをぬりたらんやうにて、星一つも見えず、地はさながら白浪にて、いさゝかのあさりだになし、身には隙なくくちなはまきつきて、身も重くはたらくべき力もなし、地獄の苦しみもかばかりにこそはと夢を見る心地して、心うくかなしきこと限なし、かゝる間に、さるべき神仏の助にや、思ひの外に浅き所にかきつきて、そこにてくちなはをば、かたはしより取放ちてける、とばかり力やすむる程に、東しらみぬれば、山をしるべにて、からうじて地に著きにけり、船求めて先づ浜の方へ行きて見るに、すべて目もあてられず、浪に打破られたる家ども、算を打散らせるが如し、汀にうち寄せられたる男女馬牛の類数も知らず、其の中に官首が妻子どもを初として、我家の者ども十七人ひとり失せでありけり、泣く泣く家の方へ行きて見れば、三十余町白川原になつて、跡だになし、多かりし在家、たくはへ置きたる物、朝夕よびつかひし奴、一夜の中にほろび失せぬ、此の郎等男ひとり水心ある者にて、わづかに寿いきて、明る日尋ね来りける、かやうの事をきゝても、厭離の心をば発すべし、是を人の上とて、我かゝる事にあふまじとは、なにの故にかもて放るべき、身はあだに破れやすき身なり、世はくるしみを集めたる世なり、身はあやうけれども、争でか海山をかよはざらん、海賊おそるべしとて、すずろに宝をすつべきに非ず、況やつかへて罪をつくり、妻子の故に身をほろぼすにつけても、難にあふ事数も教らず、害にあへる故まちまちなり、只不退の国に生まれぬるばかりなん、諸の苦しみにあはざりける」

 @在家の家々があって集落を形成していた所があった。
 A冠首・貫首ともいう。任官して人の上に立つ者。また冠者は六位に叙せらても無官の者。秩父の冠者とは、秩父氏一門の惣領で葛貫別当能隆の子孫河越氏を指す。
 B重要な人物。


 この入間川洪水の情景は、河越庄とこれを支配する在地領主河越氏の姿を示したものに間違いないと思われる。
 五月雨(さみだれ)ごろに大水が出て堤防が切れ、三十余町歩ほどが全部水没して、領主の妻子をはじめ一家七人が溺死し、多数の「在家」「朝夕よびつかひし奴」が一夜にして滅び、郎党一人だけが残ったのである。この『発心集』の入間川洪水の話は、何年頃の事であろうか。鴨長明は建保四年(1216)に没しており、また貞永元年(1232)には、武蔵入間郡榑(くれ)沼堤を北条泰時が、武蔵の地頭らに命じて修築している。(この榑沼は、横沼の誤記であるとされ、入間川と越辺川の合流点である坂戸市横沼付近を指しているのであろう)
 これらのことからして入間川大洪水のこの話は、十三世紀初頭ごろのことと思われる。
 『吾妻鏡』に、建仁元年(1201)八月、関東が大暴風雨となり、倒壊する家屋多数で「十一日、下総国葛西郡海辺の潮人屋を牽き千余人が漂没」したとあり、また、建保元年の八月七日に「甚雨洪水」とある。これらは旧暦の八月は台風シーズンで、入間川洪水説話の五月雨とは合わないが、この説話の洪水も台風シーズンであったのではなかろうか。
 それにしても、入間川の氾濫にしばしば襲われた地域に、在地領主河越氏は居館を構え、私的な郎党をはじめ、下人、所従が館の一画の堀之内に、二間四方の掘立柱の家に住み、これらを包括した構えこそ機能的な館であり、本来の姿である。しかも、文字どおり、河肥≠ニいわれる肥沃な地を切り開いていった痕跡が、遺構から歴然とうかがい知ることができる。館跡一帯には、入間川の氾濫土が厚く堆積しており、こうした水覆の地に進出して困難な条件とたたかい、生産活動に勤しんでいたのである。

第三章 河越館跡と保存運動
 発掘調査に至るまで
 第一次発掘調査と保存運動
 第二次発掘調査と保存運動
 第三次発掘調査と保存運動
 第四次・第五次発掘調査と保存運動
 河越館跡領域確認調査(六次)と保存運動
 河越館跡を保存する会とニューズ
  河越館跡に立ちて(杉山博)/河越館跡は河越氏の館跡である(峯岸純夫)/河越館跡の全域保存のために(戸田芳実)
 河越館跡の調査と保存運動のあゆみ

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 鴨長明(かものちょうめい)
 1155?〜1216(久寿2?〜建保4)鎌倉初期の歌人。
(系)京都下鴨神社の正禰宜鴨長継の次男。(名)菊太夫、法名を蓮胤。<ながあきら>ともよむ。
早くから琵琶や和歌に親しんで育ったが、14歳で父を失ってから境遇は一変し、以後、世俗的には一生めぐまれなかった。河合社(ただすのやしろ)禰宜職を一族で争い破れて50歳で出家。一方歌人としては、33歳で「千載集」に1首入集して以後歌壇で認められ、地下人ながら1201(建仁1)後鳥羽上皇の和歌所寄人になる。新古今調の歌人として知られた。出家後、大原から日野へと遁世し、その間、飛鳥井雅経(あすかいまさつね)と同道して鎌倉に下り、源実朝に和歌を講じている。随筆「方丈記」は隠遁の生活・心境を記したもので、当時の文人隠遁者の様子をもっともよく表わしている。
(著)「発心集」「無明抄」、簗瀬一男編「校註鴨長明全集」全1巻、1980。
(参)簗瀬一男「鴨長明の新研究」1962。

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作成:川越原人  更新:2010/9/12