河 越 氏(2)


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「埼玉史談 第21巻第2号」 埼玉郷土文化会 1974年7月号 ★★
 河越氏系譜私考  岩城邦男
はじめに
一、重房(小太郎)
二、重時(次郎)
三、重員(三郎)
四、泰重(次郎、掃部助)
五、重資(三郎、修理亮)
六、重家(五郎)
七、経重(次郎、遠江権守)
八、某(小次郎)
九、重氏(太郎、蔵人)
十、宗重(出羽入道)
十一、高重(次郎三河守)
十二、某(三河守)
十三、某(上野介)
十四、直重(次郎、弾正少弼、治部少輔?)
むすび

「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
 南北朝内乱と鎌倉府の支配
 ●婆娑羅大名・河越直重
 南北朝内乱のころ、武蔵国には八文字一揆・武州北白旗一揆・武州中一揆・白旗一揆などの国人一揆が成立していたが、平姓秩父氏を出自とする河越・高坂・江戸氏などの一族は、平一揆と呼ばれる同族的な一揆結合を形成していた。その中核は、鎌倉時代に武蔵国留守総検校職を継承して、秩父氏一族のいわば嫡流的立場を維持していた河越氏である。河越氏の館は、現在、川越市上戸にある常楽寺あたりと推定され、昭和四六年(1971)以来、十数次にわたる発掘調査が川越市教育委員会によって実施され、さまざまな遺構や遺物が発見されている(コラム参照)。
 ところで河越弾正少弼直重(だんじょうしょうひつなおしげ)は、河越氏のどの系統につながるのか、かならずしも明らかではないが、文和二年(正平八=1353)から貞治二年(正平一八=1363)に至るまで、相模国の守護職に任じられていた。
 延文四年(正平一四=1359)一〇月に畠山国清が二〇万七〇〇〇余騎といわれる大軍勢を率いて上洛したときは、その豪華できらびやかな行軍を見物するため、摂政・関白・月卿雲客(げっけいうんかく)をはじめとする公家・武家の貴賎上下が、四宮河原から粟田口まで桟敷を構え、車をつらねて群参したという。なかでも河越直重のいでたちは人びとの耳目を驚かせたようで、『太平記』のなかに「中ニモ河越弾正少弼ハ、余リニ風情ヲ好デ、引馬三十疋、白鞍置テ引セケルガ、濃紫・薄紅・萌黄・水色・豹文、色々ニ馬ノ毛ヲ染テ、皆舎人八人ニ引セタリ」と描写されている。
 また『園太暦』(えんたいりゃく)(太政大臣洞院公賢(とういんきんかた)の日記)の同年一一月九日条によれば、上洛中の河越直重の宿舎に群盗が乱入し、名馬一疋・資財・金銀作太刀のほか、多くの刀剣を強奪したのいう。彼の派手ないでたちやふるまいが人びとの注目を集め、その結果、群盗の標的とされたのであろう。
 『太平記』のなかには、たとえば京極道誉(佐々木高氏)に代表されるような、既成の権威や秩序をものともしない、派手で奔放な婆娑羅(ばさら)大名の姿がさまざま描かれているが、富裕な経済力を誇示する河越直重も、そうした風潮のなかに身を置いた、婆娑羅の一人であったのである。
 ●平一揆の乱
 貞治六年(正平二二年=1367)四月、足利基氏が病没し、まだ九歳にすぎない嫡子金王丸(きんのうまる)が鎌倉公方の地位を継承した。関東管領は引き続き上杉憲顕がつとめて金王丸を補佐した。いっぽう京都の幕府でも、同年一二月、二代将軍義詮が病没し、わずか一〇歳の義満が家督を継ぎ、細川頼之(よりゆき)が管領としてこれを補佐した。
 幕府でも鎌倉府でも、幼主に代わって実際の政務を担当したのは、補佐役である管領や関東管領であった。
 翌応安元年(正平二三年=1368)正月、上杉憲顕は足利義満の元服の儀に参列するため、金王丸の名代として上洛したが、二月、その留守をねらって平一揆が蜂起し、鎌倉府に叛旗を翻えした。いわゆる平一揆の乱である。
 河越氏を中核に結集した平一揆は、観応の擾乱や新田義興の乱では足利尊氏に従い、また畠山国清追討にも功をあげるなど、鎌倉府体制の確立に一貫して大きな役割を果たしてきた。しかし河越直重が相模国の守護職を解任されたり、高坂氏も伊豆国の守護職や伝来の所領をおびやかされたりしたため、彼らはしだいに鎌倉府に不満を抱くようになってきた。そこで平一揆は、かつて越後国の守護職を改替(かいたい)された下野国の宇都宮氏綱と呼応して、上杉憲顕の不在をねらって挙兵したのである。
 平一揆蜂起の報が伝わると、上杉憲顕の子の憲英(のりひで)はただちに二五〇〇余騎を率いて鎌倉を発向し、乱の鎮定に赴いた。また京都に滞在中の憲顕も三月下旬に京都を出立して関東に向かい、東山道を通って領国の上野国に入り、そこで戦備を整えた。鎌倉に帰着した憲顕は、六月上旬、甥の上杉朝房(ともふさ)とともに幼主金王丸を擁して平一揆討伐に出陣した。
 追討軍は六月一一日の合戦で平一揆を破り、ついで同月一七日、河越館に引き籠った平一揆に総攻撃をかけて滅亡させた。また九月には宇都宮氏綱を攻略し、乱は鎮定された。
 乱鎮定の直後、上杉憲顕が六三歳で病没し、その子能憲(よしのり)(山内上杉氏)と甥の朝房(犬懸上杉氏)の二人がともに関東管領に任じられた。応安二年(正平二四=1369)一一月、金王丸は元服し、将軍義満の一字を与えられて氏満と名乗った。
  (後略)

「埼玉県の歴史」 小野文雄 山川出版社 1971年 ★★
 平一揆の蜂起
    (前略)
 貞治六年(1367)鎌倉公方基氏は、わずか二八歳の若さで世を去り、その子氏満(九歳)が家督を嗣いだ。ところが、この年将軍義詮も死去したので、管領上杉憲顕は氏満の代理として上京したが、その留守をついて関東では鎌倉府に不満をもつ武士たちの蠢動がはじまった。すなわち貞治七年(1368)二月、河越氏を中心とする平一揆が、河越館を中心に蜂起した。その理由は所領についての争い(「南方紀伝」)と伝える。河越氏は鎌倉期には武蔵国総検校職として在庁官人の上位にあり、観応の変の前後にも大活躍をしたが、伊豆の畠山国清討伐に際し所領のことについて葛山備中と争い、ついになすところなく鎌倉にひきかえしており、そのことに対する鎌倉府の処置に不満をもっていたのであろう。平一揆のよった川越館は小畔川と入間川にはさまれた川越市上戸の地にあったもので、今も土塁の一部がのこっている。
 平一揆の蜂起の報をうけた上杉憲顕はただちに京都を辞去し、根拠地上野に帰り、鎌倉の氏満と呼応してこれを攻めた。このため平一揆は蜂起してから数ヵ月をでない同年閏六月中旬には平定された。ところが、翌七月には上野にかくれていた新田義宗らが挙兵したが、まもなく鎮定され、義宗は討死した。おそらく平一揆の蜂起を聞き伝え挙兵したものであろう。
 ついで八月、氏満は下野の宇都宮氏綱追討の兵をだし、これを屈服させている。このあと宇都宮氏および平一揆に参加した武士たちから、観応の変で拝領した恩賞地を全部没収しているところをみると、この事件の背後には、尊氏と直義兄弟の争いにまきこまれた関東の武士たち同士の根強い反目があったように思える。それはともかくとして、この動乱によって関東八平氏のひとつとして武蔵でもっとも大きな勢力をもっていた河越氏がまったく力を失い、以後、河越氏のもとに結集していた武蔵の地侍層は、管領上杉氏の掌握下におかれることになった。 

「埼玉県の歴史」 田代脩・塩野博・重田正夫・森田武 山川出版社 1999年 ★★
 平一揆の乱
 上杉憲顕の関東管領就任にあたり、下野国の芳賀禅可(高名)が異議をとなえ、憲顕を討つため一族の宇都宮氏綱とともに出陣した。そのため、足利基氏はみずから鎌倉を出撃して苦林野(毛呂山町)に陣し、貞治二(正平十八=1363)年八月、苦林野および岩殿山(東松山市)の合戦で苦戦の末、ようやく禅可らの軍勢を打ち破った。このとき基氏の軍勢には白旗一揆五〇〇〇余騎や(へい)一揆三〇〇〇余騎などがしたがったという。
 その頃、国人(こくじん)とよばれる中小規模の武士たちは、共通の利害関係にもとづいて地縁的な結びつきを強めてきたが、そのような国人たちの組織や集団のことを一揆(国人一揆)という。武蔵国では、高麗氏が加わっていた八文字一揆や別府氏の武州北白旗一揆、金子氏の武州中一揆、児玉・猪俣・村山党を含む白旗一揆などが知られる。彼らは赤や白の色彩などを共通の目印としていたが、「平一揆・白旗一揆ハ、兼テ通ズル子細有シカバ、軍ノ勝負ニ付テ、或ハ敵トモナリ或ハ御方トモ成ベシ」(『太平記』)とあるように、利害にもとづいて独自の行動をとる不安定な存在であった。
 こうした一揆のなかでも、同族的な性格の強い特異な一揆として注目されるのが平一揆である。その中核は河越氏であるが、「平一揆ニハ高坂・江戸・古屋・土肥・土屋」(『源威集』)とあるように、河越氏のほか、高坂・江戸氏などの秩父氏一族(桓武平氏)が主要メンバーであった。当時、河越氏の家督は弾正少弼直重が継いでいたが、延文四(正平十四=1359)年に彼が畠山国清にしたがって上洛したときのいでたちは、「中ニモ河越弾正少弼ハ、余リニ風情ヲ好デ、引馬三十疋、白鞍置テ引セケルガ、濃紫・薄紅・萌黄・水色・豹文、色々ニ馬ノ毛ヲ染テ、皆舎人八人引セタリ。」(『太平記』)と特記されるほど、豪華できらびやかなものであった。そのため彼は盗賊の標的とされ、群盗に宿舎を襲われて、名馬一疋・資財・金銀作太刀のほか、多くの刀剣を強奪されたという(『園太暦』)。
 平一揆は、これまで一貫して足利尊氏や基氏にしたがい、鎌倉府体制の確立に一定の役割をはたしてきたが、やがて河越直重が相模国守護職を解任され、また高坂氏重は伊豆国守護職をおびやかされたため、彼らはしだいに鎌倉府の支配に不満をいだくようになってきた。こうして彼らは、越後国守護職を解任された下野国の宇都宮氏綱をもまきこんで、鎌倉府に反旗をひるがえす準備をひそかに進めていった。
 貞治六年、鎌倉公方足利基氏と二代将軍足利義詮があいついで病没し、鎌倉公方には基氏の嫡男金王丸が、また三代将軍には義詮の嫡男義満が就任した。翌年(応安元年)、関東管領上杉憲顕は、義満の元服の儀に金王丸の名代として列席するために上洛したが、その留守をねらって平一揆が反乱をひきおこした。いわゆる平一揆の乱である。乱勃発の知らせをうけて鎌倉に戻った上杉憲顕は、金王丸を擁して平一揆討伐におもむき、同年六月十一日、平一揆を河越館(川越市)に追いこめた(『花営三代記』)。ついで六月十七日、平一揆に対する総攻撃が行なわれ、伝統を誇る河越氏をはじめ、平一揆に加わった高坂氏などはここに滅亡した。上杉憲顕は、引き続き平一揆に加担した宇都宮氏綱を攻めたが、まもなく陣中で病没した。翌年、鎌倉公方金王丸は元服し、将軍足利義満から一字を与えられて氏満と名乗った。
 ともあれ、平一揆の乱が敗北した結果、河越氏をはじめとする秩父一族などの有力な武蔵武士が没落し、彼らの時代は終わった。以後、武蔵国は関東管領上杉氏が守護を兼ねるなかで、その支配下に完全に組み込まれた。やがて中央では、南北両朝の合一の交渉が進められ、明徳三(1392)年、約六〇年におよぶ南北朝内乱はその幕を閉じた。

「鎌倉街道T 歴史編」 栗原仲道 有峰書店 1976年 ★★
八、室町の道
 『後鑑』と鎌倉街道
  平一揆(宮方一揆)の乱
これは基氏の没後、二代氏満の若年に乗じて、執事職上杉憲顕が新将軍義満の祝賀のために上京した隙に、河越氏を中心とした武蔵の平氏が謀反を起した戦いである。新田義宗・義治等の南朝派宮方の作戦に呼応したものであるが、直接の原因は河越氏と葛山備中次郎の所領争いが原因であった。河越氏には比企の高坂氏、村山党山口氏、下野の宇都宮氏、相模の三浦氏等が加担した。
応安元年(1368)二月五日丙午、鎌倉金王丸(氏満)平一揆退治として今日河越に進発。二月五日武州河越館平一揆閉じ籠る、若君(氏満九歳)御発向(鎌倉大日記)同年三月二十八日戊戌、上杉民部大輔憲顕平一揆騒乱により関東へ下向。山道(東山道)より上野国に出らるべく云々(花営三代記)
三月二十八日京都を立って四月五日下着(喜連川判鑑)
同年六月十一日庚辰、武州において合戦、平一揆敗走し川越城に籠る。
同年閏六月十七日、武州川越合戦、閏六月十七日葛山備中次郎武州河越の城を攻め落とす。平一揆伊勢の国へ上る。此子孫亀山に住す(南方紀伝)――以上『後鑑』より抜粋。
 このように武蔵国を震駭させた平一揆の乱はおよそ半年で終った。一揆に加わった武士団は本領を安堵されたが、足利氏より賜った加増分は召上げられた。加増分のない者は本領の三分の一を削られた。処分が軽かったのは氏満が若年だったため、特に寛大に取り扱い、今後の臣従を計ったからであった。しかし主謀者の河越氏はさすがに関東におれず伊勢に移った。
 この乱に河越氏等が立ち籠った城は、川越市上戸の河越館址のほか、付近の大堀山・大穴山館址その他の城と考えられているのである。また所沢市の山口城は村山党の拠点であったが、このとき落城したと伝えられている。

「北条得宗家の興亡」 岡田清一 新人物往来社 2001年 ★
 第二章 畠山氏と和田氏/一 畠山氏滅亡と北条時政の失脚/(二)武蔵国留守所惣検校

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作成:川越原人  更新:2009/8/30