北条氏康


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小 説北條龍虎伝(下)

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「北条氏康」 永岡慶之助 学研M文庫 2001年 ★★
 戦乱の嵐吹き荒れる関八州において、武田信玄、上杉謙信という両雄と対等にわたりあった武将がいた。北条氏康。戦国の梟雄・北条早雲を祖とする小田原北条、三代目である。戦場にあっては“氏康の向疵”と称される猛将として、また、帷幕にあっては知略謀略を尽くして武田、上杉を苦しめた智将として、波乱に満ちた生涯を駆け抜けた氏康の全てを余す所なく描く、著者入魂の書き下ろし!

河越夜戦
 氏康は、河越城が管領上杉勢の六万五千、公方勢二万、合して八万五千もの大軍によって包囲されたと聞いても、なおしばらくは小田原を動かなかった。いや、動けなかったというほうが正確かも知れない。
 今川義元武田信玄と同盟して、駿河長窪城を攻撃しているとあって、そちらへも救援の兵を送らねばならぬし、小田原城守備もきびしくし、更に河越城に打って出るには、兵力が少な過ぎるのだ。
 河越城の南方一里の砂窪に本営をおき、包囲陣をしいたばかりの、気力充実した八万五千もの大軍に真っ向から突き当たったら、恐らく、なまなかな軍勢などははじき飛ばされ、木っ葉微塵に撃砕されるばかりと思った氏康は、包囲軍の将兵が、長滞陣に飽き、気力がゆるむのを待つことにしたのだ。
 河越城の守将は、例の「北条の地黄八幡」の異名で知られる福島左衛門大夫綱成である。いずれの戦場でも、黄色の練絹に八幡の二字を大書した旗差物をかかげ、
 「勝ったぞ、勝ったぞ!」
 と叫びながら、敵を斬って廻る歴戦の勇将が副将朝倉能登守・師岡山城守以下の兵三千余とともに籠城しているのだ。
 しかし、いかなる勇将「地黄八幡」でも、八万余もの大軍勢に包囲されては、まったく手も足も出せず、ただただ小田原からの援軍が到着するのを待つばかりであった。
 (どうする、どうする……)
 さすがの氏康も苦慮した。
 下手をすると、城将綱成以下三千余兵を見殺すことになりかねない。しかも、なるべく早く、必らず救援に向うことを連絡しておかないと、城兵が不安にかられ、士気の衰えるおそれがあるのだ。そして河越籠城の三千の将兵に見殺しの憂き目を見せたりすれば、たちまち小田原北条の威信は失墜し、潰滅状態にまで追いこまれるに違いない。
 (どうせば、城中と連絡がつけられるか)
 日頃、冷静沈着な氏康が、いつになく焦りを覚えるのは、包囲軍が長期戦をとるらしいという、二曲輪猪助の報告をうけていたからである。猪助は透破の統目風摩孫右衛門配下の忍びの者で、氏康の命をうけて包囲軍の中に紛れこみ、陣立てなど詳細に調べあげていたのだ。
 この猪助、なに食わぬ顔で情報収集にあたっていたが、ささいなことから、ついに正体が露見し、危うく逮捕されるところを辛うじて脱出、自慢の足で翔ぶがごとく逃げた。
 ところが、追手の中から太田丈之助という速足の達者が、「逃げれると思うてか」と鼻の先で嗤い、物凄い勢いで追跡を開始した。これが驚くべき速足の持主で、みるみる中に距離を縮め、さすがの猪助ほどの者が、
 「もう駄目だ」
 と観念した時、街道沿いの農家の軒先につながれ、草を喰んでいる馬が目についた。
 「しめた……!」
 これぞ天の恵みと、刀で手綱を切った猪助、ぱっと打ち乗りざま、馬腹を蹴り、小田原目ざして疾走した。この追跡劇は、陣中でも大そうな評判になったらしく、『関八州古戦録』でも、「この日何者の仕わざにや、扇谷の陣の前に落首を書き立たりける」と述べ、
  馳せ出され逃るは猪助軍法もの
   よくも太田か丈之助かな
 の一首を掲げている。
 彼、二曲輪猪助により、大包囲軍を突破し河越城に入るなど、ほとんど不可能なことが確認され、いよいよ氏康を苦慮させたが、その時、
 「私めにお命じ下されませ」
 と進み出たのは、氏康の小姓をつとめる福島弁千代丸なる若者であった。弁千代丸は、河越城の城将福島左衛門大夫綱成の弟で、容姿秀麗、美少女とも見紛う少年である。彼は氏康はじめ評議に列なる重臣老臣らを前に、眉宇に決意を刻んで、
 「もし運悪く敵に捕えられ、たとえこの身を八つ裂きにされようとも、決して口を割ることはありませぬ」
 と断言した。
 「……!」
 氏康は、一瞬、胸中に「この若者を、死なするか」との思いに搏たれ、思わず息をのんだが、秒瞬の沈黙後、
 「弁千代、往ぬるか」
 「はいっ!」
 「よし、往けい」
 氏康の命をうけ、弁千代丸はぱっと席を立つ。この若者、弱年ながら天成の武人であった。例の二曲輪猪助に、敵方の合言葉を教わると、腹巻の上に直垂を着して小田原を出発、敵近くになるや若党を帰してただ一騎となり、大胆にも馬上しずしずと河越の敵中に乗り入れた。
 「おお、あれはいずれの若殿ぞ」
 「美しき若殿だが、陣中の父御の見舞いにでも参られたか」
 眉目秀麗にして態度悠々、少しも恐れるところのない若者が、よもや氏康の放った密使とは誰一人として気づかなかった。
 悠々、平然と弁千代丸は敵中を往く。
 このところを『関八州古戦録』は、
 「軍神ノ加護ヲヤ蒙リケン。数万ノ敵兵一人トシテ咎メ怪シム者ナク……」
 と記している。
 こうして城近くまで行った時、城門を守っていた木村平蔵が、弁千代丸に気づき、
 「おお、あれは綱成様の弟御ぞ……」
 と驚きの声をあげ、門を開くところへ弁千代丸がさっと馬で駈けこんだ。
 やがて、城中から歓声が湧きあがった。氏康の伝言が、確かに、三千の籠城兵に伝えられたのである。
 弁千代の決死行により、城中との連絡に成功した氏康が、いよいよ本領を発揮するのはこれからだ。氏康得意の謀略工作は、まこと巧妙をきわめ叔父幻庵が「祖父の血が濃い」と唸ったのも無理はない。まず、忍びの者を敵中に放つ一方、駿河の今川義元と和睦をするなど、出陣にそなえて周到な作戦をめぐらせた。
 そして後顧の憂いをなくしたところで、兵八千を率いて小田原を発進した。これが天文十五年四月一日のことであり、すでに河越籠城は半歳におよび、城中の兵糧は尽きかけているのであった。
 氏康は、ここで第二策を放つ。妹婿の古河公方晴氏に使者をやって、
 「籠城の将兵の命をお助け下さるならば、城を明け渡した上、私も小田原へ兵を引揚げまする」
 と申し入れた。
 上杉憲政古河公方晴氏の連合する河越城包囲軍は八万五千。対する氏康軍は、十分の一にも足らぬ八千余に過ぎぬ。もはや勝負はあった、とする憲政と晴氏は、氏康めも勝てる見込みなしと見て弱気になりおったな、と解した。氏康の助命、所領安堵を乞う北条の使者が、幾度か憲政の本営や晴氏の本陣を訪れて詫びを入れるなど、拍子抜けするほどに神妙なのである。
 事実、諸方で遭遇戦が起きても、ほとんど抵抗せずに逃げるばかりで、北条軍は完全に戦意を喪失したかに見てとれた。気をよくした憲政と晴氏は、氏康の懇願を拒否し、恐らく氏康は明日にも小田原へ逃げ去るに違いない、さらば河越城を陥した上、追撃して一気に氏康を討ちとるばかりだ、と意気軒高たるものであった。
 しかし、長期の包囲陣に捲んだ管領・公方同盟軍の将兵らには、氏康軍をあなどる気のゆるみが広がっていた。追えば逃げる小田原兵など恐れるに足らぬと、あなどる気のゆるみが生じてしまったのは、憲政と晴氏にとっての致命傷となった。
 「今だ……」
 氏康が待っていたのは、まさにそのような瞬間であったのだ。忍びの者によって、敵陣の弛緩した状況をつかんだ氏康は、天文十五年(1546)四月二十日、ついに夜襲を決行した。
 「よいか皆の者」
 氏康ら、出撃に先立ち、全軍に敵を斃しても首をとらぬこと、と決め、また縦横に駈けめぐって一カ所に固まってはならぬと命じるとともに、全将兵に軽装させた。北条勢は松明を持つ者もなく、白紙を切って鎧の上にかけ、合言葉を決めて同士討ちをしないようにした。
 むろん、重い旗差物や馬鎧は用いさせず、全軍を四部隊に分け、一時に四方から包囲陣中に突撃するという凄絶な作戦であった。
 この四月二十日夜は、『北条記』の記すところによると、
 「宵過る程なりしかば、月もやうやう出しかども、天曇りてさだかならず」
 とある。
 つまり、斬り込みをかけるには、絶好の天候であったといってよい。敵は雲霞のような八万五千の大軍勢、味方はわずか八千余兵、真向うに戦ったら勝てる筈がない。さだかならざる曇り空は、まさに天祐というものであった。
 氏康が行動を起したのは子ノ刻、というから今の夜十二時頃。このとき彼は、多米大膳亮に遊軍として一隊をあずけ、戦いの終るまで見物していよ、絶対に備えを乱してはならぬと厳命するとともに、まず一隊が敵陣に突入して駆け抜け、それで慌てふためく敵を二番隊が縦横に斬りまくり、三番隊が突入する時には、一番隊が大返しにとって返し、二番、三番隊と合同して、こんどは四方。八方に駈け入って斬りまくる。しかし引揚げ合図の法螺貝が聞えたら、たとえそのとき敵を斬り、槍を付けていたとても、敵を捨て、すみやかに一処に集合すべし、と全軍に指令した。
 驚くべきは、氏康自ら、白刃をかざして敵陣に斬り込んでいることだ。この模様を『関八州古戦録』は、
 「獅子奮迅の術を尽して、弓手妻手へ十人余人まで薙ぎ倒されたり」
 と記しており、つづけて、
 「大将この如くの上は、清水、小笠原、諏訪、橋本……以上の勇士十文字巴の字に……死生を知らず攻め戦ふ」
 と氏康に触発された家臣たちが、主に負けじと奮戦したとしるしている。
 上杉方は、まったく油断し、寝入っていたところを襲われたのだからたまらない。肝を潰すというもおろか、ただ慌てふためき、
 「両上杉の旗本、暫時が間に崩れたて、蛛の子を散らすがごとく」
 逃げ迷ったとある。
 憲政の場合は、それでも倉賀野三河守、本庄藤三郎、本間近江、小野因幡ら三十余名の側臣らが、主君を無事に逃がそうと、踏みとどまり、踏みとどまりして、それぞれ必死に奮戦している。しかし、いずれも次つぎと斬り伏せられており、その間に憲政は辛うじて死地を脱出し、平井城へと落ちのびていった。
 氏康は、遊軍の多米大膳亮に引揚げの法螺を吹かせた。終始、多米の率いる部隊は、氏康の命令を順守して参戦せず、まさに無傷の部隊であった。多米は法螺組も軽卒五十人を前立てにし、千余兵を一団にして凝っと控えていたが、法螺によって集結した氏康の旗本をさっと護衛した。もし、敵が逆襲してきたら、一戦して撃退する覚悟と見られた。
 氏康らが一息入れた時、すでに東天が白らみだしており、その頃には、河越城内の城将福島綱成も、おぼろに氏康ら小田原勢の夜襲を推察し、城門を開いて討って出た。半歳にわたった籠城の三千余兵は、撓めた弓矢が唸りを生じて空を奔るように、扇谷朝定の陣営に突入した。朝定らは氏康が憲政に夜襲をかけたと知るや、次はわが陣営に来襲するものと、けなげにも陣営をととのえて待ちうけていた。
 ところが、氏康はあらわれず、思わぬ方角から福島綱成ら三千の籠城兵が突入したため、いっぺんに陣容は崩れさった。将も兵も四方八方へ逃げ散ってしまったのだ。
 哀れにも旗本を失った扇谷朝定は、亡父の遺言を守って河越城の奪還を夢見たばかりに、乱戦中に討死しており、また主君思いの忠臣難波田弾正も城近い東明寺裏の古井戸に落ち入って絶命という悲劇的な最期をとげた。
 上杉同盟軍のもう一人古河公方晴氏は、扇谷朝定同様、思わざる方向から打って出た「地黄八幡」福島綱成勢に仰天し、ただただ、うろうろするばかりで逃げ去った。
 「もうよい、深追いすな、引揚げい!」
 綱成は、さっと城内へ兵をおさめ、包囲軍が次にどうでるかを見守った。敵は六万五千余もの大軍勢なのだ、夜戦の全容がつかめぬうちは、反撃への警戒は当然のことといってよい。ましてや、いまだ氏康率いる小田原援軍の動向はわからないのだから。
 しかし、完全に夜が明け、昧爽の朝風が武蔵の原野を吹きわたるようになっても、もはや敵の反撃はなかった。
 その戦いで北条勢は、戦死者わずか百名にもかかわらず、包囲勢の一万三千余を討ちとったという。十倍もの大軍相手の合戦を思えば、完全なる勝利というべきであろう。日本戦史にも稀な快勝といってよい。
 氏康は、籠城の将綱成および決死の連絡にあたった弟弁千代丸の労をねぎらい、
 「こたび、八万余もの大軍勢に包囲されながらも、半歳近くも持ちこたえ、われらに勝利をもたらしたのは、おぬしら兄弟の真忠と剛勇のお陰によるもである。よくぞ身命を賭してつとめてくれた」
 と賞揚したが、綱成は、
 「なにを仰せられまする。こたびの快勝は、殿の軍神もおどろく奇謀、放胆の夜戦によるものであり、お陰で命をひろうことを得ましたのは、私ども城兵にございます」
 とつつしんで答えた。このあたりの君臣の応酬は、なかなかの感がある。
 その頃――河越の戦場を脱出し、命からがら平井城へ逃げ帰った上杉憲政は、わが身一つ辛うじて助かったほどの敗戦なのに、寵臣桑木八郎なる者に、
 「一昨二十日、武州河越合戦の時、首一つ討取るの高名、感悦せしめ終んぬ。いよいよ軍忠を抜きんずべきなり、依って状、件の如し」
 なる感状を与えた。
 これを聞きし世人、眉をひそめ、八万騎の猛勢がわずか八千の小敵に追い散らされる、前代未聞の敗戦というのに、何の面目あって、彼一人がかかる感状を貰ったのか、まっこと片腹痛いことなり、といい、
 「憲政の一つ感状」
 と称して物笑いの種にしたという。
 とにかく、この河越夜戦の快勝により、小田原北条三代目氏康の名将とく評価は、ほとんど決定的となり、その後の武蔵制覇を容易にした。夜戦快勝するや、それまで管領憲政方の先陣たりし武州高麗郡滝山城主の大石定久はじめ、秩父郡天神山の藤田邦秀ら武蔵の諸豪族があいついで服属を申し出たからである。

「北条氏康」 菊池道人 PHP文庫 2002年
 北条早雲に始まる後北条氏5代。本書は、卓抜なる軍略と民政でその最盛期を築いた第3代・氏康の生涯を描く長編小説である。幼き日、大筒の爆裂音にさえ身を縮めるほどの弱虫であった氏康は、しかし家臣たちの厳しくも温かい養育により、16歳の初陣では立派に勝利をおさめる。以後、東の今川、武田、上杉勢等と互角に渡り合い、ついに念願の関東八州を制覇するのであった。文庫書下ろし。(カバーのコピー)

第四章 河越夜戦

「戦国の武将と城」 井上宗和 角川文庫 1984年 ★
 戦国武将列伝
 北条氏康(ほうじょう うじやす)

 永正十二年(1515)、小田原に生まれる。氏綱の子で早雲の孫。
 天文十年(1541)、父の死により家督を継ぐ。このとき二十七歳。小田原城を本拠とし、駿河長久保、武蔵河越の両城を出城として、上杉憲政今川義元らと戦った。世にいわれる河越の戦いで武名を上げた氏康はさらに下総古河城を落とし、安房里見義弘の水軍を破り、甲斐の武田、駿河の今川とも戦った。永禄四年(1561)、小田原を攻めた上杉謙信と城を閉ざして戦わず、さらに永禄五年三月には武田信玄と連合し武蔵松山城を落とした。その勢力は東海関東一帯を圧したが、まだ下野、常陸、下総は制圧できなかった。氏康は元亀二年(1571)、その子氏政を大将として下野に出陣したが、これは失敗に終った。同年十月三日、病にて没した。五十七歳。一説に元亀元年五十六歳没ともいう。
 氏康は祖父早雲、父氏綱のあとを受けて北条氏の全盛を築いた。単に武将として秀れていたのみでなく、諸学に広く通じ足利学校の復興などにも努めたという。

「小田原北条記(上)」 江西逸志子原著 岸正尚訳 教育社新書<原本現代訳>23 1980年 ★★
 めざす関東制覇・早雲から氏康まで。戦国期、小田原を拠点に関東を支配した北条氏五代の合戦物語。本書は、小田原城攻略、江戸城奪取、川越夜襲などを経た小田原北条氏の隆盛期を収める。
 小田原北条記 巻四 関東の雄、氏康

「戦国武将100話」 桑田忠親監修/中島繁雄著 立風書房 1978年 ★★
 北条氏康―――――関東無双の覇王
 江戸時代、鈴木重秀(しげひで)という人は、北条家の代々の当主たちを寸評しているが、氏康については、
 「文武兼備の武将で、生涯に何度も合戦したが敗れたことがない。そのうえに仁徳もあった。この代に関八州の兵乱を平定し、大いに家名を高めた。古今の名将である」
 と絶賛している。
 氏康は、関東の大半をおのれの傘下におさめて、祖父早雲の夢を実現させたのだった。
 いま、氏康治下の小田原の模様をレポートした貴重な記録がのこっている。
 天文20年(1551)4月、箱根湯本の早雲寺に詣でて小田原をたずねた京都南禅寺の261世東嶺智旺(とうれいちおう)の実見談である。
 「……湯本の早雲寺より一里(4`)、府中の小田原にいたる。町の小路は数万間、地に一塵(じん)もない。東南は海である。海の水が小田原の麓をめぐっている。太守氏康の塁(城)は喬木森々(しんしん)として、高館巨麗である。三方に大池がある。池水は湛々(たんたん)として浅深はかりしれない。白鳥や水鳥が翼をやすめている。太守氏康は、表は文、裏は武の人で、刑罰(治政)清くして遠近みな服している。まことに今の代の天下無双の覇王である……」
 このように最盛期の北条氏の小田原城を、きわめてリアルに描いている。
 不敗の勇将といわれ、16歳の初陣から一生の間に36度の合戦に出撃し、一度も敵にあげまき(鎧の背の部分)を見せたことがなかったという。軍の先頭にたって敵にあたり、身に刀槍の傷7ヵ所をおい、面に2ヵ所の傷があった。このため向う傷のことを氏康傷≠ニいって尊重された。
 少年時代の彼の人柄を物語る話がつたえられている。
 12歳のときだった。鉄砲はまだ珍しく、あるとき氏康はその射撃練習を見物したのである。突然、轟音が発したとき、氏康は一瞬蒼白になり体をふるわした。傍にいた侍がそれを見て嘲笑(わら)った。氏康はもういたたまれなかった。恥ずかしさで頭がかっと火照(ほて)り、とっさに小刀をひき抜いて自害しようとした。近侍の侍があわててこれを押しとどめた。氏康の顔が涙でぬれていた。だが付人の清水某が「昔から勇気のある武士はど物におどろくといいます。すぐれた馬もカンが強く、よくおどろくものです」と言うと、ようやく合点したという。
 氏康の武名を天下にとどろかせたのは、日本三大夜合戦の一つといわれる川越の合戦である。
 天文14年(1545)8月、北条家の領国と境を接する山内上杉憲政は、扇谷上杉朝定や駿河(静岡県)の今川義元とくんで、氏康を一挙に潰滅(かいめつ)しようとはかった。
 義元は、氏康方の駿河長久保城を包囲し、武田信玄もともに攻めてきた。いっぽう憲政は、朝定とともに北条綱成が守る河越城の奪還をはかった。河越城は天文6年(1537)綱成に奪われた朝定の居城だった。綱成は、もと福島と名のっていたが、北条家にひきとられ、氏康の弟分となっていた人物である。
 この河越城攻撃には、さらに氏康と義兄弟(妹婿)の古河公方足利晴氏が加担した。憲政にうまく説得されてしまったのである。
 こうして河越城は、憲政・朝定・晴氏の8万の連合軍によって包囲されてしまった。そして半年にわたって攻撃され、落城は寸前の様相となったのである。
 天文15年4月、氏康はこれを救うべく8千の兵をもって駈けつけた。兵力の差は10対1である。尋常な手段ではとうてい氏康に勝ち目がない。
 氏康はそこで使者を足利晴氏のもとへつかわし、「河越籠城の兵の命だけはお助けくだされ。されば河越の城も領地も公方様にさしあげます」と再三にわたって哀願したのである。晴氏はきくどころか嘲笑して「汝がくれなくとも、明日にでも城は落ちよう。城兵はことごとく討ちとり、氏康を討ちほろぼそうぞ」と大変な気焔(きえん)である。
 氏康はさらに、上杉の武将小田氏の代官菅谷某にも使者をやって「なんとか城の綱成を助ける手だてはないものか。助けていただければ、河越城はあなたに明け渡します。もし合戦にでもなれば、当方は多勢に無勢、とうていかないません」と伝えた。
 上杉方は、氏康のこうした申し入れに「北条方は、臆病風にとりつかれている」とみてとった。
 その噂は上杉連合軍全体にひろがり、もはや勝利気分に浮かれはじめていた。
 それが氏康の付け目だった。氏康は忍びをつかって逐一敵情の変化ぶりを知っている。
 4月20日の夜、氏康は軽装の精兵をもって斬り込み隊を編成すると、敵陣ふかく潜入させ、城方と呼応して一度にどっと襲撃の火の手をあげた。
 暗夜の奇襲に、上杉連合軍はただあわてふためくばかりで、ついに潰走し、扇谷朝定は戦死し、憲政・晴氏はほうほうのていで逃げ帰ったのだった。
 天文23年(1554)には、氏康はかつての敵武田信玄、今川義元と三国同盟をむすんでいる。氏康の長男氏政に信玄の女(むすめ)をめとり、氏康の女を義元の子氏真(うじざね)にめあわせて婚姻関係をむすんだのだった。駿河の善徳寺で会合したので、世にこれを「善徳寺の会盟」という。しかしこの同盟も、義元の死後破れている。
 氏康は民政家としてもすぐれ、他の諸大名に先がけて本格的な検地(けんち)(田畑の石高を定めること)税制の改革をおこない、伝馬(てんま)(輸送用の馬)制度を整備している。さらに通貨を明の永楽銭(えいらくせん)で統一し、商工業者を保護するなど経済政策にもみるべきものがあった。また、足利学校の復興を援助したり、和歌を三条西実隆に学ぶなど、文化人的な側面もそなえていた。
【北条氏康】永正12年(1515)氏綱の子として生まる。早雲からかぞえて三代目である。天文10年(1541)父氏綱が没したあと27歳で家督をつぐ。川越の夜戦に勝って武蔵国(埼玉県・東京都)の大半を領有し、天文20年(1551)には上杉憲政の平井城を後略し、関八州をその勢力圏におさめる。上杉謙信、武田信玄とも戦った。元亀2年(1571)没す。56歳。墓は、箱根湯本の早雲寺にある。

「武将名言100話」 桑田忠親監修 立風書房 1983年 ★
第2章 南北朝・室町時代の武将の名言
 30 北条氏康

「戦国武将のひとこと」 鳴瀬速夫 丸善ライブラリー088 1993年 ★
 明日の命も保証されない戦国時代、武将たちは、判断ひとつまちがえれば、即、滅亡、死につながる状況の下で戦い、生き残るために全精力を注いだ。そのような体験から出た言葉は、机上の思考とは異なり、リアルで説得力に満ちている。本書では、歴史紀行を織り交ぜながら、現代人が「なるほど」と洩らしたくなるような武将名言を、六〇に厳選して紹介する。

 第一章 世に一人の友もなし――リーダーの条件・心構え/北条氏康(1515〜1571)
    「下の功を盗まざれ」

 部下の手柄を横取りするな。後北条三代目の氏康が、四代目の氏政に与えた教えである。
 古今東西、人間というものは、モノや金銭を盗むのには罪悪感を抱くが、功労、アイディアといった「目に見えないもの」にはさほど抱かない。せいぜい「うしろめたさ」を感じるぐらいであろう。戦国武者も現代サラリーマンも、手柄は昇進に直結するから、ついそういう卑劣なことをしてしまうのだろう。上意下達、鉄壁のタテ組織なら、一段飛んで上下が話す機会を作れば(部長とヒラ、課長と重役のような)この手柄泥棒も防げるはずだが、現実はむずかしいようである。
 氏康は後北条家の開祖で梟雄といわれた早雲の孫である。少年時代は鉄砲の音に驚きたじろぐ臆病者であったが、長じて名将となる。父祖以来の地小田原城にあって、氏康は関八州に睨みをきかせていた。
 天文十五年(1546)、氏康の家臣福島綱成が守る武蔵の川越城に、上杉憲政足利晴氏の連合軍八万が押し寄せた。氏康はこれに対し、十分の一の八千の兵を率いて川越に向かう。そして敵将たちに「城兵を助けてくれれば城と領地はさしあげる」などと使者に弱音を吐かせ油断させておいて、ある晩夜討ちをかける。弱気の北条方が攻めてくるはずがないと思わせておいての奇襲である。
 氏康は合言葉を決め、全員に重い旗、鎧をつけさせず、首を取るな、斬り捨てにせよ、と命令した。さらに、「前にいるかと思えば後にまわり、四方に動いて一ヶ所に片寄るな」とも指令した。
 結果は予想外の大勝利に終わり、氏康は一躍、関八州の雄とうたわれた。そしてこの戦は、桶狭間、厳島とともに三大奇襲戦のひとつに挙げられている。
 「下の功を盗むな」と諭す氏康は、この合戦の後、川越城を大軍包囲の中で持ちこたえた綱成の功をほめたたえている。
 「とても耐えられそうにない所で、勇気がなければ数日も籠城して堅固に持ちこたえることはできない。私の運が開けたのは、おまえのきわめて剛胆な働きによっている」と。
 氏康は領国に境を接する武田信玄の娘を嫡子氏政の妻に迎え、今川義元の子氏真に自分の娘を嫁がせて、相模、甲斐、駿河の三国同盟を結んだ。
 この同盟外にあった上杉謙信が、十万の大軍を率いて小田原城を攻めたが、氏康指揮下の城兵はよく戦い、一ヶ月後に引きあげさせている。
 氏康が残した訓戒の中に、「酒は朝食時のみとせよ」というユニークなものがある。すなわち「振舞は、朝召(めし)に定められるべき事。大酒の儀は曲(くせ)あるまじく候。三篇(べん)に定められるべき事」である。
 酒は夜でなく朝にして、大酒をせず三杯にせよという。朝酒では小原庄助なみだが、夜は際限なく飲むから、わざと朝の小量にしたのであろうか。
 氏康はあるとき、子の氏政が一杯の飯に汁を二度かけるのを見て、「誰でも毎日の食事で分量の加減がわかるはずだ。それもわからぬでは、表に出ない人の心など読みとることができようか」と嘆いたという。
 名将氏康はかなり「教育者」であったようだ。

「時代小説の愉しみ」 隆慶一郎 講談社文庫 1994年 ★★
 志を立て、それに殉じた英傑たち。彼らの誇りはいまなお烈々と訴えかけてくる。その志・誇りに光を照射してみる。織田信長・武田信玄・明智光秀らに新解釈を加え、歴史上の人物の器量と命運をダイナミックにはかりながら、人間の面白味を発見してゆく。著者の風格と風貌を鮮やかに伝える歴史エッセイ集。
 北条氏康
   (前略)
 この合戦が起ったのは天文14年(1545)8月、氏康31歳の時だ。父氏綱の死によって後を継いでから4年の後である。
 この合戦の仕掛人は今川義元だった。彼は先年北条氏綱によって奪われた駿河の要害長久保城を奪還するつもりで作戦を練る。長久保城を守るのは氏綱の弟三郎長綱である。氏康にとっては叔父に当る、世に聞こえた豪勇の士だった。しかもこの合戦は出来る限り短期に終らせたい。北条全軍を相手にして長引いては危かった。甲斐の武田軍団がいつ南下して遠江・三河の地を狙うか知れたものではない。
 今川義元はここで管領山内上杉の憲政と秘かに手を結び、嘗(かつ)て扇谷上杉の居城で今は北条のものとなった武州川越城を落させ、この城に拠って長久保城を背後から攻撃させることにした。
 上杉憲政は扇谷上杉の朝定を誘った。川越城がもともと朝定のものだったからだ。朝定は承知し、憲政は両上杉の名のもとに関八州の武将を集め、6万の兵と共に突然起って川越城を囲んだ。今川義元は同時に起って長久保城を囲む。
 氏康は小田原を動かず、古河公方足利晴氏に調停を頼んだ。晴氏の妻は氏康の妹である。かかる時に備えての後略結婚だったのは勿論である。
 古河公方晴氏は一応は調停に立ち、山内上杉の憲政を説得しようとした。
 本来、山内・扇谷上杉は管領であり、古河公方の旧臣である。旧主が調停に立った以上、承知するのが当然である。だが今日の古河公方には、名のみあって実力がない。上杉憲政がおいそれと従う筈がなかった。それどころか、逆に甘言をもって晴氏に迫った。
 「今日の古河公方の衰退は誰のお蔭とお思いか。すべて北条のためではないか。今こそ公方さまも起って北条を討つべき好機である。北条の持つ現在の所領は元来悉くこれ公方さまの分国だある。北条が滅べば、それらの分国は公方さまのもとに戻り、鎌倉公方として昔日の威を振われることが出来る。妻の縁をもって、大事を誤ることなかれ」
 上杉憲政の言は決して嘘ではない。古河公方、管領たる両上杉の現在の有様は、正しく北条二代の圧力によるものだった。憲政は、足利晴氏の男としての泣き所を見事に衝いたことになる。
 古河公方晴氏は10月27日、関八州の旧分国に呼びかけ2万の兵を集めると、両上杉の軍に合流し、川越城を囲んだ。これで川越城を囲む軍勢は8万の多勢となった。
 これに較べて川越城の守兵は僅かに3千。兵力が違いすぎた。誰の眼にも落城は必至と見えた。
 ところがこれが落ちない。
 川越城を守る北条綱成は稀代の猛将である。福島正成の子で初めは九島左衛門といったが、後に北条の名を貰って左衛門大夫綱成を名乗った。その旗は朽葉色(くちばいろ)の練貫(ねりぬき)に『八幡』の字を書いたので、世人は『黄八幡左衛門』と呼び恐れたと云う。
 関八州のいくさ人たちは全員それを知っている。黄八幡の旗は恐怖のしるしだった。だから8万の兵をもってしても力攻めにすることが出来ない。現に緒戦では綱成の方が討って出て、山内・扇谷の兵を多数殺している。だから攻撃力は蟻の這い出る隙間もないほどに城を囲み、いわゆる『干(ひ)殺し』策に出た。当然、作戦は長期に渡った。
 氏康は悩んだ。
 今川方に攻められている長久保の城の方は、ほとんど心配なかった。城は孤立しておらず、支援の城も堅固であり、兵力も多い。糧食・武器の貯えも豊富にあり、今川の攻撃にも小ゆるぎもしない態勢が整っている。
 だが川越城は違う。一城だけ突出した最前線の城である。それを南は古河公方、北は山内上杉、東は太田三楽、西は扇谷上杉と完璧に囲まれて身動きもならない。
 支援すべき国人たちの軍勢はそれぞれの城に配置され、動かすことが出来なかった。動かせばそこが手薄になる。ドミノ倒しのように連鎖反応で総崩れになりかねない。
 氏康は己れの直属軍団の手薄さを、この時ほど痛感したことはなかった。あちらの城から2百、こちらの城から3百と兵を集め、俄(にわか)かづくりの直属軍団を編成しながら、一方で氏康は二つの処置をとった。
 一つは川越城への密使派遣である。
 『干殺し』作戦のきびしさは、城兵の士気を下落させる。士気衰えた城兵のとる道は、全面降伏か、或は自棄になっての全員出撃しかない、猛将綱成の下で降伏はありえない。あるとすればこの全員出撃であろう。
 城という鎧をなくして8万の敵めがけて出撃することは、自殺行為に等しい。それをさせないためには、自分のとろうとしている作戦を詳細にわたって綱成に知らせ、希望を失わせず、ひたすら籠城に耐えさせることしかない。
 人は明確な目的を持つことによって、生きる力を得るものである。綱成及び城兵のすべてに目的を持たさねばならぬ。
 だが8万の軍勢に囲まれた城に密使を送ることは難しい。倖い北条家には風魔衆という稀代の忍び集団がいたが、彼等にこの密使の役はつとまらない。只の連絡役ではないからだ。城兵のよく知っている顔でなければ役に立たない。風魔には顔がなかった。それが忍び衆としての恐ろしさだが、この場合はそれが裏目に出た。
 氏康は思案の揚句、密使として綱成の弟で氏康の小姓である九島弁千代(べんちよ)を撰んだ。
 当年17歳の、したたるばかりの美貌の少年である。氏康は風魔の頭領風魔小太郎を呼び、弁千代を何とかして川越城に入れる方策を尋ねた。小太郎の返事は頼もしいものだった。
 「お委(まか)せあれ」
 一言そう云っただけである。
 小太郎はわざわざ月明の夜を撰び、弁千代に大振袖のきらびやかな衣裳を着せ、白馬にまたがらせた。その周囲を黒一色の胴丸に面頬をかぶった風魔の軍団が同じ漆黒の旗印を背にさし、黒馬にまたがって取り囲んでいる。黒の軍団の数は40騎を数えた。
 この異様な一団は、月光の下をゆるやかに進んだ。夥(おびただ)しい上杉の軍勢は、まるで憑かれたように彼等を、とりわけ弁千代を見つめていた。こんなにも奇怪で妖しい魅力に溢れたものを、彼等は見たことがなかった。自分たちが幻想の世界にいるような気がした。
 川越城の城壁でも、北条方の城兵たちが、この不思議な光景を茫然と見つめていた。彼等にもこれは幻影かと思えたのである。だが弁千代は城主綱成の実弟である。城兵のほとんどがその顔を知っていた。
 『小田原北条記』によれば、最初にその点に気づいたのは相模の国の住人木村兵蔵ということになっている。忽ち注進は綱成に届き、綱成は急に城門を開き、喚声と共に一隊を討って出させた。突然のことに仰天狼狽した上杉勢が応戦の備えをとった時には、弁千代の一行も城兵も城中に消えていた。
 
 弁千代の到着はそれだけでも城兵の士気を高揚させた。その上、綱成は氏康の全作戦を告げられ、それに対応する自分たちの動きを知った。更に40人の風魔が彼の配下に入った。それは必要となれば氏康といつでも連絡のとれることを意味した。百万の味方を得たより心強かった。
 綱成は翌日全城兵を集めて氏康の作戦と、自分たちのそれに呼応する時機の重要さを語った。その日まで極力体力を温存しなければならない。そのためには乏しい食糧を更に切りつめてゆかねばならない。
 その細心の計画が一同に告げられた。それは一つの目標、内外呼応しての反撃の日のための忍耐だった。男ならそれくらいのことには耐えられる。城兵一同、喜び勇んでこの節食計画に合意した。倖い水だけは豊富にあった。彼等の士気旺盛な忍耐は、なんと半年に及んだのである。
 氏康がとった第二の処置は、古河公方足利晴氏に対する詫び状だった。
 彼は川越城3千の将兵が、既に飢餓のために死線をさまよっている状態であることを告げ、大事な将兵を無駄に死なせることは耐えられない。もし彼等の生命を助けて戴けるなら、城を開いて降伏させ、川越城もその所領も進上すると申し送ったのである。
 晴氏はこれを氏康の泣き言だと信じ、貴種の男らしい無慈悲さで一蹴(しゅう)した。降伏などして貰わなくとも、いずれ城兵は悉く殺し、城も所領も手に入れられると云ったのだ。
 氏康は怒らない。すぐ第二弾を放った。今度は小田左京大夫政治(まさはる)の代官菅谷(すがのや)隠岐守に手紙を送り、同様の趣旨を繰り返し、何とか仲介の労をとって欲しいと頼んだ。菅谷が上杉憲政と通じているのを承知の上での依頼だった。
 果して菅谷はこれを憲政に披露し、満座の失笑を呼んだと云う。要するに氏康は古河公方と両上杉の連合軍に、馬鹿にされたのである。そのように事を運んだのだ。
 一方で氏康は今川義元と単独講和に漕ぎつけた。若干の城と所領を譲るのが条件だった。
 今川義元は、古河公方や両上杉とは違う。頭の切れるいくさ人だった。氏康相手に本腰をいれて決戦するとなれば、かなりの犠牲を覚悟しなければならぬことを充分に承知していた。それに腹の中で両上杉のなまぬるいいくさぶりを軽蔑していたのではないか。
 数ヵ月にわたる籠城で、まだ川越城一つ落せない軍勢など、いくさ人としては当てにすることは出来なかった。人数は多いが烏合(うごう)の衆にすぎない。
 だから義元はさっさと講和を結び、長久保城の包囲をといてしまった。
 この義元の態度に川越城包囲の面々は狼狽したに違いない。足利晴氏など途端に浮足立ってしまった。彼等は要するに今川義元という大黒柱だけを当てにして兵を挙げたわけだから、当然といえば当然の反応だった。
 そこを見はからったように、氏康は小田原を出て入間川の南に兵を進めた。例の各地から少しずつかき集めた直属軍団である。だがその数約8千。攻撃方の10分の1である。両上杉の軍勢が、こわごわながら迎撃に出て来た。途端に氏康は奇怪な振舞いに出た。一戦もまじえることなくまっしぐらに退却して小田原に帰ったのである。
 
 緊張していただけに、両上杉の安堵の思いは大きかった。やはり合戦は数である。いかに剽悍(ひょうかん)無比の氏康といえども、10分の1の兵力では逃げるしかなかった。彼等は急に気が楽になり。態度に余裕まで出て来た。
 5、6日後に、氏康はまたも入間川南に兵を出した。そして上杉軍が到着すると、またもやまっしぐらに逃げた。
 正直に云って上杉軍は呆れ返った。北条もこれでおしまいである。三代目はやはり三代目でしかない。このままもう少し日がたてば、川越城は落ちるし、更にその気になれば、北条家を滅することも出来るかもれない。なんと脆(もろ)いことではないか。
 氏康はこうした評判を、風魔を通して仔細に聞いている。自分の評判が悪くなればなるほど、氏康の笑顔は拡がったと云う。
 天文15年4月20日といえば、開戦以来8ヵ月を越している。その夜、氏康は8千の直属軍団を集めた。
 「吾聞く、戦の道は衆と雖(いえど)も必ず勝たず、寡と雖も必ず破れず、唯士心の和と不和とに在るのみ、諺に曰く、小敵と雖も侮(あなどる)るべからず、大敵と雖も恐るべからず……寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決、此一戦に在り、汝等心を一にし、力を協(あ)はせ、唯吾向ふ所を視よ」
 これは岡谷繁実氏の『名将言行録』にある氏康の言葉である。「唯吾向ふ所を視よ」とは自分が先頭に立つと云う意味だ。正に兵を奮い立たせるに足る言葉であろう。
 北条軍は紙を剪(き)って鎧の上に肩衣(かたぎぬ)のように掛け、白からざる者に遇(あ)わば之を斬れ、首は斬捨にすべし、斬掛けた時でもうしろに法螺貝の音を聞いたら打棄てて集まれの3ヵ条を定めとして出陣。子(ね)の刻(午前零時頃)に扇谷上杉朝定の砂窪の陣に迫り、突入した。
 同時に北条綱成も城門を開き、古河公方足利晴氏の陣に突っこんだ。
 上杉陣は不意を打たれて周章狼狽したというが、そんな馬鹿な話はない。要は心を決めた兵に較べて士気振わず格段に弱かったというだけのことだ。
 とにかくこの強豪に遭(あ)って扇谷上杉朝定はじめ2千数百とも、1万6千とも云われる兵が死に、扇谷上杉家は滅び、山内上杉憲政は上野の平井城に逃げ、公方足利晴氏も古河に逃げ戻った。晴氏は後に相模に幽閉の身となり、上杉憲政は天文20年越後に逃れ、長尾為景に関東管領職と上杉の姓を与えて生命乞いをすることになる。
 そしてこの一戦で扇谷上杉家中はじめ関東諸家の降人多く、氏康はこれをもって念願の強力な直属軍団を持つことを得た。
 
 以上が「川越の夜軍」或は「川越の夜討ち」と呼ばれる合戦のあらましだが、後年この合戦は陽動作戦の典型のように云われるに至った。
 欺(あざむ)いて和平を懇願し、故意に軍を出しては戦わずして退却させ、もって相手方のあなどりと油断を引き起したと云うのだ。
 だが本当にそうなのだろうか。
 前半の卑屈なまでのなりふり構わぬ和平への懇願が、私には「陽動作戦」ばかりとは思えないのである。
 確かに、自由に動かすことの出来る軍団の編成が出来るまでの時間稼ぎと云う面はあるが、城も所領もくれてやるから城兵の生命だけは救って欲しいと書き送ったのは、氏康の本音が多分に含まれていたように思う。
 早雲以来の北条家の伝統は、それほど人の生命を大事なものと考えさせた……そう思いたいのである。
 この時点で古河公方晴氏がこの提案を承知していたら、氏康は喜んで川越城を捨てた筈だ。またそれだけの覚悟なくして出来る提案ではなかった。晴氏の拒否と城兵悉くを殺すという意志が、氏康をして古河公方滅すべしの決意をさせたのではないか。正に祖父早雲が堀越公方を討たざるを得なかったのと、同じ状態だったに相違ないと思う。そしてまたそこに北条の兵の強さも起因していたのではないか。
 後半の「繰返し戦わずに逃げる」という形は、正に「陽動作戦」と云ってもいい。だがそれも一種の心理作戦と云う方がより正確なのではないか。
 結局氏康は、この川越城の夜戦で、祖父以来の北条家のものの考え方をより鮮明に部下に示すことが出来、併せて直属軍団の必要性を国人たちに理解させることに成功したのだと思う。だから「陽動作戦」の言葉は、むしろ国人たちに向けられたものかもしれない。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 今川 義元(いまがわ よしもと)
1519〜60(永正16〜永禄3)戦国時代の武将。
(系)今川氏親の3男、母は大納言中御門宣胤の娘。(名)法名承芳。
はじめ僧として駿河国富士郡善徳寺に住したが、1536(天文5)長兄氏輝の死により、次兄の僧恵深と家督を争う。翌年義元が勝ち、還俗して家をつぎ、従四位下治部大輔兼駿河守となる。'42尾張国の織田信秀を三河国の小豆坂に破り、'49織田信広を三河国の安祥城に破った。さらに'53には吉良義安を三河国の東条城に攻めくだしたが、その間隙をうかがって翌'54北条氏康が駿河国に進出。その後武田信玄の援けをうけて氏康と戦ったが勝敗決せず、善徳寺に義元・信玄・氏康の三者会盟して和睦し、相互に姻戚関係を結ぶ。かくて駿河・遠江・三河3国を支配下におさめ、東海地方に大きな勢力を築き上げた。しかし義元の勢力拡大は義元自身のすぐれた武略によるとともに、老臣雪斎の功績に負うところが大であったため、'55(弘治1)雪斎の死後はしだいに勢力を失う。'60(永禄3)織田氏を滅ぼして京都に向かおうと西上の途中、尾張国の沓掛・丸根・鷲津の諸城を攻めおとして、桶狭間に戦勝の宴を張ったが、5月19日信長の急襲をうけて敗死した。なお'53「今川かな目録追加」を制定。戒名は秀峰宗哲天沢寺。(墓)静岡市の臨済寺。
(参)小島広次「今川義元」1966。

「武田信玄 物語と史蹟をたずねて 土橋治重 成美文庫 1995年 ★
 戦国争乱の世、“甲斐の虎”と恐れられた信玄は、屈強な甲州軍団を率いて四隣を制圧し当代随一の軍略家として勇名を轟かせた。天下制覇の信玄の夢が大きくふくれ上がった元亀3年10月、織田信長包囲の大作戦を立て西上の戦いに上る途中、空しく陣没。本書は、広大な甲斐王国を築きながらも中原の鹿を射損じた英傑の生涯を、同国人の著者が活写する。
 北条氏康逝く
 北条氏康は小田原城で病んでいた。
 館は二の丸にあって、その奥深い一室に氏康は病躯を横たえている。元亀二年(1571)の秋も逝こうとして奥庭の落葉樹はみな葉を落とし、青桐の枝にわずかに残った枯れ葉が風に揺れる。
 見るともなく、氏康はその枯れ葉を見ている。天文十五年(1546)、川越の夜戦で、扇谷、山内両上杉の八万といわれた連合軍を、わずか八千の兵で破り、以後上杉謙信武田信玄と対等にわたりあっている。知恵もあり剛将でもある面影はまったくない。
 心の臓、肝の臓をこわしてすっかり痩せ衰えてしまっている。ただ生きているのはその目だけである。
 老いた正室も、側妾、侍女、近習もみな退けてしまって、障子を開けさせ、一人で青桐の葉に目をそそいでいるのである。一人になって、この世のおわりの考えをまとめたかったのだ。
 彼は上杉謙信と同盟を結んでいるが、その同盟を破棄してふったび武田信玄と結ぶことを考えていた。すでに氏康は隠居し、当主には長男の氏政がなっているが、実権はまだ氏康の手中にあった。肝腎な問題はすべて彼の一言で決まるのである。
 謙信も悪くはない、と氏康は思う。が、じぶんのことばかり強く主張して、相手のことはぜんぜん考えなかった……。
 謙信とは一応、
一、氏康の子弟を謙信の養子とすること。
一、氏康、氏政が占領した両上杉の土地および関東一帯にわたる諸豪族の土地は、旧所有者に返すこと。
一、氏政が謙信と同陣すること。
 という条件で同盟を結んだ。この条件のうち、第一条は氏政の弟の三郎氏秀(のちの上杉景虎)を越後に送ってけりがついたが、第二条、第三条は不可能なことであった。
 「謙信は、わしが北条家の運命をかけて斬り取った土地を返すとでも思っていたのか」
 氏康は低い声でつぶやいた。
 「返すわけがないではないか。フフフフ」
 かすかな笑い声が唇の端からもれた。
 同陣も無理であった。利害が反するから、本陣をいつ攻撃されるかわからないのである。
 信玄を牽制するため、出兵を要求すると、土地を返せといい、出兵したらなんとか考えましょうというと、言を左右にして応じなかった。
 こんな同盟があるだろうか。こうした有名無実の同盟よりも、四辺を敵にしながら少しもへこたれず、つぎつぎに手を打ちつづけている信玄とふたたび結ぶほうが、北条家にとってははるかに有利だと氏康は考えた。
 信玄との同盟時代、信玄はじぶんのほうから同陣し、何回か共同で敵に当たり、こちらの作戦を助けたではないか。利害が共通する場合、信玄は協調者として申し分がなかったのだ。
 再度の同盟の条件としては、駿河をゆずらずばなるまい。駿河はもうどうしようもないから手を引こう。その代わり、関東は全部わしの領地にするのを確認させる。こちらから申し入れるのだから、人質はださなければなるまい。信玄が七分の利、こちらが三分の利だが、わしの死んだあと、氏政にはわしほどの器量がないからしかたあるまい。
 こう氏康は思った。
 彼はすでにじぶんの死期を予感し、そう長くないと感じていたのだ。
 二、三日、人を退けて考えているうちに、庭の青桐の葉は散ってしまった。氏康のこころはすっかり決まった。
  (中略)
 やがて、十月三日、氏康は死んだ。享年五十七だった。
 氏政は父の遺言に従って信玄との同盟復活に力をそそいだ。そして、甲、越、相三国同盟を信玄に提案したが、これは拒否され、甲、相のみの同盟が、つぎの条件で成立した。
一、関八州は北条領にすること、ただし西上野は武田領であること。
一、上杉謙信についての情報を交換し合うこと。
一、北条、上杉の絶交状の写しを武田方に見せること。
一、駿河から手を引き、今川氏真を追放すること。
一、武田方に人質をだすこと。
 そして、この年の十二月二十七日、誓紙を交換した。
 
[史跡探訪] 川越城
 長禄元年(1457)、太田氏の築城という。天文六年(1537)ごろは北条氏綱の所有になっていた。北条氏が滅びたのち、家康の重臣たちが居城したが、寛永十六年(1639)、松平信綱が入城するにおよんで、城を近世的な城郭に改修した。新たに外曲輪、田曲輪、新曲輪を加えた。当時をしのぶものとして、本丸御殿の玄関と大広間の部分が残っている。
【道しるべ】▲埼玉県川越市郭町2の7 ▲西武新宿線本川越駅からバス、グランド入口下車
小 説
「北条龍虎伝(下)」 海道龍一朗 講談社文庫 2013年 ★★
河越城の周りには、関東の諸勢力が参加する八万五千の北條包囲軍。守る綱成の兵はたった三千。綱成を助けるか、城を残すか――。氏康の苦悩は頂点に達する。北條氏を関八州の覇者へと押し上げ、新旧の勢力交代を鮮烈に印象づけた乾坤一擲の戦い「河越野戦」を、微細かつ大胆に加筆した。戦国史ファン必読!
12 刀瘡
13 勧進
14 公方
15 祝言
16 河越
17 奮迅
18 相続
19 悪意
20 乾坤

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作成:川越原人  更新:2015/10/5