黒い空(河越夜戦)

推理小説「黒い空」の第1章「河越夜戦」です。

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「黒い空」 松本清張 角川文庫 1990年 ★★
 辣腕事業家山内定子が創った八王子郊外の結婚式場「観麗会館」は、その高級感がうけて大変な繁盛ぶりだ。経営をまかされている小心な婿養子善朗はある日、口論から激情して妻定子を殺し、死体を会館の名所である「岩壁」に埋め込んでしまう。門出を祝う式場が奇しくも墓場となり、その上空を不吉なカラスが飛び交い、新たな事件が発生する……。河越の古戦場に埋れた長年の怨念を重ねた、緻密な大型長編推理。

「河越夜戦」
 埼玉県川越市。――旧市街は新河岸川にとりまかれている。正保のころ川越城主の松平伊豆守信綱が荒川の支流内川を改修して川越(昔の名は「河越」)と江戸の舟便をひらいた。入間川はそれより三キロ先で西から北東へ湾曲している。
 新河岸川が屈折した北端に東明寺橋が架かっている。旧市街の北はずれでもある。橋を渡る手前に東明寺という時宗の小さな寺がある。志多町という閑静な通りの突きあたりでもある。
 門内に入ると、せまい境内に「川越夜戦之碑」と石の記念碑が立っている。ほんらいなら、「河越夜戦」としなければなるまい。正面の本堂は四注造りの屋根に破風を前に付けた簡素なもの。本堂の左側には裏手の墓地へつづく小門が見えた。
 いましもこの広くもない境内に二十四、五人の中年男女が、初老の男を中心に半円形に取り巻いて立っていた。中心の男性は白髪まじりの髪が耳をかくすほど長いが、背は低く、身体が肥り気味だある。五月の陽光を受けて汗ばんでいるが、もともと脂性の人間らしく、話をしながらしきりとハンカチを赤ら顔に当てている。聞き手を満遍なく見渡し、微笑を絶やさない。
 参会者の男女はみなメモ帖を持っている。どこかの俳句結社の吟行かとも思われたが、男性よりも婦人のほうが圧倒的に数が多い。まん中に立つ小肥りの人も俳句の宗匠でなさそうだ。しゃべっている内容も歴史の話である。
 これは当節を風靡しているカルチュア・センターとかカルチュア・スクーリングといった教養を深めるグループが、レクリエーションを兼ねた歴史現地講演だと知れた。すなわち講師は、どこかの大学の文学部に席をおく教師にちがいない。
 「この東明寺は、遊行上人の開基ということであります」
 講師は不透明な声で云っている。
 「その時宗開祖の一遍の開基になる東明寺が河越の夜戦で兵火にかかっていらい、往時の面影もないのは、さきほどわたしたちが参観してまいりました東照宮もある喜多院の復興ばかりに徳川幕府が力を注いだのと皮肉な対照であります」
 参会者たちは手帖にボールペンを走らせる。
 「さて、今からざっと四百四十数年前、天文十五年四月二十日の夜、関東管領の両上杉家と古河公方の連合軍八万の兵と、片や小田原の北条氏康の軍勢八千とが戦った世に名高い河越の夜戦、それがこの東明寺付近で行われたのであります。したがって東明寺合戦とも申します。……おや、あそこの庫裡からお坊さんが出てこられました。お住職ではなさそうですが、ちょいと聞いてみましょう」
 本堂前の横、石敷きの参道に沿って、庫裡があり、その竹垣の中から白い着物の若い僧が竹箒を手にして現れた。講師はつと坊さんのほうへ進み軽く頭をさげた。
 「少々おうかがいいたしますが」
 二十五、六歳ぐらいの僧は竹箒を立てて、質問者と背後の中年の男女群とを半々に見ていた。
 「ここは河越の夜戦の古戦場跡だそうですが、両上杉連合軍、それと北条氏康軍勢の戦死者の墳墓、つまり五輪の塔といったものが、このお寺の墓地にございますか」
 「ありません。この共同墓地にあるのは、みな新しいお墓ばかりです」
 「そうですか、河越の夜戦のことで、調べにくる人がありますか」
 「めったにありませんが、一年に一回か二回ぐらいは見えるようです」
 講師は礼をいって元の位置に戻ったが、それほど失望した顔ではなかった。さあ、みなさん、それでは場所を移して新河岸川のほうへ、と云った。
 門前には東京ナンバーの貸し切りバスが駐まっている。バスは寺の前を左に折れ、川土堤の道を上って東明寺橋を渡った。まっすぐ行けば、入間川へ突きあたるまでの山田という新開地を通る。バスはそっちへ行かないで、講師の指示で土提道を右へ曲がってとまった。荒れはてた新河岸川には落莫の東明寺の裏側が投影している。土堤の伸びた草のあいだに黄色いたんぽぽが咲いている。頽廃の漂う春である。
 この道はトラックも通らず、乗用車の通行もあまりない。バスを道端に寄せて、二十数名の全員は車内で講師のレクチュアを聞くことにした。
 「みなさん、これから河越夜戦のお話を現地に立ってお話しすることにします」
 講師はにこにこして云った。
 「さきほど申しましたように、ときは天文十五年、すなわち一五四六年四月のこと、関東管領の上杉憲政と、上杉朝定の両軍と、それに古河公方の足利晴氏の兵と、合わせて八万の兵が、河越城を守護する北条方の勇将北条綱成をその前から半年にわたって囲みました。その綱成を救うべく小田原からかけつけた北条氏康の手兵八千とが戦った合戦であります」
 マイクを手に持って話しかけるが、生まれつきの濁み声なので声が割れがちである。
 「その前に関東管領の上杉氏のことを申しあげないと、話が通じにくいかもしれませんね。あのう、みなさんは北鎌倉の明月院をご存じでいらっしゃいますでしょう?」
 「知っています。アジサイ寺のことでしょう。わたくしは一昨年と昨年の六月のころに二回つづけて行きました。参道の石段の両側のアジサイが見事でした」
 眼鏡をかけて面長な顔の婦人が講師を仰いで云った。
 「わたくしも主人と四年前に行きました」
 六十年配の未亡人らしいのが云った。
 「そうですね。昔から閑寂な場所にある由緒あるお寺です。あのへんの山地一帯が山内上杉管領の屋敷跡なのです。それに対して扇谷上杉管領の屋敷跡は南へ三キロぐらいのところにあって、横須賀線の東側、浄明寺のあたりです」
 「管領というのは何ですか」
 年の若い女性がきいた。
 「管領というのは足利幕府の職名で、将軍の補佐役です。京都の室町幕府にあったのが京都の管領職、これは斯波、細川、畠山の三家が交替でつとめました。鎌倉府のほうにいて将軍一族の公方を補佐した管領職が上杉家です」
 「京都幕府の管領は三家があったのに、鎌倉府の管領は上杉家だけですか」
 「もともとはそうだったのです。だいたい足利幕府は源頼朝や北条執権のように鎌倉に幕府を置かなければならないのですが、おりからの南北朝の騒乱のため、尊氏じしんが京都から身動きできず、しかたなく京都の室町に幕府をひらいたのです。そのかわり鎌倉には尊氏の三男の基氏を主として駐在させました。これが初代鎌倉公方です。以来、鎌倉公方の下で世襲的に管領となったのが上杉家で、それは上杉頼重という人の娘清子が足利尊氏・直義兄弟の生母だったためです」
 白いマイカーが横を徐行しながら来る。駐まったバスから聞こえるマイクの声に乗客が窓からのぞき、こっちのバスの風変わりな乗客に眼をまるくして通る。
 「その上杉家が頼重の孫の代になって四家に分かれたんです。扇谷上杉、詫間上杉、犬懸上杉、そして山内上杉です。上杉家も三代も四代もとなると血縁がだんだんうすくなり、独立し、権力争いをして、たがいに仲が悪くなる。それにですな、鎌倉の地形がお互いをばらばらにさせるようにできています。
 「というと?」
 「鎌倉は谷をヤツといいますね。鎌倉十六谷といわれますが、ほんとうは谷の数はもっと多いようです。鎌倉は、丘と谷と、わずかな平地からできているのです。谷と谷の間は丘陵でさえぎられ、その稜線は剃刀の刃のように鋭いのです。それは地質が角礫凝灰岩というもので、やわらかいため両側から浸食を受けているからです。当時の鎌倉の交通路といえば、山の間を削った切り通しだけでした。上杉憲藤という人は犬懸ヶ谷に管領屋敷を構え、朝定は扇ヶ谷に、憲顕は山内にとそれぞれ管領屋敷を構えました。これは管領の官邸です。詫間はどこのあたるかわからないが、これも谷にあったにちがいない。詫間は早く衰弱してしまい、犬懸上杉家は三代目の禅秀というのが反逆のために罪を得て家が絶えました。のこるは山内上杉と扇谷上杉の管領ニ家だけとなりました。二家が管領職を交替で執行するというのがタテマエですが、当然に両家は明けても暮れても激しい権力争い。互いに憎しみ合い、いがみ合い、なんとかして対手を負かそうと秘術のかぎりを尽くすことになるわけです。両上杉とも分国は関東平野です。分国というのは領国のことですが、この分国の争奪を互いにやる。扇谷上杉の根拠地はこの武蔵にある城です。山内上杉の根拠地は上野にある城です。双方が鎌倉に居たのは鎌倉府の管領職として勤務していたからです。けれども、かんじんの主人はいません。関東公方足利成氏のとき両上杉を敵にまわして下総古河に逃れ、以後その子孫はその土地にいたので古河公方というのですが、そういうわけで鎌倉には主がいなくなった。だから、よけいに両上杉の間の争いが激しいのです」
 婦人会員のさし出す缶ジュースを講師は、や、どうも、とぐっと飲んだ。
 「山内にある管領の官邸も、扇ヶ谷にある官邸もさきほどお話ししたようにどちらも丘陵麓の谷にあります。その間は、旧道の巨福呂坂よりも亀ヶ谷坂のほうが短距離です。あそこは横須賀線のトンネルがあるように高い丘陵地帯です。亀ヶ谷坂にしても巨福呂坂にしても切り通しを閉められたら交通が遮断され、山内管領屋敷も扇ヶ谷管領屋敷もそのまま要塞化してくる。両者の間が風雲急を告げるとなると、双方の管領屋敷にそれぞれ与党が馳せ参じ、白昼に武闘をはじめてはばからないありさま。鎌倉の都は、これがために荒廃してしまいます」
 講師は、ひと息つく。
 「両者の対立はもちろん鎌倉だけではありません。だいたい関東公方の直轄地は伊豆、相模、武蔵。それに分国が甲斐、信濃、越後などにわたっています。とくに広い平野の武蔵は両上杉家で占拠を争うことになる。扇谷上杉持朝は執事太田道灌に河越城の修復と江戸城の修復を命じて防衛線をかため、山内上杉家に対抗した。けれども太田道灌の名声を妬んだ持朝の曾孫定正山内上杉顕定の中傷にひっかかって道灌を自邸に招き、道灌が風呂に入ったところを殺します。道灌は絶命する前に、ご当家のご運もこれまで、と叫んだ。つまり、わたしを殺したら扇谷上杉家の滅亡だというのです。はたしてそのとおりになりました。その邸はいまの神奈川県伊勢原市の大山の麓にあったといいます。そのため扇谷上杉の勢力が弱まりました。両方の小競り合いはそのごもつづきます」
 
 「ここでいよいよ小田原北条家の登場です。鎌倉の北条執権と区別して史家は後北条とも呼んでいますな」
 講師は、文章でいうなら章変り、講釈師なら張り扇を一つ叩くような調子で、肩を上げ、マイクを握りなおした。
 「両上杉はいつまでもマゴマゴしてはいられない。すなわち、大きな旋風が西のほうから襲ってきました。それがすなわち伊勢新九郎長氏で、のちの北条早雲です」
 婦人会員たちがうなずく。
 「時間がないので、有名な北条早雲のことは、残念ながら省略します」
 講師、またジュースを飲む。熱がしだいに入る。
 「とにかく北条早雲くらい人心収攬のうまい、人情を心得た、あるいはそれを利用した男も珍しいです。もとはといえば素性もわからぬ裸一貫の男、それが二百の農民兵をもって起ったのです。戦国時代は応仁の乱からではなく、北条早雲からはじまるという史家の説もあるくらいでしてな」
 オートバイの爆音がバスの横を駆け抜けて通った。
 「さて、あの暴走族のオートバイのように話の先を急ぐとしましょう」
 講師は、ジュースを飲んだせいで、額に出た汗にハンカチを当てた。
 「早雲は関東を握るには頼朝いらいの鎌倉を攻めねばならないと思い、三浦半島を押さえている豪族を攻めて、その日のうちに鎌倉に入りました。そのときが八十一歳でした。両上杉管領も逃げ出したあとの鎌倉は荒れ果てて嘗ての面影はありません。早雲は玉縄城を築いて武蔵攻略の拠点とします。玉縄城はいまの大船駅のあたりです。ここにいくつかの支城もつくり、堅固なものにしました。あとは早雲の得意の調略で、武蔵国の根拠地にある両上杉を反目させ、古河公方を操り、政略結婚で手なずけるなどして上手に懐柔する。早雲が八十八歳で死んだのち、その子氏綱によって扇谷上杉の江戸城は落ちました。河越城も陥落しました。こうなると山内上杉もあんかんとしていられない。自分のほうが危なくなる。いろいろとあるうちに氏綱が死んで、氏康があとを継いだ。二十七歳の青年武将です。十六歳の初陣いらい、不敗の将です」
 講師はひち息入れる。
 「山内上杉憲政は、扇谷上杉朝定と手を握り、古河公方足利晴氏をも引き入れ、天文十四年秋、北条綱成が守る河越城を、八万の軍勢をもって攻め寄せました。けれども落ちません。綱成は籠城です。半年経って、翌年四月になって小田原城から北条氏康が八千の供回りの兵を率いて相模平野を急ぎ北上、多摩川を渡って、武州に入り、府中を経由して河越城近くに達しました。両上杉と公方連合軍八万、北条軍は八千、十対一。十倍の敵を前にして、氏康勝算ありや否や。……ここでその次第を詳しく申し上げます。面白うございますよ。この合戦。さあ、いよいよ河越の合戦。合戦じゃ。……」
 口がマイクに近づきすぎて、声が割れた。
 
 空にカラスが啼く。
 ――先刻からバスの胴体に身体をぴたりと押しつけるようにして、車内から流れるマイクの説明を聞いている男がいた。講師の話にうなずいたり首をかしげたりして、なかなか熱心であった。
 空にカラスの声が旋回する。五、六羽は飛んでいるらしい。
 ガア、ガア、ガア。
 啼き声がうるさくて講義がつづけられない。
 二十数名の男女参加会員はくすくすと笑う。思わぬ小休止に、アイス・ボックスから男性はビールの缶をとり出し、婦人はジュース缶の口を開く。
 「先生、お疲れさま。ま、お一つ」
 六十年配の痩せた長身の品のいい男がビールを両手でさし出したが、
 「や、これは恐縮。しかし、ぼくはいまお話をしている最中でして、あとで頂戴します」
 講師は遠慮した。
 そのうちカラスもどこかへ散って啼き声は遠のいた。
 「どうやら静かになったようですが、あのカラスはどこからくるのですか」
 講師は邪魔を入れるカラスのことをきいた。
 「このへんの森じゃないですか。カラスはどこにでもおりますから」
 婦人の一人が云った。
 「東松山か狭山あたりの山かもしれませんよ。秩父にはカラスが多いと聞きましたが、秩父はちょっと遠すぎますからね」
 男子会員が云った。
 「ま、とにかくカラスが帰ってくれてよござんした。では途切れた話を再開しますかな」
 「よろしお願いします」
 バスの胴体に身体をこすりつけて立っていた男も、マイクの声がふたたび流れ出ると知って聞き耳を立てた。鳥打ち帽を目深にかむった茶色の革ジャンパーにカーキ色のズボンの男だが、やや猫背であった。車内の一同は車体にヤモリのように吸いついている恰好のこの人物に気がつかない。
 「では、はじめます。さて、河越城を預かるのは北条方の勇将で黄八幡の異名をとる北条綱成、部下は三千。食糧を十分に蓄えて、山内上杉憲政、扇谷朝定それに古河公方足利晴氏の連合軍の攻撃にたいして半年間も籠城して、よく耐えました。北条氏康がすぐに救援に駆けつけられなかったのは、氏康が今川義元とことを構えていたからで、武田信玄も義元と連盟していました。北条の兵力の大部分をそっちの前線へ配備しておかなければならなかったのです。敵に河越城を囲まれてから半年も経ってやっと救援に出動したのは、信玄が義元と組んで駿河国安部郡に出兵して氏康を牽制したためで、氏康はそれにも防備をしなければならず、供回りの八千の兵しか連れて行けなかったのは、そんな苦しい事情からです」
 一同、手帖にメモする。
 「当時の河越城は現在の位置と変わりませんが、規模はおそらく三分の一くらい。だが、太田道灌の築城だけに要塞堅固、難攻不落の名城です。入間川と荒川が外辺を大きくめぐって流れ、内側を赤間川、いまの新河岸川ですが、その赤間川がとり巻いている。東南は湿地帯で、西北は草茫々の原野、攻めるは最も困難です。司令官格の山内憲政の陣はここから南にあたる砂久保の地に、扇谷朝定の陣は北なる東明寺橋付近、すなわち、みなさんがバスですわっていらっしゃる現在地のこのへんに陣地をかまえました」
 一同、バスの窓からあらためて外の景色を見まわした。
 「古河公方の陣地はどこだかわかりません。『関八州古戦録』とか『新編武蔵風土記』などの記事にも出てきません。しかし、いずれにしても三方から河越城を指呼のあいだに臨んだ陣地で、八万の大軍がとりかこんだ。北条綱成いかに鬼神とはいえ城兵三千にすぎぬ、籠城まさに半年、疲労困憊、落城は日に日に迫り来て、いまや風前の灯……」
 一同、バスのクッションから膝を乗り出す。
 「山内憲政の陣のある砂久保の南二里に達した籠城兵救援の北条氏康は、書を憲政に送りました。すなわち、城将綱成以下城兵の命は助けてもらいたい、さすれば河越城は進上するであろう、と。これを読んだ憲政はカンラカンラと打ち笑い、助命の願いなど聞かずとも城は明日にでもわれらの手で討ち取ってくれるわ、とアタマから相手にしません」
 「…………」
 「氏康は重ねて書を送り、そこを何とか曲げてご承諾のほどをと辞を低くして懇願し、誠意を示すために小田原寄りの府中まで軍勢を引き返しました。攻撃軍はこのありさまに、さすがの氏康も、八万のわれらに八千の少数では手が出ぬわい、あれ、あのとおりスゴスゴと逃げるわ、逃げるわ、とどっと嘲笑します。一方、府中に野営した氏康は、夜半になると兵を非常呼集した。その晩は曇天です。氏康は兵に松明を持たせず、重い鎧も捨てさせ、蹄の音やいななきを聞かれるのを恐れて馬にも乗せず、命じて曰く、敵の首は斬り取るな、首を斬るぶんだけ手間がかかる、敵兵は斬り捨てよ、と斬り込み隊を編成。足音を忍ばせ、河越へむかってヒタヒタと押し寄せたり。……」
 張り扇がトン、トンと聞かれそう。
 「こちらは管領山内憲政の砂久保の本陣、氏康勢が退却して、すっかり油断して熟睡しております。そこを不意に襲われた。なにしろ闇の中です。何が何だかわからぬうちに顔を切られ胸を刺され腹を突かれて、ばったばったと仆れる。恐怖のうちにも、名にし負う北条氏康の兵の来襲とわかると、もうパニック状態、阿鼻叫喚の血の池地獄です。氏康という男は戦闘のたびにみずから陣頭に立ち、そのため向こう疵のことを氏康疵といって将士が名誉としたくらいです。山内軍の主力は大混乱のうちにたちまち崩れて潰走をはじめる。大将であり、連合軍総司令官の上杉憲政、友軍の扇谷朝定部隊や古河公方部隊に知らせるどころか、領国の上州平井城、いまの藤岡市をめさして走り去ります。総司令官みずからが敵前逃亡ですから、ひどいものです」
 マイクの声はますます勢いに乗る。
 「これを暁闇の中に城内の物見櫓から眺めた北条綱成の籠城組、その望楼はたぶん現在も土塁だけが残っている富士見櫓でしょう。綱成、半年ぶりに城門を真一文字に開かせ、黄八幡の旌旗を押し立て三千の城兵で包囲軍の古河公方隊に向かって打って出ました。綱成も名にし負う猛将です。この側面からの攻撃を受けて、何条もって堪りましょうや、公方晴氏部隊も総崩れとなって、先を争い古河へと遁走いたしまする。……」
 一同、息を呑む。
 「最期はこの東明寺付近の扇谷朝定の軍隊です。氏康の斬り込み隊がこれに襲いかかる。砂久保の山内憲政部隊のパニックがこっちへまわってきたわけです。氏康勢は南の砂久保からまわって北へ現れた。で、ここもたちまち混乱状態。大将の扇谷上杉朝定は二十二歳の青年です。補佐役の勇将難波田憲重は東明寺の井戸に落ちて死ぬ始末。扇谷方は完全に潰滅です。その戦死者の数は計算ができない。ここに哀れをとどめたのは、朝定です。朝定が戦死したのはたしかにこのへんとわかっているが、いまだにその遺体のありかがわからない。それっきり扇谷上杉家は絶えました。江戸時代から明治時代の記録によると、このへんから四百体とか五百体とか、あるいは六百体の人骨が出たとあります。みんな扇谷方の戦死者です。……」
 講師は、しんみりとした声になり手を合わせた。
 「ヨーロッパでは一七世紀の三十年戦争で、ボヘミア出身の傭兵隊長ワレンシュタインとスウェーデンのアドルフ王とがドイツのリュッツェンというところで猛戦闘を行いました。負けたスウェーデン王の遺体は兵士の死骸の山の底からやっと見つけだされたそうです。けど、管領扇谷上杉朝定の死体はいまだに発見されないのですから、スウェーデン王以上の悲劇です」
 会員一同もまた合掌した。
 このとくき、ふいにバスの出入り口の外から声がかかった。
 「ああ、まことにけっこうなお話を承りまして、ありがとう存じました」
 これが不意のことだったので、バスの中の一同は、ぎょっとして開いているドアから昇降口の下を見た。そこにはハンティングに茶色のジャンパー、カーキ色のズボンといったこのへんのゴルフ場で見かけるような風采の男が、帽子のひさしにちょっと手を当て、小腰をかがめていた。
 「どうも失礼。いえわたしは、この近くの入間郡の百姓ですが、河越の夜戦については日ごろから疑問に思っていることがあります。どなたかにお訊ねしようもなかったのですが、いま先生のお話をはからずもそこで洩れ承りまして、もしお許しを願えるなら少々ご教示をおねがいしとうございますが」
 講師もとまどい気味でいる。
 「お見うけいたしますと、どうやらカルチュア・スクーリングの現地ご講演のご様子、みなさんにご迷惑でしょうが、ほんの一〇分ばかり、わたくしめにお時間を頂けますれば、ありがたき次第でございます」
 会員から拍手が起こった。
 「どうも、どうも。お許しをいただいて、お礼申し上げます」
 男はまた鳥打ち帽のひさしに手を当てて腰を折った。そのひさしに額の半分が黒い影になっている。日差しは強かった。
 「どういうことでしょうか」
 講師も仕方なしに昇降口の近くにきた。見知らぬ人を車内に入れる気はないようだった。
 「北条氏康の軍勢が、山内上杉の攻城軍の陣取る砂久保へ夜襲をかけてきたことはどの本にも書いてあります。通説でございますから、先生もそうおっしゃいました」
 男はステップの下に立っていた。
 「そうです」
 講師は上から見下ろして答えた。
 「しかし、それはすこしおかしいと思います。砂久保はいまでこそ住宅が建って新開地となっていますが、四百四十数年前の当時は、草茫々の原野のはずです。人家も飲料水もない。攻城軍八万のうち、主力軍を約四万五千とみて、両上杉軍の四万五千の兵がどうしてそんな原野に半年間も野営生活できたでしょうか?」
 講師は返答に詰まった。云われてみると、そのとおりである。自分はただ本に書いてあるとおりをしゃべったまでである。本の定説や通説をまるごと信じていた。疑いもしてなかった。
 「城を攻めるときは、それが長くかかると、対城を築くとか、寺院を臨時の軍営にするのが普通です。秀吉が小田原城攻めのときは、箱根の湯本に対城を築いたのは有名でございますな。ところが、河越城攻めには両上杉とも対城を築いてはおりません」
 鳥打ち帽の男は云った。
 「だから、わたしは、山内上杉軍も扇谷上杉軍も、古河公方軍もそれぞれ河越の町なかの寺院を占拠して、ここを対城がわりの陣営としていたと思いますよ」
 「どこの寺ですか」
 講師は気を呑まれて問い返した。
 「それはあとでわたくしの推定を申上げますけど、その前にお教えねがいたいことがあります」
 「はあ」
 講師は早くも要心の色を見せた。
 「それはですね、扇谷朝定隊のいるこの東明寺の陣地へ北条氏康勢が来襲したということでございますが、それは氏康軍が砂久保にいた山内憲政隊を破ったのち、足場の悪い赤間川、おっしゃるとおり現在のこの新河岸川でございますな、この川に沿って時間をかけて迂回し、北端の東明寺陣に達して扇谷朝定隊と戦い、これを潰滅させたのでしょうか」
 講師はまた詰まった。本にはそう書いてある。しかし、云われてみると、少数の氏康軍が二手に分散してそのような大迂回をして敵の圧倒的な大軍を各個撃破したとは考えられない。扇谷隊だけでも約三万はいたろう。公方軍は五千くらい。
 なるほど当時の赤間川沿いは、北にまわるほど湿地帯になっていた。暗夜の歩行。足を泥濘にとられての大迂回となる。少数の氏康手兵の斬り込み隊が扇谷軍の陣地到達に一瞬を争うときに、そんな愚かな各個撃破作戦をとるだろうか。
 定説、通説のまる呑みの講師は唸った。
 「わたくしが思いますに」
 男は謙虚な調子でつづけた。
 「氏康勢は、河越の南入り口と中央部、札の辻あたりを中心にしたあたりをかためた山内上杉軍を襲撃したと思います。山内軍は暗夜に不意を衝かれて大混乱、闇の市街戦を演じたものの、早くも浮足立ち、上州平井城さして潰走をはじめました。もし、四万五千の山内隊がもうすこし頑張っていれば、その背面にあたる北部の東明寺陣地に拠る扇谷上杉隊三万もあのような悲惨なことにはならなかったでしょう。だが、前面にあたる山内上杉隊、しかも主力であり、司令部の憲政軍が早くも敵前逃亡したのですから、そこは真空地帯になっております。その真空地帯へ、勝ち誇る氏康の率いる豆相の精兵八千の斬り込み隊が一直線に進撃して東明寺へ押しよせたからたまりません、扇谷隊はこれをモロに受けて全滅したのでありましょう。それでなくては、大将上杉朝定の戦死体がわからないという悲劇にはならないと思います」
 鳥打ち帽は一気に云うと、講師を見上げ、
 「先生、いかがなものでしょうか」
 猫背をかがめた。
 「ううむ」
 この男の云うほうが定説や通説よりも理屈に合っている。北条氏康の兵は河越の南から侵入、市内の中央に陣地を占める攻城軍の主力山内上杉隊を襲って市街戦を行い、これを大混乱に陥れて逃走させた。氏康軍は山内隊という大きな障害物をとり除いたので、そのまま市内を一直線に北上、市内の北端東明寺付近の扇谷上杉隊に殺到した。――なるほど、なるほど。これだと筋が通る。
 これまで読んだ「河越の夜戦」は、どうも曖昧なところがあった。質問されて、その矛盾に気がつく。記述が曖昧なのは、史料の不足のせいか、従来の歴史家の推論が充分でないためか、あるいは中央の史家が地方の地形に通じていないため、いい加減にお茶を濁してきた結果か。少なくともこの男の云うほうが、史家の説よりも科学的だと講師は思った。
 「まったく、おっしゃるとおりだと思いますよ」
 講師は昇降口の上から恭々しく頭を下げた。
 「いえいえ、そんなたいそうな者ではありません。百姓でございますよ。ただね、わたくしの先祖の家もこの旧東明寺村にありましたが、明治のころに畑を開墾するとき、白骨が二十体ほど出てまいり、それをきっかけに村役場の手で広く掘ってみるとよその土地からも合わせて四百体の白骨が出たと聞いております。みんな扇谷上杉方の戦死者だろうということになったおります。ま、そんなことが動機で、この土地の生まれですから、河越の夜戦に興味をもって、自分なりに考えてきたわけでございます。もちろん素人考えでございますが」
 「とんでもない。立派な専門知識です。やはり土地に通じておられるからですね。ところで、さきほど河越城を包囲した攻撃軍は半年間も砂久保などの原野に野営するわけはない、かならず市中の寺院を占拠して、そこを陣営にしていたはずと云われましたね。そのお説にも、眼を開かれました。これまで河越の夜戦で史家がすこしもふれてないことです。その寺院とは、どこでしょうか」
 「わたくしが思いますに、市内元町の養寿院でしょう。扇谷上杉軍はおの東明寺です。このとき東明寺は兵火に遇い、焼け落ちました。古河公方軍の陣営は喜多院だったと思います。公方軍は戦わずして古河へ逃げたのです。喜多院は九年前の天文六年に北条氏綱が幼主の上杉朝定が守る河越城を取るときの戦いで兵火にかかった堂宇が小規模ながら仮に再建されていたようです」
 「…………」
 「それにしても残念なのは山内憲政の行為、司令官のくせに戦場から逸早く離脱逃走したばかりに、この東明寺陣の扇谷軍はみなごろしに遇いました。しかも、先生のお話のように、二十二歳の若き君主朝定の遺体はいまだ知れず。おおかたこのへんの畑か土地の下に骸となって埋もれているか、発掘された何百という雑兵の白骨の中に混じっているのかもしれません。……南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」
 男は合掌した。
 「先生。ではこれで失礼します。みなさん、せっかくのところをお邪魔いたしました。お許しください」
 腰を大きく前に折ると、すたすたと東明寺橋のほうへ歩いて行った。
 カラスはもう啼かなかった
「さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景 朝日新聞さいたま総局編 さきたま出版会 2009年 ★★
「黒い空」 松本清張
 四〇〇年の遺恨超えて
 蔵造りの街並みが続く、川越市の旧市街の北のはずれ。市指定史跡の東明寺(とうみょうじ)は「小江戸」のにぎわいをよそに、住宅密集地の中にひっそりとたたずんでいる。ここまで足を延ばす観光客はめったにいない。こぢんまりした境内には「川越夜戦跡」と大書された石碑が立つ。四六〇年前、ここは日本史上に残る戦国合戦の舞台だった。
 松本清張(まつもとせいちょう)は、この史実を背景に、『黒い空』で、四世紀以上の時空を超えた怨念(おんねん)が現代に引き起こす殺人事件を、伝奇仕立のサスペンスとして描いた。
 川越(正しくは河越)夜戦は、室町時代の一五四六(天文一五)年四月に当時の東明寺域を中心に繰り広げられた。川越城の覇権を巡り、後北条家の軍勢八千が、関東管領の扇谷(おうぎがやつ)、山内の両上杉家などの連合軍八万を奇襲。連合軍は四散し、東明寺に陣取った扇谷上杉氏は討たれた。一万人以上が戦死したとの説もあり、かつて境内にあった塚からは何百もの人骨が出た、との後の文書が伝えている。
 <バスは寺の前を左に折れ、川土堤(どて)の道を上って東明寺橋を渡った。>
 <土提道を右へ曲がってとまった。荒れはてた新河岸川には落莫(らくばく)の東明寺の裏側が投影している。土堤の伸びた草のあいだに黄色いたんぽぽが咲いている。頽廃(たいはい)の漂う春である。>
 清張は小説中「歴史現地講演の講師」らを舞台回しに、多くの枚数を割いて史実を解説。夜戦以降に衰微した寺の現代の様子も描写した。
 同じ道を歩いてみると、寺の敷地を残して周囲は宅地開発が進み、新河岸川も護岸がきれいに整備されていた。「清張氏自身が取材に訪れた記録はありません。刊行当時もすでに宅地化されていましたが、いにしえの大寺院が衰えた姿を強調しようと脚色したのでは」。現住職の朝日幹学さんが語る。
 「夜戦は城下町川越の出発点」と語るのは市文化財保護審議会長の小泉功さん(79)。刊行当時、小説中の講師のように多くの歴史愛好家や清張ファンを寺へ案内したが、そんな来訪者も今は少数になった。
 市内には夜戦を物語る資料もほとんど残っていない。「当時の面影がしのべるのは、境内のムクの木だけかも。今となっては発掘調査も難しい。忘れられていくのは寂しい」と朝日さん。樹齢五〇〇年のその巨木には、小説の中で重要な役割を演じるカラスの一家が毎年巣を構えている。    (二〇〇年五月二二日)
 
(Memo)松本清張(一九〇九〜九二)は朝日新聞在職中の一九五三年に芥川賞を受賞後、本格的な文筆活動に入った。『黒い空』は晩年の一九八八(昭和六三)年の作で、東京・八王子郊外の結婚式場が主な舞台。敏腕でならす山内上杉家子孫の女性事業家が入り婿の夫に殺され、岩壁に埋められた事件を引き金に、はるか昔の河越夜戦の遺恨を巡る壮大で緻密(ちみつ)な物語が展開していく。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 遊行上人(ゆぎょう 上人)=一遍
 一遍(いっぺん)
1239〜89(延応1〜正応2)鎌倉時代の僧。時宗の開祖。
(系)伊予国の豪族河野道広の子。(名)随縁、智真。
はじめ延暦寺で天台宗、のちに浄土教を修め大宰府に至り、西山派の祖証空の弟子聖達に念仏の奥義を受ける。1271(文永8)東国を巡り信濃国善光寺に詣で数日参籠。善導大師の二河白道の図一幅を写し、伊予国に帰り窪寺に一小庵を営み、念仏修行3年にして、'73念仏の奥義を修得し、衆生を済度するために諸国の霊場を参籠遊行し、伊予国菅生の岩屋、豊前国宇佐八幡宮、摂津国大坂の四天王寺、山城国男山の八幡宮に参籠。'75(建治1)12月紀伊国熊野権現に参籠百日を期し、感得するところがあり自ら一遍と号する。'76勧進帳念仏札を携えて諸国遊行の途につく。念仏札には南無阿弥陀仏決定往生60万人と記し、九州・四国・京を廻り、また信濃・武蔵・上野・陸奥・常陸・伊豆・相模など全国をくまなく行化し、念仏札を授け、勧進帳に名を記す者250万1724人に及んだという。'89(正応2)兵庫で最後の法談を開き、所持していた書籍を焼き、8月23日没した。絵巻「一遍聖絵」「一遍上人絵詞伝」は一遍の教化遍歴の生涯を描いたもので、美術史的にも貴重な史料である。
(参)鎌田茂雄「一遍―大地を往く」1985。

「地名を考える」 山口恵一郎 NHKブックス286 1977年
U地名分布と地名群落/本州中央部の地名群落
 谷戸・谷津
 関東を代表する地形語地名群落は、「ヤト」「ヤツ」の谷地名と、「ハケ」「ハバ」などの崖地名であろう。
 「ヤト」「ヤツ」は「谷」と書く。鎌倉付近の「谷」は、扇ヶ谷(おうぎがやつ)で著名なように、「ヤツ」だが、相模原から多摩丘陵にかけての「谷」は「ヤト」である。武蔵・相模を中心とする西関東の南部は、この種地名の最も集中するところだが、どっちかといえば「ヤト」圏で、しかも谷戸と書くのが圧倒的である。
 これに対して、「ヤツ」は東関東南部を代表し、谷津が卓越地名となる。とくに千葉県の両総台地を刻む谷や房総半島の丘陵を刻む谷は「ヤツ」地名群落地だが、前者では「谷津」、後者では「谷」が卓越型となる。両総台地を侵蝕してヤツデの葉状に入りこんでいる谷間あるいは谷頭の水田は谷津田といわれる。また、単に谷田と書いて「やつだ」と読む。べつにヤツデの葉のようにいりこんでいるからというわけではもちろんない。浦賀水道で切られる房総半島と三浦半島とが、地形的に同質であり、しかも文化交流の面でも、走水の渡しを通じて古代における同一交通線上にあったことなどを照らし合わせると、両者の類似した地名分布の重要なことがわかる。
 房総地区では、谷(やつ)はまた谷(や)とも混在し、さらに「サク」「ザク」と読むことがある。「サク」は九州などに多い狭隘を意味する「サコ」(迫)のことで、狭い谷への転化であろう。だが、相模へ渡ると「作」と書く。三浦半島に渡ったとたん、大作・平作などの地名がある。
 松尾俊郎によると、この「〜ガヤト」「〜ガヤツ」という地名のなかにも、前述の垣内(かいと)から訛ったものがあるというから、もうこうなれば、語源探索といってもどうにもしようがないのである。
 なお、「谷」に関連して「クボ」(久保・窪)も東日本、ことに関東、それも武蔵野の台地にはいたるところにみられる顕著な群落地名だということを付記しておく。

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作成:川越原人  更新:2020/12/16