川越の民俗芸能(1)
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川越祭り
行事
- ●全 般
- ・「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年 ★★★
- 川越の民俗芸能について
川越の民俗芸能とは、川越という歴史的風土の中で育くまれて伝承した芸能である。ひとしきり郷土芸能とも謂われていたが、今は民俗芸能と云う言葉が定着している。
城下町川越は古都なる故に他に誇り得る芸能が少くはない。しかしその芸能を支えて来た生活環境の急激な変化によって或いは滅び、また衰頽しつつあるものもある。私達はその総てを保存することは不可能であったとしても、価値高き芸能は、是非とも子孫に伝えねばならないと思う。
民俗芸能の内容は、大別すれば舞踊と民謡になる。舞いとは静かな旋回運動であり、踊りとは激しい跳躍運動と云えよう。その舞踊と歌(音楽)とで構成されている。
川越の神楽は江戸神楽の系統に属している。もともと神楽とは神自体の音楽舞踊として発生したが、それが次第に神慮と慰さめる歌舞と解釈されるに至った。宮中の神楽は御神楽と称され、民間の神楽は総じて里神楽といわれている。里神楽は神代神楽・岩戸神楽とも称され全国に分布している。川越市中福の神楽は相模流と称し、採物を手にし仮面をつけ、神に扮した舞人が、黙劇を演じる。祭礼には無くてはならない芸能である。
神楽といえば、宮下の氷川神社には巫女神楽と湯立神楽が行われていた。いま一つの神楽は太神楽といい、丸一の太神楽が獅子を舞わして家家を祓い清めている。獅子の外に各種の曲芸を演じ、寸劇をも行っている姿は、川越の初夏の風物詩の一つである。
川越の芸能で最も数が多く、各村村で行って来た芸能と云えば、獅子舞と祭り囃子である。川越地方を代表する獅子舞は石原の獅子舞であって、舞の組立てを「十二切」と称し、その形態が整っている許りでなく、寛永11年(1634)に若州小浜に移された獅子舞が現存すると云う歴史的価値が高い。この川越系統の獅子舞は市内に16組も存在していた。何れも一人立ち形式の三頭獅子舞であって、関東以北に分布する。これに対し全国的に分布する伎楽系統の二人立ちの獅子舞がある。これは胴体に二人が這いり前足後足になるのであるが、胴部に大勢這いる例もある。鯨井の獅子舞がこれであって巨大な獅子頭をかついで若衆が村廻りをする。川越氷川神社や古尾谷八幡神社の神幸祭には、二人立ちの獅子頭が先導をつとめている。
川越氷川神社の御祭礼(川越祭)は1648年に江戸の天下祭りを移入したことに始まる。その最盛期の模様を文政9年(1826)の絵巻物が示している。城下町上下十ヶ町の笠鉾(山車)には祭囃子が上演され、これに後続して家台が進む。家台では、三弦・笛・小鼓・大鼓・太鼓が囃され、浄瑠璃や長唄で舞いや踊りと芝居が催され、各町毎の競演が行われた。また唐人揃いや龍神揃い等等の仮装行列は、何れも風流と称する江戸の祭礼そのものである。この趣向は大正期まで継承されていた。
川越の祭り囃子は神田囃子である。これをいち早く習熟し、各村村に伝えたのは中台と今福の囃子連であった。両囃子は何れも古囃子新囃子に円熟し指導的役割を果している。川越祭りの醍醐味は、向い合った山車と山車のヒッカワセ(曳き合せ)である。踊りと囃子の競演の勝負には、かえって神慮を伺った古風が秘められている。祭り囃子の踊りの中で特技を残しているのは南田島の足踊りである。ちなみに川越市史には26ケ所の祭り囃子が記録されている。いま一つの舞いに古尾谷八幡神社のホロ祭りがある。美しいホロを背負った童男が「六方」を踏みながら神輿の前を練行する。これも芸能の一つの姿である。
川越にも川越独自の盆踊りがあった。「町方の少女5人10人打つれ、はり太鼓を持て歌うたひありく之を盆踊と云」との記録が二百余年前にあるが、伝承されなかった。ただ盆踊りの原型とも云う可き行事で川越に残っているのは、「オンダセヤー」という虫送りや、芳地戸のふせぎ、上寺山のマングリなどの行列である。盆踊りは精霊を追い出すための踊りであった。
川越の踊りとして飴屋おどりがあったが、数年前に失われた。飴屋の芸能の影響のもとに発達したと謂われるものに餅つき踊りと万作踊りとがある。南大塚の餅つき踊りは11月のオビトキに行われたものであるが、今は1月15日成人の日の行事になっている。三テコ六テコ等の曲づき、臼を綱で曳くヒキズリモチが歌に合わせて演出される。いま一つの踊りは老袋や鯨井の万作踊りである。下妻踊りや、伊勢音頭で、太鼓と四ツ竹と歌との合奏で、銭輪や手ぬぐい踊りが行われる。
かっての鎮守の祭りには、必ずといって小屋組みの舞台がかけられて、地芝居や万作芝居や面芝居などが行われた。川越では石原町の忽川屋・増鏡・小ケ谷の市川座などがあって地芝居の座と組織し、芝居衣装なども整え頼まれては歌舞伎芝居等を行っていた。万作芝居もこの太夫等が指導していたのである。万作芝居は手踊りから始まり、段物・芝居・茶番と豊富な内容を持つ農民自演の芸能であり、特に埼玉県内広く行われた秋の収穫祭でもある。府川にもあったが、今は老袋の万作としてこの地区の人々により笠松峠・小栗判官や茶番のお玉ケ池などを演じている。飴屋の飴屋芝居も「秋の屋」という太夫がやっていたが今は絶えた。
川越に於ける民謡といえば、新河岸川の舟頭歌である。川越から浅草の花川戸に至る間舟頭達に歌われた川越舟歌は、「アイヨノヨトキテ夜下リカ」の囃子言葉で歌われる。千住節ともいわれる。麦打ち歌・茶つみ歌・機織歌等等の作業歌は歌える人が段々に少くなっている。童謡の「トウリャンセ」発祥の地は川越であるとの声がたかい。
暮から春にかけて家家を訪れて祝福する門付芸の春駒やせきぞう・厄はらい・俵ころがしの姿は戦後全く消え失せたようである。だが今年の正月三河萬歳の姿が街頭で見られたことに懐かしさを覚えることひとしおであった。
語りものといえば古谷地区に白沢という祭文を語る人が居た。祭文とは説教節ともいい、今の浪曲はこれかたら生れたと謂われている。宮下町の氷川神社のすぐ西側に、長沢さんという越後系統の瞽女さんが住んでいた。歌や三味線の上手な人であった。いろいろと話しを聞きたかったが、既に何のすべもない。川越の民俗芸能の特色といえば、江戸の芸能が生き生きとして伝承されていることと謂えよう。
(山田 勝利 記)
参考文献
川越市史民俗篇・埼玉県民俗芸能誌・民俗芸能入門
- 市指定無形民俗文化財
- 南田島の足踊り 川越市南田島
- 市指定無形民俗文化財
- 鯨井の万作 川越市鯨井
- 県指定無形民俗文化財
- 老袋の万作 川越市下老袋
- 県指定無形民俗文化財
- 南大塚のもちつき踊り 川越市南大塚
- 県指定無形民俗文化財
- 川越祭り囃子 今福 川越市今福
- 県指定無形民俗文化財
- 川越祭り囃子 中台 川越市今福
- 石原のささら獅子舞 石原町・観音寺
- ほろ祭り 古谷本郷・古尾谷八幡神社
- 川越市の現行獅子舞
- 石田の獅子舞
- 上寺山の獅子舞
- 下小坂の獅子舞
- 平塚の獅子舞
- 福田の獅子舞
- 古谷本郷の獅子舞
- 川越の年中行事
1月 | 3日 | 初大師 だるま市(喜多院) |
| 9日 | 一升講(鯨井、春日神社) |
| 15日 | 餅つき踊り(南大塚 西福寺) |
| 15日 | 筒粥の神事(石田 藤宮神社) |
2月 | 11日 | 弓取式(下老袋 氷川神社) |
3月 | 21日 | フセギ(芳地戸 尾崎神社) |
4月 | 9日 | 万作(鯨井 日吉神社の春祭り) |
| 11日 | 万作(老袋 氷川神社の春祭り |
| 14・15日 | 足踊り(南田島 氷川神社の春祭り) |
| 15日 | 祭ばやし(今福 菅原神社の春祭り) |
| 15日 | 祭ばやし(中台 八雲神社のフセギ) |
| 第3土・日曜日 | 獅子舞(石原町 観音寺) |
| 19日 | 神楽(中福 稲荷神社) |
| 20日 | 神楽(増形 白髭神社) |
| 27日 | 神楽(藤間 諏訪神社) |
5月 |
6月 |
7月 | 14日 | 神楽(増形 白髭神社) |
| 14日 | まんぐり(上寺山 八咫神社) |
| 14日 | 獅子舞(石田 藤宮神社) |
| 14・15日 | 万作(鯨井 天王さま) |
| 14・15日 | 祭ばやし(今福 菅原神社の夏祭り) |
| 14・15日 | 足踊り(南田島 氷川神社の夏祭り) |
| 15日 | 獅子舞(下小坂 永命寺・白髭神社) |
| 23・24日 | 獅子舞(福田 星行院・赤城神社) |
| 24・25日 | 獅子舞(平塚 八坂神社) |
| 31・8月1日 | 祭ばやし(中台 八雲神社の夏祭り) |
8月 | 27日 | 神楽(藤間 諏訪神社) |
9月 | 1日 | たき上げ祭り(新宿町 雀の森神社) |
| 15日 | 神楽(下赤坂 八幡神社) |
| 15日 | ほろかけ祭り(古谷本郷 古尾谷八幡神社例大祭) |
| 15日 | 獅子舞(古谷本郷 古尾谷八幡神社) |
10月 | 14日 | 獅子舞(上寺山 八咫神社) |
| 14日 | 獅子舞(石田 藤宮神社) |
| 14・15日 | 川越祭り |
| 14・15日 | 足踊り(南田島 氷川神社の秋祭り) |
| 17日 | 神楽(増形 白髭神社) |
11月 |
12月 | 3日 | 酉の市(連雀町 熊野神社) |
- ●足踊り
- ・「証言と記録 川越文化ものがたり」 川越文化会編 さきたま出版会 1993年 ★★★
- 2 南田島の足踊り
- 民俗芸能のルーツ/南田島の足踊り/南田島のお囃子と足踊りの由来/足踊りのやり方について/保存会とチビッコお囃子連/南田島の足踊りと狭山の足踊り
- ・「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年 ★★★
- 市指定無形民俗文化財
南田島の足踊り 川越市南田島
日時と場所
南田島の氷川神社の春祈祷(4月14・15日)とオヒマチ(10月14・15日)、及び氷川神社に合社されている八坂神社の天王さま(7月14・15日)の宵宮に行なわれる。南田島の氷川神社は大仙波の氷川神社を勧請したものだと言われている。
由来と伝承
足踊りとは、人形をあやつる人が仰向けに寝て両手両足をあげ、足さきには人形をつけ、手には日傘や扇子を持たせ、はやしに合わせて人形をあやつる踊りである。あやつる人形は、胴の部分が太い金網でできていて、つける人の足さきに合うように作られている。胴と首のつぎ目はかなり自由に動き、足の指で操作するようになっている。金網の胴の上にはわらを巻き、その上に衣装を着せる。顔の部分には面をかぶせ手ぬぐいでほおかむりをさせる。
この足踊りは、森田森之助氏(1857〜1926)が明治の初期に人形浄瑠璃にヒントを得て考案したものである。当時は足に藁や紙筒等を用いて人形を作ったが、装着するのに非常に時間がかかったと言う。この芸を萩原泰治氏(1897〜1974)と森田元次郎氏(1902〜1969)の両氏が受け継ぎ、人形も現在のように簡単に装着できるものに工夫した。現在使われているお面には、ヒョットコ・オカメ・シシ等があるが、これは萩原泰治氏が作った手彫りのお面である。
舞踊と曲目
まずはやしの「ニンバ」(「カグラバヤシ」とも言っている)の曲で始まる。曲に合わせてオカメがおどけた手振りをする。オカメの一人踊りである。オカメの躍らせ方は片足で人形の首をあやつり、両手を袖の下に入れて、傘を動かしたり、顔を袖で恥かしそうに隠したりする動作などをする。次にヒョットコとオカメの掛け合い踊りで両手両足を使う。次にヒョットコが扇子を持って一人踊りをする。最後にシシのお面をかぶってシシ踊りをするがこれは現在あまりやっていない。足踊りの所要時間はだいたい15分位であるが、仰向けに寝て両手両足をあげて人形をあやつるため非常にきつい踊りになっている。
- ●万 作
- ・「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
- 村にはプロ顔負けの役者がいた?
テレビが普及するのは、昭和30年代後半のこと。これによって、大衆娯楽の主役だった映画は大きな打撃を被ったが、もうひとつテレビの影響で廃れてしまったものがある。村々に伝わる民俗芸能、なかでも「万作」とよばれる農民芸の衰退は激しかった。
万作は、埼玉を代表する民俗芸能といわれている。その名のとおり豊年万作を祝福するもので、かつては県下一円で行われていた。手の動きに特徴をもった踊りが中心となるので、万作踊りとか手踊りとよばれた。その手振りは、田の草取りや刈った稲の束を肩にかつぐ仕草を表すのだというところもある。もちろん楽器(太鼓や鉦(かね))もあれば歌も入る。
万作にはもうひとつ、万作芝居というのがあった。田舎芝居といってしまえばそれまでだが、ストーリー性をもった演劇である。「白枡粉屋」(しらますこなや)「笠松峠」といった単純な構成のものから、「阿波の鳴門」「義経千本桜」といった歌舞伎芝居と同じ演目のものまでレパートリーは広い。ときには芝居の途中途中に、同じ役者による手踊りが入ることもあり、これがまた万作芝居の特徴になっている。
手踊りにしても万作芝居にしても、純粋な農民芸として演じられてきたものである。その多くは神社の秋祭りに、境内に仮設舞台を設けて演じられた。役者も観客も知った者同士。役者が自分の演技に酔えば、観客は酒に酔えば、観客は酒に酔う。しかし、万作芝居ともなればそれなりの練習を積み重ねなければ舞台に上がることはできない。その練習はいつも夜だった。
現在、定期的に万作芝居を上演しているのは、川越市老袋(おいぶくろ)ただ一カ所にすぎず、ここの万作は県の無形民俗文化財にも指定されている。万作好きな人たちが集まって保存会をつくり、会員たちは芸の継承に力を注いでいる。
(大久根 茂)
- ・「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年 ★★★
- 市指定無形民俗文化財
鯨井の万作 川越市鯨井
日時と場所
7月14日・15日の天王祭り、鎮守日吉神社(鯨井・的場・上戸の鎮守)の春祈祷(4月9日)に踊られる。
7月14日の晩は、ソロイと称して万作踊りを踊る。15日には、午後1時頃天王社を出て、獅子は若者たちにかつがれて村まわりをする。鯨井のオモテ・ウシロ・有泉の三地区をまわる獅子は1軒1軒エンガワからザシキにあがり、トボクチより出る。各家ではタタミをあげておく。ブクのかかった家には1年間寄らない。
天王さまは荒ぽくかつぐのだといい、若い衆が太鼓を叩きながら担ぎ手2人、叩手1人によってかけ声いさましくかついでまわる。この行列の先頭は御幣で、年行番は各戸にお札を配って歩く。途中、中休みの場所(薬師堂・村のカミ―西端―のもと水車があった所)や区長等村役の家の庭で踊る。特に改築や新築の家では御神酒を出し万作踊りを踊ってもらう。天王様に戻ってくるのは午後6時ごろになる。
昭和初年に「巡回連」という名をつけ、飛鳥山・小金井・熊谷などの花見に出向いて道を踊り歩いたと云う。戦後間もなくは周囲の村祭りにたのまれてて踊ったこともあるが、昭和40年頃村廻りが中断したため万作も行なわなくなったが、昭和49年に復活し、現在に至っている。
由来と伝承
明治末年に、鯨井の真仁田市平(明治初年生)と云う人が村の人に教えたのがはじまりだという。またどのような人物であるかはくわしくわかっていないが、当時2、30人の村人が習ったという。
現在は20才になると若い衆に仲間入りしている(昔は17才)30才まで仲間入りできるが、結婚しても、その家の戸主でなければ若い衆仲間であった。仲間に入るとすぐ万作踊りを習わせられる。一週間くらい稽古をし、その年に入った者が中心になって踊る。天王様の日、若い衆は獅子をかついで村廻りをし、中休みの場所や民家の庭で万作踊りを1踊りするのである。鯨井の万作は、成人になった者が必ず習わなければならないもので、若い衆たちによって踊りつがれてきたのである。
舞踊と曲目
囃子方は太鼓1人(大太鼓を立てておいて叩く。歌うたいが叩く)、笛1人(七つ穴の篠笛)、すり鉦1人(2ヶ所に鈴と赤青の房をつける)。
衣装は、村廻りの時は猿股。浴衣地の半地襦袢・ねじり鉢巻・地下足袋である。若い衆に入った時は、半切襦袢をつくるものだという。その他のときは、揃いの浴衣に、白足袋、手拭鉢巻、青の襷がけ、万作踊りは豊年祝いの意があるので必ず白足袋をはくのだという。また、昔は娘衆の着物をかりて着たものだという。
演じられる曲目は、下妻踊り1曲である。持物なし、横一列にならんで踊る。歌詞は3番まであるが、踊り方は多少異なる。1番が基本で、2、3番は、踊りのアヤが少しずつ違い手がこんでおり、動きも多少早くなる。
歌詞
1. そうだあよそうだよヨホホイ 今年は世が良い豊年年だからヨホホイ 穂にほが重なり桝はまたいらぬでヨホホイ 箕でさて計ります今年は世が良いヨホホイ 豊年どしだからお伊勢詣りにヨホホイ どんどと参りますはるかまた向うにヨホホイ 箱根見ゆるがあれこそ誠のヨホホイ 下妻の出店に間違いはござらぬヨホホイ もしまた皆様ようたぐりあるならヨホホイ 街へと上りて右のまた中ほどうにヨホホイ 紺のまたのれんにお伊勢屋と書いてあるヨホホイ あれこそ誠の下妻の出店に間違えはござらぬテケナーヨホホーエー
2. 出店のよう番頭さんよヨーホホエ お店に掛けてあるは白地に矢羽根のヨーホホイ ついたる手拭は一ひず切りてはヨーホホイ おいくらとなります一ひず切りてはヨーホホイ 四銭と五厘だよけれどまたお客さんヨーホホイ お好みとするならお値段を割りますヨーホホイ 四銭もの二銭に貴女の事ならヨーホホイ 二銭もの只でも上げたいけれどもヨーホホイ義理とまた世間の人前いかねてはヨーホホイまんざらそうにも出来ませぬヨーホホイ 見ればまたお客さんは踊りが上手様だヨーホホイ 踊りの一つも踊ったことならヨーホホイ 人目を忍んでふところ袂とにヨーホホイ ちょっくらちょいと投げ込むヨーホホイ やりますやりますテケナーヨーホホエー
3. これをよー被ぶりてヨーホホエー 下妻の街道に出店を作るににゃヨーホホエー 越後の大工さんと讃岐の左官やさんとヨーホホエ 其の他また大勢を一度にたのんでヨーホホエー 出店を出すには一膳めしやでヨーホホエ お女中をたのむにわ下妻のお小夜ちゃんとヨーホホエ お花ちゃんとおせんちゃんとこのやまたや三人はヨーホホエ 緋縮緬のたすきでじょにゃくにゃ致せばヨーホホエ これを見た若い衆はこたいせぬこたいせぬテケナーヨーホホーエ (原文のまま)
- 県指定無形民俗文化財
老袋の万作 川越市下老袋
日時と場所
万作踊りの多くは夏から秋にかけて行なわれた。特に大水が出たりして景気が悪いときは、豊年万作を行なって豊年を迎えようと、夏祭り(天王さま)や村の地蔵さま・薬師さまの祭りのときに演じた。また家を新築して、このようにしたから座敷を貸してやつらに万作踊りを踊らせようじゃないか、ということで個人の家から頼まれて行ったり、お婆さん達のオシラ講にも頼まれて行った。そのほか古谷上の沼端というところの婚礼に、踊り子として頼まれて行ったこともあるという。
初期の万作踊りに特別な舞台を作らず、農家の座敷や薬師さまの座敷を借りて行なった。踊りだけなので大きな舞台は作らず紅白の幕を張るだけで、座敷を舞台にして庭で見せた。大がかりに舞台をかけるようになったのは万作芝居から歌舞伎芝居をするようになってからであった。農家の庭に二・三百人もの見物人が集まり、村の店が出て露天で子供に飴菓子を売ったりしたという。当時は芸人がいないので万作ぐらいが楽しみだったので見物人も多かった。
由来と伝承
老袋の万作は明治25年頃比企郡川島村から流入した下妻踊りを中心とする埼玉県南部の系統に属する芸能であって、村田銀蔵などによって伝えられた。万作は明治時代から大正時代にかけて盛んに行なわれたが、次第に滅んでしまった。現在のこの万作保存会は戦后中断しておったものを村田銀蔵氏を師匠にあおぎ、今日まで郷土に守り育てられ、人々の心を豊かにしてくれたこの伝統ある芸能を保存すようと関根次太郎会長を中心に形成されたものである。昔と違って今は殆んどがサラリーマンであるので練習なども夜に限られ、忙しい中を熱心にしておられる姿を見るにつけ、今後ますますこの万作を伸していくことは必定であろう。
なお昭和46年12月には国立劇場でその芸をみとめられ公演し、観客から盛んなかっさいをあびた。
踊りの順序
万作は「万作踊り」「万作芝居」と通称されている。万作芸とは「手踊り」「段物」「芝居:「茶番狂言」という豊富な内容をもつ芸をさす。手踊りは下妻踊りと伊勢音頭のくずれの二種類である。踊り手は3人から5人ぐらい、歌は1人から3人ぐらいで歌う、楽器は四つ竹と太鼓、三味線を加えたこともある。曲目は手拍子、銭輪踊り、手ぬぐい踊り、杖踊りなどである。最初に手踊りが歌に合わせて行なわれ、そのうちにせりふが入って踊り手の演じる寸劇がはじまる。しばらくしてまた歌となり手踊りでおちになる。段物(二段、三段と幕が続くものを呼んだ名称であろう)には笠松峠、同道行、やき山峠、弥陀堂の和尚、白桝粉屋などの万作本来の芝居のほかに歌舞伎系統のお半長右衛門、小栗判官供養の場、太功記九段目、白浪五人男、義経千本桜なども行われた。茶番(京阪地方におこなわれた俄の同類で、江戸の歌舞伎から発生し天明年間に一般民間にも流行した滑稽な即興寸劇で落ちをもったもの)にはお玉ケ池、弥次喜多の金拾等がある。
※お玉ケ池(一幕)
お玉ケ池の中に光る物がある。侍はこれを人に見られぬように取ってくれば五十両くれるという。五作が池に入って鏡をとってくる。鑑が光る光らないということで五作とどらみよと喧嘩となるが、しのぶが出てきて二人の急所を握る。おどけた問答で幕。
- ●餅つき踊り
- ・「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
- 北足立に集中する餅つき踊りとは?
浴衣姿にねじり鉢巻の男衆が数人、小ぶりの杵を手にして一つの臼を取り囲む。蒸した米がその場に運ばれ、臼に移される。餅つき踊りの開始だ。音頭取りの歌う餅つき歌に合わせて、最初は静かにもち米をこね、続いて威勢のいい餅つきとなる。そのあとは、さらに小さい千本杵に持ち替え、「曲づき」という曲芸的な早業に移る。普通四人一組でつくから、息がぴったり合わないと怪我をすることさえある。こうなると単なる餅つきではなく、まさに「踊り」とよぶにふさわしい芸能になる。
餅つき踊りは農村部に伝わる民俗芸能だが、獅子舞や神楽と違うのは、個人の家から頼まれて不定期に行われるものだったこと。子供の帯解きや新築の祝いに餅つき連中を招いてついてもらい、餅は親類近所や観衆に振舞った。そのため「接待餅」とか「祝儀餅」とよんだところもある。
ただ、このような接待≠ェできるのは、村のなかでも裕福な家だけ、しかも帯解きの場合は長男にかぎられていた。
現在、県内ではさいたま、上尾、桶川、川越、東松山など数カ所にしか伝わっていない。それも個人の家から離れ、神社の祭礼に合わせて境内で行うところが多い。ところが、少し時代をさかのぼってみると、30カ所もの地区に餅つき踊りがあったことを知る。興味深いのはその分布で、さいたま、上尾、桶川の三市町村に集中し、上尾と桶川だけでも15地区を数えることができる。その理由は何なのだろうか。もうひとつの埼玉的な民俗芸能である万作踊りが集中して分布するのもこの地域ということだから、両者の間には何らかの関係があったのかもしれない。
それにしても、餅つきを芸能にしてしまう農民パワーには脱帽するしかない。
(大久根 茂)
- ・「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年 ★★★
- 県指定無形民俗文化財
南大塚のもちつき踊り 川越市南大塚
日時と場所
戦前までは餅つき踊りは七五三の祝いのときに盛んに行なわれた。戦後になると急速に行なわれなくなったが、成人式の祝日が制定されてからは、部落の公的な催しとしてこの日(正月15日)の祝いに行なわれることになり、現在に至っている。古い姿の子供の七五三の行事が、同じく一生の儀礼である新しい姿の成人式の行事へと発展的に移行したわけである。
七五三の祝いは古くはオビトキといい、主として長男・長女の7歳の祝いであった。(11月15日で、旧暦の頃は霜月15日)オビトキに餅つき踊りを頼むのは、オダイジン(お大尽)といわれる階層に限られていた模様で(一般には七五三祝いなどしなかったという年寄りが少くない)何俵も餅をつく豪勢な祝いであったという。頼まれた家で餅つき踊りを行ない、その家から臼をひきずって菅原神社に行き、途中餅をつきながら「ひきずりもち」を行ない神社に奉納した。現在は成人式の催しとして、西福寺で餅をつき、それから菅原神社までひきずって行く程度の形で残っている。
由来と伝承
南大塚の餅つき踊りは、二・三百年前から行なわれていたといわれるが詳細はわからない。古老の話によると安政年間(1854〜1859)以来オビトキ(七五三)の祝いのときに行なわれてきたという。近隣の部落でも、かって裕福な家のオビトキ祝いのときには餅つき踊りが行なわれたという伝えが多い。
踊りの順序
(1)ナラシ……6人から8人でもちならしをする。
(2)ね り……一同押せ押せとねる。
(3)ツブシ……6人から8人で一斉につく。
(4)六テコ……コネドリ1人、ツキテ6人が小杵でつく。三人ずつ二組に分れてむかい合い、向いあった二人が一組となって三組が交互に杵を落す三拍子のつき方である。六テコの中には「股クグラセ」などの曲芸がある。
(5)三テコ……三テコは三人が歌、コネドリ1人ツキテ3人一組で交替しながらつく、キネワタシ、カツイデ一廻り、股クグリ。モチカッキリ、ケコミ、ダマシヅキ、キネノホウリアゲ等の曲芸が行なわれる。
(6)アゲツキ……コネドリ1人、ツキテ3人でもちを仕上げる。万作と同系統の芸能であり祝福の行事である。
- ・「武蔵野歴史散歩T」 伊佐九三四郎 有峰書店新社 1983年 ★★
- 27 西福寺の餅つき踊り
祝い餅
白い富士が大きくみえ、左側の斜面がにぶく光る肌寒い日だった。
西武新宿線本川越のひとつ手前に南大塚という駅があるが、その近くの寺にもちつき踊り≠ェあるというので、一月十五日の朝、カメラを肩にぶらりと家を出た。西武新宿線は、池袋線にくらべて工場誘致がすすんでいて、ひらけてはいるが、土地がほとんど平らなために風通しがよくて何となく心寒さを感じさせる。
南大塚の駅で、改札口の駅員にもちつき踊りのことをたずねると、いま花火があがったからもうはじまるでしょう、ということで、足ばやに寺をめざした。鉄道に沿って走る国道にでると、小さな寺はすぐ眼の前だった。
植木市や屋台店がでているわりに人出が少ないな、などと思いながら山門をくぐった。山門には木宮山≠フ扁額がかかっている。木宮山地蔵院西福寺(さいふくじ)は、川越喜多院の直系、天台宗の寺である。踊りは一時にはじまるということだが、なかなかはじまらない。さっきから裏方の餅米(もちごめ)のふかし役が忙しそうに動きまわっているが、所在ないのでかたわらに立っている老人にたずねてみる。
「もともと七つの帯ときの祝いに農家でやった餅つきのお祝いで、臼を子供にひかせながら、天神さまにお参りしたもんですよ」
ここで私は通りゃんせの歌を思い出した。ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ≠ニいうあの歌である。
「この子の七つのお祝いに、お札をおさめにまいります、というわけですね。じゃあ昔は十一月にやったものですな」
「ええ、日は家によってもちがいましたが、人をよんで祝ったものです。
それがしばらくすたれていたが、戦後成人の日が制定されたのを機会に、公民館もなかったので西福寺で餅をつき、成人全員がそろって天神さまへお参りするようになったのだそうである。
しばらくして、小さな庭で餅つきがはじまった。白いハッピに豆しぼりのハチマキ、そろいの着物にタスキがけの男たちが、センス片手にうたうもちつき歌にあわせての餅つきである。
めでためでたが三つかさなれば、庭に鶴亀御代の松……≠フ歌にあわせてならし、押せよなあー押せー下の関までも……≠ニ歌う。やがてねりに入りモチはなあーねれたかあーかこねどりどうだーこねどりゃー勝手でつまみぐい……≠ニ歌う。
やがてつぶし。娘島田に蝶々がとまる。とまるはずだよ花じゃもの……≠ニ六人がつき、やがて三人がつく。
お江戸じゃ日本橋、神奈川、川崎、戸塚、保土谷、馬入、平塚、大磯、小田原、箱根をこえて……≠ニ数え歌がうたわれる。センスを持った歌い手の歌にのって、つき手もこれにあわせて歌う。臼のまわりをぐるぐるまわりながら、杵を股にくぐらせたり、ついた手を杵からはなして手拍子をうったり、控えの者とプロレスよろしくタッチして交代しながら餅をつきつづける。
やがて、お供え餅と酒をもった男衆を先頭に、着物を着かざった成人の娘たちがあとにつづき、そのあとに紅白の綱でしばったさきほどの臼を、子供たちが大勢でひっぱりはじめる。ひきながら餅つきはつづけられ、すぐとなりの菅原神社(天神さま)へお参りして一段落する。
変わる民俗芸能
天神さまの境内でカメラをしまいながら、かたわらの老人に話しかける。
「戦前からこのおどりの型は変わらないですか」
戦後の芸能が、観光のためショー化し、原型を失っているものが多いので発した質問だった。
「いやあ、こんな綱をひいて派手に踊るものは、あたしたち子供の頃は、あんまりやりませんでしたよ。それに大勢呼んでやるのは、一部の金持ちだけのことですし、おどりだってこんなに複雑じゃあありませんでした。私はこれが、一名接待餅≠フ名のとおり、殿様が村回りにきたときの歓迎の餅つきだと思いますよ」
もらったパンフレットをみると、安政年間、大塚の山田家で七五三の祝いに若い衆がたくさん集まって、もちつき踊りが盛大に行なわれたということが書いてある。お大尽の大番ぶるまいに招かれた若者が、景気よく踊りながら餅をつく情景が頭にうかんだが、もし一般の百姓も祝い餅をついたとしたら、いわゆる結と呼ばれる共同作業で、となり近所の人たちが集まり、ささやかなもちつき踊りをしたことだろう。労働時間が長くて娯楽が少ない、圧政下にあった江戸時代の農民にとって、この餅つきは社交と娯楽の役割を果たしたはずであった。
民俗芸能の真髄は、奥深いところにある幽玄の美ではない。庶民の肌に密着した生活の詩なのだ。当時の庶民とほんとうに結びつくものは、理窟ぬきの現世利益の信仰や娯楽であった。「性」を実現したものが多いのもそのためである。民俗芸能は庶民のものである。庶民がこれを創りだし保存してきたのだが、いまや観光のためにのみ利用される感じがつよい。
民俗芸能の保存は、たしかにむずかしい。ひっそりと原型をそのまま時間をこえてのこすということは所詮むりなのだろうか。しかしこれはいまにかぎったことではないかも知れぬ。つまり祭りそのものが、みずから神に祈り、踊り、愉しむはずのものを、見物して楽しむようになったときから堕落がはじまったといえるかも知れない。
- ・(ブログ)南大塚の餅つき踊り
- ●ほろかけ祭り
- ・「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
- 第13章風俗/祭礼
ほろかけ祭り
古谷本郷の古社、古尾谷八幡神社の例祭は、「ほろかけ祭り」の名で親しまれている。この祭りは、県の無形民俗文化財に指定されているほどのものだけに、特色がある。第一に、ほろの出る本祭りは、9月15日だが、実は祭りはその前から静かに始まっている。9月9日のオコモリハジメや12日のほろ作り、14日の夜宮などがそれで、それぞれ古式にのっとり厳格に行われる。第二は、ヤドでの盛大な祝宴。重いほろを背負って八幡さま(神輿)のお供をする子供は、二人一組で二組がふつう。そのほろショイッコを出す家を「ヤド」と言うが、ヤドでは15日の1時頃。親元、親類などを呼んで祝宴を張る。父親が床の間を背にしたほろショイッコに、まず盃を三献わたす。それから飲めや歌えやのにぎやかな宴になる。そして3時頃になると、ほろショイッコは、ほろを背負って神社に集まる。それからが本番だが、10歳前後の少年に重く大きいほろを背負わせ、一定の足運びで相当の距離を練り歩かせることといい、その直前のヤドでの披露といい、古い元服式の性格が感じられる祭りでもある。
<井上>
- ・「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年 ★★★
- ほろ祭り 古谷本郷・古尾谷八幡神社
毎年9月15日に行なわれる。ホロカケマツリ、ホロが出るともいう。古尾谷八幡神社は平安時代(862)創建といわれる男山八幡宮を元暦元年(1184)源頼朝がこの地に勧請したと伝えられ、今日でも頼朝が寄進したと伝えられている銅鐘が、隣地の灌頂院境内に残っている程の古社である。
この神社で、字下組、上組の人が参加し行なわれるのがほろ祭りである。ホロとは背負かごにホロをつけて36本の竹ひごに1本1本半紙をまき、薄桃色の和紙で花をつくり、かんぜんこよりで竹につける。かごの中にはおもりの石と鈴が入っていて歩くとチンチン鳴る。かごにしょい綱がついていて、これを肩にかけて背負う。ホロショイッコは本郷上組、下組から各々2人づつ出ることになっていて、八幡青年団の者が練り足の練習にあたる。
この行事は先づ9月1日幟立てやそれぞれ保管してある36本の竹ヒゴを業者へ持っていくのにはじまる。ホロショイッコの衣装も12日頃までには整える。9日のオコモリハジメ、14日夜神主が来ての祭典と直会、また終戦前豊作の年などには青年団の余興が出たり、芝居がかかったりして賑やかであった。そして当日となる。
15日の朝、役員がお旅所に竹を立てしめや幕をはる。宿(ホロショイッコの出る家)には親戚、組合の人が祝いに集り、ホロショイッコにたいし三献の盃事が行なわれる。これを出陣の式という。
本殿では祭典を行う。時刻になって八幡さまに集り、御新幸に加わりお旅所までお供をする。獅子頭2頭、天狗、榊、太鼓、神饌の入ったひつぎ、鉾、錦旗、ほろ、御神輿、神官、右大臣左大臣の随身、楽人、氏子総代の順に行列はゆるやかにすすむ。一の鳥居を出るとホロショイイコは六方を踏むというお練りの足どりでホロをゆさゆさゆすり、打ちつづける太鼓に合わせて鈴の音をたてながら進む。この練り足は10才前後の子にとってはかなりきつい。6尺棒(6尺棒をもった青年団の役名)や身内の人は無事にお供ができるように掛声をかけて激励する。このあたりがホロカケ祭りの絶頂である。お旅所の前までくると、「最後に、力強く」と励まされたホロショイッコは力いっぱい練り、ホロをまわしてオタビのお供は終わる。
この祭りは形の上では八幡神社の神輿がお旅所までオタビをする八幡神社の例祭である。そして祭りの中心はホロショイッコがホロをしょって八幡さまのオタビのお供をすることであろう。
この地区の人として生活し、鎮守さまの氏子として生活して行かねばならぬ長子は、このようにして氏神さまに氏子としての承認を得る必要があったのである。こうした氏子入りの儀式であるとともに、元服式の印象が深い古い神事である。
(県指定無形民俗文化財)
- ●祭り囃子
- ・「川越市子ども民俗芸能大会解説書」 川越市教育委員会 1981年 ★★★
- 県指定無形民俗文化財
川越祭り囃子 今福 川越市今福
日時と場所
はやしは、毎年元日の初ばやし、4月14・15日の菅原神社の春祭礼、7月14・15日の平野神社天王様(夏祭り)10月14・15日の菅原神社の秋祭り(オヒマチ)ともいい、以前は10月21・22日であったといわれている。
春祭礼は、戦争前まではアサバヤシといって朝暗いうちからはやしをはじめ、夜の10時頃まで間断なく続けた。現在は午後2時頃から菅原神社の拝殿で祭典がはじまり、はやしは神社の前の神楽殿で舞われる。以前は神楽殿が神社の東側にあり、はやしは神社と神楽殿との間にやぐらをかけて行なったという。
7月14・15日の天王様は14日はヨミヤといい12時頃までおはやしを行なった。15日の午前中に平野神社から屋台と神輿が出て今福の村中を奏して歩く。屋台にははやし連が上に乗り子どもや年行事が引き歩く。部落は原と宿の上・下分かれていて屋台と神輿はまず平野神社を出て、原を通って下のタナ(辻)に行き、次に宿の上まで行き、菅原神社に入る。屋台と神輿は原を通る時は原の者が引いたりかついだりして、その地区の人達が受けもった。以前は、この日は菅原神社にヨマチガたち夜おそくまで賑わったという。この他、他の行事にもたのまれて出演する。今年度は、県主催による埼玉県民俗芸能大会に川越の代表として出演している。
また10月14・15日の川越氷川祭りには六軒町の山車に乗り活躍しているが、これは、明治21年六軒町に山車ができた時、どこのはやしを乗せるかを選考するため「試験ばやし」が行なわれ、審査は丸一という太神楽師であった。その際今福のはやしが優秀と認められ、それ以来今日まで六軒町の山車に乗っている。
由来と伝承
今福の祭りばやしはシンバヤシといい芝金杉流である。静かなはやしでよそのはやしよりもテンポが遅く「寝ていて聞くはやし」といわれ静かな点では上尾市堤崎のはやしに似ている。
今福のはやしは以前は中台のはやしといっしょであったが、いつの頃かけんかがもとで今のように今福と中台に分かれたものだという。そのとき従来のはやしを中台が引き継ぎ、今福はその後東京の五宿というところから先生を招いて、はやしを習ったものだという。今福がはやしを習った正確な年代はわからないが、間接的には次のことが知られている。
森田慶松の祖父の時代に習ったという。また故宇津木柳吉が10歳から11歳の頃に習ったのが二度目のことであったという。
舞踊と曲目
はやし方は笛・小太鼓(カシラ、ナガレ)大太鼓、鉦、舞の6人から成る。
曲目は屋台、宮正殿、屋台(テンコ、シシで舞う)で始まり、次からは鎌倉、鎌倉攻め、師調舞(ヒョットコ、シシ又はオカメで舞う)インバ(ヒョットコ又はオカメデ舞う)子守歌、数え歌、八百屋お七(オカメで舞う)等、舞との連携で何をやってもいいが、最後は必ず屋台で終ることになっている。昔は神田丸、キリン、カッコー、カメイド、矢車返し等があったが今は絶えているのは残念である。
今福のはやしの特徴は、三番叟を舞うことであり、他のはやしにはない。引っかわせは必ず師調舞で行っており、格調高い賑かなはやしと定評のあるところである。特に故人である宇津木茂吉氏の笛、宇津木柳吉、新井嘉弥吉氏の小太鼓、森田慶松氏の大太鼓が演じたはやしは天下随一と称された。
- 県指定無形民俗文化財
川越祭り囃子 中台 川越市今福
日時と場所
中台の鎮守は八雲神社である。創立年代は不明であるが、文政12年(1830年)の年号の入った鰐口が残っている。中台の囃子は八雲神社に属しておりその祭りのときに行なわれる。祭りは、4月18日の春祭り、8月1日の夏祭り、11月27日の秋祭りには、神社境内において囃子が演じられる。
また、10月14・15日の川越氷川祭りには、志義町の山車に乗りこみおはやしに、踊りに、技のかぎりをつくすのである。
由来と伝承
中台の祭り囃子の流派「王蔵流」で神田囃子の系統に属する新囃子である。王蔵流は神田囃子の一流に種々の改良工夫を加えた新しい感覚のもので地方的な発展と名称を持つ特色のある流派の一つである。
中台の祭り囃子が志義町(現在の仲町)の山車にのるかは、中台が旧藩時代に、川越志義町入会いの地であった関係上、いろいろの面で結ばれていたもので、志義町の山車の初めより中台連中が乗り、現在に至っているものである。文久二年(1862)現在の山車の改造の時は、中台囃子連中一同が扇河岸より山車をはこんだと伝えられている。もちろん中台のはやしは、それ以前より里神楽として実在したもので、やはり川越祭りとともにおよそ200年以前からはじめられ、その後年を経て文政の頃江戸高井戸より神田祭りで七本の山車を吹き抜いたと云う名人笛角に新しく神楽ばやしを教えてもらい現在のはやしの基礎ができあがったのである。
その後、明治に入り、はやしでは日本一と評判のあった王蔵金と云う人が中台に来て十日間にわたり今までのはやしを骨子として悪い所はすてて江戸ばやしの善い所を加え笛・太鼓・舞・鉦とあらゆる面にくふうを加えて現在のはやしとなっている。
舞踊と曲目
おはやしをリードする主楽器は笛であり笛は手製で、うつぎやあおいを材料として作られている。
太鼓には、大太鼓と小太鼓があり、大太鼓は一個、小太鼓は2個である。
鉦はスリガネで、一般に「ヨスケ」と呼ばれる。はやし連中の服装は、水色の地にノシメの五つ紋の着物を着て各帯をしめ、頭にはてぬぐいを「はやし方かぶり」にしてはちまきはしない。紅白鼻緒の祝いぞうりをはき、全員そろいの衣装で出演する。
舞踊に用いる面も、笛と同様に土地の人の手になる手製のもので、現在の面は、明治の中頃に坂本己之助と云う人が作った物といわれている。
現在おこなわれている曲目にはカマクラ(鎌倉)・カマクラゼメ(鎌倉攻め)・ミヤショウデン(宮聖伝)・インバ・コモリウタ(子守歌)・カゾエウタ(数え歌)・ヤタイ(屋台)・シチョウメ・シチョウメの玉・カンダマル(神田丸)などがある。
おはやしの踊りは重苦しい感じのない軽妙なところが特徴である。
テンコ(天狐)の舞は、仲町の山車の上にのる人形である羅陵王の気質とぴったりと合った舞であって、正しいことはどこまでも通す意志と迫力をあらわしたものである。御神体に用いる幣束を打ち振りつつ笛のリズム、太鼓の調子と合わせて舞う姿は、信長の意志を表現している。仲町の山車が引きかわせに、この舞を用いるのもこのような理由による。
狸は豊年の表徴であり実る稲穂を眺めてすべてを忘れて踊る豊年の喜びを表現している。
テンタ(天太・オカメ)この舞は、限りない母親の愛情と、女のやさしを表現したものである。
モドキ もどきの舞いは色々の面で踊るけれども、特色のあるのは金つぼの面の踊りである。真黒に日にやけた面にすべてを忘れ、豊年を祝うすがたを踊りにしたものである。静かな澄んだ笛のリズムと共に前の踊りに疲れた獅子はうたた寝の中に獅子の精はもどきに変り、獅子の中から抜け出るものである。一名ぬけという。抜け出たときの様は何ともいえない至妙なものを感じられる。その中笛のリズムの変りと共に漸く目がさめて来る。この頃のはやしは、鎌倉攻めといって、昔鎌倉を攻めた鉦太鼓の調子をはやしに取り入れたもので、その攻めがだんだん急調子になるにつれ舞いもすっかり目がさめる。目がさめると、はやしは一転して四丁目となる。四丁目の踊りは凧上げと玉突がある。先ず凧を上げるときは、はやしの調子に合せて凧を書き糸目をつけて背負ひで原に行き凧を上げるのである。はやしの調子にぴったりと合せて凧を上げる様は、正に芸能的極致の表現である。
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