高 林 謙 三


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「改訂新版 小江戸川越 江戸文化の残照を求めて」 土金冨之助 創芸社 1991年 ★★★
 高林謙三
 天保3年(1832)4月25日、高麗郡平沢村(日高市)に生まれ、16歳で権田直助の門に入って国学と医学を学び、さらに、佐倉藩侍医佐藤尚中に西洋医術を学んで、 文久2年(1862)川越藩主松平大和守の侍医となった。その後考えるところがあって医業をやめ、地場の産業を興そうと製茶機械の発明に精進し、ついに3種の製茶機械を完成させた。 その特許出願により日本の特許第2、第3、第4号を得た。また茶の栽培にも力を尽くし、今日の狭山茶の隆盛に寄与し、明治34年70歳で没した。
 この高林謙三の墓が喜多院斎霊殿にあり、市指定文化財になっています。

小江戸 川越歴史散歩」 広瀬瑛 鷹書房 1991年 ★★★
 高林謙三の墓
 墓地に入って右側にある。謙三は天保三年(1832)四月二十五日、高麗郡平沢村(日高市)に生まれた。嘉永六年(1853)十六歳のとき、今の毛呂山町毛呂の権田直助の門に入り、国学と医学を学び、さらに下総佐倉の順天堂の佐藤尚中に外科医術を学ぶこと三年、安政六年(1859)はじめて外科医として小仙波に自立する。
 安政六年といえば、その前年にアメリカをはじめ先進諸国と通商条約を結んで、長い鎖国の夢からさめた日本であった。謙三もまた、せっかく修得した新しい外科医術に励むだけでは満足せず、「百般ノ事物悉ク之ヲ海外ニ仰ギ、輸入品目日ヲ逐テ多キヲ加フルモ、我ヨリ輸出スル所ノ物品只僅ニ製糸、製茶ノ二品アルノミ。而モ其産額僅少ニシテ償フニ足ラズ。国家財政ノ権衡ヲ失フ。寧ンゾ久キニ堪フルノ理アランヤ」と、後年、農商務大臣に提出した履歴書にしたためているように、国家百年の大計のために、製茶機械の発明を決意したのである。
 明治二年(1869)から三年にかけて、謙三は数ヘクタールの山林を買い、これを開墾して実験資料としての茶園の経営をはじめた。ところが、製茶業に目をつける者が多く、産額は急上昇したが、価格は低落し、製茶業者は困窮をつづけた。謙三の機械発明は急を要したが、医業の傍らの無理な研究がたたってか、明治十三年に肺病のために喀血する。
 こうした苦闘の中にあって謙三は、ある日炉のはたで、茶の入った硝子瓶をもてあそんでいるうちに、その中の茶が回転し渋滞しないのを見た。この原理を応用し、三年にわたる試行錯誤をくり返した結果、ようやく回転円筒式の焙茶機械の発明に成功した。これと併行して茶葉蒸器械、および製茶摩擦器械もともに発明。明治十八年の専売特許法の施行にあたって、二号、三号、四号も専売特許を獲得するにいたった。
 この謙三の器械発明によれば、労賃を軽減するなどしてアメリカにおける売れ行き不振に活路が開けるはずであった。だが、職工の機械への未熟のために不良品のレッテルをはられるなど、窮地に陥った。
 家をたたんで東京の染井に移住した謙三は、明治三十一年に「高林式茶葉粗揉機」を完成させ、第三三〇一号の特許証を得た。しかしこれも地元の狭山茶に採用されるどころか、茶業組合自身がその製造・使用に種々圧力を加え、これを受け入れようとしなかった。
 やむなく謙三は、新進の静岡茶に望みをたくして三十二年、静岡堀の内の松下幸作がこの器械製造に立ち上がるにおよんで、その監査役として静岡に移り住んだ。しかし二年ほどして、明治三十四年四月、堀の内で客死した。七十一歳であった。墓石には妻浜子の名も刻まれている。また、高麗川駅にほど近い出生地の畑地の中に「製茶機械発明者高林謙三出生地」の大きな標識が建てられている。

「日本名茶紀行」 松下智 雄山閣 1991年 ★★
第七章 関東地方の茶
 埼玉県
 川越茶
 高林謙三翁
 茶の品種、やぶ北を育てた人として、静岡県で杉山彦三郎翁を紹介したが、ここ狭山には、製茶機械の育ての親としての高林謙三翁を紹介したい。
 明治期の文明開化、そして近代国家の育成、それに不可欠な産業開発と、日本の明治期はめまぐるしく発展していた。その一つに日本に初めて専売特許法が制定されたことである。時に明治十八年(1885)であり、全国から四百二十五件もの出願があったが、このなかで九十五件に特許の認可が出されている。そしてこの九十五件のなかで、第二号と第三号、第四号までが製茶の機械であった、ということである。茶が、日本の近代産業開発の基礎にも、大きな足跡を残している、ということである。
 この意義ある製茶機械を発明したのが、高林謙三翁である。特許を得た、と言っても、今の機械から見ればおもちゃのように見えるが、明治期に輸出の花形であった茶の製造の合理化、能率化ということから見ると、大きな意義をもっており、大言すれば、国家的な重要性をも帯びていたものである。
 翁は、天保三年(1832)埼玉県高麗郡平沢村(現入間郡日高町)に生まれた。医師としての使命をもって、安政三年(1856)に郷里に開業したが、そこが狭山茶の産地の一角であり、朝晩ながめる茶に日本の近代国家としての行き先を託したのである。「王政にかえった今日、大洋に浮んでいる外国船を見るに、一葉一屑の木葉、木片にしか過ぎないが、まるで一国一城のような威容をもって無限の大洋を我がもの顔に雄飛しているではないか。しかるに、日本はその一隻に対してすら一矢、一槍も報いることが出来ない。いわんやその一隻を派遣している母国に対してをや。悲憤屈辱の之に越すものはない……」。明治期の日本の姿を直視した時の翁の気概であったと思う。
 この日本にとって、近代産業の発展が急務であり、これこそが、日本の進む道であり、その産業は茶にあり≠サして、茶業の発展には製茶の機械化であり、工業化であるとにらみをつけたのである。にらみはつけたものの、製茶の機械化は一朝にして出来るものではなく、医者を始めた頃にあった相当の財産も、またたく間に消えてしまい、自分自身が医者のお世話になるほどになってしまった。親類、縁者からも見放され、丹精こめた茶畑すら担保としてとりあげられる始末となってしまった。
 こうした翁の一途な努力、そして悲惨な現状に強く心を打たれた静岡県小笠郡に住む茶業の先覚者、松下幸作、山下伊太郎の二人が、物心両面から援助の手をさしのべたのである。この両人の力もあって、明治三十一年十二月、ようやく製茶機械として日の目を見ることが出来たのであった。この高林翁の貴い意志を受け継ぎ、茶業界に新しい機械を送り出して来たのが、高林式製茶機械松下工場(本社静岡市金座町4−1)である。
 現在の製茶機械は、一連の全自動式で、生の茶の葉を入れれば製品となって出て来るわけで、途中はメーターや、温度計などを見て廻るだけ、というほどに改良進歩しており、高林翁の特許申請から見れば、まさに雲泥の差である。
 この姿こそが、日本の産業史を物語る何よりの証明であり、茶が果した日本の近代化への貢献度を再認識するものである。

「埼玉事始 ―さいたまいちばんものがたり― 東京新聞浦和支局編 さきたま出版会 1987年 ★★
明治/製茶機械の開発          ●明治十四年
 ●茶業界の産業革命。私費投じた高林、良質品を安く供給へ。
 茶が本県で栽培されるようになったのは、約八百年前の鎌倉時代。中国から持ち帰った茶の種を明恵上人という僧が武蔵河越(現川越市)の野にまいたのが始まり。その後、応仁の乱で農耕が荒廃、この余波を受けて停滞したが、江戸時代に再び盛んになり、生産地域の拡大とともに狭山茶と呼ばれるようになった。
 現在は、県西部の比較的、涼しい丘陵地帯が主要産地で、栽培面積三千二百二十f、荒茶生産量二千五百三十d(五十八年度関東農政局埼玉統計情報事務所調べ)。県の特産品として全国的にも知られている。
 この狭山茶の製造に一時代を画した先駆者が高林謙三である。
 高林は、入間郡日高町平沢の出身。十六歳の時に医学を学び始め、佐倉藩の侍医佐藤尚中に外科医術を学んだ。安政六年(1859)に現在の川越市に外科医院を開業した。
 外貨獲得を決心
 茶に無縁の高林が、茶業界に身を投じたのは、時代が明治になってから、維新の激動期に、国を憂う気持ちの強かった高林は、海外貿易が輸入超過となっていることに危機感を持った。日本からの輸出品はわずかに生糸と茶だけ。そんな中で高林は、米国人に茶が好まれていることを知り、茶業界を振興させ、これで外貨を獲得しようと決心した。
 当時の製茶は手もみ。需要に追いつけず、粗製乱造された茶が出回るようになっていた。自らも数fの茶畑を栽培していた高林は、質の落ちない茶の大量生産でコストの引き下げの必要性を感じ、機械化の研究へ。
 次々と機械を発明
 私財を投じ苦労した結果、明治十四年から十八年にかけ生葉、茶蒸機、粗揉機と次々に発明。十八年に実施された専売特許条令に基づき数種類の特許を獲得した。高林はその後も研究を続け、同三十一年十二月、ついに高林式茶葉粗揉機を完成させた。この機械は、従来のものに比べ四倍の製茶能力を持ち、味や香りも損なわないという当時としては画期的な発明だった。
 コストぐんと低下
 県茶業協会の橋本邦男さんは、茶の長い歴史の中で@抹茶式から煎茶法の確立、A製茶の機械化、B品種の改良――が、三大改革に当たると指摘する。なかでも高林の偉業は、茶業界の産業革命といっても過言ではなく、生産農家の労働力を軽減し、コストの低下を生み出した。安価で質のよい茶だ大量に供給できるようになり、茶は日本人の身近なものとなった。
 高林は、明治三十四年四月高林式製茶機の製作地、静岡県堀ノ内で客死した。七十一歳だった。
 追 記
 六十年の工芸農産物統計によると、全国の荒茶生産量は九万五千五百d。埼玉(狭山茶)は千三百dで全国の十一位。ちなみに一位は静岡(静岡茶)の四万八千d、次いで鹿児島(薩摩茶)一万二千四百d、三重(伊勢茶)七千二百d、京都(宇治茶)三千百五十dなどの順。
 狭山茶の特長は渋みの中にこくがあることで「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめ刺す」とうたわれている。しかし、狭山茶は茶栽培のほぼ北限で作られているため単位面積当たりの収量は少ない。このため県茶業試験場では、寒さに強く収量の多い新種の開発に取り組んでおり、今年は「ふくみどり」という新種を誕生させた。「さやまかおり」「とよおか」「さやまみどり」「おくむさし」に次ぐ県内五番目の新種で、収量の伸びが期待されている。

「埼玉民衆の歴史 明治をいろどる自由と民権の息吹 中沢市朗 新埼玉社 1974年 ★★
 ―はたらく埼玉県民の百年史―
明治維新から自由民権の激動をへて、黎明期社会主義へ
この時代を埼玉県民はどう生きぬいたのだろうか 埼玉の進歩と革命の伝統をかずかずの史実をつうじてリアルに描きだす(帯のコピー)
 第4章 資本主義の土台づくり/1新版田舎繁昌記
  高林謙三と茶
 この項を終るにあたり、私は一人の男の物語をしたいと思う。その人は一人の町医者であり、そして発明家でもあった。その名を高林謙三というが、彼はまた明治維新期の時代の激浪が生みだした新しい人間像ともいえるだろう。
 高林謙三は入間郡平沢村(日高町)に、天保三(1832)年四月に生れた。同郷の先輩に権田直助(1809-1887)がいる。この権田は、維新変革時に関東草莽の志士の一人として、薩摩藩邸などに出入りし活躍した経歴をもち、すでに本書第二章で登場した相楽総三とは、同志とよびあうなかだった。
 高林謙三は医師であった。権田直助のもとで、古医学を修めた。古医学とは、日本古来の医学で「皇国はよろずの国の本」と主張した国学の原理とはなれがたくむすびついていた。そしてそれにあきたらず、佐倉順天堂で佐藤尚中につき、蘭法外科を学び、安政六年、開港の年に川越小仙波に開業した。
 謙三が維新を迎えたのは、三十五歳のときであった。謙三の頭からは、師権田直助の面影が去らなかった。国学を身につけた直助は、「人の病は国の病よりも小さい、われは先ず大なるものを治療しなければならない」と言って、老いの身をもかえりみず、維新政争期の尊王討幕運動に加わっていった。
 新政権が成立したとき、直助たち関東草莽の志士は、政権の中枢部からほうりだされた。直助もその後どこかで神官の職にあると、謙三は聞いている。維新期の活躍が劇的であっただけに、謙三にとり、そうした差別措置はげせなかった。謙三は医者として、一応の成功をおさめていた。だが師の影響をうけてか、謙三は脈をとる暮しだけに満足できなかった。
 この医者もまた時代の子であった。彼は開港以降、この地帯にたかまった茶の生産と改良の問題に、非常な関心をよせた。元来茶は江戸時代には医薬としてもちいられており、そんなことから、謙三も以前から茶の栽培法や品質に人一倍関心をよせていたのであろう。
 明治二年、みずから四ヘクタールの茶園を喜多院の東方に開いた。そして診療のかたわら、その経営にのりだした。こうして高林謙三と茶とのかかわりあいがはじまった。

  医師をやめ
 安政開港とともに、茶が生糸とならび、輸出産業の花形になったことは、すでに書いた。問題はその茶の質にあった。ここでも政府が「粗製濫造の品だ」となげく状態がうまれていた。それはなぜなのか。
 開港以降の貿易は、まだ低い生産力の水準にある国内の特産的商品(茶、生糸、蚕種など)を徹底的に奪いあげる掠奪貿易であった。それは輸出超過のかたちをとりあらわれる。そしてこの掠奪貿易は、国内の商品生産と流通の仕組みをぶちこわす。それをみはからい、外国商品がどんどん輸入されてくる。アジアの歴史をみると、インドや中国は、こうして列強の植民地となっていった。いま日本も例外ではなかった。
 この掠奪貿易に対応して、低い生産力の地帯が、外国の需要をみたすためには、生産者農民はいやでも無理をしなければならなかった。それが商品の粗製濫造のかたちをとってあらわれたのである。「昔ながらの手もみの茶を作っていたのではもう駄目だ。これからは機械による大量生産が必要なのだ」――高林謙三がそう思いたった背後には、以上にのべたような事情があったのだ。製茶技術の改良に謙三は目をむける。彼は医師をやめて、製茶機械の発明にとりくみはじめた。謙三五十歳のときであった。

  製茶機械の完成
 最初謙三が作った機械は「焙茶器械」であった。いまでも茶店の店頭で、香ばしいかおりをただよわせながら、ぐるぐるまわっている器械がそれである。だが謙三のねらいは摘みとった茶をむし、乾燥させることまでのいっさいの工程をおこなう機械をつくることにあった。こうして明治十九年、「自立軒製茶機械」と名づけるものを作りだした。謙三はその時のうれしさを「発明歴」のなかでつぎのように言う。
 「此に至て欣喜(きんき)手足の蹈舞(とうぶ)を知らず」
 だが肝心の茶をもむ工程を機械化することには成功しなかった。それにしても「自立軒(じりつけん)」とは彼が自分自身をよんだ名前なのだろう。「高林式」というほどの意味であろうが、自分一人の力でやりぬくぞ、という気概をこめた言葉であり、謙三の心をしのばせる。
 彼は初志にむかっていどみつづける。肺患による病魔、そして貧困。妻からはなんどとめられただろうか。文字どおり寝食を忘れての十年余の研究の結果、明治三十一年、茶葉粗揉器(そじゅうき)を完成させたのである。謙三六十八歳のときであった。この器械はいまもなお「高林式」の名前をつけて、全国の製茶工場でつかわれている。

  豪農の息吹き
 謙三をここまでささえ、動かした力、それがものごとにたいする、不屈の探究心と執着であったっことを指摘することはやさしい。師直助の気概が弟子の体に流れていたことも想像できよう。だがもっとも大きな力、それは豪農層を先頭とした製茶生産の高揚であり、そこで果した豪農の先駆的役割りであった。
 明治八年、入間郡黒須村(入間市)の副戸長繁田武平、清水宗徳ら三十名により、狭山会社が設立された。その設立者のほとんどは地域の豪農層であり、彼らは入間、高麗、新座三郡にまたがり、広汎に存在していた。この会社は製茶と販売を目的とし、翌九年には、アメリカのニューヨークの佐藤百太郎商店と緑茶の直輸出を計画、外人貿易商の手を経ずに、それを実現させる道にふみきった。そしてこれら豪農層がなによりも望んだこと、それは品質の改良と、茶の大量生産化であった。自立軒高林謙三は、この豪農の要求をみたすために奮闘したのである。
 謙三は自分のことを「自立軒」と名付けた。熊谷の鯨井勘衛はその蚕室に「元素楼」という名をつけた。この両者の名を聞くにつけ、私はそこに、資本主義の生成途上にあって奮闘する豪農の息吹きのようなものを感じる。そしてこの息吹きは、ひとり生産の分野だけではなく、当然のように政治の領域にも吹きこまれていく。それについては、章をあらためて述べることにしよう。

「茶の歴史 ―河越茶と狭山茶― 川越叢書第9巻 大護八郎 国書刊行会 1982年 ★★★
五、製茶機械の発明と高林謙三
 翁の墓は川越市小仙波閻魔堂の境内に、妻浜子とともども建てられている。高松(照)院慈観応恵居士、華香院真月妙光大姉と夫妻の戒名が刻され、翁は明治三十四年四月一日没、夫人は明治三十五年二月三日没となり、施主は高林由松となっている。右側面には翁の墓誌が記されている。
 昭和二十八年、川越の地に全国茶業大会が催されるに当り、左のような頌徳碑が喜多院境内に建立され、遺徳は千載に薫ることとなつた。
高林謙三翁頌徳碑                                      (八十八翁蘇峰菅原正敬題額)
易に曰く、機を知るは夫れ神かと、ニュートンは苹果の落つるを見て地球の引力を察(知脱)し、ワットは鉄瓶の噴くを見て蒸汽機缶を発明せり。是れ偶然に由ると雖も機智妙算神明に通じて(トル)、而かも不屈不撓意志強固なるに非ざれば成す能はざるなり。発明創業のこと固より難し。高林翁の製茶機械に於ける如きは豈特筆して其の偉績を千秋に伝へざるべけんや。翁諱は謙三、埼玉県高麗郡平沢村小久保忠吾の子、後姓を高林と改む、少壮志を立て隣郷権田直助の塾に入りて皇漢医学を修め、更に佐倉に遊び佐藤尚中に従ひて西洋医術を学び、河越に還りて開業し、勤勉すること十余年名声遠近に喧しく漸く蓄財に富む。因て謂ひらく、世の資産家なるもの或は吝嗇に陥り或は浪費に流る。是れ経済を知らざるの徒なり。宜しく公益の為に財を利用せざるべからずと、時恰も明治開国に際し、百物海外の輸入に待ち輸出品としては僅かに生糸と製茶あるのみ。頗る貿易(の脱)均衡を失え(ひ)、識者之を憂ふ。而して河越の野狭山は古来名園五場の一に挙げられ茶の名産地なるを以て、翁のけい眼は早くも製茶業の有利なるを看破し、是に因(由)りて土産を興し国富を致すべしとなし断然意を決し明治二年自ら数町歩の茶園を開拓し十年に至り漸く繁茂せるを以て製造に着手し、四方の良工を聘して大に心を製茶(トル)法の改善に尽くせり。然れども従来の手工に由りては到底時代の進運に伴ふ能はず、宜しく機械力を応用して能率を昂め規格を統一し更に製茶の品質を改良するに非ざれば斯業の振興を期し難し。是に於て翁率先して機械の発明に従事せしが容易に成功せず。不幸重態(患)に罹りしも志毫も衰へず、一日炉辺で(にて)硝子壜を弄びたるにその中の茶の渋滞なく廻転するを見て感悟する所あり。断然意を決して医業を廃し日夜寝食を忘れ、工夫に工夫を凝らし試験に試験を重ね、千思万考力を用ふること七星霜遂に完全なる焙茶器を創製し、続いて茶葉蒸器、製茶摩擦器を考案し始めて能く機械化の目的を達成し、而も香味色沢従来の焙炉製に遜色なし。十八年専売特許を受け本邦製茶機械の始祖たる栄冠を戴き、更に研究を積み終に現今広く使用せられつつある高林式製茶機を完成するに至れり。晩年静岡県堀の(ノ)内町に居住し、二(三)十四年四月一日病みて没す。享年七十。今や製茶の機械(化脱)全国に普及し本邦重要産業たるの基礎確立せりと雖も、創業の艱難辛苦は筆舌の能く尽(く脱)す所に非ず。発明者たる翁の本邦製茶史上画期的の功績は実に偉大なりと謂ふべし。翁没して既に五十年後人追慕して止まず。茲に全国茶業者大会並に全国製茶品評会を埼玉県に開くに当り、関係者相謀り石を建てて翁の遺徳を顕彰せん(む)と欲し文を余に徴す。乃ち不文を辞せず状に拠りてその梗概を叙し建碑の縁由を記す。後進の士翁の遺志を継紹し、感奮興起して斯業の発展に努力せざるべけんや。
(昭和二十五年歳在庚寅十月十五日)                          東京大学名誉教授 文学博士 塩谷 温撰                                            日本芸術院会員天台沙門   豊道慶中書                                                          吉野豊易刻
裏面に
   昭和二十(廿)八年三月建之

注1 句読点は著者による
注2 括弧内は、石碑の表記を示す
※石碑の写真は、ブログをご覧ください。→川越雑記帳2

「みどりのしずくを求めて ―製茶機械の父、高林謙三伝― 青木雅子 え・黒田祥子 けやき書房 1994年 ★★
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高林謙三の生いたち
謙三の茶園
ほうじ茶を作る焙茶機械
五つの特許
理想の製茶機械・火むしの自立軒
理想の製茶機械の失敗
たったひとつの機械
東京での月日
人と機械の競争
茶葉粗揉機の完成、静岡での月日
 謙三ゆかりの地
 あとがき
 はじめて高林謙三という人を知ったのは、所沢市北野の市川園の市川正一さんに、狭山茶の話をいろいろ伺った時でした。
 市川さんは、手しおにかけた茶畑や、庭先の製茶工場、お茶の冷蔵庫の中などを見せて下さったり、おそ霜のこわさやその対策などを話して下さり、おいとまするとき一冊の本を貸してくれました。
 帰宅してすぐ、森薗市二著『高林謙三翁の生涯とその周辺』の頁をひらいた私は、日本の茶業史上に大きな足跡を残した人が、すぐ近くの川越市の人であったのを知って、おどろきました。
 手もみ以外の製茶法など、だれにも考えられなかった明治時代のはじめに、謙三は、お茶の大量生産を夢みて、当時としては、とてつもない難事業に足をふみ入れたのでした。
 
 安政六年の開国から明治維新へと日本は文明開化の激動の時代をつき進んでいました。世の中が急速に進歩して、外国からたくさんの品物を輸入しなければならなかったのに、日本から輸出するものといえば、生糸とお茶ぐらいしかありませんでした。
 お茶は、開港した横浜からアメリカなどに出荷される量が、毎年うなぎのぼりにふえる一方で、作れば作るほどいくらでも売れたので、お茶の栽培は、どんどんふえていきました。
 平安時代にお茶の種子を中国から持ち帰った栄西禅師は、頭痛になやむ将軍実朝に一服の茶をさしあげました。すると、将軍の気分は、さわやかになったといわれます。栄西禅師の『喫茶養生記』には、お茶の効用が、くわしく書かれています。
 弟子の明恵上人は、この様に貴重なお茶の栽培に適した土地をさがし歩き、京都の宇治、伊勢の河居、駿河の清見、大和の室尾、武蔵の河越を名園五場にえらびました。
 このうち、河越(川越)茶は、徳川末期から狭山茶といわれるようになり、大消費地江戸をひかえ人気が高まってきていました。
 「水澄みの茶」としてもてはやされた狭山茶は、輸出港横浜にも近いので、たちまちひっぱりだこになり、お茶は時代の寵児となりました。
 多くの人が、お茶に注目し、茶業にひきつけられていきました。
 「茶は、昔から薬といわれた。そして、いま、製茶は日本の産業のかぎとなっている。私は、これまで医者として、人の健康を考えてきたが、これからは、茶を作り、日本という国の活力を生んでいきたい。わたしは、古くから日本五場のひとつといわれた川越に住んでいる。その名にはじない、いい茶を作ってみたいものだ!」
 謙三の心に、そんな思いが、ふつふつと湧いてきたのです。
 謙三は、医者のかたわら、茶園をつぎつぎに開きました。茶業をはじめると、従来の手もみ製茶では、大量の需要にとても追いつけません。
 すでにインドなどでは、茶の機械化による大量生産がはじまっていて時代の切実なニーズを、身をもって受けとめたのでした。
 謙三は当時の最高の医学を、佐倉順天堂に学び、医者となって川越の名医という名声をほしいままにして築いた全財産をつぎこみ、自分のいのちを燃やしつくして、苦難にみちた発明の道をひたむきに歩みつづけ、ついに「茶葉粗揉機」を完成させました。
 妻はま子、一人娘秀子、助手の定吉、みんな謙三と苦楽をわけあい、運命をともにしました。川越に岩沢家、弟衡平、茶業試験所の技師たちの協力も、ありました。
 それらの人びとに囲まれて、強烈な光を放つ、謙三の苛烈な生涯に胸をうたれて、この一冊にまとめましたが、まだまだ書き足りないことが多いです。
   (後略)

主要参考文献
『日本発明家伝』  帝国発明学会
『製茶機械もの語り』石田弥一  茶業組合中央会議所
『発明界の先進 高林謙三』吉尾なつ子  東栄社
『製茶機械発明始祖 高林謙三翁伝』岩沢新平  川越市役所
『茶の歴史』大護八郎  川越叢書刊行会
『発明哀史 高林謙三』曽根俊一  静岡県茶業会議所
『権田直助先生伝』  毛呂山町教育委員会
『高林謙三』齋藤嘉  『埼玉自治』53年8月号
『高林謙三翁の生涯とその周辺』森薗市二  静岡県茶業会議所
『狭山茶五十年のあゆみ』太田義十  狭山茶倶楽部
『茶業界の先覚者高林謙三』横田八郎  『調和』17号
『紅茶』春山行夫  味覚春秋
『牧之原開拓史考』大石貞男  静岡県茶業会議所
『菊川町茶業誌』  菊川町茶業誌編集委員会
『狭山市史』  狭山市市史編さん室
『佐倉市史』  佐倉市総務課市史編さん担当
『郷土の歌』  所沢市史編さん室
「とみおか」第四号  所沢市富岡公民館

 高林謙三の年表

 製茶機械発明家高林謙三


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作成:川越原人  更新:2023/02/03