モースと山田衛居
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- ・「埼玉の明治百年(上)」 毎日新聞社浦和支局編 1966年 ★★
- 文明開化/外人がもたらした新しい知識
モースの講演 明治十二年八月十三日、熊谷・石上寺の境内にある熊谷乙中教院で、本県では初めての外人講演会が開かれた。講師はその二年前、古代人の遺跡大森の貝塚≠発見して有名になったアメリカ人、エドワード・S・モース博士。「ダーウィンの進化論」がテーマだった。
進化論≠ネどといっても、当時の人は何のことやらさっぱりわからない。それでも、大学の先生をしているエライ外人さんが話をするというので、会場は朝からいっぱいだった。かたずをのんで見守るなかで、モース博士は静かに語りはじめた。ひとくぎりついて、若い学生風の通訳の口からでたことばに人々は耳を疑がった。
「われわれ人間の祖先はサルである」
これを聞いた講演会の発起人、田島玉造はすっかりハラを立ててしまった。「けしからん。紅毛人(ヨーロッパ人)の祖先はサルだったかも知れないが、われわれ日本人の祖先は違う。あんなやつは日本から追い出せ」とカンカンに怒り、講演なかばで席をけった。もっともこの話には玉造の顔つきが日吉丸そっくりだったというオチまでついているので真偽のほどは確かでない。
それはともかく、集まった人たちは、モースの珍しい講演≠ノ耳を傾けた。海の向こうの人に初めて接した人たちは、青い目の外人さんの姿に文明開化≠フ波をひしひしと感じ取った。
本県へ外人がやってきたのは、これが初めてではない。前々年の十年、オーストリア公使で、考古学研究家のヘンリー・シーボルトが吉見の百穴≠ニ黒岩の百穴谷≠フ調査にしばしば訪れている。モースが大森の貝塚≠発見したニュースを東京日日新聞(いまの毎日新聞)でみ大里郡吉見村の根岸武香が「オレもいっぱつ」……とハッスル。黒岩の百穴谷の発掘を始めて金環などを発見、これがモースらの耳にはいって彼らの来県となった。
吉見百穴論争 白い凝灰岩の岩ハダに掘りあけられた無数の穴の正体はそれまで不明。江戸時代の人々は「テングさまが掘った穴だ」「雷神さまがあけたんだ」とそれぞれ勝手に信じていた。根岸武香の発掘で初めて科学的な検討が行なわれるようになったわけだが、武香自身は先住民族の住居と断定した。シーボルトは随員に「アイヌの住居らしい」と語ったと伝えられ、モースは朝鮮人の墓だと考えていた。貝塚は欧米にもあったが、横穴は珍しいケース。先進諸国の学者たちにも正体はつかめなかった。
吉見の百穴は明治二十年、東大の坪井正五郎らの手で本格的な発掘が行なわれ、二百三十の石室が掘り出された。大論争の末、古墳時代の墓地という結論に達したのは大正にはいってからだった。
明治政府は欧米の知識や制度を取り入れるため多くの学者や技術者を招いた。彼らは政府の顧問や学校の教師になって、新しい時代への脱皮に尽した。モースも、シーボルトも外人顧問団≠フ一員。彼らが県内にやってきたことで、チョンマゲを切り落としたばかりの人たちは、数多くの新しい知識≠吸収、しだいに近代人としての身だしなみを整えていった。
メ モ
〔モース〕(1838−1925)アメリカの博物学者で日本研究家。研究材料の腕足類が日本に多いと聞いて明治十年来日した。いったん帰国したが、東京大学に招かれて翌年再び来日した。大森の貝塚をはじめ、各地の古墳発掘なども行ない初期の日本の人類学、考古学にも寄与した。著書に「大森貝塚」「日本その日その日」がある。
〔シーボルト〕明治初期にオーストリア代理公使として来日した。幕末、長崎出島のオランダ商館の医官として来日、医学をはじめ蘭学の発達に寄与した大シーボルトの息子。明治十二年、邦文の「考古説略」という考古学の概説書を著わし、考古学という語を初めて使っている。
- ・「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
- 外国人の見た明治初年の埼玉
モースの失言―熊谷・川越
東京大学生物学教授として二年間在職したモースは、明治一二年八月冑山周辺の横穴調査に赴いている。現在の吉見町の吉見百穴である。同行は息子の友人宮岡恒次郎とその兄竹中成憲。中山道経由で川越泊、翌年横穴を調査して遺跡の発掘者根岸武香宅泊、熊谷に出て兄弟の父竹中周則宅に滞在中、熊谷乙中教院で「日本古人種論」の講演を行った。熊谷では最初の外国人講演、しかも通訳が一四歳の宮岡恒次郎というので大勢の人々が詰めかけたが、内容が難しかったせいか、みな怪訝な顔をして聴いたという。
帰国したモースは明治一五年、友人の医学者ウィリアム=ビゲロウを伴って再び来日。今回は陶器の蒐集が主な目的だった。しかし冑山の横穴古墳がよほど気になっていたと見え、同年一〇月川越街道を経て冑山にいたり、遺跡を再調査して川越に出た。
一〇月九日、二人は古陶コレクション見学の目的で川越氷川神社に祀官山田衛居を訪れる。蒐集品を前に古陶談話が続くうち、ある陶片についてモースが「これは古い。古代に人間が人間を食した時代のもの」と口を滑らせた。驚いた祀官は「それはあなただけの考えだ。日本の歴史には人が人を食ったことはない。アメリカとは違うのだ」と反論したが、モースはたくみに話題を変えてしまった。山田衛居著『朝日之舎日記』の伝える話である。モースの『日本その日その日』には、この地方で使う農具のスケッチがある。
(山口静一)
- ・「川越学事始め 〜郷土史の系譜を追う〜」 川越市立博物館 1995年 ★★★
- 第三章 考古学事始め
- 三、近代考古学との出会い
(一)山田衛居とE・S・モース
日本の近代考古学は東京大学教授E・S・モースが明治10年(1877)に行った東京府大井村(現東京都品川区大井)の大森貝塚の発掘調査から始まった。モースはこれまで神話の世界にあった日本の原始社会を科学的・総合的に考察した。また、日本の文化に深い関心をもったモースは各地を旅行した。明治15年に川越を訪れた折には、日本人種論についての講演を行い、川越氷川神社宮司山田衛居と会っている。
エドワード・シルベスター・モースは1838年にアメリカ合衆国メイン州の港町ポートランドに生まれた。少年時代から貝の収集を始め、21歳で動物学の権威ルイ・アガシーの助手となる。この頃進化論に基づくダーウィンの『種の起源』が発表され、その後のモースの研究に大きな影響を与えた。1877年、日本近海の腕足類研究のため来日、東京大学に招聘され初代動物学教授となる。同年9・10月には有名な大森貝塚の発掘を行った。
モースが川越を訪れたのは明治12年8月と15年10月、大里郡甲山村(現大里村大字冑山)に根岸武香を訪ねた折のことである。どちらも学生の竹中八太郎が通訳として同行している。モースは竹中八太郎をその実弟宮岡恒次郎を非常に可愛がり、この時も竹中の伯父に当たる南町(現市内幸町)宮岡友次郎宅に止宿している。宮岡家には現在も竹中八太郎からの書簡やモースから贈られたコーヒー・カップが残されている。
山田衛居は嘉永2年(1849)、足立郡下木崎村(現浦和市大字下木崎)の豪農石田彦兵衛の長男致隆として生まれた。幼少の頃より国学を平田延胤に、有職故実を清水浜臣に学び、歴史画を菊地容斎に師事した。20歳で川越氷川神社宮司山田暉斎の養嗣子となり、衛居と名を改める。衛居は神官として社地の整備、神官の養成に努めるかたわら、日本画家として「氷川神社行幸絵巻」「橿原宮御即位大禮図」などの大作を残した。
明治15年10月8日、甲山村の根岸宅からの帰路、モースは川越に宿泊し「日本古人種論」と題した講演を行った。モースと衛居が出会ったのは翌朝のことである。モースは友人のW・S・ビゲローとともに北野俊太郎の紹介で氷川神社を訪れた。衛居は二人に所蔵の書画・陶磁器を示し意見を交わすが、話題が次第にモースの「日本人食人説」に及ぶ。当時、モースは貝塚出土の人骨から原始時代の日本人に食人の風習があったことを主張していた。この説は国学者の衛居にとって相容れないものであり、日本の永い歴史の中に食人の風習は無かったと激しく反駁している。
衛居の反論は、当時の日本人の大部分の意見でもあった。生まれたばかりの日本の考古学が神話の呪縛を離れて歩み始めるには、なお多くの時間を必要とした。
- ・「川越街道」 笹沼正巳・小泉功・井田實 聚海書林 1984年 ★★★
- −宿場をいろどる歴史の残照−
- 第三章 街道余話
(四)考古学の夜明け モースと山田衛居
(小泉 功)
今日、考古学の研究はまさに日進月歩で、毎日のようにマスコミに発掘調査のニュースが報道される実情である。
日本に科学としての考古学を揺籃したのは、アメリカの動物学者で1877年に東大に招かれたエドワード・モースであった。彼はその当時の日本人のいずれもが、何の関心を抱かずに放置していた大森貝塚を層序的に発掘し、最初の学術報告書を出している。
モースのこの川越街道旅行は、坪井正五郎たちによって行われていた比企郡の吉見百穴の発掘を指導するためであったが、その帰途にモースは、川越の氷川神社の祠官・山田衛居を訪れている。
その内容は、山田衛居の『朝日之舎日記』によると、明治十五年十月九日の条に、
「十一時頃米国ピイボデー大学校長ニテ先年大学ノ御雇ナリシ、博物学士モース並米国ハワード大学医学部外科医、ドクトル・ビゲローノ二人、冑山村根岸(武香)ヘ行キタル帰途ナリトテ、北野ヲ介シテ来尋。(中略)古画並古陶品ヲ出シテ見セタリ。其内大野(秋香)氏より被レ恵(めぐまれ)タル鹿児島ナル、キリシマ(霧島)山ヨリ出デシ、如レ斯(かくのごとき)ツボヲ見テ愛翫シテ曰ク、かごしま出ナルニ此白キハヤカナルハ、実ニワレニテチン(珍)トスベシ。二千年以上ナル事勿論受ケ合ヒナリト。
又如レ斯舟のやきもの、是モ大ニ其古風ト稚気ト意匠よろしトテ、ホトンド垂涎、譲リ呉レヨト望ミタレドモ、小生モ愛スものなればとてやみぬ。次に一宮ノ氷川ナル桜山ヨリ掘出シ古陶器ノカケ、是も実にふるきもの也、上古人相食スノ頃ノものなりといふ。此言予が耳ニサワリタレバ、夫は貴処ノ目ニ見タルダケノ考ナリ。吾国ノ古歴史ニ人相食セシ事無。米国ナドニハサル証拠アリヤト、語少シク議論ニワタリカケタリ。同人ハ兼テカゝル説ヲ主張スルトキケバ、殊により一論鋒ヲ向ケンカト思ヒシニ、カレモ然(さ)ルモノ、左右ヲ省ミテ他ヲ云ケレバ止ミツ(下略)」。
とある。
――(傍線)の部分にある大宮の桜山出土の土器は、恐らく縄文土器で、モースは大森貝塚から人骨が検出された際に、頭蓋骨・手・足の骨などがばらばらに出たことから、日本人の祖先に食人の風があるという説をとなえたのである。したがって大宮の桜山出土の土器も、大森貝塚の土器と同じ縄文土器であったから、このようにいったのである。
これに対して山田衛居は、憤然として、わが国にはかかる歴史はなく、何を証拠にいうかと、強い口調でいったことが記されている。
明治十五年ごろといえば、西洋文化に学ぶ潮流が強く、その吸収はすさまじいものがあり、そして自由民権運動へと発展していく時期であった。明治の人々の知識欲の旺盛さは、川越をはじめ、各地で文化講演会や政談演説会が行われていたことからもうかがえる。山田衛居もこうした風潮をうけて、モースとビゲローを相手に、しかも初対面で堂々と論争を展開しはじめたのである。その論議は他をはばかって途中でやめているが、通訳をとおしての議論のため、充分な理解が深まらないことを、衛居は残念に思ったと記している。地方都市に住む人々でも、明治の十年代には近代社会をつくっていく担い手としての自負がみなぎっていたのである。川越の山田衛居もその一人であった。モースが所望した、鹿児島の土器については、その所望を拒否している。しかし、同年十一月十三日に、衛居は愛蔵した別の土器を郵送している。この行為のうちには、論敵でも同じ研究に志すものに、真理の探究者に対する深い人間愛が見られる。そこには学問への愛情と、近代文化をつくり上げていった、明治の人々の精神を汲みとることができる。
- ・「柿本人麻呂と川越他」 山田勝利 氷川神社社務所 1980年 ★★★
- ・モース教授の川越来訪記
明治十年(1877)大森貝塚が発掘されて昭和五十二年は、満百年にあたる。考古学会では、定めて有意義な記念事業が行われていることと思う。
その大森貝塚の発見者は、周知の如く米国人エドワード・シルベスター・モース教授(1838〜1923)である。博物学者であった彼は、東京大学創立の際招へいされ、赴任のため横浜から上京する車中で、線路際の露出した貝殻から大森貝塚を発見し、やがてここが日本考古学の発祥の地となった。
モース教授が土器研究のため川越氷川神社祀官山田衛居(もりい)を訪れたのは、明治十五年(1882)十月九日である。衛居はこの日の日記に、「午前十一時頃、米国ピイボデー大学長にて、先年大学(東大)の御雇となりし博物学者モース並びに米国ハーバード大学医学部外科医ドクトル・ヒケローの二人」が訪れたと書いている。
モースの一行は、吉見の百穴の調査を目的として十月六日午後東京出発、その夜は川越街道の白子(しらこ)に泊り、七日は川越の南町(幸町)の金物商宮岡宅で中食し、大里郡甲(かぶと)山に至って根岸武香(たけか)を訪問した。この夜一泊して翌八日はこの旅行の目的である吉見の百穴を調査し、川越に来って「日本古人種論」を講演し宮岡家に宿泊した。
宮岡家に往復とも立寄っているのは、通弁の竹中八太郎が宮岡家の身内であったからである。このモース一行を山田衛居に紹介したのは、連夜共々に酒盃を傾ける北野俊太郎である。俊太郎の妻は根岸武香の妹であり、武香と衛居とは国学者平田鉄胤の同門であって、学問の志向を等しくしていた。モース一行の訪問を受入れる条件がととのっていた川越である。モースが古陶器の研究家であることを承知していた衛居は、同人等の来訪を喜び早速自慢の「古画並びに古陶器」を並べたてるのである。
その一つに九州から来って医師を開業していた大野秋香から貰った壺がある。この壺は霧島山の出土品という。モースはこれを手にとって「二千年以上なること勿論なり」と話している。また舟の形をした焼物については古風であり雅趣があり意匠がよいといって、モースは「垂涎(すいえん)譲り呉れよと」所望したが衛居はこれを手離さなかった。
さらに衛居は大宮氷川神社の境内から出土した土器の破片を見せている。これを見てモースは「この土器は上古人相い食すの頃のもの」と鑑定している。衛居はこの「人相い食す」即ち食人種という言葉が「耳にさわりたれば」とて「我が国の古代史に人相い食せしこと無し。米国などにはさる証拠ありや」と議論に及んだ。衛居は既にモースが、このような説を主張していると聞いていたので「論鋒(ろんぽう)を向けよう」と思ったと述懐している。
しかるに「モースは左右を省みて他を言いければ」とて衛居はこの論争を止めた。衛居は「其外種々話したけれども、何分通弁のこと故、よく通じかねたり」書いている。
さらに衛居は古瓦類を見せたが、モースは「申し上げる程の研究はせず」と素直に答えている。「やせ我慢などしない。さすがに博物学者である」と衛居は彼の学問的態度に敬意を表すのである。
* * *
大森貝塚の発見者モース教授が、川越氷川神社を訪れたのは明治十五年十月九日であった。かれの訪問を受けた祀官衛居は、幼くして歴史画の巨匠菊地容斎の門人となった画家である。歴史画の画家故に画材の考証にはことさら意を用いている。
衛居の画業の傑作の一つは、明治二十三年第一回帝国議会が開設されるにあたり、神武天皇即位の大図を謹画し、明治天皇の御嘉納を賜わっている。即位の図に描かれている高杯その他の器具は何れも縄文式土器が見事に描かれている。正しい考証といえよう。
この衛居が所持品としてモースに示した土器は大宮氷川神社境内の桜山からの出土品であった。これを見てモースは
「是には貝殻の混りて候はん」と問うている。モースとしては大森と同じく貝塚からの出土品を想定したものと思う。
衛居は「これは雨にうたれて地上に露出したもので、貝殻は存在しなかった」と答えている。さらにモースは「私がかかる陶器類の研究をするのは、貴国の学問の為にするのであるから貴方がこうしたものを得た時は、その一片でもよいから私に賜われ。私は貴方の名を土器につけて大切に所持します」といっている。
衛居は後日彼に土器を贈ることを約束し、モースの一行は十二時過ぎに帰途についた。衛居がモースとの約束をはたしたのは、翌月のことである。
「本日竹中八太郎(東大語学生徒)来日。種々談話の末モース氏への前約の通り、古土器の欠け五を送る」その文
一、古土器闕片
右は前に御来訪の時の約束に依って之を呈す。……中略……大宮氷川神社の創立である二千三百五十三年前後の物たるや、未だ考え得ず。他日御考証の一にもそなえ給はば幸甚。
明治十五年十一月十三日
山田衛居
モース殿
その後モースから鄭重な礼状があった由。
* * *
モースのこの旅行は吉見百穴の調査であった。その後モースの門弟である人類学者坪井正五郎が吉見の百穴はコロボックル(蕗の下の人)の住居址であるとの学説を発表したのは、明治二十年のことである。国の重要史蹟である吉見の百穴が、古墳末期の横穴古墳群であるという定説が決定するまでにはなお幾年月を要したのである。
モースのこの来訪は考古学史上の一つの話題となろう。しかるにこの日のモースの日記には「朝食後我々は、我国(米国)の田舎の会堂に相当する、小さな寺院(氷川神社)を訪れた。その内部(本殿)は最も美しく、そして精巧な彫刻のある貴重な陳列室みたいでその彫刻のどの一片でも、我国では美術館の板硝子を張った箱の中に陳列されるであろう。我国の田舎の教会に芸術品となすべきどんな物があるだろうかと考えた私は、事実何も無いのに今更ながら吃驚した」とのみ書いている。モースが氷川神社を訪れて発見したのは片々たる土器の破片でなく、江戸末期に二千両の巨費をもって造営した精巧無比の氷川神社本殿(埼玉県文化財)の彫刻であった。
明治十五年モースは十月七日南町(幸町)の町勘方に立寄り、吉見の百穴の調査後の八日の晩は同家に一泊している。モースの通弁をしていた竹中八太郎の伯父が宮岡家の当主であったからである。その夜はモースは近くの料亭(近喜か)で「日本の古代民種」について講演をし、夜分は宮岡家の家族と睦まじく過している。
宮岡正一郎氏の話では当主は正兵衛、家族は主婦のつまと三人の娘であった。またモースは「我々は川越に来た最初の外国人」なので、わざわざ我々を見に来た婦人もいたという。その翌朝の食事には蝗(いなご)のお菜が出た。モースは小海老に似た味だとおいしく食べている。蝗の料理法を記し米国でもこのように利用出来ないことはないと感想をもらしている。
朝食をすませたモースの一行は氷川神社を訪れ、さらに製糸工場を訪問している。その日記には「我々はまた五、六十人の娘が、繭から絹糸を繰っている大きな建物に行って見た。工場を通って行くと、慎み深いお辞儀とよい行儀の雰囲気とが我々をむかえた」という。
さて明治十五年にかゝる近代的な工場が、何処にあったであろうか。御法川工場も、石川製糸工場もまだ無かった頃のことである。石川秀夫氏はたぶん六軒町の武陽社ではないかと語っている。結論から言えばまさのその言の通りと云えよう。
氷川祀官山田衛居の明治十三年十一月十三日の日記には「本日奨業会社ノ開業ニ付、社長中島久平ヨリ案内サレ臨席ス」とある。「職工室ニハ男室女室アリ、各少女ドモ今日ヲ晴レト出立糸ヲトリテ諸人ニ見セシム。又一室ノ二階ニハ織物・生糸・繭・撚糸其外糸類ニ関スルモノ数千品陳列シテ諸人ニ従覧セシム」とある。
モースの訪れた製糸工場はこれに違いないと思った。私にとって中島久平(久兵衛)との出合いはこの記事が始めてである。久平は志義町(仲町)に生れ、幕末から明治の半にかけて、織物製造、織物買継商として全国に商圏を拡げ、さらに横浜に進出貿易に従事した豪商である。川越唐桟の名を高からしめたのも彼であった。武陽社に資料によれば、久平は明治十三年には十一ヶ所の工場を開設し女工の総数千人を擁する大企業家である。
明治十四年には内国博覧会閉会後の建物を購って六軒町に一大工場武陽館を新設し、その経営を番頭西沢慎吉にまかせた。モースの訪れた大工場とは武陽館と思われる。時に盛衰があったとしても糸偏の企業は古都川越の主産業であり、これらの記録は日本資本主義発達史の一部を示すものと云えよう。
モースはさらにある寺院で、頭髪で作った巨大な縄がとぐろを巻いているのを発見した。その寺の天井には女の髪の毛が沢山下っていたという。それは久保町の成田山の昔の姿であったと推測されている。
かくモースを案内した通弁竹中八太郎は、埼師、慶応、東京外語さらに東大医科に進み、かのベルツ博士の指導を受け、卒業後一時軍医となり、後に開業して佐渡にわたり名医の誉れを残し、大正十四年六十二才で歿したと宮岡家の資料は語っている、日本の現在は、かかる先人の努力の積重ねの上に存在すると頻りに思う昨今である。
- ・「朝日之舎日記 川越氷川神社祠官 山田衛居日記集」 川越市総務部市史編纂室 川越市 1979年 ★★★
- −目 次−
- 凡例
- 一 現存日記原本は、明治五年四月〜七年(六月のみ)の「壬申日誌」一冊、十三年(八月より)・十四年の「朝日家日記」二冊、十五・十六・十九年の「朝日之舎日記」三冊の計六冊である。本書名には「朝日之舎日記」を採り、各原本表紙は省いた。
- 明治五年
- 明治六年
- 明治七年(六月)
- 明治十三年
- 明治十四年
- 明治十五年
- 明治十六年
- 明治十九年
- 解説……川越氷川神社宮司 山田勝利
旧幕藩時代の城下町川越は、川越街道の陸運あるいは新河岸川の舟運により江戸と直結して、武蔵における政治・経済・文化の一大中心地として繁栄した。その勢いは明治大正期に及び、大正十一年(1922)、埼玉県下初の市制がしかれたのも川越であった。特に明治時代の川越は江戸文化を継承すると共に、県下第一の商業都市としてその冨を誇示し得たのである。かの蔵造りの町並みは、今日なお往時の繁栄振りをしのばせる。しかるにこの時代を示す文献は比較的少ない。その空間を満たす資料の一つが、この川越氷川神社の祠官山田衛居(もりい)(嘉永二年九月〜明治四十年一月・1849〜1907)の日記と言えよう。
筆まめな衛居は毎年日記を書いたと思われるが、現存するものは、明治五、六、七年(六月)・十三年(八月以降)・十四年・十五年・十六年・十九年の六冊に過ぎない。しかし伝統文化と東京から流入する文明開化の潮流とが、激しくうず巻いている中を生きた衛居の日記により、当時の風俗がまざまざとよみがえってくる。また陸軍大佐乃木希典の市内止宿(十三年十月二十九日)、大森貝塚で知られるモースの来訪(十五年十月九日)など、その記事は多方面の歴史的研究において利用し得る好資料と思われる。
衛居が祠官となった川越市宮下町の氷川神社(旧県社)は、欽明天皇の二年(541)に大宮市の武蔵一宮氷川神社を分祀したと伝える古社であり、社家山田氏は累代唯一神道を奉じて京都の吉田家に属していた。中興の祖と言われる大和守春重(慶安二年・1649没)から第十八代が、浦和市三室の旧家武笠家から迎えられた耕作で、豊後守暉斎と称した。暉斎には茂久と言う嫡子があったが、神社世話人の要請もあり、浦和市下木崎の旧家石田家より致隆(むねたか)を長女元子の養子婿に迎え、後継者とした。
致隆は明治二年(1869)山田家に入り、名を衛居と改め、同四年に養父暉斎の後を襲い、川越氷川神社祠官となった。
なお、衛居の別号「朝日能屋」・「旭舎」等は、住居が川越台地の東北端にあり、朝日が最初にさすところから付けられたと言われる。
(後略)
- ・「埼玉史談 第18巻第1号」 埼玉郷土文化会 1971年4月号 ★★
- モールス博士の日記(その二) 根岸喜夫(提供)長島喜平(訳)
- 「ジャパン デイ バイ デイ」より
- ―大里郡大里村冑山根岸家関係―
四、訳のはじめに
五、その日その日の抽出部分の日本語訳
六、終りに
学会政界に貢献した根岸武香
- ・「消された日本史」 宮崎惇 廣済堂文庫 1987年
- 第五章 怪奇人類の記録その2/2 古代から明治まで続く食人鬼の系図
(前略)
世界史や人類学によれば、食人の記録は世界いずれの国、人種からも数おおく見つけ出せる。それは、日本においても例外ではないのだ。
明治11年(1878)、武蔵国荏原郡大森村(東京都大田区山王)で、東大講師のアメリカ人動物学者エドワード・モースが発掘した古代貝塚は、今も《大森貝塚》として残っているが、彼が翌年、東大理学部の『理科会粋』に発表した記録を見ると、あきらかに食われた人間の骨が野獣の骨にまじって出てきたことを記している。
すなわち、大森貝塚からは16個の人骨片が発見され、そのうち9個は骨の両端が、また3個は下端がそれぞれ打ちくだかれ、2個は両端の関節面を失い、ひとつとして完全な人骨はなかった。さらにこれらの人骨に、ついていた肉をけずりとった痕があったことから、同時に発見された猪、鹿の大腿骨、脛骨とおなじように、ちょうど鍋に入るように割られ、くじき折られたものと断定された。
ひきつづき、武蔵(東京近辺)、下総(千葉県)、常陸(茨城県)などの貝塚からも人骨が発見され、それらが人肉を食ったあと、すてられた骨であることが、つぎつぎに証明された。
こうして、日本古代の石器時代人が、人肉を食っていたことは確実となった。
古代人ばかりでなく、平安期の物語本、たとえば『今昔物語』には、
「――こうして三日ほど過ぎて、女が子を抱いてうとうとしていると、かたわらでその赤ん坊をつくづくとながめていた嫗(おうな)がああ、うまそうなこと。一口で食べたらどれほどおいしいことか≠ニひとりごとをいった。それを耳にした女は(さては嫗は鬼の化身であったのか、まごまごしていたら、この子は喰い殺されてしまう)とふるえあがった」
「――その妻が少しの傷もなく死んだのを、棹にかけてさらしておいた。死骸は皮と骨ばかりで、肉がぜんぜんなかったので、ひとびとはおにが肉をみんな吸いとって殺したにちがいないと、おそろしげにうわさしあった。」
などとあり、また『宇治拾遺物語』にも、
「――なんとにくらしいことをいう男だあろうかと、三度その男を投げあげ、落ちてくるところを口をあけて喰おうとした。その者は人並みの大きさであったが、みるみる巨人と化して一口で喰ってしまった」
と人間が食われたことが書かれ、鎌倉室町時代にも、京都の羅生門、大江山、安達ケ原、戸隠山などは人を食う鬼のすむところとといわれ、伝説や謡曲となって流布した。
鬼の正体については、第四章で説明したが、人間以外の怪物でも妖魔でもない。
『今昔物語』などにえがかれる平安期の食人鬼にしても、おそらく、以前より山間にかくれすんでいた食人風習のある古代原住民であったのだろう。神代から後一条天皇にいたるまでの重要な史実を漢文で編年体に記した『日本紀略』の寛平元年(889)七月の条に、
「――或人云、従信濃国、食人之鬼人来洛中云々(信濃国から人を喰う鬼人がいま京に滞在している)」
とはっきりと記録されていることを見ても、当時、まだ食人風習がのこっていたことがわかる。
(後略)
- ・「日本の古代4 縄文・弥生の生活」 森浩一編 中公文庫 1996年
- 縄文・弥生の人々はどのような暮しを営んでいたのか――。続々と発見される新資料をもとに、当時の社会組織、食生活、様々な物資の生産と交易のあり方をさぐり、古代日本に波及した農耕文化の流れを推理する。(カバーのコピー)
- 3 縄文人の知恵と生活/(3)縄文人の習俗と信仰/縄文人のたたかい
骨に刻まれた切り創
悪霊を断つ
食人の風習があったか
負傷の戦士か
狩りの事故か
自然と戦う共同の社会
- ・「食べる日本史」 樋口清之 朝日文庫 1996年
- 第一章 文化は食生活から生まれた/日本人も人肉を食べていた?
- ・「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年
- Morse,Edwsrd Sylvester(モース)
1838〜1920 アメリカの動物学者。
ハーバード大学を卒業。1877(明治10)招かれて東大の生物学・動物学教師として来日、はじめて生物学講座を開いた。またダーウィンの進化論を日本に紹介した。大森貝塚を発見、1879その研究の結果を「理科会要」に「大森介墟古物編」として発表した。また近畿・北海道の古墳を発掘し、わが国先住民族について非アイヌ説を唱えた。彼の啓蒙が飯島魁・佐々木忠次郎・松村任三・坪井正五郎ら考古学の開拓者を生んだ。1880帰国。1882再び来日し、風俗・陶磁器等を研究した。帰国後ボストン市立美術博物館の日本陶器管理者となった。著書に“Japanese Homes and Their Surroundings”“Japan Day by Day”などがある。
- ・「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年
- 乃木希典(のぎ まれすけ)
1849〜1912(嘉永2〜大正1)明治時代の陸軍軍人(大将)。
(系)長州藩士乃木十郎希次の3男、母は常陸国土浦藩士長谷川金太夫の長女寿子。
(著)「乃木希典日記」全1巻。
(参)松下芳男「乃木希典」1960。
- ・「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年
- 坪井正五郎(つぼい しょうごろう)
1863〜1913(文久3〜大正2)明治・大正期の人類学者・考古学者。
(系)坪井信良(佐渡養順の子)の子。(生)江戸。(学)東大。
- ・「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年
- 根岸武香(ねぎし たけか)
1839〜1902(天保10〜明治35)幕末・明治期の国学者・考古学者。(系)豪農根岸友山の子。
(生)武蔵(埼玉県)大里郡吉見村。(名)幼名新吉、父の名を継いで伴七と称す。号を榧園。
- ・「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年
- 平田銕胤(ひらた かねたね)
1799〜1880(寛政11〜明治13)幕末・明治初期の国学者。
(系)伊予(愛媛県)新谷藩士碧川氏の子。平田篤胤の養子。(名)始め篤実、通称内蔵介、のち大角。
- ・「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年
- 清水浜臣(しみず はまおみ)
1776〜1824(安永5〜文政7)江戸後期の国学者。
(系)医者の子。(生)江戸。(名)通称玄長。
- ・「コンサイス日本人名事典改訂版」 三省堂編修所 三省堂 1990年
- 菊池容斎(きくち ようさい)
1788〜1878(天明8〜明治11)幕末・明治初期の日本画家。
(生)江戸。(名)旧姓河原、本名は武保。
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