プロローグかように不景気がこうじてきては、何処を向いても気の滅入る話ばかり。世間一体にまことに陰惨な空気に閉じれれている中に、パッと人心を明るくするような好事好音の望み難いにしても、この節瀕々と伝唱する従業員の首切り沙汰は、あまりにも悲惨とや言わん。
(中略)
世間の従業員首切りの振り合いを見ると、永く高給を食み、罷免せられても生活の困らぬものか、または気のきいた人間をやめればよいのを、そういう人間は手放そうとはせずに、下給者で正直な実体者を容赦なくポンポンとやっつける。実体者に気のきいた才物などありはしないが、気がきかないから役には立たぬとするなら、それは大変な見当違いだ。
才物並みの派手なハキハキした仕事ぶりはようできんが、与えられた事務を分を越えずこつこつと仕上げていく彼等の功績は大層なものだ。
どんな大規模の事業経営も、彼等の地味な黙々たる精勤努力によって、滞りなく円滑に動いていくのだ。彼等は後方勤務者として大なる不平もなさそうである。彼等は偉大な縁の下の力持ちである。お役に立ったら相当の恩賞あってしかるべきところを、目に立つ働きがないからとて、無用の喰い潰しででもあるかのように、失業地獄の今日、ならべて首にして若干の経費節約でもあるまい。
この文章は明治、大正、昭和と日本の電力事業に奔走し、後に電力王、経営の鬼才と呼ばれた福沢桃介の著書『桃介夜話』の一節である。
福沢諭吉なら誰でも知っているが、福沢桃介のことはほとんどの人が知らない。
諭吉の次女・ふさの婿である。
筆者が福沢桃介という人物と初めて遭遇したのは、日本航空の機内誌である『アゴラ』で『歴史は人生の教科書である』という連載物を手掛けていて、その取材の過程であった。渋沢栄一や安田善次郎の資料の中に桃介の名がちらっちらっと見え隠れしていたのである。
日本の資本主義の祖と呼ばれた渋沢栄一や、戸板一枚の商売から日本有数の安田財閥を築いた安田善次郎と桃介のやりとりが書かれているのだが、その部分はいつも事業参画への要請であり、資金調達のために借金を申し込む立場でありながら、度胸の座った大物振りが奇異にさえ思えたのである。
〔福沢桃介って一体何者なんだ?〕
筆者の関心はそこから始まった。
桃介に関する資料を図書館やインターネットの検索で集め、彼の著作や自伝や他伝を読み進むうちに、桃介の人間的な魅力や経営哲学に魅了されていったのである。そんなある日、知人が「川越の古本屋で売っていたよ」と言って桃介の著書の『桃介夜話』を筆者に差し出した。昭和六年に発行されたその本は箱入りの分厚い本で、七十年近くも経たとは思えないほど美装だった。川越は桃介が中学時代を過ごした町である。桃介は吉見百穴の近くの荒子村(現・吉見町荒子)に生まれ、その後、父・紀一の本家のあった川越に移り住む。紀一の本家の岩崎家は川越の八十五銀行の設立者の一人だった。その関係から紀一は八十五銀行の書記の仕事を手伝いながら慶応義塾に通う桃介に仕送りをしたのである。紀一は桃介が米国留学中だった明治二十年に四十八歳で没し、翌年には母のサダが夫と同じ四十八歳で亡くなっている。
岩崎家本家の当主だった藤太郎は才覚はあったが、銀行を経営するようになってから贅沢を覚え、新事業や相場、あげくには博打にも手を出し破産した。
桃介の生まれ育った土地や場所には、桃介の記憶を留めるものは今は何一つとして残っていない。川越の本町通りで「桃介さんって知ってますか?」「岩崎家を知ってますか?」「八十五銀行を知ってますか?」と聞いても、誰もが頭を横に振るだけである。
桃介のことは地元でさえ知る人はほとんどいない。
知人が筆者に差し出した『桃介夜話』が川越の古本屋にあったことに、妙に因縁めいたものを感じ、桃介が筆者に「俺のこと書けよ」と言ってるようにも思えたのである。
この本の主題は大正の末期から昭和の初期にかけて日本の経済界を襲った大不況の起因と克服法を克明に記したものだが、この状況があまりにも平成の不況と似ていたために驚愕し、それを克服した桃介に感動したのかもしれない。桃介に関する資料を集め、夢中になって調べていくうちに、新たに興味を抱いたのが、桃介と義父である福沢諭吉との関係だった。〔桃介がなぜこれほどまでに金儲けにこだわっているのだろうか〕という疑念も湧いてきた。
(後略)
参考文献一覧
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「『財界人物我観』のひらきなおり」
財界人といえば、人の批評をしない例が多いが、例外もあった。福沢桃介である。美男で秀才である点を見こまれて福沢諭吉の婿養子となったが、 生家は埼玉県川越市の堤燈屋のせがれ。貧乏だったから、下駄や草履を買ってもらえず、ハダシで学校に通い、それを学友たちに嘲笑された。そこで、「福沢諭吉(二)」
「友だちは笑うけれど仕方がない。大きくなったら金をもうけて、今の貧乏を忘れたいと子供心にもしみじみとおもったことである」
と語っている。
ただ、頭の鋭い子供だから、考えたのはそれだけではない。
「私は貧乏人の家に生まれたから、富者に対する反抗心が強く、金持を倒してやろうと実業界に発心したことの、そもそもの原型はこのときつくられた」
と語っているのがそのことである。そこで、実業家として大成したのちも、大いに書きまくり、しゃべりまくって、そういう「立志」の成果がどうなるかを示した。
(中略)
当り触りのあることを、遠慮なく公表したうちの一つに、『財界人物我観』がある。
明治十九年、福沢五十三歳。慶応義塾の運動会で、ライオンを描いたシャツを着て走り、注目をあつめた眉目秀麗の学生がいた。川越の堤燈屋の二男坊岩崎桃介(十九歳)である。
その雄姿に一目ぼれしたのか、輸吉夫人錦(四十二歳)が二女房のむこに欲しいと望み、長女里(中村貞吉夫人)も賛成、ついに諭吉も承諾した。
「英雄色を好むは許されるか」
異性関係を大っぴらにしたのは、福沢桃介であった。 (中略)
(川上貞奴は)福沢桃介より三歳年下で、十二歳のとき、浜田家の雛妓「小奴」となり、十六歳のとき芸者「奴」となった。(中略)二十三歳のとき芸者を廃業し、七歳年上の俳優川上音二郎と結婚。二十八歳のときアメリカ巡業で女優「貞奴」となった。 四十歳のとき、夫音二郎と死別している。
桃介と知り合ったのは明治十八年頃、桃介は慶応義塾の学生(十八歳)で、乗馬に夢中だった「小奴」の馬があばれ出したのをとめてやったからだという。
(中略)
大同電力社長時代、桃介社長は大井のダム工事現場にまで貞奴を同伴した。このとき谷底までケーブルで桃介が降りるといい出すと、一緒にいた重役連中はみな尻ごみして、誰一人お供をしようとしない。 そのとき貞奴だけがお供をしたのである。
二人は、大正七年十二月(桃介五十歳、貞奴四十七歳)から同棲した。
(中略)
ところが正夫人の房子は生きていたし、離婚していたわけでもないのである。(以下略)
(前略)
解散して、寄宿舎にもどろうとしていると、名前をよばれた。ふり返ると、散歩に加わっていた先輩のひとり――福沢桃介が涼しい眼で見つめている。
「今日は面白かったよ。ところで、君は相場をやっているということだが、僕も少々この道をかじっている。よかったら、話しにきませんか」
松永はにっこりした。見こまれて福沢諭吉の次女、房の婿となり、福沢家の養子となった桃介の噂はすでに聞いている。ひそかに敬愛の念をもって見守っていた、といってもよかった。
福沢桃介は、川越の提灯屋岩崎紀一の次男坊だ。
貧しいために下駄を買ってもらえず、小学校へははだしで通学したが、神童いわれるほどよくできた。
兄の育太郎は、小学校を出ると、丁稚奉公にやらされた。桃介もまたそのコースをたどることになったかもしれぬが、その才能をおしみ、両親に話をしてくれるひとがあらわれた。一軒おいた隣の、榎本某。くわしい記録はのこっていないが、士族かなにかで多少の教養もあったのであろう。
「桃介さんのようなひとを、こんな田舎にうずもれさせるのはおしいね。東京へやって学問をさせたら、今に偉いものになりますよ」
両親はそのことばをよろこびつつも、表情は暗かった。
「学問はさせたいと思いますが、何分、学資の方が――」
だが、榎本は引き下がらなかった。
「ご本家はたいそうな地所もちとか聞いています。たのめば何とかなりはしませんか。ともかく、借金しても、学資ぐらいつくれると思いますがね」
その夜、夫婦はおそくまで相談した。翌日、学資はいくらぐらいいるだろうか、と聞いてまわった。
「寄宿舎に入れて、月に八、九円というところではあるまいか」
という話とともに、学校は福沢諭吉の慶応義塾がよい、とすすめるひとがあった。
明治十六年夏、数え年十六歳の岩崎桃介は人力車にゆられて東京についた。まだ東京―川越間の鉄道はなかったのである。
彼よりも一年おくれて入った藤山雷太などといっしょに独立同盟会という組織をつくり、演説討論に花を咲かせる反面、かなりのわるさもやったようだ。他の学生たちが勉強をしているとき、石油の空罐にヒモをつけて、ガラガラと廊下を引きずりまわして怒らせたこともある。二階から小便をしているとき、福沢諭吉が通りかかった。
「だれだ、そんなところで小便をする奴は」
という声を聞いて、
「桃介だ」
と答えた。
福沢は非常に立腹して、退校させる、という羽目になったが、田端重晟、石井甲子五郎などの友人が平あやまりにあやまって、ようやく事なきを得た。
だが、単なるヤンチャ坊主ではなかった。
川越の両親に手紙を書き、土地でとれたサツマイモを福沢先生におくるようにたのんだあと、父から先生におくる手紙の文面までつくってやっている。また経済界の変動にそなえて、家族八人、二年間の生活をささえるため、三百八十四円を銀貨でためなさい、ともすすめている。苦労しらずのボンボンにはできぬ芸当、といわねばならない。
岩崎桃介が福沢家と不思議な縁でむすばれたのは、慶応の運動会のときである。競技に出る学生たちは、おもいおもいのシャツを着て、それに水彩絵具でヒョットコ面や天狗面をかいたりしたのだか、桃介は友だちにライオンをかいてもらった。
「天成の眉目秀麗で背のスラリと高い青年が、奇抜なライオンを背にしてさっそうとかけまわるところはひときわ目立って、だれが見てもほれぼれするくらいであった、とは、五十年の老友田端(重晟)氏が今でもくり返し嘆称するところ」(『福沢桃介翁伝』)と大西理平は書いている。
福沢一家も、諭吉夫妻はじめ令嬢たちが見物にきていたが、まず第一に諭吉夫人の心を桃介は引きつけたのだ。すでに長女の里は中村貞吉にとついでいて、次女房の花婿候補を物色中のところであった。
「あのライオンのシャツをきたひと、どうかしら……」
ということばに、里が賛成し、その夜母娘して諭吉にせまった。
「調べてみよう」
ということになった。
二階から小便をして、あやうく退学になりかけた話もあらためて諭吉は思いだしたであろうが、あのときは他の学生たちに対する見せしめという意味でつよく出ただけで、もともと諭吉本人にも、これに似た失策がある。
大阪の緒方塾で勉強していたころの話。彼自身の口をして語らせると、「或る夜私が二階に寝ていたら、下から女の声で『福沢さん福沢さん』と呼ぶ。私は夕方酒をのんで今寝たばかり、うるさい下女だ。今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。それから真裸でとびおきて、ハシゴ段をとびおりて、『何の用だ』とふんばったところが、案に相違、下女ではあらで奥さんだ、どうにもこうにも逃げように逃げられず、真裸ですわっておじぎもできず、進退窮してじつに身のおきどころがない。奥さんも気の毒だと思われたのか、モノもいわず奥の方に引きこんでしまった」(『福翁自伝』)という一件だ。
これを思えば、桃介の失態も青春客気のなす罪のない失策、と失笑してすますことができる。それよりも、かんじんの勉強の方だが、これは「学課は優秀、才気英発、容貌風采、起居動作にいたるまで一点の非のうちどころなし」、おまけに「家筋や血統も申し分なし」とのことである。
「これならよさそうだが、お房の気持はどうだろう?」
「それはあなた、大丈夫でございます」
錦(きん)は大きくうなずいてみせた。以心伝心、母親の本能で見ぬいているというか、いやじつは、運動場で桃介の英姿に見とれ、頬をそめた娘になりかわって動いてやっただけのこと、かもしれなかった。
岩崎桃介は塾の教師酒井良明によばれた。
「君は養子に行く気はないか?」
という話だ。ない、と答えた。酒井はなおも追及した。
「嫁をもらわないか?」
「まだ若すぎます」
「学校を出たらどうするつもりだ?」
「洋行したいと思います」
酒井はそこでニヤリと笑った。
「君、洋行すると言ったって、金がなければできぬだろう。金はあるのか?」
「ありません」
「金を出してくれるひとはあるんだよ」
「いったい誰ですか?」
酒井は桃介が乗り気になったのを見ると、本題にもどった。
「それは君が養子に行くか、嫁をもらうかしなければならぬけどね――」
「何でもやります。だけど、誰ですか先方は?」
「じつは福沢先生だ」
「ご冗談でしょう」
「冗談じゃない、本当だ」
桃介は迷ったが、両親はじめ、友人たちもすすめるのでついにこの申し出をうけた。どうも妻となるべき房本人よりは、<洋行>というエサに引っかかった感じがしないでもない。
ところで、娘をやるのでなく、桃介を養子にしたいという福沢諭吉には、すでの四人の男の子があった。
長男一太郎は二十四歳(数え年、以下おなじ)、二男捨次郎は二十二歳、ともに米国留学中で、兄はポーキプシーの大学、弟はボストンの専門学校で元気に勉強をつづけている。また自分の膝下には、三男三八(八歳)、四男大四郎(四歳)がいる。あとつぎにはこまらないわけであるし、封建的家族制度に反対して、とくにこの桃介問題がおきる前年には、その主旨につらぬかれた「日本婦人論」を「時事新報」に連載していたほどだ。他人の子供まで迎えて「福沢」姓を名のらせる真意はどこにあったのであろうか?
その年十二月九日、福沢は桃介の実家に対して、自分の考えを文書にしてわたしている。「大意」と題されて、本文は箇条書き。
一、岩崎桃介を福沢諭吉の養子としてもらいうくるのこと。
一、養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女お房へ配偶して別家すること。
一、別居の上は福沢諭吉夫婦より、居家処世の義につき心付けの件は忠告もいたすべく候えども、凡俗普通のいわゆる舅姑の関係をもってみだりに桃介お房の家事に干渉することなかるべし。
なおこのあとに外国留学のことなどにふれた五カ条があり、それはあとでふれようと思うが、ともかく今かかげた三カ条に福沢の気持はあらわれている。しかし、これでもなお、娘をとつがせずに桃介を養子とした真意は明確でない。
桃介を迎える前の年に、福沢が書いた「日本婦人論」の一節には「養子」のことが出ている。
「日本古来の習慣として家の系統なるものを重んじ、その重大なるは喩(たと)えんに物なきがごとくにして、流弊ついに養子の流行をいたし、子なきものは実の血統を断ちても養子養女の法により家の空名のみを存するもの多し。なおはなはだしきはその家族は死絶えて血属の孑遺(けつい)なく、家も貧にして財産なきのみか家屋さえなくして、家の空名の外無一物なるものにても、家はすなわち家にして戸籍上これを一戸という。子孫にあらずして子孫と称し、戸なくして戸と名づく。人間世界稀有の習慣にして識者のつねに怪しむところ、わが輩ももとよりその不都合を知るところのもの……」
すなわち「養子」は「流弊」、世間流行の悪風だ、とは彼自身のことばである。そこで、桃介の「養子」にはあ、世の悪風とちがう条件をつけた、というわけであろう。だとすれば、それは桃介の実家にあたえた「大意」の第二条「相続の養子ではなく、次女に配偶して別家する」ということ以外にはない。これで「流弊」とはいちがう「養子」だというつもりであろう。
福沢はこれで納得したわけだ。しかし、桃介の立場からこれを見れば、「相続権もないのにどうして福沢の姓をつがねばならないか」という問題が出てこないであろうか。
「新婚もって新家族を作ること数理の当然なりとして争うべからざるものならば、その新家族の族名すなわち苗字は、男子の族名のみを名のるべからず、女子の族名のみを取るべからず。中間一種の新苗字を創造して至当ならん。(中略)かくのごとくすれば女子が男子に嫁するにもあらず、男子が女子の家に入夫たるにもあらず、真実の出合い夫婦にして、双方婚姻の権利は平等なりというべし」もまた「日本婦人論」における福沢のことばだ。どちらか片一方の姓を名のるということは平等でない、という意味にもとれる。
岩崎姓を捨てさせ、福沢姓を名のらせ、相続権をあたえなかったことは、福沢の主観的意図は別として、福沢自身の文章よりこれを見れば、桃介に対する一種の不公平と見られぬことはない。まさか、外国留学をさせるからその不公平を我慢しろ、ということではなかったであろうが、筆写はこのへんがよくわからないのである。
それはともかく、桃介は翌二十年一月福沢家へ入籍、二月に渡米、イーストマン・カレッジを出てペンシルバニア鉄道会社で見習し、帰国したのが二十二年十一月。その月のうちに房との結婚式をあげさせられ、北海道炭鉱鉄道会社に入社、初任給百円をもらった。
いくら外国仕込みの新知識とはいえ、この待遇は破格であり、オヤジ「福沢」の七光りであったことは否定できない。
(後略)
桃介と貞奴
福沢桃介の旧姓は岩崎桃介。福沢諭吉の次女・ふさの入り婿となって福沢姓を名乗る。諭吉の援助でアメリカに留学。1889年(明治22)に帰国して北海道炭礦鉄道に入社、サラリーマン生活を送ることになった。しかし六年後、肺結核にかかり退社。ふつうはここで意気消沈するところだが、桃介は独立した経済人への道を模索した。入院中におぼえたのが相場である。百発百中の株で財を貯え、電力事業に乗り出した。
桃介の名をさらに有名にしたのは、川上貞奴とのロマンスである。二人のロマンスは、1985年にNHKで『春の波濤』としてドラマ化されたので、ご存じの方も多いと思う。
桃介から「さアだ」と呼ばれた貞奴は、わが国の女優第一号として知られ、国際的には、マダム・サダヤッコ≠ニしてその名を馳せた。1871年(明治4)生まれ、美貌・才気・遊芸に秀でた名妓となり、最初のパトロンが伊藤博文であった。川上音二郎と結婚し、新派演劇の発展に尽力した。音二郎の死後六年目に舞台をやめ、以後、福沢桃介の行くところ、影が形に添うように貞の姿があった。
桃介橋の袂にある天白公園の敷地には、桃介が発電所の現場監督のために建てた山荘が残されている。1922年(大正11)の建造である。もとは二階建てだったが、戦後火災にあって平屋となり、現在は二階建てに復元され、桃介記念館として利用されている。
中央本線南木曽(なぎそ)駅のすぐ近く、国道19号に接して木曾川の本流を渡る特異な形式の吊橋が架かっている。木製の補剛桁がコンクリートの塔で支えられた四径間の吊橋はクラシカルでありながら、モダンな雰囲気をもつ大正期の代表的な構造物の一つである。この橋は大正11年に、わが国の水力発電の最大出力(4万2000キロワット)と長距離送電の記録を塗り替えた読書(よみかき)発電所の建設に伴って資材運搬用のトロッコを通すために架けられたが、その後メンテナンスが十分でなく、昭和53年頃には交通止めにされたまま荒れはてていたものを平成5年に南木曽町によって復元されたものである。
読書発電所は福沢諭吉の女婿で、電力王といわれた福沢桃介が設立した大同電力鰍ノよって建設された。福沢桃介は一河川一会社主義を主張し、大正7年には木曾川の電源開発に着手し、大正8年の賤母(しずも)発電所をはじめ、大桑(大正10年)、須原(大正11年)、桃山(大正12年)の各発電所を建設、読書発電所はその総決算ともいえるものであった。
この発電所は十数キロ上流の大桑村で取水し、木曾川左岸のトンネルを通して有効落差112メートルで発電するもので、大正12年12月に完成している。発電所の工事のための橋に大同電力ゆかりの人の名前を橋名にした例が多く見られるが、福沢が自らの名前を冠したのは特別の思い入れがあったからと思われる。
桃介橋は、橋長247メートル、支間長がそれぞれ22.7メートル、102.3メートル、102.3メートル、13.6メートルの四径間の吊橋で、幅員は2.7メートル、中央にトロッコの軌道が設けられていた。主ケーブルは直径34ミリ相当のストランドロープ4本よりなり、ハンガーは直径2.2メートルの素線15本を束ねたもので、ターンバックルを介して主桁に連結されている。補剛トラスはダブルワーレン形式の木製トラスで、21センチ角の上下弦材の間に隅沓材を介して斜材を取り付け、直径22ミリの鋼棒を鉛直に通して上下を締め付け、トラスを構成している。また塔から桁へ斜張橋の斜材のような直線のステーを張り、両岸や河原敷にアンカーされたウインドステーによって橋全体の安定が図られている。
この橋のデザイン的な特徴は橋脚と塔にある。河床を掘りくぼめてコンクリートを打設した直接基礎の上に、表面に石積みが施された楕円形断面をもつ橋脚躯体が造られ、その上に鉄筋コンクリートの塔が建てられている。塔には大きなアーチの上に三つの小さなアーチの窓が開けられ、その上には六つの細長いアーチ状の飾りが付けられ、柔らかな印象をつくっている。そして中央の橋脚には下流側へ向かって中洲へ降りる階段が付けられており、景観上のアクセントにもなっている。この階段は洪水時の水圧に対する抵抗を増すためのものとも考えられる。
桃介橋は、読書発電所の建設資材を中央西線の三留野(みどの)駅(現在の南木曽駅)から木曾川を渡して対岸へ送る目的で架けられた。橋を渡ったトロッコはインクラインによって断崖を上り、建設現場へ資材を運んだ。この橋の設計には建設当時現地に滞在していたアメリカ人技師がかかわったと考えられ、ケーブル等もアメリカからの輸入であったようだ。
桃介橋は昭和25年に関西電力鰍ゥら読書村(現南木曽町)に引き継がれ、人造橋として通学などに長く利用されてきたが、昭和53年頃には老朽化が目立ち、本格的な修理も施されないまま廃橋同然になっていた。南木曽町では平成2年に「大正ロマンを偲ぶ桃介記念公園整備事業」をスタートさせ、その中で桃介橋の復元も行うこととした。橋の復元にあたっては、各方面の専門家や行政担当者によって桃介橋保存・活用検討特別委員会(太田博太郎委員長)が作られた。その中では、できるだけ原形に近い形に戻すべきであるとする文化財保存を強調する考え方と現在の設計基準を満足させようとする管理者の主張を両立すべく論議が重ねられた。
強度上問題がなかったのはアンカーだけで、塔は片側のスパンに偏載する人数を200人にするような通行制限を前提としてそのまま利用されることになった。その他の部材はかなりのものが取り換えられた。主ケーブルをはじめ、タワーステーやウインドステーは一部に断線も見られ、かなりの錆もあったことからすべて新しくされた。また補剛桁や床組などの木製部分も腐食が激しく、すべて取り換えられることになった。70年前の架設時には栗、杉、松材などが使われていたが、栗は現在では入手が難しいことや地場産の木材を使うことを配慮し、トラスの弦材、斜材には耐水性にすぐれ、ねじれの少ないサワラが、縦桁、横桁には腐食しにくいアスヒが、敷板などにはヒノキが使われた。そして最も荷重を受ける吊り桁やトラス格点の隅沓材には耐久性、強度とも勝れた南アフリカ産のボンゴシ材が使われた。また補剛材のラテラルやケーブルバンド、ターンバックルなどの金具類はできる限り再利用することにし、亜鉛メッキなどの防錆処理が施された。四分の一程度が取り換えられたが、元のものと同じように鍛造品とされた。このように土木構造物が一つの文化遺産として、できる限り建設当初の姿で復元されようと努力されたことは大変貴重である。今後の保存の基準作りにも指針を示したことになるだろう。
貧乏な家に生まれ、才知と眉目秀麗を認められて福沢諭吉の婿養子になった桃介。約束されたエリートコースを結核で棒に振るが、ハングリー精神を発揮、天下に知られた相場師となる。後年は実業家に転進、電力王と称された。「天は人の助けざる者を助く」が信条の偽悪家は、始末に負えぬ拝金教と評された。が、川上貞奴と浮名を流した一代の鬼才の屈折人生は、一片の痛快さもある。
「(私は)世間のいわゆる軽薄才子だ」「私の口は信頼できぬ。なぜかというと、私には一定の主義がない」「世の中の金持ちは、偶然今日の結果を得たくせに、賢ぶってホラを吹くので、先見の明とは真っ赤なウソだ」「人を見たらたいがい泥棒と思えば間違いない」
こんなことを公然とうそぶいた男は1868年(慶応4年)6月25日、武蔵国横見郡荒子村(現埼玉県比企郡吉見町)で、岩崎紀一、サダ夫妻の二男に生まれた。六人兄弟だ。田んぼが一反の貧乏所帯。おっとりした婿養子の父は野良仕事に向かず、気丈な母が開いた荒物屋も行き詰まり、能書家の父の特技をいかそうと川越に引っ越してちょうちん屋になった。金持ちだった岩崎一族などの出資で八十五国立銀行ができ、父は書記になるが、一族の没落で再び貧窮した。
桃介は神童の誉れ高かったが、ゲタも買えず、小学校にはだしで通った。友達に笑われ「大きくなったら金をもうけて今の貧乏を忘れたいと子供心にもしみじみ思った」。あだ名が「一億」。「一億円の金持ちになるのだ」が口癖だった。
その才を惜しんで学問を薦める人があり、慶応義塾に入る。養子のきっかけは運動会だ。桃介は眉目秀麗で背が高い。絵のうまい学友にシャツの背中にライオンを描いてもらって、さっそうと駆け回ったから、諭吉夫人の目にとまった。
洋行を条件に養子縁組。ただし、「諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女お房へ配偶して別家すること」。諭吉には四人の息子がいた。なぜ養子か分からない。米国に留学、ニューヨーク州のイーストマン商業学校を四ヵ月で卒業すると、ペンシルベニア鉄道で実務見習い。帰朝後、結婚式をあげ、北海道炭礦鉄道に入社。破格の月給百円は恵まれすぎた門出だ。
ところが六年後に血を吐き結核治療のため辞職した。前途は暗黒。給料の半分を貯金していたとはいえ大したことはない。養子の身分で面倒をみてくれとは意地でも言えなぬ。思いついたのが株だ。北炭の社員で株に詳しい者からイロハを学び才能が開花した。千円の証拠金で始めて一年でもうけが十万円。それからの桃介を「相場師になってしまった」と諭吉は嘆いた。
明治 | 元 年 | (1868) | 埼玉県比企郡に生まれる。 |
〃 | 十九年 | (1886) | 福沢諭吉との間で、養子の話が決定する。 |
〃 | 二十年 | (1887) | 慶応義塾を卒業。アメリカへ留学。 |
〃 | 二十二年 | (1889) | 帰国。諭吉の次女・ふさと結婚。福沢姓となる。 北海道炭礦鉄道会社に入社。 |
〃 | 二十七年 | (1894) | 日清戦争勃発のため、外国船をチャーターし、石炭を輸送。 |
〃 | 三十四年 | (1901) | 喀血。株相場をはじめる。 北海道炭礦鉄道に再就職。 |
〃 | 三十九年 | (1906) | 北海道炭礦鉄道会社を退職。 |
〃 | 四十年 | (1907) | 日清紡績設立。相場から手をひく。 |
〃 | 四十四年 | (1911) | 日本瓦斯会社を設立。四国水力電気・浜田電気・野田電気会社などの社長。唐津軌道会社取締役となる。 |
〃 | 四十五年 | (1912) | 千葉県から衆議院議員に当選。 |
大正 | 十五年 | (1926) | 帝国劇場代表取締役となる。 |
昭和 | 三 年 | (1928) | 実業界を引退。 |
〃 | 十三年 | (1938) | 死去、七十歳。 |
「神聖なる議会の侮辱だ、証拠を示せッ」
衆議院予算委員会の議場は、野党政友倶楽部の福沢桃介がやった爆弾演説で騒然たる空気につつまれた。
「日本郵船には、政府から莫大な補助金がつぎこまれている。政府高官が多額の収賄を受けた結果である!」
日本郵船は明治18(1885)年に設立されて以来、政府の手厚い保護につつまれて日本最大の海運会社になっていた。
郵便汽船三菱と共同運輸が合併してできたのが日本郵船だ。
三菱は西南戦争の軍需物資輸送を一手仁ひきうけて急成長した会社であり、共同運輸もまた、三菱の独占に楔を打ちこむために政府が三井を支援して生まれた会社だ。
三井と三菱――日本の総資本を二分する財閥系の海運会社だから、死力をつくして競争するのが当然のはず、それが合併してしまったのだから奇怪きわまりない。
合併の最初から政府資金のカネまみれになっていたのが日本郵船だ。なにしろ、むこう15年間は毎年88万円の補助金を受けるという約束があったのだ。
88万円は100万円に、そして200万円にと増額を続け、大正6(1917)年には500万円にふくれあがっていた。
巨額の補助金をもらっていながら、株主には七割の配当をしていた。税金で経営し、税金で配当金を払っている。ムチャクチャなのである。これで利益があがらなかったら、ウソだ。
そこには贈賄がある――爆弾演説をした福沢は福沢諭吉の養子だが、生まれは貧しい。金持ちになって金持ちに復讐してやろうと決意して実業の世界にはいった。
金持ちになって金持ちに復讐するという福沢の決意が実現した背景には、第一次世界大戦後の好景気で日本がわきかえっていた事情がある。
実業界に顔を出したが、そこで三井、三菱の財閥支配という現実にぶっつかって、東京では手も足も出ない。
仕方がないから、名古屋や九州で電力会社をおこした。
それがうまくいった。
好景気の影響は地方経済にもおよび、電力需要が高まったのだ。東京で三井、三菱の儲けのおこぼれにあずかっているよりは、地方の電力王になるほうが利益が大きいのである。
名古屋の電力会社をバックに、福沢は代議士になった。いまや念願の金持ち退治の時きたれりとばかりに、「政府高官は郵船から収賄して補助金を増額している」と、爆弾演説をぶっつけた。
爆弾演説の舌鋒は、天皇暗殺計画の大逆罪で死刑になった幸徳秋水グループのことにもおよんだから、議場が震えたのも無理はない。
「彼らの罪は憎むべしといえども、彼らもまた帝国の臣民である。彼らをして、かかる狂態を演ぜしめたるは、だれの罪か!」
大正デモクラシーの風潮が高まりつつあったとはいっても、幸徳グループを援護するかのような意見は、悪くすると不敬罪に問われかねない。
その危険を冒してまであえて政府高官の収賄疑惑をいうには、よほどの決意だと見えた。
「証拠を示せ!」
「議会侮辱!」
与党委員が演壇につめよってくる。
そこで福沢は、
「証拠がほしいのか。そら、これじゃ!」
ポケットから一枚の書類を出して、ふりかざして見せた。
議場はいっそうの興奮につつまれたが、それまで福沢に罵声をあびせていた与党委員のなかには、顔色をかえて沈黙した者もいる。
――それ、見たことか!
福沢は、得意満面の表情で議場をにらみつける。金持ちをやっつけた、こんなにうれしい気分はない。
さて、ところで、この証拠文書なるもの、収賄高官の名前が列記してあるどころか、福沢が関係している日本ガスという会社の、なんでもない書類だった。弁慶が安宅関で読んだ勧進帳なのである。
福沢としては、政府高官や金持ち代議士の鼻をあかして溜飲をさげればいいというだけの計画でやったもので、後始末をどうするか、そこまでは考えていない。おなじ政友倶楽部の尾崎行雄などは生真面目な男だから、福沢がふりかざした書類には収賄高官の名前が列記してあるとばかり思いこみ、内閣総辞職にもちこむチャンス到来と、はりきった。
書類が勧進帳だと知っていたのが岡崎邦輔で、あちこち、かけまわって了解をとりつけた。秘密会をひらき、福沢が再登壇して収賄云々の発言を取り消すということで始末をつけてくれた。
福沢は軽薄なやつだという悪評も生まれたが、本人は気にもしていない。国家の命運とか政治の神聖とか、そんな面倒くさいことはぜんぜん考えず、自分で稼いだカネを自分で好きなように使うことだけに熱中していた。
大正という時代は、こういう新型の金持ちが登場した時代でもあった。(参考――大西理平『福沢桃介翁伝』)