福沢桃介(2)


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桃介・独立のすすめ財界の鬼才電力王福沢桃介冥府回廊(上)冥府回廊(下)女優貞奴まかり通る

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「桃介・独立のすすめ」 小島直記 新評社 1973年 ★★
 第一章 提灯屋の二男坊
    一
 川越市は、埼玉県で最初に市制をしいたところである。大正十一年十二月一日、入間郡川越町が仙波村を合併してそうなった。
 その川越町。鎌倉時代は河越といい、近世になって川越となったという。武蔵野台地の北端をしめる要地で、太田道灌が城をつくり、川越城、別名初雁城と称した。
 江戸からは、板橋宿で中仙道とわかれ、上板橋、下練馬の両宿をへて埼玉県へはいり、新座郡の白子、膝折、大和田の三宿と、入間郡の大井宿をへて川越城下町にはいった。
 これが川越街道で、両側に松や杉を植え、五街道クラスの並木道となっていた。現在の国道二五四号線がこれである。
 その川越の高沢町蓮台寺門前へ岩崎紀一、サダという夫婦者が越してきたのは明治七年のことだった。
 彼等はそれまで、川越から十二キロほどはなれた荒子村(のち比企郡東吉見村大字荒子)に住んでいた。
 「うちは武田源氏の流れ」
 ということをサダは子供たちにいいきかせている。
 確たる証拠はなかったが、代々そういい伝えてきた。甲州には、東矢代郡に岩崎村というのがある。先祖は、武田氏につかえ、その村を領していた。
 武田氏が亡びたとき、勝頼の妹というのが甲州から武蔵国に落ちてきて、川越の真行寺にはいって尼となった。このとき、岩崎家の先祖はこの妹について川越までやってきたが、主人が仏門に帰依したので、自分は荒子村に土着して百姓になったのだと、一門の人びとは信じている。
 岩崎家では代々名主(村長)をつとめていた。その本家から、岩崎熊次郎が分家し、さらに熊次郎の家から岩崎武が分家し、さらに武の娘が分家した。
 この分家した娘に外からむこがきて、サダという娘ができた。
 そのサダにまたむこがきた。
 「それがお前たちのおとっつあんだよ」
 とサダはいう。
 サダにむこ入りした紀一の家は矢部といい、これまた代々名主をつとめた名家である。
 それがどういういきさつで岩崎サダのむこになったかははっきりしないが、はっきりしたのは、サダのところがきわめて貧しかったことだ。
 本家からわけてもらったのはわずか一反歩の田で、「水呑百姓」もいいところである。百姓として独立の生計を営むには無理であった上に、紀一自身も名主の家におっとりと育った男で、百姓仕事には向いていなかった。
 そこで荒物屋をはじめた。といっても、商売を切り盛りするのはサダの方である。彼女は勝気で才気煥発で、いわゆる「亭主を尻の下にしく」タイプなのだ。
 紀一は、「蘭翠(らんすい)」という雅号をもっていた。荒物屋の亭主にはすぎた風流かもしれないが、書画を鑑賞し、漢詩をつくり、歌をよむ。
 サダは、そういう非生活派の亭主にハッパをかけながらがんばってみたものの、ついに荒物屋にも行きづまり、新しい開運のチャンスを見つけようとして、その当時の都会――川越にうつってきた。
 はじめ高沢町の蓮台寺門前、それから間もなく本町通りに転居して、提灯屋を開業した。字のうまい紀一の特技で食おう、というねらいだった。

     二
 夫婦には、育太郎、桃介、おれん、おてる、紀博、おすいの三男三女が生れた。
 この二男坊桃介(ももすけ)が本篇の主人公で、荒子村から川越に転居したとき満六歳。この年小学校にはいっている。
 その一番下の妹がのち画家の杉浦非水夫人となり、自分も歌人「杉浦翠子」として有名になるがそのおすいが「兄弟の縁」という回想記を書いた。
 おすいはその中で、「大体岩崎家の血統中には、私ごとき性格者の産れることが当然であって、むしろ却(かえ)って桃介は変り種の感があります」と、次兄のことをやや否定的に書いている。
 つまり、後年の大実業家桃介を、物質主義、黄金万能主義の権化のように見て、芸術に縁の遠い俗物あつかいをしているのだが、その意見の当否はこの物語全体で答えるとして、翠子のえがく「岩崎家の当然の性格」とは、この父親紀一の血をさしていることは注目していいとおもう。
 「父岩崎紀一は書画を鑑賞し、漢詩をつくり、歌をよむの風流人型でしたが、その遺伝として歴然として顕現されたのが三人まで、すなわち長女れん子は絵画を好み、十五歳より修業し廿歳にして滝和亭の門下となり、上野公園開催の内国勧業博覧会に、竹林の七賢人を出品、授賞され、その作品はドイツ人の所望するところとなりました。しかし廿三歳の夭折(ようせつ)にて社会的に名を成すことはできませんでしたが、その若年にしての制作品は、識者の批判を受けて辱(はづか)しからぬものとおもいます。三男紀博が、これまた兄の言に従わぬ実業ぎらいでした。独学で書道と、易学を研究し、資本主義社会の現代において、無用の徒として生涯を送ってしまいました。一番末の翠子がまたそれであります。が、これは寡欲淡々たる風流人型の父紀一の遺伝であります。まったく三人とも兄の忌憚にふれる芸術家肌でしたから、これまた芸術家につきものの貧生活でおわり、なかんずくれん子などは貧しき人に自ら進み嫁して、いまは彼女の墓所さえもその寺から取除けられてしまったほどの社会的落伍者であります」
 提灯屋を開いたとき、まだ紀博とおすいの二人は生まれていなかった。だが、生活の苦しさには変りはない。
 もともと提灯屋など、大して利潤のあろうわけがない。しかも、ただ字がうまいというだけの素人に、注文が殺到するはずはなかった。
 そこで傘屋を兼業したが、これまた一家をうるおすというまでにはいたらない。勝気なサダはそれが不満で、亭主にガミガミ文句をいった。紀一はじっとこらえているが、ときどき酒をのむと怒りだして、女房の顔を打ったりした。
 そういう両親の争いを、二男坊の桃介が大きな美しい眼でじっと見ていた。まだ小学生とはいいながら、その眼で見られると、夫婦喧嘩はおのずとおさまった。
 そういう光景を子供に見せては教育上わるい――という一般的な反省というよりも、もっと別のものが紀一とサダに働きかけていたようである。
 長男の育太郎は、すでに家にいなかった。小学校だけおえると、すぐに丁稚奉公にいっていた。家計が苦しいだけでなく、もともと凡庸で学問ができなかったからだ。
 ところが、二男坊はちがっていた。下駄を買ってやる余力はないので、桃介ははだしで学校に通っていた。学校の井戸ばたで足を洗って教室にはいり、帰りはまたはだしで家につき、足を洗って上にあがる。そのことを友だちにはわらわれていたが、学科となると、わらった連中は足もとにもおよばなかった。
 「神童」
 「天才」
 という最大級の賛辞を学校教師にいわれて、サダは何度感涙にむせんだかわからない。
 生活力のない不甲斐ない夫にかわって、岩崎の家を興すのはこの子にちがいない、とおもっていた。
 紀一もまた、そういうせがれを誇りにおもう点では女房に劣らない。
 家の宝ともいうべき桃介が、いかにも利溌そうな眼で見つめている前で、夫婦は目くじら立てて争うわけにゆかなくなったのだ。

「財界の鬼才 福沢桃介の生涯 宮寺敏雄 四季社 1954年 ★★
「経営の鬼才 福沢桃介」 宮寺敏雄 五月書房 1984年)
 今春三月、旧友の下田将美君が来訪されて雑談してゐるうちに、たまたま、池田茂彬さんの著書「故人今人」のことについて、いろいろ面白い話が出た。その時、下田君から、『故人今人の中に福沢桃介論があるが、池田さんほどの人が福沢は天才であると評して居られる。君はその福沢に師事して成長した人間であるから、天才桃介とでも云ふやうなものを書いて見たらどうだ。今のうちに多少でも纏めて置かないと、福沢ほどの天才も後世全く忘れられた人とならう。』といふ親切な話が出て、更に同君が助太刀をしてやらうと云ふので、私もそれでは何か纏めて見ようかと、その時の話のはづみから筆を執ることになった。
 元来、私は文筆には縁の遠い方で、到底自信は持てないが、下田君は経済評論家として、また、文章家として、広く世間に知られている人であるから、私は終始同君の助力にたよって著作することにした。謂はば下田、宮寺の共著と云ふべきであろう。(序より)

−目 次−
第一話 鬼才点描
 1 時代の子/2 後藤新平と肝胆相照らす/3 画期的な東海道電鉄/4 水力電源調査を活かす/5 寵妓を買切て園公に近づく/6 一生涯先払いの名案
第二話 生立から世に出るまで
 1 貧家の次男坊/2 福沢家の養子となる/3 病人で相場に生きる/4 丸三商会の失敗が与えたもの/5 一代の反抗児
第三話 株式相場で産を成す
 1 梅幸、羽左との花合戦/2 カンの良さは天稟/3 理づめの相場哲学/4 炭礦汽船株で池田茂彬を驚かす/5 産をなして足を洗う
第四話 事業界に入り電力王となる
 1 事業界に入った動機/2 福博電気軌道会社/3 名古屋電燈を遠に中京へ/4 慎重な金融工作/5 電燈売込みの商略/6 幕下としての私の経験/7 覚王山下、桃介追憶之碑
第五話 成功した外資導入
 1 大震災と大同電力の行詰り/2 珍妙な渡米三つ道具/3 紐育での名演説/4 礎石に偉人の言を刻す
第六話 政治とのつながり
 1 政治家との交遊とその利用/2 日本の前途予言/3 代議士となって波瀾を起す
第七話 川上貞奴ものがたり
 1 後半生の伴侶/2 貞奴の過去/3 命がけで谷底まで/4 自前経済の生活/5 二葉御殿/6 天才的な踊り/7 金剛山貞照寺
第八話 桃介の人間味
 1 豊かな人情味/2 首切らぬ哲学/3 無言の叱責/4 雑誌ダイヤモンドの後援/5 情義に厚く恩義を忘れず
第九話 桃介式処世
 1 桃介式なるもの/2 公私の別/3 園公に大根を、安田に雪駄を/4 私が叱られた話/5 ケチの真髄/6 稜々たる奇骨/7 ユーモアと奇智/8 粋な桃介
第十話 晩年の桃介
 福沢桃介さんと私……松永安左エ門/私には生きた学問の先生……石山賢吉
福沢桃介年譜

電力王 福沢桃介」 堀和久 ぱる出版 1984年 ★★
貞奴、電力事業とのロマンに生きた福沢桃介の波乱に満ちた生涯!!福沢諭吉の娘婿としての栄光と転落を経て黎明期の電力界を制する事業家として活躍。また、運命の絆で結ばれた貞奴とのエピソードを描く。

「冥府回廊(上)」 杉本苑子 文春文庫 1985年 ★
NHK大河ドラマ「春の波涛」原作明治半ば、福沢諭吉の次女房子がアメリカへ留学する婚約者の福沢桃介を見送りに品川へ行った時、そこへ馬で駆けつけてきた美貌の芸妓がいた。生涯にわたり宿命の糸で結ばれる、のちの大女優川上貞奴であった……。実業界で活躍する桃介、演劇界で名をなす川上音二郎たち、明治期の群像を描く。

「冥府回廊(下)」 杉本苑子 文春文庫 1985年 
事業家として地位をきずいてゆく桃介と妻の房子、俳優、興行師として成功を勝ち取る川上音二郎と貞奴夫妻の明暗は、まるで計ったように交互にきた。そして貞奴は夫の亡き後、桃介の事業に公然と協力する。表面の華やかさの陰で根の深い愛憎のくびきに繋がれた男と女の生きざまを鮮やかに描く傑作長篇小説。

「女優貞奴」 山口玲子 朝日文庫 1993年
 伊藤博文はじめ維新の元勲達が贔屓にした芸者・奴。のちには壮士演劇の旗手・川上音二郎と結婚し、欧米興行の際、ジイドやピカソの絶賛を浴びた女優・貞奴。音二郎没後、福沢諭吉の女婿で《初恋の人》桃介との同棲生活に入る――ジャパニーズ・アクトレス川上貞奴の波瀾の生涯。
 第一章 酒の肴の物語/十五の春
  (前略)
 は乗馬を習うために本所緑町にある草刈庄五郎の道場へ通い始めた。天保二年生まれの庄五郎は五十歳、八条流馬術師範で鹿島流馬術の達人でもあった。
 この道場で貞が習ったのは古風な武芸に基づく馬術だった。馬乗袴に白鉢巻のいでたちで乗ったのだろう。少女の躰つきは一年で見違えるように変る時期がある。小姓のような装(なり)でも、明らかに女とわかる貞の乗馬姿が隅田川べりを駆けて人目に立った。稽古を重ねた貞は遠乗りができるようになり、その遠乗りも自信がつくにつれて次第に距離がのびる。
 ある日貞は、一人で成田山まで足をのばした。本所から千葉の成田までは五十キロ以上ある。帰途、船橋を過ぎた辺りで日が昏れ、野犬の群に襲われた。絶壁に追い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていななく。貞は振り落とされまいとしがみつくのがせいいっぱいで、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかった。
 どれほどこらえていたのか、吠えたてる犬の声が途切れて、悲鳴に変わり、その声も遠ざかっていった。振り向くと、人影が見えた。人っ子一人いなかったのに、忽然と現れた黒いシルエットが不動明王さながらに立っていた。まるで、先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。貞は雷に打たれたように身が震えた。
 人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。手に持っていたのは不動尊の右手にある降魔(ごうま)の剣ではなくて、棒切れである。拾った棒切れと小石で野犬を退散させてくれた書生風の身なりの青年は、慶応義塾の岩崎桃介(ももすけ)と名乗った。
 動顛して礼も満足に言えなかった貞は、翌日菓子折りを持って、慶応の塾舎を訪ねた。三田台を散歩しながら、貞は桃介の母もさだという名前だときかされた。貞が生家はとっくに没落したと言うと、桃介は自分だって水呑み百姓の子だと笑った。桃介は水呑み百姓の子ではなかったが、母のさだが埼玉の旧家から分家して養子を迎えたあと、事業に失敗したので、学資も乏しかった。桃介はその名の通り、桃太郎のようにつやつやとして、意気軒昂な若者だった。
 その後二人が親しく行き来するようになって、一年を過ぎた頃、桃介に縁談が起きた。「天は人の上に人を造らず」と『学問のすゝめ』を著し、学生の尊敬を集める慶応義塾の創立者福沢諭吉に認められて、桃介はアメリカへ留学し、帰朝の暁には諭吉の二女・房と結婚することになった。諭吉は明治十八年に『今日新聞』が試みた人気投票で「現今日本十傑」の第一位に選ばれている。二位は福地桜痴(おうち)、三位が伊藤博文だった。
 桃介の渡米に先立って、結納がとり交わされた。
「大意(婚姻に関する覚書・結納)」
一、桃介夫婦の間は男尊女卑の旧弊を払い、貴婦人紳士の資格を維持し、相互に礼を尽して、以て一家の美を致すのみならず、広く世間の模範たるよう致す可き事。
  明治十九年正月二十八日                        諭吉記
 全八項から成る覚書の終項の文面である。披露宴には、岩崎家の本家当主も出席した。埼玉の田舎から出て来た岩崎老人は、諭吉に食べ方を教わって、初めて洋食というものを口にしたという。その孫娘・富司(とみじ)が三十余年後に、貞の養女になって、川上家を嗣ぐことになる。しかしそれはまだ誰も予測し得ない先の話だった。
 明治十九年に貞は十五歳、桃介は十八歳、少女と少年のほのかな初恋はあえなく押しやられた。
 「お互いは道は違っても、いつか立派に成功して、またお目にかかりましょう」
 貞は別れの言葉を告げて、桃介の旅立ちを見送った。
 偉大なる福沢諭吉の娘と、雛奴では勝負にもならない。貞は涙を見せなかった。袂を噛んでうちしおれるのは貞の性格ではない。何が「天は人の上に人を造らず」かと、小石を蹴っとばした。貞は口惜しさに切りきざまれる心を乗馬にふり向け、あるいは柔道、玉突き、花札、コップ酒と手当たり次第に打ちこんだ。どれも並々ならず腕を上げた。汗を流せば腹ふくるる思いもやり過せたし、何よりも自分の悲しみの深さが貞にはまだわかっていなかった。ただ、むやみと猛々しくなり、「女西郷」と綽名された。
 もともと穏和な質(たち)ではなかったが、とみに荒っぽくなった変わり方を、養母の可免だけは手負いの獅子のそれと知っていた。可免としても貞に劣らず悔しく腹立たしい。怒りのエネルギーは、貞が一本の芸者になる披露目の準備に注ぎこまれた。

「まかり通る(上)奔馬編 ―電力の鬼・松永安左エ門― 小島直記 新潮文庫 1982年 ★
壱岐の旧家に生れた松永安左エ門は、福沢諭吉の薫陶を受けるべく慶応義塾に入学するが、卒業を目前にして実業家への野望にめざめ三井呉服店に就職する。しかし、そこで与えられた仕事はひとりで勝手に思い描いていたのとはかけはなれており、ただちに辞職して日本銀行に移るがそこも辞職。その後もつぎつぎと失敗を重ねながら、独特の人生作法と商売のカンを身につけていく。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 松永安左衛門(まつなが やすざえもん)
1875〜1971(明治8〜昭和46)昭和期の財界人。
(生)長崎県。(学)慶応義塾。

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作成:川越原人  更新:2010/11/13