板倉良矩が著した『川越索麺』は、江戸時代に書かれた川越の地誌としては最も成立年代が古く(寛延2年以前稿)、それ以後の地誌類に大きな影響を与えた。著者の板倉善左衛門良矩は川越藩主秋元凉朝の家臣であるが、禄高150石、大久保町(現新富町)に770坪の屋敷を構えていたこと以外不明である。
書名は当時川越の名産だった「そうめん」に因んだものである。内容は川越の町々、神社、寺院、旧跡、伝説などが順序を定めず記述されている。当時の川越城下を垣間見ることができる貴重な地誌である。
此川蛍の名所にして 南は御茶屋下三ツ股の辺より 川下ハ東明寺村に至る六七丁が間 充満して大サ常の螢に倍す 村(群)かり飛ふ事高サ七八寸斗 偏に火焔の如く 或ハ数百塊りて水上に落散り 又は螢柱なとゝ云て数千集り寄る事 たてる柱にひとし 光り水面に移(映)り 、見る人目を驚かす 風雨なく晴たる夜猶多し 毎年芝(芒ヵ)種節より十日前後甚盛也 誠に闇を知らさる有様 景色斜ならす 去なから近年ハ当所繁花に随ひ 此辺も年々川浚ひ等有りて腐草少ク 唯むかしのおもかけのミ
古物語に云 寛永年中多摩郡八王子の近在に有寺の新敷(発)意 夜毎に何地ともなく遊ひに出けり 住持不審に思ひ有時彼新敷(発)意に向ひ 汝ハ夜毎何方へ行事ぞ 有様に申へき由尋ねけれハ 小僧答て 私儀ハ民部様へ参候と云 住持弥不審に思ひ 其民部様とハ誰人の事そや 去ハ是より西七八丁を過 小高キ一構に高塀白壁作りの長屋門有 内へ入ば玄関 使者の間 小座敷 大書院 小書院 此外名のなき座敷数を知らす 夫より長廊下 勝手の間数多く 茶の間 料理の間 上台所 下台所 板の間 水遣ひ所 きれゐに 夏ハ一入凉敷 庭の有(さ脱カ)ま 築山の恰合(好) 泉水の物数寄 万木奇石 数を尽して物々敷 たらさると云事なき いみしき御浪人也 毎夜私を御話相手に召呼れ 種々の御馳走に預り 様々の御饗応にて 又今晩も参り候御約束致し申候 御まへにも一度あの殿作りを御目に懸度候と悉く物語しぬ 住寺(持)聞き 是より西半里壱里か間に人里もなく 唯木立たちつゝきたる山なり 猶心得かたく思ひけれとも何気色なく 其民部とのに自分も知ル人に成申へし 今宵参候ハヽ約束いたし 明日当寺へ参られ候様に申候へと云けれは 成ほと委細御咄申 明日御出候様仕へしとて 又其夜例のことく黄昏時より何国ともなく出けり 夜受(更)帰り住持へむかひ 今日仰られ候通り民部様へ御咄申候へハ殊の外御悦被成 弥明日御出候筈の旨申けり 明れハ掃除など申付 料理等も其したく致したり 程なく昼にもなれは 大イ門より黒羽織着たる若堂(党)壱人懸(駈)来り 唯今民部参上の段申入ル 則小僧ヲ向(迎)ひに出されしに 体(ママ)たらく物々敷 其身は駕籠に乗 若堂(党)四人 草履取 道具挟箱 都合十二三人の供廻り召連 尤門外にて駕より下り 小僧直に寺へ同道致し 住持も早々出迎ひ挨拶会釈等終り 客殿より座敷へ案内有り 多葉粉盆 茶なと出し 毎夜小僧参り御馳走ニ預り 拙僧におゐて過分の段一礼を謝し 聞及たるより其体歴々の様に見へけれトモ とこやら不骨にて物言 物語等不束の事共にて 何気のつまるよう成仁にもあらねば 互に心打とけ語り合 色々の馳走の品をかへ数を尽して晩景にも及へは 民部一入興に乗し角力自慢をそしたりけり 住持答て 仰せの通り成ほと角力ハいさましき物なり 拙僧も若キ時よりすき 出家のいらさる事なから 家来共にも角力心覚の者も御ざ候とて骨ふと成弟子坊主交りに くつきようの大男共五六人御相手ニとて出にけり 民部あさ笑て 小兵なからさらバ家頼(来)共にも申付 私も一二番御慰にとりて御目に懸候ハんと用意して 既に角力はしまりしに こゝハの若法師男共中々手に合者なく皆散々に投られけり 住持はしめ相手に成りし者共 何もきもをけし 漸角力八九番にて今は相手□(も)なく 各早々仕廻へハ 民部ますます機嫌能角力其外力持の咄して暮にも及へば 最早御暇申へしとて帰り支度いたし 今日は存よらす初てめしよせられ 長座の上品々の御馳走忝の旨 厚く一礼をのべて帰りぬ 住持小僧も見送り 扨翌日其角力の跡を見れば 不思議や薄赤き毛と白き毛と 悉くこぼれちりてありけり 何も興をさまし 定て狐狸の所為なら(ん脱カ)と云ける されとも住持何事なく 今晩は使僧なから参るへしとて いつもの刻限より又小僧を遣しけれは 民部も昨日(の脱カ)礼なと言 四方山の咄常(の脱カ)ことくして 民部申様 自分儀も今迄は何角と御心安 得御意 太慶申候 ちと様子御座候得て 今宵もはや御名残にて御座候と 泪を流し申けれハ 小僧もともに涙にくれ 夫ハいか成子細にて何方江御越被成候といへハ 今迄ハつゝミぬれとも 早隠へき様なし 吾元来人にあらす狐なり きのふのことく御寺江にも参り 人界の交り致候得ハ 吾猶人にしられ此所にをりかたく候間 是より十里艮 入間郡河越梵心山と申所へ参り候と 段々言て盆に小判小粒山のことく積 小僧か前に出しぬ 小僧辞る言葉なく いよいよ涙なから余波(なごり)をおしミけれ共 夜もふけ せん方なく 一盆の金をもらいて別れけるとそ
宝永年中迄民部稲荷と言額 花表に掛り有し也 其後額なけれハ今そ知る人まれなり
往古梵心といへる道心者住し故かくいふとそ 其後も此森の中に道心住来りしに 元禄年中其頃道心少々たくわへ有しを 悪盗是を知り 或夜忍ひ込 終に盗賊の為に殺され 夫より後住の道心もなく 草庵も破壊して今以なし
往古は此所大なる馬場也 その後鴫善太といへる刀鍛冶居住して一丁を取立 仍而鴫町と呼ならはせしよし
古ノ鐘
武州入間郡河越城下
時銘鐘損壊 於是当時
銘曰 城主
侍従源信綱 銘治工新
鋳之者也
承応弐歳癸巳正月吉辰
冶工 椎名兵庫鋳之
右は承応年中伊豆守殿鋳させられ候鐘なり、此所に懸来りけれとも、形小く音ンひくき故当時はつし置 今会所ニ有り
今鐘
沼上七郎左衛門正次
銘曰 元禄七甲戌季七月吉 鋳物師谷村住
季字 今鐘ヲ看ルニ季字也 河野七郎右衛門良正
右ハ元甲州谷村の城下時の鐘なりしを 宝永年中御所替の節此方へもたせられたり 音声たくひなく 風並によつて六七里ほとを近所の鐘のことく 誠に黄渉調ニて長久の音ンといふ 谷村より御所替節 貫目重キ物故其侭さし置るへきに極りし所 ふしきや竜頭の折鉄(カネ)延て鐘下へ落たり 則彼折鉄を鍛えさせ又々懸しに 間もなく右の通折鉄延て鐘落たり 再三に及は趣を申上けるに 然ハたとえ人夫かゝり候とも 河越へ持たせらるへきの旨仰せ有りしに 存の外貫目より軽く やすやすと当所まて参りしよし 凡世俗に申伝へたり 其外此鐘の奇なる事あけてかそふへからす 火難 供(洪)水 大地震あらん前にハ 必鐘響あしき事普く諸人知る処なり
所々に書あらわしたることく近年繁花に及 段々新地屋敷丁建つゝき 南へ長しといへとも 全体此所川越の中央にして 四方への釣合甲乙なし 殊に鐘撞堂 薬師如来の門をかねたれハ 十二神のより所なきにしもあらす 至極の能場所なり 鐘撞堂并鐘突共両人の居宅御用地にて 代々御城主より御修覆なりしか 近年鐘撞共居宅ハ自分普請也 尤今以鐘撞堂ハ相替らす御修覆 元常蓮寺境内なりしを 南町より入口比(北ヵ)角ニて代地出候よし 火見櫓近年城下騒々敷故 享保十八年鐘撞堂の上にも新規に建つきたり 勿論四方板戸を仕懸 大風の節は戸をさして物見より窺なり 尤板木の有
苧綱一筋 かけや
是ハ火難の節鐘を御し穴蔵江仕廻へき用意なりとそ 尤火事の節十丁ノ町より一人ツヽノ人足 都合拾人欠(駈)付 これ等も右の用意の為也 しかし此所へ遠き方角の火事ハ其入用もなけれハ 彼集る所の人足鐘突の助として早鐘をつく也 田畑三反鐘突料として古来より附有 其外町中竈一軒ニ付一ケ月六銭ツヽ毎月是を集メ 又郷分寺門前地は出来秋は籾 春ハ麦を取集メ 是を鐘突弐人の給金とす
此加右衛門ハ生国上総の者ニて 伊豆殿御家中石川作右衛門今(ママ)といへる人の道具持也 常々大酒にてあらゆる生キ物を喰ふ事偏に人倫の業をはなれ 生冷成物 禽獣腐肉もいとわず 酒たにあれば普く好ミ食せしと也 然レ共段々晩年に及ひ当所無縁の者なれはとて 存生の内より我像を当寺に建置 程なく身まかりけるとなり
昔よねと申女身を投け此池の主と成たるとなり よってよね川といふへかりきを 中古あやまりてよな川ととなへ来れり 底知すとて至てふかき所七ケ所有 いかなる水旱の年もいさゝか増減なし 世俗七ツ釜といふ也 そのふかみの辺に獅々(子)頭程なる蝮すみし由 昔より見たるもの多し 今も霖雨の節又白雨あかりなとにハ 草刈とも正に見たりと云事粗沙汰あり
来歴如何なる事とも不詳
さいつ頃大水の節小仙波弁才天の花表なかれ来り 此所にて止りたりと云
松平伊豆守殿御代鉄炮稽古御覧之場也といふ
家康公慶長年中河越城に入御有ける御鷹野の折から 此所の清泉を召上られ御褒美有 以来清水丁と呼へしと御意有りしより名とす
伊豆守殿御代 代官十六人此所ニて屋敷を下され軒を並て住居の所ゆへ 代官丁と呼来りし也
往古此辺に有りしといへとも所不詳
本町を本宿と云に対しての名なる由 昔ハ此辺も東明寺の境内也といふ
元大河内金兵衛屋敷に居住有りし故かくいふとそ
当地最初よりの人里にして 昔ハ本宿といひしか 繁花に随ひいつとなく本町と唱へ来りしなり
大昔ハ東明寺町といふ 東明寺御朱印地の比の門前町なる由 東明寺すいび以来ハ北町といふ
北町を昔東明寺町と言しより 此坂もしかいふとそ
元此所も町にてハなし 東明寺の構の内也と云り 其後町となり 城下の町より一段低き故 誰となく下町と唱来りしと也
下町横手の少しき町也 元片側なりしか享保年中回禄の後 町屋両側に也(成)たり
此所土地低ク 度々の洪水にあふれけれハ 伊豆守殿御代より土手を築かれ 近年も亦御修有り
昔は江戸海道といひし 御城下繁花に随ひ 江戸町と唱へしなり 私伝 江戸町 古キ人咄ハ元れんしやく丁とも云しと云
元禄年中美濃守殿御代生類制禁の時分の犬小屋の跡也 今此所の長屋に小役人并に家持中間なと住居有り
此所ニも古来より侍屋敷有 享保十四己酉回禄の後新規ニ屋敷有りて 行止の所に両側屋敷四軒出来たり 是又坂上ニ対してしか言
此丁東側ハ行伝寺分 西側栄林寺大門より北ハ栄村(林)寺分 大門より南は鴫町分也
元此所ハ伊豆守殿御代遊佐善左エ門といへる人の下屋敷也 家居二重三重に建並へ 当時職人住居の所也 地面五反ありといふ
大工町の方へ横手を云 六軒町不残松郷分の百性なり 横町と云ハ此所にもかきらず 所々に有なり
大久保丁横手の町也
元南片側小屋敷一軒有しか 享保三戊戌回禄以後 屋敷跡不残杉苗をうへさせられ 今大木となれり 北側ハ鉦打町にて蓮馨寺分也
元此丁も古来よりの侍丁なれとも屋敷すくなく 誠に中原丁也 当御代に至り段々屋敷数ふえて 今両側全成就せり
享保の初頃戸田山城守殿御鷹部屋建し跡也 今古長屋の入口の所
古長屋之西ノ手裏通り 此所も初手ハ小屋敷六軒なりし故斯云 其後御用組なとの屋敷出来て 今は都合九軒あり
今名主猪鼻安兵衛と云者の先祖 百有余年以前草分の地也 仍かくいふ 爰ハ脇田分の町なり
蓮馨寺大門通りにして古キ門前の由 御朱印以来今以金納の場なり
松郷と竪門前の境に有 是迄蓮馨寺分 さいつ頃迄此所両角に明地有りて 古キ札守なとの捨所なりしか 所繁昌に及ひ町屋となる
南門前裏通り横に道有りて 甚地久保(窪)の所なり 爰も新曲輪の台地にて米年貢の場所也
共ニ松郷村分也 上松江ハ町分也
松郷分にして地低の所なり 跡先に石橋弐ケ所有り 是より小仙波村へ懸り 足立郡与野大宮上尾岩付等への順よし
仙波の森の木陰 細流に懸れる橋なり 昔盲人此所を過るに 負たる琵琶を橋にして渡りけるより かく名付侍とかや
藜(あかざ)何某とかやいへる者草分の地なれば かく云とそ 昔ハ両側家居有しか 今ハ両(南)側斗にして北側ハ漸三軒のミ残れり
西丁入口より元塩?(火+肖)(焔硝)蔵の方へ行道端也 享保初同心御屋敷三軒出来し故かく云 其後一軒ふへて今四軒也
仙波新田入口並木の所 昔天神の社此所に有しゆへかくいふ 今ハ宿の中程に有り
中程の裏に有り 当所草分の鉦打本阿弥といふ者取立のいなりといふ