川越索麪(川越索麺・川越素麺)


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川越学事始め新編埼玉県史資料編10埼玉史談川越歴史随筆

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「川越学事始め 〜郷土史の系譜を追う〜  川越市立博物館 1995年 ★★★
第二章 地誌の時代
 二、江戸時代の川越地誌
 (一)板倉良矩と『川越索麺』
 板倉良矩が著した『川越索麺』は、江戸時代に書かれた川越の地誌としては最も成立年代が古く(寛延2年以前稿)、それ以後の地誌類に大きな影響を与えた。著者の板倉善左衛門良矩は川越藩主秋元凉朝の家臣であるが、禄高150石、大久保町(現新富町)に770坪の屋敷を構えていたこと以外不明である。
 書名は当時川越の名産だった「そうめん」に因んだものである。内容は川越の町々、神社、寺院、旧跡、伝説などが順序を定めず記述されている。当時の川越城下を垣間見ることができる貴重な地誌である。

「新編 埼玉県史 資料編10 近世1・地誌」 埼玉県 1979年 ★★
 川越索麪   板倉良矩
赤間川/民部稲荷/樹木屋敷/安田深尾喧嘩之事/鍛冶町/金山権現/囚獄番屋敷/仙波新田/組町/一番丁/二番丁/三番丁/松井屋敷/観音堂/元塩硝蔵/鉄鉋場/鴫町/御花畠/庚申塚/松郷新道/時ノ鐘/鍋屋旧地/鍋屋/烏山稲荷/埃(コミ)捨場/下水流/西町/的場/嚔姥(ハナヒル)/久保稲荷/奴か墓夜奈川/隠居田/観音橋/鳥居田/見通シの松/堅久保町/北久保町/南久保町/行伝寺旧地/石橋/鉄炮場/清水丁/石橋/御茶水/阿弥陀堂前/仙波口/宮の下代官丁/代官丁/十念寺旧地/広小路/丸馬出/改/真行寺旧地/裏宿/小夜塚稲荷/大河内氏屋敷/古塚稲荷/本町/薬師堂旧地/稲荷社/北町/東明寺大門旧地/東明寺坂/下町/横町/首塚/東明寺橋/封疆/上松郷町/弁才天祠/高松院/江戸町/大部屋/裏店/多賀町/同心町/妙昌寺/南町/養寿院門前/高沢町/爺榎姥榎/鉄炮場/稲荷社/坂上/犬小屋/唯心庵/坂下/仲間部屋/長喜院の跡/辷り渕/御厩并馬場/御厩下/三ツ屋/杉原町/御鷹部屋/境町/五反畠/妻死田/六反畠/六軒町/横町/久太郎狐/大久保町/妖怪屋鋪/大久保町/新田町/杉林/瀬尾町/中原町/切支丹屋敷/三間屋敷跡/古長屋/御鷹部屋の跡/新長屋/六軒屋/大工町/行伝寺門前/猪鼻町/竪門前/石橋/境の榎/南門前/鉦打町/久保/下松郷/大河内氏元服の旧跡/下松郷木戸/久保町/牛小橋/琵琶橋/尾崎台/馬場并鉄炮場/藜/三軒屋/新屋/脇田村/天神前/比丘尼茶原/石地蔵/瀬尾丁/感誉上人御影/蔵丁/枝垂桜/本阿弥稲荷

   赤間川 東明寺橋ヨリ高沢橋迄弐百八十六間
此川蛍の名所にして 南は御茶屋下三ツ股の辺より 川下ハ東明寺村に至る六七丁が間 充満して大サ常の螢に倍す 村(群)かり飛ふ事高サ七八寸斗 偏に火焔の如く 或ハ数百塊りて水上に落散り 又は螢柱なとゝ云て数千集り寄る事 たてる柱にひとし 光り水面に移(映)り 、見る人目を驚かす 風雨なく晴たる夜猶多し 毎年芝(芒ヵ)種節より十日前後甚盛也 誠に闇を知らさる有様 景色斜ならす 去なから近年ハ当所繁花に随ひ 此辺も年々川浚ひ等有りて腐草少ク 唯むかしのおもかけのミ
   民部稲荷 梵心山
古物語に云 寛永年中多摩郡八王子の近在に有寺の新敷(発)意 夜毎に何地ともなく遊ひに出けり 住持不審に思ひ有時彼新敷(発)意に向ひ 汝ハ夜毎何方へ行事ぞ 有様に申へき由尋ねけれハ 小僧答て 私儀ハ民部様へ参候と云 住持弥不審に思ひ 其民部様とハ誰人の事そや 去ハ是より西七八丁を過 小高キ一構に高塀白壁作りの長屋門有 内へ入ば玄関 使者の間 小座敷 大書院 小書院 此外名のなき座敷数を知らす 夫より長廊下 勝手の間数多く 茶の間 料理の間 上台所 下台所 板の間 水遣ひ所 きれゐに 夏ハ一入凉敷 庭の有(さ脱カ)ま 築山の恰合(好) 泉水の物数寄 万木奇石 数を尽して物々敷 たらさると云事なき いみしき御浪人也 毎夜私を御話相手に召呼れ 種々の御馳走に預り 様々の御饗応にて 又今晩も参り候御約束致し申候 御まへにも一度あの殿作りを御目に懸度候と悉く物語しぬ 住寺(持)聞き 是より西半里壱里か間に人里もなく 唯木立たちつゝきたる山なり 猶心得かたく思ひけれとも何気色なく 其民部とのに自分も知ル人に成申へし 今宵参候ハヽ約束いたし 明日当寺へ参られ候様に申候へと云けれは 成ほと委細御咄申 明日御出候様仕へしとて 又其夜例のことく黄昏時より何国ともなく出けり 夜受(更)帰り住持へむかひ 今日仰られ候通り民部様へ御咄申候へハ殊の外御悦被成 弥明日御出候筈の旨申けり 明れハ掃除など申付 料理等も其したく致したり 程なく昼にもなれは 大イ門より黒羽織着たる若堂(党)壱人懸(駈)来り 唯今民部参上の段申入ル 則小僧ヲ向(迎)ひに出されしに 体(ママ)たらく物々敷 其身は駕籠に乗 若堂(党)四人 草履取 道具挟箱 都合十二三人の供廻り召連 尤門外にて駕より下り 小僧直に寺へ同道致し 住持も早々出迎ひ挨拶会釈等終り 客殿より座敷へ案内有り 多葉粉盆 茶なと出し 毎夜小僧参り御馳走ニ預り 拙僧におゐて過分の段一礼を謝し 聞及たるより其体歴々の様に見へけれトモ とこやら不骨にて物言 物語等不束の事共にて 何気のつまるよう成仁にもあらねば 互に心打とけ語り合 色々の馳走の品をかへ数を尽して晩景にも及へは 民部一入興に乗し角力自慢をそしたりけり 住持答て 仰せの通り成ほと角力ハいさましき物なり 拙僧も若キ時よりすき 出家のいらさる事なから 家来共にも角力心覚の者も御ざ候とて骨ふと成弟子坊主交りに くつきようの大男共五六人御相手ニとて出にけり 民部あさ笑て 小兵なからさらバ家頼(来)共にも申付 私も一二番御慰にとりて御目に懸候ハんと用意して 既に角力はしまりしに こゝハの若法師男共中々手に合者なく皆散々に投られけり 住持はしめ相手に成りし者共 何もきもをけし 漸角力八九番にて今は相手□(も)なく 各早々仕廻へハ 民部ますます機嫌能角力其外力持の咄して暮にも及へば 最早御暇申へしとて帰り支度いたし 今日は存よらす初てめしよせられ 長座の上品々の御馳走忝の旨 厚く一礼をのべて帰りぬ 住持小僧も見送り 扨翌日其角力の跡を見れば 不思議や薄赤き毛と白き毛と 悉くこぼれちりてありけり 何も興をさまし 定て狐狸の所為なら(ん脱カ)と云ける されとも住持何事なく 今晩は使僧なから参るへしとて いつもの刻限より又小僧を遣しけれは 民部も昨日(の脱カ)礼なと言 四方山の咄常(の脱カ)ことくして 民部申様 自分儀も今迄は何角と御心安 得御意 太慶申候 ちと様子御座候得て 今宵もはや御名残にて御座候と 泪を流し申けれハ 小僧もともに涙にくれ 夫ハいか成子細にて何方江御越被成候といへハ 今迄ハつゝミぬれとも 早隠へき様なし 吾元来人にあらす狐なり きのふのことく御寺江にも参り 人界の交り致候得ハ 吾猶人にしられ此所にをりかたく候間 是より十里艮 入間郡河越梵心山と申所へ参り候と 段々言て盆に小判小粒山のことく積 小僧か前に出しぬ 小僧辞る言葉なく いよいよ涙なから余波(なごり)をおしミけれ共 夜もふけ せん方なく 一盆の金をもらいて別れけるとそ
宝永年中迄民部稲荷と言額 花表に掛り有し也 其後額なけれハ今そ知る人まれなり
往古梵心といへる道心者住し故かくいふとそ 其後も此森の中に道心住来りしに 元禄年中其頃道心少々たくわへ有しを 悪盗是を知り 或夜忍ひ込 終に盗賊の為に殺され 夫より後住の道心もなく 草庵も破壊して今以なし
   樹木屋敷 四千四百八坪 東西七十六間南北五十八間
   安田深尾喧嘩之事
   鍛冶町
   金山権現 祭礼二月十五日 鍛冶町
   囚獄番屋敷 鍛冶町
   仙波新田 江戸入口 長百八十間
   組町 世俗通リ町□(と)云
   一番丁 長百四十二間 両側組屋敷数合廿七軒
   二番丁 長百七十一間 両側組屋敷数合廿九軒
   三番丁 長百九十間 両側組屋敷数合四十軒
   松井屋敷 今水村甚左衛門下屋敷 脇田村
   観音堂 東詞(向ヵ) 堂九尺四方
   元塩硝(焔硝)蔵 松郷分
   鉄鉋場 右同所
   鴫町 長百七拾間
往古は此所大なる馬場也 その後鴫善太といへる刀鍛冶居住して一丁を取立 仍而鴫町と呼ならはせしよし
   御花畠 鴫町
   庚申塚 鴫町
   松郷新道 世俗鉄炮丁と云 下松郷分也
   時ノ鐘 多賀町    鐘突 庄兵衛・半右衛門
   古ノ鐘
         武州入間郡河越城下
         時銘鐘損壊 於是当時
  銘曰    城主
         侍従源信綱 銘治工新
         鋳之者也
        承応弐歳癸巳正月吉辰
                 冶工 椎名兵庫鋳之
右は承応年中伊豆守殿鋳させられ候鐘なり、此所に懸来りけれとも、形小く音ンひくき故当時はつし置 今会所ニ有り
   今鐘
                 沼上七郎左衛門正次
 銘曰 元禄七甲戌季七月吉 鋳物師谷村住
  季字 今鐘ヲ看ルニ季字也   河野七郎右衛門良正
右ハ元甲州谷村の城下時の鐘なりしを 宝永年中御所替の節此方へもたせられたり 音声たくひなく 風並によつて六七里ほとを近所の鐘のことく 誠に黄渉調ニて長久の音ンといふ 谷村より御所替節 貫目重キ物故其侭さし置るへきに極りし所 ふしきや竜頭の折鉄(カネ)延て鐘下へ落たり 則彼折鉄を鍛えさせ又々懸しに 間もなく右の通折鉄延て鐘落たり 再三に及は趣を申上けるに 然ハたとえ人夫かゝり候とも 河越へ持たせらるへきの旨仰せ有りしに 存の外貫目より軽く やすやすと当所まて参りしよし 凡世俗に申伝へたり 其外此鐘の奇なる事あけてかそふへからす 火難 供(洪)水 大地震あらん前にハ 必鐘響あしき事普く諸人知る処なり
所々に書あらわしたることく近年繁花に及 段々新地屋敷丁建つゝき 南へ長しといへとも 全体此所川越の中央にして 四方への釣合甲乙なし 殊に鐘撞堂 薬師如来の門をかねたれハ 十二神のより所なきにしもあらす 至極の能場所なり 鐘撞堂并鐘突共両人の居宅御用地にて 代々御城主より御修覆なりしか 近年鐘撞共居宅ハ自分普請也 尤今以鐘撞堂ハ相替らす御修覆 元常蓮寺境内なりしを 南町より入口比(北ヵ)角ニて代地出候よし 火見櫓近年城下騒々敷故 享保十八年鐘撞堂の上にも新規に建つきたり 勿論四方板戸を仕懸 大風の節は戸をさして物見より窺なり 尤板木の有
 苧綱一筋  かけや
是ハ火難の節鐘を御し穴蔵江仕廻へき用意なりとそ 尤火事の節十丁ノ町より一人ツヽノ人足 都合拾人欠(駈)付 これ等も右の用意の為也 しかし此所へ遠き方角の火事ハ其入用もなけれハ 彼集る所の人足鐘突の助として早鐘をつく也 田畑三反鐘突料として古来より附有 其外町中竈一軒ニ付一ケ月六銭ツヽ毎月是を集メ 又郷分寺門前地は出来秋は籾 春ハ麦を取集メ 是を鐘突弐人の給金とす
   鍋屋旧地 宮ノ下
   鍋屋 五ケ村
   烏山稲荷 行伝寺新門前 祭礼四月朔日 但社地は鴫町別当行伝寺兼帯所
   (コミ)捨場 南町
   下水流 南町
   西町 長弐百三十八間 両側組屋敷数合而四十軒
   的場 西町末 東側外ニ有
   嚔姥(ハナヒル) 広済寺に有り
   久保稲荷
   奴か墓 鍛冶町法善寺ニ有
此加右衛門ハ生国上総の者ニて 伊豆殿御家中石川作右衛門今(ママ)といへる人の道具持也 常々大酒にてあらゆる生キ物を喰ふ事偏に人倫の業をはなれ 生冷成物 禽獣腐肉もいとわず 酒たにあれば普く好ミ食せしと也 然レ共段々晩年に及ひ当所無縁の者なれはとて 存生の内より我像を当寺に建置 程なく身まかりけるとなり
   夜奈川
昔よねと申女身を投け此池の主と成たるとなり よってよね川といふへかりきを 中古あやまりてよな川ととなへ来れり 底知すとて至てふかき所七ケ所有 いかなる水旱の年もいさゝか増減なし 世俗七ツ釜といふ也 そのふかみの辺に獅々(子)頭程なる蝮すみし由 昔より見たるもの多し 今も霖雨の節又白雨あかりなとにハ 草刈とも正に見たりと云事粗沙汰あり
    ・「川越の民話と伝説」 遊女川(よながわ)の小石供養

   隠居田 清水御門の外
来歴如何なる事とも不詳
   観音橋 清水御門の外
   鳥居田 杉下村の辺
さいつ頃大水の節小仙波弁才天の花表なかれ来り 此所にて止りたりと云
   見通シの松 田の中に有
   堅久保町 長百廿三間 両側屋敷数合七軒
   北久保町 長百三十九間三尺九寸 両側屋敷数合九軒
   南久保町 長百三十一間 両側屋敷数合九軒
   行伝寺旧地 久保丁の内 所不詳
   石橋 南追手より久保丁之往来
   鉄炮場 南大手丸馬出の外 芝原
松平伊豆守殿御代鉄炮稽古御覧之場也といふ
   清水丁 長百三十一間三尺 両側屋敷数合十軒
家康公慶長年中河越城に入御有ける御鷹野の折から 此所の清泉を召上られ御褒美有 以来清水丁と呼へしと御意有りしより名とす
   石橋 南大手より清水丁の往来
   御茶水 清水丁 今牧野氏屋敷
   阿弥陀堂前 清水丁
   仙波口 清水丁分 牛小橋より木戸迄三十三間 今ハ竪久保丁分 両側屋敷弐軒
   宮の下代官丁 長百五十四間 但木戸より木戸迄 両側屋敷数合廿軒
   代官丁 丁長 屋敷数前ニ有
伊豆守殿御代 代官十六人此所ニて屋敷を下され軒を並て住居の所ゆへ 代官丁と呼来りし也
   十念寺旧地 代官丁
   広小路 新道 坂代官丁
   丸馬出 宮ノ下 惣坪数千百十六坪
    大手先 本丁角より宮の下角迄百五十二間 両側屋敷数合九軒
   真行寺旧地 改ノ内
往古此辺に有りしといへとも所不詳
   裏宿 長百四十五間 両側屋敷数合六軒
本町を本宿と云に対しての名なる由 昔ハ此辺も東明寺の境内也といふ
   小夜塚稲荷 裏宿 今会所内ニ成ル
   大河内氏屋敷 裏宿 今永田氏屋敷
元大河内金兵衛屋敷に居住有りし故かくいふとそ
   古塚稲荷 裏宿 今村岡弥五兵衛屋敷
   本町 長百九間
当地最初よりの人里にして 昔ハ本宿といひしか 繁花に随ひいつとなく本町と唱へ来りしなり
   薬師堂旧地 本町
   稲荷社 本町
   北町 長百六十六間
大昔ハ東明寺町といふ 東明寺御朱印地の比の門前町なる由 東明寺すいび以来ハ北町といふ
   東明寺大門旧地 北町
   東明寺坂 北町
北町を昔東明寺町と言しより 此坂もしかいふとそ
   下町 長サ六拾間三尺
元此所も町にてハなし 東明寺の構の内也と云り 其後町となり 城下の町より一段低き故 誰となく下町と唱来りしと也
   横町 下町分
下町横手の少しき町也 元片側なりしか享保年中回禄の後 町屋両側に也(成)たり
   首塚 下町
   東明寺橋 又田谷橋とも云
   封疆 東明寺橋より西丁屋裏通(敷アリ)
此所土地低ク 度々の洪水にあふれけれハ 伊豆守殿御代より土手を築かれ 近年も亦御修有り
   上松郷町 丁百十八間三尺
   弁才天祠 南久保町 今寺田氏屋敷
   高松院 旧地 清水丁
   江戸町 長百六十六間
昔は江戸海道といひし 御城下繁花に随ひ 江戸町と唱へしなり 私伝 江戸町 古キ人咄ハ元れんしやく丁とも云しと云
   大部屋 江戸町
   裏店 江戸町西側の末 町屋の裏
   多賀町 長九十八間
   同心町 長百三十五間三尺
   妙昌寺 旧地 多賀町
   南町 長弐百三十弐間三尺
   養寿院門前 南町
   高沢町 長百十間四尺
   爺榎姥榎 高沢町
   鉄炮場 高沢丁
   稲荷社 高沢町鉄炮場所
   坂上 長 北町角より牢獄角迄四十四間四尺 牢獄角より坂迄八十四間
   犬小屋 坂上
元禄年中美濃守殿御代生類制禁の時分の犬小屋の跡也 今此所の長屋に小役人并に家持中間なと住居有り
   唯心庵 坂上 世俗庵りと云
   坂下 長八十三間
此所ニも古来より侍屋敷有 享保十四己酉回禄の後新規ニ屋敷有りて 行止の所に両側屋敷四軒出来たり 是又坂上ニ対してしか言
   仲間部屋 坂下
   長喜院の跡 坂下
   辷り渕 河向
   御厩并馬場
   御厩下 高沢橋より御厩角迄七十八間
   三ツ屋 御厩下 御島屋入口道長六十間
   杉原町
此丁東側ハ行伝寺分 西側栄林寺大門より北ハ栄村(林)寺分 大門より南は鴫町分也
   御鷹部屋
   境町 本名餌差町
   五反畠
元此所ハ伊豆守殿御代遊佐善左エ門といへる人の下屋敷也 家居二重三重に建並へ 当時職人住居の所也 地面五反ありといふ
   妻死田 妙昌寺内
   六反畠 長百七十間 但南ノ方道百廿七間
   六軒町 長弐百十七間
   横町 六軒町より長七十七間
大工町の方へ横手を云 六軒町不残松郷分の百性なり 横町と云ハ此所にもかきらず 所々に有なり
   久太郎狐 六軒町
   大久保町 長弐百二十八間三尺 地面脇田分南側屋敷合十軒
   妖怪屋鋪 大久保町角
   大久保町 新道
   新田町 長九十九間 両側屋敷数合八軒
大久保丁横手の町也
   杉林 鉦打町
元南片側小屋敷一軒有しか 享保三戊戌回禄以後 屋敷跡不残杉苗をうへさせられ 今大木となれり 北側ハ鉦打町にて蓮馨寺分也
   瀬尾町 長  両側屋敷数十一軒未に有
   中原町 長八拾七間 両側屋敷数十一軒未に有り
元此丁も古来よりの侍丁なれとも屋敷すくなく 誠に中原丁也 当御代に至り段々屋敷数ふえて 今両側全成就せり
   切支丹屋敷 中原町 今長山扇次郎屋敷
   三間屋敷跡 中原町
   古長屋 中原町
   御鷹部屋の跡 中原町
享保の初頃戸田山城守殿御鷹部屋建し跡也 今古長屋の入口の所
   新長屋
   六軒屋
古長屋之西ノ手裏通り 此所も初手ハ小屋敷六軒なりし故斯云 其後御用組なとの屋敷出来て 今は都合九軒あり
   大工町 長弐百十間 両側やしき数合十一軒
   行伝寺門前
   猪鼻町 長八十五間
今名主猪鼻安兵衛と云者の先祖 百有余年以前草分の地也 仍かくいふ 爰ハ脇田分の町なり
   竪門前 長八十間
蓮馨寺大門通りにして古キ門前の由 御朱印以来今以金納の場なり
   石橋 竪門前出はなれ
松郷と竪門前の境に有 是迄蓮馨寺分 さいつ頃迄此所両角に明地有りて 古キ札守なとの捨所なりしか 所繁昌に及ひ町屋となる
   境の榎 蓮馨寺の前
   南門前 長百十一間
   鉦打町 長弐百二十七間 蓮馨寺分
   久保 蓮馨寺分
南門前裏通り横に道有りて 甚地久保(窪)の所なり 爰も新曲輪の台地にて米年貢の場所也
   下松郷 長弐百六間
共ニ松郷村分也 上松江ハ町分也
   大河内氏元服の旧跡 下松郷
   下松郷木戸
   久保町 長百八十五間
松郷分にして地低の所なり 跡先に石橋弐ケ所有り 是より小仙波村へ懸り 足立郡与野大宮上尾岩付等への順よし
   牛小橋 清水丁へ入口
   琵琶橋 仙波分
仙波の森の木陰 細流に懸れる橋なり 昔盲人此所を過るに 負たる琵琶を橋にして渡りけるより かく名付侍とかや
   尾崎台
   馬場并鉄炮場
   
(あかざ)何某とかやいへる者草分の地なれば かく云とそ 昔ハ両側家居有しか 今ハ両(南)側斗にして北側ハ漸三軒のミ残れり
   三軒屋

西丁入口より元塩?(火+肖)(焔硝)蔵の方へ行道端也 享保初同心御屋敷三軒出来し故かく云 其後一軒ふへて今四軒也
   新屋
   脇田村 高四百七拾石余
   天神前 仙波新田
仙波新田入口並木の所 昔天神の社此所に有しゆへかくいふ 今ハ宿の中程に有り
   比丘尼茶原 三番丁南側裏
   石地蔵 蓮馨寺中
   瀬尾丁 前に有
   感誉上人御影 蓮馨寺中
   蔵丁 丁百二十七間 両側屋敷数合而九軒
   枝垂桜 行伝寺中
   本阿弥稲荷 鉦打丁
中程の裏に有り 当所草分の鉦打本阿弥といふ者取立のいなりといふ

「埼玉史談 第50巻第4号」 埼玉郷土文化会 2003年1月号 ★★
 『川越索麪』から『多濃武の雁』へ  山野清二郎

「川越歴史随筆」 岡村一郎 川越地方史研究会 1981年 ★★★
 8.「川越素麺」の著者板倉良矩について

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作成:川越原人  更新:2017/8/27