地誌『川越索麪(そうめん)』を継ぐものとして、天明年間(1781―89)に『川越年代記』というわずか一枚摺(ずり)の地誌ともみなせる書が版行された。著者は高沢町にすむ海寿という僧である。紙面を絵双六のように区切り、年代を逐って川越の移り変りの様を新聞見出し風に箇条書きで描写しており、中には不審な記事もまじるが、殊の外面白い話題も提供していて、あるいは、後世の地誌に与えた影響も多かったように見受けられる。冒頭に自作の句
古道も千代をなぐさむ花野かな
を掲げ、結末部分もまた自らの歌
いにしへを今にうつしてみよし野の仮わたる夜の友とやはせん
で終えているのは、海寿の文才と、郷土の歴史に対する愛着とが、よく示されているといえる。何よりも目につくのが、城主の交替記事。町中の事では多賀町と高沢町のものが多い。十箇町の規模も追記されている。天変に注目していて、慶安二年(1649)には茶碗の如き大あられが、安永八年(1779)には灰の如き砂が降ったと記す。江戸の変化にも関心を持ち、羽左衛門芝居の始まり、永代橋の掛かった年代なども録している。しかし 川越の地に流行(はや)ったものの記述は興味深く、風俗史の上でも注意される。例えば、名物の川越索麪の製造は承応年間(1652ー55)の頃高沢町で盛んだったとか、氷川祭は貞享四年(1687)から地踊りが始まり、当時
綟(もぢ)の紅切(きれ)入れて包めど色に出申した、向うの彦左は合点か
という歌が流行したとか、明和(1764ー72)頃には歳暮の祝儀は鳥の羽をのせて豆腐を配っていたとか、色糸で髪を結う元結ができたり、志多町・六軒町に湯屋ができたりしたのもこの頃とある。木綿足袋の売出し、川越平の織始めも載せている。正徳二年(1712)頃には、札の辻において、にんにく市が立ち
川越はにんにく市でくさいかな
という句が口ずさまれたという。信州善光寺の如来が本町榎本家でいつも開帳された等々。どれも川越の歩み来った古道が花野と映じている。
天明元年(1781)頃とされる『川越年代記』は、一枚摺の地誌として版行された。内容は紙面を区切って記事を年代順に箇条書きしたもので、川越の移り変わりを要領よく理解できる。著者の海寿は高沢町(現元町二丁目)に住んでいた僧侶であるが、経歴など不明である。大正五年(1916)にこの書を刊行した安部立郎は、海寿の人物像を「当時の読書子にして又好事の人たりしを知る」と記している。
川越年代記 一枚摺 後編三芳野砂子
古道も千代をなくさむ花野かな 海寿 | |
鎮守氷川大明神 | 欽明天皇二年辛酉九月十五日勧請、天明元年まて千二百四十一年 |
世俗に其昔川越の御城は、上ハ戸ニ有りしを、今の地へ引し故川越といふと、是大成る誤なり、此城を築たる太田道真は名将ニして、地の理を能知れり、上ハ戸ハ凡渇旱下之地なり、今の御城ハ要害の勝地なり、然るを、近きを捨て旱賤之地に城を築んや、心有る人ハ思慮すへし、堅固之地形を以証とすへし、上ハ戸の城と云事旧記ニなし、北条家之士、宮城美作守宣好か屋鋪也 | |
●享保十四酉年二月十八日、代官町ニ喰違之土手出来る、此時迄十念寺爰ニあり ●同十五年戌ノ六月、上松郷より猪ノ鼻へ通り道出来る、鉄炮町と云 ●寛保元酉年十一月十日、本町榎本氏ニ而信州善光寺の如来開帳あり | ●宝暦三酉年、此年より南町寺田氏・嶋田氏ニ而絹平を織始る、町にて川越平を織始なり ●明和五子三月、 松平大和守様川越御拝領 ●長禄元年より天明元年迄凡三百廿三年ニ成 |
●明和六年下町と六軒町に湯屋出来る ●安永八亥年十月七日ニ灰の如き砂降 ●天明元辛丑年四月四日、信州善光寺之如来、本町榎本氏ニ而開帳有之、俗家ニ而此如来開帳する事ハ榎本氏計なり | 此川越年代記ニもれ候ハ御城内の天神、五ヶ村之神明、通り町の八幡、或ハ六塚之由来、寺々の旧跡、其外名所、郷分の旧跡等、又ハ梵心山之物語、星野山の縁起、川越ニ市神無之事、皆後編のみよし野砂子ニくわしくあらわすなり |
本町 長百九間 元来本ン宿クと云、夫に対して裏宿の名有 | 南町 長二百卅二間 元来灰市場といへり、其頃外ニ市といふ事なし |
喜多町 長百六十六間 いにしへ東明寺町と云、近村之内ニ寺の字附たるハ、東明寺の地なるよし | 高沢町 長百十間四尺 竹沢右京亮か一類竹沢九郎と云人起立の町成故竹沢町と云たるを、いつの頃より歟高沢町と書なり |
江戸町 長六十六間 いにしへ東町と云、元禄十二年和田利兵衛取持にてうら店有りしか今はなし、但一軒也 | 志義町 長二百七十三間 鴫善太と云人取立し町故ニ如此いふ也、今久保町ニ鴫内匠と云人有、是ハ右之善太か末孫なり |