川越年代記・三芳野砂子


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「本の中の川越」 山野清二郎 川越市 2002年 市制施行80周年記念
 『川越市立図書館だより』に連載されたものをまとめた本です。
25「川越年代記 (かわごえねんだいき)
 地誌『川越索麪(そうめん)』を継ぐものとして、天明年間(1781―89)に『川越年代記』というわずか一枚摺(ずり)の地誌ともみなせる書が版行された。著者は高沢町にすむ海寿という僧である。紙面を絵双六のように区切り、年代を逐って川越の移り変りの様を新聞見出し風に箇条書きで描写しており、中には不審な記事もまじるが、殊の外面白い話題も提供していて、あるいは、後世の地誌に与えた影響も多かったように見受けられる。冒頭に自作の句
  古道も千代をなぐさむ花野かな
を掲げ、結末部分もまた自らの歌
  いにしへを今にうつしてみよし野の仮わたる夜の友とやはせん
で終えているのは、海寿の文才と、郷土の歴史に対する愛着とが、よく示されているといえる。何よりも目につくのが、城主の交替記事。町中の事では多賀町と高沢町のものが多い。十箇町の規模も追記されている。天変に注目していて、慶安二年(1649)には茶碗の如き大あられが、安永八年(1779)には灰の如き砂が降ったと記す。江戸の変化にも関心を持ち、羽左衛門芝居の始まり、永代橋の掛かった年代なども録している。しかし 川越の地に流行(はや)ったものの記述は興味深く、風俗史の上でも注意される。例えば、名物の川越索麪の製造は承応年間(1652ー55)の頃高沢町で盛んだったとか、氷川祭は貞享四年(1687)から地踊りが始まり、当時
  綟(もぢ)の紅切(きれ)入れて包めど色に出申した、向うの彦左は合点か
 という歌が流行したとか、明和(1764ー72)頃には歳暮の祝儀は鳥の羽をのせて豆腐を配っていたとか、色糸で髪を結う元結ができたり、志多町・六軒町に湯屋ができたりしたのもこの頃とある。木綿足袋の売出し川越平の織始めも載せている。正徳二年(1712)頃には、札の辻において、にんにく市が立ち
  川越はにんにく市でくさいかな
という句が口ずさまれたという。信州善光寺の如来が本町榎本家でいつも開帳された等々。どれも川越の歩み来った古道が花野と映じている。

「川越学事始め 〜郷土史の系譜を追う〜  川越市立博物館 1995年 ★★★
 一、地誌の系譜
 二、江戸時代の川越地誌
 (四)海寿と『川越年代記』
 天明元年(1781)頃とされる『川越年代記』は、一枚摺の地誌として版行された。内容は紙面を区切って記事を年代順に箇条書きしたもので、川越の移り変わりを要領よく理解できる。著者の海寿は高沢町(現元町二丁目)に住んでいた僧侶であるが、経歴など不明である。大正五年(1916)にこの書を刊行した安部立郎は、海寿の人物像を「当時の読書子にして又好事の人たりしを知る」と記している。

「川越年代記」(一枚) 海寿著 川越市立図書館蔵
 
 川越年代記 一枚摺 後編三芳野砂子  古道も千代をなくさむ花野哉 海寿
 鎮守氷川大明神  欽明天皇二歳辛酉九月十五日勧請 天明元年迄千二百四十一年
世俗にそのかみ川越の御城は、上ハ戸に有しを、此地へ引し故川越といふと、是大きに誤也、此城を築し太田道真は名将にて、地の理をよくしれり、上戸は凡渇旱下の地也、今の御城は要害名勝の地也、然を近きを差置て何そ旱賤の地に築んや、心有もの思慮すへし、堅固の地形を以て証とすへし、上戸の城といへるもの旧記になし、北条家の士宮城美作守宣好の屋敷也、旧記に見へたり
・長録二年四月、川越の御城立、太田資清法名道真築く、太田道灌か築しとは誤也、道真は道灌か父也、明応二年七月廿五日に卒、其後享禄三年七月十一日、北条氏綱と上杉左近と大合戦有 ・長禄元酉の年より、天正十八寅年迄凡百二十一年の間
 太田道灌、上杉管領、大道寺駿河守、北条阿波守、右四代川肥の城主也
・天文十五年四月廿日、北条氏康、上杉憲政と燈(東)明寺夜軍
・天正十八年八月、酒井河内守様川越御入城、慶長六丑年四月、上州厩橋へ御所替
・慶長六丑年四月、酒井備後守様駿河田中より川肥へ御入城
寛永十一年、若州小浜へ御所替、川肥に三十三年御居城、夫より相馬虎之助様御城番
此年江戸羽左ヱ門芝居立ツ
・同十二年、堀田加賀守様川肥へ御入城、同十五年信州松本へ御所替、是より水谷伊勢守様御城番、此時より川肥を川越と書改、養寿院鐘の銘にも川肥庄とあり、元応元年より天明元年迄四百四十八年なり
・寛永十五年、松平伊豆守様川越御城拝領、翌年天草へ御出陳
・元録七年、総州古河へ御所替、川越に五十七年御居城
・寛永七年、南西大手の丸抵町中へり石出来る
・同十八年□(竹+御)屋敷出来、森下甚右ヱ門といふ人是を預る、後に樹木屋敷と云、河内守様御時三州の龍海院を爰にうつし給ふ、今厩橋へ引けたり、北町広済寺しやぶきばゝの石像は、寛永十八年に何者か持来れり ・慶安二年、大あられふる、大サ茶碗の如し
 将軍家光公日光御社参
・承応二巳年五月、多賀町に新鐘かゝる、冶工椎名兵庫、此頃より高沢町は両側皆素麪を作れり、川越さうめんといふ
・延宝元丑年、此時迄多賀町薬師は本町仲程越後屋といふけんとん屋のうらに有、又妙昌寺は今多賀町湯屋の所なりしか、ゑさし町浅羽孫兵衛といふ人の屋敷を買て引りし也 ・貞享四卯年是迄氷川祭礼はあやつり狂言と角力と一年おき也、此年より地おどり少々始る、其時の唄とて今人の口に残れり
 もしの袋に紅切入れてつゝめといろに出申た むかふの彦左はがつてんか
・元録六酉年正月十六日、かぢ町法善寺に瀬川嘉左右衛門石碑立、戒名浄徳、是を奴か墓と云、此時迄本町より多賀町へ行抜の中道有
・高沢町大蓮寺の門前に爺榎姥榎といふ有、切たる者風ほろし生す
・五ヶ村鍋屋矢沢何某、元和の頃より百余年、宮の下代官町の広小路に住居せしが、此節御用地に也、代地を野田下にて被下たり、今に鍋新田といふ、畑より折々鉄くずを掘出すは是ゆへ也、是より御鷹部屋へ引越、又今の所へ引うつりしなり ・元録七戌年三月、松平美濃守様川越の城御拝領
・宝永二年、甲府へ御所替
・同八年、仙波新田へ旅人の宿被仰付られたり、此時江戸金銀吹替
・同九年、三東小市といふ人庵りを立ル、後に唯心と云僧住ム、今は御鷹匠宿となる
・同十一年、此時の祭礼より高沢町に屋台始る、石やたいと云、此時、松江の市もはしまる
・此時に、丸馬場坪数二千百十六坪皆畑にて国友佐五右門預り、弟子市平居宅なり、此時江戸永代橋かゝる
・宝永二酉年二月、秋元但馬守様川越御拝領
・明和五子年三月、羽州山形へ御国替
・同三年、元結といへる物無、縷にて髪をむすひし也、其頃年暮の祝義に、鳥の羽をのせて豆腐を配りしなり
・寛永七寅年、比時迄皆男女革足袋也、女は婚礼の時紫かわのたび也、高沢町伏見屋何某木綿足袋売始む
・正徳二辰年、其頃四ツ辻御判形の辺にんにく市立、何者か口すさみけん
 川越はにんにく市で九さい哉
・享保十四酉年二月十八日、代官丁喰ちかいの土手出来る、此時迄十念寺爰に有
・同十五年戌六月、上松江より猪鼻町へ通り被仰付、鉄炮丁と云
・寛保元酉年十一月十日、信濃善光寺本町榎本氏にて開帳
・宝暦三酉年、此年より南町寺田氏・嶋田氏にてきぬひらを織、是町にて川越ひらおり始也
・明和五子三月、松平大和守様川越御在城
・川越の御築城し長録二年より今年天明元年迄凡三百廿三年也
・明和六年、下町と六軒町湯屋出来る
・安永八亥年十月七日、灰のことくの砂ふる
・天明元辛丑年四月四日、信濃国善光寺如来、本丁榎本氏にて開帳、惣て此本尊俗家にて開帳榎本氏計のよし
此川越年代記に洩れ候御城内天神、五ヶ村神明、通町八幡宮、或は六塚稲荷の由来、寺々の旧記、其外名所、郷分の旧跡、梵心山の物語、仙波星野山の縁記、川越に市神なき事、皆後編三芳野砂子に委しく顕し申候
本町  長百九間
元来本宿といへり、それに対してうら宿の名あり
南町  長二百三十二間
元来灰市場といへり、其頃外に市といふ事なし
喜多町  長百六十六間
往古燈(東)明寺町と云、元来近村の内寺の字付たるは、東明寺の地也けるよし
高沢町  長百拾間四尺
竹沢右京亮類義竹沢九郎と云人起立の町也、竹沢町と云を今かく云へり
江戸町  長百六十六間
いにしへ東町といふ、元録十二年和田利兵衛取持にてうら店有りしか今はなし
志義町  長二百七十三間
鴫善太の取立られし町故斯云、今久保町に鴫内匠といへる有、其末義也
松江町  長百十八間三尺
昔よな川入込、大きなる鱸上りしを、もろこし松江の名によせてかくいふ
多賀町  長九十八間
むかし皆桶屋也、今も其俤残りしは此町はかり也
鍛冶町  東側六十五間
     西側五十九間
いにしへ家数十二軒皆かぢや也、今も金山権現有、祭礼毎年二月十五日
志多町  長六十六間
寛永三年戌八月十二日、紀国屋何某の裏より打物其外頭骨四吾百掘出せり、是古戦場なり
古人の書おかれし迚三芳野まくらといふ草紙有、又中興川越そうめんといふ書あり、かれを見是を移してうたかわしきを里老に尋ね、年うつり世かわりて枝折にもならんかしと
 いにしへを今にうつしてみよし野の 雁わたる夜の友とやはせん    海寿著
 
 ※読みやすさを考慮して、ニ→に、而→て、 江→へ、ハ→は、之→の と表記した。

 川越市立図書館のデジタルアーカイブで画像を公開しています。

「川越年代記」(冊子) 海寿著 川越市立図書館蔵
 
 川越年代記 一枚摺 後編三芳野砂子
  古道も千代をなくさむ花野かな 海寿
 鎮守氷川大明神欽明天皇二年辛酉九月十五日勧請、天明元年まて千二百四十一年
世俗に其昔川越の御城は、上ハ戸に有りしを、今の地へ引し故川越といふと、是大成る誤なり、此城を築たる太田道真は名将にして、地の理を能知れり、上ハ戸は凡渇旱下之地なり、今の御城は要害の勝地なり、然るを近きを捨て旱賤之地に城を築んや、心有る人は思慮すへし、堅固之地形を以証とすへし、上ハ戸の城と云事旧記になし、北条家之士宮城美作守宣好か屋鋪也
・長録(禄)二年四月、川越の御城建、太田資清入道道真築也。道真は道灌か父也。太田道灌か築たると云は誤なり。明応二年七月廿五日に卒ス
・享禄三年七月十一日、北條氏綱と上杉左近と大合戦あり。
・長録元酉年より、天正十八寅年迄(御入国の年なり)凡百二十一年に成
 太田道灌、上杉管領、大道寺駿河守、北条阿波守、
 右四代川肥の城主なり ※安部立郎「川越年代記・三芳野砂子」の注、長禄元年(1457丁丑)は丑年にて天正十八年(1590庚寅)まて百三十四年となる
・天文十五年四月廿日、北條氏康と上杉憲政と東明寺夜軍
・天正十八年八月、酒井河内守殿川肥へ御入城
・慶長六丑年四月、上州厩橋へ御所替
・慶長六丑年四月、酒井備後守殿駿河田中より川肥へ御入城
・寛永十一年、若州小浜へ御所替、川肥に三十三年御在城なり
・是より相馬虎之助殿御城番
・此年江戸にて羽左衛門芝居始る
・同十二年、堀田加賀守殿川肥へ御入城
・同十五年信州松本へ御所替、是より水谷伊勢守殿御城番なり、是時より川肥を川越と書き改、養寿院の鐘の銘にも川肥の庄と有、此鐘の年号元(文)応元年と有
・寛永十五年、松平伊豆守殿川越へ御入城、翌年天草へ御出陣
・元録七年、下総古河へ御所替、川越に五十七年御在城
・寛永十七年、南西大手の丸馬出し出来る
・町中へり石出来る
・同十八年□(竹+御)(イケス)屋敷出来る、森下甚右衛門と云人預る、後に樹木屋敷と云、河内守殿の御代に三州の龍海院を爰に移す、今は厩橋に移す
北町広済寺のしやぶきばヽアの石像は此年何者か持来れり
・慶安二年、大あられ降る、大サ茶碗のことし
・将軍家光公日光御社参
・承応二巳年五月、多賀町に新規に鐘掛る、鋳物師は椎名兵庫と云
・此節より高沢町は両側共に素麺を作る、川越そうめんと云
・延宝元丑年、此時迄多賀町薬師は本町仲程越後屋といふけんどんやのうらにありける
・妙昌寺は多賀町湯屋の所なりしか、ゑさし町浅羽孫兵衛といふ人の屋敷を買て引越ス
・貞享四卯年是迄お氷川祭礼はあやつりと角力と一年おきなり、当年より地おどり始る、其時のうたとて人の口に残る
 もじの袋に紅切入れてつゝめどいろに出申た むかうの彦左はかつてんか
・元録六酉年正月十六日、鍛冶町法善寺に瀬川嘉左右衛門か石碑立、戒名は浄徳、是を奴か墓と云、
・此時本町より多賀町へ行ぬけ道有
・高沢町大蓮寺門前に爺榎姥榎と云ふあり、切たる人風ほろし生す
・五ヶ村鍋屋矢沢氏は元和の頃より百余年、宮の下代官町の広小路に住しけるに、御用地と成り野田下にて代地を被下、此所を今鍋新田と云ふ、畑より折々鉄くず出るは此故なり、是より御鷹部屋へ移り、又今の所へ引越したり
・元録七戌年三月、松平美濃守殿川越御拝領
・宝永二年、甲府へ御所替
・同八年、仙波新田へ旅人の宿被仰付、此年金銀吹きかへ
・同九年、三東小市といふ人坂下へいをりを立る、後に唯心といふ僧住ス、今ハ御鷹匠の宿也
・同十一年、此年の祭礼より高沢町に屋台始る、石屋たいと云
・此年、松江の市始る
・丸馬場坪数二千百十六坪皆畑にて国友佐五右門預る、弟子市平居宅なり
・此年、江戸永代橋掛る
・宝永二酉年二月、秋元但馬守殿川越御拝領
・明和五子年、出羽山形へ御所替
・同三年、是迄になき元結といふ物始て出来る、縷(イト)にて髪を結ひしなり
・此頃迄歳暮の祝儀に、鳥の羽をのせてとうふを配るなり
・寛永七寅年、比時男女共革足袋を用ゆ、女は婚礼の時紫革の足袋なり、此年高沢町伏見屋何某木綿の足袋売始る
・正徳二辰年、此頃四つ辻の御判形の辺に市立、何者か口すさみけん
 川越はにんにく市で九さい哉
・享保十四酉年二月十八日、代官町に喰違之土手出来る、此時迄十念寺爰にあり
・同十五年戌ノ六月、上松江より猪ノ鼻へ通り道出来る、鉄炮町と云
・寛保元酉年十一月十日、本町榎本氏にて信州善光寺の如来開帳あり
・宝暦三酉年、此年より南町寺田氏・嶋田氏にて絹平を織始る、町にて川越平を織始なり
・明和五子三月、松平大和守様川越御拝領
・長禄元年より天明元年迄凡三百廿三年に成
・明和六年、下町と六軒町に湯屋出来る
・安永八亥年十月七日に灰の如き砂降
・天明元辛丑年四月四日、信州善光寺之如来、本町榎本氏にて開帳有之、俗家にて此如来開帳する事は榎本氏計なり
此川越年代記にもれ候は御城内の天神、五ヶ村之神明、通り町の八幡、或は六塚之由来、寺々の旧跡、其外名所、郷分の旧跡等、又は梵心山之物語、星野山の縁起、川越に市神無之事、皆後編のみよし野砂子にくわしくあらわすなり
本町   長百九間
 元来本ン宿クと云、夫に対して裏宿の名有
南町   長二百卅二間
元来灰市場といへり、其頃外に市といふ事なし
喜多町  長百六十六間
 いにしへ東明寺町と云、近村之内に寺の字附たるは、東明寺の地なるよし
高沢町  長百十間四尺
竹沢右京亮か一類竹沢九郎と云人起立の町成故竹沢町と云たるを、いつの頃より歟高沢町と書なり
江戸町  長(百脱ヵ)六十六間
 いにしへ東町と云、元禄十二年和田利兵衛取持にてうら店有りしか今はなし、但一軒也
志義町  長二百七十三間
 鴫善太と云人取立し町故に如此いふ也、今久保町に鴫内匠と云人有、是は右之善太か末孫なり
松江町  長百十八間半
 昔よな川入込也、大きなる鱸上りしより、唐ちの松江の名によせて斯云也
多賀町  長九十八間
 昔は皆桶屋なり、今も其おもかけ残りしは、此町計なり
鍛冶町  東側六十五間
     西側五十九間半
 昔は家数十二軒皆鍛冶屋なり、今も金山権現有、祭礼毎年二月十五日也
志多町  長六十六間
 寛永三年戌八月十二日、紀伊国屋何某の裏より打物其外頭骨四吾百掘出したり、古戦場の旧跡也
古人の書置れし三芳野枕と云草紙あり、又中興川越素麪と云書あり、彼を見是を写して今疑敷は里老に尋、年移り世替りての枝折にもならんかと いにしへを今にうつしてみよし野は 雁わたる夜の友とやは見ん
                       高沢町  海寿著
 
海寿翁か著したる川越年代記と云一枚摺の書を得て川越の古き事を知り楽不過之処、本書にもれたるは猶後篇三芳野砂子に出すとあれは、又是を得んと心を尽して求めけるに絶てなく、余りに残り多きか故に、又三芳野図絵川越素麺の写本を得て前後を照らして本書の闕たる所を補んとするに、其書或は怪力乱神に類したる処もあり、或は曽て無謂所を文筆に花を咲せて人々の目を悦しむる為に壮観の躰を顕し、或は不審可有所は其儘に捨置等の事多して、其証とする所は少して、却て疑惑の種と成るのみなり。依之可取処はとり、可捨処は捨て、且予か昔より見聞した処と替れるはその主意を伸て、暫川越年代記の闕たる所を補といへ共、是元より聖賢の述給ふ書にもあらす、又慥成る古書に出たるにもあらねは、又々虚談を増の恐少からすとすへし、見る人その心を以て知る人に尋明らめ、或は古書を以て其真偽を糺し給ふを希のみ
    (中 略)
海寿此年代記を著したる時か、亦外の書を顕したる時か、御城下町々の間数をあからさまに書しるしたるを御咎有之、五十日の間竹もかりを結れたり、世人知る所なり、今按るに右の間数等は伊豆殿・美濃殿の御代よりの書留にも有りし躰也、海寿翁も定て夫等の書より写して載せたるなるへけれ共、写本とは違ひ僅の事なり共板にして伝ふるは是不軽事也。抑土地の広狭と田畠の多少を伸るは天下の制禁なり、此故に地方に預る処の書多しといへ共、板本は決てなし、海寿文才もあり、殊に俳諧に名高しといへ共、地理の子細は不案内と見へたり
    (後 略)
   天保十年己の亥極月十四日・十五日写之  酒井包美
 
 ※読みやすさを考慮して、ニ→に、而→て、 江→へ、ハ→は、茂→も、而已→のみ 之→の と表記した。

「川越年代記・三芳野砂子」 海寿著 安部立郎校注 川越図書館 1916年 ★★★
※海寿著、安部立郎校注。天保10年(1839)酒井包美手写本を底本としている。「三芳野砂子」は「川越年代記」続編で海寿の著といわれるが、いま伝えられる「三芳野砂子」は著者不明の別の著作とされている。(「川越大事典」
※他に峯岸久治の転写本(『川越年代記』 海寿著 峯岸久治手写 1940頃)があり、そちらの方が良本である。「三芳野砂子」は著者不詳。(「本の中の川越」)
 
緒 言
川越年代記内容目次 (?)印は校者の疑を有するもの
一 氷川大神の勧請年代(?)
一 川越の城旧上戸にありとの説を駁す(?)
一 長禄元年より天明元年まで年代記
○ 後記(記事の漏れたるは三芳野砂子に譲る事)
一 十個町
○ 後記
  校著別本により追加の分
 
三芳野砂子内容目次
○、前文(三芳野砂子を追作する来由)
一、氷川大明神(氏子町村、棟札)
一、氷川御供米の除地
一、海寿、年代記に十個町の間数を記し譴責されたる事
一、氷川社祭神(三芳野名勝図絵の説を採らず)?
一、川越築城者及其年月(年代記の儘記出)?
一、太田道真と道灌(?)
一、川越城の別名(懐疑反対)
一、土地の名と城の名(?)
一、其例(江戸浜松諸城)(?)
一、道灌と川越千句集(?)
一、道灌と歌道(?)
一、道灌の逸話(?)
一、道灌の西上と歌
一、道灌の死(?)
一、板倉重昌の逸話(?)
 
    川越素麺書抜
一、妙昌寺及堺町
一、妻殺田(メコロシダ)と堺町弁天
一、御鷹部屋の事
一、御厩下並御厩の事
一、六軒町
一、大工町(索麺の記事に追加)
一、いほりの事
一、同心町の事
一、杉原
  以下索麺図絵の説を評し其記さゞる所伝を記すもの若干あり
一、行伝寺の事(素麺図絵に追加)
一、妙養寺の事(同      )
一、西雲寺(同      )
一、竪門前
一、南門前
一、鉦打町
一、窪
一、蓮馨寺地蔵の事
一、鉄砲町丸馬場の事並国友佐五右衛門が事
一、川越平(ヒラ)の事
一、鴫(シギ)町と鴫善太及其子孫
一、鍛冶町の事及川越の鍛冶職
一、金山権現の事
一、多賀町―□の字の可否―小仙波喜多院第二代周海僧正―小仙波宿の開発―周海の兄多賀町に居る
      ※□…蔑(ベツ))の草冠を竹冠にした字
一、仙波新田の事並石原旅籠屋及本能寺の事
一、上戸村常楽寺の事
一、牢屋敷
一、治兵衛塚の事
一、蔵町
一、代官町及大河内金兵衛
一、喜多院古鐘の事并野本村野本寺鐘の事
一、養寿院の鐘の事並同寺板碑の事
一、鍋屋四郎右衛門か事
一、観音寺の事
 
    聞書の事
一、川越の文字の事
一、川越城旧、他より移転したるや否やの説並養寿院旧大門の事
一、江戸町犬竹氏の言伝
一、伊豆守入城前後の川越及附近農村の状態
一、足利時代の荒廃と徳川時代の開発
一、東明寺及木内氏
一、木内氏の世代
一、難波田弾正の死及其子孫
一、喜多町及志多町並東明寺首塚
一、川越の方位形勝及代々の城主の立身、附横田氏繁盛に至れる事
     以 上
 
緒 言
 川越年代記、及同後編三芳野砂子、合綴写一冊は、川越図書館の蔵本にして、東京黒須広吉氏の寄贈に係るもの也。黒須氏は即ち人も知る如く川越の旧家、由来、古書什器の収蔵に富り。本書の如き亦其珍蔵の一也。
 卒直に之を言はゞ、本書の如きは、川越の往時を究めんとする一般的資料として、寧ろ新編武蔵風土記稿入間郡部、三芳野名勝図絵、若くは川越素麺等の書に比して劣るやも計られず。然れとも上述諸書の別□(さんずいに瓜)として、之に雁行する参考材料として、本書の価値、面目、自ら存するを覚ゆ。されば本書の読者は疑惑に陥り、問題に遭遇し、比較討究の必要に迫られ、稀に一部の結論に達し、要之単純なる伝説暗記以上、真に研究の必要を感し、其端緒を発見するに至ることあらん。本書刊行の理由自ら茲にあり焉。
 川越年代記は一枚の紙面に列記表出せられたるものと覚しく、高沢町海寿著とあれど、其何人なるやは未た詳ならず。年代の天明元年(大正五年より百三十六年前)に終れるを以て見れば、蓋し其頃の作なるべく、記事遺の案配より考察するも当時の読書子にして又好事の人たりしを知る。(砂子によれは海寿文才もあり殊に俳諧に名高しとあり)。然れとも記事に僅少の誤謬あり、殊に写本に有勝なる書写の誤亦若干あり。刊行に際し誤謬の瞭然たるものは之を正したりと雖、所説の通説と同しからさるもの所伝の疑しきものゝ如きは、原著者の意思を尊重し敢て訂正を加ふる所あらず。
   (後略)
  大正五年八月        川越図書館に於て
                  安 部 立 郎 識
三芳野砂子
○、前文(三芳野砂子を追作する来由)
 海寿翁が著したる川越年代記と云一枚摺の書を得て川越の古き事を知り楽不過之処、本書にもれたるは猶後編三芳野砂子に出すとあれば又是を得んと心を尽して求めけるに絶てなく、余りに残り多きが故に又三芳野図絵川越素麺の写本を得て前後を照らして本書の闕たる所を補んとするに、其書或は怪力乱神に類したる処もあり、或は曽て無謂所(ユハレ)を文筆に花を咲かせて人々の目を悦しむる為に壮観の躰を顕し、或は不審可レ有所は其儘に捨て置等の事多くして、其証とする所は少くして、却て疑惑の種と成るのみなり。依て可取処はとり、可捨処は捨て、且余が昔より見聞した処と替れるはその主意を伸て、漸川越年代記の闕たる所を補といへども、是元より聖賢の述給ふ書にもあらず、又慥かなる古書に出でたるにもあらねば、又々虚談を増すの恐少なからずとすべし。見る人その心を以て知る人に尋ね明らめ、或は古書を以其真偽を糺し給ふを希而已
一、海寿、年代記に十個町の間数を記し譴責されたる事
 海寿此年代記を著したる時か、亦外の書を顕したる時か、御城下町町の間数をあからさまに書しるしたるを御咎有之、五十日間の竹もかりを結れたり。世人知る所なり。今按るに右の間数等は伊豆殿・美濃殿の御代よりの書留にも有りし躰なり。海寿翁も定めて夫等の書より写して載せたるなるべけれども、写本とは違ひ僅の事なりとも板にして伝ふるは是不軽事也。抑土地の広狭と田畠の多少を伸るは天下の制禁なり。此故に地方に預る処の書多しと雖、板本は決てなし。海寿文才もあり、殊に俳諧に名高しといへとも、地理の子細は不案内と見えたり。

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「川越藩松平大和守家記録7 安永8年・同10年 川越市立博物館 2024年 ★★★
 
 口絵解説
(3)筆禍に遭った「川越年代記」
 天明元年(1781)九月廿八日Cには、川越城下高沢町の庄兵衛が「川越年代記」を版行、販売して筆禍に遭った記事がある。「川越年代記」は「川越索麪」についで古い川越の地誌として知られ、後世の写本であるが、二点の史料が川越市立図書館に所蔵されている。一つは半紙判三八丁の冊子本であるが、巻頭に「川越年代記 一枚摺」と、原型は一枚摺であったことを明記している。大正五年(1916)に安部立郎により刊行された『「川越年代記 三芳野砂子』の底本となったものである。解説によると、この史料は川越の旧家で収集家、当寺東京に住む黒須広吉が川越市立図書館に寄贈したものである。後半には川越年代記の後編にあたる「三芳野砂子」(作者未詳)及び「川越索麪書抜」も筆写されている。安部氏は言及していないが、末尾に「天保十己亥極月十四・十五日写之 酒井包美」と写本作成者名が記されている。酒井が藩士であれば、天保十二年(1841)の川越藩分限帳に酒井秀之助(三番士、大工町住)と酒井右之丞(一番士、定府)がいる(埼玉県史調査報告書『分限帳集成』)。この酒井包美と「三芳野砂子」との関係も検討が必要であろう。また、随所に「三松蔵」という蔵書印らしきものが捺されている。これは、誰のものであろうか。
 もう一点は、縦32.3×横46.2pの一枚物で裏打ち済である。料紙は一見すると古そうで字も達筆であるが、墨は新しく料紙との和みもよくない。川越市立図書館の目録では大正初年の写本とされているが、妥当であろう。四隅に画鋲の痕らしきものもある。一枚物でありながら、冊子本と同様に「川越年代記 一枚摺」と記しているので、冊子本ないし同系統の写本を参考に、一枚摺の形態に復元したものと推定される。とはいえ、庄兵衛が筆禍に遭った「川越年代記」を想起するには適切と考え、口絵として掲載した。
 「川越年代記」は、紙面を絵双六のように区切り、長禄二年(1458)の川越城築城から、城主の変遷を軸に、興味深い市井のさまざまな出来事を含め年表風にまとめている。例えば、安永八年十月七日、灰のごとくの砂ふる、とあるのは、十月一日夜から大隅国(鹿児島県)桜島の噴火で江戸でも灰が降ったという『武功年表』の記事に対応するものであろう。記事の下限は、天明元(1781)年四月四日、本町榎本家での善光寺如来の開帳である。四月二日に安永から天明に改元された。それに続いて、「川越十ヶ町の間数と各町の謂われなどが短く記されている。これまで「川越年代記」の出版年は、天明年間と推定されてきたが、本史料の出現により、最終記事の天明元年四月四日から処罰された同年九月二十八日の間と特定できる。
 「川越年代記」の筆禍につては、城下町の間数を書いて出版したので、著者が50日間の「竹もかり」を結ばれた。という史料がこれまでも知られていた(前述の冊子本「川越年代記」中記事)。「もがり」とは、竹を筋違いに組み合わせて縄で結い固めた柵のことなので、刑罰として戸閉めのことであろ。一方、今回の「記録」では、庄兵衛がお咎めを受けた理由は「御名」(殿様の名前)や、「十ヶ町間ン数」などを、無届けで出版物に載せたこと、とされている。特に殿様の名前を載せたことが大きいようである。殿様の名前は「明和五子三月 松平大和守様川越御拝領」という記事、十ヶ町の間数というのは「高沢町 長百十間四尺」などと記した箇所であろ。口絵の下段には、それらの箇所を拡大して掲載しておいたので御覧いただきたい。
 しかしこの事件は、「今日の如助」すなわち日々の生業のためで、深い子細も無さそうなので、「急度叱、戸〆(締)」という処分を下し、「程合見合差免」したいという、担当の町奉行須藤金左衛門の申出を認めている。こうみると、従来の説の出典は未詳であるが、殿様の件を除くとほぼ正確である。50日間の「竹もかり」と、より具体的な記述もある。殿様の件は、記述すること自体が憚られたのかもしれない。なお、併せて城下町にいる彫刻師へも同様の処分を命じ、原稿の作成から印刷、販売まで川越城下町で行なっており、当時の出版事情の一端を伝えている。
 「川越年代記」の作者は、巻頭に発句を載せている海寿と推定され、俳諧をよくした人物と考えられてきた。さらに、この史料が出現したことで、高沢町に住む庄兵衛という「夜講釈」を職業とする人物とわかった、住所、実名、職業などが判明したのである。職業の「夜講釈」(よこうしゃく、よごうしゃく)は、「四辻、または空家・寺子屋、後には寄席で、夜興行した講釈」(『日本国語大辞典』)とある。おそらく、夜講釈師庄兵衛の俳号が海寿なのであろう。
  (後 略)
                              (重田正夫)
 
 「記録7」 安永十年(天明元年) P286上段
  九月廿八日
                        高沢町
                          庄兵衛
右之者夜講尺等致し渡世致居候、然ル所此間川越年代記と申物板行に
致し売候由、町方役所より致吟味候処、 御名を出し其上十ヶ町間ン
数等も相記し候、右之義届も不致旁不届之義故致吟味候処、誠今日
之如助に致候のみにて、外に何之子細も無之候に付、急度叱戸〆申付、
程合見合差免可申旨、須藤金左衛門申出候、其通取計候様申聞之
  但右板行御当地にて彫刻致候もの、是又届も可致儀無其義旨、
   庄兵衛に准し叱申付候様、是又同人へ申聞之
 ※読みやすさを考慮して、与→と、ニ→に、茂→も、而→て、而已→のみ 江→へ と表記した。
 ※須藤金左衛門…町奉行

「海寿と庄兵衛は同一人物か」
 
名 前海 寿庄兵衛
史 料川越年代記三芳野砂子松平伊豆守家記録
関 係川越年代記の著者川越年代記を板行
住 所高沢町高沢町
職 業不詳(僧侶の根拠不詳)夜講尺など
処罰時期不詳
「此年代記を著したる時か、亦外の書を顕したる時か」
天明元年(1781)9月28日
「此間川越年代記と申物板行に致し売候」
理 由「御城下町町の間数をあからさまに書しるしたるを御咎有之
写本とは違ひ僅の事なりとも板にして伝ふるは是不軽事也。抑土地の広狭と田畠の多少を伸るは天下の制禁なり」
御名を出し、其上十ヶ町間ン数等も相記し候、右之義届も不致旁不届之義故」
刑 罰竹もがり急度叱、戸〆(締)
期 間50日間不詳(程合見合差免)

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作成:川越原人  更新:2024/06/02