喜多川歌麿


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喜多川歌麿
「歌 麿」 下村良之介/安村敏信/林美一/稲賀繁美 とんぼの本 1991年 ★
 浮世絵の黄金時代を築いた歌麿。雲母摺の導入、美人大首絵など様々な新しい試みから奇跡的な完成度を示す《女絵》。 驚異的な観察眼とデッサン力による《博物図譜》ともいうべき知られざる傑作・狂歌絵本三部作『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥』。 枕絵の真髄で秘本中の秘本とされる『歌まくら』をはじめとする《枕絵》。 歌麿絶頂期の逸品の魅力を特別撮影により詳細にグラフ紹介、あわせてその人の生涯を解説する。

 艶本で読む歌麿(林美一)の冒頭

 江戸時代の通例で、身分の賤まれていた浮世絵師の伝記は、あの議論百出の「写楽」ほどではないにしても、ほとんど手がかりがないにひとしい。 歌麿とて例外ではなく、その出生地についても、江戸説あり川越説あり、大阪説あり京都説ありで一定しない。
 喜多川歌麿年譜(安村敏信編)
宝暦3年(1753) この年、歌麿生まれるか。(一説に宝暦4年)北川氏で幼名市太郎、俗称勇助、のち勇記に改むとも。 出生地は江戸・川越・栃木説など数説あるが確証なし。

「歌 麿」 菊地貞夫 カラーブックス253 1972年 ★
 歌麿の伝記及び芸術的展開/出生地について
 ところで、その出生地については、未だ定説といえる確実な資料は存在しないので、従来種々いわれる説を紹介しておこう。
 (イ)川越説 これは明治二十七年六月発刊の関根只誠氏の著書『名人忌辰録』に「武州川越の人、文化二巳年五月三日歿す 歳五十三」という記録を基とするものであるが、歌麿の没した年月日が、過去帳と合わない。
 (ロ)江戸説 浮世絵作家研究の根本資料として、長年重要視されてきたが、最近記載事項でやや疑問も多いといわれだした『浮世絵類考』を初め、『浮世絵類考』の異本、写本類を資料とする『浮世絵備考』『浮世絵百家伝』『浮世絵画人伝』などの説である。
 (ハ)大阪説 大阪の好色本に、歌麿のことが記されているものがあるといわれるが、先輩諸氏の努力によっても、まだその出所は確かめられていない。
 (ニ)鳥山石燕の子という説 歌麿が石燕に師事し、「画本蟲ゑらび」の師石燕が序文で、歌麿の幼少のころの様子にふれた部分があり、また歌麿の作品の落款に、「鳥山豊章」「鳥豊章」としたものがあり、印章に「鳥山」とあるのを指した親子説であって、確実な資料は明らかではない。
 (ホ)狩野亮吉博士の唱える説 上方本「吾妻男京女郎、絵本手事の発名」の序文中に、「京都に露章といへる画工あり。壮年関東に下り、喜多川歌麿を号す」とあるものによるが、この説は、すでに浅井清氏によって抹殺されている。しかし、吉田暎二氏は参考意見として、初期の中判作品で、大川の納涼舟の船頭のあやつる艪が逆勝手で描かれたものがあり、その逆勝手であることは上方風である。したがって歌麿は上方の風習を身につけてきたので無意識のうちにこれを描いたのではなかろうか、という説もあることを書いている。そして吉田氏は、これは遠景なかの猪牙舟で、いわば添景物であるからもちろん気をいれて描いたものでなく、そのために、このようなまちがいを描いたとみれば根拠は薄れる。しかも歌麿が幼にして、すでに石燕についているらしいので、上方の特殊な風物を頭にきざみこむほど、上方に育っているとも思われないから、この説もあまり有力でないようであるとも述べられている。氏はさらに、歌麿と親交のあった栃木(現在の栃木県栃木市)の釜屋一家の出身地が、初め近江の国、守山の人で、歌麿の肉筆の大作「雪月花」の三幅が、歌麿が釜屋へ滞在して描いたことは疑いもないところであるから、この釜屋と歌麿との関係のくわしいことについては、林美一氏の調査研究を待つといっている。
 こうした諸説によって明らかなように、歌麿の出生地については定説がなく、また何歳で鳥山石燕門人となったかも、推測論によってこれまた種々説えられているが、確実な資料はない。

「川越夜話 川越叢書第6巻 岸伝平 国書刊行会 1982年 ★★★
川越夜話/喜多川歌麿と川越
 浮世絵の全盛期において、所謂歌麿風の美人型の筆意を遺して、我が版畫界に抜群の声名を謳われた初世喜多川歌麿は最近でさえも「歌麿をめぐる五人の女」などという映畫も現われ、今以つて人気の衰えぬ彼の妙筆妙技に至つては、実に古今比ぶべき畫人なしとさえいわれるのも、蓋し当然のことであろう。
 さて絶世の浮世絵畫家たる彼の出身地はといえば、江戸説、川越説の二つが行われている。彼の畫業の活躍地が江戸であつたから、無論江戸の人だと記されている場合が多い。また沒年も五十三才説と、五十四才説とが行われている。「名人忌辰録」には歌麿は「武州川越の産、本姓小川氏」とありまた野口米次郎氏著「歌麿論」には「武州川越の産であつて本姓小川氏、幼名市太郎、諱は信美、字は豊章といつた」と記されている。また同書には「幼少のとき江戸に出てその当時根岸に住んでいた石燕に就いて絵を学んだもの」とある。ところが浮世絵伝や日本書畫骨董大辞典や大日本人名辞書には江戸出身説を主張している。ことに小川市太郎を二世の歌麿と記したものさえあり、またその師である鳥山石燕の男として、沒年も文化二年五月三日と記述してあるものもある。辞書に
喜多川歌麿(初世)有名の浮世絵師なり、本姓鳥山、名は豊章、俗名勇助、のちに勇起、一窓生と号し、また紫屋と号す、鳥山石燕の男なり、諸書に石燕の門人とし、又川越の産とし、又北川豊章の門人といえるは皆非なり(以下略)
とあるが、史料の正しき考証はあげていない。歌麿の出生が大江戸であろうと、また川越であろうと歌麿の作品価値と名声には何等の係りはないものの、しかし同書の文中に多少の疑問点もあり、また少しく川越の郷土史料と照合し、これを参考文献としてこゝに研究したい。
 勿論出身地についての争いを好むものでもないし、また遺憾ながら確実の資料にも乏しいのである歌麿の香華所と墓地は現今東京都世田谷区烏山墓地に移転したが、以前は浅草本願寺浄土宗の専光寺であつて過去帳がある。この過去帳には
 秋円了教信士北川歌麿事 文化三寅年九月二十日沒
と記され、北川歌麿事の下に神田白銀町、笹屋五兵得の縁と記されてある。辞書の二年説と相違が判明する。また封建の物堅いころとて鳥山石燕の男なれば過去帳に笹屋五兵衛の縁と記した以外に何等かの記載があるべきではあるまいか。また石燕家の墓地に葬るべきでもあろう。たとえ他姓を名乗つても畫人の家柄として、盛名を得ていた歌麿の墓だけに考えざるを得ない。或は破門されていたとしても、この間の消息があつて然るべきであろう。
 辞書によると天明二年版の「松の旦」と題する発句集の挿絵に(石燕及び歌麿や門人の挿畫あり)鳥山豊章筆、歌麿豊章筆、鳥豊章等の落款があるによつてこれが確証とされている。
 また喜多川氏と称したことも審かでない。辞書には「壮年遊蕩に耽り、父の意にさからい通油町の蔦屋重三郎の食客となりしことなど言伝ふれば、蓋し放蕩のため父の怒りに觸れ家に帰る能わずして所々に流寓し、自ら喜多川と称せしものならむ」と記されている。
 美人畫家として歌麿のごとき取材を青楼の美妓に取るものとしては、吉原の遊廓通いはむしろ当然でもあろう。これが勘当の動機としても、眞実に石燕が我が子であつたしたら、畫家として才能ある人物をこの位のことで、果して姓名までも取り上げてしまうであろうか。
 昔にも師の許しを得て二世とか、五世とかこれが襲名の慣習もあるし、また印章や姓氏を弟子が受け継いだ畫人の家柄も多くの例はあろう。或は弟子として養子に見込をつけられたものゝ、遊蕩のために絶縁されたか。鳥山姓を名乗つたと、挿図のことから石燕の子だと決定することは、少しく早合点ではなかろうか。かつて為永春水の門に入つた川越出身の俳人笠島庵春友(鈴木治平)の著「みよし野柳樽」に天保十四癸卯孟冬、為永春友誌と奥書にもある。
 当時に文人墨客や畫家の刊行本には、師の盛名に依存したり、または許されてその姓を冐したことがある。これだけで川越生れを非として鳥山姓によつて石燕の男と決するのは、今後の研究を要することであろう。
 ここで名人忌辰録の武州川越の産、本姓小川氏の川越説はどこによつたものか出自の研究も要することである。また専光寺過去帳にも歌麿の下に笹屋五兵衛の縁とあつて、その出身には明記がない。その沒年の文化三年から行年の五十四年を逆算してみると、宝暦年間の三年か四年に歌麿が出生したことにあたる。宝暦年間は秋元但馬守が川越城主の時代であり、この秋元家は宝永元年十二月に甲州の谷村城から、川越城へ転封し城主となつた。喬朝以来凉朝まで四代六十四年間、秋元家は川越城主であつて、凉朝の明和四年に出羽の山形城へ国替となつた。このあとに松平大和守朝矩が川越城主となつている。
 秋元但馬守の重臣である太陽寺盛胤の書いた郷土史に「多濃武の雁」がある。この書は宝暦三年の稿で、幸いに盛胤が家老格であつたゆえ、当時の武家屋敷や藩士の菩提寺に関する史料が悉く記述されている。かつて筆者はこの書を参考とし手掛りに芭蕉門人の高山伝右衛門繁文(号麋塒)(びぢ)の墓を発見したことがある。中島孝昌の三芳野名勝図会とともに川越郷土史の双璧と称されている。さて歌麿出身地の資料を求むる場合に同書は参考に値するものであつて、云い伝えの外には未だ確証はなきも歌麿伝に従つて本姓小川氏とあつてこれが武家出身とみるとき、享保九年の川越町屋敷図面に、川越城下の宮下町(藏町)に小川才兵衛の屋敷名が記されてある。
 また小川才兵衛の名が前記の「多濃武の雁」に本応寺の条に「小川宇右衛門―盛林院―才兵衛繁康(施主)」と記され、この小川家も国替に従つて山形に赴いており、また本応寺も後年に至り、出火の厄で史料たる書類が焼失しているため詳細が判明しないが、これによつて小川才兵衛家の実在は判然した。
 また当時に武家出の人として彼が放蕩となり、遊里の巷に出入し、遊女等の姿を描く版畫家となつたゆえ他姓となつたか、物堅い生家を遠慮したと一応解して、ここに北川(喜多川)姓の家が川越にあつたかどうかを調べると、当代の武家屋敷図面には通町に北川与兵畫、三番町には北川安藏の名が記されてある。
 小川家のある藏町の名は川越城中における郷倉の通りとて藏町(くらちよう)と呼名されたところである。このあたりは城付に近く身分の相当にある上役が住んだ。通町は江戸に行く通り名であり、昔に組町とて足軽もあつて、こゝに組屋敷制度が設けられ一番町、二番町、三番町と武士の組屋敷と付属の菜圃があつたところである。とにかく小川或は北川の姓を名乗る武家は川越に住居していた。
 また町屋には昔で姓名を遠慮しているが、喜多川はなく、喜多(北)町と称する町は城下にある。当時に城下町は繁昌し、川越平など名産とされ、喜多川守貞の漫録にも遺されてある。
 専光寺過去帳にある笹屋五兵衛との消息は判明しないが、川越には昔から笹屋を称する商家が何軒かあつた。現今でも穀問屋に笹屋があり、また笹源という古い餝職がある。昔に江戸で餝職を伝習した際、その本店が笹屋の屋号であつて、暖簾を分けてもらつたという。
 昔から川越では云い伝えに喜多川歌麿の出生説は根強くのこされている。その版畫も沢山に保存され、川越大火(明治二十六年三月十七日)のさいに、竹籠のつづらに入つた錦絵を火中から運びだして、中に歌麿の作品が多くあり、当時にこれが二百円にも売れて、焼失後に家屋の新造が出来たという逸話がある。 
 昔から川越の仙波には九月一日に虫追いの行事が催されている。いまも武蔵野の美しき風物が野に遺されてあるが、歌麿の傑作畫冊たる虫づくしなどその動態が写実的に描写され、よほど野のあぢを知つた人と思い出され、草露の中に虫の鳴く音を聴く美人の風情も巧みに描かれている。
 これらを想察し、また前記の小川市太郎、川越生れの説と綜合して、宝暦の頃の小川才兵衛の存在もあつて何等か一筋の縁があろうか。ここにまた笹屋という屋号の家もある。これが江戸の笹屋五兵衛に関係があろうか。二百年前の生れとて全く謎のごとく、これ以上の史実の調査と結論が得られず遺憾ながら出せない。示教を待つのみで川越の生れの云い伝えの裏付を多年に捜査している。
 秋元侯は明和四年に山形に国替であり、このあと松平大和守侯が川越に国替で城主と交換があつたから、万一に彼が前記の小川家のごとき武家出身とすれば、その後の関係が土地と離れて以上のごとく史実に乏くなつて、ここに疑問点を深めることである。また川越は歌麿が生れたとしても偶然ではなく、小江戸と称されし城下であつて、近代にも橋本雅邦や挿畫家の小村雪岱も川越藩士の出身であり、また院展の小茂田青樹も城下の商家の子に生れている。喜多川歌麿の出身地としても恥かしくない土地であろう。

「写楽 仮名の悲劇」 梅原猛 新潮文庫 1991年 ★
 彗星のごとくデビューし、わずか十か月で歴史の闇に消えた謎の画家写楽。ドイツ人クルトによって世界三大肖像画家の一人に数えられながら、その実像は今なお知られていない。正体は誰か。大胆な着想と実証的方法によって、これまでの諸説を論破するとともに、思いもかけぬ人物を写楽と指名。江戸浮世絵界の秘められた謎に挑戦する、スリルとサスペンスにみちた梅原日本学の新展開。(カバーのコピー)
第三章 版元蔦屋をめぐる三人の天才
    歌麿は写楽ではありえない

 さらにこの蔦屋の周辺に、当時すでにその活躍の頂点にあったもう一人の天才がいた。もちろん喜多川歌麿(1753〜1806)である。歌麿については、蔦屋や京伝と違って、彼がどこで生まれたか、彼の父母は何という名前で、どのような職業についていたか、彼には家族があったかなかったか、ほとんどわからないのである。だいたい浮世絵師の伝記は不明な点が多い。それは浮世絵師が、当時の文筆に従事する教養人からみれば、とるに足らないいやしい存在であり、従ってその伝記を書こうとする文人もいなかったことに由来するが、歌麿の場合はとくにひどい。馬琴の語るように彼には妻もなく子もなく、また門人にもすぐれた人がなく、全く孤立した存在であったからであろう。彼の師は鳥山石燕(1712〜88)であり、この鳥山石燕は黄表紙の創始者恋川春町(1744〜89)と浮世絵師栄松斎長喜(生没年不詳)の師とも伝えられる人物である。百鬼夜行の絵を残した石燕は、歌麿を子供のときから知っていたようである。それで、歌麿は鳥山石燕の子であるとの説もあるが、その確証はなく、彼の出生地には川越説、大阪説、京説があり、いずれとも確定しがたいのである。ただ彼について確定的にいえることは、彼が実におびただしい錦絵をはじめとするすぐれた絵を残したことである。彼の最初の黄表紙の挿絵は安永7年にはじまるが、彼が絵師としての才能を認められたのは、天明6年からはじまる絵入り狂歌本の挿絵によってであろう。特に天明8年出版の狂歌絵本『画本虫撰』(えほんむしえらみ)の彩色挿絵は、彼の画家としての才能を十分に発揮したものといえよう。このような狂歌の挿絵で歌麿の才能を認めた蔦屋は、彼に美人画を描かせて、思う存分その才能を発揮させたのである。

    歌麿の異常な嫉妬

「謎の近世画家」 瀬木慎一 総美社 1981年 ★
 喜多川歌麿
 浮世絵といえば、歌麿というくらいに名高いこの画家だが、文化3年に亡くなった後、かれの存在は間もなく人々によって忘れられたらしく、その墓が、浅草新堀端の専光寺にあることが発見されたのは、明治35年のことであった。これは驚くべき事柄ではなかろうか。
 歌麿には身寄りとしては、早くに亡くなったおいよという妻のあったことが知られるのみで、子供もなく、弟子らしい弟子もなかったために、死後、忘れられたとおもえるが、それにしても、浮世絵の歌麿として、江戸期全般を通して、盛名をはせたかれのことである。それほどまでに浮世絵師というものは、社会的に軽んじられていた身分だったのであろうか。
 墓が発見されたとはいっても、残されていたのは土台だけであり、寺の記録によって、その命日がようやく、文化3年9月20日であることが知られたというのも、痛ましい。
 歌麿の生年は、正確には知られていない。これも明治になってからの文献であるが、関根只誠の『名人忌辰録』に、没年が53歳とあるところから、逆算して、かれを宝暦4年の生まれと、仮りに定めているだけの話である。
 そんなふうだから、どこで生まれたのかも不明である。のち、かれが「忍岡歌麿」と署名したことをもって、上野忍岡の生まれとする説もあり、また、武州川越の生まれとする説もある。
 かれが、どのような径路で浮世絵の世界に入ったかは、当然のこととしてわからない。天明6年の摺物に、勇助という署名があるところから、本名をそういったことがわかり、また天明8年の『画本蟲撰』に鳥山石燕の跋があり、そこにかれが幼いころからの門人であると記されているのが、注目される。かれのもっとも早い作品で、われわれに知られているのは、安永4年、22歳のときの、中村座の顔見世狂言に使われた富本正本『四十八手恋所訳』の表紙絵である。これには、北川豊章という署名がある。
 初期の作品は、すべてこの署名で描かれている。安永5年秋、市村座で配った大判の墨摺物「市川五粒名残り惣役者ほっくしう」、翌6年の8月狂言「仮名手本忠臣蔵」の芝居絵本、7年春と8年3月に市村座で使った「つらね」の正本の表紙絵――こういった仕事が残されているところを見ると、かれは、もっぱら、芝居関係の版下絵師として、生計を立てていたようにおもわれる。安永7年6月から7月の、善光寺の江戸回向院への御出張に際して刊行された、窪俊満との合作の黄表紙「通鳧寐子の美女」(かよいけりねこのわざくれ)が、この方面での処女作である。このころから、他に洒落本、噺本、読本を手掛けるようになり、細判の役者絵も描くようになる。
 春信の場合に見たように、浮世絵師には芝居関係の、零細な仕事を求めて出発する人が多い。歌麿も例外ではなく、20代のかれには、まだ、お得意の女絵はあらわれてはいない。これも驚くべきことではなかろうか。
 歌麿がチャンスをつかむのは、天明元年、28歳となったときに、5歳年上の戯作者清水燕十(別名、唐来参和)と知り合い、彼とコンビで仕事をしはじめてからである。すなわち黄表紙『身貌大通神(みなりだいつうじん)略縁起』がそれで、そのはじめに「忍岡数町遊人うた麿叙」とあって、ここでかれは、はじめて歌麿と名乗っている。なお、この本は蔦屋重三郎によって刊行され、ここから、かれと蔦屋の親密な関係がはじまる。つまり燕十がかれを、重三郎に引き合わせたというわけである。
 蔦屋は、安永3年に吉原大門口五十間道左五軒目に、細見茶屋として開店した新興の版元だったが、「吉原細見」で大いに当てて、天明4年には、日本橋通油町の地本問屋街に引き移ることになる。ちょうどその過渡期に、かれは重三郎を知り、その理解を得て売り出されるのである。蔦屋の背後には、遊里と、遊里を根城とする、当時全盛の狂歌人の諸グループがあった。
 歌麿は蔦屋の知遇を得ると一挙に変身し、たちまち、その方面の画家となって再出発した。こうしてかれは、30歳をすぎて、はじめて美人画に手を染め、31歳になって、春画を描いた。かれは、生涯に約千種の美人画を描き、450種の春画を描いて、美人画家として大成したが、もしも蔦屋と接することがなかったならば、恐らく二、三流の、芝居関係の版下絵師として終わってしまったことだろう。
 美人画家として、歌麿が進出するのは、天明の末年からである。天明年間といえば、美人画の領域では、清長の全盛期であった。その清長の筆力に、ようやく衰えが見えはじめる頃に、入れ替わるようにして、歌麿が進出する。
 歌麿の女絵が清長のそれと異なる点は、一口にいって、現実感がいちじるしく強まっていることだろう。描写そのものがリアリスティックになっているのはもちろんだが、題材の点でも、かれが描いたのが、ほとんどすべて市井の女であり、遊里の女ではなかったという点が見逃せない。かれがその種の女を取りあげるようになったのは、もっと後のことである。
 歌麿というと、青楼の美人を描いた画家という印象が強いが、少なくとも若い時分のかれはそうではなかった。この辺が、かれの人間を考えるときに重要となる点で、小説や芝居に描かれているような遊冶郎で、かれがあったかどうかが疑われる。
 いったん女を描き出すと、かれはそれに没頭し、そればかりを描き、女とともに生きたが、その態度は、むしろ認識者、観察者としてであったようにおもわれる。
 かれの女性観察を、もっともよく示した絵画形式は、大判大首絵だった。清長において理想的に描かれた全身の女性が、ここでは、半身をクローズ・アップされ、瓜実顔の特徴をもって、この上もなく現実的に描写されている。大首絵は、歌麿の発明したものではないが、かれがそれを完成し、自分にぴったりした形式として、最大限に活用したといっていい。
 かれの代表作である「婦女人相十品」と「婦人相学十躰」のシリーズは、寛政2、3年に制作されたと考えられるが、そこに、「相観歌麿考画」とか「相見歌麿画」といった款記が見られる。相観、相見という言葉は、これまで、絵画には用いられなかったもので、かれの独創になるものである。つまりかれは、女性を風俗として描くのではなく、人間として描こうとしたところから、このような考えに到達したにちがいない。考画という言葉も珍しい。
 さきほどわたしは、歌麿を遊冶郎でないと述べたが、もしかれが、通常の美人画家であったならば、こうした考えを抱くことはなかっただろう。終始、青楼の美人を華麗に描いて、もっと早くから、人気を博していたことだろう。
 かれは女性を美として描いたが、その反面で、醜とおもえる面まで突っ込んで描いている。「北国五色墨」の「てっぽう」などがそれである。美も醜もふくめて、女性的世界を隈なく描いたのが歌麿である。その女性的世界も、ありとあらゆる種類、性格の女性に及んでいて、けっして遊里の女だけに限られてはいない。かれは母子の主題もよく描いているが、それを見ると、春信の世界がおもいうかぶほどである。
 こうして、爛熟した女性的世界を徹底的に描いて、かれは寛政初期には、もっとも人気のある浮世絵師となった。ところが、そこに突如、寛政の改革令が下され、思いも寄らぬ逆境に直面する。
 かれの作品を一手に販売していた蔦屋が、槍玉に上げられて、身上半減の極刑を受けた事件などは、かれを震え上がらせたにちがいない。その後の数年、かれは、故実の漢画や花鳥の狂歌絵本といった、当たり障りのないものを描いて、一時を糊塗する。一枚絵でも、「江の島図」「琴棋書画」「大川舟遊び」「御殿図」といった主題が目立つ。
 もちろんこんな作品ばかりでなく、この苛烈な一時期にも、「婦人泊り客」や「鮑取り」のような傑作を描いてはいる。とはいえ、改革がこの画家に与えた影響は、極めて大きいものがあった。
 寛政5年、松平定信が隠退し、改革が中絶して再び社会がゆるやかになると、歌麿の活動が再開されるが、そのときのかれは、まるで人が違ったような別の面を示す。
 まずかれは、これまでの専売先であった蔦星(ママ)から離れて、他の多くの版元から作品を出しはじめたこと、第二に太夫であれなんであれ、註文に応じた美人画を濫作しはじめたことがあげられる。
 歌麿のいわゆる頽廃時代が、こうしてはじまる。といってもこの時期にも、「娘日時計」のような傑作をかれは制作しており、かならずしも、すべての作品の質が低下したわけではない。
 しかし改革を一つの転換期として、時代が一巡したことは確かである。とくに寛政の中期から次の世代が台頭し、それに押されはじめたことは、否定できない。豊国と写楽の出現、北斎の進出によって、時代は確実に進展する。そしてかれらの存在が、かれにはよほど目障りであったらしく、その忿懣を、事もあろうに作品のなかでぶちまけるのである。
 「錦織歌麿形新模様」や「兵庫屋花妻」のなかに書かれた、かれの画論ともいうべきものは、恐るべき毒をふくんでいる。
 曰く「近世この葉画師、只紅藍の光沢をたのみ快敷形を写」
 曰く「日追て五体の不具を顕し」
 曰く「自力画師歌麿が筆に御面かけの如く心うこき」
 曰く「画に見寸見と言事有、容愛と美相のふたつ有時は人情伝染する」
 曰く「誠に美人画は歌子にとどめ」
 曰く「依て予が筆料は鼻とともに高く千金の太夫にくらぶ」
 これらの言葉から察するに、歌麿には最高の美人画家としての、よほどの誇りがあったのであろう。それにしても作品中に、これらのうらみつらみの言葉を書きつらねるとは、きわめて異常といわねばならない。どんな人気作家にも凋落というものはあるのである。
 晩年の歌麿は、江戸中の版元から作品を刊行し、けっして人気が衰えたわけではなかったが、自分の考える時代とは違う時代が現出し、主観的には不幸であったとおもわれる。人間には、どうやら、自分の時代というものがあるらしく、たとえ、人気が持続していても、それを自覚するときには、不幸の感情に陥る。だから、たとえ長期に人気を維持していても、その間ずっと、かれは幸福であるというわけには参らない。
 そのうえかれは、一つの事件に出会す。かつての寛政の改革のときには、無事にすごすことのできたかれだったが、文化元年、岡田玉山の『絵本太閤記』に取材した三枚続きの「太閤洛東五妻遊観」と武者絵の揃物を刊行したところ、意外にも当局のとがめを受けることになり、2日間入牢のうえ、50日の手鎖の刑に処せられた。
 「太閤洛東……」は今も残っており、作品を見る限りでは、一種の歴史画であり、なんらの寓意も読みとれない。こういうものが、なぜ物議をかもしたのか、不可解というほかないが、ともかくかれは、きびしく処罪されることになる。時代は、しかも文化という平和なときである。青天の霹靂とは、まさしくこのことをいうのだろう。
 これが、歌麿にとって、非常な痛手であったことは、疑う余地がない、女を描くというようなことは、一見安易なことのように考えられるが、歌麿の徹底は、当時の儒教的倫理につらぬかれた社会に対しては、激烈な反倫理的な挑戦だったのである。この事件からわずか3年後のかれの死は、あるいは、人々には危険なものと映じたかも知れない。馬琴は『後の為の記』のなかで、こう書いている。「歌麿には妻もなし、子もなし、没後無祀の鬼となりたるべし」

「日本美術事件簿」 瀬木慎一 二玄社 2001年 ★
美に極刑、申し渡す。切腹、惨殺、狂死に憤死…権力に翻弄された芸術家の理不尽な受難、はたまた自業自得のスキャンダルや国際的センセーション。近古から現代におよぶ御術史上の「事件」と呼びうる出来事に鋭くメスを入れる、渾身の書き下ろし23編。(帯のコピー) 
V 江戸後期篇/喜多川歌麿――美人画絵師の非業の政治死
 浮世絵の代名詞のような高名な絵師である。その美人画は、あまねく知られている。
 ところが、まことに奇妙なことに、その人については、まったく不思議と言う他ないほど分かっていない。
 生年は、多分、宝暦5〜8(1755〜58)年の間と推定される。生地は江戸、川越、京都と諸説あって、一向に定かではない。
 どういう家に生まれたかは想像だにできないが、早くから絵画を志し、狩野周信の門から風俗画家として独立した鳥山石燕(せきえん)に師事し、十代の中頃から各種の本に挿絵を入れる仕事に従い、20歳すぎの天明元(1781)年に新興版元の蔦屋重三郎に会い、黄表紙「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)を託され、この時から前名の豊章を歌麿に改める。
 これを機会にこの二人は結束し、本類と並行して錦絵の刊行に踏み切り、めきめきと進出する。春信に始まる錦絵は、その影響を受けた次代の絵師を経、続いて役者絵の鳥居派から美人画へと転じた先輩の清長に対抗する形で、この歌麿が活躍することとなって、盛況に達する。世間では、ともに無名の版元と絵師とが提携して打ち出した新機軸を、さぞかし驚異の眼で見たことだろう。
 この協力なコンビに思いがけない異変が生じたのは、寛政3(1791)年3月だった。蔦屋が刊行した山東京伝の洒落本三部作が、松平定信の施行した寛政の改革に触れて、手鎖50日に処せられた作者と一環の関係で、版元にも身上半減という厳しい断が下される羽目になる。
 それからの約3年間、歌麿の仕事はほとんど見られない。版元が受けた打撃が余りにも大きかったに違いない。だが、それにめげることなく、このコンビは同5年になると復活し、歌麿においては、その代表作と言える美人画の傑作が一気に世に出される。「寛政歌麿」という評価が決定的になるのは、この高揚した雰囲気を以てである。
 ところが奇異なことに、そのなかに早くも他の版元の出版物が混じっていることで、「青楼仁和嘉女芸者之部」(せいろうにわかおんなげいしゃのぶ)は、事もあろうにライヴァルの大店鶴屋の手に成っている。これ以来、他版のものが入れ代わるようにして急速に増加し、蔦屋のものは見られなくなる。一体、長年の連帯に何が起こったのだろうか。
 一つ考えられるのは蔦屋のいちじるしい衰退であり、また、対照的な絵師の側の人気高騰に伴う独往である。この時期に、本来、吉原関係の柔らかい出版物を看板にしてきた蔦屋が、まったく無名の東洲斎写楽なる絵師を唐突に起用して、硬質の役者絵を大量に刊行するという事態が発生するのも、まことに不可解である。この相互の転換は、何を意味していたのか。
 それはさて措くとして、これ以降歌麿は、それぞれ異なるところの多い20幾つという版元から錦絵と本類を矢継ぎ早に出版して、人気を維持しつつ、当然の濫作に陥る。
 この晩期の作品では、内容において依然として美人を主としているとはいえ、異質な題材、例えば宗教、道徳、説話に関係したものを相当に取り込んでいることが目立つ。濫作の結果と見ることができようが、それ以上に、なお引きつづく改革の影響を考慮してのこととも考えられる。
 こうした慎重な態度を保持していたにもかかわらず、歌麿の一身を思いもよらぬ災難が襲う。享和3(1803)年から翌年に発して、出版界では、どういう風の吹きまわしか太閤記に基づく錦絵が続々と世に出て、一種の流行を呈する。正確に見ると、上方で岡田玉山の「絵本太閤記」が大受けして、その反響が江戸にも及んだ結果と言ってよく、勝川派では春英、春亭、歌川豊国、そしてこの歌麿と弟子の月麿が、競うようにそれを手掛ける。
 玉山は大坂の大家月岡雪鼎(せつてい)の弟子で、法橋(ほつきょう)にも叙せられたが、他面では当時挿絵の第一人者であり、版本史に大きな足跡を残す。(石田姓を冠せられることがあるが、それは二世玉山との混同である。)この画家の手になる7編84冊の絵本が江戸まで押し寄せてきたこと自体、華々しい現象だったところへ、錦絵が多数刊行される盛況を幕府は放置できなくなった、ということだろう。
 そもそも主題が、徳川家には好ましくない豊臣秀吉の英傑物語である。そのなかの一つ、歌麿の描いた文字通り華美を極めた三枚続きの「太閤五妻洛東遊観之図」(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)(巻頭口絵1:略)を、見ると、秀吉の傍らに、酒を捧げる稚児髷の石田三成がおり、その宿敵の姿が眼に触ったことは十分に推察される。私たちが今日知るのは、この一図と「真柴久吉」(ロンドン大英博物館所蔵)と題された単独の一枚であり、ここでも秀吉に手をとられた三成の稚児姿が描かれ、背後で二人の男女が顔をしかめている。昔の文献を覗くと、酒宴中の加藤清正の前で三人の朝鮮の妓女が三弦を弾じている図があると記されており、もし歌麿作ではないにしても、その種のものもあって、前例のないこの大がかりな絵師の処罰が断行されたのだろう。文化元(1804)年5月16日、風俗壊乱を理由に、版元は絶版没収の15貫文の科料に、歌麿は3日間拘留後、50日の手鎖の刑に処せられた。前記の絵師たちも同様で、十返舎一九も関わった模様である。
 この事件による打撃もあって、歌麿はその後若干の仕事はしたものの、急速に疲労して、2年後の同3年9月20日に死去する。生涯をもっぱら美人を描いて耽美的に過してきた絵師が、最後の段階で政治に絡む突発事件のために命を縮めることになったのは、飛んだ災難と言わなければならない。生年が確かでないので、享年もまた明らかではないが、53前後と推定される。その墓は、その後間もなく無縁のまま埋もれて、明治35(1902)年に発見された時には、台石のみになっていた。

図説浮世絵入門」 稲垣進一編 河出書房新社 1990年 ★
喜多川歌麿

江戸枕絵師集成喜多川歌麿 林美一 河出書房新社 1993年 ★★
[研究編]
喜多川歌麿の生涯
その出生
(B)川越説――明治二十七年刊関根只誠編「名人忌辰録」に「武州川越の人、文化二巳年五月三日歿す。年五十三」云々とあるによるもので、野口米次郎氏をはじめ水谷不倒・築比地仲助・高橋鐵氏ら(いずれも故人)も、この説を支持される如くである。これに対し故吉田暎二氏は「喜多川の畫姓より逆に考へての憶説ではないかと思われる」と昭和十九年刊の『浮世絵辞典』上巻で述べておられるが、何分にも「名人忌辰録」自体が著者只誠氏の歿後の刊行なので、氏がいかなる資料をもとに発表されたのかだたす由がない。吉田氏が喜多川の画姓より逆に考えての憶説かとされるのは、川越に岩佐又兵衛勝以筆の国宝「三十六歌仙圖額」があることで知られた川越東照宮や、天台宗の古刹として知られた喜多院があり、喜多川の画姓はそれからの連想ではないかと考えられるからであろう。築比地仲助氏は雑誌『浮世絵草紙』昭和二十一年九月号に於て、川越を調査された結果、(一)同地には現在も北川の姓が多いこと。(二)親藩であった為に江戸との交通が密であったこと。(三)名刹喜多院のあること。などをあげて、歌麿の両親のどちらかが北川姓だったのではなかろうかと述べておられる。
 事実川越に出かけて見ると、郷土史家の間では、歌麿の川越出身は定説化しており、飯島謙輔著史実江戸の母川越』(昭和二十四年刊)なる小冊にも、
浮世絵界にその名を知らるるかの青樓畫家喜多川歌麿こそは川越出身であり、その関係からか昔川越には歌麿の絵が沢山あったらしく、某家では明治二十六年三月十七日の大火の直後、歌麿の絵を売って土蔵を再築したときいている。
という記事が出ている。川越中央公民館長の岸傳平氏が歌麿について研究されているとうかがったのでお訪ねしたが、川越には故老の間で古くから、「歌麿は川越だよ」ということが言われていたそうである。古くからといっても、何時頃の事かよくわからないが、或いは江戸時代ではなく明治というようなことかも知れない。前述の歌麿の絵で土蔵を再築したという話も、岸氏の友人の祖母に当る人のことで、大切に葛籠に入れて一杯あったそうで(だから肉筆ではなく錦絵だったと思われる)、当時の時価で二百円に売れ、「これも歌麿のおかげだ」と大喜びだったという。しかしこれも歌麿の絵を愛したこの家の先祖が、江戸からの土産に買ったものに過ぎなかったかも知れない。岸氏の研究によると、川越には藩制時代から町家には喜多川の姓なく(町名には喜多町というのが今も残っている。隣接に南町があるから本来は北町と称したのを、喜多院の縁でかえたのだろう)、藩の家臣の中には北川才兵衛・喜多村伊右衛門・北川與兵衛・北川安蔵などと称する者がある。しかし、あるというだけで歌麿との関係は何もない。現在も電話帳を見ると喜多屋加工所とか喜多製作所とかいう名前が見えるが、これらも喜多院にちなんだだけのことと思われる。川越と江戸の交通は新河岸川を利用した川越夜舟が盛んであったが、これは本来川越藷の積出しのための舟便で、客を運ぶようになったのは天保年間(1830〜44)からだから歌麿の時代には関係がなく、川越街道をテクつくしか仕方がなかった。もっとも、その便利といわれた舟便も、早舟で午後三時に川越の新河岸を発ち、翌朝八時に千住大橋に着くのだから、二十時間も要したわけで、下り舟でさえこれだから上り舟は更に時間がかかり利用する者もなかったという。いずれにしても何かありそうには思えるのだが、川越と歌麿を具体的に結びつけるものは何もない。岸氏は川越の仙波には古来毎年九月一日には虫占いの行事があり、歌麿が『画本虫撰』の如き作品を発表し得たのは、江戸に在っては不可能で、こういう行事によって観察した結果であろうし、川越からは橋本雅邦小村雪岱なども出ており、由来画家には縁の深いところだから、歌麿の出生も故なしとしないといわれる。こうなると、もはや研究のワクをはみ出してしまうのだが、あまり私が確証は確証はと追求するものだから、話の途中でとうとう岸氏を立腹させてしまった。が以上でもおわかりのように論拠が甚だ薄弱なのである。「正編」で述べたように自作の艶本の中に、あれだけ栃木のことに触れた歌麿であるから、もし川越にも何度も出かけていたならば、必ず何らか作品の中に手がかりを残していたことであろう。「名人忌辰録」の説も、歿年を間違っているくらいだから、川越出生説だけを切離して無条件に信用するわけにはいかないのである。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)
1753〜1806(宝暦3〜文化3)江戸後期の浮世絵師。
(生)武蔵国川越・京都・江戸説など種々あり定説はない。
(名)信美、幼名市太郎、のち勇助または勇記、はじめ北川豊章。
 鳥山石燕の門に学び、勝川春章・北尾重政・鳥居清長ら先輩の作風に私淑して修行時代をすごした。1784(天明4)下谷池端忍ヶ岡に寄寓していたおり、版元蔦屋重三郎によって見いだされる。初期には黄表紙や洒落本のさし絵を描き、特に風景画は精密な自然描写にすぐれたものをのこした。1791(寛政3)まったく新しい<美人大首絵>を発表し世人の注目を集める。大判錦絵の画面いっぱいの構図法は、それまでの美人全身像とはうって変った女性美の理想的表現法で、ことに白雲母摺の技法は、女性の肌の白さや、柔らかさを表現するうえで効果をあげた。難波屋おきた・高島屋おひさら水茶屋の看板娘を描いた「寛政三美人」などが代表作である。歌麿の人気は、その版下絵を求めた出版元が40数軒を数えたことでも知られる。しかし、老中松平定信の寛政改革の厳しい政治的圧力の前に屈し、入牢3日、手鎖50日の刑を受け、その芸術的生命にとどめをさされた。
(参)野口米次郎「喜多川歌麿」

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)
1750〜97(寛延3〜寛政9)江戸後期の出版業者。
(系)江戸吉原丸山重助の子。喜多川氏の養子。(生)江戸。(名)喜多川柯理、重三郎は通称、狂名蔦唐丸(つたのからまる)、屋号耕書堂蔦屋。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 鳥山石燕(とりやま せきえん)
1712〜88(正徳2〜天明8)江戸中・後期の浮世絵師。
(生)江戸。(名)本姓佐野氏、名を豊房、別号を船月堂・零陵洞・玉樹軒・月窓。
人物描写を得意とし、江戸浅草観音奉納の「中村喜代三郎図」や、雑司ヶ谷鬼子母神奉納の「大森彦七図」などは、その代表作である。門人は極めて多いが、中でも喜多川歌麿・栄松斎長喜らは特に有名である。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 志水燕十(しみず えんじゅう)
生没年不詳。江戸後期の戯作者。
(名)通称鈴木庄之助、号を志水裡町斎・子津奈蒔野馬乎人。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 唐来三和(とうらい さんな)
1749〜1815(寛延2〜文化12)江戸後期の狂歌師・戯作者
本姓加藤氏、通称和泉屋源蔵。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 野口米次郎(のぐち よねじろう)
1875〜1947(明治8〜昭和22)明治・大正・昭和期の詩人。
(生)愛知県。(学)慶応義塾中退。

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作成:川越原人  更新:2013/12/24