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粂八からの手紙をみた平蔵は、みずから川越へ出張ることにした。
平蔵は、城下の上松江町に住む旧知の町医者・藤田伯安の屋敷に着き、ぐっすりと眠ったあと、一里半ほど離れた粂八たちが隠れている場所へ行った。
状況を見た平蔵は、川越藩に助けてもらうことにし、奉行所へ手紙を届けさせた。町奉行・井坂文右衛門は急ぎ手つづきをすませ、捕方三十余名を出した。
この捕物陣が荒れ寺を包囲した。このとき、平蔵たちが討ち取り、または捕らえた盗賊は、合わせて十八名におよんだ。
そのなかには友五郎もふくまれていた。
なお著者は、川越船頭と新河岸川の舟運について、1ページを費やして説明しています。
俗にいう〔川越船頭〕とは……。また、平蔵の口から、舟唄「千住節」の一節がでてきて、粂八がおどろく場面があります。
武州の川越(埼玉県川越市)と江戸を結ぶ新河岸川の舟運にはたらく船頭のことであった。
徳川三代将軍・家光のころ、江戸幕府の重鎮・松平伊豆守信綱が川越の城主となってより、川越城下の発展が密接に江戸とむすびつくことになった。
松平信綱が、双方の商品流通の便をはかるため、陸路のほかに水路をひらくことに決め、川越城外の伊佐沼から発する新河岸川をこれにあてて、河岸場を設けたのは正保四年のことだ。
新河岸川は、荒川の西方を六、七町ないし一里ほどの間隔をもってながれている。
新河岸川は、荒川と略並行して武蔵野をながれ、やがて、川ノ口(現和光市・下新倉)のあたりで荒川へ合流する。
だから川越の船便は、ここから荒川へ入り、江戸の千住へ着き、さらに終点の浅草・花川戸まで通うことになったのである。
川越城下の南、約一里のところにある新河岸の河岸場が、その起点となり、ここが川越城下の外港として繁盛したわけであった。
はじめは、川越藩中心の舟運であったが、そのうちに、商品経済の発展につれ、一般の荷物をもはこぶようになったのである。
川越から江戸へ積み出す物は、醤油、綿、穀物、炭、杉皮、素麺、石炭などで、江戸からの帰り荷物は、油、呉服物、砂糖、生麩、酒酢、荒物、小間物など多彩をきわめた。
新河岸の河岸場には、十余の船問屋があって、高瀬船の持舟と船頭をそれぞれに抱えている。
武州川越無宿嘉七が小室(埼玉県北足立郡伊奈町)の、関東郡代伊奈陣屋から、宿継ぎで江戸本所花町の長谷川平蔵の役宅へ、護送されてきたのは、寛政二年(1790)五月のことであった。
護送にあたり嘉七を吟味したのは、平蔵の与力中島段蔵であった。吟味とは取り調べのことだが、中島は上尾から蓮田にかけて、押し込み強盗を働く一味の逮捕に、配下の同心六人を連れ伊奈陣屋へ出張っていた。
吟味の結果嘉七は強盗一味とは無関係と分かったが、窃盗犯であったので陣屋で厳しく取り調べたうえ、嘉七の口書をつけて、身柄を送った。口書とは自供書のことである。
平蔵は嘉七を役宅の仮牢へ入れておいて、口書に目を通した。口書によると、上尾の宿外れの棟割り長屋に住む、一人暮らしの大工の長兵衛は、外仕事の日雇いを頼まれていたが、入梅の前触れの朝からの雨で仕事にならぬので、暇潰しに蚊帳や夏物の着物を出しておこうと、押し入れからつづらを引っ張り出して、びっくりし仰天した。
つづらの錠前がこじあけられ、蓋を開けてみると、中味がそっくり無くなっていたからであった。
青くなって宿役人の家へ駆け込み、
「錠前つきのつづらにしまい入れておいた、着物や蚊帳に布団綿を空き巣狙いに、持ち逃げされた」
と届け出た。
宿役人は、小室の関東郡代伊奈陣屋へ、被害届けを出した。
伊奈陣屋にいた中島は、
「つづらの錠前をこじあけた、荒っぽい手口からすると、追っている盗賊一味の仕業かもしれぬ」
と思ったが、叩き大工の空き巣を狙うようでは、やきが回ったな、と陣屋の手代とともに、同心の山下吉弥を行かせた。
二人が長兵衛の家へ行くと、長兵衛はつづらを前にがっくり肩の力を落としてした。
手代は宿役人に命じて、上尾の岡っ引きの善蔵を呼びにいかせた。善蔵はすっ飛んできた。捜査には土地の岡っ引きの協力が、欠かせなかったのである。
山下は御用帳を手に、聞き取りを始めた。
「つづらの中に入っていた品は何である」
「蚊帳と着物が二枚、布団綿と洗い張りの着物一枚、それと下着が三枚、それだけで」
山下は家の中を見回した。
九尺二間の棟割り長屋だから、一目で見通しで、他に目ぼしい品があったとは考えにくく、盗っ人の狙いはつづらだけだった。
だが蚊帳や着物と下着、布団綿となると、風呂敷包みにしてもかなりかさばる。
「いつ盗まれたのか見当はつかぬか」
「去年の秋、冬物と入れ替えたきり、つづらは押し入れにほうりっぱなしにせておいたんで。いつと言われても、心当たりはねえ」
「最近夜留守にしたことはないか」
「ごぜえません」
「すると盗み出したのは、昼日中ということになる。かさばった荷物を背負い、上尾の宿を出て街道をうろうろすれば、怪しまれる。盗み出した品は上尾で処分するか、犯人は上尾の者で家で隠し持っているかも知れぬ」
「違えねえ」
早呑み込みをした善蔵は、外へ飛び出していった。近所を聞込みに回り、しばらくすると戻ってきて、長兵衛に、
「おめえのところに、見かけねえ奴が居たそうじゃあねえか」
「へい。嘉七でしたら、二日ばかりいやしたが、どうかしたんで」
「どういう知り合いだ」
「一膳めし屋で知り合った奴で、あっしが大工と知ると、棟梁棟梁と言い出すんで、おれには弟子はねえ、棟梁とは違うんだ、といっても、棟梁棟梁と抜かすんで」
「棟梁でないことはわかった。その先を申せ」
「へい。野郎の話によると、川越で大工をやっていたが、飢饉のあおりで仕事はさっぱりなく、出稼ぎにやってきたというんで」
飢饉とは天明三年の暮れの農作物の不作にはじまり、凶作は四年五年六年七年と続き、昨年の秋の収穫が平年並みであったことから、幕府も終息宣言を出した。
だが飢饉の後遺症は残ったままであった。
「ところが野郎は大工道具を持ってねえから、出稼ぎにしちゃあ変だなと思ったが、道中空っ腹を抱え背に腹はかえられぬので、途中古物屋に売り払ったというんで、仲間に働き口を頼んでやる、見つかるまで俺のところにいるがいいや、と連れてきたんで」
「どこの馬の骨か分からぬ者を、泊めてはならぬと、お触れが再三出ておる、知らぬはずはあるまい」
「同業と分かったんで、野郎の泣き言についほろりとさせられたんで」
「まあよい、そのあとはどうした」
「一晩泊まったが、あっしが仕事に出かけると、そのまま居なくなったんで、妙な野郎だなと思っていると、五、六日したら朝やってきたんで。ちょうどあっしが仕事で一日家を空けるところだったので、留守を頼んで居てもらいやした」
「嘉七に留守を頼んだというのか。そしてどうなった」
「仕事を終えてけえってみると、野郎がいねえんで」
「妙だとは思わなかったのか」
「前のこともあるんで、断りなく出ていくのは、野郎のくせかなと気にもしねえが、それがどうかしたんで」
「どうかしたもない。盗み出した犯人は嘉七という野郎だ。つづらの中味はそっくり質屋の伊勢屋のお蔵に、質草に入っている」
「持ち出したのは嘉七? 人の物を持ち出すようなワルとは思えねえ」
長兵衛は信じられぬという風に、首をひねった。
嘉七は無宿者であった。長兵衛に留守を頼まれたが、暇潰しに押し入れを開けてみると、夜具の下につづらがあるのを見つけた。錠がかかっているので、金目の品でも入っているのかと、錠をこじ開けてみると、蚊帳・布団綿・着物・下着が出てきた。
錠をこじ開けているので、もとにもどすことはできず、毒を食らわば皿までとばかりに、取り出した品を大風呂敷に包み、質屋の伊勢屋へ二度にわたって持ち込んだ。
質屋では質草をとる場合、新しい客だと、身許引受人の保証の一札か、不正の品でないことを証明する一札がないと、とってはならぬことになっていた。
嘉七は長兵衛に頼まれたので、といって持ち込んだ。伊勢屋は質草の着物を見ると、長兵衛が度々質入れした、見覚えのある品なので疑りもせず、質に取った。
嘉七は金を受け取ると、そのまま行方をくらました。
仕事先から帰った長兵衛は、嘉七の姿が消えていたが、不審にも思わず風来坊のことだから、気が向けばやってくるにちがいないと、呑気にかまえていた。
「ゆきずりの人間を泊めて、留守を預けるとは、おめえの人のいいのには呆れたぜ」
善蔵は渋い顔をした。
「伊勢屋で貸した金は、二両足らずだ。高飛びする気遣いはねえ。この近くをうろついているだろう。すぐお縄にしてみせる」
と自信の程をみせ、落ち込んでいる長兵衛の気を引き立たせた。
善蔵がお縄にするまでもなく、嘉七は飲む打つ買うで金を使い果たし、それから四日目に空っ腹を抱えて行き倒れ寸前に、伊奈陣屋へ自首して出たというお粗末な話であった。
平蔵は、火付盗賊改め役を拝命すると、屋敷内に仮牢と白洲をつくり、役屋敷と言った。嘉七はいったん仮牢入りになり、白洲の準備が整うと呼び出し、平蔵立ち会いのもとで、吟味与力の大林角兵衛が、再取り調べにあたった。嘉七は二十七歳といっており、取り調べには正直に答え、長兵衛から盗んだ件以外には余罪がないことがわかった。
平蔵は嘉七に向かい、
「出来心とはいえ、質入れして懐に入れたのは二両足らずだが、錠前を破ったのはいけねえなぁ」
と言って、眉間にしわをよせた。
「錠前を破れば、どんなお仕置を受けるか、知るめえだろうが、首が飛ぶんだぞ」
「首が飛ぶんで……」
嘉七は顔面蒼白、犯した罪の重大さを知らされて、がたがた震えだした。
『御定書百カ条』享保五年(1720)の定めには、「家の中に忍び入りまたは土蔵など破った者は、金品の多少にかかわらず、死罪」となっていて、錠前破りは土蔵破りの罪に相当し、錠を破れば盗み出した金品の多い少ないにかかわらず、死罪と厳しい法になっていた。
嘉七は家の中に忍び入ったわけではないが、つづらの錠をこわしているので、犯した罪は死罪に該当するのである。
驚きのあまり、腰を抜かして立てなくなっている嘉七を、牢番二人が両側から抱きかかえるようにして、仮牢へ連れていった。
牢番は車善七が支配する浅草溜から派遣され、食事に始まる一切を取り仕切った。
仮牢には二、三日から長くて四、五日置くだけで、その後は伝馬町の牢へ送ることになっていた。
「金品の多少に関わらず、錠をこじあけたからといって、死罪はちと酷すぎる。そうは思わぬか」
口書を大林のほうに押しやって、腕組みした。
「左様ですな」
相づちをうったが大林も、それ以上は口を挟もうとはしなかった。
平蔵の江戸市民の評価は、
<長谷川さまの裁きは、手っ取り早く、いちいち合点がいく。それに人情裁きがいいねえ>
と、南北町奉行を抜いて絶大の声望があった。
平蔵もそれを意識していて、ご法度だからと杓子定規に考えず、市民の立場にたって、公平な裁きを心がけていた。
嘉七の扱いについては、「死罪相当」の付箋をつけ、評定所一座へ伺いを立てた。
評定所一座は月番の勘定・寺社・町の三奉行で構成され、式日は毎月二日、十二日、二十二日と、三日開かれた。
当日は、京、大坂、駿府、甲府の町奉行、遠国奉行からの、民事、刑事の訴訟の扱いについての問い合わせを、審議した。
審議は江戸城殿中の空き部屋が使われ、公平を期すため人払いし、戸襖は開け広げて行うしきたりであった。
当日は各奉行から提出された伺い書を、前例と比較して慎重に審議していった。
嘉七の件については、
「この一件はふと知り合っただけの、身許のはっきりしない者に、留守を頼んだ方にも手落ちがある。伺いに<つづらの錠をこじ開けた>とあるが、土蔵の錠前をこじ開けたのとも訳が違うので、盗んだ罪だけを問い、入れ墨の上重敲き」
と、温情のある評決を下した。
扱いが平蔵だからよかったが、融通の利かぬ杓子定規の奉行の裁きにかかったら、嘉七の首は飛んでいたことであろう。