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鬼平犯科帳と川越


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「鬼平犯科帳(2)」 池波正太郎 文春文庫 1975年 ★
「谷中・いろは茶屋」
 木村忠吾は、平蔵の指名で、上野から谷中一帯の見まわりにでた。職務遂行中にも拘わらず〔いろは茶屋〕の娼家菱屋へあがりこむ。 一度きりのつもりが、そこの妓お松に惹かれ、いつの間にか熱度を加え、通い続けて一ヶ月を経た。今では、亡くなったおやじの残し金もつかい果し、 親類中から引き出せるだけのものは借りつくしてしまった。
 そんなとき、「お前の好きな男のためにおつかい」 こういって金十両を、ぽんと、お松にくれた別の客がいた。  なんでも武州・川越の大きな商家の主人だということで、菱屋では〔川越さん〕で通っている。
 川越の旦那は、お松にこういったという。
 「人間という生きものは、悪いことをしながら善いこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている……」
 川越の旦那、じつは墓火の秀五郎という、凶盗であった。

「鬼平犯科帳(6)」 池波正太郎 文春文庫 1978年 ★
「大川の隠居」
 平蔵は、秋口に入ってひいた風邪をこじらせ、高熱を発し、十日も寝込んでいた。
 その夢うつつのうちに、妻女の久栄が寝間へ入って来たな、とおもった。
 朝になって目ざめると、熱も下がり爽快であった。いっぷくしようとしたが、寝間の飾り戸棚に置いてあったはずの、亡父・宣雄のかたみの煙管がなくなっていた。
 その五日後、岸井左馬之助と市中見廻りに出た平蔵は、大川(隅田川)で老船頭の船にのった。 両国橋で、所用のためあがった左馬之助を待つ間、煙草を吸いはじめた船頭・友五郎の手ゆびにはさまれた銀煙管へ平蔵の視線がとまって、 (あっ……)と、おもった。(おれの煙管だ)
 この船頭は、上総・下総から江戸へかけて盗みばたらきをしていた〔飯富の勘八〕の右腕といわれ、一味の長老として勘八にかわり、大仕事のだんどりを一手に取りしきっていた、浜崎の友蔵という元盗賊であった。
 飯富の勘八は、盗賊としての生涯において、ただの一人も殺傷をせず、真の盗賊の掟をまもりぬき、六十二歳で世を去ったとき、武州・川越のわが家の畳の上で、女房と子たちにみとられつつ、大往生をとげた。 まさに、盗賊の〔手本〕というべきであろう。

「鬼平犯科帳(8)」 池波正太郎 文春文庫 1980年 ★★
「流 星」
 〔大川の隠居〕事件で、ほんのいたずらごころから、盗賊改方の役宅へ忍びこみ、平蔵愛用の銀煙管を盗み出した、老船頭の友五郎。 本名〔浜崎の友蔵〕は、盗賊・飯富の勘八の死後、一味の解散とともに足を洗い、若いころに川越船頭をしていたところから、その腕を生かし、加賀屋ではたらくようになった。
 飯富の勘八には、庄太郎という隠し子がいたが、友五郎が身柄を引き受け仮親になっていた。 盗賊一味は、その庄太郎をかどわかし、友五郎を仲間に引き入れた。
 友五郎は、武州・浜崎の生まれで、十五の年から川越船頭の修行をし、六、七年目に、飯富の勘八に見こまれ、盗の道へ入った。 友五郎の生まれた浜崎は、川越の南、四里半ほどのところにあり、新河岸川にも近い。
 小房の粂八は、平蔵の指示により川越に行き、ひと通り、川越城下や新河岸川の川すじをさぐりまわったのちに、新河岸川の岸辺の廃寺に的をしぼった。
 粂八が、この寺を見わたす新河岸川の対岸の榎の大木の下へ、莚を敷き、草の陰から、廃寺の全貌を見まもりはじめた。 その三日目の夕暮れ、川すじの北の方から、雁舟が一艘、しずかに近付いて来て、荒れ寺の下の岸辺へ近寄った。 舟をおおっている苫の中から友五郎があらわれ、その指示で舟は、岸辺へ突き出した荒れ寺の庫裡につづく棟の、高い床束の縁の下へ、すーっと消えた。

 粂八からの手紙をみた平蔵は、みずから川越へ出張ることにした。
 平蔵は、城下の上松江町に住む旧知の町医者・藤田伯安の屋敷に着き、ぐっすりと眠ったあと、一里半ほど離れた粂八たちが隠れている場所へ行った。
 状況を見た平蔵は、川越藩に助けてもらうことにし、奉行所へ手紙を届けさせた。町奉行・井坂文右衛門は急ぎ手つづきをすませ、捕方三十余名を出した。 この捕物陣が荒れ寺を包囲した。このとき、平蔵たちが討ち取り、または捕らえた盗賊は、合わせて十八名におよんだ。 そのなかには友五郎もふくまれていた。

 なお著者は、川越船頭と新河岸川の舟運について、1ページを費やして説明しています。

 俗にいう〔川越船頭〕とは……。
 武州の川越(埼玉県川越市)と江戸を結ぶ新河岸川の舟運にはたらく船頭のことであった。
 徳川三代将軍・家光のころ、江戸幕府の重鎮・松平伊豆守信綱が川越の城主となってより、川越城下の発展が密接に江戸とむすびつくことになった。
 松平信綱が、双方の商品流通の便をはかるため、陸路のほかに水路をひらくことに決め、川越城外の伊佐沼から発する新河岸川をこれにあてて、河岸場を設けたのは正保四年のことだ。
 新河岸川は、荒川の西方を六、七町ないし一里ほどの間隔をもってながれている。
 新河岸川は、荒川と略並行して武蔵野をながれ、やがて、川ノ口(現和光市・下新倉)のあたりで荒川へ合流する。
 だから川越の船便は、ここから荒川へ入り、江戸の千住へ着き、さらに終点の浅草・花川戸まで通うことになったのである。
 川越城下の南、約一里のところにある新河岸の河岸場が、その起点となり、ここが川越城下の外港として繁盛したわけであった。
 はじめは、川越藩中心の舟運であったが、そのうちに、商品経済の発展につれ、一般の荷物をもはこぶようになったのである。
 川越から江戸へ積み出す物は、醤油、綿、穀物、炭、杉皮、素麺、石炭などで、江戸からの帰り荷物は、油、呉服物、砂糖、生麩、酒酢、荒物、小間物など多彩をきわめた。
 新河岸の河岸場には、十余の船問屋があって、高瀬船の持舟と船頭をそれぞれに抱えている。
 また、平蔵の口から、舟唄「千住節」の一節がでてきて、粂八がおどろく場面があります。
 「千住女郎衆は、碇か綱か、今朝も二はいの船とめた」

「鬼平クイズ」 西尾忠久 マガジンハウス 2001年 ★
池波正太郎作『鬼平犯科帳』シリーズは、時代小説のあらゆるおもしろさが一杯につまっている最高のエンターテインメントだ。このおもしろさを二度味わえるのが本書。鬼平こと長谷川平蔵その人のみならず、家族、友人たち、与力・同心、密偵、盗賊たち、さらには池波小説を読む大きな楽しみのひとつであるうまいもの、そして寺、船宿、名店など「江戸名所図会」にも登場している場所など……これらをすべてクイズにしてみた。このクイズの解答にも、ひと工夫。小説『鬼平犯科帳』の当該箇所を明示することはもちろん、史実もたっぷりといれた。本書の問題をすべて解き終えたとき、あなたの「鬼平度」はさらに上がっていること、間違いなし。どうぞ存分にお楽しみください。

出題分野A 与力・同心たち
【問題9】浪人になりすまして遊ぶ木村忠吾のなじみの〔いろは茶屋〕の娼妓・お松へ、「お前の好きな男のためにおつかい」といって金十両をぽんとくれた〔川越さん〕とよばれた客で実は盗賊なのは?
  (a)沼目の大四郎
  (b)名越の松右衛門
  (c)墓火の秀五郎
  【解答9】

出題分野B 密偵たち
【問題14】『江戸名所図会』の大森村の〔麦藁細工〕のこの絵(P76〜P77)で、平野屋源助が初登場する11巻「穴」に関係があるのは?
  (a)店の前を行く瞽女(ごぜ)
  (b)駕籠の中の親子
  (c)右下端の麦藁製のねずみ
  【解答14】

「長谷川平蔵仕置帳」 今川徳三 中公文庫 2001年 ★
 火付盗賊改め役を務めた長谷川平蔵が、犯科人のお仕置について評定所一座へ伺いをたてた百五十件が「御仕置例類集」に収録されている。本書は、その中から殺人、博奕、盗賊、付け火などの事例をとりあげ、事件の内容、仕置の実態、刑罰の実際等を明らかにする。寛政改革という、特異な時代の犯罪と世相を鬼平の眼を通して描く。

 錠前を破ると打ち首
 武州川越無宿嘉七が小室(埼玉県北足立郡伊奈町)の、関東郡代伊奈陣屋から、宿継ぎで江戸本所花町の長谷川平蔵の役宅へ、護送されてきたのは、寛政二年(1790)五月のことであった。
 護送にあたり嘉七を吟味したのは、平蔵の与力中島段蔵であった。吟味とは取り調べのことだが、中島は上尾から蓮田にかけて、押し込み強盗を働く一味の逮捕に、配下の同心六人を連れ伊奈陣屋へ出張っていた。
 吟味の結果嘉七は強盗一味とは無関係と分かったが、窃盗犯であったので陣屋で厳しく取り調べたうえ、嘉七の口書をつけて、身柄を送った。口書とは自供書のことである。
 平蔵は嘉七を役宅の仮牢へ入れておいて、口書に目を通した。口書によると、上尾の宿外れの棟割り長屋に住む、一人暮らしの大工の長兵衛は、外仕事の日雇いを頼まれていたが、入梅の前触れの朝からの雨で仕事にならぬので、暇潰しに蚊帳や夏物の着物を出しておこうと、押し入れからつづらを引っ張り出して、びっくりし仰天した。
 つづらの錠前がこじあけられ、蓋を開けてみると、中味がそっくり無くなっていたからであった。
 青くなって宿役人の家へ駆け込み、
 「錠前つきのつづらにしまい入れておいた、着物や蚊帳に布団綿を空き巣狙いに、持ち逃げされた」
 と届け出た。
 宿役人は、小室の関東郡代伊奈陣屋へ、被害届けを出した。
 伊奈陣屋にいた中島は、
 「つづらの錠前をこじあけた、荒っぽい手口からすると、追っている盗賊一味の仕業かもしれぬ」
 と思ったが、叩き大工の空き巣を狙うようでは、やきが回ったな、と陣屋の手代とともに、同心の山下吉弥を行かせた。
 二人が長兵衛の家へ行くと、長兵衛はつづらを前にがっくり肩の力を落としてした。
 手代は宿役人に命じて、上尾の岡っ引きの善蔵を呼びにいかせた。善蔵はすっ飛んできた。捜査には土地の岡っ引きの協力が、欠かせなかったのである。
 山下は御用帳を手に、聞き取りを始めた。
 「つづらの中に入っていた品は何である」
 「蚊帳と着物が二枚、布団綿と洗い張りの着物一枚、それと下着が三枚、それだけで」
 山下は家の中を見回した。
 九尺二間の棟割り長屋だから、一目で見通しで、他に目ぼしい品があったとは考えにくく、盗っ人の狙いはつづらだけだった。
 だが蚊帳や着物と下着、布団綿となると、風呂敷包みにしてもかなりかさばる。
 「いつ盗まれたのか見当はつかぬか」
 「去年の秋、冬物と入れ替えたきり、つづらは押し入れにほうりっぱなしにせておいたんで。いつと言われても、心当たりはねえ」
 「最近夜留守にしたことはないか」
 「ごぜえません」
 「すると盗み出したのは、昼日中ということになる。かさばった荷物を背負い、上尾の宿を出て街道をうろうろすれば、怪しまれる。盗み出した品は上尾で処分するか、犯人は上尾の者で家で隠し持っているかも知れぬ」
 「違えねえ」
 早呑み込みをした善蔵は、外へ飛び出していった。近所を聞込みに回り、しばらくすると戻ってきて、長兵衛に、
 「おめえのところに、見かけねえ奴が居たそうじゃあねえか」
 「へい。嘉七でしたら、二日ばかりいやしたが、どうかしたんで」
 「どういう知り合いだ」
 「一膳めし屋で知り合った奴で、あっしが大工と知ると、棟梁棟梁と言い出すんで、おれには弟子はねえ、棟梁とは違うんだ、といっても、棟梁棟梁と抜かすんで」
 「棟梁でないことはわかった。その先を申せ」
 「へい。野郎の話によると、川越で大工をやっていたが、飢饉のあおりで仕事はさっぱりなく、出稼ぎにやってきたというんで」
 飢饉とは天明三年の暮れの農作物の不作にはじまり、凶作は四年五年六年七年と続き、昨年の秋の収穫が平年並みであったことから、幕府も終息宣言を出した。
 だが飢饉の後遺症は残ったままであった。
 「ところが野郎は大工道具を持ってねえから、出稼ぎにしちゃあ変だなと思ったが、道中空っ腹を抱え背に腹はかえられぬので、途中古物屋に売り払ったというんで、仲間に働き口を頼んでやる、見つかるまで俺のところにいるがいいや、と連れてきたんで」
 「どこの馬の骨か分からぬ者を、泊めてはならぬと、お触れが再三出ておる、知らぬはずはあるまい」
 「同業と分かったんで、野郎の泣き言についほろりとさせられたんで」
 「まあよい、そのあとはどうした」
 「一晩泊まったが、あっしが仕事に出かけると、そのまま居なくなったんで、妙な野郎だなと思っていると、五、六日したら朝やってきたんで。ちょうどあっしが仕事で一日家を空けるところだったので、留守を頼んで居てもらいやした」
 「嘉七に留守を頼んだというのか。そしてどうなった」
 「仕事を終えてけえってみると、野郎がいねえんで」
 「妙だとは思わなかったのか」
 「前のこともあるんで、断りなく出ていくのは、野郎のくせかなと気にもしねえが、それがどうかしたんで」
 「どうかしたもない。盗み出した犯人は嘉七という野郎だ。つづらの中味はそっくり質屋の伊勢屋のお蔵に、質草に入っている」
 「持ち出したのは嘉七? 人の物を持ち出すようなワルとは思えねえ」
 長兵衛は信じられぬという風に、首をひねった。
 嘉七は無宿者であった。長兵衛に留守を頼まれたが、暇潰しに押し入れを開けてみると、夜具の下につづらがあるのを見つけた。錠がかかっているので、金目の品でも入っているのかと、錠をこじ開けてみると、蚊帳・布団綿・着物・下着が出てきた。
 錠をこじ開けているので、もとにもどすことはできず、毒を食らわば皿までとばかりに、取り出した品を大風呂敷に包み、質屋の伊勢屋へ二度にわたって持ち込んだ。
 質屋では質草をとる場合、新しい客だと、身許引受人の保証の一札か、不正の品でないことを証明する一札がないと、とってはならぬことになっていた。
 嘉七は長兵衛に頼まれたので、といって持ち込んだ。伊勢屋は質草の着物を見ると、長兵衛が度々質入れした、見覚えのある品なので疑りもせず、質に取った。
 嘉七は金を受け取ると、そのまま行方をくらました。
 仕事先から帰った長兵衛は、嘉七の姿が消えていたが、不審にも思わず風来坊のことだから、気が向けばやってくるにちがいないと、呑気にかまえていた。
 「ゆきずりの人間を泊めて、留守を預けるとは、おめえの人のいいのには呆れたぜ」
 善蔵は渋い顔をした。
 「伊勢屋で貸した金は、二両足らずだ。高飛びする気遣いはねえ。この近くをうろついているだろう。すぐお縄にしてみせる」
 と自信の程をみせ、落ち込んでいる長兵衛の気を引き立たせた。
 善蔵がお縄にするまでもなく、嘉七は飲む打つ買うで金を使い果たし、それから四日目に空っ腹を抱えて行き倒れ寸前に、伊奈陣屋へ自首して出たというお粗末な話であった。
 平蔵は、火付盗賊改め役を拝命すると、屋敷内に仮牢と白洲をつくり、役屋敷と言った。嘉七はいったん仮牢入りになり、白洲の準備が整うと呼び出し、平蔵立ち会いのもとで、吟味与力の大林角兵衛が、再取り調べにあたった。嘉七は二十七歳といっており、取り調べには正直に答え、長兵衛から盗んだ件以外には余罪がないことがわかった。
 平蔵は嘉七に向かい、
 「出来心とはいえ、質入れして懐に入れたのは二両足らずだが、錠前を破ったのはいけねえなぁ」
 と言って、眉間にしわをよせた。
 「錠前を破れば、どんなお仕置を受けるか、知るめえだろうが、首が飛ぶんだぞ」
 「首が飛ぶんで……」
 嘉七は顔面蒼白、犯した罪の重大さを知らされて、がたがた震えだした。
 『御定書百カ条』享保五年(1720)の定めには、「家の中に忍び入りまたは土蔵など破った者は、金品の多少にかかわらず、死罪」となっていて、錠前破りは土蔵破りの罪に相当し、錠を破れば盗み出した金品の多い少ないにかかわらず、死罪と厳しい法になっていた。
 嘉七は家の中に忍び入ったわけではないが、つづらの錠をこわしているので、犯した罪は死罪に該当するのである。
 驚きのあまり、腰を抜かして立てなくなっている嘉七を、牢番二人が両側から抱きかかえるようにして、仮牢へ連れていった。
 牢番は車善七が支配する浅草溜から派遣され、食事に始まる一切を取り仕切った。
 仮牢には二、三日から長くて四、五日置くだけで、その後は伝馬町の牢へ送ることになっていた。
 「金品の多少に関わらず、錠をこじあけたからといって、死罪はちと酷すぎる。そうは思わぬか」
 口書を大林のほうに押しやって、腕組みした。
 「左様ですな」
 相づちをうったが大林も、それ以上は口を挟もうとはしなかった。
 平蔵の江戸市民の評価は、
 <長谷川さまの裁きは、手っ取り早く、いちいち合点がいく。それに人情裁きがいいねえ>
 と、南北町奉行を抜いて絶大の声望があった。
 平蔵もそれを意識していて、ご法度だからと杓子定規に考えず、市民の立場にたって、公平な裁きを心がけていた。
 嘉七の扱いについては、「死罪相当」の付箋をつけ、評定所一座へ伺いを立てた。
 評定所一座は月番の勘定・寺社・町の三奉行で構成され、式日は毎月二日、十二日、二十二日と、三日開かれた。
 当日は、京、大坂、駿府、甲府の町奉行、遠国奉行からの、民事、刑事の訴訟の扱いについての問い合わせを、審議した。
 審議は江戸城殿中の空き部屋が使われ、公平を期すため人払いし、戸襖は開け広げて行うしきたりであった。
 当日は各奉行から提出された伺い書を、前例と比較して慎重に審議していった。
 嘉七の件については、
 「この一件はふと知り合っただけの、身許のはっきりしない者に、留守を頼んだ方にも手落ちがある。伺いに<つづらの錠をこじ開けた>とあるが、土蔵の錠前をこじ開けたのとも訳が違うので、盗んだ罪だけを問い、入れ墨の上重敲き」
 と、温情のある評決を下した。
 扱いが平蔵だからよかったが、融通の利かぬ杓子定規の奉行の裁きにかかったら、嘉七の首は飛んでいたことであろう。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 長谷川平蔵(はせがわ へいぞう)
 1745〜95(延享2〜寛政7)江戸後期の幕臣。
(系)火付盗賊改役長谷川宣雄の子。(生)江戸。(名)宣以(のぶため)。
 1768(明和5)10代将軍徳川家治に謁し、1774(安永3)江戸西城御書院の番士となる。1784(天明4)西城御徒頭、世禄400石、足高600石、ついで1786御先手弓頭に昇進。1788火付盗賊改役を加役され、老中松平定信の命で人足(無宿者)寄場建設の具体策を建議、1790(寛政2)人足寄場取扱を命ぜられる。江戸隅田川河口の石川島と佃島の中間の葦沼を埋めたて、人足小屋の建設に着手、無宿者を収容し、手業を開始させた。1792人足寄場取扱を免ぜられ、死に至るまで火付盗賊改の職に在った。近年、池波正太郎の「鬼平犯科帳」で広く知られ、また人足寄場の制度は近代的監獄制度と多くの共通点をもつ日本独自の所産と評価される。
(参)滝川政次郎「長谷川平蔵」1975。

 鬼平・梅安の世界


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作成:川越原人  更新:2020/11/02