大江戸死体考

大江戸死体考の川越に関する記事です

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「大江戸死体考 人斬り浅右衛門の時代 氏家幹人 平凡社新書016 1999年 ★★
 花のお江戸には死体がゴロゴロ!?
 水辺には土左衛門、道端には行き倒れ、検死マニュアル≠烽キでにあった江戸時代。
 そして、死体を使った刀剣試し斬りを家業にし、生きギモ≠ナ富を築いた、浪人・山田浅右衛門――。
 コワくて不思議な世界がそこに見えてくる。
 史料はホラー小説よりも恐ろしい!知られざる江戸のアンダーワールドへご招待。

 第五章 仕置人稼業―浅右衛門の弟子たち


川越藩据物師・長畑家の場合
 以上、山田氏の記録から弟子たちに関する記事を拾ってみましたが、山田家(師匠)側の史料だけではどうしても限界があって、弟子一人一人の活動を具体的に跡づけることは難しそうです。
 史料の制約。では調査の方法を変えてみたらどうでしょう。幸い川越藩の史料が浦和市にある埼玉県立文書館で簡単に閲覧できるという話を耳にしました。原本は群馬県の前橋市立図書館にありますが、その写真版を文書館が作成、公開しているというのです。
 なぜ「幸い」かというと、川越藩には。長畑四兵衛ほか師匠の「手代」として御様御用(おためしごよう)を務めた弟子が何人もいるからです。となれば、同藩の江戸藩邸日記の中に彼ら浅右衛門の弟子たち≠フより詳細な情報が見つかる可能性大ではないですか。
 期待に胸膨らませながら埼玉県立文書館を訪れた私は。とりあえず文政十二年(1829)の江戸藩邸日記をめくり始めました。正月の日記を終え、二月の部もそろそろ終わりに近づく二十六日まで読み進んだとき、みごと予想は的中したのです!
                                御徒歩居物師
                                   長畑銀兵衛
                                   辻 八平治
  右は定府申付候。支度次第引越候様可申聞旨、三田村一郎左衛門へ申聞候。
 長畑銀兵衛と辻八平治の両名に江戸定詰を命じるという内容。二人はなぜ江戸に縛りつけられることになったのか、続きを読んでみると、
  右両人、此節家業為修行出府中之所、如何様心掛候家業物之義、両三年ニて修行可
  満事とも不被存。依てハ右様之所専相含定府申付候事ゆへ、弥心掛候様(下略)
 長畑と辻、二人はすでに江戸で据物斬りの修行をし始めていたのですが、修行の道は厳しく、一年や二年ではとても一人前になれそうにない。そう判断した藩当局が、ならば江戸で腰をすえて修行させようと、二人を江戸定詰にしたというのです。技能修得のための内地留学を兼ねた人事異動とでもいったところでしょうか。
 こうして江戸に引っ越すことになった二人に対して、三月十一日、下屋敷の「小屋」(いわゆるお長屋)を宿舎として給する旨が伝えられ、六月十九日には藩邸(下屋敷)の門限に関する特例措置が申し渡されています。門限に関する特例というのは、据物斬りの稽古で藩邸に戻る時間が遅くなっても、その旨届けを提出すればよろしいというもの。だから門限を気にせず稽古に励めというのでしょう。
 二人は据物斬りの師匠の所に通ったのですが、彼らの師匠は、いうまでもありません、山田浅右衛門でした。ところで浅右衛門のことを、川越藩江戸藩邸日記では「師匠」でも「先生」でも「家元」でもなく「師元」と書いています。シモトと読むのかしら。耳慣れない言葉ですが、これは特に浅右衛門に限った呼び名ではなく、藩の日記には医術や絵の師匠も「師元」と書かれています。
 長畑銀兵衛と辻八平治の藩における職名は御歩行(おかち)。職掌の詳細についての説明は省きますが、いずれにしろ藩士としては下級に属するといっていいでしょう。天保四年(1833)の藩の分限帳に「米拾五石 四人」とあるのがその俸給です。十五石四人扶持。これまた具体的な説明は省略しますが、まぎれもない薄給です。その証拠に文政十二年(1829)七月四日、長畑銀兵衛は、生活が苦しいので弟の録三郎を他家に奉公に出したいと願い出て許可されていますし、天保二年(1831)にも弟の虎次郎を奉公に出したいと(理由は同じでした)願い出ています。
 ところで川越藩の江戸藩邸には、長畑銀兵衛と辻八平治の二人が修行にやって来る前から、すでに据物斬りの専門家がいました。その人の名は長畑四兵衛。天保四年の分限帳をみると、職名は「御歩行目付列御作事小奉行」で俸給は十八石四人扶持。やはり薄給の身ですが、浅右衛門一門の中では押しも押されぬ実力者だったようで、文政十一年の藩邸日記にも、彼が御様御用(おためしごよう)の手代を務めた功で若年寄からご褒美を頂戴したと記されています。長畑銀兵衛(この人が同姓の四兵衛とどのような血縁関係にあったのか、まだ十分に調査していません)と辻八平治は、たぶん藩から四兵衛の後継者と目されていたのでしょう。
 四兵衛の後継者は、しかしこの二人ではなく、結局、四兵衛の息子の芳太郎に落ち着きました。山田家の記録に芳太郎の名が登場するのは天保九年八月が最初ですが、藩邸日記ではこれより早く天保二年に彼が据物斬りを「家業」として稽古していた様子が記録されています。すなわちこの年の九月、彼は家業の稽古が忙しいという理由で、「講学処主事」(藩校の世話役)の役を解いていただきたいと願い出ているのです。

親子で据物斬り
 藩邸日記を読み続けましょう。天保三年(1832)八月十九日、銀兵衛は妻と協議離婚した旨を藩に届け出ていますが(「双方熟談之上離縁致……」)、これは据物斬りととりあえず無関係(さらに無関係ながら、夫婦の間に生れた女の子は妻の側が引き取ったとか)。
 翌年の十二月二日、例によって四兵衛は御様御用を務めたご褒美を頂戴しに若年寄堀大和守の屋敷に参上しましたが、その前日、彼は藩に対して一つの要求を出しています。足の痛みがたえがたいので、明日堀田様のお屋敷にうかがう際に藩邸の駕籠を拝借したいというのです。ところがこの願いは、藩の上層部によってにべも無くはねつけられてしまいました。たしかに将軍家の御様御用を務めたのは立派だし、当家にとっても名誉なことである。出かける先も若年寄、粗相があってはならない――と三拍子揃っていながら、なお藩邸側が駕籠の使用を許さなかったのは、とりもなおさず四兵衛が下級藩士だったからにちがいありません。一芸を極めたプロフェッショナルとしての価値は評価しながらも、藩という組織の序列においてはあくまでも下っぱ。たかが御歩行目付のために(いくら優れた芸を持っているからといって)どうして藩邸の駕籠(公用車!)なんて出すことができようか、というわけです。
 一方、息子の芳太郎はその間にも着実に力をつけていきました。そんな末頼もしい彼を見て、天保五年四月二十二日、藩は彼の上司である御歩行頭を通して、ますます家業の稽古に励むよう激励の言葉をかけています。
 同じ年の十二月、二日に若年寄永井肥前守宅で御様御用のご褒美を拝領した四兵衛は、二十七日に「御歩行目付列」に昇進しました。もっともこれは据物斬りの卓越した技量を評価されたためではなく、長年にわたる勤務と同僚の間の信望がもたらした結果ということです。
 天保七年四月、四兵衛は上総へ出張。主な任務は、三月二十二日の夜に川越で牢破りをして逃走中の囚人八名の捜索でした。川越藩では一月にも同じような牢破りがあって、このままでは藩の威信が揺らいでしまうと危機感を抱いた藩が、破獄者たちの捜索を四兵衛らに命じたのでした。
 牢破りが見事逮捕されたかどうか藩邸日記には記されていませんが、結果のいかんにかかわらず彼の日々は充実していたのではないでしょうか。なぜなら芳太郎の技がますます上達していたからです。おのずと稽古その他で出掛ける回数も増え、藩邸に戻る時刻が遅くなった息子のために、四兵衛は門限遅れの許可を願い出ています。願書の内容を意訳すると、

芳太郎は以前から山田朝右衛門殿の所へ据物斬りの稽古に通っていますが、最近では師匠にも技量を認められ、罪人の斬首や将軍家の御様御用を務めるほか、千住の刑場で行われる試し斬りにも毎回必ず参加するようになりました。このため夜になって帰宅することも多く、加えて昨年十月からは藩の「御雇」として御供その他に使われるようになり、これまたけっこう忙しい。
というわけで、家業の稽古で伝馬町や千住に出かけた日は、門限時刻を過ぎて帰宅しても翌日届ければよいことにしていただきたい。
 願書は八月二十五日に提出されました。ところでこの年の藩邸日記には、また長畑四兵衛、芳太郎親子が据物斬りの技で藩に貢献した実例が記されています。さて、いったいどのように貢献したのか……。  

太平ボケ
 ここでしばらく江戸を離れて、国元すなわち川越の藩日記に目を移しましょう。
 天保七年(1836)十一月二十六日、川越では無宿多三郎こと吉五郎(吉五郎が実名)に極刑(「引廻之上打首獄門」)が宣告されました。この男、領内追放の身でありながら、こっそり舞い戻ってきて窃盗等を働いたのだとか。のみならず藩日記に「其上深巧を以、度々牢を破迯去、長脇差を帯たる重科……」とあるのを見れば、脱獄常習犯でもあったようです。
 さて、刑を宣告したまではよかったものの、いざ執行する段になって担当の役人たちは、戸惑ってしまいました。なぜ、どうして? 日記の記述は「火方御歩行目付申出候は、引廻獄門之例不相知」。嘘みたいですけど、引廻獄門をどうやったらいいのかわからなかったというのです。
 結局のところ文政十三年(1830)の例に従うことで落ち着いたのですが……。いくら担当の役人に経験がないからといって、なんとも太平ボケしたお話ではないですか。それにしても、川越では文政十三年から天保七年まで実に六年間も獄門のような極刑が行われたことがなかったのでしょうか。これまた江戸時代に対する常識をくつがえされたようで、驚きです。
 太平の夢に浸っていた川越城下の人々。しかしこの年(天保七年)は違っていました。なぜならそれから一ヵ月も経たないうちに、今度は無宿富五郎こと房五郎(三十歳)に「斬罪獄門」の刑が宣告されているからです。
 さて、長畑親子の貢献≠ニいうのは、この房五郎の処刑のため(つまり首斬り役として)江戸藩邸から川越まで出向いたことでした。藩邸日記の該当箇所を読んでみましょう。日記には、長畑親子に川越行きを命じた理由が「於川越表斬罪之もの有之、業相勤候もの無之ニ付」と書かれています。川越には刑を執行する者、罪人の首を落とせる者がいないから、というのです。
 首斬り役として川越に出張することになった長畑四兵衛と同芳太郎。ところで二人の出張に際して、藩邸日記には「安永度右様之節ハ三人ニて相勤候旨ニ付……」などと記されています。今から六十年ほど前の安永年間(1772-80)には確か三人で出かけたはずだが、今回はどうしよう(二人だけでいいのだろうか)というわけです。なにしろ六十年もさかのぼらなければ前例が発見できなかったほどですから、長畑親子を派遣するに当たって藩邸側の段取りがテキパキしていたはずありません。
 旅費その他の支給額についてもどれくらいが妥当か計算されていなかったようで、藩が提示した手当ての額に対して長畑親子が不服を申し立てると、藩はただちに増額する旨を回答しています。四兵衛はまた、われわれは二人とも持病があって厳寒の折りは発作を起すかもしれず、介護役として次男の利喜多を同行させたいと願い出ました。
 二人とも本当に病気だったのでしょうか? いいえ、これはあくまで口実。父親の四兵衛としては、長男の芳太郎のほか次男の利喜多にも場数を踏ませたかったのでしょう。据物斬りの世界では、なにが重要かといって経験を積む以上の修行はありませんから、今回の絶好の機会をぜひ次男にも、と思ったにちがいないのです。
 二人が、いいえ親子三人が江戸を発ったのは天保七年十二月二十一日の夜。翌日には川越に到着したはず。親子三人、故郷に錦を飾る意気込みでやってきたのですから、さぞかし見事に房五郎の首を打ったと、誰しも思いますよね。ところが……。十二月二十三日の川越藩日記には、長畑四兵衛が息子たちを連れて江戸からやってきたが、果すべき御用(公務)がなくなってしまったので、勝手次第に江戸に帰るように申し渡した――と記されているのです。
 公務消滅。まったくなんという話でしょう。処刑されるはずの房五郎が脱獄した結果、長畑親子の役目も自然消滅してしまったのです。またしても破られてしまった川越藩の牢獄。太平ゆえの弛みというか平和ボケというか、信じられないような警備警察力の欠如ではないですか。もっとも、そんな藩だからこそ長畑父子がわざわざ江戸から出張してこなければならなかったのでしょうけれど。

かさむ出費
 せっかくの晴れ舞台を台なしにされてしまった四兵衛親子は、江戸に戻った後、即座に次のような嘆願書を提出しました。その内容はとても興味深いものですが、全文を引用するには長すぎます。そこで特に重要と思われる部分だけを意訳してご覧に入れましょう。

私と伜は、家業の稽古のため、麹町の山田朝右衛門の所に通っております。のみならず、伝馬町でお仕置き者がある時や千住で試し斬りの稽古が行われる場合にも、朝右衛門の門弟として毎回参加しております。加えて最近では「師元」や他の門弟衆と稽古日以外にも頻繁に会合を持つようになり、出費がかさむばかり。藩から頂戴する御扶持(給料)だけではとてもやりくりできません。
 けっして無駄づかいをしているわけではないのです。出費はすべて家業の稽古のためと断ったうえで、さて藩へ嘆願した内容というのは、 
私は毎年師元の朝右衛門と(一門の長老格である)後藤五左衛門(この二年後に松平靭負の介錯を努めることになるあの後藤為右衛門の父親です)に「付届」をしています。ほかに伝馬町でお仕置きがある折に門弟一同が待ち合わせに使う茶屋や、お仕置きの手伝いを努める四人の者にも(彼らは千住で試し斬りの稽古を行う際にも手伝ってくれます)、些少ながら「歳暮」「年玉」を欠かせません。様々な付け届け。しかるに私どもの御扶持はといえば……。
 今年の暮れは完全な金欠状態。かといって恒例の付け届けをやめるわけにもいかず、せめて歳暮の費用だけでも藩から拝借したい――というのでした。
 これに対する藩の回答は――長畑家の窮状が理解できないわけではない。当藩でも文化年間(1804-17)には「修行扶持」と称して藩士に特別の手当て(奨学金)を支給していたが、財政緊迫の昨今はその制度も廃止してしまった。したがって今回の願いをかなえてやることは難しい――といたって冷たいものでした。
 それにしても、長畑家は毎年付け届けのためにどれくらい出費していたのでしょうか。願書に添えられた「覚」には、次のような金額が記されています。
  一金百疋つゝ 師元へ歳暮并
           後藤五左衛門
 
  一同百疋 伝馬町ニて待合セ
         相揃候茶屋へ
         歳暮 年玉
 
  一同弐百疋 手伝之者共へ
          右同断
  〆金五百疋
 百疋が金一分として、歳暮と年玉だけで毎年一両一分が長畑家の苦しい家計から絞り出されていたのです。

組織の中で
 四兵衛の藩当局に対する要望は、金銭的援助ばかりではありませんでした。彼にとって、おそらくお金以上に重大な問題だったのは格≠フ問題ではなかったでしょうか。具体的にいえば服装や供連れ等々における格。自分や息子たちが藩という組織の中では下位の存在でしかないことは、百も承知のうえで、にもかかわらず特別扱いするよう藩に要望したのです。理由は、将軍家の御様御用を務める名誉の据物師であるからにほかなりません。
 長畑四兵衛が朝右衛門の代役として御様御用を何度も務めたことはすでにお話しましたが、長男の芳太郎もやがて父の後を継いでこの大役を果すようになりました。事実天保八年(1837)九月十二日、芳太郎の「手代」が正式に許可されるのですが、息子が実際に御様御用を拝命するに先立って、四兵衛は次のような内容の要望書を藩に提出したのでした。

(1)御様御用を務める時は熨斗目麻上下を着用する例になっていますので、その着用を許していただきたい。
(2)御様御用を務めると、あとで腰物奉行衆にお礼廻りをしなければなりません。その際しかるべき者たちを供に連れる必要がありますので、藩邸から供の者を二人お借りしたい。
(3)御様御用を無事努めると、その年の暮れに幕府からご褒美の銀子を拝領するのが恒例となっています。当日は若年寄の屋敷に参上するので(腰物奉行衆にお礼廻りする時以上に)正式な供廻りが不可欠。計四人の供の者をお借りしたい。また万一芳太郎の身体に故障が生じて歩行が困難な場合には、駕籠とその担ぎ手もつけていただきたい。
 以上三点の要望に対して藩がどう回答したかというと……。(1)(2)については「承置候事」と承知し、(3)についても長畑家の要望はだいたいにおいて実現したものの、「駕籠を付けて」という要望だけは、組織の壁にはばまれて受け入れられなかったようです。下っ端のために藩邸の駕籠なんか出せるか、というわけ。
 もう一つの要望(4)は、藩士としての勤めを朝右衛門の弟子≠ミいては御様御用とどう両立させるかという問題とからんでくるだけに、さらに興味深いものでした。すなわち御様御用の日はもとより試し斬りの稽古がある日は、芳太郎の御番(お勤め)を免除していただきたいという四兵衛に対し、藩は文政三年(1820)の前例を挙げて、以下のように回答しています。
当番の日に「御仕置きもの」(処刑)がある場合は、同僚に当番を代わってもらい、翌日あるいは非番の日にお返しに出勤すればよい。そうすれば同僚たちに迷惑をかける心配もないだろう。
 要するに朝右衛門の弟子≠ニして活動することによって空けた勤務の穴は自分で埋めろというのでしょう。この件に関しては特別扱いしないという原則が明示されたのでした。
 経済的に援助しないばかりか勤務の免除すら原則的に許さなかった川越藩。ケチで狭量? いいえ、藩はまったく援助しなかったわけでもないようです。藩が固い財布の紐を解いたのは、ほかでもありません、長畑家の者が御様御用の代役を務めた時です。天保八年(1837)の江戸藩邸日記を開いてみましょう。その十二月十三日の記事の中にこう記されています。
このたび長畑芳太郎が公儀の御様御用を努めることができたのは、ひとえに山田、後藤両氏のお陰である。ついては感謝の気持ちとして、それぞれに二百疋と五百疋を差し上げたい。
 この謝礼も、実は藩が率先して出したのではなく、四兵衛に督促された結果だったようですが、いずれにしろ川越藩の金庫から出たのは事実。藩としても最低限のお礼は、出ししぶるわけにはいかなかったのでしょう。

土壇の土を江戸から運ぶ
 このようにお世辞にも厚遇されているとはいいがたい藩邸勤めを送りながら、翌天保九年(1838)七月、長畑父子はまたしても藩の「御用」で川越に出張しました。
 「御用」の内容は言うまでもなく罪人のお仕置き(処刑)。ところでこの時も四兵衛は、負担の軽減と家業の永続(つまり後継者の育成)をはかって、藩に要望を出しています。
 彼が求めたのは、まず前回(処刑されるはずの罪人が脱獄したので無駄足に終った天保七年の出張のこと)同様、次男利喜多を同行させること。自分と芳太郎そして利喜多の三人で事に当たれば。「切柄」(試し斬り用の柄)の仕込みや胴の仕掛けも手際よくできるだろうし(処刑のあとで試し斬りを行う予定だったのです)、なにより利喜多に貴重な体験の機会を与えることができるから、というのです。
 もう一つ、必要な資材の運搬用に馬(「軽尻」)一頭を要求しました。前回は道具持ちの人足を一名付けてもらっただけなのに今回はなせ? 藩邸日記に書かれている四兵衛の言い分はこうです。

今回は土壇用の土も持参していきたいと思います。しかも場合によっては土壇を二つ築くつもりですので、土も二つ分運ぶ予定。したがって荷物はかなりの重量になるでしょう。
 土などわざわざ江戸から持っていかなくても、現地で調達すればいいじゃないか――と思いますが、それは素人の浅知恵というもの。長畑父子のようなその道のプロに言わせれば、土は土でも土壇に使う土は一味も二味も違うらしいのです。四兵衛の高説を拝聴しましょう。
一口に土壇と申しましても、ただ土を盛って固めればいいというもではありません。急いで作った土壇にはどうしても小石が混じっていて、そのため大切な刀の刃を傷めてしまう恐れがあります。だからこちらで十分時間をかけて用意した土を運ぶことにしたいのです。
 川越での「御用」が滞りなく果せたのかどうか、藩邸日記にも川越の藩日記にも記録がないので定かではありません。でも、特に記録がないのは、罪人の処刑とその死骸を用いた試し斬りが無事行われたことのなによりの証拠ではないでしょうか。  

浅右衛門のコネで就職活動
 藩からはろくな援助が得られないにもかかわらず、毎年付け届けその他ですくなからぬ出費を迫られる。かといって弟子たちには、師元の山田家のように処刑者の死体から「人肝」を採取して製薬業を営むことなどもちろん許されていませんでした。
 いったい浅(朝)右衛門の弟子たち≠ノとって、弟子であることにどんな利点があったというのでしょうか?
 山田家の門弟となって師元や先輩から据物斬りの稽古を付けてもらったり、そうでなくても場数が踏める(経験を積める)のが第一の利点であったことは、いうまでもありません。長畑父子のように技量を認められて御様御用の代役を務めるようになれば大変な名誉ですが、よしんばそこまでいかずとも、据物斬りという特殊な技術を身につければ、とりわけ下級藩士や部屋住みの身には、処世の強みと感じられたと思われます。芸は身を助けるというわけ。
 加えて山田家は、幕府のみならず大名・旗本から刀剣の試し斬りや鑑定を依頼されることも多く、おのずと顔が広い。しかも人胆丸の製造販売によって経済的な力も備えていたので、困ったときは力を貸してくれるかもしれないという期待もあったのではないでしょうか。山田家が弟子たちのためにどのような後援活動をしてくれたか? 具体的な事例はなかなか見つかりませんが、わずかに一例、こんな史料がありました。
 天保十一年(1840)十二月のことです。山田朝右衛門(吉昌)は、川越藩江戸藩邸の留守居伊藤五兵衛にあてた手紙(「口上書」)を養子の五三郎(のちに七代目を襲名した吉利)に持参させました。山田氏記録のうち『年中行事』に書きとめられていたその内容は、

長畑四兵衛の次男利喜多は私の弟子の一人で、いたって稽古熱心な若者。据物斬りの技量も優れ心がけも立派です。このため父親の四兵衛は、利喜多がこの道で一家を成すことを希望しており、長畑銀兵衛も私も同様に考えております。
 手紙には続いて、「どうか利喜多がしかるべきお役に就けるよう(利喜多は部屋住みの身だったのでしょう)伊藤様から(藩の重役方に)お執り成しいただきたい」と書かれていました。
 どうしてこのような手紙が書かれたのか、もうおわかりでしょう。わが身の老いが深まるにつれて次男坊の将来を心配した四兵衛が、一族の銀兵衛に相談し、銀兵衛が内々で朝右衛門に藩邸への働きかけを依頼したのです。いわば朝右衛門という著名人に就職の口利きをしてもらおうというわけ。はたしてこの手紙がどれほどの力を発揮したのか、残念ながら記録に残っていないので定かではありません。いずれにしても先生のコネ(推薦)で職にありつこうとするのは古くて新しい手。据物斬りの大先生朝右衛門のもとに就職活動に訪れたのは、一人や二人ではなかったはずです。

お仕置アルバイト
 稽古や交際のためにたびたび出費を迫られた弟子たちですが、収入を得る機会が全然なかったわけではありません。
 心技ともに上達して御様御用の代役を務めるようになれば、その年の暮れに幕府からご褒美を頂戴したことは、すでに申し上げました。天保九年(1938)十二月の例を山田氏記録(『年中行事』)で見てみましょう。 
 この日若年寄の役宅に参上してご褒美を頂戴したのは、長畑芳太郎と後藤為右衛門で、ご褒美は白銀五枚。白銀一枚は銀四十三匁だそうですから(児玉幸多編『古文書調査ハンドブック』)、銀六十匁で金一両として、金三両二分ほどになります。嬉しい収入。でも、ご褒美を貰ったら貰ったで関係者への「御礼」も大変で、すくなからぬ額の出費を覚悟しなければならなかったようです。したがって差引勘定をすれば、実のところ、大した収入にはならなかったかもしれません。
 弟子たちのアルバイトとしては、むしろもう一つ≠フほうが実質的な実入りが多かったのではないでしょうか。もう一つ≠ニいうのは、各藩の「御手前仕置」の処刑執行人を務めて報酬を得る副業。「御手前仕置」は「御自分仕置」ともいい、各藩がそれぞれ独自の裁量で執行する処刑のことです。処刑は当然藩の刑吏によって行われるべきなのですが、必ずしもさにあらず。自分の所に適当な切り手がいない(というか誰もやりたがらない)場合には、藩外の人に処刑執行(首斬り)を頼むケースがすくなくなかったようなのです。
 私はすでに旗本松平靭負の介錯人の話や川越で処刑が行われる際に長畑父子がわざわざ江戸から出張した事実を紹介しました。だから皆様の中に「そんなこと信じられない」とおっしゃる方はないはず。しかし考えてみれば、かりにも戦士(武士)の集団である藩が、領民に対する最大の権力誇示の機会であるはずのお仕置きを外注≠キるなんて、それこそ「信じられない」ことじゃありませんか。あまりといえばあまりに腑甲斐ない。
 でも、事実は事実なのです。例によって例を挙げてみましょう。
 天保九年の十二月、山田家の門弟の一人である広田猶二郎は、「御自分仕置」の処刑執行を依頼されて、下総国生実(現在は千葉市のうち)へ向かいました。依頼人は森川内膳正を藩主にいただく生実藩の江戸藩邸。森川内膳正は名前を俊知といい、文政五年(1822)からこの年の八月八日まで幕府の若年寄の職にあった方です。もっとも八月九日に亡くなっていますから、十二月の時点では藩主は森川紀伊守俊民のはず。山田氏記録(『年中行事』)に「若年寄森川内膳正様」と書かれているのは、記録の誤りでしょう。一方広田猶二郎は但馬国豊岡藩士の弟というだけで、当時どのような地位にあったのかは、彼の年齢や修行暦ともどもわかりません。ともあれ広田は、自分とは(たぶん)まったく関係のない藩の処刑執行人を努めるべく、同藩の国元へ出かけていったのでした。
 人斬り(処刑)のアルバイトの事例なんて他の歴史書では絶対お目にかかれないと思いますので、その手続きについても触れておきましょう。
 山田家の記録によれば、生実藩と広田の仲介をしたのは町奉行の同心(「八丁堀見廻り下役」)中村伴蔵で、依頼をうけた広田は、生実藩の大目付役市原九郎兵衛宅に出かけて条件の交渉を済ませたうえ、十二月二十四日夜、市原とともに生実に赴き、無事仕事を済ませたのだとか。
 ところで肝心の報酬(アルバイト料)ですが、山田氏記録には、こう書かれていました。
  一金三両弐分也 為御挨拶被下置候 尤上下道中賄者先様ニて一式御請合之事
 「御挨拶」の名目で生実藩から支払われた報酬は三両二分。このほか往復の食費等(「上下道中賄」)はすべて依頼人持ちという意味でしょう。

   前橋市立図書館埼玉県立文書館


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作成:川越原人  更新:2020/11/02