新河岸川舟運史年表


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「川越舟運」 斎藤貞夫 さきたま出版会 1982年

  武州新河岸川舟運史年表 ―川越五河岸を中心に―

西暦年・月・日関 係 事 項備 考
1633寛永10・1仙波東照宮創建星野山御建立記
1638寛永15・1・28川越大火喜多院・東照宮も類焼
 寛永15仙波東照宮再建の建築資材、内川(新河岸川)を利用し運送―寺尾五反田取り立てられる寺尾川岸由来書
1639寛永16・1・5松平伊豆守信綱川越城主となる(3万石加増→7万5千石)
1644正保1信綱、新河岸川の舟便を始める
寛文2年ともいう(この頃沢田甚右衛門新河岸の開発に尽力する)
新編武蔵風土記稿
1647正保4新河岸川舟運開始埼玉県史(旧版)
1648慶安1・10検地帳に「新河岸」の名見える新編武蔵風土記稿 大嶋屋文書
 慶安1「牛子村」検地を行う
1651慶安4上・下新河岸取り立てらる寺尾川岸由来記
1652慶安5川越藩家老深井藤右衛門「材木」を舟で運ぶ弥左衛門覚書
1653承応2・4川越住人榎本弥左衛門忠重、当川を利用し供養石塔を運ぶ弥左衛門覚書
1656明暦2・2引又河岸井下田回漕店営業を始める井下田家文書
1662寛文2・4・18松平甲斐守輝綱川越城主となる
 寛文2・4・29上新河岸に新河岸開祖石地蔵建立なる(沢田甚右衛門の供養のため兄甚兵衛が建立)
 寛文4上新河岸松平甲斐守輝綱取り立てる
1666寛文6上新河岸舟積問屋の遠藤家、飯能在岩淵より川越西町を経て上新河岸に河岸守として定住す遠藤家文書
1671寛文11・10・20比企郡玉川領より年貢米を新河岸川を利用し江戸積みされる玉川小沢家文書
1672寛文12・2・9松平伊豆守信輝川越城主となる
1673寛文13・2・26斎藤家初代「久岳院常仙盛光居士」没
1674延宝2代官天羽七右衛門様支配川岸場壱反八畝八歩永反に弐百文(寺尾河岸)河野家文書
1683天和3・3信輝の江戸屋敷新築の為「扇河岸」を取り立てる扇河岸の記
1686貞享3・3津田高知「扇河岸の記」を書く林家文書
1687貞享4・8・7遠藤家初代「一相道仙居士」没
1688元禄1斎藤家の「そうめん蔵」つくる(現存)
1693元禄6・3下新河岸の検地行う(安松金右衛門・堀江忠右衛門)斎藤家文書
1694元禄7・1・7松平美濃守吉保川越城主となる
(この頃三富新田の開発を命じる)
1705宝永2・4上新河岸村明細帳より船問屋6軒見える遠藤家文書
1731享保16・6・22問屋株公認さる
 上新河岸6 下新河岸6 扇河岸4 計16軒
1747寛延1古市場河岸出来る吉野家文書
1766明和3衰微した寺尾河岸復活、問屋7軒
(この頃新河岸川中河岸の諸河岸開設)
五河岸問屋は船積問屋以外に農村の商人を相手に仲買商としての機能をもつ
 江戸←→五河岸←→川越商人
           ←→在方商人
寺尾川岸由来書
1773安永2福岡河岸半兵衛ほか2軒の名あり吉野家文書
1774安永3江戸幕府関東一円の河岸調査行う(安永5年まで)
 安永3・12・22五河岸株仲間結成さる
「安永三年午十二月廿二日御勘定御奉行石谷備後守様御勤役中関東川之河岸場御取調之上問屋御運上御定被成下右御定之外ハ船積渡世不相成候趣被仰付候
問屋数 上新河岸八 下新河岸七 寺尾河岸七 扇河岸七 牛子河岸一 計三〇軒」
遠藤家文書
 安永3・8〜5・5番船出入起こる
(江戸箱崎町近江屋久右衛門と川越商人の対立)
斎藤・水村・遠藤家文書
1777安永6・12古市場橋掛替につき上・下新河岸、扇河岸問屋より願書提出斎藤家文書
1785天明4・8船方趣法書なる五河岸船持問屋から川越惣町大行事衆に差出す林家文書
1793寛政5・7(現存する船賃表の最古)林家文書
1798寛政10・1寺尾川岸由来書出来る。望月伝左衛門筆河野家文書
 寛政10川浚出入起こる。(第1回)田島、内間木、台、根岸へ自普請要求
1810文化7・11通船出入起こる(輸送途中、荷抜き難波船多く難渋ゆえ、川越商人と近江屋が五河岸を相手どり訴訟に及ぶ→「御領主様御船御用御家中様御用大切二相勤可申候」と五河岸より一札を入れる水村家文書
1815文化12・5五河岸問屋、箱崎町積問屋長兵衛を相手取る
(長兵衛の独占と増口銭のため訴訟に及ぶ→長兵衛他3軒を決め自由に選択でき、しかも荷主不勝手のときは他問屋に変更する)
遠藤家文書
 文化12・8問屋数 上新河岸8 下新河岸7 扇河岸7 寺尾河岸7 牛子河岸1 計30軒見ゆ斎藤家文書
1818文政1戸数 上新河岸14 下新河岸15 扇河岸7 寺尾河岸75 牛子河岸28 計139戸斎藤家文書
 文政1・4・6大久保村灌漑用水で川を締切る(通行不能)
1819文政2・1伊勢安家屋新築す斎藤家文書
1821文政4・6・29五河岸問屋、大久保村の川締切り取はずし願書提出斎藤家文書
1830文政13・1信州飯田甲州甲府より扇町屋経由で新河岸より江戸積みされる遠藤家文書
1832天保4・6川越街道大井宿より早船にて乗客を運ぶため抗議遠藤家文書
1836天保7・9船扱い心得書出来る斎藤家文書
1838天保9・3〜10黒目川落合の川浚い行う遠藤家・大嶋屋文書
1839天保10・2川浚出入起こる(第2回)田島村←→五河岸
 天保10・9・2川越街道上板橋ほか4カ所早船にて乗客を運ぶため抗議
(この頃から貨客を乗せた早船毎日出帆)
遠藤家文書
1845弘化2・12五河岸船問屋と川越商人16名と運賃の件で議定取りかわす斎藤家・大嶋屋文書
1846弘化3・5仙波河岸開設嘆願書出る林家文書
1850嘉永3・4
嘉永3・8
繋船出入起こる(運賃値上のことから川越商人、五河岸と船頭の間にとりもつれ起こり、船頭船止めする)大嶋屋・遠藤家文書
1852嘉永5上下新河岸に御用場置く(沿岸防衛のため)
 嘉永5〜6早船出入起こる(扇河岸問屋←→両新河岸問屋)遠藤家文書
1854嘉永7・8・15新河岸川を利用し品川第二、第五台場の警備に川越藩士おもむく 五河岸船も動員す遠藤家文書
1855安政2・9箱崎町にて近江屋茂兵衛のあと川越屋勘兵衛店を出す林家文書
1858安政5・4前川出入起こる(越辺川・都幾川)
五河岸問屋より前川筋にて無許可運送業者に対して抗議
遠藤家文書
1859安政6・7船数 上新河岸22 下新河岸22 扇河岸23 寺尾河岸12 牛子河岸4 計82艘 他に上下新河岸共有早船2 御用船4艘
(この頃早船にのる旅客多し)
1860万延1・10江戸各組問屋、川越町方、五河岸、福岡河岸、古市場の糠仲間衆にあてた連名帳に署名
江戸各組内訳
元岩井組30 浅草代地組4 西神田組10 下谷組8 浅草花川戸組5 本所仲ノ郷組4 本所竪川組7 深川組13 外神田組12 八丁堀組10 千住組10 計113名
斎藤家文書
1861文久1上総九十九里より荷物一件出入起こる大嶋屋文書
1865慶応1・12天狗党83名当川を下って江戸送られる
(この頃仙波河岸開設準備す)
1869明治2水路仙波まで延長
 明治2・6早船出入起こる(扇河岸早船に対する出入)
1870明治3・4・22下新河岸大火(池留より出火、全焼戸数15軒、観音堂も類焼)遠藤家文書
 明治3・6伊勢安再建築始める(現存)
1871明治4川越藩→川越県→入間県
1872明治5・5新河岸郵便取扱所公認(中牛馬分社―綿善)大嶋屋文書
1873明治6・6入間県→熊谷県
 明治6・9新河岸に郵便局開設さる(明治21年まで)斎藤家文書
1875明治8・5川越河筋問屋内国通運会社に加入大嶋屋文書
1876明治9・8・21熊谷県が埼玉県となる
 明治10頃川蒸気船飛鳥丸計画起こる中島家資料
1878明治11・1内国通運会社より一部の問屋分離す大嶋屋文書
 明治11・9・16大洪水起こる
 明治11・9・26千住にて飛切船難破す遠藤家文書
1879明治12上下両新河岸社中約規書なる遠藤家文書
 明治12・8・1早船運賃改正す 荷物壱駄二付拾銭 乗客壱人二付拾銭
(この頃豆州熱海より温泉を運ぶ 明治11〜15)
遠藤家文書
1880明治13・6上新河岸船車所有人録つくる遠藤家文書
 明治13この頃仙波河岸本格的に開設さる
1882明治15・5・11午後2時頃川越の北大雹雨ふり田畑被害
(この頃箱崎町積問屋川越屋勘兵衛から同寿兵衛にうつる)
斎藤家文書
1883明治16・7・28日本鉄道上野―高崎間開通す
1884明治18・7・16日本鉄道大宮―宇都宮間開通す
1888明治21・7・23大暴雨にて出水斎藤家文書
1889明治22・4・1川越町や高階村出来る
 明治22・8・11甲武鉄道新宿―八王子間開通
これにより東京西北部の商品流通路かわる
1890明治23・8・24大暴雨にて出水被害出る斎藤家文書
1892明治25・6・7長雨のため出水、沿岸被害出る
1893明治26・3・31川筋各問屋と東京甘藷問屋の間で契約書なる斎藤家文書
 明治26・5・1河岸場回漕営業者申合規約なる斎藤家文書
 明治26・6・1川越鉄道工事に着手
1894明治27・3・9回漕店申合規約出来る斎藤家文書
 明治27・6・11船主申合規約出来る斎藤家文書
1895明治28・3・21川越鉄道川越―国分寺間開通(日に9往復)
1896明治29船賃表に乗客18銭とあり、これ以降なし斎藤家文書
 明治29・7・6毛武鉄道、新河岸付近駅設置寄付金つのるのち中止となる
(この頃早船―乗客船を主―廃止となる)
斎藤家文書
斎藤家文書
1902明治35・8大暴風洪水、付近被害出る斎藤家文書
 明治35・8・21京越鉄道(東京―川越間)敷設発起される 高山仁兵衛他7名星野家文書
1903明治36新河岸川改修の議起こる斎藤家文書
1904明治37これに対し舟運関係者反対の請願書県に提出斎藤家文書
1905明治38・11・20舟運業者、荒川渡船橋設置反対請願提出(県知事)へ斎藤家文書
1906明治39・4・16川越電気鉄道 川越久保町―大宮間開通(30分間隔にて運転)
1907明治40・8・21〜24洪水出る
舟運は貨物輸送のみで汽車、電車、トラックに対抗
1909明治42・9東上鉄道株式会社創立(伊勢安、井下田回漕店など渋沢栄一にも発起人要請)斎藤家文書
1910明治43・8・11未曾有の大洪水、荒川氾濫す斎藤家文書
1912明治45・3東上鉄道に新河岸駅設置願出す
 大正1・10・23暴風雨起こり被害あり斎藤家文書
1914大正3・5・1東上鉄道池袋―田面沢(川越)間開通斎藤家文書
 大正3・6・17東上鉄道新河岸駅開業
 大正3・8大洪水おそう
1915大正4・4・15武蔵野鉄道 池袋―飯能間開通
1917大正6・11川越町以南志木町までの沿岸各町村長、区長、有志代表の署名をもって当川の改修工事請願書を県知事岡田忠彦宛に提出す のち改修期成同盟会をつくる南田島新興之沿革
 大正6下新河岸観音堂再建す
 大正6川越乗合自動車路線開通す
1918大正7・10荒川上流の工事始まる(〜昭和12年まで)
1919大正8当川県会にて119万9千円全額県費にて改修案決まる
1920大正10・9新河岸川改修工事始まる(〜昭和6年3月まで)
改修工事中、舟運不能のため船頭県へ交渉する
 
斎藤家文書
1922大正11・8・1川越鉄道、西武鉄道株式会社に転ずる
1923大正12〜13関東大震災のため川筋活況を示す
一方震災後高値で荷船売れたため売船多し
1924大正13岩淵水門、隅田水門竣工
 大正13定期的早船(荷船)全面的廃止
1925大正14・1・28上新河岸7戸全焼す
 大正14・7・10東上線電化され寄居まで開通す
1927昭和2・4・16西武線川越―高田馬場間開通
1928昭和3・1・15改修工事につき一部通船禁止(昭和3・9・30)県立文書館文書
 昭和3・8・1通船止めにつき船頭浦和に行き交渉斎藤家文書
 昭和3・10・1改修工事につき一時通船不能となる(昭和5・3・31まで)県立文書館文書
1929昭和4武蔵野鉄道吾野まで延長
1931昭和6・3新河岸川改修工事事務所廃止 新旭橋にて竣工式を挙行県立文書館文書
1936昭和11・2舟運まったく途絶える斎藤家文書
1940昭和15・7・22国鉄川越線大宮―高麗川間開通
1941昭和16・7川越電気鉄道廃止
1945昭和20武蔵野鉄道と西武鉄道合併
1955昭和30・4・1高階村ほか9ケ村川越市に合併する
1958昭和33・3・6新河岸川河岸場跡、川越市指定史跡となる
1962昭和37・12新河岸川第二次改修始まる
1970昭和45・1・12斎藤家、遠藤家文書市指定文化財となる
1975昭和50・4・29旭橋に「河岸場跡」記念碑出来る

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作成:川越原人  更新:2009/8/30