川越と地震


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地 震
「大地動乱の時代」 石橋克彦 岩波新書(新赤版)350 1994年 ★
 幕末にはじまった首都圏の大地震活動期は、関東大震災(1923)をもって終わり、その後、東京圏は世界有数の超過密都市に変貌した。 しかし、まもなく再び「大地動乱の時代」を迎えることは確実である。 小田原地震が七十年ごとに発生することを明らかにした地震学者がその根拠を明快に説き、東京一極集中の大規模開発に警鐘を鳴らす。(カバーのコピー)

第一章 幕末―二つの動乱/三 安政江戸地震/地震動
 図1-5 安政江戸地震の震度分布 によれば、川越付近は震度5と推定されています。
 (安政江戸地震:安政2.10.2(1855.11.11) M6.9)

第四章 関東・東海地方の大地震発生のしくみ/三 首都圏直下の大地震/元禄大地震前後の活動
 1703年の元禄関東地震の後、1791年1月(寛政2年11月)に埼玉県南部の蕨や川越・岩槻などで多少の被害を生じた地震が記されています。

第四章 関東・東海地方の大地震発生のしくみ/三 首都圏直下の大地震/過去の大地震の震源域
 「1649年の慶安武蔵地震は、川越の大被害と川越領の地変の伝聞記事が重視されて、川越に近い浅い地震(aの活動、たとえば荒川断層)という解釈が主流になっている。しかし注意深く調べてみると、川越の被害は誇張されているようだし、地変は埼玉県東部の液状化だった可能性もあり、いっぽう江戸では大名屋敷の被害が激しくて死者も多かった。ある程度余震があったことも考慮すると、安政江戸地震と同じbタイプで多少北寄りだったという可能性が高い。」

「大江戸・小江戸(川越)対比 歴史年表事典」 小泉功・青木一好 ルック 1999年 ★★★
上記に対応する記事を抜粋して記載します。

1855 安政2 …(1855/11/11:安政02/10/02 35.65°N 139.8°E M6.9) 
(大江戸)「江戸地震」発生。下町では特に被害が大きかった。地震後30余ヶ所から出火、焼失面積は、2.2平方キロメートルにおよんだ。江戸町方の被害は、潰れ焼失1万4千余、死4千余、瓦版が多数発行された(地震火事)
(小江戸)江戸地震により被害発生(10月)

1790 寛政2 …(1791/01/31:寛政02/11/27 35.8°N 139.6°E M6〜6.5) 
(大江戸)川越・蕨地方に被害を出す地震発生。蕨で堂塔が転倒し土蔵なども破損、川越で仙波東照宮の屋根など破損。
(小江戸)大地震、仙波東照宮の屋根が破損(11月)

1703 元禄16 …(1703/12/31:元禄16/11/23 34.7°N 139.8°E M7.9〜8.2)
(大江戸)元禄地震で武蔵・相模・安房・上総諸国の被害甚大。江戸では37,000人余りが犠牲になる。特に小田原で被害大きく、城下は全滅、12ヶ所から出火、壊家8千以上、死者2,300人以上。東海道は川崎から小田原まで殆んど全滅。1923年の関東大地震に似た相模トラフ沿いの巨大地震と思われるが地殻変動はより大きかった。
(小江戸)大地震発生(11月)

1649 慶安2 …(1649/07/30:慶安02/06/24 35.8°N 139.5°E M7.0)
(大江戸)川越で大地震、町屋700軒ほど大破、江戸城で石垣などが破損、日光東照宮破損。余震日々40〜50回
(小江戸)川越で大地震発生(6月)

「東京地震地図」 宇佐美龍夫 新潮選書 1983年 年 ★
 宇佐美さんは理論的研究が専門で「地球の表面をつたわる表面波型の合成」などよく知られた論文がある。その宇佐美さんが最近は古文書にこっている。どうやら手書きの字も読めるらしい。それには勿論、理由があり、古文書を調べ地震の発生について知ることは地震学にとって根本的に大切なことの一つである。著者は近代地震学の知識に基いて歴史の欠落している部分をおぎない、東京の地震について全体像をまとめ上げた。東京を襲うかもしれない地震について考えるときに、素人にせよ専門家にせよ欠くことのできない資料である。それのみならず内容はきわめて厚い。いろいろな意味で興味のつきない話が次から次へと出て来る。本書はきわめてわかりやすく書かれている。しかし決して単なる啓蒙書ではない。中身の正確さから見れば学術書と云ってもよいであろう。本書を読めば地震とは対策をちゃんとすればかならずしもおそろしくないことが理解できる。 浅田 敏 

 第四章 江戸のおもな被害地震
   三 慶安二年六月二十一日の地震  子丑刻

 江戸周辺の状況は次の通りである。
 日 光 東照宮の石垣・石の井垣に破損があり相輪塔が傾いたが御本社御宝塔は
      安泰であった。
 川 越 町屋七〇〇軒大破。松平伊豆守知行地の五百石の村、七百石の村二村で
      田畑とも地形が三尺ほどゆり下る。
 東海道 掛川までゆれたが、それより上方はゆれなかった。
 上伊那 人体に感じたらしい。
 以上のことから、この地震の大体のひろがりがわかる。
 江戸の被害で示唆的なものは細川光尚家の上屋敷の大広間の被害は立修理は不可能であるが、下屋敷は少しずつ損ぜざる所はない程であったが立修理可能であったという記録である。立修理というのは、家をとりこわすことなく、そのままで修理することであろう。細川家の屋敷の破損はこの立修理ができるか、できないかという程度の被害であったと見てよいであろう。しかし大名家の長屋には立修理不可という被害や、崩れ程度のものもあった。具体的被害のわかっている長屋は松平薩摩守の長屋など九ヶ所である。死者数ではっきりしているのは約五〇人である。
 当時の総括的な調査報告は見当らないのでこういう具体的被害から江戸全体の被害をどのように推定したらよいか戸惑う。しかしこの他にも江戸城の石垣・石壁などの破損は一〇ヶ所に及んでいるというし、見付でも破損した所としない所がある。一方、「殊の外殿中の家が破れたが、町では破れなかったが、土蔵の壁などは皆落ちた」という報告もあるし、また、「民家倒れ、その他諸大名の瓦葺悉崩る、人死多し」というような記録もある。このあとに「此時より瓦葺の分皆々コケラ葺となる」と記している。
 以上の記録からみると、町屋は破れず土蔵の壁土だけが落ちたというのは誇張にすぎるとしても、瓦葺の家の被害が大きく、屋根の重いことが被害の原因であったと認識できるほど、町屋(コケラ葺?が多かった)と大名屋敷(瓦葺)の被害の差がはっきりしていたのだろう。こういうことから震度はXくらいと推定される。さらに地動の周期が短かく、丈夫そうな家の周期に共鳴して、瓦葺の家がこわれたり、土蔵の壁が落ちたと考えられる。周期の短かい地動があったということは、震源地が比較的江戸に近いということを示している。こういうことを総合的に考えると震源地は東京付近となる。一方、最近にわかった川越の被害は、川越付近の地盤の悪いことによる所が大きいと思われるし、液状化現象らしい点もあるので、このためとくに震源地を変更する必要はないであろう。
 また、人体に感じたのが西の方は、伊那・掛川付近までであるとすると、地震の規模は六程度で、とても七に達するとは思えない。
 以上は被害を低く見積ったときの場合である。もし以上述べた具体的な被害実例から文書に残っていない他の大名屋敷にも同程度の被害があったと推定すれば、江戸の震度はYに近くなり、規模は七・一くらいになるであろう。古い地震で、たとえ史料があってもその記述が当時の様子を網羅的に伝えているのでなければ、震度や規模の推定にこのていどの違いが生じうるということを知る、よい例であると思う。
 なお、この地震では余震が多く、六月七回以上、七月二〇回余、八月一〇回余、九月四回の記録がある。また、この地震で上野東叡山の大仏の首が落ちたという記録もある。この点については、ハッキリしないが、前の正保四年の地震か、この地震の何れかで首が落ちたので、二回も落ちたということではないかも知れない。

「安政江戸地震―災害と政治権力 野口武彦 ちくま新書100 1997年 ★
 大地震がいつ起きたかは決定的に重要であった。1703年の元禄地震では幕府はびくともしなかったが、1855年の安政地震ではがたがたになった。もう自然災害の範囲で食い止められなくなっていたのである。巨大災害は、一国の政治経済、社会生活、世相風俗に潜在していた諸内因をいちどきに顕在化する。江戸の地殻に走った亀裂が、やがて徳川幕府の基盤を掘り崩して政権瓦解に至る歴史のうねりを臨場感溢れる筆致で描く。

「明治・大正・昭和の郷土史11埼玉県」 森田武編 昌平社 1982年 ★★
 大正デモクラシーの光と影/関東大震災の被害

種 別建   物檣塀
石垣
人の死傷
郡 市全壊半壊破損
川越市433177785114819
北足立郡3,2632,63118,80924,703529103206309
入間郡3973003,4854,1829231114
比企郡3062171,9412,46449156
秩父郡1678
児玉郡3161923
大里郡41429451,0287055
北埼玉郡6402136,5097,36232775158
南埼玉郡2,1811,32816,83420,34319872139212
北葛飾郡1,1988847,0119,0934852299121
合   計8,0735,64656,33370,0521,795217517734
  (内務省社会局「大正震災志」より)

「関東大震災」 姜徳相 中公新書414 1975年 ★
 地震と火災による交通・通信機関の破壊は、人心不安をもたらし、その混乱の中で朝鮮人武装蜂起の流言が発生し、拡大していった。 直ちに戒厳令が布告され、警察は軍隊とともに、自警団の協力も得て、朝鮮人狩りを開始した。ここに空前の虐殺事件が出来した。 流言ははたして自然発生のものなのか。虐殺の犯人はだれか。どうしてこうも大規模になったのか。二度と事件が発生しないことを願う著者は、執拗に真相に肉迫する。(帯のコピーより)

 U.流言の発生/流言の種類で、
九月一日夕刻前後から各地で発生した流言を紹介しているが、そのなかに川越に関するものがある。
 一日、その夜はいずこの家もことごとく屋外生活、しかるに午後九時ごろ警鐘が乱打され不逞鮮人来襲の飛報がもたらされた。川越市民はことに老幼はほとんど近村に避難した(埼玉県芳野村)   (『かくされていた歴史』)

証言と記録 川越文化ものがたり」 川越文化会編 さきたま出版会 1993年 ★★★
8 関東大震災を語る
 日本がひっくり返る日/古老に聴く「関東大震災」/川越市の被害状況(川越震度6、歩行困難/地震はいっぺんに来るのではない/地震と満員のチンチン電車/三十人くらい非難してきたわが家/蚕室いっぱいの蚕がたくさん死んだ/七輪の上の薬鑵が自然の火消し/「火を消せ」と言われても歩けない/地震を予知した利口な馬/驚天動地≠アの世の終わりかな/地震襲来直後の西武鉄道川越線/震災当日の東上線の状況)/震災発生後の川越市の対応/新聞は大震災をどう報道したか/ひと足遅かったラジオ放送/大震災発生と戒厳令の宣告/大震災余話/朝鮮総督府からの贈り物と孔子様の国の曽さん

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作成:川越原人  更新:2020/11/02