生沢クノ


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生沢クノ
「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★
・近代女医の誕生は埼玉から?
 国が公式に認可した近代女医の一番目は荻野吟子(おぎのぎんこ)(明治18年)、二番目は生沢(いくさわ)クノ(明治20年)ともに埼玉県に生れ育った女性だった。ロケットや宇宙船じゃあるまいし、一号、二号などのよび方は避けたいものである。
 現在の妻沼(めぬま)町俵瀬(たわらせ)(大里郡)に生まれた吟子は、産婦人科医開業、社会運動家として活躍するかたわらキリスト教に入信、40代以後、夫とともに北海道での理想郷建設をめざし、夫は彼の地で没した。
 一方、クノは、川越、川本、生れ育った深谷で産婦人科を開き、足利市内の病院で産婦人科副院長をつとめ、生涯独身、地域に密着した医療活動に献身した。埼玉の近代史、女性史上、筋金の通った両者の存在に心うたれるものがある。
 人権運動、婦人解放運動家としての一面を発揮した荻野吟子を理解するうえで、衆議院傍聴を女性にも認めさせた矯風会(きょうふうかい)有志の主要メンバーであったことも再認識したい。荻野吟子の全生涯が一躍全国区になったのは、医師としての科学者の眼と、作家としての感性をあわせもつ渡辺淳一の『花埋み』(はなうずみ)が多くの読者に迎えられたことによる。高校生対象の読書感想文コンクールの課題図書に選定され、全国の青少年が真摯(しんし)にこの小説に向かった。『花埋み』は、近代女医の嚆矢(こうし)であった吟子の、忘れられ埋もれていた業績と苦悩に光をあてる確信と、春の訪れを象徴する県東部水田地帯のれんげの花――吟子生地の景観、環境とを会わせた書題なのである。
 16歳で結婚するが夫から性病をうつされて離婚された吟子、くり返される診察時の精神的苦痛、彼女は家出同然で上京し医学の修得に専念する。学業の場を得ること自体、女性排除のカベがあり、開業試験そのものが、女性への門戸が固く閉ざされていた時代だった。
 一方、クノが学んだ東亜学校では、クノもひとり別室で授業を聴講させられていたし、自身、断髪男装で通したという。クノが学んだ講師の一人が若き日の森林太郎(鴎外)であった。
 吟子は35歳、クノは23歳で医師試験に合格したのであったが、東京本郷に産婦人科荻野医院を開いた吟子の、次なる壁は、無知と貧困という、医療以前の社会環境におかれた女たちとその家庭であった。社会改革、婦人解放運動は、吟子の心底からの挑戦だったのである。
(宮内 正勝)

「埼玉の女性」 発行:NPO法人 サイシップ 出版:人物新報社 2004年 ★
特別編 埼玉の女性 偉人伝
 生沢クノ (いくさわ くの)   地域診療に尽くした女赤ひげ
 ●プロフィール
 生没年:元治1.12.26〜昭和20.6.18(1864−1945)
 ゆかりの地:深谷市
 学 歴:東京女子師範学校、私立東亜医学校
 主な業績:深谷、寄居、児玉、川越、川本、足利など埼玉近隣各地で医業を営む
 苦学して日本の女医第二号となった生沢クノは、八十歳の長寿を全うするまで埼玉の地域医療に献身的に尽くした人物である。
 父・良安は深谷で医院を開業していた蘭医であり、日ごろ父の姿に畏敬の念を持っていたクノもまた医者になることを決意する。当初女医への険しさを想い反対した良安であったが、クノの意思が固いことを知ると上京を許した。東京女子師範学校で学び、止敬塾に松本万年・荻江の指導を受けて漢学等を学んだクノであったが、医学を修めるにあたっては大変な苦学を強いられる。
 東京府病院で見習生となり、山崎産婦人科での実習を経たのち、当時女性が医学を学ぶ場所が得られない中、特別に私立東亜医学校に入学が認められたが、十八歳のクノは断髪・男装という出で立ちで通学しなければならなかった。また授業も一人別室で森鴎外らの講義を聞くという状況で、「別室先生」などとあだ名される日々を耐えたのである。
 大変な苦労のなか医学を修めたクノであったが、医師免許を手にするまではさらなる苦心を重ねねばならなかった。1883年医学試験請願書を東京都に、次いで埼玉県に提出するが女性に前例のないという理由で却下されるのである。その後努力の甲斐あり医師免許法の改正で受験が可能となったが、過労のために最初の試験を見送る。
 それでも努力を続けたクノは1886年には試験に合格、免許を取得すると直ちに故郷に帰り、父良安を助け医者として診療を始めた。寄居町で開業していた父を手伝い昼夜を問わず奉仕をし、児玉町には分院を設けて出張診療を行った。衛生思想の普及にも尽力し、川越で開かれた大日本私立衛生会埼玉支部総会では講演もしている。その縁で川越でも開業することになるが、それは横暴な官医に代わって遊郭・茶屋の女性の検梅を行うためであった。精魂を込めた治療に人々は、クノを「女赤ひげ」と呼んだという。
 川越を去って後は郷里深谷での診療が中心となったが、どこにおいても良安親子は名利を求めず貧しい人々を相手に治療を尽くした。児玉の分院の看板に良安が書いた「医士生沢」の文字は、病に対する武人としての志を表しているが、それは良安が死して後もクノの心に受け継がれ、クノの一生は埼玉のために捧げられるのである。

「埼玉の女たち」 韮塚一三郎 さきたま出版会 1979年 ★
20 女医第二号 生沢クノ
 吟子と共にすぐれた女医の開拓者。生涯地方の一女医として、地味に生きる。
 生沢クノ(久野・久乃)は、荻野吟子に続いて、日本で第二番目の女医になった人である。
 クノは元治元年(1864)十二月二十六日、医師生沢良安の三女として生れた。生地は武蔵国榛沢郡深谷宿(現・深谷市深谷)である。父良安は栃木県都賀郡牛久村の出身、母多幾は、群馬県邑楽郡下五箇村の出である。
 父良安は当時地方では珍しい蘭医で深谷宿に開業していた。明治八年良安は熊谷県から「種痘免許候事」という免許をえているほどだから、このころ既に信用ある医者として認められていたものとみられる。
 クノは天性俊敏だった。クノが女医を志して上京の許しを良安からえたのは明治十年である。この時クノは年齢ようやく十三歳の少女だった。クノが女医を志したのは良安の影響が大きかったものとおもわれる。後年クノの語るところによると、彼女が父良安の許しをえた日は、良安が官から四人の死体をもらいうけ、日頃念願とした人体解剖がかなって、西洋医学の進歩に感激、一家はもちろん出入の者にまで酒肴を与えて、そのよろこびにわきたっていた日だったという。いわばクノは良安にとって最良の日に医師たるべく上京の許しをえたわけである。もっとも良安といえども、女医の門戸を開くことの困難を知っていたから、その翻意を促した。しかし、クノの決意の難いのを知ってこれを快諾し、クノを東京に旅立たせたのだった。この父にしてこの子ありというべきである。こうしてクノは女医に向っての第一歩を踏み出したのであるが、おもえば吟子が四周の反対をおし切って上京したのにくらべれば、まことに順調な出発である。
 上京後のクノの歩んだ道は、吟子のたどったそれとほとんど同じだった。彼女は東京女子師範学校に入る準備として、まず郷党の硯学松本万年の開設する東京九段の止敬塾に学んだ。吟子も郷里にある時妻沼で万年の教えをうけているから、二人はここに偶然同門となったわけである。クノと吟子は万年の止敬塾で時々顔をあわせることがあった。しかし、クノは吟子が万年の娘荻江と義姉妹の契りを結んでいたほどの仲であるということなどはまったく知らなかった。そんなわけで同門、同学、同郷の二人の間には、遂に友人としての交際は開かれずに終った。
 止敬塾に学んだクノの学費や生活費がどのようにまかなわれたかは明らかでない。ただそのころの良安の経済生活が豊かだったとは考えられないから、十分であったとはおもわれない。クノが学費、生活費をどのようにしてまかなったかにおもいをはせれば、尋常の努力ではなかったであろう。年齢的にいえばそれが十三歳から始まっているのだから驚く。内職をやったとしてもどんな内職であったろうか。いずれにせよ西も東も知らぬ東京での少女クノの、内に闘魂を秘めた粒々辛苦の生活がおもいやられる。
 クノは吟子と違って、直線的に医業の途をえらんだ。それは東京女子師範学校への進学の希望を中断して、一旦芝愛宕下にある東京府病院に見習生として採用してもらうという途をえらんだ。時に十六歳。東京府病院では山崎産婦人科に属し、名医山崎元修の指導をうけた。
 しかし、彼女はなんとかして、本格的に医学を修めたかった。そこで八方奔走の末、遂に東京神田駿河台の私立東亜医学校(校長樫村清徳)に特別入学を許された。ここには憂愁な教授陣が揃っていた。森林太郎(後の陸軍軍医監・作家号森鴎外)も講師の一人だった。時にクノ十八歳、上京五年目のことである。東京医学校はもちろん女人禁制の学校だったから、クノは断髪男装で通学、男子教室の隣の一隅に机を与えられ、修学に励むことができた。男学生から「別室先生」の異名を奉られたのはこの時のことである。もちろんクノと机をならべる女性はいなかった。彼女は女子学生として男性の中でただ一人学ぶくるしみをいやというほど味わった。
 クノは学業が進んだので、明治十六年六月に吟子同様東京府に医学試験請願書を提出したが、規則上の理由をもって却下された。女性には前例がなかったからである。それを不満としたクノはあらためて翌年九月、埼玉県令吉田清英に請願書を出したが、これも残念ながら却下された。クノはここで男尊女卑の封建的因襲の壁の厚さをしみじみと味わわされた。無念の情切なるものがあったであろう。
 この時のクノが吉田県令に提出した請願書は「日本女医史」の扉写真に載せられているが、同性のために女医の道を開くべきだとする論旨の展開は、その文章の雄健と相まって、彼女の燃える闘志を感ぜざるをえない(この請願書の全文は、資料その二に掲げてある)。クノが書にみごとであったことは、クノが父良安、母多幾のために建てた墓碑銘からも察することができる。
 吟子をモデルとした渡辺淳一の小説『花埋み』では、吟子が埼玉県令吉田清英に出した請願書を載せているが、あれはフィクションで、クノの提出したものを転用したものである。ただ吟子もクノも符節をあわせたように、「同性の苦しみを救うために」と訴えている。これは当時女医の門戸を開こうとした彼女たちの共通の悲願であり、これをおいて当時閉ざされた門戸を開く突破口は見出せなかったものとみられる。
 明治十七年医制が改正されて「女医公許」が決定したので、クノはこの記念すべき最初の試験に応じようとした。しかし彼女は不幸にも過労のために病床にあって、ついにこれを見送らねばならなかった。待望していただけにその無念さがおもいやられる。この試験は吟子他三名が受験したが、吟子だけが合格している。
 最初の試験を逸したクノは、健康も回復したので次回の試験の万全を期して、同年十二月私立医学校済生学舎に入学した(当時クノがさきに学んだ東亜医学校はこの時廃校同様になっていたからである)。しかし、ここには実地修業の道がなかったので、東京慈恵院医学校(現・東京慈恵会医科大学)に懇請して、その付属の東京病院で、高木兼寛について臨床医学の指導をうけた。
 そして、明治十八年三月「前期試験」をパス、同十九年十一月には「後期試験」をも通って、荻野吟子につづいて日本で第二番目の女医の資格をえ、翌二十年二月医籍に登録されたのである。
 この時クノは郷里を出てから既に十年を経ていた。おもえば不屈よく堪えた十年だった。そのよろこびも察するに難くない。しかもクノはまだ二十三歳の若さであった。いかに俊英であったかがわかる。
 さて、このようなクノの苦闘の歴史は、吟子のたどったそれと概して差はなかったとおもう。しかし、その後のクノと吟子の歩んだ道はいかにも対照的である。
 吟子が公許をうると、彼女を知る多くの人びとに祝福されて、東京に婦人科の荻野医院を開き、やがて婦人運動の先頭に立って名流婦人となったのに反し、クノは生涯地方の各地を転々、医療にしたがって終始し、社会のおもてに出ることもなかった。またあえて出ようともしなかった。
 医籍に登録されたクノは、当時父良安の開業していた榛沢郡寄居町に帰って(良安はクノの修学中深谷から寄居に移っていた)、父の医業を助け、児玉郡八幡山町(現・児玉町)に分院を開いて、定期的に出張診療をした。その看板は今も存するが、それには「医士生沢」と記してある。これは注意を要しよう。クノは単に医を商売だとする医者とは違うと自負したようである。
 クノが寄居にあって父を助けたのは約一年で、その後は彼女は独力で医業に専念すべく、川越に医院を創立した。その期間は約十年であるが、この十年間が生涯中でもっとも希望を燃やした時代であったろう。しかしそれも母多幾の死によってその後のクノの生涯を大きく変えた。クノは良安を助けるべく、それからは本畠村(現・川本町)、深谷と転々として良安を助けて医業に従う。そして良安の死後は約十年間深谷で医院を続けたが、大正十年五十七歳に及んで医院を閉鎖し、足利の岩根病院が、産婦人科医を求めているのを新聞広告で知って、これに応募、ここで昭和七年六十八歳まで十二年間働き、ついに医者としての生活を閉じた(年譜参照)。
 これよりさき明治四十四年(良安没後三年)クノは北海道に住む妹家寿を説得して、その一家を深谷によびよせ、医院の一部に写真業を開業させた。八柳写真館である。岩根病院を辞したクノは、この家寿の夫の経営する八柳写真館に身をよせ、カトリック信者として、ひっそりと余生を送っていたが、昭和二十年六月十八日、終戦間近にして、八十一歳で土に帰っていった。みとったのは家寿ら僅かな近親のみだったという。
 女医第二号の女医としてのクノにとってはまことにさびしい最期である。戒名は真誉妙貞信女、深谷町本町正覚寺父生沢良安の墓側に葬られた。
 クノの事歴は以上によってその大概を尽すことができたかとおもう。そこでここではその生涯を三期にわけて、その人間像をもう少し浮き彫りしてみることにした。
 その第一期はクノが女医開拓者として、その目的を達成すべく不屈不撓たたかった時代である。
 クノは晩年「女医界雑誌」の記者多川澄子の問いに答えて、つつましやかな中にも厳然と
 「日本女医の道を開いたのは、荻野さん一人の力だけでなく、その中には高橋瑞さん(女医第三号)と、私とが加わっているとおもいます。」
と語っているが、まさにその通りであって、この言葉にはいささかの虚飾もない。女医を志した年代的早さ、女医公許の運動にたずさわっての貢献度、さらに不屈不撓その目的を達成した精神の強靭さ、その英知、それらのいずれをとってみても、吟子と大きな隔たりがあるものとはおもわれない。やはりクノは時代を切り開いた後世に伝えられるべきまれにみる女性であったとおもう。
 第二期について考えてみたいのは、クノの医業の足跡である。クノはすでにのべたように寄居(父と共に)・川越(独立)・本畠(父と共に)・深谷(父と共に、その死後は独立して)で開業している。しかしそれは、開院閉院の連続であった。決して医業に成功した人の姿ではない。しかも最後の深谷では家主から立ちのきを求められ、家を渡さねばならぬ事情に追いこまれていた。そこで新聞広告によって足利の岩根医院の雇われ医師として、終っているのである。
 その原因は何か。父良安をたすけねばならなかった家庭事情も一つである。もう一つの原因はクノが看板に「医士生沢」と書いたように「医のさむらい」で名利を好まず、加うるに事業の人ではなかったことである。ことに非社交的な人であったらしいこともみのがせない。
 しかし、事業に成功しなかった最大の理由、根本要件ともいうべきものは、クノの人柄にあったというよりも、その責任は社会にあったと解される。当時の社会、ことに農村社会はすこぶる貧困で、一家内に病人が生じても、薬草や売薬を服用したり、あるいは加持や祈祷を頼んでそれ以上のことをしなかった(そうせざるをえなかった)。極論すれば瀕死のばあい以外医師を頼むことが出来なかったのである。したがって中産以上の家庭でなかったなら、医師を迎えるということをしなかった。このことは時代が下っても同様で私の郷里(現・深谷市)でも例外でなかったことは、記憶に存するところである。しかも当時の町村での衛生思想はすこぶる低く、無知に等しかった。深谷時代のクノの通院患者は一月五、六人程度だったという。これでは医業が成り立つはずがない。それに医療費も即納とは限らなかった。現金のはいった時をみはからって医療費をとりたてるという状態だったのではないかとおもう。したがって医を業とするものは一般的には資産家でなければならなかった。それから、当時の封建の遺風は、あくまで男性本位で、日本女医第二号であったクノといえども、「たかが女の医者が」と軽くみられたのが当時の社会的風潮であったこともクノの背に重くのしかかったことは否めない。
 その中にあって、クノは良安に孝養をつくすことはもちろん「医士」としてのプライドをもって、貧しい病人には無料で医療をほどこし、人情深いところをみせ、かつおのれを持するに厳であったというからさすがの人といえよう。
 女医としてのクノの生涯は以上によってその大概を尽したかとおもう。しかしクノが、吟子のように東京にとどまらず、父のいます地方にくだったのは、地方医療の普及こそ、わが開拓すべき新天地と決意したためとおもう。これこそ彼女の英知と解釈すべきものである。しかしこのことについて、そのような地味な道をあるくについては、クノ自身に秘められた涙がかくされているようにおもわれてならない。クノには生れながらにして不幸にも右頬に小児の掌大の赤いアザがあった。そのアザは彼女が色白だっただけに、一層鮮やかだった。クノの悲しみは成長するにしたがって、深まっていった、自然非社交的にもなっていった。地方に彼女が夫とするにたる理解ある人がいなかったのかも知れないが、ついに独身ですごすようになった原因も多分にここにあったとおもう。
 東京のようなはなやかな社会を避けて、素朴な郷里に帰ったのも、非情なみかたかも知れないが、その非社交性のためであったかと考えられる。ことに郷里には、自分をよく知る父がいる。その父に孝養をつくすのも、彼女にとっては大事なことで、それをせずには安んじられないことだった。
 以上は私の推測にすぎないが、「女医界雑誌」の女性記者多川澄子もクノの非社交性と独身の因をアザに帰していることは私の見解と同様である。ところで多川はさらに女医志願の動機をも、自分のアザを消そうとすることが原因だったろうと指摘するのである。
 すでにのべたように、クノが女医志望を訴えた日は、父良安が人体解剖をはじめておこなって、西洋医術の進歩を目のあたりにした日だった。多感なクノがこれに鋭敏に反応したことは想像に難くない。こうみてくると、多川澄子が指摘したように彼女の医学希望のそもそもの発端はここに発するかも知れない。
 おもえば、彼女は不運な星のもとに生れて来たものである。
 第三期はクノの晩年である。クノが足利を去って妹家寿の夫が経営する八柳写真館に身を寄せ、ここでなくなったことはすでにのべた。彼女は写真館の一室を与えられ、読書に親しみ、カトリックの信者ともなっていたので、安穏な生活をしたようである。終戦間近な物資不如意の時代であったが、髪はいつもきれいにくしけずり、服装も清潔にしてい、亡くなるまじかになるまで非常に元気だったという。それに、クノの医療をうけた人の中にはそのすぐれた技術、無料で施療までしたその無私の精神を尊敬していた人が残っていた。それがクノにとって無言の支えになっていたのみならず、為すべきことはなしたという悔いのない心境も力になっていたであろう。しかしクノも次第に寄る年波には争えず、加うるに第二次世界大戦はわが国の敗戦の色を濃くしていったので、クノも来し方行く末をおもって晏如(あんじょ)たらざるものがあったであろう。
 こういう時にしきりにその脳裡を去来するものはやはり父の姿だった。ほほえみを浮かべて東京遊学をゆるした父の温顔は今も昨日のようで忘れることができない。また、多難な医院経営を共にしたがらも、「医士」としての誇りを失わず、ともに事に従った父はやはり尊敬されてならない。クノはその死に臨んで
 「父の墓側に埋めて欲しい」
と遺言したという。この一言はクノの人物を語っていると共に、クノの生涯を語る言葉でもある。クノにとってもっとも尊敬しえたのは父良安ではなかったか。
 最後にクノの死後のしあわせとでもいうべきものを記して、筆をおこうとおもう。
 クノはその死に先だつ二年前(昭和十八年)「女医界雑誌」の記者の訪問をうけた。その訪問記は「生沢クノ刀自を訪う」という一文となって、翌十九年の一月に同誌に掲載された。これはクノにとっては一代の幸いなことであった。こえて昭和三十七年九月に『日本女医史』が編さんされると、これが貴重な資料となって、女医開拓者としての偉業が広く紹介されることになったからである。もちろんそれは吟子、瑞と肩をならべてのものだった。
 おもえば人間の運命くらいははかり知れないものはない。クノはこのようにして、死後十七年にして女医史によって永遠の人となった。これはクノの死後の光栄というべきものである。
 クノにはさらに死後の安心ともいうべきものがあった。それを書き加えよう。
 私はこの稿をおこすに当って、さる五十年十二月十五日、深谷市に住む郷土史家田中正太郎氏の案内をえて、クノの眠る深谷市本町の正覚寺を訪れた。同寺は深谷の旧本陣である飯島家の裏手に位し、深谷市街の中心部にあるが、はじめて訪れるものにははなはだわかりにくいところである。墓域が荒れているのは無住のためでもあろう。しかし生沢家の墓地には「生沢家之墓」という真新しい墓碑も建っていてすぐそれとわかった。
 クノはこの生沢家の墓の下に眠っていたのである。しかもその隣にはクノが建てた父良安、母多幾の墓碑も建っていた。私はクノが遺言のように良安の墓側に葬られているのをみてホッとするとともに、クノの幸福をおもうのだった。と同時に、吟子の墓が東京雑司ヶ谷霊園に一基ポツンと、さびしそうに建っている姿をおもい出した。

「さいたま女性の歩み 上巻 ―目ざめる女たち― 編集発行埼玉県 1993年 ★
第一章 新しい文明に接して
 第四節 新しい職業分野への進出
  一 女医の誕生
女医一号・二号の誕生
 女医の第一号は萩野吟子であり、第二号は生沢クノである。萩野は明治十七年(1884)九月医術開業前期試験に合格し、翌三月後期試験に合格し、開業医の資格を得た。開業免許は明治十八年に授与された。三五歳である。生沢は病気のため第一回の試験を受けず、明治十八年三月に前期試験同十九年十一月後期試験に合格し、同二十年三月免許を受けた。二三歳である。
 開業試験を受けるまでにたどった道は同じではない。
   (中略)
 生沢クノは武蔵国榛沢郡深谷宿(現深谷市)で開業していた生沢良安の子として、元治元年(1864)十二月二十六日生まれた。若くして寺子屋で古事記・日本外史等を勉強した。一三歳の時父良安が初めて人体解剖をし西洋医学に自信を深めて帰った日、日ごろ父の姿に畏敬していたクノは、父に女医になる決意をひれきした。父も娘の志に感じ、その教育にかけた。クノは明治十年(1877)上京し、松本万年の止敬塾に学び、次いで市立東亜学院山崎婦人科に特別入学した。女子禁制なので男装して聴講した。
 二人の勉学コースは別々であったが、女医になろうとする決意は同じで、最大の難関である開業試験を女性に開放するために、それぞれ努力した。萩野は明治十五年東京府に対し開業試験を受ける願書を出したが、二度とも却下された。次いで埼玉県でも却下された。明治十七年四月高島嘉右衛門の紹介状で衛生局長長与専斉に会って訴えた。長与は可能性を示唆した。生沢クノは明治十六年六月東京府に対し開業試験に門戸を開くよう請願書を提出したが却下された。さらに同年九月本籍地である埼玉県の知事宛に提出したが却下された。この文は産科医になる決意を述べた雄渾なものであった。内務省は明治十七年医師開業試験を女性にも開放することを決定した。このようにして女医が初めて誕生することになった。
 内務省がこのような決定をしたことについて、これまで萩野吟子の貢績が高く評価されていたが、以上のように今日では生沢クノの努力もあったことが明らかにされている。のみならずこのほかにも努力した人々があったといってよい。

故郷の医療に奮闘したクノ
 生沢クノの人生は吟子と大きく異なっている。彼女は医業開業試験に合格すると直ちに故郷に帰った。榛沢郡寄居町で父の医業を援助した。明治二十年(1887)である。新しい医療器具をもち新しい医術を駆使するので地元で高い評判を得た。のみならず患者に請われれば、昼夜遠近をとわず奉仕した。明治二十年児玉郡八幡山(現児玉町)に分院を設けたのも地元の人に請われたからである。クノは医療のかたわら、求められれば、浦和・川越等の遠方をかえりみず衛生思想の普及のため講演もした。
 このあと良安およびクノはしばしば居をかえて医療に従った。明治二十一年から同三十二年まで川越町で、次いで大里郡本畠村(現川本町)において、さらに同三十九年から大正十年まで深谷町(現深谷市)において医療にあたった。明治四十一年(1908)四月父良安が没した。川越町で開業したのは、川越町の地元に求められ、横暴な官医に代わって、遊郭・茶屋の女性の検梅を行うためであった。深谷町で医療にあたったのは老齢の父の開業を助けるためであった。敬愛する父を失ったクノは、このあと父の生まれた栃木県宇都宮で開業した。しかししばらく再び深谷に帰って治療に従事した。
 大正五年(1916)以降は唯一人の肉親である妹の家寿と生活を共にし、家寿の養子 壮一の孝養をうけつつ、昭和二十年(1945)六月十八日没した。
 良安およびクノは四つの町村で開院し、いずれも拡大することなく閉鎖するにいたっている。それは名利を求めず報酬をあてにせず貧しい農民と商家を相手に医業を専念したからといわれている。八幡山分院をつくった時父良安は看板に「内科外科産婦人科医士生沢」と二行に書いた。「医士」とかいたのは良安が医療を金銭化することをきらい、患者に奉仕する心意気を示したもので、クノもまたその志を受け継ぎ、一生を故郷のために奉仕したといってよい(田中正太郎『生沢クノ伝』による)
 女医第二号としてのクノの存在は、昭和十八年女医会雑誌記者多川澄子によって明らかにされ、その事績が雑誌に紹介された。それはクノの没二年前である。
 なお、明治年間埼玉県で開業していた女医は極めて少ない。明治三十八年埼玉県で開業していたのは、生沢クノの外に、井上愛子(大宮町=現大宮市)坂本しづ子(東金子村=現入間市)中村きく子(上中条村=現熊谷市)の三人である。

「くらしの風土記 ―埼玉― 野村路子 かや書房 1983年 ★
 ・女医一・二号にみる埼玉の女

「埼玉史談 第23巻第4号」 埼玉郷土文化会 1977年1月号 ★
 先駆的女医生沢クノ(上)  田中正太郎
日本に女医誕生
生沢クノ略伝
多川澄の評価
郷土と生沢クノ
クノの系累関係
クノに関する聞書き

「埼玉史談 第24巻第1号」 埼玉郷土文化会 1977年4月号 ★
 先駆的女医生沢クノ(下)  田中正太郎
生沢クノ年譜
(資料一)医学試験請願書
(資料二)良安夫妻の墓碑銘
(資料三)生沢家の戸籍

「埼玉史談 第24巻第2号」 埼玉郷土文化会 1977年7月号 ★
 女医第二号生沢クノ  松島光秋

「埼玉史談 第24巻第3号」 埼玉郷土文化会 1977年10月号 ★
 女医生沢クノ(補遺)  田中正太郎

「埼玉史談 第24巻第4号」 埼玉郷土文化会 1978年1月号 ★
 先駆的女医生沢クノ(補遺)  田中正太郎

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 荻野吟子(おぎの ぎんこ)
1851〜1913(嘉永4〜大正2)明治時代の医師。
(系)荻野綾三郎の5女。(生)武蔵国大里郡(埼玉県)。(学)私立医学校好寿院。

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作成:川越原人  更新:2009/8/31