下総 報恩寺

                 ニ十四輩第一番 性信
聖人舟繋之松
親鸞聖人が八十三歳の時、親鸞聖人の息男善鸞による異義事件がありました。現在伝えられている親鸞聖人の消息(手紙)によって善鸞が鎌倉幕府に関東の弟子たちを訴えたことが判ります。この対応に関東の門弟の代表として鎌倉に行き申し開きを行ったのが性信でした。性信はそれだけ関東の門弟たちに信頼されていたことが伺えます。
江戸期に編纂された『大谷遺跡録』や『二十四輩巡拝図絵』は性信は鹿島神宮の宮司の息男と伝えています。十八歳の時熊野権現に参詣し、その足で京都へ行き法然上人の禅室で上人の説法を聴き感動し、弟子となり性信という名を授けらました。法然上人は性信を親鸞聖人に弟子として教化させたといいます。これが事実だとすれば性信が親鸞聖人の初めての弟子となります。それから三年後、聖人が承元の法難に連座し越後に御流罪に処された折も、関東への御教化にも付き随ったと伝えています。

聖人舟繋之松

親鸞聖人が関東に来られた縁については諸説がありますが、報恩寺で戴いた『坂東報恩寺の由来』には親鸞聖人を関東に招いたのは、性信と従兄の武弘であり、親鸞聖人が最初に庵を結ばれたという小島の草庵の地は武弘の所領であったと記しています。親鸞聖人が関東に来られた健保二(一二一四)年下総国岡田郷横曽根の地(水海道市豊岡町)で、無住となっていた真言宗の大楽寺を譲り受け、性信に預けられました。これが報恩寺です。

報恩寺
当時横曽根の地は江戸期の新田開発で干拓された飯沼の南端にあたり、親鸞聖人は舟を使って飯沼を下られ、ここで舟を降りたとご住職はご説明下さいました。報恩寺の門前につながる道を二百メートルほど行くと右側に「親鸞聖人舟繋之松」があります。関東を離れ帰洛される親鸞聖人に性信も付き従っていきますが、相州箱根山で性信は聖人に関東の門弟を教化するように告げられ、別れを惜しみつつ横曽根に還り、ここ報恩寺を中心に教化され多くの念仏者を育てました。性信の教えを受けた門弟の集いは「横曽根門徒」と呼ばれました。また、その別れの折に、聖人はご愛用の品とご制作になったご著作を性信に与えられました。

鯉魚規式

毎年一月十二日浅草の報恩寺において四条流の作法で鯉を料理する鯉魚規式が行われます。その模様はテレビなどでもしばしば紹介される伝統行事ですが、その折りに料理される鯉はその前日十一日に大生郷天満宮から下総報恩寺へ贈られます。それが浅草の報恩寺へ届けられるのです。この規式の由来は一人の翁が性信の教えを聴き弟子となって姿を消したのですが、それが大生天神だったというのです。天神が一月十日神社の社人の夢に現れ、「性信上人は人々を救う聖者であるから師弟の契りを結んだ、だから師に春の祝いとして鯉を二尾毎年贈るように」告げたというのです。それ以来七百年以上も毎年天神から鯉が報恩寺へ届けられています。

性信の荼毘塔

報恩寺の横門を出て道沿いに寺の裏手へと歩くと、杉の古木に囲まれた丘の上部に玉垣で囲まれた性信の墓があります。
性信の墓の左側には荼毘塔があります。そこには「健治元年七月十七日寂ス」と刻まれ、親鸞聖人往生後十年目にあたる一二七二年に往生されたことが判ります。
その荼毘塔の奥には歯を納める塚があり、昔はこの近在の人々が分骨の代わりに歯を納めたと住職が教えて下さいました。こうした風習の中にも民衆に慕われた性信坊の人柄が偲ばれます。

慈眼山西照寺